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昭和60年8月30日
暑い盛りの岐阜市。名鉄新岐阜駅はその日も多くの乗客や、隣接する新岐阜百貨店の客らで賑わっていたが、その百貨店の一階北東側のコインロッカーの周辺には警察官らの姿があった。
異臭がする、という通報で駆けつけた警察官がコインロッカーを開けると、そこにはビニール袋に包まれた嬰児の遺体が押し込められていたのだ。
嬰児は生後間もない男児で、へその緒が付いたまま。当然ながらすでに死亡、腐敗が始まっていた。
警察では生後間もなく殺害して遺棄されたとして、岐阜市内の産婦人科などに聞き込みをしたが、不審な妊婦や、出産したのに出生届が出ていないといった事案は見つからなかった。
しかし2年後、ひょんなことからこの事件が解決となった。そこには、登場人物全員残念としか言いようのない秘め事があった。
羽振りのいい男
その事件から2年経過した昭和62年夏。岐阜南署では、ある男についての情報が寄せられていた。
その男は、恐喝などの前科が9犯もある男で、当時はパチンコ店の従業員として働いていた。
しかし、今年の夏以降、パチンコ店を辞めて無職だったはずのその男が、やけに羽振りがいいという噂がたっていた。もしかするとそれは恐喝によって手に入れた金かもしれないということから、岐阜南署は男の身辺調査を行っていたのだ。
すると、その男は周囲に「大金を手にした」と言った話をするなど、どうやら噂は本当のようだったが、その金の出所は、身内からだった。
内偵を進めていくと、その金は男の義理の弟である町役場の職員の男から出ていたことが分かった。その額、およそ800万円。
家を建てるとか、そういった事情も特になく手渡されたというその金は、いったいどういう趣旨の金だったのか。
岐阜南署が男から任意で事情を聞くと、とんでもない話が持ち上がった。
男は義弟一家の「ある秘密」をネタに、恐喝を行っていたのだ。
その秘密とは。2年前の夏にコインロッカーで見つかった嬰児の遺体についてだった。
娘の不始末
岐阜南署は、男の話から2年前のコインロッカーから見つかった嬰児の遺体について事情を知っているとして、愛知県丹羽郡扶桑町内の男とその妻から任意で話を聞いた。
そして、両名を殺人で逮捕した。
男は愛知県・大口町役場の総務課長を務める江川英樹(仮名/当時49歳)、妻はそろばん塾を経営している澄恵(仮名/当時48歳)。
調べに対し、昭和60年の8月25日、夫婦の次女(当時16歳)が突然自宅で男児を出産、居合わせた澄恵が動転して職場にいた英樹に電話で相談、その際、英樹から「世間体があるから始末するように」と言いつけられたために、澄恵がバスタオルで男児をくるみ、強く抱きしめて窒息死させた、とのことだった。
男児の母親である次女には、「なにも気にしなくていいから」と話し、詳細は伝えなかったという。
警察は、澄恵が実行犯、夫の英樹がそれを指示したとして殺人の容疑で逮捕したが、死体遺棄容疑はつかなかった。
では誰が遺棄したのか。
澄恵には3歳年上の姉がいた。澄恵は殺害した男児の処理に困り、その姉に頼った。飛んで駆け付けた姉は、「バカなことを。いいわ、私に任せなさい」とだけ言い置くと、その男児をビニールに包んでどこかへと行ってしまったという。
姉は岩本久乃(仮名/当時51歳)といい、岐阜市在住だった。
そして、あの恐喝男の「妻」だった。
義兄からの恐喝
久乃は名鉄岐阜駅のコインロッカーに遺体を遺棄すると、そのまま自宅へと戻った。
5日後、テレビのニュースで自分が遺棄したあの赤ん坊が発見されたことを知って気が気ではなかったが、そのうち報道はされなくなり、また、自分に捜査の手が及ぶこともなさそうなことから安堵していた。
しかし、そうはいっても久乃の心には重しのようにその事実がのしかかっており、思わず夫の寛(仮名/当時45歳)にその秘密を打ち明けてしまう。
その話を聞いた寛は、なにごとか考えているようだった。
そして、打ち明けてから半年ほどたった昭和62年の6月。寛は突然、英樹と澄恵を岐阜市内の自宅へ呼び出した。
「俺の家内になんてことをやらせたんだ。黙っていてほしかったら償いとして一千万出せ。週刊誌に言えばいい金で買ってくれるだろうなぁ。」
驚いた英樹と澄恵を尻目に、こうも続けた。
「あんた、公務員だろう。困るよなぁ。」
英樹と澄恵に選択の余地はなかった。
翌日、あらためて英樹は岐阜市内に出向くと、喫茶店で寛に800万円を手渡した。
無職のはずの寛は、途端に金遣いが荒くなり、それがやがて警察に情報としてもたらされたことから、先に述べた通り一連の事件が解明されたわけだが、この家族にはまだまだ嘘があった。
なんとしてでも守りたかったもの
当初の供述では、英樹の指示で澄恵が赤ん坊を「胸に強く抱きしめて」殺害した、ということだったが、司法解剖の結果と合致しなかった。
司法解剖の結果、男児は喉の軟骨が折れていたのだ。」これは、首を絞めなければ起こり得ないもので、抱きしめて殺したという澄恵の話には疑いが残った。
また、澄恵からの電話でいったん帰宅したという英樹が、始末しろと言い職場へと戻り、その後帰宅して赤ん坊がいないのに赤ん坊のことを澄恵に一切尋ねていない点など、不自然な点があった。
その後9月6日になって、澄恵が
「実は私にはどうしても殺せなかった。物置に隠していたら夫が帰宅し、夫が赤ん坊の首を絞めて殺した。私もこぶしで赤ん坊の首を押さえた。」
と供述したのだ。
さらに、6月に寛から脅されたあと、もしも事件が発覚してしまったときには、なんと赤ん坊の母親である次女が殺してしまったことにしよう、と夫婦で決めていたのだ。
話は続く、英樹はその次女に対しても、「お前がやったことにするから」と話していたという。
おそらく、次女はこの時初めて、あの赤ん坊がどうなったかを知ったと思われる。
澄恵は、警察の取り調べに対し、
「夫の社会的地位を考えた。」
と話していて、なにがなんでも英樹の「公務員」という立場を守りたかったようだった。
それがたとえ、我が娘の人生に殺人者という烙印を押すことになったとしても、守りたかったようだ。
清々しいほどのクズっぷり
結果として、夫婦の嘘はばれ、世間体を気にして孫である赤ん坊殺害の実行犯は祖母である英樹と澄恵、死体遺棄はその義姉、そして自分たちを恐喝してきたのが義兄という、登場人物全員が清々しいまでのクズだったという事件だが、この次女も結構引けを取らない面がある。
次女は中学を卒業後、高校にも進学せず、仕事もしないで実家で暮らしていたというが、昭和60年の12月、交際していた男性の子を妊娠。それを両親に相談することもなく、出産の日を迎えたのだった。
両親であり、同居していた英樹も澄恵も、次女の妊娠には気づかなかったという。
10代の未婚の少女のこういった事件の場合、誰にも相談できずにといった不幸な少女、そんな風によく言われるわけだが、どうもこの次女はそうでもなさそうだった。
自宅のトイレで出産した次女は、それを隠すわけでもなくすぐさま母親を呼んでいる。
その後、父が帰宅し母となにごとかを相談し、その後おばが来てその夜にはすでに赤ん坊の姿も泣き声すら聞こえなかったのに、母親である次女が赤ん坊のことを気にすることはなかった。
実際、事件発覚後に事情聴取された次女は、赤ん坊のことを
「気にも留めてなかった」
とこともなげに話している。
もしかしたら、だが、この次女には知的に何か問題があったのかもしれない。もしそうだったならば妊娠も含めて非常に不幸だと言わざるを得ないが、そうでないのならば結構アレだ。
若いとはいえ、まるで異物を処理したかのような言動はいくらなんでもである。
英樹は公務員としては非常に評価が高く、下戸でギャンブルにも手を出さないまじめを絵にかいたような職員だったという。
澄恵も、そろばん塾を運営し、地域でもそれなりに認められる存在だったろう。
しかしこの一家の実情は、周囲が思うほど充実したものとは言えなかった。
いくらでも方法はあった。世間体が気になるならば、それこそ久乃に相談して次女と赤ん坊を久乃に預ける、そういったこともできたろうし、町役場の職員なのだから、福祉のことにも一般の人よりは伝手もあったのではないか。
なぜ、「とりあえず考える」ではなく、「今すぐ始末」になってしまったのか。
久乃も久乃である。こんな重大なことを、よりにもよって「特技:恐喝」な夫に妹夫婦の秘密を暴露してしまうなど、この結果を予想してのこととしか思えない。
事件当時お互い無職だった久乃と寛がどうやって生計を立てていたのか知らないが、久乃の「思惑」に寛が乗ったのではないかとすら思える。
裁判では、偶発的な犯行で、短絡的だが同情もできるとして英樹、澄恵、久乃にはそれぞれ執行猶予が付いた。信じられん。
忘れていたが、久乃の夫の寛は恐喝で逮捕起訴されたが、こちらは執行猶予が付いたかどうかは不明である。あまりに小物過ぎてその後の報道は、ない。
令和の時代になっても子殺し、子捨ては後を絶たないが、家族ぐるみでそれをやってのけたうえで家族に恐喝されて露呈し、当の赤ん坊の母親は我関せずという経過をたどった事件は、なかなか聞かない事件だった。
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参考文献
読売新聞社 昭和62年8月25日東京朝刊
毎日新聞社 昭和62年8月25日東京朝刊
中日新聞社 昭和62年8月25日、9月7日、9月12日朝刊
昭和63年5月11日朝刊