片隅の記録〜三面記事を追ってpart2〜

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千葉の転落死

「あんたはヒモのくせに。私には強い味方がいるんだ。この部屋の家賃は私が払っている。早く出ていけ!」

女は出勤前の慌ただしさも手伝って苛立っていた。
もう本当に限界。何でこんなジジイと結婚してしまったんだろう。日本人は働き者のはずだったのに。
仕事もしないでゴロゴロして、私の稼ぎにぶら下がっているジジイなんかいらない…
ていうかさっきから何をゴソゴソしているんだろう。何もかもがあーもう。腹が立つ!

「早く出てってよ!」

振り向いたその時、体に衝撃があった。

「?」

ふと見れば、体の胸あたりから、血がとめどなく溢れていた。

比人妻刺され死ぬ 千葉で夫逮捕

 11日午後8時5分ごろ、千葉市若葉区東寺山町七五五、東寺山県営住宅の敷地内で女性が倒れているのを近所の人が見つけ通報した。女性は病院に運ばれたが、全身を打つなどしており間もなく死亡した。千葉東署が調べたところ、女性は同住宅9階に住むフィリピン国籍、無職、赤前リセルさん(当時28)と判明。自室にいた夫から事情を聴き、殺害を認めたため逮捕した。

逮捕されたのは無職、赤前一男(仮名/当時53)。赤前容疑者は同午後8時ごろ、リセルさんと別れ話をめぐって口論となり、胸部付近を包丁で二回刺した疑い。その後、リセルさんはベランダへ逃げて、落ちたらしい。同署で、詳しい動機を調べるとともに、赤前容疑者がリセルさんを突き落としたかどうかなどについても追及している。二人は平成8年12月に結婚した。            産経新聞社 1999.10.12 東京夕刊

千葉の県営団地で起きたこの事件は、当初「刺されたことによって死亡した」というものだった。
しかしのちの司法解剖で、リセルさんの刺された傷は致命傷になっておらず、あくまで死因は転落し地面に激突したことによる全身打撲、外傷性ショックであることが分かっていた。
警察も、逮捕された夫が刺したあとで妻を投げ落としたとか、突き落としたとか、そういったことがあったと見て慎重に捜査を進めていた。

1年後に始まった裁判で、夫は当初認めていた妻への殺意を否認した。

その日

そもそも二人の間には以前から離婚話が持ち上がっていた。正確には、一方的に妻のリセルさんが離婚を希望していた。
二人の間には2年前に女の子が生まれていたが、当然、離婚となればリセルさんが子供を連れて出て行くことになる。
一男は二人のことを愛していたし、娘については溺愛状態だったという。

一男は何とか離婚を回避しようと話し合ってきたというが、最近ではリセルさんが疑心暗鬼になって一男が用意した食事に「毒が入っている」と騒ぐこともあった。

リセルさんとの仲がおかしくなったのは平成10年ころ。
当時、リセルさんはホステス。一男は失職したばかりで、リセルさんの送迎や家事などをしていた。
ある時、リセルさんの財布に多額の現金が入っていたことで、リセルさんには愛人がいるのではないかと疑った一男は、ことあるごとにリセルさんに詰問するようになっていく。

結果から言うとリセルさんには愛人と言えるかどうかは別として、親しい関係の客がいたようだ。
何度も何度も喧嘩になることに嫌気がさしたのか、リセルさんは離婚を一男に申し出た。

離婚する気など全くなかった一男は狼狽えたが、その日以降、赤前家では隣家に響くような夫婦喧嘩が絶えなくなっていった。

そして平成11年の10月11日、事件は起きた。

冒頭の通り、この日いつになく強気だったリセルさんは、一男が制止するのも構わずに一男を罵り続けたという。
そして、その会話の中でリセルさんが一男以外の男性の子を妊娠しているのでは、と思わせるような会話もあった。
絶望した一男は、このまま離婚して、リセルさんと娘を他の男に取られるのは絶対に許せないと思い、ならばリセルさんを殺した後で、娘と共に心中しようと決めた。

そして、出勤準備をしているリセルさんを包丁で何度か刺したのだ。

ベランダにて

リセルさんは大怪我をおったものの、意識はあった。
ふと娘の泣き叫ぶ声で我にかえった一男は、母親の返り血を浴びた娘に駆け寄った。
すると、リセルさんが突然玄関へと走り出した。逃げる気か?
一男は咄嗟にリセルさんを捕まえると、そのまま引き摺るようにしてソファへと倒すように座らせた。
リセルさんは出血が多く、意識はあったが明らかに弱っていた。その状態でも一男は手当てもせずにひたすら浮気について質問攻めにしたという。
リセルさんは本心かどうかは別にして浮気を認め、謝罪した。
一男はリセルさんが謝罪したことでようやく落ち着き、包丁を台所へ戻しにいった。
そして今後のことを話すため再びリセルさんの元へ戻った時、そこにリセルさんの姿はなかった。

血のあとはベランダへと続いていた。

ベランダを見ると、そこにはベランダの柵の上に、部屋の方を向いた状態でしゃがみ込むような体勢の、血まみれのリセルさんがいた。
その手は、隣の部屋との仕切り板を掴んでおり、どうやら隣家へベランダ越しに逃げ込もうとしていたように見えた。
隣の部屋には、リセルさんが懇意にしている女性が暮らしていたのだ。

一男は逃がしてなるものかという思いで、リセルさんを追い、手でリセルさんを引き摺り下ろそうと揉み合っていた次の瞬間、リセルさんが視界から消えた。

全身血まみれだったリセルさんは、揉み合った拍子に足を滑らせ、そのまま高さ約25mから転落、その全身を地面に叩きつけて死亡した。

裁判

裁判で一男は、当初は認めていた殺意について、包丁を台所に戻した時点で消失していたと主張。
リセルさんが死亡したのはあくまで自分でベランダの柵に登るなどといった危険な行為をし、結果として転落したのであって一男が突き落としたわけでもないとし、殺人罪は成立しないと主張していた。

平成12年9月20日、千葉地方裁判所は検察の主張を認め、一男に対し殺人罪が成立するとして懲役10年の判決を言い渡した。

日本の刑事司法では行為責任が原則であり、この事件でもリセルさんがベランダから転落したことについて一男に責任が発生するか、が焦点だった。

裁判所は、突き飛ばしたり押したりしていないとしても、そもそもリセルさんがなぜそのような危険を犯したのかを考えれば、その直前の一男からの刺突攻撃があったからであり、このまま一男のそばにいれば殺害されるかもしれないと強く思ったがゆえに、命を賭けてベランダ越しに隣室へ避難することを選択せざるを得なかったわけで、さらにはベランダの上にいるリセルさんを引き戻そうと伸ばされた一男の手を振り払うのも当然のことで、不安定な高所でしかも血まみれだったリセルさんが転落する可能性が高いことは誰の目にも明らかとして、リセルさんの転落と一男の行為には因果関係があるとした。

行為責任で見れば、一男によるベランダでの行為は「暴行」に当たる可能性はあっても殺害行為とはいえなかった。
しかし、裁判所は刺突行為からリセルさんを捕まえようとする行為は個別のものではなく一連であると認定。
さらには、すでに殺意はなかったとする主張に対しても、リセルさんが転落したのを確認しておきながら、救急車も呼ばないばかりか残された娘を道連れにガス自殺を図ろうとするなど、殺意が消滅していたとは言い難いと判断。リセルさんを隣室に逃さないように捕まえようとした行為も、リセルさんを確実に殺すために必要な行為だったとした。

一男は控訴、上告したが、世間が事件をほぼ忘れ去った平成13年6月26日までに、上告は棄却され懲役10年が確定した。

山口のDV返り討ち事件

「内縁の夫から暴力」と警察に相談…2人で「仲直りした」と説明後に、女が男性の首絞める

山口県警下関署は16日、同居する内縁の夫を殺害しようとしたとして、同県下関市伊倉東町、無職古川春江容疑者(仮名/当時59歳)を殺人未遂容疑で緊急逮捕した。内縁の夫の堀川浩美さん(当時59歳)は搬送先の病院で死亡が確認された。同署は17日、容疑を殺人に切り替えて山口地検下関支部に送検した。

 発表によると、古川容疑者は16日午前6時20分頃、自宅で堀川さんの首をひものようなもので絞めて殺害しようとした疑い。約15分後に「同居人の首を絞めた」と自ら110番し、駆けつけた署員が部屋の床に横向きに倒れている堀川さんを見つけた。司法解剖の結果、死因は頸部けいぶ圧迫による窒息死だった。

 古川容疑者は7月、「内縁の夫から暴力を受けている」と同署に相談。同署は堀川さんに警告するなどしたが、同月25日に2人で同署を訪れて「仲直りした」と説明したため、対応を打ち切ったという。

読売新聞オンライン 2020/08/19 20:47

そのニュースが流れた時、ネット上では「暴力男が返り討ちになったのか、ざまぁw」的なものが多く見られた。
事件自体は正直誰の気にも止まらないような部類のもので、いい年した男女がみっともない、そんな空気もあった。

しかし裁判で明かされたこのDV返り討ち事件のその背景によれば、この春江という女の側の問題というものもまた、見えてきたのだった。

暴力をふるう内縁の夫

引用部分のように報道では、春江がかねてより暴力を受けており、おそらくそれに耐えかねて思わず堀川さんを殺害した、という風に読めた。
警察に仲直りしたからと申し出たのも、ありがちな暴力夫に逆らえず、というものの可能性も十分考えられたし、60歳にもなろうかという女性がその暴力夫の首を絞めたとなれば相当な覚悟がそこにあったのだろうと思えた。

ふたりはなぜ、最悪の結末を迎えてしまったのか。

春江は離婚歴があり、堀川さんと同棲し始めたのは令和2年の5月ごろのことだった。
ところが堀川さんの暴力は同棲開始から一か月もしないうちに始まり、7月以降は3日に一度の割合で殴る蹴るの暴行を受けていたという。
事件直前の8月15日の夜には、それまでにないほどのひどい暴力を受けたといい、さらには春江の息子の結婚式を台無しにしてやろうかなどと言った脅迫も受けた。

春江はなんとしても息子に迷惑が掛かってはいけないと思い、それを防ぐためにはもはや堀川さんを抹殺するしかないとまで思いこんでしまった。
もちろん、自分自身もこれ以上ひどい暴力を受けたくはなかった。

寝入った堀川さんのそばに座ると、部屋にあったビニールひもをハサミで二つに切った。そして、堀川さんを起こさないようにビニールひもを首に巻くと、一気に絞めあげた。
堀川さんがうめき声をあげたため怯みはしたが、再びビニールひもを引っ張った。

堀川さんが失禁したのを見て、春江は堀川さんが死んだと思った。

平常時の人格

堀川さんはこの時点で死亡していなかった。春江は自ら110番通報し、殺人未遂の容疑で逮捕されたが、堀川さんが後に死亡したことで殺人容疑に切り替えられた。

裁判では弁護側が、犯行時の春江は急性ストレス障害の影響で犯行を思いとどまることができない、あるいはそれが非常に難しい状態にあったと主張、それを踏まえて心神喪失状態であった可能性もあるとした。

たしかに、同居してたった3か月で愛した男をその手で絞殺すという、ちょっと考え難い事態が発生しているのであり、その要因は堀川さんの暴力にあったことも争いのない事実だった。
しかも、事件の直前には春江のみならずその息子の生活を台無しにしてやるといった脅迫も行われており、春江がなんとしてでもそれだけは阻止せねばならぬと思ったとしても、親であれば無理からぬことだった。

裁判所は、そのように春江の行動は理解可能であり、同じような状況に追い込まれれば誰でも抱き得る感情であるとしたが、それこそが、殺害を回避することが困難になるほど気力や思考力を失っていた根拠にはならない、とした。
要するに、誰でも春江のような感情は抱くわけで、その感情を抱いた人がじゃあみんな人を殺すんですか、殺してないですよね、ということだ。

しかもこのふたりが最悪の結末に突っ走ったのには、堀川さんの暴力のほかに、春江の人格も深く関係していたのだ。

春江はどうも、後先をあまり考えない、浅はかで軽率な面が普段から見られていたというのだ。

春江は堀川さんと単なる顔見知り程度の時期に、頼まれるがままに250万円という大金を渡していた。
実は春江は堀川さんと同棲を始めた令和2年5月の時点で、まだ夫のいる身だったのだ、すなわち、ふたりは不倫から始まっていたのだ。

しかも当時無職だった春江が用立てたその250万円は誰が稼いだ金だったのか、という疑問もあった。
さらに春江は、息子に堀川さんと不倫関係だったことを知られたくなかった。あの夜、息子の結婚式を台無しにする、という脅迫の中には、春江と堀川さんが不倫だったことを息子にばらしてやるというものも含まれていた。

春江がなんとしてでも阻止したかったのは、実はそれだったのだ。

そもそも堀川さんの暴力については、春江自身それほど堪えていないというか、すくなくとも一番の理由ではなかった。
警察に相談した際に、警察官からDVの概念や加害者の特徴などを教えてもらったにもかかわらず、その足で堀川さんとの同棲を再開させた。
友人らも困惑していた。暴力を受けて逃げてきた春江を匿った友人が、それはDVだからすぐに別れなければと真剣に忠告しても、春江本人はどこか真剣みがなかったという。

そして再び、堀川さんのもとへと自ら戻っていくのだった。

そうすると、堀川さんを殺害するしかないと思ったのも、春江の人格である浅はかで後先考えないというまさに春江そのものでしかなかった。

山口地裁は、この事件は春江の平常時の人格とさほど差異がないものであり、自身の都合である不倫を知られたくないという動機は身勝手で、強い非難に値するとしながらも、堀川さんによる暴力や金銭をたかる行為も春江を追い込む要因だったとしてその点は酌量した。
その上で、懲役7年の判決を言い渡した。

酌量の要件の中に、春江の今後を支援する人物の存在があることも考慮された。

それは甥だった。
春江の息子については、そのようなことをする気にはなれなかったようだ。

港区のホテル殺人

「あの人は死んだんですか?」

警察官に女が尋ねた。警察官が、女性が死亡したことを告げると、女は「そうですか。」とだけ言って、その口をつぐんだ。

出所女性、ホテルで殺人 廊下で女性客を刺す 品川駅前

 東京都港区高輪四丁目の品川プリンスホテルで四日夕、刑務所を前日に出たばかりの女性が、「人を殺せば、気持ちがすっきりする」と、自室の前をだれかが通るのを待ち伏せ、たまたま通りかかった女性の宿泊客の背中などをメッタ突きにして殺した。警視庁高輪署はこの女を殺人の現行犯で逮捕して動機について追及しているが、「出所してどこも行く所がなく、ムシャクシャしていたのでやった」といっており、精神状態について詳しく調べることにしている。

朝日新聞社 1984.11.05 東京夕刊

昭和59年11月4日の夕方、港区高輪4丁目の品川プリンスホテルの16階で、女性同士がけんかして一人がケガをしているようだ、とフロントに別の宿泊客から連絡が入った。
同ホテルのガードマンと客室係が駆け付けたところ、16階の廊下で女性が血まみれで倒れており、その近くには別の女が包丁を手に立っていた。

ガードマンが取り押さえようとした際に女はガードマンにも刃物を向け、左腕を刺されたガードマンは二週間のケガを負わされた。

倒れていた女性は病院に運ばれたものの、死亡が確認された。背中や腹を10か所ほど刺されていたといい、ほぼ即死の状態だったという。

高輪署に逮捕されたのは、住所不定無職の岡本季代(仮名/当時38歳)。殺害されたのは、品川区東五反田の病院付添婦、大串智子さん(当時33歳)と判明した。

ふたりに面識はなく、たまたま同じフロアに宿泊していただけの関係だった。

同じ年代の女性同士、通りすがりにトラブルにでもなったのだろうか。当初はそのような見方もされたものの、この章冒頭の報道記事にもある通り、季代がむしゃくしゃしていた、人を刺せばすっきりすると思ったという、まさに通り魔的な犯行だった。

しかも季代は、栃木刑務所を満期出所したばかりの身。

いったい、この女はどういった人間だったのか。

寂しい半生

季代は千葉県市川市で生まれた。実家は農家だったが、その子供時代は家族に恵まれないものだった。
両親はいたが、季代が小学4年の時に実母を死別か離別かは不明だが失っており、後に実父が再婚した継母に育てられた。
継母との関係が悪かったという情報はないが、中学を卒業するまでになんと実父とも死別してしまった。その後、中学を出てからは住み込みで家政婦やホステスなどをして生活していたが、継母や実兄らとの交流は途絶えていた。

30代になると、人と話すことが苦痛になり、自宅アパートに戻らずひとりでホテルに泊まることが増えていき、この頃、覚せい剤を覚えた。

昭和55年、覚せい剤を断つつもりだったのか、自ら覚せい剤をもって麻布署に出頭。執行猶予付き判決が出て釈放となると、季代は大田区東蒲田にあった自分のアパートの部屋に放火した。
この時はさすがに実刑を食らった。

3年半を栃木刑務所で過ごし、多くが刑期満了前に仮出所となる中、季代は仮出所を願い出ることなく、満期での出所を迎えた。
栃木刑務所に面会に訪れる人はいなかったといい、季代は刑務所の中でも孤独を貫いていた。

出所後は千代田区内の更生施設に行くことになっていたが、季代は神田のホテルに泊まった。
久しぶりの、外の世界。好きなものを食べられる。テレビも見られるし好きな時に横になれる。
しかし季代の心はとんでもなく落ち込んでいた。夜も眠れず、翌日は品川プリンスへと移ったが、そこでも気が晴れることはなかった。

午後5時、品川駅前のデパートで刃渡り16センチの文化包丁を購入。ホテルに戻ると、ドアを半開きにして「獲物」を待ち伏せた。

智子さんを襲った時、季代は無言だったという。

犯罪心理学に詳しい医師によれば、幼いときに両親らと死別するといった「分離不安」を体験した人の一部には、狭い場所を好み、一人で閉じこもりたいという願望を抱くことがあるのだという。
そういった人たちが犯罪行為に走るわけではないが、万が一罪を犯し、刑務所に入るとむしろ安定するという。
が、出所するとたちまち不安に陥り、その不安は時に破壊衝動を引き起こすこともあるのだという。

季代もそうだったのだろうか。

逮捕された季代は、あれだけ食欲もなく眠れなかったのに、食事を平らげ、子供のように熟睡していたという。

外の世界にいたのはたったの33時間。しかし、季代にはおそらく耐え難い33時間だった。

昭和60年10月24日、東京地裁は心神耗弱を認めたうえで、季代に懲役9年を言い渡した。
被害者の大串さんは、たまたまあの日、季代の部屋のひとつあけた隣の部屋に泊っていただけだった。夫とうまくいかず、家に居づらいときはひとりホテルの泊まることがあったのだという。
突然に見ず知らずの女に襲われた大串さんは、何が起きたのかもわからず、命を落とした。

季代の、9年間の平穏は、その大串さんの尊い命と引き換えに保障された。

北海道の酪農一家無理心中事件

テレビをつけるといつも、昭和天皇のご容態が報じられていた昭和63年の大みそか。祝い事はなんとなく自粛され、正月に向けての華やいだ雰囲気というより、どことなく閉塞感の漂う年の瀬だった。

北海道上川管内美深町(現:中川郡美深町)の警察に通報があったのは、31日の午前1時50分。通報してきたのは同町内で酪農を営む家からだった。

美深で無理心中、酪農一家4人が死傷。4日前に牛舎全焼、心労?母親が刺す 美深

 【美深】三十一日午前一時五十分ごろ、上川管内美深町(以下略)、酪農業重田勉さん(仮名/当時36歳)方から「家族が自殺を図った」と通報があり、美深署員が駆け付けたところ、八畳間の寝室で勉さんと妻(当時34)、子供二人が刃物で刺され、倒れているのを発見した。

このうち長男の直樹君(8つ)=同町恩根内小二年=は左胸を刺され、すでに死亡していた。また長女(6つ)と妻は旭川赤十字病院に運ばれたが、胸、腹などに傷を負い、長女は重傷、妻は重体。勉さんも右足太ももなどに刺し傷を負い、町内の病院へ運ばれた。同居している勉さんの両親は別室に寝ていて無事だった。

美深署の調べによると、居間にはストーブのまわりに灯油をまいた形跡があり、焦げたマキが落ちていた。調べに対して勉さんは「就寝していたところ、突然妻に包丁で刺された」と話している。

北海道新聞朝刊全道 1989.01.01 

第一報は衝撃と共に地元を駆け巡った。
というのも、この事件はその様子や家族の証言で妻による無理心中事件であるとの見方が強かったということだけでなく、その犯人と思われる妻が、いわゆる地元ではちょっとした有名人だったからだ。

回復を待って逮捕されたのは、勉さんの妻で亡くなった直樹君の母親でもある、重田伸江(仮名/当時34歳)。
伸江は美深の町に、集団見合いで嫁いできた農村花嫁第一号だったのだ。

農村花嫁

伸江が美深に嫁いできたのは事件の9年前。
当時美深町が農村花嫁対策として実施した「美幸線集団見合い」で成立したカップル第一号で、結婚式は当時の町長夫妻が媒酌人を務めた。
実家の酪農業を継いでいた勉さんのような酪農青年にはただでさえ嫁のきては望み薄で、「夢と希望」を与えるとして北海道全体でも話題になった。

勉さんの家は両親と同居だったが、自由化の波に押されていた酪農家の中でも借金も少なく、年間の粗収入が2500万を超える優良経営の酪農一家だったという。

子供たちにも次々恵まれ、夫婦仲も良いと思われていたこの一家がまさかの無理心中に走った要因は何だったのか。

伸江は山口県出身で、大阪外語大を卒業した後は兵庫県加古川市内で中学の英語教師をしていた。その中で、農村花嫁に応募。晴れて勉さんと結婚した。
伸江のほかに同時期に農村花嫁となった女性らとともに、家族向けの婦人雑誌に手記も発表しており、注目を集めた存在だったのは間違いなかった。

美深の町でも農村花嫁、特に元中学英語教師という伸江にはことのほか期待を寄せていたようで、子育てがひと段落した昭和62年からは町の教育委員に就任していた。

明るく学もあり、夫やその両親とも関係性がよく、堅実な酪農一家の素晴らしい嫁さん。伸江の評価は称賛に値するものと言えた。

が、伸江には人知れず悩みがあった。

厳しい実情、そして重き罪

ひとつは、長男の直樹君が目が悪かったことだという。
どの程度かは不明だが、悩むくらいだからかなり不自由があったのだと思われる。

そしてもう一つは、報道にもあった「牛舎の火災」に関連するものだった。

報道では堅実な酪農家とされていた重田家の牧場だったが、実際は決して順調とは言えなかったのだという。
重田家があった場所は、美深の中でもはっきり言って何もないところだった。オテレコッペという川に沿って、農道のような道路が一本。その道沿いのどこかに、農場があった。
ドラマ「北の国から」でも、草太兄ちゃんの牧場が実は借金まみれだったこと、ひとたびコケると夜逃げ待ったなしという厳しい北海道の現実は、自然災害もほとんどないぬるい四国の農家で育った私の度肝を抜いたわけだが、重田家においても例外ではなかったとみえた。

そこへ、追い打ちをかけたのが牛舎の火災だった。

そう言った実情は、事件後に美深の町を駆け巡り、遠く故郷を離れて知り合いも身寄りもいない北海道で本当は心細かったであろう伸江の心情に人々は深く同情した。
北海道新聞には日高町内の主婦からは伸江を思いやる投書も掲載された。

裁判までには嘆願書が多数寄せられたといい、伸江は懲役4年の判決を言い渡された。

裁判長は、伸江に対し
「贖罪はまだ続くが、待っている家族のもとへ早く帰れるように努めなさい」
と説諭した。

自分たちを殺そうとし、実際にお兄ちゃんを殺したこの母を、妻を、それでも家族は待つというのか。
幼い子供らにしてみればそれでも、大好きなお母さんだった。だからこそ、伸江の、母親の罪は重いのだ。

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参考文献

北海道新聞社 昭和64年1月1日、1月7日朝刊、
朝日新聞社 昭和59年11月5日、19日東京夕刊、昭和60年10月24日東京夕刊、昭和64年1月1日東京朝刊、
読売新聞社 平成元年7月6日、平成11年11月2日。平成12年9月21日、平成13年6月27日東京朝刊
産経新聞社 平成11年10月12日東京夕刊