22週~昭和の少女と、いつくしみ深きまなざし

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子を宿すということは、場合によって悲しい事件に直結する。
経済的な問題、交際相手との離別、その理由はさまざまだろうが、子供を産むことを断念せざるを得ないこともある。
日本では妊娠を継続することで母体に経済的、身体的に著しいダメージを与える場合や、レイプなど女性の意思に反する形で妊娠したケースにおいて22週未満であれば中絶が認められている。

ところが、この週数を過ぎてしまうといかなる理由においても「人工中絶」は認められない。
胎児が母体を離れて生きていける週数が関係しているわけで、それ以降は母体に危険が及んだための緊急手術であっても、子どもの救命を考慮した方法を優先させる必要がある。

今の日本では、中絶手術自体を知らない、あるいは知ってはいるが週数が決められているということを知らない、という人は特に成人女性においては少ないのではないかと思われるが、未成年者となるとその辺りの知識はかなり危うい人もたくさんいるだろう。

さらに、どれだけ知識があっても中絶自体、ハードルが高い。
おそらく初めてであろう産婦人科へ行き、現実を突きつけられ、中絶するにしてもタダではない。未成年者がおいそれと用意できる額でもない。
そうなった時、腹をくくって親兄弟に相談できる子たちは、救われる。
しかし誰にも言えずに時間だけが過ぎてしまったら。

最悪の決断をしてしまった昭和の10代の少女たちと、彼女らに慈しみ深い眼差しを向けた裁判官の話。

金沢の事件

ひとつ目の事件の少女は、昭和40年に松本市で生まれた。ここでは少女を「ユミ子」と呼ぶ。
両親と姉との暮らしだったが、ユミ子が小学6年生の時に病気療養中だった父親が死去。胃癌だった。
厚生年金があったが母親も病気がちで、中学を卒業した姉が就職して家計を支えていたという。世の中が皆、それなりに生活が向上していく中で、ユミ子の家庭はあえいでいた。

しかし、ユミ子はそんな生活の中でも溌溂とした中学校生活を送り、勉強や部活動のみならず、各種委員としても活躍しており、周囲からもまじめで頑張り屋という印象を持たれていた。
家でも、働いてくれる姉、病気がちの母に代わっ家事を担い、社会性も年相応に身につけていた。

ところが、希望していた高校に入学できなかったことで心に穴が開いていたのか、高校生になってからのユミ子はその生活が少しずつ乱れてきたという。
ある時、ユミ子のことを気にかけてくる男子生徒の存在が上級生に知られ、そのことで嫌がらせめいたことをされてしまう。ユミ子はだんだんと学習意欲を失い、その心のよりどころを同じ年頃の少年らに求めるようになっていった。

お手本のような転落

当初交際していた少年とは長続きしなかった。その少年が別の少女にも気のある素振りをすることで嫌気がさしたユミ子は、その少年の友人・浩司(仮名)と親密になっていく。浩司とは同じ高校だった。
浩司と交際を始めたユミ子の素行は目に見えて悪くなっていった。
あれほど母を思い、母を支えていたユミ子の帰宅時間はどんどん遅くなり、見かねた母親が再三にわたってきつく叱っても、ユミ子の生活態度が改まることはなく、高校2年になると新学期早々、浩司とともに学校をさぼり、浩司の家で遊んでいた。

ところがそれを浩司の母親に見つかってしまい、二人してこっぴどく叱られてしまった。当然、家にも連絡がいっていると思ったユミ子は、浩司の祖母方に無断で忍び込むとそのまま無断外泊してしまう。
ユミ子と浩司の家では大騒ぎとなり、学校のみならず警察に捜索願が出される事態となった。そのためますます出ていきにくくなってしまったふたりは、なんとか友人に連絡を取ってその家に匿ってもらっていた。
しかし友人の家族らに説得され、二人はそれぞれ自宅へと戻った。
とりあえず一件落着かと思われたが、その日の夜、ふたりは駆け落ちすることを決めた。

ままごと

駆け落ちと言えば聞こえがいい(?)が、実際はただの現実逃避でしかなかった。
浩司もユミ子も、学校に知れている以上何らかの処分はあるだろうし、そもそもふたりとも学校生活のみならず、それぞれの家庭の束縛にも嫌気がさしていた。
ユミ子16歳、なにができるはずもなかったが、ユミ子は二人の逃避行の資金として68万円を家の口座から引き出した。
そして、二人は長野から直江津へと逃げ、4月21日金沢へたどり着いた。

金沢で二人は偽名を使い、年齢を偽って部屋を借りた。持ち出した68万円は、金の使い方を知らない二人の前に、すでにそのほとんどが残っていなかった。
浩司は弁当店で、ユミ子は靴屋の売り子として働き始めたが、世間を知らない未熟なふたりはたった一週間で仕事を辞めた。

しかし金がなければ現実逃避も立ちいかず、二人はいったん松本へ戻った。
考えを改めたのではなく、浩司が置いてきた預金通帳の残高3万円を持ち出すためだった。そしてそれを手に、再び金沢へと戻ると、ユミ子はパーラーの店員の職を得た。
ちなみにここでいうパーラーは、喫茶店を意味している。

ユミ子は職を得たが、浩司の職探しは難航した。仕事はあるにはあったが、いずれも運転免許が必要なものが多かったのだ。免許不要の職もあったが、高校も出ていない手に職もない浩司のできる仕事に限れば、稼ぎはぐんと減ってしまうのも容易に想像できた。
焦る気持ちはあったが、一方でユミ子が職を得たことで「なんとかなるのではないか」という甘い考えがよぎり始めた。そして、いつしか浩司は職探しの意欲をなくしていった。

ユミ子は、することもなく家に引きこもっている浩司を心配しつつも、日々慣れない仕事に追われ、しかも辞めることはたちまち生活が立ちいかなくなることを意味するため、それもできなかった。
ユミ子と浩司の間には次第に会話もなくなり、かといって松本に帰ることも今更できず、ふたりはもはや何のために一緒にいるのかすら、わからなくなっていた。

妊娠から破滅へ

八月、ユミ子は体の異変に気付く。一通りの知識があったユミ子は、まず浩司にその事実を伝えた。が、ユミ子自身、子を産み育てる気もなかったし、現実的に不可能だということは分かっていた。
浩司はただ「中絶して来い」と言うだけで、その費用を出すことも、病院に付き添う気配すらなかった。
ユミ子は一人病院へ行くことも考えはしたものの、その敷居はあまりに高かった。
松本へ帰ろうか、そう思ったこともあったが、今更母親に合わせる顔もなかった。
一方の浩司も、ユミ子が中絶したかどうかが気になっていた。何度かユミ子に問い質すも、ユミ子もあいまいな返答に終始した。

浩司は12月になって突然、松本へ帰った。
そして、こっそり母親の通帳から43万円を引き出すと、それをユミ子に手渡した。
中絶費用だった。
ところが産婦人科への付き添いは断固拒否した。ユミ子に金を渡すだけ渡したことで責任を果たした気にでもなっていたのか、それ以降、真剣に話をすることはなかったという。
ユミ子は一人で病院へ行くことがどうしてもできなかった。
現実から目を背けるかのように、ユミ子は浩司が用意した金を家具や食費の購入に消費し、気づけば中絶が可能な22週をとうに越してしまっていた。

浩司はこの頃、もはや廃人のようになっていたという。食事もろくに摂らず、体力は衰え歩行もままならず、排せつまでそこいらの空き瓶などで済ませるような状態だった。
ユミ子も日々大きくなるお腹を抱えながら、浩司には「子どもはおなかの中でもう死んでいる」「松本の母親に相談して何とかする」などというばかりだったが、結局、浩司もそれがユミ子の嘘だと気付きながらも、具体的な話し合いを避け、そして4月を迎えるころには、「無事生まれても殺すしかない」と、二人ともが思うようになっていた。

その日

5月3日、ユミ子は午後10時ころから激しい腹痛に襲われた。これが陣痛か。痛みの逃し方を教えてくれる人もいない中、ユミ子は必死に痛みに耐えていた。
痛みの感覚は次第に狭まり、強さもどんどん増していく中で、浩司に救急車を呼んでほしいと懇願した。
しかし浩司はそれを黙殺、この期に及んでも浩司は居所を家族に知られて叱責されることを恐れていた。

そして、午前二時。

アパートのベッドの上で女児を出産した。

ユミ子は生まれた娘の顔を見たろうか。ふたりはそのまま女児の顔面および口を押さえ、女児を死亡させた。女児の死因は、脳機能麻痺、とその後判明した。

ふたりは女児が死亡したことを確認すると、遺体をビニールに包み汚れたシーツやタオルなどと一緒に段ボールに入れ、押し入れに隠した。
ユミ子は後産の痛みからアパートの共同トイレにこもり、その際に胎盤を排出したという。
汲み取り式ではなかったのか、胎盤を拾うと台所の生ごみと一緒に捨てた。

我が子を共謀して殺害したユミ子と浩司。
若い二人はその後どうしたか。ふたりはそのまま同居を続けたが、もう、会話もなくなっていた。
行く場所も、戻る場所も、もうない。ただそれだけの理由で、ふたりは黙ったまま、その翳る部屋で何度も朝を迎えた。

性の冷酷な逆襲

昭和58年9月14日、金沢家庭裁判所の原田晃治裁判官は、ユミ子に中等少年院送致の決定を下した。

ふたりはその後も3か月にわたって娘の遺体を自分たちが暮らす部屋の押し入れに隠し続けていた。ユミ子はしばらくの休みを取ったのち、再びパーラーで働き始めていたが、7月に入ってようやく浩司と住まいを分かつこととなっていた。
しかし同じ頃、勤務先のオーナーから、「妊娠していたのではないか」と尋ねられたことから、ユミ子は思わず本当のことをありのままに話してしまった。
驚いたオーナーがそれは大変なことだから親に相談するよう説得されたが、ユミ子は母親に生活費の無心をするにとどまり、自分と浩司が犯した罪については一切話さなかった。

では事件はなぜ発覚したのか。

きっかけは浩司だった。
ユミ子に出ていかれ、生活に窮した浩司は自転車泥棒をした。その件で警察から実家に連絡がいき、駆け付けた母親と叔父によって松本に連れ帰られることになっていた。
そして、母親と叔父がアパートの後片付けをしていた際、どこからともなく漂ってくる異臭を不審に思い、部屋をくまなく捜したところ、腐敗した女児の遺体を発見、ここに事件が発覚した。

松本家庭裁判所は、鑑別結果を踏まえ、ユミ子は知能も正常であり、年齢相応の社会性や価値観を持ち、経済的に恵まれない幼少期であったにもかかわらず中学まではまっすぐに成長してきたとし、この事件の背景にはこの時代特有の「性」を開放的なものと考える社会風潮があると指摘。
未熟な17歳の少年少女が、好奇心のままに異性との交際、家出、安易な性交渉をした結果の妊娠、出産そして殺害遺棄という結果に陥ったことは、いわば「性の冷酷な逆襲」を受けたものであり、ユミ子と浩司だから起きたもの、とは言えないとした。

そのうえで、ユミ子に人格的なある種の傾向や、反社会的な行動がこれまで見られなかったことを踏まえ、ユミ子に必要なのは人格矯正ではなく、自己の罪に向き合いその責任をとらせることにある、とした。
ということは、社会に与えた影響を考えると保護処分ではなく、むしろ刑事処分が相当とも言えるとしたが、それでもユミ子に必要なのは適切な教育すなわち、今後生きていくうえで直面するであろう危機的状況に適切に対処できるようにすることが望ましいと述べた。

たしかにユミ子はその人格面において、幼少期から特段偏りがあったわけでもない。それが、思春期特有の異性との関係や周囲の大人への反発から、大きく判断を誤ったことは事実である。
未熟な子供は、一旦判断を誤り、そしてそれがどんな形であれいったん問題が解消されたと錯覚であっても思えたならば、そこからは転がり落ちるように同じ過ちを繰り返し始めるのだ。
「もう二度としない」ではなく、ある種の解決方法を見つけたような気持にさえ、なることがあるという。経験値というか、根拠のない自信という名の「自暴自棄」。

ユミ子は浩司と別居したが、その理由は新しい恋人の存在だった。そして、望まぬ妊娠をして最悪の結末に至ったにもかかわらず、またその恋人と安易な性行為をしていた。
裁判所はその事実にも当然触れ、
「自らの身勝手のために親としての責務を放擲して断つ、という重大かつ悪質な犯行であるにもかかわらず、(中略)産後の体力が回復するや他の男性と安易に性交渉を持つなど、事件の重大性についての認識が必ずしも十分でない」
と批難している。

一方で、ユミ子の家庭を見てみれば、このような状況のユミ子をあたたかく包み込むどころか、この期に及んでなお母親がユミ子を経済的、物理的に頼りにしているという現状があったという。
病弱ゆえに仕方のない部分もあったろうが、裁判所はそのような家庭にユミ子を戻すことにはためらいがある、とした。
だからこそ、専門家による指導と、じっくり、ゆっくり自分とその罪に向き合う時間が取れる適切な環境が今の、そして今後のユミ子の人生には必要だとして、中等少年院送致の判断とした。
その期間は、決して長ければよいというものでもない、と付け加えられている。

この審判はユミ子単独のものであり、浩司についての資料はない。しかし、ユミ子の審判の過程で、生まれた赤ん坊を殺害したのは浩司との共同正犯とされていることや、その後の生活ぶりなどからも当然、浩司も罪に問われたと思われる。

それにしても、「性の冷酷な逆襲」という表現はこの上ないものであると思うと同時に、家庭裁判所の厳しくも慈愛にあふれた決定文もまた、素晴らしいものに思える。

千葉の事件

次のケースは昭和48年と少し古いが、心に響く判決文選手権で上位に食い込むのではなかろうかと思えるほど、深く深く、罪を犯してしまった少年少女への愛に溢れる決定文が書かれた事件である。

千葉の少女

前にならって、ここでは少女を「ちえみ」と呼ぶ。
ちえみは昭和31年に、おそらく千葉県内で出生し、姉、兄、妹弟各一人の5人兄弟の第三子として育った。
5歳の頃に母親を亡くし、中学を出た後は洋裁の技術を学ぶためにアルバイトで学費を稼ぎなら洋裁学校へ通っていた。
ところが昭和46年10月、肉屋という少々過酷なアルバイト先だったこともあってか、ちえみは体調を崩してバイトに行けなくなってしまう。そのせいで、洋裁学校の費用が捻出できなくなり、洋裁学校を昭和47年2月に退学した。

この頃すでにちえみの兄は所帯を持っており、千葉市内で暮らしていたが、妻(ちえみから見ると兄嫁)は病弱な人だったという。
そこで、洋裁学校を辞めたばかりのちえみは、父の考えもあって兄夫婦の元へ行かされることになった。
建前としては兄嫁の手助けをする、というものだったが、実はちえみが洋裁学校在学中に異性の遊び仲間ができ、そのうちの一人と個人的な交際をしていることを知ったちえみの父親が、二人を遠ざけるために画策したことでもあったのだ。

交際相手は「昭二郎(仮名/当時19歳)」。
ちえみとはボーリング場で偶然知り合ったという。その時点では昭二郎は仕事をしており、ちえみからすれば大人びて見えたのだろう。
二人の間は急速に深まり、ちえみはまだ16歳だったが、何度か性交渉を持つようになっていた。

誰にも言えない

昭和47年5月、その頃ちえみはウェイトレスとして仕事をしていたが、そう言えばここ2ヶ月ほど、生理がきていないことに気づいた。
若い頃は月経不順はよくあることで、ちょっと風邪をひいたり、悩み事があるというだけでも2週間以上月経が遅れることも珍しくない。
そもそも月経の周期も人それぞれで、28日くらいの人もいれば、40日くらいが通常、という人もいて、ちえみも当初はそこまで深く考えていなかった。

が、それでも2ヶ月生理が来ないというのは、そして思い当たる節がある以上、妊娠の可能性が極めて高かった。

ちえみは昭二郎に妊娠していると告げたが、昭二郎は「中絶すればいい」とこともなげに言い、その費用や病院探しについては全く考えていないようだった。
ちえみは、少し前からすでに昭二郎の軽薄な面に嫌気がさしていたこともあり、二人の関係はちえみの妊娠を機にどんどん離れていくことになる。おそらく昭二郎にしても、願ったり叶ったりだった。

二人の関係が杜絶しても、ちえみは対処しなければならないことに変わりはなかった。
一度、意を決して産婦人科へ行こうとしたが、どうしてもその扉を開けることはできなかった。費用も全く準備できる目処すら立っていなかった。
そしてちえみは、現実を受け入れられないまま、誰にも相談もできないまま、いたずらに時間だけが過ぎていった。

便槽の胎児

ちえみは日に日に大きくなるお腹と、その胎動を感じながらも、「流産にならないだろうか」と思うばかりで、現実的なことからは逃げていた。
思い余って、階段の上から転がり落ちれば…などと考えたこともあったという。

ただ、一旦は正規の手続きを経て出産し、里子に出せばいいのではないか、とも考えたことがあった。しかしそれも、親や親戚に知られることを恐れ、東北の誰も知らない土地で出産するとか、やはりどこか現実を見ていない面があった。
そして結局、何も策を講じないまま、その日を迎えることになる。

昭和47年12月20日、夜明け前。
兄夫婦がまだ寝ている中で、ちえみは襲いくる陣痛に耐えていた。まだこの時点では、腹痛、という程度だったが、夜が明けて兄夫婦が起き出す頃にはかなりの痛みになっていた。
起き出してこないちえみを心配した兄夫婦には、「お腹が痛いので今日は仕事を休む」とだけ言い、勤務先への電話を済ませると再び横になった。

ちえみはこの痛みが陣痛であることはわかっていて、いよいよ生まれるのだと思い、やはり病院へ行こうと思ったという。
しかしあまりの激痛に容易に歩くこともままならず、昼前には肛門付近に激しい、排便時のような感覚があったが一向に排泄には至らなかった。
それでも治らない排便時に似た感覚に、ちえみは部屋の隣の「汲み取り式の便所」へ向かい、そこで排便の姿勢をとった。

この時、ちえみは「これは排便ではなく、出産である」と認識していた。そして、この汲み取り便所においてこの体勢で出産してしまうと、そのまま胎児は便槽に落ちてしまうかもしれないとわかっていた。
その上で、むしろそうなれば誰にも気付かれずに出産を隠蔽できると考えるに至った。

便槽に落ちた胎児を確認することはできなかった。産声をあげたかどうかも、ちえみにはわからなかった。

ちえみは朦朧とする意識の中で、汚れた便器や便所の床などを掃除し、そのまま部屋に戻ると兄夫婦が帰宅するまで眠っていた。
そして、帰宅した兄夫婦には「月経がいつもより酷かった」と嘘をつき、なんと翌日の21日からは普通通りに出勤したというのだ。

これでよかったんだ。何もかも、なかったことにできた。
しかし未熟で浅はかな少女は、その時点で肉体的に大変危険な状態にあった。

胎盤が出てきていなかったのである。

命を救ってくれた胎児

ちえみの出産は、呆気なくバレた。

出産からわずか4日の25日、その日は便槽の汲み取り作業が予定されていたのだ。
今でこそ完全なボットン便所は少ないだろうが、昭和40年代といえばまだまだ多く見られた時代である。
家庭の便槽などはさほど大きくないため、数ヶ月に一度、定期的にくみと作業が行われており、この5月25日も、その汲み取り作業の日だったのだ。

汲み取りの際、ホースの直径はさほど大きくないため、異物があるとその都度作業員が確認して異物を取り除く必要があった。
ボットン便所にはスリッパなどを落とすことは珍しくなかったため、その日も作業員は何も思わずホースを調べた。
しかしそこにあったのは、スリッパではなく、小さな胎児だった。

すぐさま警察に通報がなされ、ちえみの兄夫婦は事情を聞かれた。しかし兄夫婦には思い当たることがないため、必然的に同居しているちえみにも話を聞くことになって、ちえみの出産が明らかとなったのだった。

出産したということから、ちえみはすぐに病院へ連れて行かれ診察を受けた。
すると、なんとちえみはこの時点で胎盤が排出されておらず、会陰も裂傷がひどい状態で、子宮の収縮も十分でないという、正直言ってズタボロ、このままではやがて大量出血などを引き起こす可能性もある大変危険な状態だったことがわかった。

もしも胎児が見つからなかったら、ちえみはほぼ間違いなく、命を落としていた。たとえ命を落とさずに済んだとしても、代償として子宮を失った可能性が高い。
いわゆる胎盤遺残というものだが、現代でもこれによって命を落とす女性はゼロではない。高度医療があっても、助けられないケースがあるほど危険な状態であり、ちえみのように全く産科医療の助けを受けずにこの状態を放置してしまったら、まず命はないだろう。

母であるちえみに産み落とされ、そのまま葬り去られた胎児は、その姿を晒すことによって母親の生命の危機をある意味、教えてくれたのだ。

裁判官 江田五月

ところでこのちえみの事件を担当した裁判官は千葉家庭裁判所の江田五月であった。
江田氏については各々検索していただくとして、後に国会議員となり、大臣も勤めた人物だが、その政治信条は別としてこのちえみの事件での江田裁判官の判断、考えというものに私は非常に感銘を受けた。
(多分だけど、↑金沢のケースの決定文はこの江田さんのを相当参考にしてるような気すらする)

子ども、しかも生まれたばかりの嬰児は、その生命が親に握られていると言って良く、だからこそ親の責務は重大で、人として生を受けた嬰児の養育の義務というものは厳粛なものであるとし、その責務を放り出す、ましてや生命を断つがごとき行為を行う親の罪は、「いかなる犯罪よりも重い」と述べている。

一方で、罪の重さ=重罰、ではない、とも述べる。

千恵美が犯した罪は決して許されるべきものではないし、本来重罰をもって臨むとことも考えられるけれども、その罪を犯したちえみもまた、「子ども」であり、そしてその罪の重さに今更ではあるけれども「あえいでいる」として、その少年であるちえみにいかにして健全な精神を取り戻させるかも重要なことだとした。

ちえみは、小学生のころに月経について、またその処理の仕方については知識を得ていた。その後中学では理科の授業において、いわゆるおしべとめしべの関係性から生命誕生の仕組みをなんとなく学び、中学3年生で性教育の授業の中でおしべとめしべを男女に置き換え、性交渉をもって人間の生命が生まれ来る、という知識は得たものの、それ以上の、たとえばその妊娠が望まないものだったらとか、子どもを産み育てることの重大さなど「その先」についてはなんら考えることもなかった。

正しく、現実的な知識がないままに、一方では同年代の少年少女らから性行為の話を興味本位で聞き、好奇心や期待のみが膨らんでいき、そして結果として安易な、一瞬の快楽の先に待ち受ける重大な現実に目を向けることなく性のハードルを越えてしまった。
その無知さのひとつとして、交際していた昭二郎に「まだ若いから妊娠などしない」と言われたことを鵜呑みにしていた、という事実があった。
ところが現実はそんなことはなかったわけだが、性行為の知識はあってもその先のことを全く考えもしていなかったことで、妊娠してもどうしてよいかもちえみにはわからなかったのだ。

無知はそれだけではない。先にも述べたが、たとえ自力で出産が出来たとしても、その後の適切な経過観察や場合によっては医療的な措置が必要になるということも知らなかったちえみは、胎盤を子宮内に残したまま普通の生活に戻っていたのだ。
江田裁判官は処分選択の理由の中で、

産後の管理の必要に対し何の知識もない少年(ちえみ)は、本件が発覚しなかったら、自ら殺害した嬰児が遺していった肉片により、自然の手痛い復讐を受けていたかもしれないのであり、本件の発覚によりかかる事態に至らなかったことを少年のために喜びたい。(決定文より引用)

と記している。

他にも、この事件の特徴としてこの時代特有の性への開放的な考え方があるとした。
それ自体は悪いわけではないが、性への開放的な部分だけをとらえ、その表裏一体であるはずの厳粛さと冷酷さを欠いた風潮こそが、ちえみのような無知な親を無限に生み出しているとして、社会全体の罪とも言えると述べた。

一方でちえみ個人の問題としては、無知であるということのほかに自己閉鎖性と消極性にも目を向けねばならなかった。
ちえみは困難な場面に直面した時、現実を受け止めることなく逃避し、それができないときは成り行きに任せてしまうような傾向があったという。
実際、大変難しい勇気のいることではあろうけれども、ちえみには同居の兄夫婦がいた。兄に言えずとも、兄嫁の存在があったはずだ。
兄夫婦はちえみをかわいがっていたし、さほど年も離れていないこと、一人産婦人科に一度は足を向けたこともあるわけで、あとほんの少しの勇気が出せなかったかと悔やまれる。
もしも兄夫婦にちえみが相談していたら、紆余曲折はあったろうけれどもおそらく生まれた子は「望まれて」育てられた可能性があったのだ。

兄夫婦には子供がいなかった。それは、兄嫁の体の問題があり、将来的にも子供は望めなかったという。
事件後、兄夫婦は「もし相談してくれていれば、妹が養育できないとしても私たちの養子として育てていきたかった」と涙ながらに話していたのだ。

ただこれには、「ならなんで気づかんかったんや……」という思いも当然ある。
この点も江田裁判官は指摘していて、たしかにちえみにあともう少しの積極性、この事態を放置したら大変なことになるという危機感があれば事件は回避された、とするうえで、周囲の人間がたとえその体系の変化が小さかったとしても分からないというのは不自然、としている。
実際に職場の人や友人らはちえみの体系変化に気づいていたが、誰も千恵美にそれを問うことはなかった。
江田裁判官は、

現代の社会において、断絶は、隣に座った赤の他人との間にあるだけではない。もっとも親密な人同士の間にもあり得るということを本件に見て、慄然とする思いである

と述べている。

江田裁判官は、ちえみの反省の情が深いこと、これまでに虞犯行為もなく、父親はじめ兄夫婦や兄弟姉妹がちえみを全力で支える強い意志を示していることを考慮したうえで、それでも大切なのは、

傷ついた女性に対するいたわりの心をもって専門的立場から側面的援助をする機関が必要

としてちえみに保護観察処分を言い渡した。

そしてその専門的立場からの援助の必要性の一つとして、もう一人の親の存在に目を向けている。

千恵美の交際相手だった昭二郎は、嬰児殺害には無関係でもおそらく事件後事情を聞かれるなどはしているのだろう。
しかしその態度は、恥知らずも甚だしい態度だったと思われる。
新生児殺害のほとんどは母親である。しかし、そうなったのには原因があり、そのほとんどは別の記事でも記した通り、男親の無責任、無知、逃げの態度にある。
もちろん、無知で無責任で逃げまくる恥知らずなだけでは罪にはならない。バカにも罪になるバカとならないバカがあって、新生児殺害のケースではそもそも男が妊娠出産を知らないという現実もあるために、罪にならないバカに分類される。

現在でも後を絶たない新生児殺害について、母親の罪は罪としても、同じ親でありながらまるで無関係であるかのように扱われる男親の存在を疑問視する声も大きくなりつつある。
しかし、そこが裁判や審判の場で言及されるケースはあるのだろうけれど、あまり表には出ない。

江田裁判官は最後に、この事件の根本的要因である昭二郎に対して、静かではあるが怒りと軽蔑に満ちた感情を取り入れたうえで、ちえみへの思いと今後への期待で決定文を締めくくった。

親としての罪を(ちえみと同じように)受くべきにもかかわらず、免れて恥じないもう一人の親のような男性を多くの男性の中から見分ける知恵を持ち、本件により開いた人の命の尊さと自然の理の厳粛さに対する済んだ眼を再び濁さないようにして、健やかに成長していくことを期待し、主文のとおり決定する。

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参考文献

昭和58年9月14日/金沢家庭裁判所/決定/昭和58年(少)1117号
昭和48年4月17日/千葉家庭裁判所/決定/昭和48年(少)200号