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その家
「なんでそんなことしたんや!なんでいうこと聞かんのや!」
取手市内のマンションの一室からは、男の怒声が響き渡っていた。
台所には、引きちぎられたレトルトのカレーの空き袋が落ちている。そして、男を怯えた顔で見上げる、痩せ衰えた男の子の姿。
男の子は5歳。しかし肋骨が浮き出たその体は、とても育ち盛りの5歳児には見えなかった。
「おとうさん、ごめんなさい」
泣きながら謝る男の子の顔面を、男は何度も殴りつけ、そのはずみで男の子が転倒して後頭部を強打しても、さらに腹部を蹴りあげた。
涙でぐしゃぐしゃの男の子を風呂場へと追い立てた男は、おもむろにその体を持ち上げ、湯の入っていない空の浴槽に男の子を投げ落とした。男の子は頭部を浴槽で強打、しかし男は浴槽の中に正座させた後も、男の子の顔面を殴り続けた。
殴り疲れた男は、裸で浴槽に正座させられている男の子めがけ、シャワーで冷水を浴びせかけた。4月と言えばまだまだ寒い。
泣き叫ぶ男の子を無視して、そのまま肩のあたりまで水を張り、そのまま水風呂に放置した。
事件
平成11年4月5日午前。
取手市の取手協同病院に「ぐったりして意識がない」として運び込まれたその男の子を見て、医師らは衝撃を隠せなかった。
5歳の男の子と聞いていたが、日ごろ見ている5歳児よりもはるかに痩せている。体重は13キロしかない。これでは3歳児よりも痩せているではないか。
男の子は頭部や顔面に外傷があるだけでなく、その体はずぶ濡れ、体温も非常に低かった。
なにがこの子の身に起きたのか。付き添っているのは母親か?
午前11時37分、男の子は息を吹き返すことなく、死亡した。
病院は状況から事件性を感じ、警察に通報。付き添っていた母親と思われる女性に話を聞いてはみても、取り乱して要領を得ない。
女性は死亡した男の子の母親だという。いったい何があったのか。
死亡したのは、長谷部真人くん(当時5歳)。
警察は慎重に話を聞き取り、そして翌4月6日になって、真人くんの死にこの母親とその夫が関与しているとして、傷害致死容疑で二人を逮捕した。
逮捕されたのは取手市在住の新聞拡張員・長谷部修二(仮名/当時36歳)と、その妻で死亡した真人くんの母親である千夏(仮名/当時26歳)。
真人くんは千夏の連れ子で、修二と養子縁組をしていた。さらに、この夫婦にはほかに3人の子もいた。
調べに対し、4月5日の午前9時半頃に自宅マンションの風呂場で真人くんに暴行を加えたことを認めていたが、後に警察は暴行への関与が薄いとして母親の千夏は処分保留で釈放した。
一方の修二は、取り調べに応じはしていたものの、大変なことをしてしまったというような感情を見ることは出来なかった。
それだけではなく、その態度や言葉の端々をみれば、修二の粗暴かつ歪んだ人格が誰の目にも明らかだった。
男のそれまで
修二は大阪で生まれた。幼いころからやんちゃというには度が過ぎているような子供だったといい、小学校高学年になると近くの中学生相手に喧嘩をするようになった。
その生活態度もひどいもので、中学へは喫茶店などで午前中を過ごしてから登校するような状態だった。
とりあえず義務教育は終えたものの、府立高校へ進学した後も修二の問題行動はおさまらなかった。
暴走族に入ったり、窃盗事件を起こすなど一通りの悪事を働いたために退学になりかけたものの、時代やその高校の気質なども関係したのか、無事高校を卒業した。
高校卒業後は大阪市内で調理師として働いたが、長続きしなかった。
ギャンブルに明け暮れる生活を送る中、知り合いのテキ屋から興行の仕事を紹介される。
修二は23歳か24歳頃に一度目の結婚をしており、その妻との間に娘が二人生まれた。しかし平成4年に離婚、娘たちは長女を修二が、次女を妻が引き取った。
平成8年。この時点でも興行師として仕事をしていた修二は、その仕事の関係で千夏と出会っている。この時すでに千夏も離婚し、真人くんを引き取って暮らしていた。
お互い連れ子がいる身。気が合った二人は、平成9年になると大阪狭山市内で一緒に宇暮らすようになっていた。
そして、平成9年の暮れには婚姻届けを提出するとともに、真人くんと修二は養子縁組を行った。
家族になった修二、千夏、真人くん、修二の娘の4人は、その後修二の母親と同居していたという。
しかしすでにこの時点で、修二のどうしようもない凶暴性が現れていた。
逃げる母子
母親と同居していた当時から、修二には気に入らないことがあった。
それは、当時3歳の真人くんの「おねしょ」だった。
何度言ってもおねしょが治らない真人くんに対し、修二は苛立ちを隠さなかった。
それ以外にも、言うことを聞かないときは容赦なく体罰を加えていた。
世の中の3歳児が皆、親の言うことを聞くならそんな容易い話はないわけだが、勝手気ままに生きて来て思い通りにならないことがとにかく許せない修二には、3歳だから仕方ない、は通用しなかった。
母親とはその後別居しているが、もしかすると体罰を加える修二に対する母親の苦言を修二が嫌った可能性もある。
母親と別居して以降、修二の体罰は酷くなる一方だった。そしてその暴力は、言うことを聞かない真人くんのみならず、母親である千夏に対しても行われていた。
それらは理不尽なことや些細なことが原因であり、千夏は真人くんを守る意味もあって何とかしなければと思っていた。
千夏は一時、八尾母子ホームへ避難するなどしていたが、修二が迎えに来たことでいったん自宅へと戻ってしまった。
この時ばかりは修二も反省したのか、千夏と真人くんへの暴力はおさまったという。
しかし人はそうそう変われるものではない。
結局半年もすると、再び真人くんへの暴力が始まった。
しかも、以前よりもひどい状況になっていた。
顔面に熱湯
平成10年夏、一家は大阪を離れる。
実は修二と千夏には借金が200万円ほどあり、その返済が追い付かなくなったことでいわば夜逃げのような形で大阪を離れる決意をしたのだ。
引っ越し先は、とりあえず関東方面と決めた。
8月から9月にかけ、一家は関東方面を転々としていた。
しかしその間も、修二による真人くんへの暴力は続いていた。夏ということもあってか、この頃の修二の暴力、虐待は「水責め」が多かった。
修二はとにかく真人くんが「なつかない」ことに苛立っていた。
普通は、大人の方が歩み寄り、距離を縮める以外にないと思うが、修二は暴力と恐怖心で真人くんを従わせようとしていた。
真人くんは修二に対する恐怖心で、なつくどころの話ではなかったが、それがさらに修二を苛立たせた。
「あいさつをしない」「こそこそしている」
こんな理由で、真人くんは日常的に暴力を受けるようになっており、一度は水風呂に沈められ溺れかけたこともあったという。
9月、水戸市内のマンションにいったん落ち着いたあと、修二は新聞の拡張員として働き始めた。
そこで事件が起きる。
9月中旬、言うことを聞かないとしてまたもや水責めを行った後、室内で真人くんを殴りつけた。真人くんは意識を失ってしまう。
ここで修二は信じられない行動に出た。失神した真人くんの顔面に、ポットの熱湯をかけたのだ。真人くんの顔面は赤く爛れ、しかも殴られた際に家具に頭をぶつけて急性硬膜下血腫まで起きていた。
この時はさすがに千夏が病院へ運び、真人くんは9日間の入院となった。
当然、病院は虐待の可能性が高いとして水戸児童相談所へ通報。児相も、状況からその可能性が高いと判断し一時保護を試みるも、修二に強く拒絶されたことで保護には至らなかった。
そしてこの時点では、なぜ真人くんが大やけどをしたのかも、児相にはわかっていなかった。
児相はそれでも在宅での指導を試みていたが、真人くんが退院した直後、一家は水戸から姿を消した。
近隣に知れ渡る暴力
11月、取手市内のマンションへ入居した修二は、再び新聞拡張員の仕事を始めた。水戸にいた時とは違う販売店だった。
この頃、真人くんへの虐待は苛烈を極め、水責め、殴る蹴るといったそれまでのものに加え、食事制限やベランダへの締め出しなどが行われていた。
また、家族の輪に真人くんを加えないなどの精神的な虐待も行われていた。
夕食時、台所の食卓に、真人くんの席はなかった。
真人くんは、家族が食事をする間、別の部屋へ閉じ込められていた。与えられるものは食べ残し。それすら、もらえないこともあった。
体重は水戸にいたころ20キロあったというが、この頃には15キロ近くまで減っていた。
おなかをすかせた真人くんは、近所の食料品店でパンを万引きしてしまうことさえあった。
家族が外出する際は、家の中の食べ物を勝手に食べられないように部屋にカギをかけられ閉じ込められた。大阪では通っていた保育園も、大阪を離れて以降は通えなかった。
そんな真人くんも、外出することがあったという。
それは、修二の洗濯物、仕事で使うワイシャツをクリーニング店にもっていくことだった。
とぼとぼと洗濯物を抱えてやってきた真人くんを見た店員は、息をのんだ。
その顔には、マジックで「バカ」と書きなぐられていたのだ。
日にあたっていないのか、やけに青白いその顔の反対側は、火傷の痕で爛れていた。
これまでにも、店員は真人くんの顔の痣や傷に気づいていて、その都度、真人くんに誰にやられたのかと聞いていた。
しかし真人くんは頑として何もしゃべらなかったという。
「誰がバカって書いたの…」
そう聞いた店員に、真人くんは
「おとうさんがやった」
とだけ答えたという。
真人くんへの虐待を見た人はほかにもいた。自宅はマンションの3階にあったが、その3階のベランダから逆さづりにされた真人くんを見た人がいたのだ。
平成11年2月、見るに見かねた住民からの通報を受けた民生委員が市の児童相談室へ報告。翌日には担当職員が自宅を訪問するも、真人くんに会うことは出来なかった。
担当職員は、管轄の「土浦児童相談所」へ報告した。
そして、再度の家庭訪問が行われるその3日前に、真人くんは命を落とした。
児童虐待の最たる例
起訴事実を認めていた修二だったが、弁護側は児童相談所をはじめとする行政にも落ち度があったという責任転嫁にも思える主張を展開した。
虐待を察知していながら未然に防止できなかった警察や児童福祉の関係機関にも落ち度がある、というのが趣旨だ。
盗み癖のある人の前に財布を置いた、みたいな話なんだろう。たしかに、水戸にいたときから虐待については報告を受けていたはずだった。
実は修二とその家族は水戸市に住民票を移していなかった。大阪から逃げてきた経緯を考えれば、住民票を移せなかったと考えるのが自然で、それ自体はその立場に立てばやむを得ないというか理解できなくはない話だ。
しかしこれが実はすべてを後手後手にしてしまった。
そもそも大阪時代、千夏はあらゆるところにSOSを発信していた。
暴力に耐えかね、真人くんが当時通っていた保育園に相談していたし、富田林の子ども家庭センターのケースワーカーにも相談していた。
そして、修二から追い出された際には八尾母子ホームに避難していたのだ。
閉ざしてしまう親、特に母親にはそれが見えることが多いが、千夏は出来得る限りの行動をしていた。
しかし、夜逃げ同然に出ていかれてしまえば家族が捜索願でも出さない限り、なかなか難しかろうとも思う。
水戸市でも児相とかかわりを持ったものの、住民票がなかったことで引っ越してしまった一家を追うことがすぐには出来なかった。
ただ、水戸の児相も何もしてなかったわけではない。捜していたのだ。
そして、3月になってようやく土浦の児相に持ち込まれたあの家族が、追っていた水戸の家族だと判明していた。
その矢先の、真人くんの死だった。遅かった。
水戸地裁土浦支部の山嵜和信裁判長は、
「再婚相手の連れ子を2年に渡って常識ではおよそ想像もつかないような虐待行為を日常的に続けたものであり、正視に耐えないほど痩せ細り傷だらけになった遺体の状況が、これまでの虐待の過酷さと被害者の苦痛の大きさを物語っている。
これらは被害者への憎しみから行われたものであり、しつけという名目を使ったからと言って正当化されるものではない。
空腹に耐えかねた被害者が勝手にカレーを食べたことに腹を立て、感情の赴くままに犯行に及んだものであり、酌むべき事情は全くない。
本来なら両親から愛情と栄養を十分に与えられてしかるべきであるのに、被害者は養父の手によって日常的に激しい虐待行為を受け、口答えはおろか実母に助けを求めることさえできないまま怯えながら生活し、短い人生を終えるに至ったものであり、誠に哀れというほかなく、犯行の結果が重大であることは言うまでもない。
被告人は短気で粗暴な行動傾向や、自己中心的で身勝手な考え方をする傾向が顕著であり、他人に対して暴力を振るうことへの罪悪感が鈍麻している。」(一部要約)
と厳しい言葉で修二を非難し、その人格を矯正するには長い時間が必要、かつ、容易なことではないとした。
さらに、この期に及んでも心からの反省をしているように見えないことなどを挙げ、口では謝罪をしてはいるものの、この事件が児童虐待の最たる例として社会に報道されたことなども考えると一般予防の観点にも十分な配慮が必要、とした。
要は、厳しい判決を持って臨まなければ世間も納得しないし、同じようなことを起こすバカが出てくるということを危惧していた。
千夏は修二の裁判に自身の供述を提出していた。
「何を言っても、真人か私が殴られた。夫の暴力が怖くて子供への虐待を止められなかった。(犯行時、真人くんが)私をにらみつけた顔が今でも忘れられない。
「お母さん助けて」という目をして、私を見つめていた」
この母もまた、罪深いには変わりない。助けを求めていたのは事実だが、結果としてこうなった以上、責任はある。いや私が言うまでもなく、千夏本人が苦しんでいた。
かばうわけではないが、千夏にはこの時点でほかにも幼い子供がいた。報道によれば真人くんと修二の連れ子以外に、下にふたりの乳児を抱えていたという。
真人くんを加えれば3人、金もない千夏が逃げることができなかったのも、わかるとは言わないが難しかったことは想像できる。
さらに、真人くんが意識を失った際、修二はこう言い放っていた。
「死んでるで。知らんぞ。お前ら勝手にしとけ」
そういうと、そのまま外出したのだという。
広島で愛人の子どもを短期間に二人も殺害した男も、命を落とした子供に対し、『死んでも腹が立つ」と言い放った。
もはや人ではない。動物でもない。なんだこれは。
あの日、真人くんは下の妹と共に家に置き去りにされていた。普段なら鍵がかかっていた部屋に、その日鍵はかかっていなかった。
もう何日も満足に食事をしていなかった真人くんは、空腹のあまり台所で食料を捜した。冷蔵庫にあったのは、レトルトパウチのカレー。
それを、温めることもなく、貪るように真人くんは食べた。後始末はしたつもりだったが、すぐにバレてしまった。
カレーは、真人くんの好物だったという。
「お腹空いたな…カレー食べたいな…」
真人くんは死の直前、口癖のようにつぶやくことがあったという。
修二に対し、裁判所は懲役6年を言い渡した。軽すぎるが、求刑も懲役6年であり、おそらく時代のせいもある。そもそも傷害致死で、その後遺棄した場合でもこの頃は8年とかそんなもんだった。尼崎の勢田恭一君の事件も、その内容のひどさではこの事件に引けを取らないが、それでも懲役8年だった。
今だったらどうだろう、倍は無理でも10年を下ることはなさそうな気もするが。
事件から20年。
いまだに、同じようなバカは現れ続けている。
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参考文献
朝日新聞社 平成11年4月6日東京夕刊
中日新聞社 平成11年4月6日夕刊
毎日新聞社 平成11年5月2日東京朝刊(続・殺さないで:児童虐待という犯罪/1 冷水…失神後に熱湯)
読売新聞社 平成11年6月26日、30日、平成12年1月15日東京朝刊
平成12年2月18日/水戸地方裁判所土浦支部/判決/平成11年(わ)166号