あの頃、三丁目の事件~昭和30年代のいくつかの事件~

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事件備忘録の読者はどの世代が多いだろうか。
私は昭和49年の生まれ。バブルへ向けて日本中が、そこそこの暮らしを出来ていた時代だった。
もちろん、ドラマ北の国からの黒板家のような生活レベルの人々もいた。けれど、そのドラマでも描かれたように、多くの人々は新しく生み出される文化を謳歌していた時代だった。

しかし昭和30年代はどうだったか。あの、「ALWAYS 三丁目の夕日」に描かれたのはまさしく昭和30年代、金の卵と呼ばれた少年少女が集団就職で上京する場面も描かれ、就職という名の「奉公」先の社長は軍隊上がりの暴君、みたいな人々もいた。
次々と誕生する新しい生活用品、電化製品、娯楽。戦後の焼け野原が嘘のように、たった10年やそこらで日本は成長した。
一方で人々は。新しいものが次々生まれる中でも、戦前からの家庭の形は守られた。家庭を守り、夫を支えて子を育てる母親たち、逞しく生きる子どもたち。ただその陰で思うように生きられず犯罪に走ってしまう若者も相当数いた。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」には、あの時代のどこにでもいた人々の日常が良い意味で描かれている。大好きな映画だ。

しかし、実際の昭和30年代は子供たちの誰もが学校に通えていたわけでもなかったし、親や家族を戦争で亡くして生きる意味を見失ったままの人、環境も場所によっては不衛生極まりなかった。
「あの家は寿司桶も、おしめを洗う桶も一緒」
そんな風に言われる人々も少なくなかった。

あの映画に出てくるような人々と同じ時代を生き、鈴木オートの社長やその妻、六子や一平と同じ風景の線路を歩きながら、東京タワーの完成に胸躍らせながら、結末は全く違ってしまった人々もまた、山のようにいた。

昭和30年代、ごくありふれたあのころに起きた事件をみっつ。

田園調布の嬰児殺人

昭和31年8月20日午前9時ころ、大田区田園調布の邸宅。
この家の女主人・津田靖子さん(仮名)は所用で実家のある広島県へ出かけていた。
しばらく留守にするため、数日前から実の娘である広本洋子さん(仮名/当時26歳)が夫と娘と共に留守番をしに来ていた。
その日の朝、娘の恵ちゃん(仮名/当時1歳)を子守に預け、用事を済ませて恵ちゃんの様子を見に戻った洋子さんは、布団の上でぐったりとした恵ちゃんを発見。
すぐに近所の医院へ担ぎ込んだものの、すでに恵ちゃんは死亡していた。

発見時、恵ちゃんは布団の上にうつ伏せになっており、やわらかい布団に鼻腔をふさがれたことで窒息したと思われ、目を離したすきの不幸な事故、と思われた。

ところが、恵ちゃんには子守がついていたはずだった。その年の初めから雇った、当時17歳の少女が子守だった。

その後、その子守が恵ちゃんを殺害したことを認めたことから、警察は子守を殺人の容疑で逮捕した。
少年事件でもあり、子守の氏名は明かされていないが、ここでは和江、と呼ぶ。
和江は殺害の動機について、「生きていくのが嫌になって死のうと思ったが、これまでさんざん奥さんに叱られてきたので腹いせで恵ちゃんを殺害した」と話した。

和江

和江は昭和14年に朝鮮の羅津(現・羅先特別市)にて3人姉妹の真ん中として生まれた。父親は満州鉄道株式会社に勤務していたが、和江が2歳のころ離婚、和江ら三姉妹は父親に引き取られた。しかしその父も病死、その後は大連市で暮らす伯父に引き取られた。
伯父は父親同様、満州鉄道に勤務し、社会部地方事務所長、病院事務局長といった社会的地位のある人物だったが、非常に頑固者で妻や引き取った和江らには大変厳しい人だったという。
通い始めた学校も終戦前後には機能しなくなり、和江は適切な教育や家庭でのしつけ、親からの愛情を受けられずに成長していく。

終戦に伴い失職した伯父夫婦とともに、和江らも日本へ引き揚げることになった。伯父夫妻の本籍地である広島県で暮らし始めた和江は小学校3年生に編入となったが、そもそもそれまできちんと学校に通えていなかったこともあって3年生の学力は身についていなかった。

広島での生活も楽ではなかった。大連ではそれなりに社会的地位のあった伯父だったが、父親の兄ということですでに高齢の域に入っており、もとより体も丈夫ではなかった。
病の床に臥せる伯母は昭和24年に死去、姉妹らは生活扶助を受け畑仕事をしながら昭和29年、和江は中学校を卒業した。
この時すでに姉は女中奉公へ出ていて、昭和30年の暮れに伯父が死去したのち、残された和江と妹は親戚の家に引き取られたが、姉の奉公先の口利きで年明けから件の広本家に奉公に出ることが決まった。

広本家は、奥方である洋子さんの母方(津田靖子さん)の実家が広島にあったことで縁が出来たとみえた。

広本家は川崎市下平間にあり、裕福な家庭だった。
昭和31年当時、高卒の初任給がだいたい5000円くらいだったというが、中卒の和江の奉公の代金は月額1500円。
牛乳や銭湯が15円、雑誌が30円、ラーメンが40円ほどの時代、家賃や食費がかからないことを考えれば、まだ16〜7歳の和江には不自由はなかったのかもしれない。
和江の仕事は洗濯、掃除、食事の支度などの家事全般に加え、広本家の娘である恵ちゃんの子守りも含まれていた。
この時代、奉公に出ずとも子供たちは何かしらの「仕事に近いお手伝い」をしていた。その中でも「子守り」は和江と同じように中学を出たくらいの少女たちにはよく任される仕事だった。

ただ和江の場合、近所の子供や親戚の子供の子守をすると言うのとは違い、雇用主である広本家の主人、そしてその妻である洋子さんのチェック付きと言うものだった。

叱責

洋子さんは和江に厳しかったという。
まだ26歳と、和江とは10歳ほどしか歳が違わなかったことも関係するかもしれないが、一生懸命家事をこなす和江に毎日のようにダメ出しを行った。
そもそも、広島の田舎で農作業こそしてきたものの、女中として何か訓練などを受けたわけでもない。もちろん、集団就職などで奉公に出る少女らもそんな訓練は受けていない、しかし、多くは家族のもとで幼い頃から家事や弟妹の世話などを仕込まれているのだ。
両親の離婚、その後の引き揚げに伴う転居や養親の死など、和江にはその日その日を生きるに精一杯であり、そもそも女中仕事などは向いていなかったと思われた。

洋子さんにしてみれば、給料を払っている以上はしっかりしてほしい、そういう思いもあったろう。あえて厳しく接することで、和江を一人前にしたいと思ったのかもしれない。

しかし、どうもそれだけとは思えない、和江への「いろいろ」があった。

和江は上京したらいつか東京見物や野球観戦に行きたいと思っていた。それを、広本夫妻にも話しており、「いつか休みを取らせて行かせてやる」と言われていた。
ところがその約束は、半年経っても果たされることはなかった。
また、この時代にはよくあった「頭シラミ」が和江の髪からも見つかったことがあった。洋子さんからすれば幼い恵ちゃんにうつりでもしたら大変だと、和江を広島へ帰らせようとした。
それだけは、と、泣いて懇願しなんとか解雇だけは避けられたが、1500円の給金は1000円に下げられてしまっただけでなく、洋子さんの叱責はそれまでにも増してキツくなっていった。

あまりに繰り返し繰り返し叱責されるうちに、和江は「自分はダメな人間である」と思うようになっていく。そして夜も寝られず、減額された給金から睡眠薬を購入するまでになっていた。
一方で、あまりに冷たい洋子の「仕打ち」に、それまでは平身低頭だった和江も、何もここまで言われることはないのではないか、奥さんだって約束を守ってなどくれないと思うようにもなっていた。

そんな和江にとって、恵ちゃんの存在は唯一の心のやすらぎだった。

三枚の座布団

夏、洋子さんの母親が盆まいりで広島へ帰ることになったと聞いた和江は、不安な気持ちを抑えきれていなかった。
自分の失態や不甲斐なさを、きっとあのおばさんは私の親戚たちに話してしまうだろう、それを聞いた故郷の家族や親戚はどう思うか。さぞや落胆するだろうと想像しているといてもたっても居られなくなった。
そして、いっそこのまま死んでしまえば、親戚や家族らの落胆した様子を洋子さんの母親から聞かされることもない、そう考えるようになる。
もう、いてもたってもいられなかった。

和江の心の中は、これまでの洋子さんからの仕打ちが昨日のことのように思い出されていたが、そんな時でも傍で微笑んでくれる恵ちゃんのあどけない笑顔に幾度となく癒されてきたことも同時に思い出されていた。

この子をずっとお守りしていたい。でも、もう生きていくのも嫌になってしまった。恵ちゃんも連れて行けば、ずっと私がお世話をしてあげられる…

和江は、津田家の留守番が終わる前日の8月19日、自己のために購入していた睡眠薬を恵ちゃんのミルクに混入させた。
しかし、恵ちゃんがなぜか嫌がって飲まなかったため失敗。翌、20日の午前9時頃、母親を出迎えるために恵ちゃんを和江に預けて広本夫妻が東京駅に出かけた隙に、恵ちゃんをうつ伏せに寝かせるとその上に3枚の座布団を重ねた。

不遇な娘

裁判では、女中奉公に来た少女による幼児殺害ということで、たとえ未成年者であってもその責任は重大であるとされた。
娘を殺害された両親にとってみれば、到底許せるものではなかった。

和江は洋子さんの叱責がことさら堪えたと話していたが、実際には洋子さんの叱責は特段ひどいものでも理不尽なものでもなかったという。
しかし、和江はいわゆる境界知能と判定されており、加えて定型の単純作業はこなせても、自分であれこれと考えながらその時々で臨機応変に業務を行うということが和江にとっては大変難しいことだった。
そもそも、女中という仕事自体が和江には向いておらず、そんな中での洋子さんの叱責は、和江にとって「理不尽」なことでしかなかったのだという。

裁判所は、戦後の混乱期に教育をきちんと受けられず、かつ、和江自身の知能の問題や事件までの環境などを考慮せずに判断することは不適切とし、刑事罰でもって罪を償わせるよりも、家庭裁判所の判断に委ね、和江の今後を指導監督していくことが真の意味での贖罪につながるとした。

和江は警察に逮捕されて初めて、自身の罪深さに愕然としたという。
自分のことにとどまらず、自分を応援してくれた姉や親戚のことにも触れ、深く反省していたことも裁判所は見ていた。

もちろんこの時代、和江に限らず親が早逝してしまった子供は山ほどいた。和江だけが特別不遇だったわけではない。
同じ環境で育った姉や妹の存在を見れば、これは環境というよりも和江自身の問題が大きいというのはそうだと言える。

が、その本人の資質と環境が最悪の組み合わせとなってしまった時、おそらく自分でも訳のわからないままに行ってはいけない方向へレールのポイントを切り替えてしまうのかもしれない。

和江は深い後悔を胸に、家庭裁判所での処分を受けた。

瓜連の少女殺害事件

茨城県那珂郡瓜連町静(現・那珂市瓜連)。夏休みが始まった昭和31年7月23日、少女は明々後日から日立市河原子海岸で始まる臨海学校に行くための準備をしていた。
中学に入り、初めての臨海学校。少女は胸躍らせ、早くからそのための着替えなどをバッグに詰めて、両親が新調してくれた浴衣を着ることを楽しみにしていた。

午後4時、少女は遊びに来ていた友人が帰宅したので、庭先に面した四畳半の部屋で読書をしていた。この時間、夏はまだ日が高く、自宅前に広がる田畑では少女の母親が農作業をしていた。
ふと、庭先に人の気配がした。そこには、若い男の姿。少女はこの男を知っていた。二日前だったか、同じような時間に訪ねてきていた。
その時は母がいて男を帰らせたが、この日は少女しか家にいない状態だった。

「大子まで帰るから100円貸してくれ」

若い男はそう少女に言ったが、そんな金を持っていない少女は断った。
すると男は、
「じゃ、母ちゃん帰ってくるまで待っていべー」
といい、少女が座っていた板の間に腰かけた。

突然の出来事と、男に居座られたことで少女は途端に恐怖を感じ、すっと立ち上がると外の畑にいる母親に向かって呼びかけた。
「母ちゃん!」
しかし母親は150m離れた畑にいたため、少女の叫びが届かない。
「黙れ。」
振り向くと、先ほどまでにこにこしていた男が恐ろしい顔で少女をにらみつけている。ただごとではないと察した少女はさらに大きな声で
「母ちゃんよぉ!!!」
と叫んだ。

次の瞬間、少女は喉元を一突きにされ、即死した。

町長が名を連ねた「上申書」

殺害されたのはこの町で両親、姉妹と暮らしていた柏木京子ちゃん(仮名/当時12歳)。
遺体は、喉元を前方から一突きにされ、かつ、後頭部や頸部を複数回刺されており、第四頸椎創傷、左頸頭部および後頭部から左肩の後ろ側にかけて6か所の創傷が認められた。
死因は、延髄の創傷に基づく呼吸麻痺。即死だった。

のどかな田畑の広がる町で起きたこの残虐な事件は、京子ちゃんの両親、姉妹のみならず町全体を怒りと悲しみで包んだ。

母親の証言などから、容疑者はすぐに浮かんだ。数日前に突然家に来たあの怪しい若い男。
そして逮捕されたのは21歳の若者だった。

男は名を矢部吉蔵(仮名)といい、事件当時は無職だった。
裁判で矢部は「命を持って償う気はない」などと言い、真摯な反省が見られないとして死刑が求刑された。
12歳のいたいけな少女が理不尽にも殺害されたことだけでも死刑相当であるが、加えて犯行現場が少女の自宅だったことや、当時の農村の生活スタイルなども影響していた。

私も農家で育ったのでよくわかるが、昭和の終わりころまでは老人や病人、子供など農作業が出来ない人が留守を守り、働ける家族は皆、夜遅くまで農作業をするというのは当たり前だった。
ほかに仕事を持ちながらも、出勤前の早朝や帰宅後の夕方から日が沈むまで、兼業農家の大人たちは時間を作って畑仕事をするのだ。
その間、子供たちは家で兄弟姉妹の面倒を見、働く家族の支えになっていた。

事件が起きた瓜連町静のあたりも、多くはそのようなスタイルで家族の暮らしは成り立っており、今回の事件はまさにそういった生活スタイルを脅かしたともいえ、町全体の怒りとなったのだ。

通常、裁判所に提出されるのは犯人の情状面を考慮してほしいという嘆願書の類がほとんどだったこのころ、矢部に対してはそういったものは一切なかったという。
かわりに提出されたのは、瓜連町長以下、町民の大多数が連署した「死刑を望む上申書」だった。

しかし一審の判決は「無期懲役」。

審理の場は東京高裁へと移された。

東京高裁の判断は、控訴棄却。
死刑を科するか否かは、犯罪行為への応報の見地のみで決めてはいけないとするものだった。

事件は12歳の何の落ち度もない少女が自宅で殺害されるという残忍かつ極悪非道なものであり、両親の憎みても余りある報復の感情は被告人矢部に対する刑を決めるうえで軽視してはならない、としながらも、やはりその「応報」の感情のみで刑の軽重を決めるということはよろしくない、被告人の性格や年齢、生活環境、そして犯行の動機などを総合的に判断し、そのうえで死刑を選択しない余地がないと言える場合のみ死刑を科せられる、というのが高裁の判断である。

矢部のそれまではどのようなものだったのか。

生い立ちと事件まで

矢部は昭和10年生まれ。精米業を営んでいた両親の長男として生まれ、戦時中に日立市へと移り住んだ。しかし、昭和20年の日立空襲で一家の大黒柱である父を失った。
終戦後は母親に育てられたが、貧困のために中学にはろくに通えなかったという。
中学卒業後に東京の蕎麦屋で2年半ほど働いたというが、人間関係がうまくいかずに辞めてしまう。
以降、東京、茨城、埼玉の関東圏の飯場を渡り歩き、何とか自分一人で生活していたという。
ちなみにこの間、矢部は警察沙汰を起こすなどの粗暴な行動は一切なく、無口で人間関係を築くことが苦手なこと以外に問題行動はなかった。

実家はというと、姉妹らはすでに家を出、母親が残ってはいたがその母親は内縁関係の男性がおり、人間関係の構築が苦手な矢部が実家に戻ることは難しかった。
ただ、この内縁の男性は矢部のことを気にしており、失職した矢部を知人に紹介して仕事を斡旋してもらうなどの協力をしてくれていた。

昭和30年、土木の仕事を失って仕方なく実家へ戻っていた矢部は、とりあえずは農作業などをしながら土木の働き口を探していた。
そんな時、その母の内縁男性の知人から、静岡の土木工事に矢部をぜひ、という話があると聞かされる。
喜んだ矢部だったが、静岡へ行く日程がいつまでたっても決まらず、結果、取り消しになってしまった。
ひどく落ち込んだという矢部は、なぜか旅費を自分で工面して、単身静岡の現場に行けば職に就けると思い込んだ。

そして、そのためには農家の手伝いをして旅費を稼ぐしかないと考え、実家周辺よりも農家の多かった瓜連にやってきたのだ。

国鉄水郡線静駅に降り立った矢部は、そのまま常北町石塚方面に向かう県道を歩きながら、一刻も早く旅費を工面したいとそればかりを考えていた。
そして、金を得るには盗みに入ったほうが効率的、と思い立ち、付近の農家を探って歩いた。
そしてその日の夕方、京子ちゃんの家に来たものの、その時は京子ちゃんの母親がちょうど畑から返ってきたところで、追い返されてしまった。
その際、母親が
「うちのひとは警察官だから。早くいきなさい」
と言ったという。警察官の家はさすがにマズいと思った矢部はそのまま駅まで引き返したのだが、その駅でたまたま立ち話をした人から、京子ちゃんの父親が警察官ではないことを聞かされた。

ここで、矢部の心には邪悪なものが首をもたげる。

バカにしやがって。

矢部は柏木家に盗みに入ることを決意し、うなぎ包丁を胴巻きに忍ばせた。

死刑の判断基準

裁判所は地裁、高裁ともに矢部には死刑ではなくその生涯をもって贖罪の人生を歩ませることが妥当であるとした。
京子ちゃんの同級生らは陳情書を提出、町長の名もある死刑を求める上申書をもってしても、その判断は変わらなかった。

犯行自体は重大な結果となったが、その計画性においても、ハナから強盗に入るつもりというよりは窃盗の決意が強盗になり、京子ちゃんを殺して金を奪う、というよりは京子ちゃんの思わぬ行動が引き金となって犯行発覚を防ぐには殺すしかない、となり、殺せば逮捕されないのだからついでに現金を奪っておこう、という考えだったと認定。
「命で償う気はない」という発言も、罪の重さを実感していないのではなく、死刑を身近に感じているからこそ、自身の罪の重さをわかっているからこそ、死刑になりたくないという気持ちから出た言葉であるとした。
これらは裁判所が勝手に判断したのではなく、やはりそれまでの矢部の性格や人間関係、もともと一旦思い立ったことは前後の見境なく邁進する性格などを総合的に判断していた。

両親をはじめとする多くの人々の峻烈な処罰感情は当然のこととし、そのうえで、被告人を死刑に処して終わりにするよりも、被告人が生涯を通じて贖罪の人生を送ることこそが長い目で見れば本当の意味での慰謝となる、とも判決理由で述べられた。

死刑は今でも同じだと思うが、被告人の性格、その生活経歴、前科の有無、家庭環境、犯行の動機、原因、犯後の情況など諸般の情状を勘案して、犯人に対しては死刑以外の刑に処すべきではないと結論される場合においてのみ、この究極の刑を選択できるというべきである、とされている。

たしかに矢部はそれまで前科もなく、粗暴な面もなかった。犯行も綿密な計画というより、行き当たりばったり感はある。
しかしそれによって人が殺害されるという「結果」は、被告人のそれまでがどうであろうが関係のないことである。もし矢部が、前科前歴がある粗暴な人間だったら死刑だったのか。殺されたのは同じなのに、実質それ以外の面で犯人の刑が決まるのだ。

上告したかどうかが不明であるが、矢部のその後の人生が真の贖罪の人生だったと信じたい。

品川の毒入りサイダー誤飲事件

昭和32年5月6日。東京地方裁判所は異様な熱気に包まれていた。法廷内には女性らの姿も目立つ。みな、固唾をのんでこの裁判を見守ってきた人々だった。

被告人席には中年の女の姿。女は、少年と共謀して夫の殺害を図り、さらにはその過程で重大な過失を犯してこともあろうか幼い娘を死なせてしまったのだ。
法廷に集まっていたのは彼女に同情した近所の主婦たちだった。皆、この女の長年の苦悩を目の当たりにしており、裁判所に対しては「大岡裁き」を期待していた。

「主分。被告人を懲役3年に処する。ただし、本裁判確定の日から4年間右刑の執行を猶予する。」

法廷は沸いた。検察が求刑していたのは殺人未遂と重過失致死での懲役7年だったが、裁判所の判断は殺人未遂と過失致死だった。そして、裁判長は判決文の中で事件に至るまでの夫による女への傍若無人なふるまいや、女がどれほど夫に尽くし我慢に我慢を重ねてきたかに触れ、本件犯行が起こるに至った理由には夫の責任が重い、と述べた。

釈放となった女は支援者の主婦らと抱き合って号泣、件の夫も頭を丸めて法廷に姿を見せており、終始、「今回の事件はすべて俺が悪かった」と反省の弁を述べていたこともあり、悲しい事件ではあったけれども女の人権が守られた、そのような雰囲気に皆が酔っていた。

女が受けた酷い仕打ちとはどのようなものだったのか。

夫婦

この物語の主人公、大野ミサヱ(仮名/事件当時37歳)は大正10年に新潟で生まれた。父親はミサヱが生まれる前に出奔、ミサヱは母方の祖父母に育てられた。
中学を卒業したのちは、東京の伯母が経営する食堂で働いていたが、そこに曳き八百屋(荷車などに野菜を積んで売り歩く)として出入りしていた大野繁蔵(仮名/事件当時42歳)と恋仲となり、その後昭和15年に結婚。
太平洋戦争で中国に出征した期間はあったが、二人の間には事件当時17歳の長女を筆頭に四男四女が生まれたことからも、非常に仲の良い八百屋の夫婦、という風に思われた、が、実際は全くそんな状況ではなかった。

新婚当初は仲が良かった二人だったが、長女を妊娠した頃から繁蔵の態度は変わっていく。些細なことで叱りつけ、気に入らないと妊娠中のミサヱを殴る蹴るなどしたため、ミサヱはたまりかねて実家の母に相談することもあった。
もともと繁蔵との結婚に反対だった実母らは、暴力まで受けている娘を心配して離縁して帰って来いとまで言っていたが、そのたびに繁蔵が謝罪し、心を入れ替える旨の誓約を交わすため、ミサヱも子供のことを思って離縁を思いとどまった。

しかしミサヱが戻ればまた同じことの繰り返し。それは事件が起こる17年の間治まることはなかった。

繁蔵の悪行は身体的暴力にとどまらなかった。女癖も非常に悪かったのだ。
繁蔵は曳き八百屋から店舗を構える青果店へと商売を成功させており、南品川のその店は奉公人も抱える繁盛店だった。
が、隣近所の評判はあまりよくなかったという。店に対してというより、繁蔵のその人となりに対して評判がよくなかった。

暴君

終戦直後の昭和22年、都心は食糧難であり、食料を扱う店は軒並み成長していく。その八百屋が軌道に乗り始めたころから、繁蔵は家に戻らなくなった。

昭和24年ころから女遊びに精を出し始めた繁蔵は、築地の青果問屋の娘と深い仲となりいわゆる妾としてアパートに囲うようになった。
しかもその2年後には家族も出入りする南品川の青果店を二分し、なんとそこで妾にパチンコ店を経営させたのだ。
近隣の人々は眉をひそめ、軽蔑の意を込めて「犬パチンコ店」「動物パチンコ店」などと揶揄したというが、昭和27年にその関係は終わった。
が、妾は置き土産を残していった。それは繁蔵との間にできた幼い子供二人だった。

ミサヱの心中は穏やかであろうはずはなかったが、夫のためにすすんでその二人の子供にかかわり、ふたりに着物と金銭をつけた上で養子に出してやったという。
これで繁蔵の女遊びもなりを顰めるかに思われたが、3、4か月もすると繁蔵はまた女遊びを始める。
今度は伊東温泉の娼婦奉公をしている女だった。

繁蔵は以前にもまして傍若無人となり、店のことも奉公人らに任せきりでミサヱや子供らのこともまったく気にしなくなった。
産後間もないミサヱにも容赦なく仕事を言いつけ、歯が痛んでも病院に行くことを許さず仕事をさせ、奉公人らには売れ残りを出してはならぬと、夜遅くまで曳き売りをさせた。近所では「あの店で三日と続く小僧なし」と言われるほど、繁蔵の暴君ぶりは有名だったという。

ミサヱに対する仕打ちは周辺の人らの耳にも届いており、実際にミサヱが暴行を受けたり夫婦げんかに発見しているのを見た人も多かった。
しかしそんな夫婦仲でありながら、ミサヱは妊娠出産を繰り返していた。

ミサヱは子供たちのためだけに繁蔵の仕打ちに耐え忍んでいた。繁蔵は妾やその子供らには金を惜しみなく使うのに、ミサヱとその子供らには出し惜しみしたという。
ある時、長男が高校進学の希望を持っていることを知りながら繁蔵がそれを峻拒していたことを知りミサヱの怒りは頂点に達する。

そしてミサヱはこの頃から、あることを実行しようと画策し始めたのだ。

殺害計画

ミサヱらの自宅近くに暮らしていた宇野淑子(仮名)は、かねてよりミサヱの境遇にいたく同情していた人物の一人だったが、ある時ミサヱから思わぬ依頼を受けた。
「淑子さん、私決めたの。あの人をもう殺すしかないと思うのよ。」
そう切り出したミサヱは、淑子に対し、青酸カリを手に入れる方法を教えてほしいと言い出した。
おそらく淑子は仕事上、青酸カリを使用できる立場にあったと思われるが、当然ながらはいどうぞ、というわけにはいかなかった。しかも、ミサヱはその青酸カリで夫を殺害するのだと明確に打ち明けていた。

淑子は考えあぐねたが、淑子自身繁蔵をなんて男だと思っていたこともあってか、昭和34年1月ころに青酸カリをミサヱに渡した。

ミサヱは、繁蔵が好きなサイダーに混ぜ込んで飲ませ殺害しようと企んだ。

2月6日、夜遅くに帰宅した繁蔵の目につきやすい、店舗内の洗濯機の上にグラスをかぶせた状態で青酸カリ入りのサイダー一瓶を置いたが、その日は繁蔵の目に留まらなかったのか、それを飲むことはなかった。
翌7日、念を入れて青酸カリ入りサイダーと共に、好物の桜餅も添えて店舗内の野菜台に置いた。この日、明け方に帰宅した繁蔵はそれに気づいて手に取ったものの、なんとなくサイダーの色がおかしいと感じたようで飲むことはなかった。
2度失敗したミサヱは、焦りがあったのかサイダーをすぐまた出せるように店舗内に置きっぱなしにしてしまった。

9日午後八時ころ、店の中でそのサイダーを見つけたのは、四女の登美子ちゃん(当時7歳)だった…

最悪の結果と世間

すぐさま病院に運び込まれた登美子ちゃんだったが、小さな体はすでに致死的な状態にあった。

登美子ちゃんを治療中、医師に対して八百屋の奉公人の一人が
「裏口に落ちていた」
といって、件のサイダー瓶を提出していた。医師はすぐさま警察に提出、その3日後、品川署は任意で事情を聞いていた母親のミサヱを、登美子ちゃんに対する殺人と、繁蔵に対する殺人未遂で逮捕した。

「少女怪死」
という見出しをうった週刊サンケイをはじめ、多くの新聞週刊誌は悪い夫を見限った妻の罠にまさかの娘が引っかかってしまったという論調で書き立てた。
さらに警察は別の人間も逮捕していた。あの、サイダーの瓶を見つけたといった奉公人である。
彼は当時17歳の少年だった。茨城の農村出身の少年は、繁蔵の八百屋に2年前から丁稚奉公に入っていたが、繁蔵はご存知の通りの暴君として君臨しており、少年は何度も夜逃げをしていた。
先にも述べた通り、繁蔵は自分は女遊びにかまけて店のことなど全てミサヱに任せきりのくせに、少年ら奉公人には暴力を含めて厳しく接していた。朝早くから夜遅くまでこき使われ、粗末な食事しか与えられない生活に嫌気が指すにとどまらず、少年はいつしか繁蔵に対して憎しみを抱くようになっていた。

ミサヱから思わぬ話を持ちかけらたのは、昭和34年の正月明けの頃だった。
「もしも私に協力してくれたら、50万円の報酬と家をあげる」
少年はいつの頃からか近所の人や同じ奉公仲間に対し、繁蔵を殺してやりたいと言う話をしていたといい、それをミサヱが聞きつけたのだ。
少年に話を持ちかけた時点では、まだ青酸カリを手に入れられてなかったことでミサヱとしてはプランBだったのだと思われる。
少年が計画に応じたことで、頭を殴りつけてから荒縄で締め殺す、あるいは包丁で刺し殺すなどを考えては見たものの、実行できにいたところへ青酸カリがもたらされた。

ミサヱはプランAを実行に移したのだった。

しかしその結末は予想もしない、最悪中の最悪のものになってしまった。少年がサイダーの瓶を提出したのは、あまりの出来事に自身の責任を感じてしまったからかどうかは不明だが、そのことでミサヱの犯行はすぐに発覚してしまった。
夫婦の問題が、なんの落ち度もない幼気な娘に向いてしまった結末だったが、世間はミサヱの味方だった。

報道された直後から、八百屋がある品川南の商店街の奥方連中を主体として、減刑嘆願運動が始まった。皆繁蔵がミサヱとその子供に何をしてきたか、奉公人らにどんな仕打ちをしてきたかをよく知っていた。
ミサヱが8人の子を成しただけでなく、何度も妊娠中絶がその間に行われていたことも週刊誌は暴き立てた。

当の繁蔵もあまりの結末に、流石に世間に顔向けができなかったのか、平身低頭、あの暴君ぶりが嘘のようにしょげかえっていた。
世間はミサヱがここまで追い詰められたのは繁蔵の傍若無人が過ぎたからであるとしてミサヱに寛大な処分を願っていた。そして、殺人ではなく登美子ちゃんへの過失致死と繁蔵への殺人未遂ということで執行猶予を勝ち取った。
世間は「これでよし」と言わんばかりで、裁判所の心ある判決を大いに評価していた。

ところが検察が控訴したと知って、事態は変わり始める。

検察が控訴したのは、ミサヱが少年にだけ夫殺害を打ち明けていたわけではなく、他にも数人の男らに金銭をチラつかせて夫殺害を交渉していたことを重視していた。
そもそも青酸カリを入手できたのはミサヱから打ち明けられた淑子の存在があった。また、少年に対しても破格の金額と家一軒という報酬を用意していた。
これ以外にも、少なくとも二人の男に夫殺害を持ちかけていたことが判明していたのだ。

繁蔵のクソっぷりを一旦外して考えてみれば、ミサヱは計画的に夫殺害を企て、自分が疑われないように他人を使い、しかも少年に対しては「一切の罪を少年が被る」という約束までさせていた。報酬も、それが守られた後に支払われる約束になっていたというから抜かりがない。

しかし青酸カリ入りのサイダーをしまい忘れるとは抜けているにも程があるわけだが、週刊誌などの報道ではしまい忘れたのではなくて一応しまったのだが、登美子ちゃんが偶然見つけてしまったという話もあった。
子供の視線は大人とは違う。大人からは見えにくい場所でも、子供の目線にはむしろ目についてしまったのかもしれない。

5ヶ月後に行われた控訴審では、あれほどまでに熱心に通い詰めていた商店街の主婦らの姿はなかった。皆、もうすでに祭りのあとだった。

世間というのは面白いもので、一旦お祭り騒ぎが終われば、それまで神輿の上にいた人物を今度は引き摺り下ろそうとするものが現れる。
悲劇に見舞われた不幸な人は、不幸なままでいるから叩かれないのだ。もしも少しでも不幸の色が薄れたらその時は、世間からの仕打ちが待っている。
あの隣人訴訟で有名な三重の預けた子供が水死した事件でも、裁判の前と後で世間の同情は極端に変わった。

それは、令和の世も終戦直後の昭和の時代も、変わらない。

ミサヱはなんと繁蔵と離婚しなかった。形だけの別居を経て、控訴審が開かれる頃には再び、繁蔵の店を開けたのだ。
ミサヱに同情的だった街の人々も、一人また一人と、距離を取る者が出始めた。

控訴審判決は逆転判決となった。
数ヶ月に及ぶ計画の末の犯行であるにもかかわらず、地裁では夫婦の問題ばかりが注目され、他人を唆して協力させるという利己的なミサヱの犯行様態は悪質として、懲役3年の実刑が言い渡された。

三丁目の夕日に憧れて

この事件はいずれも、昭和30年代の「どこにでもいる人々」が起こした、あるいは被害者となった事件である。
和江は六子となんら変わらないし、少女を殺害した男の道を、武雄も歩んでいたかもしれない。皆、貧しく必死に生きていた。
繁蔵は酷い人間だったが、奉公人への厳しさはこの時代当たり前であり、鈴木オートも六子に容赦なかったし、軍隊上がりの店主だった。
ミサヱだって、鈴木オートの奥方のような人生を送れていたはずだったのだ。
今の世ならば、貧困や親との別離、上司のパワハラや先輩社員のいじめなどは相当に酌量もされるだろう。しかしあの頃は、そんな人は腐るほどいた。六子は長いこと、母親に言われた「口減らし」という言葉に傷ついていた。子供を育てられないほどの貧困があったし、それでも子供は親にとって稼ぐための「道具」でもあったあの頃。
武雄はお金のために身近な大切な人を傷つけた。それが、あの茨城の若者とどれほどの差があったのだろうか。ほんの少しのレールのずれが、簡単にそして大きく結末を変え得る時代だったのだろうな、と思う。

子供たちは元気に駆け回り、はすっぱなお姉さんをかっこよく思ったり、たばこ屋のおばちゃんにどやされたり、そんな日常のすぐそばに、それでも悪意はいつもあった。

東京に暮らす人々は、形作られていく東京タワーに夢を託し、夕日は明日への希望だった。
地方で暮らす人々も、東京タワーの噂を聞きながらいつか見に行きたいと胸膨らませ、上京していった人々の土産話を楽しみにしていた。

彼らが見た夕日は、今も街を照らしている。

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参考文献
昭和34年5月6日/東京地方裁判所/刑事第13部/判決

浮気夫の身代わりで「毒入りサイダー」を飲んだ愛娘
駒村吉重 著/新潮45 2008年3月号