子供の幸福、親の愛~ある母親による人身保護請求~

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一度は愛し合い、結婚し子をなした夫婦であっても所詮は他人。
いくら子は鎹(かすがい)といえども、それにも限界がある。

双方納得の上で子の監護、親権を持つことが出来れば問題もなかろうが、離婚した後は単独親権になる日本において、子供の親権、監護権を得られなかった側の親が「連れ去り」と主張することは少なくない。

子の親権についての議論はあるとして、子が幼ければ幼いほど、母親が育てる、親権を得るというケースが多いが、そこには母親の愛というパワーワードが君臨している。

母親の愛。

それに真っ向立ち向かったある父親の裁判の話。
(注:これは平成56年の判決であり、後の同種(別居中の親による子供の取り合い)のケースにおいてはそれぞれ事情が異なること、判断が分かれていることを断っておきたい。)

ある夫婦

舞台は平成5年の北海道。札幌市内で生活していた夫婦とその家族の話である。
ここでは仮に、山本要次さん、香苗さん夫妻とする。子供は花ちゃん、当時生後8か月。

山本さん夫妻は平成4年に婚姻、翌年の平成52月に長女となる花ちゃんが生まれた。
「事件」が起きたのは平成5年の522日。
香苗さんはその一週間前の515日、花ちゃんを連れて苫小牧市の親戚(実母の妹)宅にいた。
実は夫婦の間には花ちゃんが生まれる前から溝が出来ており、香苗さんは離婚を視野に別居を図ったのだ。

ところがこれに納得していなかった要次さんが、すぐさま香苗さんと花ちゃんの行方を探し回り、22日になって苫小牧の親戚方にいることを突き止めた。
香苗さんによれば、突然押しかけてきた要次さんが花ちゃんを抱いたかと思うと、すぐさま車に乗り込み花ちゃんを連れ去ったというのだ。
その後7月になり、要次さんから離婚と親権者を指定する調停の申し立てが行われた。

要次さんとの離婚に異論はなかった香苗さんだったが、このままでは花ちゃんの親権を奪われてしまうことを恐れた。そう、離婚したら日本は単独親権である。
しかも、香苗さんは花ちゃんが夫と共に去って以降、面会を申し入れたにもかかわらず拒絶され、花ちゃんに会えていなかった。
そこで香苗さんは花ちゃんが夫に連れ去られ、現在に至るまで夫とその両親らに違法に拘束されているとして、人身保護法に基づいて人身保護請求の訴えを起こし、花ちゃんの釈放並びに引き渡しを求めた。

札幌地方裁判所

平成51018日、札幌地方裁判所。

事実関係にほぼ争いはなく、争点は要次さんとその両親が花ちゃんを香苗さんから引き離し自分たちの手元に置いていることに「違法性があるかどうか」だった。

どうやってその違法性を判断するかというと、昭和43年の最高裁判例に基づく。

夫婦関係が破綻に瀕しているときに、夫婦の一方が他方に対し人身保護法に基づき共同親権に服する幼児の引き渡しを請求した場合、夫婦のいずれに監護させるのが子の幸福に適するかを主眼として幼児に対する拘束状態の当、不当を定めるべきであり、拘束者よりも請求者によって監護養育されるほうが子の幸福に適するという場合には、拘束状態が不当なものとして、当該拘束が違法であって違法性が顕著というべきである(最高裁判所昭和4374日判決)

この昭和43年のケースは、判決文から推察するに、夫婦が別居するに至って母親のもとに2歳の娘がいたところ、父親がそれを不服として妻に対して人身保護法に基づき子の福祉を考えた場合、母親ではなく父親である自分の方が親権者としてふさわしい、と主張したと思われる。
そして重要な部分として、おそらくこの父親は経済的な立場を強調し、その点で娘に対して母親よりも十分な生活を保障できる、という主張をしたと思われる。

しかし、子の幸福というのは決して経済力のみで決まるものではなく、双方の愛情や環境、それらを比較検討し、大きな差(わかりやすく言えば非)があるにもかかわらず子供を拘束しているとすれば、それは違法であって違法性が顕著であるといえる、とした判決である。

このケースの場合、父親は養育費を払わなくていいなら離婚に応じてやると発言するなど子供に対する愛情の面では母親のそれよりも不足している面が見受けられたのみならず、母親に対して経済的優位な立場を利用し、嫌がらせを兼ねて養育費を払うくらいなら娘も奪ってやるといったような不穏当な手段、動機が見受けられた。
結果、最高裁は父親の上告を棄却し、子供はこれまで通り母親のもとにいることが子の幸福であるとした。

今回の要次さんと香苗さん夫婦のケースも、似た部分はあった。

香苗さんは父親がすでになく、札幌市内で一人暮らしをする実母の存在があった。が、実母は心臓に病を抱えていて、生活保護を受けていた。
香苗さん自身も、仕事はしていたがスーパーのパートであり、住まいも実母が暮らしていた賃貸アパートに身を寄せている状態だった。

他方、要次さんはというと、中古車販売業を手掛け、実家の両親は健在。しかも二世帯住宅の持ち家で、自身は月額30万円、同居する父親は鉄工所を経営しており月額50万円それぞれに収入があった。
さらに、母親は不動産収入が年間約500万円あり、経済的にはかなり余裕のある家庭であることは間違いなかった。

香苗さんはその事実は認めつつも、自分も働いており、実母と同居することで月額22万円の収入が見込め、祖母と母子の3人暮らしならば十分に花ちゃんを養育できると主張。また、花ちゃんがある程度大きくなるまでは仕事をセーブし、花ちゃんの養育に重点を置いた生活をしていくと主張した。

札幌地方裁判所は、花ちゃんが生まれて以降、要次さんに連れ去られるまでの3か月間、大きな問題もなく香苗さんが監護養育している点、母親として当たり前の愛情を持っていること、今後も実母の助けを借りながら花ちゃんを育てていく意欲と能力があることを認めた。
一方で、要次さんについても香苗さんと同等の花ちゃんに対する愛情があること、実際に花ちゃんは要次さんと祖父母のもとで健やかに成長しており、経済的、人員的にも要次さんと祖父母による養育は問題があるとは言えない、とした。

しかし、札幌地方裁判所は香苗さんの請求を認めた。

花ちゃんにとって、最も自然で幸福なことは、経済的に余裕のある養育環境でも、愛情あふれる父親と祖父母でもなく、母親のもとで、母親によって養育されることであると判断したのだ。

たしかに、経済的に余裕のある養育環境は子供の幸福に関係することではある。香苗さんは母子家庭となり、香苗さん自身が働かなければ生活は成り立たず、たとえ働いたとしても香苗さんが見込める月収は要次さんの月給に満たないし、住居も7畳二間のアパートで香苗さんの実母との3人で生活せねばならず、その環境から見れば要次さん側が圧倒的に優位であるのは明らかだった。
が、札幌地方裁判所は、その経済的な格差があり、それが香苗さんに不利に働くのであるならばむしろ要次さんがその足りない分を補うべきであり、住居環境も子供の養育に不適切であるとまでは言えない、と判断した。

花ちゃんがまだ1歳に満たない乳児であること、そしてそのような時期には母親からの愛情やスキンシップがなによりも子供の幸福であるとして、要次さんとその両親に花ちゃんを釈放し、香苗さんに引き渡すことを命じた。

最高裁の判断

要次さん側は判決を不服とし、最高裁へと上告(おそらく跳躍上告とみられる)した。
上告代理人は、その理由として以下の3点を挙げた。

①要次さん側に違法性がない
②原判決が憲法第十四条の性別により差別されない条項に反している
③原判決は憲法第二十条の宗教の自由を無視している

①について、これは婚姻中の夫婦はその子供に対して共同親権を有していることが関係している。たしかに香苗さんと要次さんの夫婦関係は別居していて破綻している状態ではあったが、元はと言えば夫婦が再構築を誓い合ったにもかかわらず、香苗さんがそれを反故にし、要次さんになんの断りも話し合いもなく花ちゃんを連れて家出したことにあった。
要次さんが花ちゃんを拘束したのも、父親として親権と監護権を有している状態でのことで、かつ、香苗さんが「別居する」とか「娘は私が育てる」と言った意思表示をしていない以上、この時点で要次さんが花ちゃんを自分の手元に置いたとしてもそれは香苗さんが勝手に花ちゃんを連れ出し別居したのと同じことで、そこに違法性はない、ということだった。

②について、親権を決めるにあたって、父親母親それぞれの立場は平等でなければならず、そこに要次さん(父親)の著しい障害があるならばともかく、単に母親であることだけでその立場を重視するような判断は男女平等に違反しているというもの。

③は、香苗さんのそれまでの人生にあった。
香苗さんは親の代から熱心なとある宗教の信者だった。香苗さんは生後4カ月で親から宗教に入信させられており、香苗さん自身もそれに疑いを持つことがないだけでなく、熱心な信者として宗教活動に専心していた。
要次さんやその家族にも入信を「強制」した事実もあり、それでは花ちゃんも同じように親の勝手で宗教の自由を奪われてしまう、という可能性があるとした。

これらの上告代理人の上告理由について、最高裁判所は「原判決破棄、本件を札幌地方裁判所に差し戻す」という判決を下した。裁判官全員一致の判断だった。

最高裁判所は、人身保護請求に基づき共同親権に服する幼児の引き渡しを請求する場合、夫婦のどちらに監護させるのが子の幸福に適するかを主眼としてその子が置かれている状況の当、不当を見極め、請求の当否を決すべき場面において、子を拘束している側の状況が子の幸福に反することが「明白」でなければならない、とした。
その上で、要次さんと香苗さんの場合、たしかにその親としての愛情や監護能力において二人の間に大きな差異があるとは一概に言えないとしつつ、要次さん(拘束者)側の養育環境が花ちゃんの幸福に反するとも言えず、むしろ経済状態、居住環境という点では明らかに要次さん側が優れているので、花ちゃんの幸福に反しているとは言えない、と判断した。
さらに、たとえ花ちゃんが生後1年未満の乳児であることを考慮したとしても、要次さんに養育されることが花ちゃんの幸福を阻害するとは言えない、とした。
これは、札幌地方裁判所で言われた、「子が幼ければ幼いほど、母親の愛情が不可欠」といった判断を否定、いや、正確に言うとそれは確かにあるとしながらも、だからといってそれがすべてではないし、なによりも優先されるものでもない、とした。

その他の理由については言及していないが、そもそもとして共同親権を持っている要次さんがその権限に基づいて花ちゃんを養育している以上、そしてそこに著しい非や、花ちゃんにとって有害な事情が存していない以上、人身保護法に基づいた請求としては足りていない、要次さん側に違法性あるとまでは言えない、という判断だった。

舞台は再び札幌地方裁判所へと戻った。

そして、平成6324日、札幌地方裁判所は香苗さんの請求に対し、それを棄却する判決を言い渡し、確定した。

子の幸福

原審での判断は、確かに母親という存在に殊更重きを置いたように見受けられた。子供は、幼ければ幼いほど、母親の愛情を必要とし、それは父親のそれよりも重要であるかのような、もっと言うと裁判官の私的な感覚というか感情が見える気がした。

というのも、香苗さんには結構アレな事情があったのだ。

香苗さんがとある宗教の熱心な信者だったことは先にも述べた。そしてこれらは当然、第一審でも取りあげられているし、要次さん側からすれば非常に重要なこととして位置づけられている。
裁判所は要次さん側の主張として挙げられた「布教活動に専心するあまり電話代が増えた」「布教活動に専心するため、故意に花ちゃんに母乳を与えるのをやめた」という点を取り上げ、いずれも些末なことであると退けている。
たしかに、増えたという電話代は1万円程度のことだったし、母乳育児を故意にやめたとしてそれが花ちゃんの生育に著しい不利益を与えたとも言えず、これを理由にするのはいくら何でもと言える。
しかし、実際はこれ以外に、香苗さん自身の宗教と自分の人生、花ちゃんの人生などについて重大な出来事があったのだ。

香苗さんは、要次さんと結婚した後も要次さんやその家族に対してその宗教への入信を強く勧めた経緯があり、それについて要次さんと意見の相違があった。
香苗さんもいったんは布教活動を控えめにした形跡があるようだが、花ちゃんを妊娠したことでその形勢は逆転した。
妊娠が判明した際、香苗さんは要次さんに対し、「妊娠したけれど、布教活動をさせてくれないなら離婚してこの子は堕ろす。」と言っていたのだ。
要次さんは妊娠を盾に自分の主張を通そうとする香苗さんに驚き、なんとか中絶をしないでほしいと訴えた。
要次さんは円形脱毛症になるほど精神的に辛い日々を送らざるを得なかったというが、これにもここまで悩む理由があった。

香苗さんは、要次さんの前に交際していた男性との間でも妊娠したことがあったが、その際にも今回と同じことを言い、男性が認めなかったことを受けてなんと本当に中絶していたのだ。

要次さんはそれを知っていたため、香苗さんの話が単なる脅しであるとは思えなかったのだ。

まだ見ぬ我が子に対する考え方は、香苗さんと要次さんとでは差異があった。そして、もしかすると花ちゃんは母親のその考え方によってこの世に生を受けられていなかった可能性もあった。
第一審ではこの事実についてなんら言及されていなかった。

また、要次さんと香苗さんの養育環境についても、第一審ではそこまでの差異はないとされ、かつ、足りない部分については父親である要次さんが補填するべきであるという、一見まともな考え方が示されているようにも思える。
しかしそれは、前段階としてたとえば要次さん側に養育に際して香苗さんよりも著しく劣る部分(たとえば花ちゃんに対する愛情や養育の支援など)があるとして、香苗さんが花ちゃんを養育することが花ちゃんにとって幸福であるということが決定していれば、の話ではないのか。
そもそもこの時点では、花ちゃんの幸福を考えたときに香苗さんと要次さんのどちらがふさわしいかを決める場であって、決してなにがなんでも母親である香苗さんが養育するのがふさわしいというものではなかったはずだ。

にもかかわらず、なぜか第一審では香苗さんに不利な事情については父親がカバーすればよいという、もはや母親が養育するのが正義であるということを前提にすすめられた印象が否めない。

実際に香苗さんが身を寄せていた実母方は7畳二間。そしてその実母は心臓病を抱えていて生活保護を受給していた。家庭を維持するためには香苗さんは就労する必要があり、そうなると香苗さんが主張しているような、育児に専念するということは難しく、母親との時間こそが子供の幸せであるとした第一審の定義自体、疑問を呈さざるを得なかった。

両親ともに花ちゃんに対する愛情に差異はない、しかしながら、第一審では差異がないとされた経済的な余裕、居住環境、サポートする人々などを見たとき、やはり要次さんの側がより優れているというのは明白だった。

差し戻された札幌地方裁判所は、母親の直接的な監護があることが望ましいことは言うまでもないとしながらも、香苗さん自身、現状でも一日に5時間、今後はそれ以上実母に預けて仕事に出ると言っており、健康に不安を抱える実母に預けることで予想されるケガや事故のリスクはないとは言えないとした。
一方の要次さん側は、要次さんが父親として花ちゃんに関わる時間は香苗さんのそれよりも短くなるとはいえ、健康上問題のない要次さんの実母が育児に専念できていることで、香苗さんの愛情に匹敵するとは言えなくとも、香苗さんとその実母による育児とで遜色があるとも言えないとした。

その上で、要次さんは共同親権を持っており、現在の状況が花ちゃんの幸福に反するとは言えないことから、要次さんとその両親が花ちゃんを拘束していることが違法で、違法性が顕著であるとは認められないと結論付けたのだ。

親の愛という盾

双方、相手に対していろいろ言いたいことはあったように思うが、子供の幸福を考えれば、実はいたってシンプルな話でしかなかった。
子供が自分で自分の意志を伝えられる年齢ならばまた違うのだろうが、このケースの場合花ちゃんに自己主張は出来ない。
このケースはあくまで、人身保護法に基づいた請求であり、単なる親権争いというのとは違う。要次さんはまず、調停に持ち込んでいた。しかし香苗さんは花ちゃんを取り戻したいがために結論を急いだように思える。むしろ結論を急いだために香苗さんにとっては結果として不利なことになってしまったようにも思える。
人身保護法に基づいた請求にしてしまうと、そこに「違法性の有無」の判断が加わるため、子供の幸福を左右するような大きな事情がない場合、そこに違法性が認められなければ、言い方は悪いが「子供を手元に置いた方の勝ち」になる。

香苗さんが望んだのはまさに一審判決のような感情的な判決だった。経済的に不利なことも、実母の問題も、子を奪われた悲劇の母親という立場がそれを覆い隠してくれるはずだったし、実際に一審判決はその通りになった。
母親のもとで育つことが子供にとっての幸福なのだから、それをさせていない状況そのもの、母親から子供を引き離したことこそが罪で違法だという主張であり、裁判所もそれを支持した。

が、最高裁は甘くなかった。

本来、父親、母親が子を思う気持ちに優るものなどありはしないし、あってはならない。ただ、それを見越してあたかも親の愛情を盾のようにして実際は配偶者との闘いになってしまうケースが多いのも事実だ。
香苗さんも実際、お腹の子どもを盾にした。もしかすると、花ちゃんを愛する要次さんやその両親が、花ちゃん会いたさに香苗さんの宗教活動を許し、ひいては要次さんらが入信することを目論んでのことだった可能性すら見える。
調停を申し立てられていながらその場での話し合いではなく、すっ飛ばして裁判に持ち込んだのも、香苗さんの考えというより誰かの入れ知恵があったようにも思える。

親の愛、それは確かに大きなものであり無視できないが、それが本当に子を思うものなのか。

実子誘拐、連れ去り被害という言葉も目にするが、当然双方の言い分がある。昭和43年の最高裁判例によれば、

人身保護法による救済の請求については、人身保護規則四条本文に定める制約特に拘束の違法性が顕著であることの制約が存し、幼児引渡を求める人身保護請求についても右の制約が存するものではあるが(前記昭和三三年五月二八日大法廷判決参照)、前示本件の事実関係のもとにおいて、夫婦の一方が他方の意思に反し適法な手続によらないで、その共同親権に服する子を排他的に監護することは、それ自体適法な親権の行使といえないばかりでなく、その監護の下におかれるよりも、夫婦の他の一方に監護されることが子の幸福を図ること明白であれば、これをもつて、右幼児に対する拘束が権限なしになされていることが顕著であるものというを妨げないものである。

とも述べている。要次さんは連れ去りした側、とされたが、その前段階として香苗さんが他方(要次さん)の意思に反し、黙って要次さんを排除した状況で花ちゃんを監護すること自体がそもそも適法な親権の行使と言えず、宗教問題や経済的状況、養育環境などでこのままでは花ちゃんの幸福が阻害されるという明白な事実があれば、香苗さんの方こそが権限のない状態での花ちゃんを拘束している、とも言えるのだ。

世の中には子供と引き離され嘆く親も多い。虐待やDVなどの事実がある場合も少なくないが、ただ、本当に「子の幸福」を真剣に考える親と弁護士、裁判所だけかと問われると、どうもそうではないような気もする。
親の愛、子の幸福を盾にまるでビジネスのように跋扈する弁護士、相手憎しに取りつかれ被害者ぶる親、一方で同じように相手憎しでもはや嫌がらせの域に達している親。これらが離婚後の共同親権で解決するはずもない。

もちろんすべてがそうではないが、そこに子の幸福を願う姿があるのだろうかと言いたくなるケースも少なくないのが、いかんともしがたい。親の愛という名のもとに。裁判所も大変だ。

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参考文献

平成51018/札幌地方裁判所/判決/平成5年(人)1
平成628/最高裁判所第三小法廷/判決/平成5年(オ)2108
平成6324/札幌地方裁判所/判決/平成6年(人)2