ずるいヤツら~新生児殺しを誘発する人々②~

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家庭内、校内暴力から10代の母へ

社会的な問題、病理として問題視された1970年代の新生児殺し、遺棄は、1980年代に入るといったん世間の注目から離れる。
というのも、校内、家庭内における荒れる10代の事件が続発し、そちらに注目が移ったのだ。
ただ、10代の妊娠や未婚での出産などがある一定の層で「認知」され始め、それまでは恥だった10代の妊娠出産がいわば「もてはやされる」「憧れとなる」ケースが出てきた。
時代はヤンキー全盛、若い世代においてヤンキーと呼ばれる昭和の不良はカーストの上位に君臨する。裕福な家庭で育っても不良はいたし、ちゃんと学校(高校)に行く不良というのが多かった。1980年代の少女漫画「ホットロード」は、ある意味10代の少女の教科書であり、あこがれだった。
そこには不良少年少女同士の恋愛ではなく、必ずまじめな優等生と不良少年の組み合わせが出てきた。およそ不良とは呼べないような少女たちも、どこかそういった世界にあこがれを抱いていたのだ。

そんな彼らの中で、若くして妊娠する、というのはある種のステータスでもあった。

大正から昭和にかけての「15でねえやは嫁に行き」的なことではなく、法律で認められる16歳~18歳、とにかくこの10代での妊娠はこの時代多かったし、1970年代と違ってそれを望み、若くして母になることに喜びを見出す人も少なくなかった。
若い母親は同世代の少女たちには格段に大人に見えたし、なにより、愛する人の子を産む、ある種ロマンチックでさえあったのだ。
もちろん、産むことができない少女もいたが、その場合は友人らによる「中絶カンパ」が回ってくるのだ。このころは皆がわがことのように思っていたのか、今の時代よりも友達には話せる、そんな空気感があった。

このころ、10代の若い母親よりも、むしろこの時代でいう「中年層」、30代から40代にかけての主婦たちが新生児殺しを行っていた。
しかも、すでに上に兄姉がいて子育てをしている立場の「母親」による第2子以降の新生児殺しである。
さらに特筆すべきは、それを一度ならず2度3度、なかには5人以上の新生児を殺しているケースもいくつも見られるのだ。
時代はバブル真っただ中、日本中が中流と呼ばれ、程度の差はあれども夫を持つ主婦がまるで明治時代の貧しい農村のような生活をしているとも思えないが、彼女らが行ったそれはまさしく「間引き」であった。

相対的貧困という概念

現代においても、この相対的貧困という言葉は子供の福祉をめぐってしばしば取り上げられるが、1980年代からすでに犯罪心理学などで有名な内山絢子氏らによって重要視されていたものだ。
この相対的貧困、というのは、ある程度の生活水準を満たしたうえでの「余裕のなさ」をいい、時代によって変化する。明治~昭和初期の寒村に比べれば夢のような裕福な時代である1980年代においても、当然相対的貧困感を抱く家庭は少なくなかった。
むしろ、多くの家庭がものにあふれ、子供たちは労働力ではなく未来を担う人材として教育や娯楽などが湯水のように与えられる状況下において、そこにあと少し手が届かない、たったそれだけでも絶望的な貧困感となってその人々を打ちのめしたかもしれない。

事実、より貧困にあえいでいたはずの戦後、新生児殺しのおよそ9割は非嫡出子である。しかし、1979~80年代においては、約半数が嫡出子であり、新生児殺しにおいては絶対的な貧困の水準ではなく、時代によって変化する相対的な貧困感が関係しているといえよう。
心の豊かさよりも、物質的な豊かさが求められ、家庭にあってしかるべきもの(電化製品、車、楽器、ゲーム類)が一目でわかり、それがない家は「貧乏」とされた。
1974年生まれの私が育った田舎を思い出しても、小学校のころ、女の子のいる家にはどの家も、ほぼピアノがあった。うまい下手は別として、たいていの子はピアノが弾けた。ない家は、お母さんが働いていないか、あるいは専業農家、畜産農家であった。

田舎あるあるだが、家族で買い物に行く際、「乗用車」があるかどうかも重要だった。田舎だから軽トラや箱バンはあった。が、それでは家族でお出かけはできない。
乗用車のない家の子供は、必然的に家族でのお出かけはなく、あっても近くのスーパーだった。
私はその時代でいえば裕福なほうだったのと、弟が生まれるまで8年間ひとりっ子だったので、月に1~2度は100キロ離れた松山のいよてつそごう(現伊予鉄高島屋)へ買い物に出るのが楽しみだったし、その翌日の登校日には、真新しい、田舎の文房具屋では絶対売っていないサンリオの文房具をランドセルに入れるのがなによりのマウントだった。

兄弟が多い家はよほどの裕福な家庭でなければそうはいかなかった。子供でさえその辺のなんとなくがわかるのだから、当の親たちはひしひしと感じていただろう。
ちょっとの余裕のなさが、とてつもなく大きな差に思えた時代。そんな中で、間引きはひっそりと行われ、発覚するまでそれは繰り返された。
ただこの1980年代における新生児殺しもまた、母親だけの秘密であることがほぼすべてで、ゆえに何度もそれが繰り返される要因ともなっていた。当然、夫や同居の家族(舅、姑)の無理解がそこにあるのは言うまでもない。
これを母親の無知、無教養と断罪してしまえば話は終わりだが、ここへきてようやく、専門家や有識者の間でも「父親の無理解、無責任」という視点が出てくるようになっている。

平成の時代には、さらにその周囲の無理解、無責任が際立つ事例が目立つことになる。

生物学上の父親という存在

1990年代以降、それまでと同じように子育て中の母親による間引き、未婚の女性による新生児殺しはあったが、特筆してそれまでと変わったことの一つとして、新生児殺しに至った理由の変化がある。

それまでにおいては経済的な問題が理由として多かったのに対し、1990年から2000年代にかけては、生物学上の子の父親との関係性をあげるものが経済的な問題を上回った。
割合にすれば経済的理由が6割であるのに対し、父親との関係は8割超である。
また、被害者となった新生児は、その時点で非嫡出子の立場であるケースがほとんどで、加害者となった母親は既婚であっても夫との間の子ではないケースが増えていた。

また、2003年から2008年までの5年間に、新生児殺しを犯した女子少年(15歳から19歳)18名についての調査もあるが、保護者に相談した女子はおらず、逆にこの父親に当たる交際相手に相談したのは11人だった。
ただ残りの7人はそもそも相手と連絡が取れない(一晩の関係だったり、妊娠判明時には交際していなかったり、相手がわからない)状態であったことから、父親が判明している女子は全員が相手に相談している。
しかしその全員が、相手から優柔不断な態度を取られたり、無関心を貫かれたり、挙句、自分が父親という証拠があるのかなど冷たい態度をとられたことで一人思い悩む羽目になっていた。

中絶しなかった理由については、「産むつもりだった」り、「交際相手に先延ばしにされて時期を逃した」り、そもそも中絶の費用を捻出できない、そういった理由だった。ただこの、時期を逃したというものの中には、女子の思い込みや勘違いも含まれる。
また、交際相手に嫌われまいとする中で、強い態度に出られなかったものや、交際男性の無責任かつ無知な、たとえば「妊娠は気のせいかもしれないから様子を見たら?」などといった発言を鵜呑みにしてしまったもの、あるいは女子本人もその「希望」にすがってしまって気付いたらどうにもできないところに来ていた、そういった事例が見られた。
1970年代に見られたような、誰にも言わずにいわば母親の独断でやってしまうというものより、交際相手との関係を重視した結果のものがほとんどである。
ここでひとつ確認しておきたいのが、この生物学上の父親たちは、自分と性的関係にあった女子の妊娠を知りながら誰もが積極的にかかわることをせず、なにか知らんふりをして耳をふさいでいればすべてが消えてなくなるとでも思っていたのか、全員が全員アホである。
新生児殺しにおいて、この生物学上の父親という存在については、後半で思う存分罵りたいと思う。

このような結果について、調査を行った現・佛教大学教授で犯罪心理学が専門の近藤日出夫教授は、
「加害女子少年らが避妊や出産に関して驚くほど無知であること、親や友人に対しても本心で援助を求めることができないほど人間関係において孤立していた」
「彼女らには社会的な資源や援助の場を知り、利用するという力が欠けており、性教育や妊娠女性への支援の充実だけではすべては解決できない。本研究が示したように、嬰児殺にまで至りかねないリスクを多かれ少なかれそれぞれの女子少年が背負っていることについて、親を始めとした身近な大人たち一人ひとりが理解を深め、彼女たちに対する気遣い、配慮をきめ細かく行っていくことが最も重要である」
(以上、「女子少年による嬰児殺の研究」 犯罪社会学研究,33,157-176.)
とまとめている。