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取調室にて
「もしかしたら自分は彼女が好きで、友達でいたいから色々悪口を言われてもそれにこだわって彼女に対する憎しみになったのだと思う。彼女以外の友達であれば、喧嘩しても忘れられた」
狭い取調室の中で、少女はそう、調査官に呟いた。
少女は数週間前、同級生の女子生徒をナイフでめった刺しにして殺害していた。
かつての炭鉱の町で起こった、ふたりの少女の事件。
事件
昭和54年4月28日午前。
羽幌町の中学校の体育館に付設された用具室で、女子生徒が血まみれで倒れているのを、その生徒を探していた教師が発見した。
女子生徒は病院へ運ばれたが、その後死亡が確認された。
死亡していたのは同中学校の3年生、前田乃里子さん(仮名/当時14歳)。
乃里子さんはその日、2時間目の授業に出席しておらず、教師がその行方を捜していた。ちなみに乃里子さんは優秀な生徒で、日ごろの生活態度からも授業をサボるといったことは考えられない生徒だった。
乃里子さんは1時間目の英語の授業の後、2時間目の理科の授業に向けて理科室へ移動しようとしているところまでは確認が取れていたが、その後、なんらかのトラブルに巻き込まれたとみられた。
乃里子さんは5か所も刺されており、その傷からは加害者の乃里子さんに対する強い感情を見て取ることができたが、中学校内での事件であり、おのずと加害者は絞り込まれることになる。
土曜日ということもあり、警察は生徒らを教室で待機させる中、一人の女子生徒を呼び出し話を聞いていた。
しばらくすると、その女子生徒は「私が刺しました」と言って号泣したのだった。
自白したのは、乃里子さんの同級生の山本多美子(仮名/当時14歳)。
その日、1時間目の授業が終わった後で「乃里子、呼んでるよ」と声をかけて乃里子さんを呼び出し、体育館の用具室で口論となった末、所持していた果物ナイフで乃里子さんの胸や腹部を合計5か所刺し殺害したのだった。
当初、乃里子さんの行方が分からなくなっていた時、この多美子だけが落ち着かないそぶりを見せていたといい、まだ事件のことを生徒らが知らないうちから、乃里子さんが倒れているなどと言って泣きじゃくる様子が目撃されていた。
また、制服のセーラー服を、なぜか3時間目には体育用のジャージに着替えていたという。
多美子と乃里子さんの間には何があったのか。
少女たち
多美子は昭和39年に北海道で誕生、2歳のころ両親が離婚したことに伴って母親と弟とともに母方の実家のある苫前郡で暮らし始める。
その後、実母の姉が暮らす離島へ移り、昭和43年に実母がその島の男性と再婚、その後、新しい養父と養子縁組をして、山本多美子となり家族4人で生活していた。
昭和44年、養父と母ともに苫前郡内の建設会社で勤務することとなったため、一家は苫前郡に移り住み、多美子も同町内の小学校に入学した。
その後、両親の仕事の都合で再び引っ越しをし、その際に小学校も転校したため、幼い多美子は多少友人関係の構築で寂しい思いがあったようだが、それでも忙しい母親の代わりに弟の面倒をみたり、家事を手伝うなどする心優しい少女だった。
小学4年生になって、多美子は乃里子さんと同級生になり、その後お互いの家を行き来するほどの仲良しとなって、その関係は卒業するまで続いた。
中学に入学した後、それぞれ部活動やクラスが違ったことで小学校の頃ほどの付き合いではなくなったものの、2年生で再び同じクラスになったことから、仲良しグループの一員として友達関係を続けていた。
ところが次第にその仲良しグループに問題が起こり始める。
表面上はふたりはいつも一緒、という感じであったため、教師らはその変化に気付いていなかったというが、実際かなり深刻な状況になりつつあった。
理由はただひとつ、ふたりともがいわゆる「ボス猿」だったのだ。
ボス猿の争い
ふたりはとにかくよく似ていた。成績も優秀、部活も熱心でそれぞれがリーダー気質を持っていた。
一つのグループにボス猿が2頭いればどうなるか。当然、争いが起き始める。
こんなことを言うと差別と言われるかもしれないが、実体験として言わせてもらうと思春期頃の女子グループほど厄介なものはない。
昨日までの仲良しが、翌日突然口もきいてもらえないということは珍しくないし、しかもそれはまるで順番でもあるかのようにそのグループ内でターゲットを変えながら延々と続いたりもする。
イジメか、と言われると、実際はそうではなくていわゆる序列争い的な側面が強い場合もある。
多美子と乃里子さんも、お互いを意識し合っていたようで、仲が良く見えていた割に小さなところでぶつかり合いが実は小学校の頃からあったという。
さらに、中学に上がるとテストの成績が順位となってわかることで、ふたりの間にはライバル意識が芽生えていく。
事件直前の3学期末テストでは、それまで多美子のほうが順位が上だったのが、ついに乃里子さんに追い越されていた。
それ以外にも、男子生徒とも気軽に話をする乃里子さんの一見派手に見えるふるまいも、多美子には苛立ちを覚えさせるものだったようだ。
そして、この事件を考えた時に一番の要因であったと思われるのが、クラス内での「班分け」だった。
「私はいいけれどほかの人がなんと言うか」
この中学校では、2年生の後半、同じクラス内(40人)で気の合う者同士自由にグループを作って学級活動や様々な作業をする、ということが行われていた。
2年生当時は、乃里子さんと多美子は同じグループになっていたが、3年生になった時、クラス替えはなかったものの、その班分けは抽選で行われた。
その際、それまで仲良しグループだった人たちと離れ、一人別のグループになってしまったのが多美子だった。
ちなみにこれは全くの偶然で、誰かがずるをしたとか、そういうことではない。
さらに、その際に同時に行われた席替えでも、多美子だけが最後列の半端な位置になってしまったという。
一方の乃里子さんはと言うと、それまでの仲良しな友達と同じグループとなり、席も周りに仲良しがいるという、多美子からすれば羨ましいものとなっていた。
クラスという猿山に、暗雲が立ち込め始めた。
部活動においても、多美子には悩み事が出来ていた。
バレー部に所属していた多美子は、3年生になって副キャプテンの地位を獲得していた。
ところが、その3年生全員が部活を辞めると言い出すなど、部活でも思うように事が運ばない事態になっていた。
そして追い打ちをかける出来事が起きる。
ずっと多美子を「慕って」いた友人が、突然、多美子に反旗を翻したのだ。それまで多美子をボス猿とするグループにいたその友人が、こともあろうか今後は乃里子さんのグループに移ると言ってきたのだ。
これは多美子にとって相当な衝撃だったという。
しかし多美子はその友人の行動に対してではなく、乃里子さんへの敵意を強めていく。この出来事は、乃里子さんが仕組んだことなのではないかという疑念がどうにも頭から離れなかったのだ。
4月24、25の両日、多美子は腹痛で学校を休む。これはたまたまだったようだが、不安な気持ちのまま26日に登校した際、やはりあの友人は乃里子さんにくっついており、なおかつ、多美子に対して冷淡な態度をとっているようにさえ思えた。
乃里子さんが友達と大声で笑えば、自分の悪口で盛り上がっているのではないか、と思い、同時にそれまでの些細な感情のぶつかり合いがあふれるように甦ってきた。
そもそも中学2年で同じクラスになった時、「仲良くしてね」と手紙までよこしたのは乃里子さんの方だった。多美子は乃里子さんにとって、仲良くしたいと思われるような羨望の的だったはずだ。
それをこんな仕打ちをするなんて……
多美子の心には、もはや乃里子さんを抹殺してでも、という怒りと憎しみの感情が渦巻いていた。
しかしそんな大それたことをしでかすこともできず、多美子は悶々としたまま帰宅する。
その途中、別の多美子の友人がこんな話をしてきた。
「乃里子ちゃんが私のことを悪く言っている」
それを聞いた多美子は、ああ、きっと自分も同じように悪口を言いふらされているのだと確信した。
その上で、この事態から脱却するには、自分が乃里子さんの軍門に下るのが一番良いのではないかと思うようになる。
自宅に戻った多美子は、意を決して乃里子さん宅へ電話した。そして、「私をあなたのグループに入れてほしい」と白旗を上げたのだ。
しかし、乃里子さんからの返答はこうだった。
「私はいいけれどほかの人がなんと言うか」
多美子の自尊心は粉々に砕け散った。
晴のち嵐
旭川家庭裁判所の安川浩裁判官は、多美子に対し初等少年院送致の決定を出した。
その中で、この事件がいわゆる不良少年少女らの犯行ではないこと、その一方で事前に凶器を準備したり、犯行後の行動が冷静であることなど、特異な非行と位置付けた。
多美子は事件が起こる半年ほど前、凶器として使用した果物ナイフを「拾った」のだという。そして、特に意味もなく、自室の机の引き出しに保管していた。
そして、乃里子さんに電話で勝ち誇ったような態度をとられた翌日、そのナイフをカバンに忍ばせ登校し、結果乃里子さんを殺害したのだ。
(ちなみに、この事件をネットで検索するとエキサイトニュースの記事がヒットする。著名な都市伝説研究家?の事務所に所属する方が執筆した記事であるが、そこにはその凶器の果物ナイフを現場で拾った、とされている。
が、判決文などを読むとそんなことは出てこず、昭和53年10月に拾ったもの、となっている。)
多美子については、内向的な性格ではありながら、一方で競争意識が強く、攻撃的な性格であるともされた。
感情の起伏も激しく、友人の間では「晴のち嵐」と揶揄されていたという。
事件が起こった直接的な理由としては、当初多美子は乃里子さんに悪口を言われたという友人の話を持ち出していたようだったが、それを前日の電話のこともあり、乃里子さんから「友達をとられて悔しがっているのか」とこれまた勝ち誇ったように言われたことで激高した、とのことだった。
またその直前の1時間目の授業中、乃里子さんらのグループから多美子と多美子の友人に対し、挑発的な手紙が手渡しされていたことも分かった。
すでに猿山から転がり落ちていた元ボス猿に、新しいボス猿とその仲間は石を投げた格好だった。
しかしそのボス猿が小動物の解剖シーンを面白いと表現する情緒障害の持ち主で、かつ攻撃的、そしてその日、カバンにナイフを忍ばせていたことを知らなかったことは、大きな誤算だった。
裁判所は、多美子が幼少期に定住できなかったことや、それによって寂しい思いをしたこと、また、養父、実母との関係性において甘えることが十分にできなかったことは多美子の人格形成に大きな影響を与えているとし、結果、仲良くなった乃里子さんへの依存欲求(甘え)が攻撃となって表れたと判断した。
多美子は乃里子さんが好きで好きでたまらなかった。だから、自分が引く形になったとしても、そしてそれが乃里子さんとの上下関係となったとしても、それでも乃里子さんの友達でいたかったのだ。
しかしあの日、その多美子の思いは拒絶された。
初等少年院送致の決定に際しても、生活習慣や社会規範を厳しく教え込むことではなく、むしろ自由に行動、発言し、他の少女らと交流しながら情緒面の教育を重視し、多美子がこれまで感じることができなかった「やすらぎ」を与えることが目的であるとした。
多美子はおそらく抗告せず、そのまま決定を受け入れたと思われる。
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参考文献
「恐るべき子ども」13の事件簿
北海道・中3「優等生美少女」同級生仲たがい殺人
新潮45/2006.8月号 豊田正義 著
昭和54年6月4日/旭川家庭裁判所/決定
昭和54年(少)512号
家庭裁判月報32巻4号89頁
D1-Law 第一法規法データベース