忘れないで~生きた証②~

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川田 康代ちゃん(埼玉県比企郡:昭和60年12月3日死亡/当時3歳)

埼玉県比企郡鳩山町内の小学校では、ある問題に直面していた。
昭和63年4月に同小学校に入学したことになっている郡内の女児が、1年経っても登校してこないどころか、自宅を訪問しても家族から「病気なので会えない、治ったら登校させる」といわれるばかりでその姿を確認できていなかったのだ。

何かがおかしいと感じた鳩山町教育委員会は、西入間署に学校教育法違反で女児の母親を告発していた。

告発を受け、家族から事情を聴いていたところ、女児の祖母が「自転車の荷台に乗せていたら落ちてしまった。その後死んだので埋めた」と供述。
警察が庭を調べたところ、子どもの白骨遺体が出た。家族の話や遺体の状況から、白骨遺体は行方が確認できていない女児であると判明した。

白骨遺体で発見されたのは、川田康代ちゃん。
康代ちゃんは双子で、妹にあたる。離婚か死別で実家に戻った母親と、別の姉、そして祖母との暮らしだった。
康代ちゃんを死なせたとして逮捕されたのは、康代ちゃんの母方の祖母、川田喜枝(仮名/当時65歳)。康代ちゃんの母親は、この喜枝の三女にあたる。
当初は事故であるかのような供述をしていた喜枝だったが、実際には布団の上で粗相をした康代ちゃんを叱ったところ、言うことを聞かなかったことでカッとなり頭を殴り、さらには体を蹴飛ばしたという。
その後ぐったりしていたが翌朝まで寝かせておいたところ、朝にはすでに死亡していた。

康代ちゃんの母親にバレるとまずいと思った喜枝は、家族の目を盗んで康代ちゃんの遺体を物置へ隠した。そして、普段からいたずらがひどかったことを持ち出し、「康代はいたずらが過ぎるので県内の専門の施設へ預けた」と言い繕った。
有り得ない話ではあるが、なぜか母親はそれを信じたという。

そして昭和61年の夏ごろに、これ以上物置に置いておくのは無理だとして庭に埋め直していた。

祖母のやったことを母親は知らなかったのか。
いや、母親も、真実を知っていたかどうかは別として、康代ちゃんがすでに死亡しているのではないかということは勘づいていた。
というのも、昭和63年度の入学児童の就学前健康診断に、康代ちゃんが参加したことになっていたのだ。
どういうことかというと、康代ちゃんだとして健康診断を受けたのは、双子の姉だったのだ。

実は姉はこの時点で他の市の施設に預けられており、姉には鳩山町からの就学案内は来ていなかった。そこで、双子の姉を康代ちゃんと偽って鳩山町の就学前健康診断に行かせていたのだ。
誰が?双子の姉を施設から連れ出し、健診を受けさせていたのは母親だった。

警察は以前から喜枝以外の人間も康代ちゃんをせっかんして怪我をさせていた事実を掴んでいた。
死体遺棄は時効が成立していたが、警察では傷害致死にあたる可能性があるとして捜査を進めたが、その後の報道はない。

康代ちゃんの死という事実だけが、残っている。

五十嵐 芙美ちゃん(北海道函館市にて:昭和63年9月12日死亡/当時3歳)

発覚はある火災だった。
昭和63年9月12日深夜、北海道渡島管内鹿部町の60代の男性が所有する木造平屋の空き家から火が出た。
警察と消防が駆け付け、消火作業などを行っていた時、物置の陰から誰かが飛び出すように逃げていったという。
とりあえず警察官が引き留めたところ、その人物は女性で、子どもを抱きかかえていた。

対応した警察官は、その腕に抱かれた子どもを見て固まってしまった。
その子どもは、すでに遺体になっていた。

女は興奮状態で、「ごめんなさい!ごめんなさい!」と泣き叫んでいたといい、その手首には切ったような傷痕もあった。
警察官がとにかく落ち着かせて事情を聴くと、この子供は女の姪にあたる女児で、預かっていたのだということ、言うことを聞かないために殴ったら死んでしまったということが分かった。

非常に興奮していたことでいったんは病院で治療を受けさせ、女児の司法解剖を行うとともに女の回復を待ってさらなる事情が聞かれた。

亡くなったのは、札幌市東区在住の五十嵐芙美ちゃん。
芙美ちゃんは父親の姉であるこの女の家に、夏休みでもある8月4日から預けられていたという。理由は、母親が病気療養中だから、ということだった。

女は函館市八幡町の主婦(当時35歳)。主婦ということで夫はいたようだが、子どもがいたかどうかは報道されていない。が、子供を預かるくらいだから、女も子育ての経験があった可能性は高い。
女は9月12日の午前、言うことを聞かない芙美ちゃんに苛立ち、自宅で殴るなどの暴行を加え死なせてしまった。
女は我に返ると死んで詫びるしかないと考え、幼いころに世話になっておじさんの家で死のうと決意。芙美ちゃんの遺体を抱きかかえて鹿部町のおじさんの家へと向かった。
そして、空き家に入り込み、午後11時半ころ、火を放ったのだった。

が、死ねなかった。

煙と炎に恐れをなし、逃げ出してしまった。そして、物陰に潜んでいたところを発見されたのだった。

報道はここで終わる。しかし、燃え盛る小屋に芙美ちゃんの遺体を置き去りにせず連れて逃げたあたりに、この女の一片の人間性というか、そういうものが見えた気もする。

黒川 留圭(るか)くん(高松市鹿角町:平成13年12月8日死亡/当時3歳)

平成13年11月15日、高松市内の病院から搬送されてきた意識不明の2歳男児が虐待されていた可能性があるとして通報があった。
男児は頭を打って意識を失ったとされていたが、その体には新旧の打撲痕が無数に認められた。

体重も2歳の平均の半分しかなく、救急隊員や医師からは「一見して虐待とわかる状態」という声が聞かれた。

搬送時に母親(32歳)は、「階段から転げ落ちた」と説明していたというが、実際には当時別の部屋にいて、子どもがケガをした状況をわかっていなかったという。階段から落ちた、と説明していたのは、この母親の再婚相手の男だった。

高松南署は、母親とその再婚相手から事情を聴き、再婚相手の男が子どもに暴行を働いたことを認めたため、傷害容疑で逮捕した。
逮捕されたのは黒川哲夫(仮名/当時27歳無職)。再婚後、連れ子であるその子どもとは養子縁組をしていた。

意識不明だった男児は、23日後の12月8日、脳挫傷などで死亡した。

死亡した男児は、黒川留圭(るか)くん。事件後の11月26日には、3歳のお誕生日を迎えていたが、助からなかった。

留圭くんは高知で生まれた。が、出生後すぐに高知市内の乳児院に預けられたという。
平成13年の1月、母親が再婚して高松へ行くことになったのをきっかけに、留圭くんは母親に引き取られることになった。
母親は乳児院の職員に哲夫を紹介し、「仕事を真面目にやる優しい人です」と話していたという。当の留圭くんも、哲夫に懐いていた。

その後5月に母親と哲夫は入籍し、以降市営団地で生活していた。

そしてその半年後に、留圭くんは死亡した。

傷害致死に切り替えて起訴された哲夫は、当初反省の色ひとつなかった。母親が「仕事を真面目にする人」と言っていた哲夫は当時無職。職探しがうまくいかないことで苛立ち、同居をし始めた5月頃から、暗い部屋に閉じ込めたり、雑に扱うといった鬱憤ばらしをしていた。
11月15日、外出先から戻った哲夫と留圭くんだったが、留圭くんがなかなか家に入ろうとしなかったことで激高、後ろから蹴り飛ばした。さらに、横たわった留圭くんの腹を蹴り、頭を床に強打させた。

高松地裁の高梨雅夫裁判長は、やせ細った小柄な留圭くんをまるでサッカーボールのように蹴り上げ、悪質。無限の可能性のある命を慈しみ育てるべき養父に絶たれた留圭くんの心情は察するに余りあるとした。

が、懲役6年の求刑に対し、判決は懲役4年。
反省の度合いを深め、拘置所の中で朝夕に手を合わせて留圭くんの冥福を祈っているなどの姿勢が考慮されたというが、高松市の虐待防止を掲げる市民団体らは判決のあまりの軽さに絶句。
子供の虐待に厳罰は必要であると指摘している。

母親は罪に問われたという報道はない。直接的な暴力行為が問題視されていた時代だったのかもしれない。
しかし体重が同じ2歳児の半分しかないなど、どう考えても不適切な育児をしていたのは明白で、令和の今であれば不起訴になったかもしれないが、逮捕は免れなかったようにも思う。

哲夫はどんな判決も受け入れると弁護士に話しており、更生を留圭くんに誓ったという。

長屋 龍空(りく)くん(愛知県春日井市:平成15年10月19日死亡/当時4か月)

平成15年10月12日の午後9時ころ、春日井市熊野町の主婦から119番通報があった。内容は、隣家の子どもがベビー用の椅子から転げ落ち、父親から119番通報してほしいと言われた、というものだった。
救急隊が駆け付けると、乳児がぐったりとしていて、視線が定まらない状態で痙攣していた。通報者の主婦が抱きかかえており、父親とみられる若い男性はおろおろしていて、その後一緒に救急車に乗った。

病院に搬送された乳児はその後、10月19日に脳挫傷と急性硬膜下血腫により死亡した。

死亡したのは、長屋龍空くん。たった、4か月の命だった。

龍空くんが死亡した後、救急搬送された先の病院が虐待の疑いがある乳児が死亡したとして警察に通報。司法解剖で頭部に3ヶ所もの骨折があったことが判明した。

春日井署は当時部屋に二人きりだったことから、父親に事情を聴いた。父親は当初の通報と同じように「椅子から落ちた」と繰り返していたが、24日になって
「転寝していたら子供が泣き出したので抱いてあやしたが、泣き止まないので床に落とした」
と話したことで、この父親を殺人容疑で逮捕した。

逮捕された父親は、龍空くんの実父、長屋雄二(仮名/当時25歳)。
雄二は妻(当時23歳)と龍空くんの3人暮らしで、9月の末に名古屋市守山区から転居したばかりだった。
普段は妻の両親も育児に協力してくれており、事件の日も近所のお祭りに家族で参加していたという。妻の父親によれば、「雄二は気の弱そうな感じだが、龍空のことを『りく坊』と呼んで可愛がっていた。許せないが信じられない」と話した。
龍空くんが生まれて半月後に保健所の職員が自宅を訪問した際も、妻は「夫が育児に協力的で助かる」と話していて、特に問題はなさそうに思えていた。

一体何があったのか。

雄二は人知れず、不満を抱えていた。
一か月ほど前から、妻が週に3~4回、近くのスーパーで働くようになっていた。時間帯によっては、妻の両親が龍空くんを預かったりしてくれていたが、夜、雄二が帰宅しているときは当然だが、父親である雄二がその面倒を見ていた。
これが、雄二には不満だったのだ。
「なんで自分一人で面倒を見なければならないのか。」
4か月といえばまだミルクが必要な時期であり、多くの子がそうであるように、龍空くんも雄二よりは母親に懐いていたという。それも気に入らなかった。

ある時、泣き止まない龍空くんをあやしていた際、本当にうっかり取り落としてしまったことがあったという。大事にはならなかったが、なぜか龍空くんが泣き止んだ。
雄二は泣き止む秘訣かもしれないと思ったといい、あの夜も同じように床に落としてみた。
しかし泣き止まなかったため、イライラや転寝を起こされた怒りなどが爆発して、龍空くんの頭を床に3回も打ちつけた。

裁判で雄二は殺意を否認。弁護側は傷害致死の適用を主張したが、判決で名古屋地裁の石山容示裁判長は、龍空くんの骨折状況が雄二の弁解と矛盾することや、医師に虚偽の説明をしていたことなどから未必の故意を認定、偶発的だったとしながらも感情の赴くままの犯行で短絡的だとして懲役5年(求刑懲役7年)を言い渡した。

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