崩れゆく人々〜いくつかの家族の結末〜

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください
**********

 

遠くから、夜、街の灯りを見ていると途端に恐怖に襲われることがある。

目に見える範囲に、数えきれない窓があり、そこに灯りが見えればその数だけ、人がいて家庭があって大切な家族がいて、と考えるとなぜかソワソワしていてもたってもいられらなくなるのだ。

それは多分、その灯りのもとで暮らす人々の全てが幸せではないことを知っているからだ。
あたたかな灯りのもとで、今まさに悲しい選択をしようとしている人がいることを知っているからだ。
それが、夜の街を彩っていることが、多分、怖くてたまらなくなる理由である。

その、悲しい灯りのもとで起きたいくつかの家族の結末について。

野菊野団地の一家

平成13年2月、千葉県松戸市の野菊野団地で82歳の実母を絞殺したとして、同居の60歳の女が逮捕された。

殺害されたのは、髙橋たま子さん(当時82歳)。たま子さんは認知症を患っており、外出も少なくほぼ家で寝たきりに近い状態だったという。
一方で、逮捕されたたま子さんの娘である女は、自身も高齢者の域に差し掛かる中でリウマチを患っていたにもかかわらず、実母を引き取って甲斐甲斐しく世話を焼いていたといい、当初は介護疲れが動機かと思われていた。

しかし裁判で明かされた本当の動機は、別にあった。

楽でない結婚生活

実母を殺害したとして逮捕されたのは、梅岡宏枝(仮名/当時60歳)。宏枝は昭和16年にたま子さんの娘として誕生。昭和38年に結婚し、娘に恵まれた。

夫は昭和49年からタクシー運転手として働いていたが、ギャンブル好きな一面があったという。
小遣いは月5万、到底それでは足りなかった。夫は宏枝に隠れて消費者金融で借金をしており、その返済に行き詰まると、妻の宏枝に泣きついて返済の肩代わりをしてもらっていた。

宏枝も黙って金を出すのではなく、その都度、2度と借金をしないでほしいと懇願しており、時には離婚も考えたとはいうが、まだ幼い長女を抱えてのこの時代の暮らしは、手に職もない宏枝にとって容易いことではなかった。

長女が結婚して家を出た後の平成4年。それまでなんとかやりくりをして凌いできた宏枝に、夫からとんでもない話を聞かされる。
結婚当初からの懸念材料だった借金が、なんと宏枝が知らない間に800万にもなっていたというのだ。
言葉を失う宏枝だったが、夫から今度こそ2度と同じ過ちはしないと言われたことから、弁護士を通じて債務整理を行なった。真面目な性格の宏枝はさらに厳しい生活にも耐え、その後5年かけて借金を整理した。

認知症の母

一方のたま子さんは、昭和59年に連れ添った夫を亡くし、以降は独身だった宏枝の弟と同居していた。
ところが平成11年頃、その弟からたま子さんがどうやら認知症であるという話が持ち込まれた。
弟は当時も仕事をしており、目を離せないたま子さんの面倒を見るのは難しい、というもっともな相談をされた宏枝は、その時点で専業主婦であるのは自分だけだったことから、たま子さんを引き取らざるを得なかった。

ただ宏枝自身も、昭和58年頃から関節リウマチを患っており、月に1度は通院して投薬や注射などの治療を受けている身だった。
特に歩行に支障が出ていて、昭和59年以降は外出する際はなるべく歩かなくて良い手段に頼らざるを得なかったという。

平成11年1月、たま子さんが宏枝夫婦が暮らす松戸の野菊野団地へ越してきた。

その時、事件が起きた。

たま子さんが転倒して骨折したのだ。

高齢者が骨折などをきっかけにして寝たきりになってしまうというのはよく聞く話だが、たま子さんも一時はそのような状態に陥ってしまう。
幸い、体力は回復したというが、一方で短期間でも寝たきりになったことでたま子さんの認知症はわずかではあるものの、進行した。
無気力、無口といった症状のほか、孫の顔がわからない、家の中で迷う、不眠などという認知症の症状が表面化してきたという。

この頃、たま子さんの元には宏枝の弟妹が時折話し相手として顔を見せることはあったものの、日常的な介護は宏枝ひとりにのしかかっている状態で、夫や近所に住んでいた宏枝の長女もたま子さんの介護を手伝うことはなかったようだ。
宏枝にとって、日常の中で気が休まるのは、平成12年の3月から始めた入浴介助サービスにたま子さんが出かけている数時間だけだった。

他にも月に一度、2泊3日のいわゆるショートステイを利用するようにもなっていた。
ところが、たま子さんはこれを嫌がり、予約の直前になって行きたくないとごねたり、せっかく前日に宏枝が準備していた荷物を散らかすなどの行為に及んだたという。
平成13年1月の介護認定では、自宅での身の回りのことはおおむね一人でできるものの、留守番や電話応対、薬の管理などは出来ない、というレベルにあった。

施設への入所も検討はしたものの、特別養護老人ホームは空きがなく、かといって空いている所ならどこでもいいというわけにもいかず、宏枝はひとり、たま子さんの介護と自身のリウマチに悩む日々を送っていた。

夫の裏切り

平成12年の暮れ、宏枝は突然夫から
「10万円用立ててくれ」
と告げられた。
夫は、あれほど二度と借金はしないと誓ったにもかかわらず、また借金を作っていた。
債務整理を行っていたため、しばらくの期間は借金をしたくともできない状況にあったのだろう。出来なかったからしなかっただけで、夫の性根は変わっていなかった。
宏枝は恐る恐る、その借金の総額を尋ねた。その額、なんと250万円。
宏枝はこの時、体がまるで金縛りにあったかのように動かなくなるほどのショックを受けたという。
10万円は、その返済に必要な金だった。

宏枝は、夫が裏切ったこともショックだったが、苦労に苦労を重ねて、我慢に我慢を重ねて5年かけてようやく整理し終え、贅沢は出来なくとも人並みに落ち着いた生活が送れると思っていたのに、またあの苦しい日々を送らなければならないのかということにショックを受けていた。
最初の債務整理の時も宏枝はすでにリウマチを発症していたが、それでも今よりは若かったし、たま子さんの介護も必要ではなかった。だから、宏枝は痛む体に鞭打ってがむしゃらに働き、借金を整理したのだ。
借金を返済し終え、やっと自分の体をいたわる時間が出来たと思ったら、たま子さんの介護が始まった。それでもたま子さんは我が親であり、ある意味義務感もあったのだろう、なんとかこなしてこれていた。

しかし、60歳になってもう以前のように働けない宏枝に、250万円の借金は返したくとももう、それもできそうになかった。

にもかかわらず、夫は宏枝に隠し事を打ち明けられて気楽にでもなったのか、休みの日は釣りに出かけ、ほんの少しでも宏枝をいたわることはなかったという。
借金の要因であるギャンブルもやめていなかった。
そんな夫と離婚も考えた宏枝だったが、満足に働けない以上、この年で自立した生活を送るのは不可能だった。

このころから、宏枝は漠然と「こんな人生に希望もない。もう死んだほうがいい」と思うようになっていた。

ばあちゃん、ごめんね

平成13年2月、それまでにあらかたの身辺整理を済ませた宏枝だったが、かといっていつそれを実行するかは決めあぐねていた。
また、自分が死んだとしたら実母のたま子さんの面倒を見る人がいなくなることが気がかりだった。夫はそもそも他人だし、ほかの弟妹が何とか出来るのなら最初からやっている。出来ないから、宏枝しかいないから、たま子さんは宏枝の家に住んでいるのだ。
2泊3日のショートステイですら嫌がるたま子さんを施設に入れることも宏枝には考えられなかった。

「私が死ぬなら、ばあちゃんも連れていくしかない」

2月に入って、宏枝は身内にあてた詫び状を作成していたが、月末が近づくにつれ、夫の借金の返済の催促の電話が自宅にかかってくることに悩んでいた。
そして、どうしてもその電話の対応をしたくないという気持ちが強くなり、平成13年2月26日、この日夫が早朝5時に出勤し、翌朝の9時まで勤務が続くことに気づき、この日に決行しようと決めた。

もちろん、たま子さんも連れていくと決めた。

夕食の後、出来る限りたま子さんを苦しめないようにと、睡眠薬を飲ませた。寝ている間に首を絞めようと思ったが、当の宏枝がどうにもそれが出来なかった。
そこで宏枝もビールやウイスキーをあおり、酔った勢いでやってしまおうと思ったが、なんと寝落ちしてしまった。
気づくと27日の朝5時をすでに回っていた。もう時間がない。
午前5時25分、宏枝はたま子さんの着物の腰ひもを手にすると、寝ているたま子さんの首に二重に巻き付け、締めあげた。

「ばあちゃん、ごめんね、ごめんね……」

宏枝は母の首を絞めながら、何度も何度もつぶやいた。

たま子さんが死亡したのを確認した後、宏枝はその両手を胸の上で組み、寝間着姿のたま子さんの遺体の上から、お気に入りの着物を掛けた。

次は、宏枝の番だった。

正義とは

宏枝は首を吊ろうと思った。ところが、何度やってもうまく死ねなかった。ならばと、団地の屋上へ上がって飛び降りようと決意したものの、眼下には出勤などの人の姿が結構あったことから他人を巻き添えにしてしまうことを恐れ、それもできなかった。
そこでバイクに乗って川を目指し、入水自殺を試みようと場所を探していたところを、パトロール中の警官に発見されて保護された。

その日、たまたま仕事が早く終わった夫が帰宅し、たま子さんの遺体と宏枝が残した遺書を発見、警察に通報していたことで宏枝は入水自殺する前に発見されたのだ。。

それはまるで、たま子さんが宏枝を死なせまいとしたようでもあり。

逮捕された宏枝は、当初自分の体調のことと、たま子さんの介護疲れをほのめかしていた。報道でも、介護疲れによる無理心中、といったものばかりで、裁判が終わって判決が出た後の報道でも、それは同じだった。

しかし千葉地裁松戸支部の須藤繁裁判長は判決文で、この無理心中事件の背景には夫の長年の態度が大きく関係しているとはっきり認定していた。
犯行自体は、孤立していたわけでもなく、面倒を見られない弟妹から月々5万円の介護費用を受け取っていたこと、入浴サービスも週に3回行われ、決して相談相手がいないとか、そういったことでもなかったにもかかわらず殺人を選択したのは安易であり、実刑は免れないと非難している。

宏枝には、懲役3年の実刑判決が言い渡された。
ただそのうえで、この事件には夫の借金や言動が大きく関係しているのであって、宏枝ひとりを責め立てることが正義にかなうとは思われない、と述べられていた。

宏枝はどんな思いでこの言葉を聞いたろうか。

宏枝に対し、妹らは宥恕する旨証言していた。宏枝の長女も、今後は同居して生活を助けると話していた。

しかしそこに、宏枝を苦しめた夫の言葉は一切なかった。

米屋の一家

きっかけは、電話のベルの音だった。

昭和56年、正月3日。いつもより早く床に就いていた母親は、電話のベルの音で目を覚ました。電話は夫あてのものだったようで、電話を切った後、夫は外出したようだった。
母親は寝室を出ると、別の部屋にいた子どもたちに声をかけた。

「おばあちゃんちへ行こう。」

子供たちを後部座席に乗せ、母親は自らハンドルを握ると阪奈道路を経て信貴生駒スカイラインへと車を走らせる。
午後9時30分、母と子供たちが乗った乗用車は、東大阪市東豊浦町の展望台兼駐車場の、ガードレールの切れ目から15mがけ下へと転落。

目撃者などの通報で駆け付けた消防と警察が救助に当たったが、後部座席の子供たちはすでに死亡していた。
夜道で運転を誤ったか……しかし現場はどこかおかしかった。
車内にはなぜかティッシュペーパーが散乱し、そのいくつかは焼け焦げた状態にあった。
何とか一命を取り留めた母親も、明らかにその挙動が不審だった。

「なにがあったんや」

警察官らの問いかけに、母親は静かに口を開いた。

「私が子供たちを殺しました。」

無理心中のはて

実子2人を殺害したとして逮捕されたのは、大阪府内に住む米穀および燃料販売店手伝い・角 由貴子(仮名/年齢不明おそらく30代後半から40代前半)。
死亡したのは由貴子の長男・秀樹さん(当時19歳)と、長女の純子さん(当時15歳)。
二人の死因は、転落によるものではなかった。由貴子は車を故意に転落させた自分も含めた無理心中を図ったが、失敗。後部座席でうめく秀樹さんと純子さんの首をコートのベルトで絞め、殺害していた。

捜査員らは、突発的に車を転落させたとして、それで失敗すれば我に返ることもあるのに、由貴子は子供らに息があるとみるやすぐさま別の手段、それも自ら首を絞めるという確実な方法をとっていることなどに戦慄した。
そこまでの、強い殺意。しかも死に損ねた由貴子は、子供らを殺害した後、自分の口や鼻にティッシュペーパーを丸めて押し込み、その上で首をベルトでしばって窒息しようと試みていた。
さらには、車内でティッシュペーパーに火をつけ、車もろとも焼け死のうとした痕跡もあったという。

それにしても、幼い子供ならいざ知らず、死亡したふたりはともに10代。秀樹さんは19歳であり、母親の不穏な様子をわかっていたのではないのか。転落後、ケガはしただろうが、19歳であれば母親に抵抗もできたのでは。

いや、出来なかった。
秀樹さんは、脳性マヒだった。さらに、妹の純子さんも同じく、脳性マヒだった。

長男

由貴子は和歌山県で生まれた。中学を出た後は大阪の四条畷で食堂を営んでいた姉夫婦のもとで店員として勤務。そこで出会った夫の昭一さん(仮名)と昭和35年に結婚した。

翌年には長男の秀樹さんが、そして昭和40年には長女の純子さんが誕生。昭一さんは米穀と燃料を扱う自営業者で、由貴子も子育てをしながら家業の手伝いに奔走していた。
もとより働き者だった由貴子だったが、子供を出産して以降、その日常は険しいものになっていた。
長男の秀樹さんは、難産だったことから脳内出血を起こしており、手術は成功した者の脳性マヒとなった。左半身の発育不良もあり、歩行障害があった。また性格も内向的だったため、小学校の頃には障害を揶揄されるなどしたことから中学卒業まで特殊学級に在籍していた。

昭和52年に高校に進学した後は、級友に恵まれたこともあって無事卒業。由貴子自身も、脳性マヒだからと甘やかさず、学校へ行く前の早朝に神社の境内で歩行練習をさせ、自ら学校の最寄り駅へ車で送迎するなどの努力をした。
ただ高校卒業後は、秀樹さんも由貴子も、家業を手伝うなどしてのんびりと生活できればよい、そういう風に考えていたという。

ところが、昭一さんはそう思っていなかった。
親が自分が果たせなかったことを子供に託す、いや、強制するというのはこの時代に限らずありがちなことだが、昭一さんもそうだった。
家業を継がせるのではなく、秀樹さんを大学へ進学させ、卒業後は市役所職員にしたいという希望があった。
それは希望というより命令で、秀樹さんは気が進まないまま、大阪産業大学工学部へ入学した。

元々気乗りしなかった大学生活は、案の定、暗澹たるものだった。
性格的なこともあり、大学生活で友人もできず、秀樹さんは弁当も食べずに帰宅することが増え、帰宅後はしんどいと言ってごろ寝ばかりするようになった。
由貴子はそんな秀樹さんを心配しつつも、励まし、時には病院で点滴を受けさせて体力維持に努め、なんとか大学へ通わせる日々を送っていた。
ところが昭和55年10月、大学から呼び出しを受けた。秀樹さんが前期試験の一科目において、白紙で提出したというものだった。それ以外の教科も成績が振るわず、本人にも気力が見られないことからこのままでは退学になってしまうという話だった。

由貴子はならばいっそ退学させて家で手伝いをさせた方が良い、と思ったものの、市役所職員にこだわる夫には強く言えなかった。
折を見ては昭一さんに秀樹さんの状況を説明し話し合おうとしてはみたが、子供のことは由貴子任せの昭一さんは聞く耳を持ってくれず、結局言い出せなくなり以降由貴子はひとりで心を痛める日々を送ることになった。

長女

由貴子の悩みは秀樹さんだけではなかった。
長女の純子さんも、早産だったことで脳性マヒとなっていた。ただ、秀樹さんがさほど障害が重くなかったのに比べ、純子さんは一人では歩けず、日常生活全般に介助が必要な状態だった。
それでも由貴子は家業を手伝わざるを得ず、純子さんが2歳の頃からは実家に預け、そして昭和44年からは奈良の東大寺整肢学園へ入園させた。
その後も昭和47年からは大阪府河内郡の太子学園に転園、純子さんは中学もそこから通った。

月に一度は施設へ面会に行っていた由貴子だったが、純子さんが中学3年の夏、施設側から純子さんを引き取ってほしいと言われる。
この頃純子さんは杖なしでも一人で歩けるまでになっており、また、純子さん自身の強い希望もあっての自宅へ戻したい、という提案だった。
ちょうど中学卒業できりもよく、高校進学などもあり自宅へ戻るタイミングとしては確かに良いものに思えた。

しかし、昭一さんは難色を示す。昭一さんとて純子さんは可愛い娘であるし、引き取る準備もしていた。昭一さんは純子さんが将来困らないようにと、自宅の米穀店とは別に煙草屋を開業してやる予定だったのだ。
ただそれは高校を卒業する3年先を見据えており、今すぐに引き取れと言われて戸惑ってしまった。
加えて、由貴子さんが子宮筋腫を抱えていたこと、昭一さん自身も体調が万全ではなかったことから、昭一さんの一存で純子さんの帰宅は先延ばしとなった。

由貴子は施設側からも純子さんの気持ちを聞かされていたし、親としてやはり純子さんが希望している以上は今すぐにでも家に連れて帰りたい、そういう思いしかなかった。
しかし、夫である昭一さんには秀樹さんの問題同様、話し合いに応じてはもらえなかった。

秀樹さんの学業、大学の問題、加えて純子さんの問題。これらを多忙な日々の中で由貴子はたったひとりで抱え込むしかなかった。

醜悪な人々

由貴子を悩ませるものはほかにもあった。
むしろ、そちらの問題こそが、由貴子には辛く悲しいものだった。

詳細は不明だが、由貴子は昭一さんと結婚する際、昭一さん側の親戚から反対を受けたという。
そもそも結婚のいきさつは、食堂でいきいきと働く由貴子を見初めた昭一さんの希望だった。しかし今の時代と違って、結婚は家同士の問題であり、由貴子の家柄か学歴か、はたまた別の理由かは定かではないが、由貴子に対して親戚からの対応は冷たかった。

そこへ、長男秀樹さんのみならず、長女の純子さんまでもが脳性マヒだったことで、由貴子に対して親戚の人々は「障害児しか産めない嫁」といった信じられない言葉を投げかけた。
秀樹さんが脳性マヒになったのは難産だったことが要因であり、純子さんとて思いもよらぬ早産で未熟児として誕生したことが要因で、由貴子の責任ではない。
しかも、純子さんが早産になったのは、妊娠7カ月でも家業の手伝いを強いられ、体調不良でも休めなかったことが原因だった。
昭一さんの家業は米穀、燃料販売である。何もかもが重い。妊婦であるにもかかわらず、由貴子が重いものを頻繁に持たされていたであろうことは、そして親戚らの手前、休みたくてもそれを言い出せなかったことは想像に難くない。

しかもこれらの由貴子に対する言動は、夫の昭一さんからもあったという。

そもそも昭一さんが由貴子を見初めたというのも、働き者という一点だった。要は、家業を手伝わせるのには働き者でなくてはならず、しかもその当時由貴子はおそらく10代だった。
由貴子は要するに、労働力と後継ぎを産むためにちょうど良かったのだ。

由貴子は結婚当初からこのような醜悪な人々の悪意に満ちた言動に耐え、秀樹さんと純子さんに精一杯の母親としての愛情と教育を注いできた。
しかし、もうここへきて、頑張る気力よりもむしろ秀樹さんや純子さんが不憫でしかなく、自身の無力さにも打ちひしがれるような状況でせわしない日々を送るのが精一杯になっていた。

昭和55年12月、冬休みで純子さんが帰宅した。年末は米穀店や燃料店は大忙しである。家業最繁忙の年末をどうにか乗り越え新年を迎えた由貴子の心は、ひそかに壊れていた。

ヒステリー性もうろう状態

裁判で弁護側は、由貴子が事件当時ヒステリー性もうろう状態に陥っていたとし、心神喪失ないし心神耗弱だったと主張した。

由貴子は1月3日の事件当日の昼間、純子さんに対し、「明日はお餅を搗こうね」などと話し、その下準備としてもち米を洗うなどしていた。そのことからも、少なくとも1月3日の昼までは、子供たちを道連れに無理心中しようなどとは考えていなかった。
それが、その夜電話のベルによって「死ななければいけない」と思い込み、それを短時間の間に決行したのだ。

以降の由貴子の行動は普段の由貴子からは想像もできないものだった。

子供らを連れ出した際、玄関は開けっぱなし、1階と2階でそれぞれ使用していたストーブも火がついたままとなっていた。
由貴子の家は燃料販売もしていたわけで、高圧ガス販売主任者の免状を持ち、長年の経験がある以上は普通の人よりも火の始末には神経を使っていた。それを考えると、この由貴子の行動は異常だった。

さらに、それらのことを由貴子は全く覚えていなかった。

実はこのようなことは過去にも何度かあったという。それはいずれも子供たちのことで悩みを深くした時に起きており、後頭部を何かにわしづかみにされているようなしびれを伴っていたという。
几帳面で神経質とも言えた由貴子は、その状態になると事件当夜と同じく異常な行動に出ていた。
便所の拭き掃除用のバケツで食器を洗ったり、昭一さんから預かった金をどこに置いたかわからなくなったりしたが、その時の記憶が、由貴子にはなかった。
放心状態から我に返ると、自分のしたことに驚愕した。しかし、なぜそんなことをしたのかは、由貴子本人にも全く分からなかった。

事件当夜も、家を出て阪奈道路を走ったあたりまでの記憶はなかったが、その後崖から転落しようと移動している時点では、その放心状態から戻りつつある状態であったようで、記憶は欠落してはいなかった。
しかし死ななければならないという思いには支配されたままで、由貴子は人目を避け、ガードレールの切れ目を探すなどの行動からも、ある程度の弁識能力は保たれていたと裁判所は認定した。
しかし、その弁識能力は著しく減弱していたことも認定。心神耗弱状態だったとした。

心身の難儀、労苦は測り難く

大阪地裁の池田良兼裁判長は、過去にも子供らを道連れに死のうとした未遂の事案があったとはいえ、それは内心の話であって着手していない以上はこの1月3日の犯行のみ責任を負うべきとした。
実母によって殺害された秀樹さんと純子さんのことを思えば、その不憫さや無念さの絶大は言うまでもなく、しかもこの事件が起きたのは国際障害者年の始まりの年であったことで社会的に多大な影響を与えたことも否めず、その刑責は由々しきものがあるとした。

しかし、由貴子が心神耗弱状態であったことは明らかであり、その背景には子供たち二人がたまたま脳性マヒを負ってしまったこと、その後20年に及ぶ過酷な環境であってもこれによく耐え、二人の子供に母として最大の愛を注いで育ててきたこともまた明らかである、とした。
その献身は犠牲的ともいえ、さらには身を粉にして夫に仕え、家業を支えた由貴子の心身の難儀、労苦は測り難いと由貴子の心に言及した。

そして、由貴子が耐えに耐え、それを克服するために傾けた真摯な努力と生活態度は同情と称賛に値するとまで述べている。

一方の夫、昭一さんには手厳しい言葉を残した。
由貴子の心労を少しでも思いやり、子供たちの将来について少しでも寄り添い、一緒に考えるという父親として当たり前の対応が出来ていれば、由貴子が一人思い悩むことはなかったわけで、その限りにおいては、昭一さんにも原因があるとした。
そしてそうである以上、事件の結果の責任を由貴子ひとりに負わせるのは酷であると述べた。

昭一さんもようやく自身の言動を反省し、非を認めるに至っていたという。由貴子はひたすら愛した子供たちだけを死なせてしまい、自分だけが生き残ったことで身勝手な行動の結果であることは当然としても、だからこそその心は深い悔悟と苦悶に満ち満ちている状態であることにも触れた。

大阪地裁は由貴子に対し、直ちに実刑を科すことは酷に失するとし、懲役3年、執行猶予4年の判決を言い渡した(結果は控訴となっているが、その後の情報はない)。

その時は突然に

二つの家族の加害者はそれぞれ、長年に渡る苦悩があった。
もちろん、だれしも長い人生においてその時々で苦労や心労はあるものだが、人にはそれぞれのキャパがある。
そのキャパが少ない人を責めるのは間違っているし、苦悩の比較などは何の意味もない。

野菊野団地の梅岡家は、高齢の母親を引き受けざるを得ないという、自身らの責任ではない出来事があった。大阪の米屋の角家も、秀樹さんと純子さんの脳性マヒという状況は少なくとも由貴子の責任ではない。
しかし、加害者となった宏枝と由貴子を追い込んだのは、それぞれの家族に責任があった。
宏枝も由貴子も、その日その時までは被害者だった。そしてその時は突然に訪れた。少なくとも家族には、青天の霹靂だったろう。自分の長年の言動がその要因の一つだったなど、夢にも思っていないのだから。

いつかこんなことが起きるのではないかと思っていた、といわれる事件も多いが、宏枝も由貴子も、たま子さんも秀樹さんも純子さんも、そんなケースとは無縁だった。それほどに、ささやかながらも精一杯、生きていた。

そして、宏枝と由貴子は、ずっと孤独で、辛かった。

*********

参考文献

読売新聞社 平成13年2月28日東京朝刊
産経新聞社 平成13年8月9日東京夕刊