夫と子供を殺した女が欲しかったもの~佐賀・長崎父子連続保険金殺人①~

平成10年10月27日

諫早市の幹線道路にあった「ファミリーマート小長井店」に主婦らしき女性が駆け込んできたのは深夜を回った頃だった。

店の前に乗りつけられた白の軽自動車から降りたその主婦は、息せき切って店内に駆け込むと
「早く!捜索願を出して!息子がいなくなった」
と叫んだ。

慌てた店員が事務所から110番通報すると、主婦はその電話をひったくって自ら状況を説明していたという。
よく見ると、主婦もずぶ濡れで、警察に通報する内容からもどうやら息子が海に転落したようだということが分かった。

地元警察から依頼を受けた小長井漁協の組合員らは船を出して捜索に参加し、40分後、岸壁から50m離れたところで少年を発見。
引き上げられた少年は靴を履いたままだった。
捜索に参加した組合員らは胸に引っかかるものを感じていた。

「靴が脱げてないということは、溺れたにもかかわらずもがかなかったということか?落ちた瞬間に心臓麻痺でも起こしたのだろうか。溺れた割には腹も膨らんでないから水も飲んでない。
それにしても、明日も学校があるのに深夜からイカすくいなどするもんだろうか。なにより、イカの時期はもうとうに終わっているのに…」

違和感

この日、長崎新聞の社会面に悲しい記事が掲載された。
「27日午前零時頃、北高来郡小長井町井崎名の岸壁で、イカを網ですくっていた佐賀県立鹿島実業高校1年の山口吉則くん(16歳)が海中に転落した、と母親(40歳)から110番通報があった。諫早署が海中に沈んでいた吉則君を発見、引き揚げたが死亡していた。死因は水死。調べによると、吉則君は26日の夜、母親と妹と三人で岸壁に来ていた。網でイカをすくっていた際、誤って転落したらしい」

昨晩、捜索に駆り出された警察官らも、漁協の組合員ら同様の「違和感」を覚えていた。
吉則君が引き揚げられた際、通報してきた母親は息子に取りすがりもせず、それどころか顔さえ見ようとしなかった。
自分の車の中でじっとしているその母親に対し、当初は事実を受け入れられない心理状態なのかも、と心配していた警察官だったが、真夜中に船を出して捜索してくれた漁協の人らに「落ち着いたら挨拶しておきなさいね」とだけ声をかけたという。

その後、遺体は長崎大学で司法解剖されたが、その際、同行した吉則君が通う鹿島実業高校の校長は、泣きすがる母親の姿を見た。
しかし、後日執り行われた吉則君の葬儀では、参列した人々の間で息子を亡くした母親のその様子に注目が集まることとなる。
母親は涙一つ見せず、終始冷静にふるまっていたという。それは悲しみに茫然自失、というよりは、どこか「ひと段落ついた」ようでもあった。そして、吉則君の家を知る一部の人々の間では、さらに踏み込んだ話が取りざたされていた。
吉則君は虐待を受けているのではないか。それは近所の人々や、吉則君の同級生らの間で幾度となく囁かれていたことだった。
中学の頃は、いつも顔に擦り傷が絶えず、ある時は鼻骨や眼底を骨折するなどしていた。それを、「兄弟げんか」と母親も吉則君も話していた。しかし、3つ年上の兄は体こそ大きかったが弟妹思いの仲の良い兄だったため、父兄たちも首をかしげていた。
夜、自販機の灯りや街灯の下で本を読む姿、雨の日でも犬の散歩を欠かさない吉則君の姿を見てきた人々は、家にいたくない、あるいはいられない事情があるのではとうすうす感づいていた。

母親が数年前から交際している「外尾のおじちゃん」という男性の存在。本来、資産家だったはずの家は田畑を売り払ったと聞く。母親自身も、顔を腫らしたり、突然髪の毛が「どこでやってもらったんだ」と思うほど酷い短髪になっていたり、不自然なことが多かった。
さらに、母親の前夫の話は極め付けだった。

「あの家は、お父さんも数年前に同じように海に落ちて亡くなっていたよね…」

弟の出棺の際、すでに家を出ていた19歳の兄は、こぶしを握り締めて涙をこらえ「くそっ!!」と何度もこぶしを振り下ろしていた。

逮捕

警察はハナから事故ではないと疑っていた。聞き込みをするまでもなく、吉則君の父親が6年前に佐賀県太良町の大浦海岸で事故死していることも把握していた。
県をまたいでいるとはいえ、地理的に言うと小長井の岸壁と大浦漁港は車で20分ほどで、目と鼻の先に位置している。

「父親を亡くした場所のすぐそばで、イカすくいなんかするかな」

警察は遺体を司法解剖に回す。それと並行して、母親の交友関係、経済状況などをつぶさに調べ上げていた。
母親の名は山口礼子(事件当時40歳)。涼しげな目元が印象的ではあるが、どこにでもいるごく普通の主婦だった。だが調べていくと、礼子は6年前の1990年、当時の夫であった克彦さん(当時36歳)が海でおぼれ死亡した際に保険金や退職金など総額1億600万円を手にしていた。
大金を手に入れたはずの礼子だったが、家は廃屋と見紛う程荒れ果て、学校関係者の話では給食費などの滞納が常態化するなどしており、生活はかなり困窮していたようであった。
さらに、1995年には次男吉則君に3,500万円の定期付き養老保険が、その翌月には長男に2,000万円、翌1996年には長女(当時11歳)に1,000万円の保険が掛けられていた。
長男と長女は、それぞれその後増額され、最終的に長男は4,000万円、長女には2,500万円、全員合わせると1億円の生命保険が掛けられていた。

そして、その陰にある男性の存在があることも突き止められていた。
男は、名を外尾計夫(ほかお・かずお/当時51歳)といった。佐賀で親から引き継いだ古美術商をやっているということだったが、実際にはとんでもないバクチ好きで、仕事という仕事はしておらず、家族の年金を食いつぶして生活していた。
さらに、外尾は親しくなった女性らに対して言葉巧みに金を出させることも頻繁に行っており、礼子もどうやら外尾に言われるがまま、夫の遺した保険金などを「貢いで」いたと思われた。

こうしたことから、長崎県警はまず、内縁関係にあった外尾を殺人容疑で逮捕、その後、外尾の自供などから礼子に対しても同じく殺人容疑で逮捕状を取った。

1999年8月30日。
礼子は吉則君を殺害し、保険金を得ようとしたとして逮捕された。

礼子のそれまで

礼子は昭和33年、佐賀県で生まれた。4人兄弟の末っ子だった礼子は、小中学校ともに何の問題もなく過ごし、級友らからも「我慢強く、一生懸命頑張る人」といった印象を持たれていた。男子生徒とはほとんど口もきかない、おとなしくまじめな生徒だったという。
一方で、礼子の生まれ育った家庭は少々寒々しい面があった。
農村の家に婿養子としてきた父親は警察官だったが、仕事上、あまり家にいることはなかった。加えて、元来無口であった父親に上の三人の子供らはあまり寄り付かず、ノンフィクションライター・杉山春 氏によれば、「女にだらしなかった父親は酒もよく飲んだ。そんな父に母は愛想をつかしていたが、経済的なことから離婚には踏み切れなかった」と兄弟の一人が話しているという。
そんな父親に対し、礼子だけは、父をねぎらい、普通に接していた。

鍼灸師の仕事をしていた母親に代わり、家事も手伝い、礼子は武雄市内の短大付属女子高へ進学する。
しかし、成績不振だった礼子は付属校だったにもかかわらず、内部進学ができなかった。そのため、武雄市内の別の短大へ進学。高校での専攻は被服科だったが、栄養士になるべく食物科へ変更、栄養士の資格を取って卒業した。
その後は地元鹿島市内の個人病院に栄養士として就職し、かつ、准看護師の資格も取得するべく、個人病院の寮に入って看護学校へも通っていた。

病院に勤め始めてすぐ、知人の紹介(礼子の勤務していた病院に入院していたという説もあり)で電気設備会社勤務の野中克彦さんと出会う。
すっかり意気投合した二人は急速に親密な関係となり、昭和54年12月、結婚した。
礼子は同時に、まだ1年も勤めていない病院を退職し、看護学校も退学した。(Wikipediaはじめ多くのサイトで「礼子は看護師の資格を持っていた」との記載があるが、それは間違いである。)

婚姻の数か月前、克彦さんの父親がかねてからの知り合いであった鹿嶋市古枝在住の山口クヨさん(当時89歳)という女性に身寄りがないことから、息子である克彦さんをクヨさんの養子にする話をまとめていた。
そのため、礼子は結婚し、克彦さんとともにクヨさんの家に入ることになり、名前も野中ではなく「山口」を名乗ることになった。
この山口家は、鹿島市内でも古い歴史のある地域にあり、ほとんどが農家で成り立っていた。山口家もみかん畑や田畑を有しており、ひとり息子を戦争で亡くし、夫の死後は親戚の人の力を借りてクヨさんがその土地を守ってきたが、高齢になり立ち行かなくなったことで克彦さんを養子に迎えた。
つまり、土地をもつ山口家の家督を継ぐために、克彦さんは養子となったのだ。

礼子はクヨさんの介護を担い、密接な関係の残るこの集落で新婚生活を始めた。

しかし、養子となってからも克彦さんは田畑を切り盛りすることはせず、相変わらず他人に任せきりであった。その集落では月に一度は寄り合いがあったが、礼子は時たま顔を出して近所づきあいをするものの、克彦さんは一度もその寄合に顔を出すことはなかったという。
そのせいか、近所では「あの夫婦は山口の財産狙いでやってきた」と噂されることもあった。
加えて、電気設備の仕事をしていた克彦さんは出張も多く、2~3週間家を空けることもあった。

昭和55年に長男が、続いて57年に次男吉則君、63年には長女が生まれたが、その間にクヨさんは亡くなっている。
クヨさんは痴呆症も出ており、幼い子供を抱え、介護に明け暮れる礼子に対し、克彦さんは非協力的であった。
そもそも実の親でも祖母でもないクヨさんのことを気にかけることもなく、休みの日にはパチンコに出かけるなど家のことの一切を礼子に押し付けていた。
さらに、克彦さんの実母も、礼子に冷たかったという。ただ、当のクヨさんだけは、礼子に対しねぎらいの言葉をかけてくれていた。

疲労困憊の礼子に追い打ちをかけたのが、克彦さんの「浮気」だった。

長女が生まれた直後、克彦さんは鹿島市内のスナックに足繁く通うようになっていた。たまたま仕事関係の人らと訪れたのがきっかけというそのスナックで、克彦さんは酔いつぶれては泊っていくようになる。
ママだった女性は、当時の週刊新潮の取材に対し、こう答えている。
「克彦さんはマージャンなどかけ事が好きで、店でひとしきり飲むと二階で徹マンをやり、そのまま泊まって朝私がコーヒーを淹れてあげてから会社に行く、そういうことも何度もありました。」
「克彦さんと関係ができたのは、店を開けてすぐです。当時の夫であるマスターと離婚することになっていて、それもあって克彦さんは2階で寝泊まりしていたんです。」
「克彦さんにはほかにも女性がいました。直接、「若い女がいる」と克彦さんから聞きました。礼子さんとの夫婦関係は冷え切っているように見えました。」

礼子は克彦さんのこの開き直ったともいえる浮気を知っていた。
礼子にそのことを教えたのは、ほかならぬママの夫であった。礼子は平成2年、なんと夫の浮気相手がママをしているそのスナックでホステスとして働き始めるのだ。
それには、抜き差しならない理由があった。

虐げられた日々

それでも当初は、克彦さんの好物である「いなりずし」を頻繁にこしらえては、たまに会う幼馴染に嬉しそうに話すこともあった。
少なくとも礼子は、この結婚を喜んでいたし、新婚早々から始まったクヨさんの介護もこなしていた。
しかし、克彦さんはおそらくそうではなかった。そもそも、克彦さんは礼子を「妻」として結婚を決めたのではなかった節がある。
出会ってすぐに結婚の話を持ち出し、1年もたたないうちに夫婦となったのには理由があった。

克彦さんは会社での評判も芳しいとは言えなかった。
チームで仕事をしているのに突然無断欠勤をしたり、どこか他人の迷惑を省みないところがあった。
金遣いにしても、年収に見合わない車を買ったり、ギャンブルも好きだった。釣りにも高額な道具を用いていた。もともと女性にもてるタイプだったのか、女性とのトラブルを金で解決した、という話もあった。
ただ、バブル直前の時代で年収も相応にはあったようで、当初は克彦さんが浪費してもなんとか家計は回っていたし、夫婦仲、家族の仲も傍目にはなんのトラブルもないかに見えていた。

しかし、あるスナックのママと克彦さんが浮気を始めたことで、事態は悪化していく。

平成2年のある日、一人の男が山口家に怒鳴り込んできた。
「(お前の夫が)浮気しとっと、知っとうとか!!そのせいでめちゃくちゃにされた、どうしてくれると!」
克彦さんが浮気していたスナックのママの元夫・Aさんだった。
実は、その1年前に克彦さんとスナックのママとの浮気は、このAさんの知るところとなっていた。二人の浮気現場をおさえたという。
妻であるスナックのママとは即離婚となったものの、Aさんがスナックのオーナーであったため、店だけは続けていた。
怒りを抑えつつ悶々と過ごしていたそのAさんは、それでも妻とよりを戻す意思があったが、妻は応じなかった。それにイラ立ったAさんは、その怒りの矛先を浮気相手である克彦さんに向けた。
同じように家庭をめちゃくちゃにしてやったらいい、そういう思いで山口家に乗り込み、150万円の慰謝料請求もした。
しかし克彦さんは動じる様子もなく、
「うん、よかよ。一週間待ってくれんね」
と事も無げに言ったという。それに拍子抜けしたAさんは、腹の虫がおさまらなかった。

「正直、克彦に妻ば寝取られたもんやけん、やり返しちゃれいう気持ちもあった」

おとなしそうな礼子は、Aさんの好みでもあった。
何度も電話をかけてきたというAさんの執拗な態度に、礼子は折れたが、内心では克彦さんの浮気の状況を知りたいという思いもあってAさんと会うことに応じたという。
ホテルに連れ込まれた礼子はAさんに強姦され、ヌード写真をポラロイドカメラで撮影された挙句、その後長い間その写真をネタにAさんと会うことを強要された。

「夫とAはグルだったと思います。Aは、妻に浮気をさせてその相手の男から金銭を巻き上げるような男です。自分を捨てなければどうしようもなかった」

礼子は後に、ルポライター・橘由歩氏に対して手紙でこのように書いている。克彦さんがAさんとグルだったと礼子が思うのにはいくつか理由があった。
Aさんが怒鳴り込んできたとき、いとも簡単に金を払った夫。その後Aさんからの脅迫めいた電話を録音して聞かせたにもかかわらず、放っておけばよい、となんの助けにもなってくれなかった。
さらに、Aさんが経営するスナックでホステスとして働くことを強要される。なぜ夫の浮気相手がママをしている店で働かなければならないのか。夫に訴えると、「子供は見よくから」と働くことを勧められた。
ヌード写真を撮影されたことで、礼子は警察にも訴えたが、警察が動いてくれることはなかった。
加えてその頃、山口家の家計は火の車だった。スナックのママ以外にも女性がいたという克彦さんは、家にお金を入れることもおろそかになっていた。

四面楚歌の礼子は、Aさんのスナックでホステスとして働くことを選んだ。
「私は泥沼を見ました。」
幼い子どもら3人を抱え、夫にも頼れないばかりか実家や夫の実家にも頼れず、礼子は流されるように「子供のため、私さえ我慢すれば」という気持ちにだけすがって生きるようになっていた。

家庭内ももはや冷え切るどころの話ではなかった。

運命の出会い

礼子は疲弊しきっていた。
そんな折、克彦さんと口論になった際、「お前はお手伝いさんたい」と言われ唖然とする。
平成4年の正月には克彦さんの母親からも、「克彦が離婚ば考えよるとよ。財産は全部こっちのもんやけんが。子供らも全部引き取ってうちで面倒ばみるけん」と追い打ちをかけられた。

Aさんとの関係はいまだに続いていた。仕事はパートを転々としてはいたが、自分一人で自立できるには危うく、ましてや子供たち3人を連れていけるわけもなかった。
さらに、家計が回らず、町内会の会費を60万円使いこむなどしており、その穴埋めのために山口夫婦は相当な借金があった。礼子名義の借金だけでもなんと一千万円に上っていたという。

そんな時、スナックを訪れたのが外尾だった。

克彦さんの母親から離婚の話を聞かされる少し前、礼子が勤めるスナックの客として訪れたのが、外尾だった。
外尾は礼子を指名し、接客下手な礼子にも優しかった。時には、経済的に困窮している礼子に対し、小遣いを渡すこともあった。
そんな外尾に対し、礼子は本来自分が求める男性像を見出すようになっていく。
会話の中で、礼子がAさんに脅されていることを知った外尾は、スナックの中でAさんを呼びつけ殴りつけた。
この時の外尾は、礼子にとってみれば「救世主」であった。この男こそ、自分をこの泥沼から引き揚げてくれる存在であると思えたのだろう。

Aさんの背後には暴力団があった。外尾は、それにもしっかり手をまわしていた。そのため、Aさんも礼子と関係を切らざるを得なかった。
外尾の登場で、礼子はその「泥沼」から抜け出せた。はずだった。

しかし外尾は白馬の騎士ではなかった。
外尾はこれまでも、女性を食い物にして金をせびってきていた。今回のターゲットは、礼子だった。
スナックに通ううち、礼子の境遇を嫌でも耳にした。礼子から直接話も聞いた。そこで、外尾はある算段をしたのだ。
Aさんに手をひかせ、男気のある所を礼子に見せた上で、礼子を食い物にしようとしていたのだ。
しかし、外尾の皮算用とは裏腹に、その後礼子と克彦さんは連れ立って、「また二人でやっていくから」とスナックを辞める挨拶をしに来た。
その時のことを、裁判で証人として出廷した外尾の知人は、「外尾は二人が元のさやに収まったと聞いて『金にもならんことをしてしまった』とボヤいていた」と話す。

礼子はAさんから解放され、夫もスナックのママと別れ、もう一度家庭を再構築しようとしていたように見えたが、その半年後、克彦さんが死亡する。
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外尾のそれまで

外尾は、昭和22年に佐賀県鹿島市で生まれ、小中と鹿島市内の学校を出た後、高校を2年で退学すると上京し、トラック運転手や遊技場の従業員として働いた。
昭和48年に結婚し、3人の子供にも恵まれる。
しかし、元来ギャンブル好きだった外尾は、結婚して間もない昭和51年ころから数百万の借金を負う。
さらに、妻に対する暴力行為もあり、昭和59年に離婚。
昭和63年には勤務していたバス会社で事故を起こし、実父の死去という事情もあって同年5月には佐賀の実家へと戻った。
外尾の父親は古物商で、父の死去に伴って外尾はその跡を継ぐ形で古物商を営むようになったが、それは形だけで、依然としてギャンブルにのめりこむ日々であった。
店の商品は次々に売り払い、武雄競輪、佐賀競馬、大村競艇とつぎ込んだ。店には売るものがなくなり、常にカーテンがかかっていたという。
一方で、地元の人々の外尾に対する印象はそこまで悪くない。
地域のどぶさらいにも参加し、近所の子供らにも気さくに声をかける優しいおじちゃんだったという。
外尾の拠り所は、自身の4人の兄と姉の障碍者年金だった。兄と姉らは、昭和28年ころから昭和53年にかけて相次いで精神を病み、全員が長期入院状態にあった。
そのため、障碍者年金を外尾が管理しており、それを担保に金融業者から借り入れをしたり、両親の共済金、さらには知人女性らから借り入れるなどしてそれらのほとんどをギャンブルに費やしていた。
当時、外尾を知るタクシー運転手は、
「いつもタクシーで乗り付けて、1レースに2~30万、時には100万円以上を突っ込むような賭け方をしていた。」
と話す。
博才はゼロに等しく、外尾が最終的に外した金額は、押収されたはずれ馬券などを計算すると3億8420万円である。

しかし、そんな外尾も、一部の女性からすると酷く魅力的に見えてしまうというからなおタチが悪い。
どこか危うい雰囲気、いや実際にめちゃくちゃヤバい奴だったわけだが、そういった普通の男とは違う外尾は、それまで真面目だったり、家庭に収まっているような平凡な主婦にしてみれば惹かれる部分もあったのだろう。
礼子と付き合う直前も、年上の女性を丸め込んで金を出させ続けていたという外尾。礼子に目を付けたのは、その金づるの女性と別れた直後だった。

殺害計画

事件後の裁判や報道では、吉則君の殺害にばかり焦点があてられ、最初の殺人である克彦さんの事件についてはスルーされている感が否めない。
それが、この一連の事件の真相を見え難くしていると私は思っているのだが、それは後述するとして、礼子はAさんと別れた後克彦さんとやり直していたはずだった。
しかし、克彦さんは新たに若い愛人を作るなどし、家庭を再構築する気などないかのようにふるまった。

そもそも、礼子はAさんに脅されて関係を強いられていたことを、そのトラブルの張本人である克彦さんがまるで他人事のようにとらえていたことに強い不満を抱いていた。
そこへ、克彦さんの実母からの言葉や、克彦さん自身の態度にその不満は次第に殺意へと傾いていた。
その理由に、克彦さんにかけられた多額の保険金の存在があった。

克彦さんは昭和47年に就職した後、保険に入っている。その後、平成3年までに、普通死亡保険金として3700万円、災害時死亡保険金として4900万円を、礼子を受取人として契約していた。
さらに、克彦さんの実母が別の生命保険会社の外交員であったことから、昭和60年にはそちらでも普通死亡保険金として4000万円、災害時死亡保険金として5000万円の保険にも入っており、そちらの受取人も礼子だった。
この、保険契約に関しては礼子はまったく関与していない。しかし、受取人であることや、保険の内容については当然知っていた。

日々の生活に疲れ、一千万円以上の借金があった礼子にとって、ふと、「この人が死んでくれれば」と考えたことは1度や2度ではなかったろう。不仲の夫婦であれば、礼子でなくともそのような考えをふとしてしまう人は少なくない。

しかし礼子は、それをかなり本気で考えていた。
その証拠に、礼子は外尾にさりげなく夫を殺したい、という意思を告げている。
話半分で聞いていた外尾に対し、実際の保険証券を見せるなどして、克彦さんが死ねば総額1億円に上る保険金が入ることを教え、さらには克彦さんが死亡することで礼子と外尾との新しい生活にも踏み出せる、そういって外尾を説得した。
この時期、二人の関係はかなりあけすけであった。
克彦さんの留守に、外尾の自動車が山口家に横付けされているのはしょっちゅうで、自らも愛人がいた克彦さんもそれを黙認しているという話もあった。

克彦さんの中では、おそらく礼子は本気で「お手伝いさん」だった。
自分は気ままに散財し、よそに女を作り、家庭のことは礼子に放り投げた。
こういうと、克彦さんだけが非情な人間に思えるが、そもそもとして山口家に養子に入った時点に話を戻してみたい。

クヨさんの資産を管理するための養子縁組だったが、高齢のクヨさんには「介護要員」が必要だったのだ。この当時、今ほど介護サービスは充実していなかったし、田舎では「嫁が介護するのが当たり前」であった。
山口家の財産を手に入れるためには、それと引き換えにクヨさんの介護を引き受けなければならなかった、だから、病院勤めの礼子は「ちょうどよかった」と言って差し支えないだろう。むしろ、克彦さんはそういった女性を探していたはずだ。

ただ、礼子もそれを「わかっていた」のではないか。でなければ、なんで高齢の介護待ったなしの人間がいる家に入ろうなどと思うだろうか。
しかも、手に職をつけるために入った看護学校を辞めてまで。
いずれ手に入る山口家の財産を、克彦さん同様礼子も「狙っていた」。
克彦さんとは、恋焦がれて夫婦になったというより、「損得勘定」での婚姻だったと私は思う。ていうか絶対そう。

もちろん、そうはいっても子供も生まれ、やはり愛情も育まれたとは思う。いくら損得とはいえ、礼子の結婚生活は礼子だけが損をするような日々が続いていたのも事実だ。
しかし、そもそもの始まりがそうであったなら、もはやこの男に用はない。
この男が消えさえすれば、経済的な不安も、泥沼のような生活も一緒に消えてくれるのだから。

いつもは自分の口車に女を乗せてきた外尾だったが、この時は、礼子に乗せられた。

平成4年9月11日

その日までに、礼子と外尾はどうやって克彦さんを事故死に見せかけて殺すかの相談をしてきた。
礼子運転の車で外出した際に、わざと川に転落し、礼子だけが脱出するという引田天功も真っ青の計画を立ててみたり、大雨の日を見計らって自宅横の増水した川へ突き落す、克彦さんの車のブレーキに細工するなど様々な方法を考えた。
結局、外尾の兄姉に処方された向精神薬や、礼子が不眠を訴えて処方してもらった睡眠薬などを食事に混ぜて克彦さんに食べさせ、釣りの最中に誤って海に転落したように見せかけることにした。

平成4年9月10日の夜、克彦さんの好物であったカレーを作ると、そこに薬を混ぜ込んだ。
日が変わり、11日の午前零時すぎ、ヨットの係留場脇の駐車場にやってきた外尾と礼子は、克彦さんを抱えて高さ8メートルの堤防に置いた。
子供達にもあらかじめ、今日は釣りに行くなどと話し、子供達にも睡眠薬入りのカレーを食べさせた。
意識もうろうとしている克彦さんに対し「お母さんが呼んどるよ」などといって車に乗せた。
釣りを装うために、餌や缶ビール、おつまみなども準備し、ことの後で110番するために駆け込む家まで決めていた。
意を決して、克彦さんを海へと転落させたが、海に沈んだはずの克彦さんが叫んだ。
「おいば殺す気か!!」
その声を聞いた外尾は、「刑務所に行きとうなかぁーー!!」そう叫ぶと海へ入って克彦さんを抑えつけたという。
礼子は、海から上がった外尾を自宅へ送り届け、すでに寝入っていた子供たちを車に乗せると再びあの海へと車を走らせた。
周囲に他殺を思わせるようなものがないかを確認し、さらには克彦さんの体をゆするなどして死亡していることを確認、克彦さんのサンダルを脱がすと、滑り落ちたことを表すためサンダルを堤防にこすりつけた。

そして、なぜここにいるのかもわかっていない寝ぼけ眼の長男と次男に対し、「お父さんが海に落ちたから助けに行って!」と促し、自分はかねてから目星をつけていた家に飛び込み、夫が海に落ちた、電話を貸してと取り乱して見せた。

警察の調べでも不審な点は見当たらず、礼子の証言だけで事故死として処理された。
そして、総額1億円近い保険金が、礼子の懐に転がり込んだのである。

しかし、礼子の生活は上向くどころかさらに地獄への一本道を転がり落ちていくことになってしまう。

数か月で消えた1億5千万円

礼子には、生命保険金のほか、克彦さんの退職金や団体定期保険、弔慰金なども振り込まれた。生命保険金と併せると1億円を超える額である。
当初、多額の保険金を受け取った礼子を心配し、礼子の実兄がその管理をし、礼子や克彦さんの借金の清算などをしていた。数千万円の借金を作った人間に大金を持たせたらどうなるか、それは誰もが予想しうることであり、実兄がそうしようとしたのも十分理解できる。
事実、多額の保険金を律義に借金返済に充て、残りの金については、子供達の将来のためにと管理することにしていた。
しかし、それでは納得できないのが外尾である。外尾は、生命保険金を受け取れるからこそ、礼子に持ちかけられた克彦さん殺害を承諾したのだから、兄にそれを握られたのでは意味がない。
連日のように外尾は礼子の兄宅を訪れては恫喝した。さらに、礼子に兄を告訴させたりもしたという。
たまりかねた兄は、保険金を全額渡し、今後外尾と別れない限りは一切の関係を断つ。実家の母やほかの兄弟にもそうするよう伝えた。

礼子はその金の半分をまず外尾に渡した。そして、今後2人が結婚して夫婦になった場合は、全ての金の管理を外尾に任せるという「念書」を書いていた。
二人はとりあえず3,000万円で借金を返済し、礼子が使う軽自動車を購入、外尾の兄姉の入院費などに使用した。
そして、克彦さんの死から数か月後には、外尾は山口家に入り浸るようになって内縁関係となっていく。
内縁関係となったことで、婚姻には至っていないものの礼子が書いた念書の通り、外尾は保険金を自由に使い始めた。
しかしその行先は案の定、ギャンブルだった。
平成4年10月に手にした1億円は、平成5年の夏までに底をついたというから外尾の博才の無さには同情すら禁じ得ない。
保険金が底をつくと、外尾と礼子は山口家の資産を食いつぶし始める。

これには実はきっかけがあり、以前たまたま山口家の近くにバイパス道路が抜けることになり、それに伴って田の一部を売却したのだが、それで思いついたとみられる。
そこから平成9年までの間に、930㎡の田を2,400万円で、農地1000㎡を3,000万円で、さらにミカン山も100万円少しで売却した。
それでも外尾の浪費には追い付かず、土地を担保に借金も重ねる。地元の資産家から340万円、自宅の土地を担保に数百万円、そして平成6年には大手消費者金融から1100万円の根抵当権を設定された。
土地の売買がうまくいかないときは、外尾が出てきてこう言ったという。
「自分も礼子に金を貸している。お宅に土地を買ってもらわんと金を返してもらえんで困る」

子供達の生活自体も困窮状態にあった。
礼子はいよいよどうにもならなくなる平成7年9月まで、無職であった。本来手にできていたはずの外尾の兄姉らの障碍者年金もすでに担保に取られていたため、日々の収入はほとんどない状態だった。
困窮から脱するために克彦さんを殺してまで手にいれた金は、礼子の実兄が懸念した通りになってしまう。
借金を清算したにもかかわらず、子供達の学校の費用も事欠き、光熱費や病院代などありとあらゆるものを滞納していた。
子どもたちが通う学校では問題にならなかったのかとも思うが、ある高校の関係者はこう証言する。
「本人が学校に来ていれば、たとえ授業料や給食費の滞納があったとしてもさほど問題にならなかった。リストラや家庭の事情で授業料を滞納する家庭は多かった」
実は、礼子の子供たちは協力して家事や弟、妹の面倒をみていた。
礼子は経済観念のみならず、子供のことに関しても両極端の評判がある。
特定の発音が苦手だった吉則君に対し、幼いころから言葉の教室に通わせたり、参観日にもPTAにもきちんと顔を出す料理上手な良いお母さんだったという人もいれば、幼い長女を保育園に預けっぱなしで自分の用事を優先させたり、食事の時間に自分が家を空けるとわかっているのに、あらかじめ子供たちの食事の用意をしておこう、という気配りができないといった話もある。
外尾と生活を始めてからは朝も起きられず、兄が妹の朝食を作ったり、自分たちでパンを買って登校する姿も目撃されていた。
実の兄からも、「金にルーズ」と言われていた礼子は、その言葉通り金がいくらあっても足りない女であった。

「夫と子供を殺した女が欲しかったもの~佐賀・長崎父子連続保険金殺人①~」への2件のフィードバック

  1. 管理人様、はじめまして。

    過去の事件について検索して、こちらに辿り着きました。

    本事件、本当に心が痛み、忘れる事が出来ない事件です・・。

    亡き劇作家の”つかこうへい”先生が、
    当時、女性週刊誌に事件ルポを連載されていたのですが、つか先生も涙ながらに吉則さんの心中を想像しつつ、取材感想を綴られ、
    フジテレビの「ニュースジャパン」では安藤優子キャスターが、やはり吉則さんの文章に涙ぐまれておられたような印象でした・・。

    痛ましい虐待の事件は現在も絶えませんが、何とか廻りの大人が救う事は出来なかったのかと・・。

    本サイト、管理人様の真摯な姿勢は勿論ですが、人間的な優しさや正義感、熱い思いが伝わりました。
    (小生、管理人様とはお考えの違う部分もございますが)

    これからも参考にさせて頂きますので良き更新を継続して頂ければ幸いです。

    御健勝をお祈りしておりますm(__)m

    1. 総太郎 さま
      はじめまして、コメントありがとうございます。

      私もこの吉則くんの作文には泣かされました。結末を知った上で読むわけですから、当然といえばそうなのですが、加えて、弟を助けられなかった兄、次は自分かと怯えて暮らした妹のことを思うと、これも大変辛いものですね。

      それでも子供たちは母の減刑を訴えた。ここに、それまでの母親としての礼子、他人には分からない何かを感じますし、だからこそ犠牲になった吉則くんが不憫でなりません。

      吉則くんと礼子はよく似ているんですよね。

      私は極端に物事を考える傾向もあり、また、子供が犠牲になる事件ではどうしても加害者に厳しい態度を取ってしまいます、そのあたり、時に読んでいて不愉快になることもあろうかと思いますが、お許しいただければと思います。

      また更新しますので、お読みいただき、コメントも頂戴出来れば嬉しいです。

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