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水俣・身長172㎝体重28㎏の19歳
きっかけは、その市営住宅のとある部屋に夜になっても明かりが灯らないことを不審に思った民生員の通報だった。
その部屋には母親と19歳になる息子が生活しているはず。ただ、母親は水俣市内の温泉旅館に住み込む形で働きに出ていて、基本的には息子が一人で生活していた。食事は母親が宅配弁当を手配していたと聞いている。小学生ならともかく、独り暮らしも可能な年齢の息子であり、友達のところにでも行っているのではないのか。
普通ならばそう考えても不思議はないが、民生委員は胸騒ぎを抑えられなかった。
その息子は、知的障害があり自分一人で生活することは無理だったのだ。
19歳餓死か母逮捕 1か月食事与えず 保護責任者遺棄容疑/熊本・水俣
熊本県警水俣署は5日、自活能力のない長男に約1か月間食事を与えず放置したとして、同県水俣市古城1、旅館従業員川崎佐知奈(仮名)容疑者(49)を保護責任者遺棄容疑で逮捕した。長男は死亡しており、同署は餓死した可能性が高いとみて保護責任者遺棄致死か殺人容疑に切り替えて捜査する方針。
調べによると、川崎容疑者は3月上旬ごろから今月4日にかけ、長男宏一郎さん(19)に食事を与えず衰弱させ、必要な治療を受けさせなかった疑い。宏一郎さんはやせており、死後数日とみられる。容疑を認めているという。(後略)(仮名部分は事件備忘録による)読売新聞社 2007.04.05 西部夕刊
通報を受けた市の職員がその部屋に入ると、そこには信じられないほどに痩せ細った宏一郎さんの遺体があった。身長172㎝に対し、体重はなんと28キロ。まさに骨と皮だけと言ってよい状態にまでなっていた。
市によると宏一郎さんには重度ではないものの知的障害があり、一人で食事の用意などは出来なかったという。母親の佐知奈は、警察の取り調べに対し
「以前は1、2日に1回、弁当2個を渡していた。ここ1か月は帰宅せず、食事を与えていなかった。借金があり将来が不安で、子どもが重荷になっていた。死んでいるかもしれないと思っていた」
同上
と話していた。
その後、保護責任者遺棄致死で起訴された佐知奈は、平成19年9月27日、熊本地裁において懲役4年6月の実刑判決が言い渡された。
母子
佐知奈は宏一郎さんが1歳の頃に離婚。その後、自分一人で育てることが難しかったこともあって宏一郎さんは乳児院へ預けられた。
小学校、中学校も養護施設から通い、知的障害はあったものの自転車に乗って遊んだり、体格もよく健康面には問題はなかった。
佐知奈が児童養護施設に現れたのは宏一郎さんが中学を卒業する年だった。
佐知奈たっての希望で宏一郎さんは以降母親との生活を始めた。
しかし母子の生活は厳しく、佐知奈は宏一郎さんが16歳になったころから温泉旅館の仲居として住み込みで働くことになったという。
宏一郎さんの世話は、休憩時間に帰宅して行っていた。食事は宅配の弁当を1日2食、二人分注文していたというが、平成17年頃になると2日に1度となり、平成18年の暮れにはほとんど食事を与えられなくなった。当然、宏一郎さんはひどく痩せていたが、佐知奈はその状態であるにもかかわらず平成19年3月以降は自宅にも戻らなくなってしまった。
「重荷だった」
そう答えた佐知奈だったが、事件の詳細をみていくと佐知奈の親としての無責任っぷりもさりながら、この母子に関わっていた、関わるべきだった人たちのあまりののんきさにも違和感どころか恐怖に近いものを感じざるを得ない。
周囲の人々
そもそも宏一郎さんは13年間児童養護施設で生活していたわけで、また知的障害のこともあって早くから行政や福祉などが大きくかかわってきた存在であったはず。
にもかかわらず、宏一郎さんが施設を出たあとの生活についてはおろか、その居場所さえも把握していなかったというのだ。
宏一郎さんと佐知奈母子の異常を察知したのは、近所の人だった。
平成18年の6月になって、ようやく宏一郎さんと佐知奈母子が逼迫した状態にあることを市は把握する。しかしその時点で宏一郎さんはかなり衰弱しており、一人で立てない状態だった。
ところがそんな状態であるにもかかわらず、まだ未成年の宏一郎さんを権限を持って保護することもせず、月に2~4回程度、市の職員と民生委員が訪問するのみという信じられない対応だった。
市は佐知奈に対して障碍者手帳の申請などをすすめたというが、実際に申請されることはなく、市もまたそれについてなんら手を打とうともしなかった。
しかもあんなに健康だった宏一郎さんが一人で立てない状態になっているにもかかわらず、病院への受診を佐知奈に促すにとどまっている。
この時点で佐知奈は旅館に住み込んでおり、それについても市は把握していた。佐知奈が働いていた旅館には、市から頻繁に佐知奈あての電話がかかっていたという。立つことすらできない知的障害のある息子を一人にしていることに、何人もの大人がそれを把握していながら何の手立ても打とうとしないことには恐怖を感じてしまう。
しかし市はこの事件について、「施設を出た後の児童相談所からの引継ぎがきちんとしていれば」と主張している。
平成15年3月、八代児童相談所は水俣市に対して宏一郎さんが「家庭に引き取られた」とする通知書を受け取っていた。ところが、その具体的な引き取った人物や住所が書かれていなかったことから、宏一郎さんの消息を確かめようがなかった、というのだ。信じられない。考えることを放棄しているとしか言いようがない。
家庭、という言葉が誰を、どこを刺しているのかがわからなかったというならばなぜ児童相談所に確認しないのか(実際にしていない)。母親なのか祖父母なのかもわからなかったというが、聞けよ双方に、でしかない。
事件後、水俣市はもし八代児童相談所からの引継ぎがきちんとできていて足取りがつかめていれば、市の職員や相談員が訪問して相談に乗れていた、としているが、本気で言ってるんだろうかと思ってしまう。
児童相談所にしても、「家庭に戻ったといえば市ならばどこに住んでいるのか把握できたはず」とこちらも引継ぎの杜撰さは認めない。たしかに住んでいたのは市営住宅であり、そこにいるかどうかは別にして接触することは容易だったのでは?と思ってしまう。
ただ元大阪中央児童相談所長の津崎哲郎氏(当時は花園大学教授)は、児童相談所に対してそもそも論として
「10年以上も子どもを育てていなかった母親が急に親になるのは難しい。障害もあるのだから、児童相談所は(養護施設の退所時に)文書を送るだけではなく、市や福祉事務所と話し合って支援態勢を敷くべきだった。そうしていれば、再度保護するという判断もあり得ただろう」
2007.05.03 西部朝刊 毎日新聞社
と苦言を呈している。
この事件より前にも、同じように突如現れて母親面をして子供を引き取った挙句、たった数日で虐待死させた親もいた。その時にも長年親子として関われていなかったにもかかわらず、「親だから」というだけでうまくいくと考え、施設側は泣いて嫌がる子供を親に引き渡した経緯があった。
この水俣のケースは宏一郎さんが幼い子どもではなかったから、という楽観的な考えはなかったのだろうか。
立てないほどに衰弱している未成年者をなんら保護することもなく、我が子をそのようにまでさせた母親に「親だから」で全て押し付けているようにも見える。
母親である佐知奈は、とうに母親であることを放棄していたというのに。
西成の通り魔殺人
「明るくてええ子やったのに。犯人が憎くて……」
男性は泣きじゃくり、言葉が続かなかった。男性は、大切な妹を理不尽な事件により奪われていた。
平日の夕方、帰宅する人々でごった返す国道26号線にかかる歩道橋の上で若い女性が突然刺された。
動揺する人々をよそに、刺した男は倒れた女性のバッグを奪うとそのまま立ち去った。走るわけでも、慌てるわけでもなく。
倒れた女性のそばには買い物袋や帽子などが散乱。通行人らが119番し救急搬送されたが、1時間後に死亡が確認された。
男はどこへ行ったのか。
実はこの時、立ち去った男を勇敢にも尾行しながら通報し、身柄確保に貢献した人がいた。
その人は、子供連れの主婦だった。
事件
歩道橋で女性刺殺、金奪う 逃走の容疑者逮捕 大阪・西成区【大阪】
九日午後五時五十分ごろ、大阪市西成区花園北一丁目の歩道橋の上で、同市住之江区西加賀屋三丁目、会社員山本めぐみさん(一八)が中年の男にナイフで右胸を刺され、現金約二万四千円入りのショルダーバッグを奪われた。山本さんは約一時間後、病院で死亡した。男は現場から逃走したが、主婦が一一〇番して追跡。大阪府警はこの男を間もなく強盗致傷容疑で逮捕、容疑を強盗殺人に切り替え、金目当ての犯行とみて追及している。
逮捕されたのは、住所不定、建設作業員A容疑者(四九)。現場から歩いて逃げたが、約十五分後、約一キロ離れた同市浪速区の路上で緊急配備中の警察官に見つかった。
調べに対し、「金が欲しかった」と供述し、犯行を認めているという。(後略)
朝日新聞社 1993.07.10 大阪朝刊
男は神戸市生まれの建設作業員、平井繁雄(仮名/当時49歳)。
平井は事件当時酒に酔った状態だったというが、金が欲しかった、金がありそうなら誰でもよかった、と供述しているように2ヶ月ほどまでから仕事らしい仕事にありつけていなかったという。
そこで通りすがりのめぐみさんを、護身用に持っていたナイフで刺し、バッグを奪ったのだった。
悲鳴が上がったのを少し離れた場所で聞いていた人がいた。たまたま子供と一緒に自転車で通りがかった主婦がなにごとかと声のした方を見上げた。騒然とする歩道橋を見て、何か大変な事件が起きたと思っていたところ、歩道橋を降りてきた男の服が血に塗れていたこと、そして男が刃物を橋の下に捨てるのが見えたという。
「この男が犯人ではないのか?」
主婦はとっさに尾行することを思いついた。安全のためにかなりの距離をとりながらだったが、主婦はしっかりと男の後を追った。警察に知らせるために、尾行しながら公衆電話も探した。
ふと、男が立ち止まった。
見れば手元のバッグの中を漁っていたという。主婦はそのまま何事もないような風で男を追い越し、その先に見えていた公衆電話から110番通報、目の前に犯人がいることを告げた。
すでに通報を受け現場に急行していた警察官が主婦のもとへ到着、男は逮捕となった。
この主婦の目撃証言のおかげで、平井がこの時刃物を2本持っていたことも判明した。
許しがたい動機
平井は当初から金目当てだったと話しており、事実所持金もなく仕事もない状態だったこと、家族もいない状態だったことから自暴自棄になった末の強盗殺人、であるかに思われた。
しかし平井は殺人と窃盗の罪で起訴。金を奪うつもりで殺したのに強盗殺人ではない?平成5年9月6日から大阪地裁で開かれた公判では、平井の本当の動機が明らかとなった。
弁護側は平井が金目当てではなく、当てつける気持ちでめぐみさんを刺したと主張。
誰への当てつけかというと、それは平井の別れた元妻に対してだという。
平井は昭和42年に結婚していたが、平成元年に離婚していた。その際、元妻から一方的に別れを告げられたというが、離婚後も元妻とは連絡はとっていたようで、所持金が尽きると元妻に借金をして凌ぐという生活を送っていた。
あの日、平井は元妻に金を借りようとしていた。酒に酔い、フラフラと歩道橋に差し掛かったあたりで元妻に対して憤りの気持ちが湧いてきたという。そこで、元妻に当てつける気持ちで何か事件を起こしてやろうと考えたのだという。
ふと前を見れば、夏の夕日を遮るように帽子を被った若い女性がやってきた。手には食料品が入っているようなビニール袋。
めぐみさんはたまたまそのタイミングで通りがかったというだけで、その命を無惨に奪われてしまった。
希望あふれる未来
めぐみさんは2年ほど前から事件現場近くの金属加工会社の事務として働いていた。三人兄弟の末っ子。体の弱い母親を気遣い、一人暮らしをし始めてからもよく実家に顔を見せていた。
会社ではムードメーカーで先輩社員にも可愛がられる性格だったといい、この日も定時で退社、その際明るく挨拶をして行ったのが同僚らとの別れとなってしまった。
私生活では数年前から交際していた男性と結婚の話が出ており、出席者のリストを作成したり新婚旅行の計画を立てるなどこれから始まる新たな人生に想いを馳せていた。
まだ18歳。人生の真昼前のこの時に、見ず知らずの、たまたまそこに行き合わせた男にこれからの全てを奪われた。
同じように、全てを奪われたのは両親らも同じだった。
あの日、母親は近くの歩道橋で事件があった、という情報は得ていたという。しかしまさかそれが愛娘だとは思いもしなかったろう。
「めぐちゃんが刺された!」
マンションの管理人が慌てて母親に知らせに来たことで、その被害者が娘であることを知った母親はすぐさま娘の自宅に電話をかけた。しかし電話口からは呼び出し音がひたすら流れるだけ。
事情を知った近所の人らにだき抱えられるようにしてめぐみさんが運ばれたという病院へ向かった母親は、めぐみさんの遺体と対面することとなってしまった。
裁判で母親は、裁判長に対して「一言言わせてほしい」と頼んだが、手続きを経ていないとして許可されず、被告人席の平井に対して「絶対許さない!」と叫ぶしかできなかった。
会社を出てすぐ。いつもとなにも変わらない夏の日の夕刻。めぐみさんに限らず、誰にとってもいつも通りのその日だったはず。平井にとっても、直前まではそれまでと何ら変わらない日だった。
めぐみさんが持っていたビニール袋には、メロンが入っていたという。
両親は現場近くに住むことができず、住み慣れた我が家を処分した。
平井には懲役17年の判決が言い渡された。
ふたつの一家消滅
自宅で刺され男性死亡 妻子の行方を捜索 徳島東署 /徳島
二十七日午前十時半ごろ、徳島市北沖洲〇丁目のマンション「ハイツ〇〇」四〇一号室、漁業Xさん(二七)方で、Xさんが布団の中で首の左側を刺されているのを、訪れた両親が見つけた。一一〇番通報で徳島東署員が駆け付けたところ、Xさんはすでに死亡しており、布団のわきに血の付いた包丁(刃渡り約二十センチ)が落ちていた。同署は殺人事件と見て捜査している。
調べでは、死後数時間以内と見られるという。包丁を凶器と断定した。Xさん方は妻(二七)と長女(六つ)、次女(五つ)の四人暮らし。妻ら三人は部屋におらず、Xさん所有の軽乗用車が、駐車場にないことから、同署で三人の行方を捜している。
室内に荒らされた跡はなく、両親が訪れた時には玄関の錠がかかっていたという。Xさんは両親と吉野川河口付近でノリ養殖をしている。この日朝、Xさんが漁にこなかったため、両親が様子を見に行って発見した。(後略)
※〇〇部分は事件備忘録による伏字朝日新聞 2001.03.28 大阪地方版/徳島
徳島の消えた家族
仲の良い家族だった。
事件が起きる2週間ほど前には、家族ぐるみで交流のあった別の家族と一緒に京都旅行にも行ったという。
とにかく、どこへ行くにも家族4人は一緒。事件の数日前にあった長女の同級生の母親も、全く変わったところはなかった、と話した。
ただ、前日の朝、夫婦が行っていた新聞配達のアルバイトを無断欠勤していたことがわかっていた。
夫は自宅内で殺害され、しかもそのドアにはカギがかかっていた。残りの妻と娘二人は、どこに行ったのか?
この時点では家族が犯人に連れ去られたのか、または何らかの関与があるのか、判断がつかない状態だった。
そしてこのあと、妻と娘の行方は1年が過ぎても、杳として知れなかった。
海底の車
事件から1か月が過ぎた頃、警察はそれまでに判明していることを報道関係に公開。広く情報を求めたものの、家族3人の行方は分からないままだった。
殺害されていたのは徳島市の漁業・粟村健作さん(仮名/当時27歳)。行方が分からなくなっているのは妻・すみれさん(仮名/当時27歳)と、5歳と6歳の娘のふたりだった。
警察の調べで、健作さんは首を刃物で切られたことで死亡したとみられ、さらには室内の捜索で女性の文字で犯行をほのめかすような「お世話になりました」というメモも発見されており、後日、その筆跡はすみれさんのものと一致していた。
そこで県警は、すみれさんが健作さんを殺害後に娘たちを連れて行方をくらましたとみたが、状況から3人の安否も当然心配された。
そして1年半が過ぎた平成14年6月。
徳島港で浚渫(しゅんせつ)工事中の作業員らが、海底から軽乗用車を引き上げた。車は長く海底にあったようで、ひどく損傷していたが、車内から3人の白骨遺体が発見された。
警察は軽自動車の名義があの行方不明のすみれさんのものだったこと、場所も自宅マンションからわずか1.5キロと近いことから、3人がすみれさんと娘たちである可能性が高いとして身元の確認を急いだ。
そして6月の末までに、遺体はすみれさんと娘二人であると断定。
状況からすみれさんが健作さんを殺害し、娘二人を道連れに車ごと海底に沈んだと断定した。
その後、県警はすみれさんを殺人容疑で被疑者死亡のまま書類送検とし、事件は終わった。
北海道の正面衝突とその自宅にて
平成14年6月12日午前3時20分ごろ、北海道渡島管内八雲町の国道5号線で対向車線を突如はみ出したライトバンが、対向してきた大型保冷車と正面衝突した。
この事故で大型トラックの運転手は無事だったが、ライトバンの運転手は脳挫傷で1時間後に死亡が確認された。
現場は見通しの良いほぼ直線の海沿いの国道。当時並行する道央自動車道は全線開通しておらず、交通量は深夜早朝でも少なくなかったかもしれない。
しかしそれにしてもそのはみ出し方はあまりに突然だったという。
現場にはブレーキ痕はなく、運転手の居眠りが原因か?と思われた。
死亡したのは後志管内黒松内町の重機オペレーター、脇坂毅さん(仮名/当時33歳)。
警察は免許証や車の名義などから身元を特定し、続けて気の思い仕事をこなさなければならなかった。家族への通知である。
脇坂さんには妻と3人の娘の存在があった。一家が暮らすのは町営住宅だったといい、管轄の寿都署の署員が脇坂さんの自宅へ電話をかけた。
ところが午前7時ころまでに何回か電話をかけるも、なぜか自宅の電話には誰も応答しなかった。そこで署員が直接脇坂さん方へ行き、事故を知らせることとなったが、自宅を訪ねると玄関の鍵が開いていた。にもかかわらず、呼びかけても応答がなかった。
すでに嫌な予感を抱いていたであろう署員がそこで見たのは、家族全員の遺体だった。
家族
黒松内*妻子4人 自宅で殺害*無理心中か*夫は八雲で衝突死
【黒松内、八雲】十二日午前七時五十分ごろ、後志管内黒松内町(以下略)、運転手脇坂毅さん(仮名/33)方で、女性一人と女の子三人が布団の中でぐったりしているのを、訪れた寿都署員が発見した。四人はすでに死亡しており、首に絞められたような跡があったことから、同署と道警函館方面本部は殺人事件とみて捜査している。脇坂さんは同日未明、自宅から約六十キロ離れた渡島管内八雲町内の国道で起きた衝突事故で死亡し、同署などは事故の状況などから、脇坂さんが四人を殺害した後、事故で自殺を図った無理心中の可能性もあるとみて調べている。
(後略)
※ 氏名、住所地番は事件備忘録により伏せる2002.06.12 北海道新聞夕刊全道
未明の悲しい事故は、一家無理心中との見方が強まった。
そもそも脇坂さんは減速もせず、むしろ大型保冷車を認めるや突然車線をはみ出したように見えた。
まるでそれは、確実に死ねる相手を見つけたかのようで。
一方の自宅の遺体は、妻の直美さん(当時28歳)、長女・由紀ちゃん(当時10歳)、次女・沙紀ちゃん(当時7歳)、三女・亜美ちゃん(当時3歳)と判明。いずれも首を絞められたことによる窒息死だった。
遺体は4人全員、一つの布団に並んで寝かされており、その手は胸の上で重ねられていたという。
脇坂さんは生まれは蘭越。高校卒業後にいったん自衛隊に入隊したが除隊し、その後は一時埼玉などで働いていたというが、10年ほど前に北海道へ戻っていた。その直後に当時18歳だった直美さんと結婚。
妻の直美さんは黒松内の出身。若い夫婦は結婚後しばらく蘭越町内の町営重体で暮らしていたが、4年前にこの黒松内の町営住宅に越してきていた。
重機オペレーターや運転手の仕事をし、季節に応じてスキー場などでも働いていたという。
直美さんも育児の合間を縫って清掃のパートをしていた。
現場となった町営住宅は黒松内町役場の西、函館本線のさらに西ののどかな場所につくられており、現在でも1棟に4世帯入居で15棟ほどの建物がある。
児童館も近くにあり、脇坂家のように子育て世帯も多く入居していたのではないかと思われる。
ここでの脇坂家は幸せを絵に描いたような、そんな家族として周囲に受け止められていた。
無口だったという脇坂さんは職場でも親戚にもあまり家庭の話はしなかったようだが、それでも3人の娘のことはとにかく可愛がっていたと皆が口をそろえた。
直美さんとの関係を見ても、事件が起きる1か月前には直美さんの祖母宅を家族で訪ね、祖父の仏壇に手を合わせていた。家族で食事をし、酒を飲んでいた脇坂さんに特段変わった様子はなかったという。
事件の起きた日の夜も、家族でそろって食事をしていた形跡があった。間近の父の日に向けて、娘たちもそれぞれが大好きなお父さんのためにプレゼントや似顔絵などを用意しており、子供たちの関係も問題は見えなかった。
しかし脇坂家、いや、脇坂夫婦には1年ほど前から暗雲が立ち込めていたようだった。
夫婦
先に伝えるが、これ、といった理由は明かされていない。
ただ、脇坂さんの知人、関係者の話として直美さんとの夫婦関係は上手くいっていなかった、という声があった。
実際に脇坂さんは離婚も視野に入れるほどの問題が起きていたようだったが、「子供たちのためにも別れたくない」と話しているところからもどうにか夫婦間を再構築しようとしていたような形跡も見える。
もちろん、直美さんが物言えぬ以上、勝手な憶測は控えたいが事件当日も脇坂さん夫婦は普通にメールのやりとりを何度も行っていたというから、脇坂さんと直美さんとの間でその問題に対する温度差みたいなものがもしかするとあったのかもしれない。
脇坂さん「だけ」が深刻にとらえ過ぎていた、あるいは思い込みの可能性もゼロではないように思う。
周囲からは仲の良い家族と映っていたからか、遺族が夫、父親による無理心中と信じたくなかったからかはわからないが、すでに脇坂さんによる無理心中説が濃厚になった後、それでも家族5人は一緒の通夜、告別式となった。
直美さんの遺族からすれば、直美さんとその娘たちまで殺害されたということで非常に複雑な思いはあったろうけれども、娘たちの大好きだった父親を別にすることは忍びなかったのかもしれない。
一方で、そこまで娘たちに愛されていたにもかかわらず、娘たちまで道連れにした脇坂さんの行為はやはり許されてよいものではないように思う。
娘たちの周りには、ぬいぐるみが数個、寄り添うように置かれていた。
警察はその後、脇坂さんを4人殺害の被疑者として書類送検した。
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参考文献
読売新聞社 平成5年7月10日、9月7日大阪朝刊、7月29日大阪夕刊、平成13年4月28日大阪朝刊、平成14年6月12日東京夕刊、6月13日東京朝刊、平成14年6月29日大阪朝刊、11月8日東京夕刊、平成19年4月5日、9月27日西部夕刊、8月28日西部朝刊、
毎日新聞社 平成6年3月8日大阪朝刊、平成14年6月3日大阪朝刊、6月12日北海道夕刊、平成19年4月5日西部夕刊、5月3日西部朝刊、
朝日新聞社 平成5年7月10日、10月4日大阪朝刊、平成13年3月28日、3月29日大阪地方版/徳島、平成14年6月13日北海道地方版/北海道
北海道新聞 平成14年6月12日、13日夕刊、13日、14日、15日朝刊、