ずるいヤツら~新生児殺しを誘発する人々①~




まえがき

妊娠は、本来誰からも祝福されるものだ。新しい命が宿り、十月十日を一緒に過ごし、ともに親子へと成長するその過程は、母親となる女性にとっても素晴らしいことである「はず」。

しかしその妊娠が、自分の人生をより困難に、時にはぶち壊す存在にしか思えなかったとしたら。
その存在が、自分や今いる家族のなかでまったくの「不要」なのだとしたら。

虐待とは少し違う、最初から要らなかった、生まれてもらっては困る命をその手で葬る母親がいる。当然彼女らは責められ、社会的、法的に責任を取らされ、世間からは鬼母、異常者、馬鹿者と罵られる羽目になる。
ただそれまでの過程を見てみれば、母親が一貫して「いらない」と思っていたというわけでもないケースが多々見受けられる。むしろ、そう思えなかったが故の、というものもある。それはひとえに、新生児殺しが母親「以外」の要因があってこそ、起こるものであるからだ。

自身の命を懸けて出産したわが子を手にかけざるを得なかった母親たちの陰で、神妙な表情をしながら目を泳がせている人々の存在に焦点を当ててみたい。





特徴

わが子を殺害するという事件は、悲しいことに毎月のように日本のどこかで起きている。発覚しているだけでも少なくないのに、事件性がないと判断されてしまったり、そもそも発覚していないケースも含めると相当な数にのぼる。

その虐待、子殺しには多岐にわたる原因がみられ、被害者像も加害者像もさまざまであるが、その中で、多くの共通項や、事件が起こる要因に道筋のようなものが見受けられる、そういったものがある。
それが、新生児殺しである。

たとえば虐待の挙句、死なせてしまうといったよくあるパターンにおいて、その虐待が発生する時期というのは一概に言えない。
生後2~3か月ころからということもあれば、4~5歳になったころ、というケースもあるし、当初は何の問題もなかったものが、養育者の環境の変化などで一変してしまうといったケースもあり、虐待への道筋がついていたわけではない。
最初から虐待されると決まっていたわけでもないし、家族全員に疎まれたり、その存在すら知られていないといったケースは稀である。
多くの虐待を行った親でも、誕生したときは家族で祝い、愛らしいわが子の写真を撮るなどしている。最初からではなく、生まれてからのどこかで変わったのだ。
虐待を加える人物も、実父母、実祖父母、養父母などさまざまである。




しかし、新生児殺しをみてみると、その発生時期は出産直後に集中する。新生児は生後約1か月までの赤ん坊を指すが、そのほぼすべてにおいて出産直後に行われている。
また、その赤ちゃんの存在はほとんど母親以外には知られておらず、よって、母親が産気づいたことも出産したことも誰も知らないわけで、結果として新生児殺しを行うのは母親であることがほとんどだ。

そして、一番の特徴は妊娠中から「不要」とされていることがほとんどであるということだ。

それは、当の母親が「不要」としているケースよりも、むしろ周囲の人間があからさまか否かにかかわらずそういった感情を抱いているということが多い。
ようは、周囲から歓迎されない妊娠である。
それを母親自身はそう思っていなくとも、周囲の様子や、周囲に歓迎されないということで相談もできず、一人抱え込んでしまったが故の新生児殺しに発展してしまうのだ。
もちろん、母親の思い込みもあろうが、それについても母親にそう思い込ませるだけの理由というものがやはり見受けられる。

以下、子どもの虹情報研修センター(川崎二三彦センター長)が発表した新生児殺しについての二つの研修資料(平成22年度、平成29年度)をもとに、新生児殺しについて考察してみたい。

時代別に考える新生児殺しのかたち




江戸時代から昭和初期にかけて

遡れば昔から、貧しい農村を中心にいわゆる「間引き」という新生児殺しが行われてきた。因習、宗教的な観点から「子返し」などとよばれることもあった。
安全な中絶手術が確立されていなかった時代、春を鬻(ひさ)ぐ女性たちの間では、妊娠したら客が取れないことから「鬼灯の芯(根っこ)」を差し込んで流産を引き起こすといった荒い手段が用いられたり、生まれたばかりの赤ん坊を母親が強く乳房に押し付けて窒息死させるといった悲しい方法も用いられた。
五社英雄監督の「吉原炎上」でも、名取裕子扮する花魁・若汐(紫太夫)が鬼灯の芯を差し込むシーンがある。
(実際には鬼灯に含まれる成分ヒストニンが流産を引き起こす性質を持っており、煎じて飲んだりしていたといわれる。)

また、明治にはいってからも出産は自宅で行われることが多かったため、産婆による間引きも相変わらず行われていた。
産婆が無言で赤子の首をひねる、なんていうのは嘘ではない。そういった時代はあったのだ。そうしなければ、一家が食べて行かれなくなるという厳しい背景があった。
また、圧倒的に女児が葬り去られることのほうが多かったという。これも、一般人レベルでの家督存続など今では価値もないようなことが、この時代は重く考えられていたことによるものだろう。

歴史において、こういった間引きは禁止されていたとしても罰則がなかったことから、新生児殺しは間引きとして他の子殺しとは一線を画していた。生後間もなければ間もないほど、その命を奪うということは重く考えられていなかった面もある。
明治41年になってようやく、堕胎罪が設けられ(厳密には明治13年の旧刑法でも定められた)、それが現行法となっている。

大正昭和初期までを見てみると間引きが主流だったのに対し、昭和に入ると、新生児殺しに変化がみられる。
雇い主と女中、奉公人、または出征した夫の父親(舅)との不適切な関係(ほとんどは立場を利用した男性側の無理強い)などでの妊娠も増え、結果として新生児殺しに至ってしまうというケースが増えてくる。
興味深いこととして、この時代の「身分の違いにおける死産率」の統計があるのだが、非嫡出子は、嫡出子、庶子(婚外ではあるが父親が認知している子)の倍の確率で死産となっているのだ。怖い。完全に誰かなんかやったやろこれ。(出典:鈴木由利子 「間引きと嬰児殺し―明治以降の事例をてがかりに」)
この時代では、いくらその程度が軽かろうとも、見た目に障害を持って生まれた子(たとえば手指の欠損、口唇裂など)をとっさに殺害してしまうといったことも少なくなかった。

戦後、子供の数は増え、ベビーブームなどもあったことで一見すると新生児殺しはなりを潜めたかにも思えた。
しかし、実際には1950年代から1970年代初頭にかけても、新生児殺しは延々と続いていた。




コインロッカーベイビーズ

高度成長期を経て、時代は皆少しずつ豊かになっていた。と同時に、それまでのような間引きという意味での新生児殺しではなく、生死にかかわらず「遺棄する」というものが増えた。
また、それまでの新生児遺棄というのは、少なくとも産院や寺、お金持ちの家の軒先や人目に付きやすい場所に、それこそ親の精いっぱいの愛情である毛布やおくるみ、粉ミルクなどとともに「命を救う」前提でなされるものが多かった。が、同時にそれは親の存在が明るみに出る、特定されることも多かった。

しかし1970年代頃には、様々なサービスの無人化が進み、女性も自由に振舞い、若い人々の意識も大きく変わったころである。男女の出会いも親の紹介や職場以外に、ナンパや時にはレイプまがいの行きずりの行為も増えた。
しかし、日本人特有の「恥」という概念は根強く残っており、家族に妊娠を知られたくない未婚女性や、たとえ医者にであっても望まぬ妊娠をしたことを知られたくない、未婚で妊娠、ましてや出産など、死にも値するほど恥ずかしいこと、そういった考えを持つ人も少なくなかった。
中絶を行う医院はどことなく陰惨なイメージがつきまとい、そこで勤務する医師や看護師からも、冷たい視線を向けられるなどとにかく中絶という行為は犯罪に等しかった。

核家族化が急速に進み、父親不在、前時代の凝り固まった母親、そういった家庭で悩みも打ち明けられず、結果遺棄するしかないといったときに、駅に登場したコインロッカーはもってこいの存在だった。


(JR鶯谷駅に隣接するコインロッカー内から、死後4~5年経過した乳児の遺体が発見された。母親は4~5年前にコインロッカーに遺体を入れ、2018年に逮捕されるまで料金を払い続けていた。ちなみにこのストリートビューは2017年のもの。お察しください。)

1970年代には、71年に初めて渋谷のコインロッカーで乳児の遺体が見つかって以降、年に数件の頻度で起きていた。それが、1973年には50件近いコインロッカーへの新生児、乳児の遺棄が行われている。
この時代、子供の事件にとどまらず、社会的な問題はすべて母親に由来する、そういった偏見がまかり通っていたこともあり、戦後の自己中心的な考えで育った母親の身勝手な行為だと受け止められていた。

ただ、この年代がそれまでに比べて新生児殺しが多かったのかというと全くそうではない。しかし、社会情勢や経済の向上など、もはや過去の間引きに見られるような新生児殺しの必要性がない時代において、新生児殺し、新生児遺棄というのは母性喪失、そういった視点で語られるようになったのだ。




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