ボクは知らない〜巣鴨・子供置き去り事件〜

令和3年8月、滋賀県内で6歳の女児がジャングルジムから落ちて死亡するという痛ましい事故が起きた。
しかしその後、女児の体に100箇所に及ぶ殴打痕があったこと、事故直前の未明にその女児が少年に連れられてコンビニにいたことで通報されていた事実が判明。
調べた結果、女児は事故死ではなく、その少年に暴行されたことで死亡したと判明した。

その少年は、女児の17歳になる兄だった。

この事件が報じられると、その生育歴や母親の状況などから、今から30年ほど前に起きたとある事件と重なる、そんな声も聞かれた。

その事件は、昭和63年に発覚した。

西巣鴨のマンション

昭和63年7月18日。豊島区西巣鴨のマンションの大家から、「部屋を貸している女性が子供を置いたまま行方不明になっている」という届けが巣鴨署に入った。
女性は昭和62年9月からこのマンションの2階の一部屋を借りていて、その際、一人息子を連れていたという。
「この子は立教中学に通っています。私はデパートに勤めてますのでよろしくお願いします」
そう言って挨拶したという女性は、入居した翌10月からこのマンションでは見かけられていなかった。

息子と二人暮らしだというその家は、昭和63年2月以降月額9万円の家賃が支払われておらず、催促しても女性が姿を見せないことから痺れを切らした大家が直接訪問。その際、どうやら母親が長期間不在であると分かったことから通報したのだった。

通報で駆けつけた巣鴨署員は、その部屋の玄関を開けて絶句した。

玄関からすでに家の中はゴミだらけの状態だった。
一方で台所では電気炊飯器でご飯が炊き上がり、女性の息子と思われる中学生くらいの少年が味噌汁を作っていたという。フライパンには野菜炒めと思しきおかずもあった。
温かな夕餉の香りと、糞尿と生ゴミ、カビの入り混じった凄まじい混沌の香りが充満するその家の中には、少年以外に二人の女児の姿もあった。

「・・・この子はどこの子??」

大家は混乱を隠しきれずにいた。この家には先にも述べたとおり、借主の女性とその息子の二人しかいないはずだったのだ。
しかし目の前の女児は、見るからに異様だった。夏だというのに病的に白く、まるで長いこと太陽の光を浴びていないかのよう。年上とみられる女児はそうでもなかったが、年下の女児はひどくやせ衰えていた。
料理を作る少年の傍らで、二人の女児は毛布にくるまり、板の間で眠っていたという。
大家があまりの惨状にバナナを持ってきて女児に与えると、二人はそれをむさぼるように食べた。

部屋の電気はついていたが、ガスと電話は止められており、少年は、電熱調理器で味噌汁を作っていた。

警察官と同行した福祉施設の母子相談員によって、衰弱の激しい女児はすぐさま入院措置が取られ、もう一人の女児も保護となったが、少年は保護を拒否。
「お母さんは大阪のデパートで洋服を売っている。今は病気で入院しているけれど、元気になれば帰ってくるから」
少年はそういって譲らず、結局その日は保護できなかった。

しかし翌日の午前中、顔見知りの友人の父親に付き添われて、管轄の福祉事務所に顔を見せたため保護となる。

自分は立教中学に通う中学3年生と称していたというが、調べた結果、少年は学校に通っていなかったことが判明。
加えて、先に保護された二人の女児は、少年の5歳(7歳との説もあり)と3歳の妹であることも分かった、が、少年と同じく5歳の妹は幼稚園などにも通っておらず、さらには女性と3人の子供はそのマンションに住民登録していなかったばかりか、子供たちには戸籍すらなかった。

少年の口は重かったが、気になることを話していた。
「”のりちゃん”は、お母さんが連れて行ったと思う。ボクは知らない。」
この少年と妹二人のほかに、もうひとり、妹がいるということをほのめかしたのだ。

少年が保護されたその日、もうひとりの子供を見つけるためマンションを捜索した警察官らは、押し入れからビニール袋に入れられた小さな腐乱遺体を発見した。

のりちゃん

警察では、子供たちが口にしていたもう一人の妹の存在を探していた。のりちゃん、というその女児は1歳くらい、行方不明の母親が連れて行ったと、子供たちは話していた。
しかし押し入れの腐乱遺体は司法解剖の結果生後半年程度と見られ、この腐乱遺体がのりちゃんである可能性が高いと見思われた。

ただ、保護された長男は「のりちゃんはお母さんと一緒にいる」と話していたこともあり、また遺体が生後半年と実際ののりちゃんの年齢よりも幼いという点もあって、捜査は慎重に行われていた。

事態が急転したのは7月24日。
千葉県浦安市内でこの子供達の母親が発見されたのだ。
実は長男が、「困ったときは電話して」と言われていた電話番号があることをほのめかしたことで、母親の居場所が分かったのだ。
母親は自宅マンションがテレビに出て、遺体発見のニュースを見たことで出頭しようとしていたという一方で、取り乱したり涙を浮かべたりということはなく、淡々としていた。当時は浦安市内の愛人男性宅にいたという。

ところが、母親が連れているはずののりちゃんの姿はなかった。
さらに母親は、押し入れの遺体について、昭和59年に出産した「次男」だと証言。のりちゃんについては、他の子供同様、長男に預けて家を出たと話したのだ。
ではのりちゃんはどこに……?

その頃のりちゃんは、秩父の山で冷たい土の中に埋まっていた。

母親

保護責任者遺棄(当時)の容疑で逮捕されたのは、子供たちの母親である福山利恵(仮名/当時40歳)。
川崎市で育った利恵は、私立の女子高校を卒業した後服飾関係の専門学校へと進んだ。高校在学時から歌がうまく、芸能関係へのあこがれもあったという利恵は、昭和41年には歌手としてデビュー、しかし人気は出ずに2年で諦めた。
その後昭和43年、両親が反対したにもかかわらず川崎市内で男性と同棲をはじめ、ほどなくして男の子を授かったが、男性の借金問題などもあって若い利恵たちに育てられるはずもなく、男の子は養子に出された。

関東のいたるところを転々としながらその同じ男性と暮らしていた利恵は、昭和48年に足立区内の産院で男の子を出産、これがこの事件の長男である。ここでは長男を「タカシ」と呼ぼう。
ただ、病院で産んだにもかかわらず、出生届は出されなかった。

その後、結婚したタカシの父親はセメント会社で働くなどしていたものの、タカシが5歳になるころ借金を残して蒸発。以降、利恵とタカシふたりの生活がはじまった。この借金は利恵の実家が肩代わりさせられたといい、この時点で利恵と実家とは絶縁状態となっていた。

その後のふたりは、板橋区、豊島区南大塚などのマンションで暮らしていたが、昭和57年11月から昭和60年9月までの4年間に、利恵は長女(ユキ/仮名)、二男(コウヘイ仮名)、二女(アカリ/仮名)、三女(のりちゃん)を出産する。
父親は、長男の父親以外に二人いたという。

ほぼ毎年妊娠出産をしていたわけだが、驚くべきことにこの4人については全員自宅で出産しており、全員出生届は出されていない。
当然、生活保護なども受けていない中、子供5人を利恵はデパートの出張販売員などをして育てていた。(この間、押し入れの遺体となった次男の死亡事故があるがそれについては後述。)

長男以外の子供の父親に当たる人物らから援助はあったと思われるが、毎年妊娠出産を自力で行い、その上立ち仕事で働いていたというのは理解を超える。が、ともあれ、この時期はまだなんとかなっていた。

しかしこの出張販売員という仕事はどうしても家を空けがちになる。その間、10歳だった長男が弟妹の面倒を見ていた。

ところが、この事件現場となった西巣鴨に移り住んだ昭和62年9月、千葉で海産物加工業を営む男性(当時56歳)と愛人関係になって以降、利恵と子供たちの綱渡りのような生活は崩れ始める。

利恵は次第に西巣鴨のマンションに帰らなくなり、勤めも辞めた。愛人男性からは月に20万円の手当てをもらっていたといい、そのうちの12~3万を西巣鴨の自宅へ現金書留で送ったり、JR大塚駅などで長男と落ち合って手渡すなどしていた。

利恵としては、10万円以上の金を渡していたことで親としての責任を果たした気になっていたのか。この報道もひとつではなく、中には月に4~5万、という報道もあるので、当初は12~3万だったものが事件発覚当時には4~5万に減っていた可能性もある。
しかしたかだか10歳の子供に、その金がいくらであろうとやりくりの仕方や支払いの優先順位などつけられようもなく、家賃は支払われず散らかり放題の家の中は日に日に荒んでいった。
トイレトレーニングなどもしてもらえないアカリとのりちゃんはトイレを失敗することもあった。それを、長男はひとりで片づけ、母親の見よう見まねでおぼえた家事、育児を懸命にこなしていた。

ユキ

昭和62年7月29日、東京消防庁の119番に幼い女児からの通報が入った。
「お母さんの具合が悪いの」
要領を得ない内容ながら、その通報はその日何度も入っていたという。ただ、名前も住所も言わないで切ってしまうため、最終的には東京消防庁が逆探知して巣鴨署に通報し、巣鴨署員が発信元の豊島区南大塚のマンションへ急行することになった。

マンションには、通報者と思われる女児、それより幼い女児、そして哺乳瓶をくわえた乳児がいた。保護者らしき大人の姿はなかったという。
現代ならばこの時点で即保護になろうが、昭和のこの時代はそこまでの対応はなかった。
翌30日にもう一度巣鴨署員がマンションを訪ねたところ、そこには母親らしき女性の姿と、昨晩いなかった少年の姿もあった。
事情を聴くと、女性は「この子(少年)と赤ちゃんは私の子だけれど、女児二人は水商売をしている人から夏休みの間預かっている。」と話した。
また、「デパートで出張販売をしています。昨日は帰りが遅くなってしまった。でも普段は子供らだけを残して夜間家を空けたりしません。」と話したため、署員は事件性なしと判断、注意だけして引き揚げた。

ところがこの一家は、その直後には大家に引っ越しを告げ、部屋を出て行ってしまった。

一家が移り住んだのは、西巣鴨のマンションだった。

この通報をしたのが、ユキだった。当時まだ4~5歳、幼いなりになんとか助けてほしいという思いがあったのだろう、必死で119番通報したが、その思いは通じなかった。
おそらくこのころから、利恵は長男に下の子たちを押し付けて愛人のところへ行くこともあったのだろう。現にこの時のユキの通報内容は、
「お母さんが仕事先で具合が悪くなり、今日は家に帰れないと電話してきたので心配です」
というものだったのだ。おそらく利恵は子供たちにこう言い繕っては、愛人宅へ泊るなどしていたと思われる。
署員に対し、ユキは「妹の面倒は私が見ている」とけなげに訴えたといい、このころは長男とこのユキが協力して妹の面倒を見ていたのだろう。

いつ事故、事件が起きてもおかしくない状況であるが、実はすでに事故は起きていたのだ。

コウヘイ(押入れの遺体)

昭和60年2月3日、利恵が南大塚のマンションに帰宅すると、家の中で次男のコウヘイが哺乳瓶をくわえたまま、窒息死しているのを見つけた。

利恵はすぐにコウヘイを抱えると、ビニール袋に入れてその上から布団でぐるぐる巻きにしてそのまま押し入れの奥に隠した。

事情は分からない。けれども利恵にはこれを警察に届けることなどはできなかった。そもそも、このコウヘイは生まれたことすら「誰も知らない」のだから。
このまま隠しておけば、コウヘイの存在は最初からなかったも同じ。私が一人で産んで、出生届も出さずにこれまで家族だけで生きてきたのだから。誰も知らないのだから。

利恵はその後西巣鴨に引っ越す際にも、その遺体を忘れずに持ち運んだ。西巣鴨では、布団ごとリビングの押し入れの奥に隠していた。

誰も知らない、小さないのち。

タカシ

「なんで僕は学校へ行かれないの」

板橋区内のアパートで、8歳のタカシは利恵に訊ねた。
「事情があるのよ、今は行けないけれど、いずれ手続するからね」
利恵はタカシをなだめるようにそう言うと、ノートや鉛筆、学習ドリルなどを買ってきた。
タカシはノートに平仮名やカタカナで自分の名前を書いてみた。算数ドリルで一桁の足し算は自力で覚えた。「年」「月」「日」の漢字も覚えた。が、そこまでだった。

利恵は近所の人にタカシは立教中学へ通っているとか、教育大付属の小学校を出たなどと嘯いていた。タカシもそれを聞いて、自分は立教中学へ通っている、と言い聞かせていた。

南大塚のマンションに警察が来た時、タカシは家におらず顛末を知らなかった。が、それ以降、この状況がよその人に知られてはいけないことで、それが発覚すれば利恵が警察に捕まるのではないかと漠然と思っていた。
西巣鴨に移ってからは、ユキ、アカリ、のりちゃんの3人の妹たちを家の中に閉じ込めた。利恵は家を空けることが多くなり、そして帰ってこないのが当たり前となっていく。

当初は駅などで利恵と会い、その時に数万円を受け取るなどしていたが、それも現金書留になり、利恵の顔を見ることもなくなっていった。

妹たちの服は、利恵が南大塚から持ち込んだもののほか、新品の服を持ってきたこともあったというが、それもそれぞれワンセットずつで、到底着替えには足りなかった。
タカシはこまめにそれらを洗濯しては、妹たちに着せていた。

買い物はもっぱらマンション一階のコンビニだった。店長とは顔見知りになったが、家族の状態を相談できるほど、していいと、しなければならないという判断ができるほど、タカシは大人ではなかった。

利恵からの生活費が足りなくなり、電気や水道、電話、ガスなどの公共料金の督促が始まる。
ご存じの人も多いだろうが、電話は容赦なく止められるが、電気、ガスはある程度猶予はくれる。水道に至っては集金にまで来てくれて、それでもどうしても連絡がつかない場合にのみ、止められる。4か月くらいは水道は止めない。それは生命維持に欠かせないからだ。

電話とガスは止められたものの、電気と水道は事件発覚まで通っていた。ガスが止められた後、タカシはご飯を炊くには電気がいること、ガスがなくても電気さえ通っていればホットプレートで料理ができることを学んだ。

アカリとユキ、のりちゃんが家の外に出ることはなかったが、タカシは買い物などで外に出ざるを得なかった。
日々、主婦のように家族のことを考え、家族のために必要なものを買う日々だったが、いつのころからか、その生活費で自身のための買い物もするようになる。
立ち寄った店で、同じ年くらいの子供と知り合った。中学1年生というその子供にも、自分は私立中学に通っていると嘘をついた。

本当はいけないのかもしれない、でも、巣鴨に来て初めてできた同じ年くらいの子供の知り合いに、タカシの心は揺らいだ。
親のいないタカシの家は、たちまち子供たちのたまり場となった。散らかり放題の家の中でも、子供たちにはお構いなしだ。
その中でも、サトシとワタル(いずれも仮名/当時12歳)とはいつも一緒にいるようになった。
生活費は、サトシとワタルとの遊ぶための金に消えていくようになる。

タカシの部屋には子供たちが泊っていくこともあった。だがその子供たちの家族は、その事実に全く気が付いていなかったという。

誰も知らない、子供たちだけの世界。

そこにはとんでもない自由があった。かわりに、秩序もなければ人が人らしく成長するために必要な慈愛も教育もしつけも、なにもなかった。

子供たちの中で、次第に歪んだ序列と、弱き者、苛立ちの要因、歯向かうものへの制裁というルールが出来上がっていく。
標的は、幼い妹たちだった。

ふたたび、のりちゃん

サトシとワタルが入り浸るようになって以降、タカシは生活費に事欠いていた。そしてそれは、妹たちの食生活にもダイレクトに影響することになった。
ユキ、アカリ、のりちゃんはおなかをすかせ、力の弱いアカリとのりちゃんは食事にありつけないことも増えていった。
一番下ののりちゃんは、まだトイレも上手にはできなかった。ある時、部屋の中で粗相をしてしまったのりちゃんを、タカシは叱った。その際、サトシとワタルの手前もあったのか、のりちゃんを小突いてしまう。
ユキとアカリに対しても同様だった。寂しさと空腹から妹たちが泣き始めると、タカシは妹たちに手を挙げるようになった。もちろん、大きなけがに至るようなものではないにしろ、妹たちは怯え、上のユキとアカリはまだ言うことを聞かせられたが、のりちゃんは叩いて言うことを聞かせるには幼すぎた。

叩けば余計に泣きわめくのりちゃんを、いつしかサトシもワタルもタカシも、持て余すようになっていた。

昭和63年4月21日、サトシとワタルがその日も遊びに来ていた。
いつものようにファミコンなどで遊んでいると、サトシが持参したカップラーメンを、妹たちが食べてしまっていた。
激怒したサトシは、部屋の中にあったゴムホースでユキ、アカリ、のりちゃんを叩いた。大声で泣くのりちゃんらを、さらにワタルとタカシもせっかんした。
ユキとアカリは、「ごめんなさい、もうしません」と謝ったことから許されたが、言葉をうまく話せない幼いのりちゃんは、許されなかった。

夜になり、のりちゃんが部屋の中で大便をしてしまう。怒ったタカシがのりちゃんを強く叱ったが、それを見ていたサトシがのりちゃんを捕まえると押し入れの上段に立たせた。そして、布団を滑り台のようにしてのりちゃんを転がした。
遊びだった、のりちゃんが泣き喚くのが面白かった。押し入れの上段から、今度はそのまま落としてみた。1回、2回、3回……

8回目の後、のりちゃんは動かなくなった。

サトシとワタル、そしてタカシ

当初、行方の分からないのりちゃんは押し入れの遺体だと思われていたが、利恵に対する取り調べと司法解剖の結果などから、押し入れの遺体は二男だと判明していた。
となれば、のりちゃんはどこにいるのか。警察では利恵が知っているものとして追及していたが、真相は悲惨なものだった。

のりちゃんの行方を知っていたのは、タカシだった。

のりちゃんが動かなくなった後、朝になって死んでいることに気づいたタカシは、のりちゃんの遺体を数日間自宅に置き、その後ワタルとともにのりちゃんの遺体をビニールにくるむとボストンバッグに入れ、電車で秩父の山に運び捨てたと話したのだ。

のりちゃんの遺体は、秩父の羊山公園で発見されたが、すでに白骨化していた。

警察はタカシが妹らの面倒を見ていた一方で、いうことを聞かないと殴るなどの暴行を働くこともあったこともつかんでいた。また、保護された際、タカシとユキは比較的体調や成長具合に問題がなかったのに対し、下のアカリはやせ衰え、立つこともままならぬほどの状態だったことなどから、食べるものが乏しくなるとどうしても上のタカシとユキがアカリやのりちゃんの分まで食べてしまっていたとみた。

巣鴨署は、タカシの証言からまずタカシを死体遺棄の疑いで逮捕した。その後、タカシ自身もせっかんに加わっていたことを認めたため、傷害致死容疑でも逮捕となった。

サトシとワタルについても関与は当然調べられたが、彼らは12歳、罪に問うことができなかった。

しかしその後、死体遺棄は確実としてもタカシを傷害致死に問えるかどうか、の判断は分かれた。

8月3日までに、警視庁少年二課と巣鴨署は、タカシではなくサトシがのりちゃんへのせっかんを主導したと断定、サトシを保護するよう児童相談所に通告した。
直接の死因は遺体が白骨化していることから困難としながら、タカシらの話から3人が行ったせっかんがのりちゃんの死につながったのではなく、その後のサトシによる押し入れ上段からの突き落とし行為が死につながったのは疑いの余地がないとした。

サトシは12歳であるため、児童相談所で改めて調査された後で教護院送致にされるとみられた。

タカシについて、当初警察では傷害致死でも逮捕していたが、その後の調べでのりちゃんがぐったりしたのちの、兄・タカシの様子が明らかとなったことで、傷害致死が成立するか疑問があるとした。

のりちゃんが動かなくなったのを見て、サトシは驚き逃げ帰ったという。残されたワタルとタカシは、テレビで見たことがあったという心臓マッサージ、人工呼吸を夜通し続けていた。
どんどん冷たくなる体を湯たんぽで温め、朝になるまでのりちゃんのそばで介抱し続けていたのだ。

しかしふたりとも疲労がたまり、朝方寝入ってしまった。目が覚めた時、のりちゃんは冷たくなっていた。

ワタルはいったん帰宅したものの、それでも再びタカシの家にやってきたという。そして、ワタルが工面した5000円を手に、ふたりでのりちゃんを入れたボストンバックを持って電車で羊山公園に行って捨てた、というより、埋葬していた。

高台の、斜めに生えた木を墓標代わりにして、その根元にのりちゃんを横たえると、草や落ち葉で覆ったという。

ふたりは以降も4月中に1度、5月に3度、6月に1度と、のりちゃんの墓に足を運んでいた。

東京地検はそもそも母親が家を空けるなどしなければ事件は起きなかったともしており、戸籍すらないタカシの境遇に配慮したとみられる。同地検は8月10日、「教護院送致が相当」の意見書を付けたものの、それでも傷害致死と死体遺棄で東京家裁に送致した。

タカシの付添人を務めた弁護士は、傷害致死には当たらないと主張。タカシはサトシからパシリのような扱いを受けていたこと、以前から部屋の電気を消したうえで行う「暗闇プロレス」で標的にされていたことなどから、せっかんをとめられなかった背景を訴えた。
また、サトシが当初、ユキ、アカリ、のりちゃんの3人の妹を殴ったりし始めたとき、小さなのりちゃんの頭に毛布をかぶせた上で別室に連れて行くなど、妹を庇う行動があったことも明らかにした。

のりちゃんが大便を漏らしたことに怒ったサトシが「(せっかんを)やってもいいか」と聞いた際、タカシは「別にいいよ」と答えており、それがせっかんへの同意とみなされていたが、実はこの時、タカシは「(せっかんなんて)別に(しなくて)いいよ」という意味で言っており、この言葉のやり取りに誤解が生じた。
その後、サトシが突き落とし行為を5回ほど行った時点で、タカシは「やめろよ」とも言っていたが、サトシはやめなかった。

9月6日、東京家裁はタカシに対し、「養護施設送致」の決定を出した。それ以前の8月16日には、サトシが家庭裁判所に送致された。

ふたたび、利恵

利恵は保護者遺棄致傷罪(当時)に問われた。夏から始まった裁判では、利恵のそれまでについてや、現在の愛人の男性による証言なども行われ、なぜ子供たちを置き去りにしたのかが明らかになっていった。

利恵はタカシとふたりで夫に捨てられた後は、必死で生きていた時期があった。タカシを育てるためならばと、売春も窃盗もした。検挙されたこともあったという。
それが、妊娠して子供を産むことで、結婚には至らずともその子供らの父親から金がもらえることに味を占めた、とも見られた。
しかし、妹らの父親に対しては頑なに関係性を否定したり、子供の存在すら隠していた節もあるなど、利恵の考えは理解不能な面もあった。

利恵は事件発覚当時借金があり、それの取り立てに悩んでいたという。
そこで愛人の男性が、家には帰らないほうがいいのではないかと助言。(タカシによれば時折巣鴨のマンションに男性が「元気か?」と様子を見に来ていたといい、それがこの愛人男性であるかどうかはわからないものの、もしそうであるならば愛人男性は男性なりに心配していたのかもしれない。)

それまでにタカシに依存しきっていた利恵は、タカシなら大丈夫だろうと安易に考えてしまい、お金さえ渡しておけば何とかなると真剣に考えていたと話した。
愛人との生活におぼれ、子供たちが邪魔だったのではないのかという検察の指摘には真向否定し、実際に半年間で80万円以上のお金をタカシに託していたこともあってまさか子供たちがあそこまで悲惨な状況に置かれるなど、思いもしなかったと主張した。

確かにタカシはよくやっていた。南大塚のマンションにいたころを知る人によれば、おむつの替え方もうまく、ミルクを作る際も自分の耳たぶに指をあてながら「人肌」を見極めるなど、育児に関しても10歳とは思えないほどだったという。
ただそれを、「育児ロボット」と呼ぶ人もいた。一緒に暮らしていたころから、利恵は育児も家事も、タカシに丸投げだったのだ。

利恵は暗に、お金を渡していたのにそれをまさかタカシが自分の遊興に費やすとは思わなかったなどと、タカシに非があるかのような発言もあったという。

東京地裁の高橋省吾裁判長は、「わが子を養育するわずらわしさから逃れようとした無責任、身勝手極まりない犯行。三女の死の遠因となったといっても過言ではない」と厳しく批難。
タカシが生活費を遊興に費やしたことも、「遊び盛りの子供がそうなるのは当然で、長男を責める理由にはならない」と利恵の責任転嫁を諌めた。
そのうえで、
「子供の出生を届けず、学校にも通わせないなど母親の自覚がなく、放置が続けば子供の生命が失われる危険もあった。親の責任を放棄した罪は重いが、同棲相手と結婚してやり直すと誓っていることなどを考慮、今回に限り、自力更生の機会を与えることにした」
とし、懲役3年執行猶予4年を言い渡し、その刑の執行を猶予する理由を述べた。

最後に、
「幼い子にとって、母親の存在のいかに大切なことか。早く子供を引き取れるよう最善の努力をしなさい」
と説諭も付け加えた。

兄妹

事件発覚後、世間の批判は利恵だけにとどまらず、巣鴨のマンションの大家や近隣の住人にまで向けられた。
当時は住所など電話帳に細かく乗っていた時代。探し当てた人々からは、中傷や抗議の手紙が届いたという。
中には、「近くにいて何とかできなかったのか。人としてあなたに問いたい」と、斜め上の正義感を丸出しにしたものもあったという。
大家は、気づくことができなかった点は真摯に受け止めており、責を負うのは私たちだ、とまで言うほどだった。

同じマンションの住民のいくつかの家族は、事件後引っ越した。

利恵は巣鴨に移る以前の南大塚にいたころから、すでにネグレクト状態にあった。実際にコウヘイが死んだのも、利恵が家を空けていた最中の出来事だ。
そもそも子供たちの戸籍がない時点で、究極の虐待といってもいい。存在自体を殺しているのだから。
ただ、この南大塚のマンションには、タカシの友達の出入りもあった。
実はその友達の一人が、タカシは学校に行ってないのではないかと訝しんで、利恵に電話してきたことがあったという。
しかし利恵は、その友達を突き止めると烈火のごとく怒り、発言を取り消させ謝罪までさせた。
このような母親の態度であれば、これ以上深入りしようとする人もなかなかいないだろうし、時代も今とは全く違っていた。

たとえ戸籍があって学校に通えていても、サトシやワタルも、本当のところはタカシと似たような、親に関心を持ってもらえない子供だったのかもしれない。

タカシは鑑別所から小平市内の養護施設に移り、そこで戸籍を得たうえ、中学生として新しい人生を歩むこととなった。
ユキとアカリは、多摩地域の同じ養護施設に入居、体調不良だったアカリも元気になった。

押し入れで眠っていたコウヘイと、羊山公園で眠っていたのりちゃんの遺骨は築地本願寺に預けられた。

「必ず迎えに来るから」

裁判では愛人男性とともに、正式に結婚し、子供たちと暮らせる環境を整えて少しでも早いうちに子供たちと一緒に暮らしたい、と述べた利恵だったが、情報によればタカシと利恵が会うことはその後なかったという。

タカシは母の利恵をどう見ていたのだろうか。保護された当初は、母の言うことを頑なに信じていたという。
異常な母親でも、それでもタカシにとっては、最愛の母親だったのだろうか。

のりちゃんの行方を知らないと言ったのも、じぶんのやったことを隠すためというよりは、母に迷惑をかけないように、母を庇うためだったようにも思える。
のりちゃんが死亡した時のことを聞かれても、ユキもアカリも、泣き崩れて話せる状況ではなかったという。ふたりは幼い妹が息絶えていくのを、タカシと共に見ていた。タカシとワタルがのりちゃんを連れて行ったのも、見ていた。母が、コウヘイをそうしたように、ビニール袋に入れて。

羊山公園に何度も足を運んだタカシ。骨になっていくのりちゃんを、どんな思いで見続けたのだろうか。

本当のことはもう、誰も知らない。

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参考文献

朝日新聞社 昭和63年7月23日、8月1日東京夕刊、10月27日東京朝刊
読売新聞社 昭和63年7月23日、25日、27日、28日、8月11日、10月27日東京朝刊、7月26日、9月11日東京夕刊
毎日新聞社 昭和63年7月23日、25日、8月2日、3日、5日、6日東京夕刊、24日、26日、8月3日、12日、13日、9月7日、17日、10月6日東京朝刊
中日新聞社 昭和63年7月23日朝刊、30日夕刊
北海道新聞 昭和63年7月25日夕刊全道、8月11日朝刊全道

巣鴨子供置き去り事件

誰も知らない  是枝裕和監督作品(2004年/日本)