私は何をしたんでしょう?~目黒・5歳児ゴミ袋窒息死事件~

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目黒区の閑静な住宅街。
碑文谷八幡宮の広大な敷地の道路を挟んだ北側の住宅街にその家はある。
敷地こそ狭いものの、その敷地いっぱいに建てられた3階建ての洋風の邸宅。重厚なつくりに見え、半地下にはガレージも。
周辺には同じように高級住宅が立ち並び、どの家にも自家用車が見える。国産、外国産の違いはあれど、どれも高級車である。

その家には、白のイタリア製の車が停められていたという。

飲食業界で長く事業を展開する夫と、その夫を支え、家族をまとめ上げていた妻。
妻は4児の母でもあった。

経済的に恵まれ、家庭にも恵まれた「ように見えていた」その家で、事件は起きた。

事件

平成2492日、お昼を過ぎたころ。
目黒区の住宅から子供が息をしていない、といった119番通報があった。救急隊が駆け付けると、住宅2階のリビングで男児が倒れていた。
意識不明の状態で男児は搬送され、警察が家族から事情を聞いた。

通報してきたのはこの家の主で飲食店などを幅広く経営している実業家の男性で、搬送された男児の父親だった。

搬送されたのはこの家の三男で保育園児の重田滉史くん(当時5歳)。
父親によると、その日の昼過ぎの次男から弟の様子がおかしいと起こされ階下に降りてみると、そこには奇妙なものがあった。
リビングに、家庭用の45リットルのゴミ袋があったのだ。しかも、中に何か入れられているように見えた。
その傍らには、子供たちの母親がソファで眠りこけている姿。

父親がそのごみ袋を開けると、なんとその中に滉史くんが入れられていたのだ。しかもその姿は異様で、手足を縛られ、目と口にガムテープが貼られていたというのだ。

「何を何をやってるんだ!!」

仰天した父親は、傍らで眠っている滉史くんの母親を揺り起こした、が、全く起きない。そのため母親を突き飛ばしたという。すると、母親はぼんやりと目を開けた。

父親はとにかくひどい状況をなんとかしようと滉史くんの顔に貼られたガムテープを剥がし、息をしていないことを確認したため懸命に心臓マッサージを施した。

母親は、その様子を見ると、よたよたと台所へ行き、やかんに水を汲んできた。そして、その水を滉史くんに頭からかけたという。

明らかに、なにかがおかしい。

滉史くんは搬送後、懸命に生きようと頑張ったが、3日後に低酸素脳症で死亡した。

警察は状況から、母親が滉史くんを縛り、ゴミ袋に入れたとして殺人未遂容疑で逮捕していたが、その後滉史くんが死亡したことから、殺人容疑に切り替えた。

事件直後の報道やワイドショー、週刊誌によると、この家からは「またか」とうんざりするくらい頻繁に子どもの泣き声が聞こえていたといい、また滉史くんだけが自宅から閉め出されたりしたこともあったという近所の人の声を紹介し、日常的な虐待が事件につながった可能性なども取り上げていた。
97日の時点では、母親は取り調べに対し「しつけのためにやった」と話していることも報道されていたため、セレブな一家とその家の母親の裏の顔、といったつくりの報道が散見された。
週刊誌やワイドショーでは「豪邸ママ(週刊朝日)」「セレブ婚(女性セブン)」「幸せ人生(とくダネ!)」「セレブ母(女性自身)」という見出しが躍った。

ところが平成259月から始まった裁判では、この家族のある意味表に出なかった翳の部分と、母親が抱えていた問題、そして誰もが予想しなかったある特殊な事情も介在していたことが判明する。

家族

殺人の容疑で逮捕されたのは、滉史くんの母親、美都(仮名/当時41歳)。
美都は長野県上田市で生まれ育った。時計や宝飾品を扱う店を経営する両親の間に一人娘として育ったが、幼いころから頭の良い子だと評判だった。
作文で全国でも上位で表彰されたり、中学でもテストはどの教科においてもほぼ満点。
さらに育ちの良さに加えて顔立ちも可愛らしく、性格も明るく優等生を絵にかいたような少女だったという。
ところが、県下でトップを争う高校へ進学するも、その後の美都の進路は長野県内の専門学校だった。

実は両親、特に父親が非常に教育熱心だったようで、美都はその期待に応えようと努力していて大学受験で第一志望としたのは東京大学だった。
正確に言うと、大学は東京大学以外は有り得ない、と思い込んでいた節もあり、東大に落ちると何年か浪人生活を送った。
一応、難関の私大などは合格していたというが、結局東大に行けないなら大学へ行く必要はないということなのか、美都は会計や簿記の専門学校へ進学した。

地頭がいい美都はその専門学校でいくつかの資格を取得、後に税理士となった。これだけでも素晴らしいわけだが、プライベートはというと、これまた順風満帆とはいかなかった。
上京してしばらく後で美都は結婚した。そこで長男を授かるものの、結婚生活は長く続かなかったようだ。
離婚後、都内の税理士事務所で勤務していた美都は、出会いの詳細は定かではないが後の夫となる男性と知り合い、そして再婚。後に次男、滉史くん、長女にも恵まれた。
先にも述べたが夫は当時年商70億という会社の経営者であり、事件の3年ほど前に購入したという目黒の家は中古ながら数億という価格だったという。

結婚後の美都は在宅で夫の会社の経理を担うようになる。
事件を取材し、裁判も傍聴した元朝日新聞記者でジャーナリストの森哲志氏のルポによれば、美都の一日のスケジュールは事件前には以下の通りだったという。

起床は毎朝6時。長男次男が学校に出た8時過ぎには滉史くん、長女に朝食を食べさせ、保育園に送る。その後いったん自宅へ戻って夫の会社へ出社。仕事を終えた午後6時に滉史くんらを迎えに行き、夕方の家事を一通り終えてから夕食、午後10時までには入浴を済ませて寝かしつけた。
その後は美都が持ち帰った経理の仕事をこなし、さらには帰宅が深夜2時ころになる夫を待って、食事を用意することもあったという。

夫は経営者であり、そもそも飲食店の営業時間を考えればどうしても帰宅が遅くなるのは仕方ないことだった。その分、朝はおそらく美都らよりも遅くまで寝ていただろうから、実際にはワンオペ育児だったのだろう。
ただ、上の子ふたりはある程度自分でできる年齢であり、毎日深夜まで起きて待っているわけでもなく、この程度であれば同じような母親はやまのようにいるだろう、と、取材した森氏も述べている。
責任は重いとはいえ夫の会社であり、税理士の美都にとって経理は専門分野である。よくある、慣れない家業をむりやり手伝わされるといったものではなかった。

はた目からも、家族は円満で幸せそうに見えていたというが、美都は疲れ切っていた。
が、先に心身に不調をきたしたのは夫だった。

崩壊まで

夫は多忙を極めていた。加えて、人前で話すことが得意ではないという性格もあり、事業が軌道に乗れば乗るほど、心身のストレスも増大していった。
事件が起きる直前には、夏ということもあっただろうが非常に辛かったといい、体重は10キロ以上落ちていた。
事件の3日前、いつも明るい美都が、滉史くんらが通う保育園の園長に対し、涙ながらに夫の体調不良が深刻化し、誰とも話したくないといっていると相談してきたという。

夫は肝臓も弱かったといい、連日の接待など職務上の酒の席なども重なり、8月頃には医者から入院を勧められるほどの相当なうつ状態になっていた。
しかし責任ある立場だったことでそれも思うようにはできず、睡眠薬などを処方されて何とか日々をやり過ごしている状態だったようだ。

美都も、ワンオペ育児に持ち帰ることもある膨大な仕事量、特に税理士といえば月初めは激務といわれる。
それを見越して、いつもはその時期にあわせて長野から母親が手伝いに上京してくれていたのだというが、人と会いたくないという状態になっている夫の手前、事件直前の8月には、実母の手伝いを美都が断っていた。
元来、責任感の強い美都はそれまでも実母の助けを借りながら必死で乗り切って来ていたが、この月ばかりは、どうしようもなかった。
ただでさえ睡眠時間を削っての仕事が押し寄せ、一息つこうにも幼い長女と滉史くんの世話は手を抜けない。

やんちゃ盛りの滉史くんは可愛かったが、同じだけ手を焼くことも多かったという。
そんな滉史くんのハマりものは、任天堂DS。部屋の片付けもしないままに熱中することもあった。
美都はそのたびに、すべきことをしてから遊ぼうね、としつけてきたつもりだった。しかし最近は目を離すとすぐにDSで遊んでいる滉史くんの態度は、目に余るものがあった。

月末の激務の日々を何とか乗り越えたものの、美都の心身はかなり限界に近い状態に。
いつの頃からか、美都は夫に処方された睡眠薬(マイスリー)を服用するようになっていた。

「いいちこ」とマイスリー

91日は土曜日だった。夏休み最後の日でもあったが、美都もようやく一息付けそうな状態にあった。
明日は日曜日、週明けからは2学期が始まる。今晩と明日とゆっくり休んで、新学期に備えないと……
そんな風に思いながら、休みの前日ということもあって美都は夕食後、子供たちが寝付いてからひとり晩酌を始めた。
酒は強い方だという美都は、大ぶりの茶碗に焼酎のいいちこを水と半々の割合で割ったものを飲んだ。11時ころ、同じものをもう一杯。
寝酒のつもりだったのに、なぜか寝付けなかった美都はいつものように夫のマイスリーを一錠飲んだ。時刻は2日の午前0時過ぎ。
とにかくゆっくり深く眠りたかった。が、午前4時ころに目が覚めてしまった。
美都はこの時点でさらにもう一錠、マイスリーを飲んだ。そして再び眠ったものの、午前8時ころにまた目が覚めたという。

おそらく、相当な疲れがあったと思われ、またこの時点ですでにかなり寝ぼけたような状態になっていたのか、朝だというのに再びいいちこの水割りを一気飲みした。
そして、水割りと一緒にマイスリーをもう一錠、口に放り込んだ。

「おかあ、DS!」

午前11時、すでに起きていた滉史くんが美都のベッドへとやってきて、寝起きでぼうっとしている美都にDSを出してほしいとせがんだ。
この頃、言うことを聞かずにいつまでもDSに興じる滉史くんをしつけるため、美都がDSを預かり隠していたのだと思われる。
どこの家でも、親でも思い付き実行したことがあるような、ありふれたしつけの一つだった。
ところがこの時、美都は滉史くんが前夜もDSで遊んだのに片付けもしなかったためにDSを捨てるふりをしていたことを思い出した。
捨てるといってゴミ袋に入れるまでしたのに、朝になるとまるで親の朝知恵を見透かしたようにDS隠してるんでしょ?捨てたりしてないでしょ?といった風に当たり前に要求してくる滉史くんを、美都は情けない思いで見つめていた。

「この子は分かっていない。やりたいこと、好きな事だけをやって生きていくなんてできない」

美都はそれを教えたかった。

そして、盛大に間違えた。

悪夢

美都は悪びれもせずにDSをせがむ滉史くんを見つめ、こう告げた。

「息をするのと、DSやるの、どっちがいい?」

バカな質問だった。こんな相手を試すような、しかも選択肢が極端すぎる上に5歳の子どもには意図することが伝わるとは思えないものだった。

美都は当然、息をしない(=DSを選ぶ)ということは死を意味するわけで、滉史くんが不本意ながらも息をすることを選ぶ=DSはしない、という答えを期待していた。

が、滉史くんは「DSするほうがいい」と、こともなげに言った。

美都はそれを聞くと、ふらつきながら地下室へ向かい、ロープとガムテープ、ゴミ袋を持ってリビングへと戻った。
そして、滉史くんの両手足を縛り、目と口にガムテープを張るとそのままゴミ袋の中へ押し込んだ。
滉史くんがその時、どんな状態だったかはわからない。遊びの一環だと思って面白がっていたかもしれないし、いつもと様子が違う母親に恐怖を感じたかもしれないし、暴れたかもしれない。

ゴミ袋の口にもガムテープを張ると、美都はソファに座り込んだ。
おかあ、ごめんなさい!そう滉史くんが言えば、すぐに出してやるはずだった。そして滉史くんは二度と息をするよりDSがしたいなどと言わないだろう……

そう考えながら、美都は再び目を閉じた。

美都が次に目を覚ましたのは、青ざめた顔で自分を見つめる上の子どもたちと、驚愕と怒りの表情の夫にどつきまわされた時だった。

警察に連行される美都は、「しつけのつもりだった」というのがおそらく精いっぱいだったのだろう。それに加えて、「育児に疲れた」とも話していた。
そしてその美都の言葉は、セレブ妻、3億円豪邸ママの行き過ぎたしつけが引き起こした虐待事件として独り歩きし始める。
近所の人が話したという、「滉史くんが外に締め出されていた」「家の中から滉史くんが泣いて母親に謝る声が響いていた」「いうことを聞かないからと、家族旅行にも置いていかれたらしい」と言った証言もあり、連日ワイドショーや週刊誌は美都を信じられない母親として報じた。

平成25925日、滉史くんの命日を過ぎたころに始まった裁判で、美都は
「私がしたことで息子が亡くなったことは間違いありません」
と起訴事実を認めた。

しかし、弁護人はこうも主張した。

「事件当時は睡眠導入剤とアルコールの併用の影響で意識障害を起こしていた。それまで4人の子どもに対して虐待をしたことはない」(共同通信 平成25925日)

そして美都も、滉史くんを死なせたことは認めたものの、その時の様子を全く覚えていない、と話した。

法廷はどよめいた。
傍聴していたジャーナリストの森哲志氏は、近くで傍聴していた若い女性が「(覚えてないなんて)そんなことってあるの?とぼけてるとかじゃないの?」と小声で話しているのを聞いたといい、それほど、検察が説明した状況は詳細でかつ母親として人として鬼畜の所業と言わざるを得ないものだった。

……覚えてないなら、なぜその詳細が分かったのか。

実はこれまた美都は覚えていないものの、滉史くんをゴミ袋に入れた際、長男と次男の両方またはいずれかがそこにいたのだという。
そして、滉史くんをゴミ袋に入れるのを、そのどちらかに(※報道では長男とするもの、次男とするものが両方存在している)手伝わせていた。それを、息子たちが証言していたのだ。

おそらくお兄ちゃんたちは母親を止めたのだろう。しかしいつもと違う母親に怯えていたのか、またはすぐに出すはずだと思っていたのだろう。

ところが数十分過ぎても美都がゴミ袋を破らないばかりか、おそらく子供らの呼びかけに美都がまったく起きず、滉史くんも兄の呼びかけに応えなくなったことでとんでもない事態になっていると察した次男が、慌てて父親を起こしに行ったのだった。

そしてそのすべてを、美都は覚えていないというのだ。

しかし現実に、滉史くんは死亡し自身は鬼母、堕ちたセレブ妻などと面白おかしく書き立てられ、1年にわたって拘留されていた。そして今、息子を殺した張本人として、法廷で裁かれている。

まるで、覚めない悪夢の中をさまよっているかのような状態だったろう。美都は自分がしたことではあるが母親でもあるため、自分自身に息子を返せとずっと言っていると涙ながらに話していた。

なぜこんなことになってしまったのか。

その答え(可能性)は、証人として出廷した精神科医が持っていた。

防げた悲劇

弁護側の証人として証言台に立ったのは慶應大学医学部精神神経科准教授の村松太郎氏である。
村松氏は裁判所の依頼で刑事事件の精神鑑定を多く手掛けてきた人物だが、彼が証言した内容に美都は沸き上がる感情を抑えきれなかった。

「この事件は防げたのです。それが残念でならない。」

村松氏が指摘したのは、睡眠薬とアルコールを同時に服用することの危険性だった。
たしかに、薬とアルコールを同時に服用するのは危険だということはなんとなく知っている人も多いだろうし、正直、そんなことをここで強調されても……といった空気がその時傍聴席にはあったという。
が、村松氏は美都が服用した「マイスリー」という睡眠薬について、アメリカのFDA(米食品医薬品局)がマイスリーの服用を減らすよう勧告していたことや、それ以前から特殊な副作用が認められるとして製薬会社に注意喚起するよう指導していたことが明かされるや、法廷は空気が変わった。

特殊な副作用とはどのようなものなのか。

これについては厚生労働省も平成19年に重要な副作用に関する情報として公開しているが、警告として、

本剤の服用後に,もうろう状態,睡眠随伴症状(夢遊症状等)があらわれることがある。また,入眠までの,あるいは中途覚醒時の出来事を記憶していないことがあるので注意すること。

というものを出していた。

さらに使用上の注意として、眠りが浅く十分な睡眠をとれないまま覚醒した場合、薬の効果が消えていない状態のことがあるため、起きてすぐに何かしなければならないような時には服用させない、増量は最大で10㎎まで、としていた。

実際にマイスリーを服用した患者の中で、通常では考えられないような暴言や失礼な態度をとったり、意味不明の発言があったという。
そしてそれらを、覚えていないのだという。
さらに、酒との併用はその影響を増幅させる危険性があり、あらゆる傍若無人な振る舞いをした挙句気づくと留置場にいた、などというケースが少なくないというのだ。

美都はあの夜、酒と一緒にマイスリーを飲んだ。しかも、最大10㎎までとされていたのに、結果として3~4時間おきに一錠ずつ、合計で15㎎を飲んでいた。3錠目を飲んだ時も、酒と一緒に飲んでいた。
そしてその約3時間後に、滉史くんに信じられないことをし、結果死なせてしまったのだった。

美都は薬の危険性を知らなかったわけではないが、重要視していなかった。まるで、風邪薬を飲む感覚で、いつもマイスリーを服用していたのだという。

検察はすでに殺意を立証することは困難として傷害致死に切り替えたうえで、重篤な意識障害であったとしながらも犯行を引き起こしたのは美都自身であるとして懲役4年を求刑。
この時期、虐待事件に対しては求刑越えの厳しい判決が相次いでいた。美都の事件も、一般的な虐待事件とは質が違うとしながらも、子供が死亡するという結果の重大性は変わらなかった。

東京地裁は美都に対し、懲役3年保護観察付きの執行猶予5年を言い渡した。
判決は確定した。

私は何をしたんでしょう?

マイスリーの服用については個人差もあり、またその後出現する副作用についても個人差がある。
厚生労働省が発表した統計によれば、3年間の報告で対象者は年間で200万人、そのうち、マイスリーの副作用だと思われるものは2件だった。
いずれも死亡や事件の加害者になったというものではなく、朦朧状態での言動、記憶が失われるといったものだった。

が、あくまでこれは医師がかかわったケースであり、美都のように他人に処方されたものを勝手に服用したケースは相当数あると思われ、医師の処方がないためまさに美都のように「風邪薬を飲む軽い気持ち」で服用し、最大服用量にも無頓着なケースは少なくなかったと思われる。

アメリカの医学誌において、平成23年には「マイスリーと法廷~私は何をしたんでしょうか?~」という論文も発表されたといい、かの故・ケネディ大統領の甥で下院議員のパトリック・ケネディ氏がマイスリー服用後に事故を起こしたケースなどもあり、アメリカでは注目されているという(森哲志氏が村松助教授に確認した内容による)。

美都は逮捕時、自分が何をしたのか全く覚えていなかったし、自分が滉史くんを死なせた(当初は殺害しようとした)と言われてそれこそ死ぬほど驚いただろう。
保釈申請は美都自身が拒み、1年以上を拘置所で過ごした。夫はその間、週に二回は面会に来たという。子どもたちも、母の帰りを待っていた。

検察も美都がひどい意識障害だったことに異論はなかったし、裁判員らも村松助教授の説明に驚きながらも美都が陥った状態には理解を示したと思われる。

ただ、気になることもないではない。

この朦朧状態は、潜在意識や正常時の本人の悩み、環境などが作用することはないのだろうか。
マイスリーの副作用で何かすべて吹っ飛んだような感じではあるが、当初は近隣の人々からもうんざりするほど頻繁に子どもが泣き叫んでいたとか、滉史くんを締め出していたり、家族旅行にも連れて行かないといった話があった。
美都は法廷で滉史くんを「私の太陽」といい、その愛情の深さを述べていたが、森哲也氏の取材によれば、滉史くんはとにかく手がかかる子だったという。それは美都のすべての時間を奪うような勢いだった。
仕事で急いで銀行へ行かねばならないにもかかわらず、そんな時は決まって滉史くんが駄々をこねた。どんなになだめても滉史くんは言うことを聞かず、結局美都が根負けするとそれまでの駄々っ子が嘘のようにおさまった。

どこにいても何をしていても、美都に自分だけを見るように求め、滉史くんもまた、母親である美都だけが、その世界のすべてであるかのようだった。

美都は知人に、上の2人と下の妹は手がかからないのに、滉史くんだけはどうしてもやんちゃで大変だとこぼしていた。

ふと、あの福岡で息子を殺害した母親を思い出した。あの母親も、障害があったために手がかかる息子をなによりも愛していたし、人生のすべてを、自分の命を削って息子に向き合っていた。
しかし、母親は聖母ではない。
福岡の母親は、同じく薬の副作用が疑われる中、幼い息子に罵倒されたあとでその息子を殺害した。彼女もその時の記憶が全くなかった。

美都と滉史くんの関係、普段の滉史くんの状態はどうだったのだろうか。
美都の心の中に、滉史くんに対する愛情以外の感情は一切なかったのだろうか。
事件直前の美都の様子を、近所の人は「疲れ切った黒木瞳」と表現した。

森哲也氏から上記のような質問をぶつけられた村松教授は、マイスリーと酒を併用した場合の副作用について、

「(正常時の意識が)必ず反映するとは言い切れない。それは、全く分からない世界のことなんです」

と答えている。

あの日曜日の朝。滉史くんと美都の間でどんな会話があったのか。
DSを出してとせがむ滉史くんに対して、言って聞かせようとしたという美都だが、以前から「ごめんなさい、出してぇ!」と叫ぶ滉史くんの声を近所の人は聞いていた。

その時、美都の心に何が棲みついていたのか。

それは全く分からない世界のこと。

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参考文献

日刊スポーツ新聞社 平成2493日東京日刊
朝日新聞社 平成24921日 週刊朝日「目黒・5歳児ゴミ袋虐待死 豪邸ママ、箱入り娘時代 ワイド・あぶないJAPAN」
共同通信社 平成25925
読売新聞社 平成25103日 東京朝刊
毎日新聞社 平成25104日 東京朝刊
女性セブン 平成24927日号
とくダネ! 平成2497
女性自身 平成24912

目黒碑文谷「愛児袋詰め殺人」の真相 新潮45 平成2511月号/新潮社 森哲也

母さんごめん、もう無理だ 朝日新聞社会部/幻冬舎
「おかあが奪った息子の命」

厚生労働省重要な副作用等に関する情報