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平成14年9月24日未明
岡山県倉敷市。
この町の県営団地の住民から、「団地の一室から異臭がする」と110番通報が入った。
倉敷署員が駆け付けたところ、1階のその部屋の布団の上で女児の遺体を発見。傍らには、母親とみられる女性が座り込んでいたが、この母親も激しく衰弱しているのが一目瞭然だった。
ふと、署員が台所に目をやると、蜂蜜の空き瓶が転がっていた。
事件概要
岡山県警倉敷署は、平成14年10月17日、11歳の娘に適切な食事を与えず餓死させたとして、母親の飯島友里恵(仮名/当時50歳)を保護責任者遺棄致死容疑で逮捕した。
亡くなったのは、友里恵の一人娘である陽子さん(当時11歳)。
この年の6月頃から、この団地で暮らしていたというが、近所づきあいはほとんどなく、母子が餓死するまでに困窮しているとは近隣住民も気付いていなかった。
司法解剖の結果、陽子さんは死後2~3週間経過。死因は飢餓による餓死だった。
また、母親の友里恵もほぼ食事をとっていないことが判明、治療して回復を待っての逮捕となった。
友里恵は調べに対し、「食べ物を買う金がなかった。最後は蜂蜜を舐めて飢えをしのいでいた。」と話していたという。
所持金はなかった。
現場となった県営団地は、78歳の男性が借りていた部屋だったが、当時男性は病気入院で同居していなかった。
供述によれば、7月初旬に男性が入院して以降は所持金もなく、夏の暑さもあいまって急速に二人は衰弱したとみられた。
友里恵はかろうじて命は救われたものの、長期にわたって動く力がなかったことから、廃用症候群に罹患し、裁判当時も車椅子の生活を送っていた。
平成14年11月、岡山地検は保護責任者遺棄致死で友里恵を起訴。
岡山地裁は、友里恵が経済的に困窮するなどの事情は認められるものの、友里恵が娘の死亡を回避するのにさほど大きな困難があったとは言い難く、養育の義務があるにもかかわらず無軌道な生活をつづけ、犯情は悪い、と断じた。
ただ、積極的な虐待とは言えず、友里恵自身も飢餓状態で命の危険な状況に陥るなど、死を覚悟した心中に近い状態ともいえるとし、懲役2年4月(未決拘留日数120日を算入)とした。
心神喪失で無罪を求めていた弁護側は、量刑不当として控訴、平成16年1月28日に行われた控訴審判決において、広島高裁岡山支部は友里恵の汲むべき事情を考慮できていないとして原判決を破棄、懲役2年4月執行猶予4年とした。刑はそのまま確定した。
友里恵はその後、生活保護を受給しながら中国地方で生活していたが、新聞社の取材に対し、
「行政は頼っても何もしてくれない、という不信感があった。」「最後は交番に駆け込む気力、体力もなかった。きちんと求めれば支援を受けられることを多くの人に知ってほしい。苦しい思いをするのはもう私たちだけで十分」
と語った。
友里恵の汲むべき事情、とはどんなものだったのだろうか。
母娘のそれまで
友里恵は神奈川県鎌倉市で、昭和26年に生まれた。
高校卒業後、信用金庫に就職、25歳の時に結婚し子供も授かった。
しかし結婚生活は終わりを迎え、子供は友里恵の両親の養子としたという。
その後、友里恵は陽子さんの父親になる人物と同棲し、平成3年に陽子さんを出産した。
籍は入れていなかったのか、陽子さんの父親は認知はしているようだが、その後別れている。
平成5年、2歳の陽子さんを連れた友里恵は、茅ケ崎市内の母子寮での生活を始めたが、そこでは1年ほどしか生活せず、陽子さんを連れて勝手に母子寮を抜け出した。
幼子を抱えて転々としながら生活していた友里恵は、平成7年に入って岐阜市内のとある風俗店の事務員の職を得た。
風俗店には寮もあり、友里恵はそこで陽子さんとようやく普通に近い生活をするようになる。
しかし、平成13年2月、部屋を極度に汚損したとして、友里恵と陽子さんは寮から退去せざるを得なくなってしまう。
ちなみにこの時点で陽子さんは小学生になっていたが、友里恵は陽子さんを小学校に通わせていなかった。
風俗嬢として勤務していたわけではなかった友里恵の給料は、寮費や光熱費、陽子さんの託児所代金を差し引かれると数万円程度だったといい、「これではランドセルも給食費も払えない」ことから、陽子さんに惨めな思いをさせるくらいなら通わせない、という選択をしたのだという。
寮を出た友里恵は、当時交際していた男性の社宅へ転がり込む。そして、男性の口利きがあったのか、男性の会社の事務員として職を得た。
ところが1年後、折からの不況のあおりでか、解雇されてしまう。同時に、交際相手の男性が新たに岡山県で職を得たことから、友里恵親子もその男性とともに岡山へと向かい、男性が勤務することになっていた会社の社長宅に一時的に身を寄せた。
ところが、である。
男性はその会社に就職することを取りやめた。そうなった以上は当然友里恵母子も家を出なければならなかったわけだが、行く当ては全くなかった。
男性は職探しをしていたようだが、平成14年6月、友里恵は突然男性の前から姿を消す。
倉敷市内の公園で当時78歳の男性と知り合うと、そのままその男性宅に転がり込んだのだ。
前記社長宅で面倒をみてもらっていた陽子さんも引き取り、6月25日以降、県営住宅で男性とともに生活をし始めた友里恵だったが、その選択は地獄への片道切符であった。
陽子さんの死
同居生活をし始めて1週間、なんと同居男性が体調を崩し入院してしまう。
ここでどんなやり取りが男性と友里恵の間であったのかは全くわかっていないが、とりあえず友里恵は留守を守る、という名目で陽子さんとともに男性の部屋にとどまっていた。
しかし、この時点で友里恵の所持金は1万3千円。男性が退院する目途はたっていなかった。
おそらく、もともと男性宅には買い置きした食料などもなかったとみえる。そもそも、高齢の男性の一人暮らしであれば、そんなに食料も必要ではなかったとも考えられる。
ともあれ、男性が入院してしまったことは予想外の出来事だった。
時期は7月。ただでさえ体力が消耗するこの時期に、友里恵と陽子さんは食事の回数を減らし、量を減らし、時には水だけで済ませるなどしたものの、7月が終わるころには食料と呼べるものはなくなっていた。
食べ物を口にする機会が減ると、人間は固形物を受け入れなくなるという。8月も半ばになると、陽子さんは水分しか受け付けなくなっていた。
かろうじて水道と電気だけは通っていた(6月までの支払いは男性によって済まされていたと思われる)ため、水と氷を舐めて、陽子さんは必死に命をつないでいたが、9月10日、飢餓による衰弱で死亡した。
8月が終わるころには友里恵自身も極度に衰弱していたが、陽子さんが死亡した後も一切外に助けを求めることをせず、結果として腐敗臭を感じた近隣住民らの通報によって助け出されることとなったのだ。
当初より、報道では慎重な姿勢がみられた。11歳が餓死、という信じがたい内容であり、その裏にはなにか報道できないような事実が隠されているのではないか、と見たのかもしれない。
またこの時代、生活保護受給者への関心も低く、平成8年には池袋で高齢の母親と息子が餓死する事件、平成11年には京都で生活保護を打ち切られた男性が衰弱死し、平成12年には宇都宮市で母子家庭の子供が凍死する事件、そしてこの平成14年には福井県で生活保護を受け付けてもらえなかった男性が衰弱死した事件も起こっていた。
一方で、友里恵母子が衰弱した経緯が判明するにつれ、友里恵の理解しがたい行動の数々に疑問を呈する動きもあった。
平成14年11月9日付け東京新聞の朝刊には、友里恵が陽子さんを学校に通わせていなかったことや、働きにも出ずに金がないとこぼしていたこと、さらには深夜に響き渡る陽子さんを罵倒する友里恵の大声を聞いたという住民の話などを掲載。
働きもせず、子供を家に閉じ込め、さらには男を渡り歩いて金を得ていたといった友里恵の行動を伝えている。
裁判では先にも述べたとおり、一審も控訴審も、友里恵が積極的に虐待したわけではないこと、少なくとも友里恵なりの愛情をもって接していたことなどは認めているし、量刑だけが争点の控訴審であり、多くの人々は友里恵には同情的であった。
ただ、一審で執行猶予がつかなかったのは、友里恵の無軌道な生活ぶりや思い付きとしか思えないような行動があったことに加え、生活保護行政上の問題と、友里恵の家族との関係性があまり語られなかった、深く追及されなかった面が大きいとされた。
なぜ、友里恵は陽子さんという守るべき存在がありながら、家族に頼ることも行政に頼ることも、近隣住民らに頼ることもしなかったのか。
以降、岡山県立大学保健福祉大学教授の近藤理恵氏の論文をもとに、友里恵がなぜ転落の一途をたどったのかを見ていきたい。