いいわけ〜祖父母による孫殺害無理心中事件〜

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親が子を道連れにして自殺を図るというケースを、日本では無理心中、と表現する。
この言葉の適切さはさておき、一般的なイメージや言葉が社会に浸透しているは間違いない。

この言葉には、親の身勝手な考えの犠牲になった、という印象があり、子は親を選べないという、今時の言葉で言えば「親ガチャ失敗」の最悪のケースである。
母親主導の場合は母子心中が多く、父親主導の場合は一家心中になるケースが統計的にも多い。
また特殊な統計として、虐待死は内縁の妻、夫によるケースが多く見られるのに対し、無理心中においてはむしろ血の繋がりのない子どもが犠牲になるのは少ないという。

一方で、その無理心中、一家心中を画策したのが他の家族だったら。

基本的に両親以外の家族が加害者になる場合は、一家心中、一家皆殺し的なことに発展することが多い(中津川の無理心中、柏の無理心中など)こと、結果として被害者数が多くなり死刑求刑もあり得るためセンセーショナルな扱いをされてしまうことで記憶には残るが、件数としては多くない。

この、親以外による無理心中事件の中で、祖父母による無理心中について取り上げてみたい。
加東市にて、娘の長男を預かっていた60代の祖母が2歳の孫を池に沈めて殺害した事件があったが、このケースも無理心中(未遂)とされている。
親が主導して子を巻き添えに無理心中することと、祖父母が孫を巻き添えにそれを企てるのと、その動機や背景に違いはあるのだろうか。

寺の事件

平成2年11月28日、滋賀県びわ町(現:長浜市)のある寺で、その寺の前住職の妻(当時59歳)と、現在の住職の娘(当時2歳)が死亡しているのを、外出先から戻った前住職の三女が発見、110番通報した。

警察が駆けつけたところ、寺の庫裏の書斎で2名の遺体が発見された。
その傍らには、「妻の頼みで三人で地獄へ行く」としたためられた遺書のようなものもあった。
この日、現在の住職は所用で外出中、その妻も、別の仕事で東京へ出張していて留守だった。
警察が行方のわからない前住職を捜していると、本堂の西側にある小屋の中で首を吊っている男性を発見した。

男性はすでに死亡、後に、前住職(当時64歳)であると確認された。

夢窓国師の手によると伝えられる見事な庭園を有する由緒ある寺で起きた悲しい事件。
一体、この寺で何が起きたのか。

家族関係で言うと、現在の住職というのは、前住職の娘の夫、つまり娘婿だった。
事件が起きる直前の11月26日には、住職を交代する「晋山式」が執り行われたばかり。後継者不足の寺の運営において、しっかりとした娘婿がいて、可愛い孫までいた上に、資金難の寺が多い中でこの寺は美しいその庭を観光に生かしたり、大規模な分譲墓地を所有するなど、経営面でも頑張っていたという。

一体どこに悲劇の火種が燻っていたというのか。

前住職も死亡したとなっては、真実はわからないままだった。が、順調に見えた寺の運営について、檀家との間で色々と悩み事が前住職にはあったという。
遺書には、それについてもはっきりとは書かれていなかったが、推察できることは書いてあったようだ。

それにしても、遺書に書いてあった「妻の頼みで地獄へ行く」という、これが意味するのはなんだろうか。
前住職が悩んでいたとして、こんな遺書を残すだろうか。これでは、前住職の妻が悩みを抱えていたように見える。
しかしもっとわからないのは、なぜそこで2歳の孫を道連れにしたのかということだ。
高齢に近い親の立場の人間が画策する無理心中は、一家心中に走る傾向がある。例えばこの中に、前住職の子どもが含まれていたならばまだわかるが、当時同居していた現住職(娘婿)と妻である娘、そして三女の存在もあったにも関わらず、前住職と妻は孫を連れて行ってしまった。

犯行は、出張で娘が家を空け、娘婿が外出するためJR米原駅へ三女が送っていったその隙に行われた。

単純に、抵抗されないで済む、と考えただけかもしれない。または、共働きの娘夫婦よりも孫と一緒にいる時間が長かったことなどから、前住職夫妻、特に妻にとってはどうしても離れたくない存在だったから連れて行った、のかもしれない。

発見された時、前住職の妻は孫を抱きしめたままで絶命していた。

寺は今もこの時期には、燃えるような紅葉が見ごろだという。地獄へ行くといった前住職だったが、そこにまで孫娘を連れて行くのは酷だとは思わなかったのか。

勝手に思い込む祖母の事件

平成20年12月27日午後6時。山形県の山辺町の民家に、女性が隣組の会費を集めにやってきた。
「あら!かわいい犬ね」
その家の犬を見て頬を緩ませるその女性は、夫と息子、そして9歳になる孫娘の4人で暮らしていた。
他愛ない世間話を終えて女性が帰ったその一時間後、その家に再び来客があった。

しかしその来客は、頭から血を流しながら助けを求めていた。
それは、つい一時間ほど前に会費を集めに来たあの女性の夫だった。

雪道の血痕

男性はうめきながら玄関に倒れ込んだが、その周辺は一瞬にして血だまりができるほどの出血だったという。
慌てた家人が手当てをしながら事情を聴いたが、男性は何も言わず、ただ、妻の親戚にあたる家の電話番号だけを呟いたという。
玄関の外は雪。その雪道に、血痕が途切れることなく続いていた。
その後、男性は何とか一命をとりとめたが、事態はさらに最悪の結末を用意していた。

連絡を受けた親戚が男性の家を訪ねると、そこには手首から血を流す高齢女性の姿、そして、寝室では幼い女の子が首を刃物で刺されてすでに死亡していた。

先に搬送された男性はこの女性の夫で、この家に住む吉田則夫さん(仮名/当時65歳)。死亡していたのは、則夫さんの孫で小学三年生の雅美(みやび)さん(当時9歳)だった。
雅美さんは父親とこの祖父母の家に同居していたが、父親は会社の忘年会で当時は留守にしていたという。
一方、手首を負傷していたのは則夫さんの妻で雅美さんの祖母、多鶴子(仮名/当時68歳)。警察では多鶴子の話や現場の状況から、多鶴子が則夫さんと雅美さんを刃物で切り付け死傷させ、自らも自殺を図ったいわゆる無理心中事件として捜査を始めた。

多鶴子は遺書を残していたが、後に多鶴子本人が供述したことによれば、「借金があり生活が苦しかった」という事情があったという。
事実、吉田家には約600万円ほどの借金があり、月の返済はなんと40万円にのぼっていた。
さらに、この事件が起きた日にはある特別な出来事があった。

それは、則夫さんの勤務先の「廃業」だった。

見栄と、老いと、借金

則夫さんはいつからかはわからないが町内にある革製品加工会社でパートの従業員として働いていた。
自動車のシートなどを手掛けていたという会社だったが、折からの不況のあおりを受け注文が激減、社長も高齢だったこともあって自主廃業の道を選んだ。
もちろん、突然の廃業ではなく、則夫さんら従業員にもあらかじめ通告はなされていた。

則夫さんは元々、一日4時間しか働いておらず、しかも時給は650円だった。ということは単純に計算して月額6万円程度にしかならない。
それでどうやって月額40万円の返済を行っていたのだろうか。

近所の人らも、「夏にはバーベキューなんかやってたし、生活苦には見えなかった」「奥さんは結構いいものを着てた。派手好きなのかと思っていたけど、それでも借金するほどには見えなかったけど……」と話していた。
長男が同居していたというが、それでも長男の年齢や住んでいる場所などを考えれば、40万円を返済しながら家族4人が生活できるほどの給与をもらっていたかどうか甚だ疑問である。

会社でも給与の前借などはなかったという則夫さんだったが、会社の社長によれば、「何人もの人から金を借りているという話は聞いていた」
とのことで、周囲に見せなかっただけで家計は火の車だったのは間違いなかった。

多鶴子は気の強い性格だったといい、金に困っているという風に見せたくなかったのかもしれない。もっと言うと、いい暮らしをしていると周りに思われたかったのか。
そして、周囲から哀れまれるくらいなら死んだほうがマシ。そんな風に思ってしまったのか。

その多鶴子の人格は裁判で明らかになった。

号泣法廷

初公判はとんでもない事態になった。
入廷した時からすすり泣いていた多鶴子は、検察が証拠調べで雅美ちゃんの遺体の状況を説明すると号泣し始めたのだ。
さらに、雅美ちゃんの父親でもある多鶴子の息子の心情を検察官が代読した際には、
「やめてくれー」
と叫び始めた。刑務官らが静止しても無視し、
「なして助けたんだぁ!!殺してくれ、雅美ちゃんとこさいぐんだから!」
と大騒ぎした。
……これは検察官がちょっとやり過ぎた面もあった。雅美ちゃんの父親の心情を代読するにあたり、かなり感情をこめて読み上げてしまったらしい。
裁判長は騒ぎを重く見て検察官に対し「もっと淡々と普通に読んで!」と注意するほどだった。

落ち着きを取り戻すため1時間にわたって休廷となったが、再び法廷に入ってきた多鶴子は今度は怒っていた。

多鶴子はそれまでの取り調べにおいて、動機としては夫の則夫さんが失職したことに加え、息子の給与が下がる見通しであると知ったことで、生活への不安が増大し、犯行に及んだとしていた。
則夫さんを殺害しようとしたのは、則夫さんには1000万円の死亡保険金がかかっていて、その受取人が息子だったからだという。
しかし一番の謎だった、なんで雅美ちゃんまで、という点については、
「息子には生きてほしかった。でも、男手一つで女の子は育てられない。だから雅美ちゃんも殺すことにした」
という、殴りたくなるほど身勝手な思い込みからやったことだった。

それについて検察官が、
「どのような人生を送り、どうやって幸せになるかは雅美ちゃんが決めること。あなたに決める権利などない」
と指摘したところ、さっきまで泣いていたはずの多鶴子はブチ切れた。
そして、
「(検察官は)貧乏でねぇから、わがらねんだ!」「(決める権利はある。)だって孫娘だもん!」
と叫んだ。あぁ、殴りたい。

多鶴子は一事が万事こうだった。
多鶴子を知る近所の人の中には、「人付き合いはあまりしないタイプだったが、地域の会合などには必ず出席して、役員なども買って出る人だった。」と話す人がいた。
そして、「意見が食い違うとイライラして『私が悪いのか!』と不機嫌になる」とも。

雅美ちゃんという人格を否定し、自分がこう思うからそれが正しいのだと信じて疑わない人間だった。そして、雅美ちゃんを「殺してあげる」ことが、息子にとっても幸せなのだと。

検察は、「息子への愛情を優先するがあまり、雅美ちゃんを殺害した」とし、多鶴子に懲役15年を求刑した。
その時も多鶴子は興奮し、「死刑!死刑!」とわめいていた。

ひとりよがり

平成21年6月24日、山形地裁の伊藤顕裁判長は、多鶴子に対して懲役13年を言い渡した。
あの号泣法廷から20日余りが経っていたが、この頃には多鶴子は落ち着いていたという。涙を流してはいたが、興奮することもなく、じっと判決文の朗読に聞き入っていた。
あの夜、殺すと決めた夫と雅美ちゃんの夕食の味噌汁に、自分が持っていた睡眠薬を混ぜた。そして、夫が寝入ったのを確認してその首に刃物を突き立てようとしたという。
しかし手元が狂い、痛みで夫が目を覚まして抵抗した。その騒ぎを聞きつけ起きてきた雅美ちゃんの首を、多鶴子は刃物で切りつけたのだ。

判決文の後、伊東裁判長は多鶴子に静かに語りかけた。
「あなたが後悔していることはよくわかった。雅美さんはあなたに育てられて幸せに育っていた。たとえ不幸な境遇に置かれても、自分の力で幸せになろうと努力できたはず。あなたはその可能性を奪ったということを考え、もう一度後悔してください」
優しくも、厳しい言葉だった。
多鶴子ははらはらと涙を流し、裁判官が退廷してもなお、立ち上がることができなかった。

多鶴子は控訴しなかった。

火を放つ祖母たち

栃木の事件

平成5年12月30日。その家には、東京から里帰りした娘と、その娘が生んだ長女らとなごやかな家族団らんがあった。
娘は12月7日に出産したばかり。天使のような赤ちゃんは、年の瀬のあわただしさの中に癒しを運んできてくれた。
新しい命、新しい家族と迎える新年はなんと明るいことだろう。

しかし12月31日の早朝、その家族は炎に包まれていた。

31日午前5時40分。栃木県藤岡町の会社員・永島康平さん(仮名/当時52歳)方から出火、木造平屋建て約100平方メートルを全焼した。
この家には康平さんと妻、長男(当時31歳)、そして13日から里帰りしていた長女で東京都江東区在住の市ノ瀬みどりさん(当時31歳)と、7日に誕生したばかりのみどりさんの長女・はるかちゃん(当時生後24日)が寝ていたが、長男は火事に気付いて逃げて無事だった。

康平さんも上半身に大やけどを負ったもののこの時点では一命を取り留めていた。
しかし、焼け跡からは康平さんの妻(当時56歳)と、里帰りしていたみどりさん、はるかちゃんの焼死体が発見された。
三人は家の中のそれぞれ別の場所で発見されており、逃げようとしたのか、みどりさんは玄関を出た庭先で全身にやけどを負って倒れていた。

年の瀬で火を使う家庭は多い。暖房器具や調理器具の不始末だったのだろうか。
消防の調べに対し、長男はこう証言していた。
気づいたときには西側の4部屋がすでに火の海で、そこに、母親が茫然と立っていたのだという。
長男が何とか母親を家の外に引きずり出したものの、母親はそれを振り切り、再び燃え盛る家の中へ戻ってしまった。
帰省していたみどりさんとはるかちゃんを助けようとしたのか。

結果として、火をつけたのはこの母親(祖母)だった。

さらに、死亡したみどりさんの体からは、油の成分も検出されていた。母親は、我が子と、おそらく一緒に眠っていただろう生まれたばかりの孫娘に、灯油のようなものをかけた。そして、火を放ったのだった。

康平さんも長男も、思い当たるふしがあったようだ。消防と警察に、無理心中を母親が図ろうとしたのではないか、と話したという。

結果としてその母親が死亡してしまったために、裁判も行われなければ報道もここで終わった。

ただ、母親(祖母)にとっては、生まれたばかりのこの天使も、愛しているはずの家族も、そして自分自身こそを、焼き尽くしてしまいたかった。

大館の事件

平成17年3月25日未明。
秋田県大館市軽井沢の民家が全焼し、焼け跡から3人の遺体が発見された。
火が出たのは、農業・成田昭雄さん(仮名/当時64歳)方で、死亡したのは同居する次男の博文さん(当時33歳)と妻の広子さん(当時31歳)、そして、夫妻の長男・正人ちゃん(当時7カ月)だった。
昭雄さんと妻は逃げて無事だった。

が、火が出た原因は放火だった。そして、現住建造物放火と殺人で逮捕されたのは、昭雄さんの妻・マチ子(仮名/当時60歳)だった。

米代川の北、国道103号線からさらに北へ入った畑の広がる場所で、近所の人らも皆知りあい。博文さん夫婦とその幼い子供が犠牲になったことに加え、逮捕されたのが母親であり祖母であったことは、地域にも深い悲しみをもたらした。

マチ子は取り調べにも取り乱すことなく応じ、「借金があって心中しようと放火した」と話していた。
しかし、近所の人らによれば「借金は農家をやっていればどこでも多少はあるもの。けれど心中するほどの額ならばこの辺じゃすぐわかる。成田さんとこは火事の数日前に農機具を新調していた。」とのことで、少なくとも前述の山形のケースのようなことはなかった。

ただ、マチ子は事件の前に自殺未遂を図ったり、無計画な家出をしていたことがあった。
精神鑑定の結果、責任能力に問題はないとして起訴した検察は、将来の不安や自身の被害妄想などから家族の中で疎外感を募らせ、無理心中を企てたと指摘。いったんは火をつけて自分も死のうとこたつで横になってはみたが、博文さんの「火事だ!」という声にハッとして怖くなり、逃げたとした。
ただ、鑑定の結果でマチ子の脳機能が低下していると判定されていて、心神耗弱とされたものの、判断能力はあったとした。

弁護側は脳器質性障害により病的な被害妄想を抱え、それが自傷他害の衝動となって犯行に及んだと指摘、また、生き延びた康平さんがマチ子の帰りを待つと言っていることなどをあげて情状面に訴えた。

検察は反省、悔悟の気持ちは見えても結果が重大過ぎるとして懲役20年を求刑。
秋田地方裁判所の藤井俊郎裁判長は、「被害妄想からいったんは自分が自殺することで解決を図ろうとしたが、自分一人が死ぬと家族がバラバラになるという思いに囚われ一家心中を企てた」とし、懲役17年の判決を言い渡した。
マチ子はいったん控訴したが、後に取り下げ、懲役17年が確定した。

博文さんと広子さんは、平成10年に結婚、その後7年目にしてようやく授かったのが、正人ちゃんだった。
配送業に就き、上司や同僚、配達先の顧客の評判も良かった博文さん。正人ちゃんのことは広子さんともども、とにかく可愛がっていたという。

あの日、119番通報は博文さんがしていた。母親に逃げろと声をかけ、妻と息子を助けるために部屋に戻って火に巻かれた。
最後まで、火を放ったのが母親だったとは気づかなかったろう。それがせめてもの救いになるかどうかはわからないが。

勝手に悲観する祖父母

自閉症の孫と祖父

平成7年、京都府綾部市。
「5歳の孫がぐったりしている」
そう通報を受けた救急隊員が駆け付けたところ、その民家で幼い男の子が意識のない状態で倒れているのを発見。救急搬送されたが病院で死亡が確認された。

死亡したのは福知山市の保育園児・酒井大地ちゃん(5歳)。
大地ちゃんはこの日、母親と一緒に綾部市の祖父(当時64歳)の家を訪ねていた。祖父と二人でドライブに出かけて帰宅したあと、ぐったりしていたという。

しかし午後4時ころになって、祖父が大地ちゃんの首を絞めたと自供。
殺人容疑で逮捕となった。
大地ちゃんは自閉症と診断されていて、祖父は大地ちゃんの将来を悲観して殺害したと供述した。

自閉症。私の身近にも何人かいるが、自閉症といってもその症状は一律ではなく、家族の支えで自宅で生活ができるレベルから、強度行動障害などを伴い家庭での生活が厳しいレベルまでさまざまである。
言葉での意思疎通ができる、できないもあるし、知的障害の有無、その程度も様々である。
今ならばSNSなどでも自閉症児の家族がその日常を公開していることもあり、情報もあるけれどもこの時代、そういった情報は少なく、特殊な視点で語られることも多かったろう。
ましてや、60を過ぎた人間であれば、もはや理解不能のレベルだった可能性はある。
大地ちゃんは言語の発達に遅滞が見られたという。

殺人容疑で起訴された祖父は、その後京都地裁舞鶴支部で懲役4年の判決を言い渡され、大阪高裁に控訴した。

が、控訴審が始まった同年12月20日、その日は親族が証人として出廷していた。
その日の公判が終わった正午前、庁舎内の仮監と呼ばれる地下房で待機していた祖父は、刑務官が目を離したすきに履いていた靴下を裂いて輪を作り、窓の鉄枠で首を吊った。
祖父は同日深夜、死亡した。

1級障碍児と祖母

昭和61年、甲府市。
国母8丁目のマンションに暮らすパート従業員、宮川明日香さん(仮名/当時38歳)が帰宅すると、数日前から来ていた実家の母親と、宮川さんの長男で中学1年生の祐樹君(当時12歳)が室内で倒れているのを発見した。
ふたりはゴミ袋のようなものを一緒にかぶり、そこに台所のガス栓から引いたホースを入れていた。

その傍らには、「孫がふびんなので、自分が天国に連れて行きます」と書かれた遺書があった。

祐樹君は、生まれつきの障害があって手足が動かず言葉も話せない状態だった。

ふたりはすぐさま救急搬送されたが、すでに死亡していた。

宮川さんは福井に実家があり、この日の数日前から祐樹君が通う養護学校の運動会を見るため宮川さんの母親である祐樹君の祖母が泊まりに来ていたという。
運動会では車いすに乗った祐樹くんを先生が押し、競技に参加して祐樹くんも楽しそうにしていた。
祖母はその様子を笑顔で見守り、担任の先生にも「くれぐれも祐樹をよろしくお願いします」とあいさつしていたという。
その後も、祐樹くんと写真を撮ったり、昼食を共にするなど、思いつめたような様子はなかった。

うまく言えないが、養護学校といってもその障害のレベルは人それぞれで、おそらく発語もなく手足も自由に動かせずいわば寝たきり状態の祐樹くんは重度だったのだろう。
障碍者手帳も一級だった。

運動会という場だったからこそ、重度障害が周りよりも目立ってしまい、同じ障害を抱える子どもたちの中でも余計に祐樹くんがふびんに思えたのかもしれない。
もちろんそれは勝手な思い込みであり、他人を自分の尺度で決めつけるというとんでもなく思いあがった思考である。しかし。

祖母は祐樹くんのみならず、娘である宮川さんをも見ていたはずだ。
女手一つで育てていた宮川さんは、おそらく相当な苦労をしていたと思われる。中学生ともなれば体位の転換やトイレ、ふろの介助など相当な体力がいったろう。
昭和61年当時、どれほどの支援が宮川さん親子にあったかはわからないが、情報も乏しい中で孤軍奮闘する娘が孫が、離れて暮らす祖母には余計に哀れに映ったのかもしれない。たとえそれに、宮川さんが生きがいや幸せを感じていたとしても。

ひとりで逝かせはしない。しかしその行為は、母親である宮川さんにとっては、悲しみと苦しみ以外に何をもたらしたというのだろうか。

愛かそれとも、ひとりよがりか

子を思う親の気持ちは時に暴走し判断を誤らせる。

子を思うあまりに、自分の考えや基準があたかも子供にも当てはまるとおもいこんでしまい、別人格である子供や孫を翻弄する。

無理心中の場合、発案者が死亡しているケースも多く真実や本人の気持ち、動機が本当に解明されていないケースもある。裁判になったところで解明されないものも多いのだから、致し方ないかもしれない。

祖父母による孫を巻き添えにした無理心中の場合、その孫の親である、祖父母から見れば子供にあたる立場の人々が残されるケースがあるわけで、親に子供を殺されるという最悪な立場に立たされる意味では他の家族間のケースと比べると特殊だ。
しかもそこに、うまく言えないが「あなたのためを思って」的な押しつけがましいことこの上ない考えが結構な割合で存在するのも、何重にもキツイ。
誰も頼んでいない、むしろ頑張っていたりするケースも少なくないため余計に。

寺で何が起きていたのかはわからない。娘婿という頼もしい存在が、前住職には違ったのかもしれないし、娘との関係や檀家との関係、もう本人にしかわからない。
しかしそこに孫娘を巻き込んだことは、絶対に許されることではない。
山形の祖母は思い上がりの権化のような人物だった。母親のいない雅美ちゃんを我が子同然に愛していたというが、その愛は、自分のためのものではなかったか。
勝手に悲観する祖父母たちも同じだ。自分の尺度で他人を決めつける。不幸だと。
たしかに障害を持つ子を育てる親は苦悩もあろう。当たり前だ。しかしそんなことは健常の子の親でも同じ。病気やけがで障害を負うこともある。
幸せは、他人が決めることではない。たとえ孫でも、他人なのだ。

彼らは皆、孫という命を軽視した。
そこにはどれほどの理由があろうとも、絶対に正しい選択だとは言ってはならない。
心の中は、別としても。道連れにされた人以外は。

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参考文献

読売新聞社 平成2年11月28日、平成7年2月26日大阪朝刊、平成17年3月26日、8月4日、平成17年12月29日、平成21年1月4日、2月5日、6月25日東京朝刊
秋田魁新報社 平成17年3月27日朝刊
朝日新聞社 昭和62年9月30日東京朝刊、平成17年12月21日、平成18年3月2日東京地方版/秋田、平成20年12月29日、30日、31日、平成21年6月2日、25日東京地方版/山形
産経新聞社 平成6年1月1日東京朝刊
毎日新聞社 平成7年12月22日大阪夕刊