但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください。なお、有料記事を無断で転載、公開、購入者以外に転送した場合の利用料は50万円~となります。
**********
悼む人
「あっ。あのー、野田ですけど……」
その日私は一本の電話を受けた。それは、野田さんの身元引受人である親戚の男性からの電話だった。
判決の日、私は西条市の野田さん宅の前にいた。
鬱蒼と草木が家へと続く小道を塞ぐ。車を停め、しばしその家を遠巻きに見た後、石岡神社の社務所を訊ねた。
「あぁ、今日判決かね……」
応対してくれたのは、8月に野田さんが縛られたままで助けを求めた宮司だった。
小柄な宮司は、遠くを見つめるようにこの出来事について語ってくれた。
「野田さんはね、たしかにここらの人に迷惑をかけとったんよ。乞食みたいなこともしよったしね。」
この土地へは移ってきたという宮司は、野田家の歴史についてはあまり知らないと話す。
関わりたくない、とまでは言わないまでも、野田さんを近くで見てきたものとしても、野田さんの死を防げなかったことに対しては複雑な思いをのぞかせた。
「昨日も弁護士が来てね、家をどうするかいうてうちにも相談に来たんよ。買いませんかーて言いよったけど、あの家だけではねぇ、駐車場にするくらいしか出来んし」
私は野田さんの墓の場所を訊ねたが、残念ながら宮司は知らないとのことで、かわりに近くの大きなお寺を紹介してくれた。
四国八十八か所第六十三番である、真言宗東寺派吉祥寺である。
八十八か所では唯一、毘沙門天を本尊とし、「くぐり吉祥天女」という貧困を取り除くという像もある。
平日の午前中、参拝客のいない吉祥寺の納経所を訊ねると、住職とスタッフの女性がいた。
身分を明かし、墓参りのために墓を探している旨伝えると、住職は台帳をめくりながら探してくれたが、野田さんの墓は管理していないという。
すると、話を聞いていた女性スタッフが、
「もしかして最近お亡くなりになった方?」
と話しかけてきた。2年前に、と答えると、「野田さんて、事件の?」と言われたので、そうであることを伝えると皆があー・・・といった感じになった。
話によれば、野田さんは新興宗教に入っていたため、お寺での管理ではないとのことだった。
私は裁判を傍聴し、ひとりぼっちの野田さんのせめてお墓参りをしたいと思っていることを伝えると、住職が深く頷き、こう提案してくれた。
「県外だけど、野田さんの身元引受の方の連絡先を知っているから、その方にあなたのことを伝えます。」
非常にありがたい言葉に感謝し、電話番号を伝えてその日は西条を後にした。
帰りの道中、判決公判の傍聴をお願いしておいた高知のべっぴんお姉さまからメッセージが来て、求刑通りの懲役16年になったことを知った。
野田さんはどう思っただろう。被害届けも出さず、決して光洋を悪く言わなかった野田さんは、単に光洋を恐れていたから何も言わなかったのか。
まだ分からないことがいっぱいある、そう思いながら私は松山道を走った。
野田さんの身元引受の親族から連絡をもらったのは、その日の夕方だった。
どこの誰ともわからない人間に連絡などしてこないのではないか、そもそも身元引受と言っても、近隣にたくさん従弟がいたのに、彼らは何もしなかった。現に、身元引受をしたのは、県外在住の親戚というではないか。
ならば身元引受をした人だって、押し付けられて仕方なく引き受けた可能性もあるし、わざわざ面倒くさいのに連絡は来ないのではないかと思っていたので、電話をもらって大変驚いた。
「あのー、イクちゃん(野田さんのこと)のお墓がどうとか聞いたんですが……」
かなりご年配、という印象を声から受けたが、私は誠心誠意をこめて、自分の身元とお墓参りに行きたい理由を丁寧に話した。
「そうですか。それはそれは、喜ぶと思います。行ってやってください。」
柔らかな口調でそう許可をくださったその方は、何度も「イクちゃん、イクちゃん」と野田さんのことを呼んだ。
私はふと涙がこぼれそうになった。裁判では野田さんの人生を、最期を、涙して悼む人などいなかった。近隣の人にとっても、野田さんははっきり言って「迷惑な人」であった。両親も妹も亡くした野田さんはこのまま忘れられていくのかな、そう思っていたが、少なくとも吉祥寺の住職や石岡神社の宮司、そしてこの親戚の男性は、野田さんの人生を、最期を悼んでいた。
だからこそ、同じ思いを抱いたどこの誰ともわからない私の申し出に協力してくれたのだ。でなければ門前払いでもおかしくはない。
少しだけ、心が軽くなった気がした。
彼岸にて
「これは……。無理やろ……。」
彼岸の入り、私は帰省していた息子を伴い、再び西条を訪れた。目的はただひとつ、野田さんの墓を「探す」ことである。
実はお墓参りの許可を得たまではよかったが、肝心のお墓の場所が定かではないという事態に陥っていたのだ。
吉祥寺の住職も、「山一つがお墓になっとるからね、場所がわかってないと探すのは無理だと思うよ」とおっしゃっており、さらに身元引受人の男性も、「イクちゃんのお墓、どこやったかなー、目印もないしねぇ……」という状態だったのだ。
せっかくここまで来たのに、引き下がる気は毛頭なかった私は、「じゃあ探してみます!」と意気込んでその墓地にやってきたのだが、甘かった。
見渡す限りの墓、墓、墓の中で、かなりの丘陵地に位置しているため探すと言っても相当な労力を覚悟しなければならなかった。
しかも、墓地の場所もここで合っているのかどうか定かではなかった。
ただ、野田さん宅の近くで、山一つが墓地になっている場所というのはここしかなく、どちらにしてもここを探さないというわけにはいかなかったのだ。
とりあえず他の墓参りの人にお墓を探していることを伝えたものの、「無理無理w」と笑われた息子はすでに戦意喪失、しかしおめおめと退散するわけにはいかなかった。
午前10時、捜索開始。
まずは二手に分かれ、端っこから攻めていけば見落としもないだろうと、よそ様のお墓をどんどん見て回る。区画整理もされておらず、朽ち果てた古い墓石も山のようにある中、見落としたら終わりだと言い聞かせて丁寧に見て回った。
2時間ほど経過して、雑草に隠れた側溝に足を取られて転倒し負傷した私は、春の山特有の噎せ返る匂いに辟易した息子と墓地中央の道路で再会したが、野田さんの墓は見つからなかった。
息子が野田家と書かれた墓を一つ発見していたが、そこにある名前が野田さんの家族の誰とも合致していなかったため、違うと判断。
まだ見ていない下の方を見てみよう、と再び二手に分かれた直後、ふと曲がった先の階段を下りた場所に、「昭和五十八年 野田育男 建立」という文字が飛び込んできた。
「あ。あ。あ。あ。あったぁーーー」
声を聞いて駆け付けた息子も、半信半疑だった。見つかるわけないと思っていたようだ。
墓のそばにある墓碑銘を辿ると、そこには9歳で亡くなった野田さんの妹の名前があった。間違いない。
しかし、あるはずの野田さんのお母さんの名前はなかった。おそらく、野田さんの力では埋葬後にすべきことなどわかりようもなかったのだろう。
このお墓は、野田さんの父親が昭和58年に亡くなった際、長男である野田さんの名前で母親の綾子さんが建てたのだろうなと想像した。
今は野田さんの遺骨も収められているだろうけれど、墓碑銘は父親で止まったままだった。
思っていたほど墓は荒れておらず、息子と二人簡単に掃除をして、好きだったというお酒と花を供えた。タバコも好きだったというので、代わりに私が吸っておいた。
正直、見つからないかもしれないと私も思っていた。たまたま目星をつけた墓地の場所が合っていたこと、探した順番が良かったことで見つけることが出来たが、こんなことをいうとシラケるかもしれないが、もしかしたらなにかに教えてもらったのかもしれないと思った。
(って思いたいほどめちゃくちゃ墓だらけだったのよ、数千はあるとみんな言っていたのよ……)