女たちのそれぞれの事情~3つの女の事件~

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夫を殺す妻、子を殺す母。
その多くは精神鑑定が求められ、採用される。一部の専門家によれば、同じケースでも男性の場合は却下されるケースが目立つという。

個人の人格、知能の問題、そして精神の状態。

それぞれがそれぞれの事情で行った殺人と、その量刑。

CASE1:山梨の妻

平成5年9月15日午後9時20分。
山梨県東八代郡中道町の住宅から119番通報が入った。通報者によれば、隣家の男性が大やけどを負った状態で助けを求めてきた、というものだった。
救急搬送された男性は一命を取り留めたが、火傷は全身に及んでおり2日後の17日、全身やけどによる尿毒症で死亡した。

南甲府署は状況や、同居しているはずの妻が行方不明になっていることから事件と断定、妻の行方を追った。
数時間後、自宅から200mほどのコンビニエンスストアで妻を発見、事情を聞いたところ妻は夫を殺害しようとした、とする供述をしたものの、興奮状態にあって取り調べが出来ない状況だった。
警察は妻の精神状態が落ち着くの待つために措置入院とし、任意で事情を聴いていたところ、10月27日に妻が退院したため、夫殺害の容疑で逮捕した。

逮捕されたのはその住宅の主婦、落合芳美(仮名/56歳)。死亡したのは芳美の夫、和弘さん(仮名/当時53歳)だった。

家族や知人によれば、事件があったその日は夕方に落合夫婦と知人を交えて外食をしており、また、近々娘が孫を連れて遊びに来る予定にもなっていて、特に夫婦間や家族の間でトラブルを抱えていたようなことはなかったかに見えた。

しかし芳美は長年に渡ってうつ病を患っており、精神科に定期的に通院する生活を送っていた。

19年に渡る病

芳美と和弘さんが結婚したのは昭和47年。二人の子どもにも恵まれ、昭和59年ころから家の仕事を手伝うようになった。
和弘さんは事件当時自動車整備業、という肩書ではあるが、自営業だったのかどうかは不明。
そのため、芳美が手伝っていた家業が何なのかも不明ではあるが、その家業の手伝いが芳美には悩みの種となっていた。

経営状態や従業員などの問題だったのか、芳美は悩みをため込み、やがてそれは芳美の心身に変調をきたすようになる。

芳美は精神科に通院するようになったが、家族の理解は得られなかったようだ。薬も処方され、うつ病という診断も下されていたのにもかかわらず、家族、特に夫の和弘さんは芳美が家事をおろそかにしているのを苦々しく思っていた。

芳美は反発するよりも和弘さんから言われることは些細な事でも深刻に受け止めるようになっていく。そして、次第に被害者意識が強くなり、処方されていた薬を大量に服用して自殺を図るまでになっていた。

事件直前の9月13日夜には、和弘さんとの口論から暴力を振るわれたと騒ぎ、挙句、灯油をかぶって死んでやるというまでになった(未遂)。

その時は和弘さんらが落ち着かせたことで大事には至らなかったものの、芳美の心はもう、限界を超えていた。

事件当夜

15日、先にも述べたように芳美は和弘さんと知人らと夕食を共にする。
その場で和弘さんが、近々娘が孫を連れて遊びに来るから家の中を片付けるように、と芳美に言ったところ、芳美は不愉快な気持ちになってしまう。
その後も気分は晴れることなく、帰宅してからも和弘さんから言われた些細なことが心に突き刺さった。

芳美の心に、怒りの火がついた。

なぜいつもいつも私ばかり責められるの?私だけが悪いの?好きで病気になったわけじゃないのに。なんでこの人は分かってくれないのか。

もう、生きていたくなかった。

芳美はどうにかしてこの辛さを夫にわからせたかった。そのためには、この夫の目の前で命を絶ってやるのだ。
どんな顔をするだろうか。止めたって遅い。このさきずっと、嫁に目の前で自殺された夫として生きていけばいい。

芳美は思い立つと、ビールの空き缶を手に近所のガソリンスタンドへ出向いた。そこで、2リットルほどもガソリンを購入し、すでに床に就いていた和弘さんの布団までやってきた。

寝ている和弘さんを見ていると、自分がここまで思い詰めているのになぜこの人はのんきに寝ていられるのかという怒りがわいてきた。
私は自殺するほど追いつめられているのに。なにもかもこの人が理解してくれないからなのに、どうしてそんな奴のために私が死ななきゃならないの?

芳美は、自分がかぶるために買ってきたガソリンを、和弘さんの頭部にそれをぶちまけた。
驚いて起き上がる和弘さんに対し、芳美は無言でライターに火をつけ、それを放り投げた。

人格障害とうつ病

甲府地裁で開かれた公判で、弁護側は心神耗弱を主張。19年におよぶ通院の事実などからも、それは認められるかに思われた。

しかし、甲府地裁の山本武久裁判長は、芳美がたしかに19年に渡ってうつ病を患い、夫との関係に悩んで自殺未遂を行うなど、その精神状態が犯行の遠因になっている可能性は否定できない、としながらも、芳美の精神状態は境界性人格障害とうつ病とが合わさった状態というもので、うつ病からくる希死念慮での自殺未遂ではなく、人格に基づいて衝動的に引き起こされたものとした。

これは長年に渡って芳美を診察してきた担当医の診断に基づいており、確かに芳美はうつ病ではあったけれども、事件の1ヶ月前の診察時にはうつ特有の妄想や希死念慮を悶々と抱いているような状態ではなく、むしろ事件当夜思い立ったようにガソリンを買いに行くという行為はうつに見られる行動抑制とは相容れないこと、殺害の動機も夫に対する憎しみが窺われ、その他罰的思考はうつ病一般に見られる自責傾向とは重ならない、とした。
そしてそれらは長年のうつ病によるものではなく、あくまで芳美の人格傾向に起因するものであるとした。

要は、うつ病が起因であるならば弁護人のいう心神耗弱も考えられるところ、そもそも芳美の境界性人格障害に起因する犯行であるから、弁護人の主張は認められないということである。

人格障害については、その傾向の強弱があるにせよ人はそのような自らの資質を克服ないし抑制して、社会の一員として生きることが期待されていると言わざるを得ず、人格障害に起因した犯行は加害者の責任を軽減する要素にはならない、というのが甲府地裁の判断だった。

ここに、芳美の完全責任能力が認定された。

家族

芳美は懲役10年を求刑され、甲府地裁は懲役9年の判決を言い渡した。
確かに、和弘さんはうつ病や芳美の人格などに配慮が足らない部分はあったのだろう。裁判でも認定された通り、芳美の不調はその人格によるところがあったにせよ、家業の手伝いが負担となりうつ病を発し、そのせいで家事が思うように捗らなかった面はある。

和弘さんとのエピソードは明かされていないため、和弘さんの人柄などもわからないのだが、通常、夫婦の事件の場合、それでも子供達は加害者となった片方を本心の部分では庇おうとする傾向がある。
あの佐賀長崎連続保険金殺人の「主犯」山口礼子が控訴審で死刑を免れたのも、子供らの嘆願があったから、というのはその通りだろう。
しかし、芳美にそれはなかった。

和弘さんは、19年にもわたってそれでも芳美と夫婦でいた。何度も自殺を仄めかし、感情的な振る舞いをする妻を、それでも友人らとの食事にも連れて行き、決して蔑ろにしていたわけではなかったろう。

そんな父親と母親の姿を見て育った子供たちは、父を殺害した母に対し、厳罰を望んだ。

事件からすでに10年以上が経過していて、芳美は出所していると思うが、今、家族と過ごせているだろうか。罪を償った母を、子供達は受け入れられたろうか。
いや、芳美自身が、自分に厳罰を望んだ家族を、許せているだろうか。

CASE2:北海道の女

昭和63年10月。札幌市南区のアパートで5歳の女の子が死んだ。
女の子の死因は餓死。
保護者である母親が逮捕されたが、母親はシングルマザーで生活保護を受給しながら娘を育てていたが、その生活保護が打ち切られていたと分かった。

それまで

逮捕されたのは大山久美子(仮名/当時41歳)。
久美子は北海道空知郡の生まれで、父親は炭鉱夫だった。貧しい家庭に兄弟姉妹は久美子以外に6人、上に三人の姉がおり、その時代多くの子供がそうだったように、中学を卒業後は集団就職で千葉県内のゴルフ場にてキャディとして働いた。

3年ほど働いたのち、ゴルフ場を辞めて関東の至る所で店員、家政婦、ホテルのメイドなど様々な職を点々としていた。
18歳を過ぎると、ホステスも経験し、一時は京都で芸妓の見習いもしていた。

昭和56年、東京浅草のキャバレーで一人の客と出会い、肉体関係を持つようになる。そのうち、久美子は妊娠したことに気づいたが、その頃にはすでに相手の男に対する愛情がなくなっており、3ヶ月後には関係を解消していた。
久美子は男に対して弄ばれた上に妊娠させられたとして憎しみを抱いていたため当然中絶するつもりでいたが、過去にも中絶の経験があり、医者からこれ以上中絶すると体に良くないと言われていたこともあって中絶する時期を逸してしまった。

大きなお腹では思うように働くこともできず、窮した久美子は母親を頼る。炭鉱夫の父親は体を壊して入院中ということもあり、空知の実家はなく、母親は当時札幌市内に住んでいた。
大きなお腹で戻ってきた娘に驚いた母親は、無理を承知で市内の産婦人科を訪ねると堕胎を依頼するものの、当然、医師からは拒否され、すでにいつ産まれてもおかしくない状態であると説得され、3日後に久美子はその産院で帝王切開にて女の子を出産した。

女の子は「初美」と名付けられた。

生活保護

翌昭和58年4月、久美子は娘とともに母方を出ると南区内のアパートへ移った。この時点ではそれまでに働いた貯蓄が200万円ほどあり、母子の生活は問題はなかったが、姉から「子供が幼いうちは思うように働けない」と、生活保護を勧められる。
しかし当然ながら、いくら幼い子がいるとはいえ姉や母親の存在があり、かつ、健康でまだ若い久美子に対してケースワーカーは就労することを強く求めたという。

生活保護の申請は通っており、児童扶養手当とともに受け取って生活していたが、久美子にはこのケースワーカーから働くことを求められるのがことのほか気に障った。
昭和61年5月、ケースワーカーから「働けるならば働きなさい」と言われることに我慢ならなくなった久美子は自ら生活保護を辞退した。
当初報道では生活保護が打ち切られていた、とされていたが、実際にはこのような経緯だった。

久美子が強気に出たのは、200万円の貯金の存在もあった。児童手当だけでは当然食べていけないため、以降その貯金を取り崩しながら生活していて、近所の人らも「いつもこざっぱりとした格好をしていて、生活保護を受けているようには見えなかった」というほどだった。

ただ、仕事をしていない以上その貯金が尽きるのも時間の問題であり、久美子は将来について漠然とした不安を抱えている状態であることは間違いなかった。

さらに、成長していく初美ちゃんをみるにつけ、久美子にはある思いが湧くようになっていた。

愛憎

久美子は初美ちゃんを愛おしく思う反面、ふとした目つきや顔立ちがあの男に似ていることに苛立っていた。
もともと、産むつもりなどなかった。それが時機を逸したために中絶できず、産むしかないと言われて産んだ子だった。
それでも我が子に変わりはなく、久美子の初美ちゃんに対する養育の態度に当初は問題はなかった。

しかし久美子はどうしてもあの男の面影を初美ちゃんに見出してしまい、そのたびにあの男の子なんかこの世に生まれてこなければよかった、と思う気持ちも変わらなかった。

加えて久美子にはもう一つ悩みがあった。
月経前にどうにもイライラが止まらない、いわゆるPMS(月経前症候群)が顕著だったのだ。
久美子はその苛立ちを初美ちゃんにぶつけるようになる。おとなしく遊んでいる初美ちゃんの顔や頭を突然殴りつけ、それは青あざとなって残るほどのものだった。

3歳を過ぎ、ますます顔立ちがあの男に似てくると、さらにその折檻は酷くなった。
単なるイライラの発散ではなく、病気にでもなって死ねばいいのに、とまで思うようになっていたのだ。
しかし自ら手を下してまで、という思いはあり、とにかく初美ちゃんが鬱陶しくてたまらない、そんな思いに駆られていた。
その頃、知人からもたらされた縁談もあったが、初美ちゃんがいたために思うようにそれが進まなかったことも久美子の苛立ちを増幅させた。

そして昭和62年になると、あの貯金がかなり減ってきたことで現実に引き戻された久美子は、このままでは初美ちゃんのみならず、自分も早死にするのではないか、と考えるようになった。
その思いは、やがて自分が死んだら初美ちゃんも不幸だと考え、やはり初美ちゃんは死んだほうが幸せだと思うようになっていく。
夏ごろにはその思いが具体的になり、初美ちゃんを殺し、自分は食を断って餓死しようと考えるようになった。
しかし、やはり直接刺したり首を絞めたりということはどうしてもできず、ならば初美ちゃんにも食事を与えなければ、幼い初美ちゃんは1週間もすれば死ぬだろうと考えた。

昭和63年夏、それまで月に1~2度様子を見に来ていた実母に対し、9月の終わりまで自宅には来ないように伝え、8月25日から初美ちゃんに対し、極端に食事や水分を与えないという行動に出た。

「ちょうだいと言っちゃ、ダメよ」

8月25日の朝、アパートで久美子は唐突に初美ちゃんに告げた。

「お母さんもご飯食べないから、初美もご飯食べたらだめだよ」

その上、遠くに行くんだよなどと言って聞かせ、初美ちゃんに食事を与えることをやめた。
意味も分からず食事を断たれた初美ちゃんは、空腹に耐えかねて久美子に食べ物をせがんだが、
「おなかが空いたと言ってはダメ。おねだりはダメ。」
久美子はそう言って厳しく叱りつけた。

久美子が外出した際など、初美ちゃんは何か食べるものがないかと探ったり、夜間に残された水を飲むなどしてなんとかしのいでいたが、それを見つけるや、久美子は怒声と共に初美ちゃんを蹴り飛ばした。
初美ちゃんはあっという間に衰弱したが、それでも小さないのちは懸命に生きようとしていた。体重は15キロを切り、立つことも話すことすら、不自由するようになっていたが、それでも久美子が銭湯に出かけた際など、やかんの水を舐め、必死で生きようとしていた。

久美子は一週間程度で死ぬと思っていた初美ちゃんが一か月経っても死なないことに苛立っていた。
そして、すでに衰弱しきっていた初美ちゃんに暴行を加え、床に転倒して動かなくなったことで「今なら首を絞めればすぐ死ぬのでは?」と考え、初美ちゃんの首に手をかけた。
しかし初美ちゃんは最期の力を振り絞るかのように抵抗したため、その時はそれ以上のことはしなかった。

10月に入り、久美子はいよいよ苛立ちを抑えきれなくなり、幼い初美ちゃんに対し、「まだ死なないのか!いつになったら死ぬんだよ」と言い放ち、その顔面を平手で殴打した。
10月3日午後3時、初美ちゃんはその短い一生を餓死という形で終えた。

心神喪失あるいは耗弱

検察は久美子が幼いころから変わり者とみなされ、家族らの証言からも普通の神経の持ち主ではないとまで言われていること、生育環境によるところもあるとはいえ、9人家族でありながら温かな交流もなく育ち、小中学校時代にも他人の悪口を好み、気分の変化が激しく自己中心的な行動が多く、他人とのかかわりにも大きな問題があったことなどから、その性格には偏りが見られるとしていた。

一方の弁護側は、久美子は精神鑑定の結果からもIQは65、精神年齢は10歳にも満たず、軽度精神薄弱程度の知能低格性が認められるとし、それに加えて事態を適切に判断し自己の行動を制御する能力が欠けていたか、著しく減退した状態だったとして、心神喪失もしくは心神耗弱を主張した。

札幌地裁の龍岡資晃裁判長は、憎むべき男との間にできた子で、足かせにしかならないとして疎んじ、自分が生んだ子だからどうしようとかまわないというまことに理不尽かつ自己中心的な冷酷非道な犯行と厳しく批難。
法廷の場でも久美子は「初美はわたしのもの。」「私は初美の母親だから私が初美をどうしようと勝手だと思います」「初美は死んでよかったと思います」などと言い放ち、反省悔悟の情は見えなかった。
ただ、その理解しがたい久美子の言動こそが、久美子の偏った性格と知能低格性という素質負因が強く影響しているともいえ、不安を抱えると適切な対応が取れずその結果の重大性もいまだに十分に認識できていないこと、初美ちゃんに対してもタダ憎いという感情のみならず、我が子だという慈しむ気持ちがなかったわけでもなく、だからこそ、愛憎のはざまでその知能低格性によって適切な対処ができなかったことは酌量の余地があるとした。

久美子の易怒的傾向や情性の欠如、自己顕示的傾向も併せ持つ著しい性格異常のために、心神耗弱状態であったとして、懲役3年6月(未決勾留日数300日算入)を言い渡した。
判決は確定した。

CASE3:岡山の女

「自分が情けないし、申し訳ない気持ちでいっぱい。」

平成29年11月、岡山刑務所に勾留されていた女は、毎日新聞の取材に対してそう語った。
女は殺人の罪で起訴され、裁判が始まるのを待つ身だった。

実は女は事件を起こした後、8か月経って逮捕されていた。

女も、自分の行いを今更ながらに受け止め、そして悔いていた。

無理心中

事件があったのは平成18年1月23日。岡山県和気町の町営住宅で、その家に住む47歳の母親と14歳の長男と次女、そして11歳の次男の4人がガスのようなものを吸ったとして搬送された。
次女は無事だったが、母親と次男は意識不明の重体、長男は死亡した。

備前署は現場の状況から、母親が子供を道連れに無理心中を図ったとみていたが、母親の容体が回復するまでは事情も聞けずにいた。

その後、9月になって母親の容体が回復、退院できたことから改めて事情聴取したところ、母親が「とにかく死にたいという気持ちでいっぱいだった。(子どもも)一緒に連れて行こうと思った」と話したこと、長女らにあてた手紙もあったことから、母親を殺人と殺人未遂の容疑で逮捕した。

現場は吉井川沿いの山間の町営住宅で、一家は平成23年ころにここへ越してきていたという。

現場となった室内には、燃焼させた木炭入りのバーベキューコンロが3台置かれていた。

長男の死因は一酸化炭素中毒。重体だった次男は一命はとりとめたものの、高次脳機能障害の後遺症、臀部褥瘡、全治不明の右尺骨神経麻痺の傷害を負わされた。
母親自身も、犯行の様子を一切覚えておらず、長男が死亡したことも病院で目覚めてから知ったという。

母親は精神鑑定となり、中程度のうつ状態だったと認定された。それを受けての、裁判員裁判となった。
弁護側は薬の副作用による影響で、善悪の判断がつかなかったとして心神喪失あるいは心神耗弱を訴える方針で、対する検察側は精神鑑定の結果を踏まえても責任能力に問題はないと判断、法廷ではその責任能力について争われる見込みとなった。

スーパーのレジ試験

依田香織(仮名/当時47歳)は、その日仕事を終え昼過ぎに帰宅した。気分は最悪、もう何もしたくないという気持ちで、処方されていた睡眠薬を普段の倍量飲んで仮眠した。
夕方、帰宅した子供たちと共にうどんを食べた後、次女をピアノのレッスンに送っていき、しばらくして迎えに行った後再度、倍量の睡眠薬を飲んで眠った。

香織の記憶はここから3カ月先へ飛ぶ。

目覚めたのは病室。日付は4月15日だった。なにがあったのかさっぱりわからなかった。
警察から、自分が何をしたのか、そしてその結果と、現在の自分の置かれている立場を聞かされ愕然とした。

香織は、子供たちを殺そうとし、そして長男を殺害していたのだ。

何が何やらわからないまま、少しずつあの日のことを思い出していた。

あの日、午前中職場であるスーパーではレジ打ちの昇格試験が行われた。香織にとって、職場は唯一自分が社会から必要とされ、つながっていると思える大切な場所だった。
レジ打ちの昇格試験に受かれば、パートリーダーの資格を得られることもあり、香織は絶対に合格したい、そう意気込んで試験に臨んだ。

が、結果は不合格。

香織にとって、よりどころだった仕事でも見放された気がした。

香織はその後バーベキューコンロを3つと木炭3箱、クラフトテープを購入して帰宅。実母らにあてた遺書を4通書くと、長男、次女、次男に対して「一緒に寝よう」と持ち掛け、コンロが置かれた部屋で眠りについた。

家族

香織は離婚歴がある。加えて、香織のそれまでの人生は苦難に満ちたものでもあった。

平成17年、当時4歳になったばかりの長男が白血病と診断された。抗がん剤治療に苦しむ幼い息子の看病と、ほかの子供たちの育児が重くのしかかる。
平成18年、香織はうつ病を発症した。原因は長男に対する心労と、夫との関係だった。詳細は不明だが、借金なのか女性関係なのか、ふたりが長男の病気があるにもかかわらずその後まもなく離婚していることを考えれば、相当な理由がそこにあったと思われる。

ただ、元夫との関係は完全に切れていたわけでもなさそうだった。事件のきっかけの一つに、実はこの夫との復縁が事実上実現できなくなったことも挙げられているからだ。

香織は離婚後、長男を含む6人の子供を育ててきた。長男と次女には障害があった。それでも子供たちが幼い間は日中家にいて子育てをし、仕事は深夜のスーパーのレジ打ちを続けた。
給与は17~18万ほどあったというが、育ち盛りの子供6人を抱えての生活は決して楽ではなかった。

同じ町内にある実家へ子供たちと戻ろうかとも考えたというが、そうなると児童扶養手当が打ち切られることとなるため、すぐに行動に移せなかった。
足りない分は生活保護を受けた。それでも生活保護費の引き下げなどがあり、3万ほど少なくなったという。

うつ病のせいもあって家事もまともに出来ていなかった。室内は整理整頓ができず、家の外からでも家の中の荒れ具合が垣間見えた。
玄関先には子供のおもちゃが散乱し、一列に並ぶ町営住宅の中でも香織の家の玄関先は荒れていた。

家計を支えるために高校を中退までして家に金を入れてくれていた長女も、事件当時は岡山市内で一人暮らしをしており、香織は家のことまで手が回らず、香織自身、うつ病の特徴でもある自責の念に苛まれていた。
離婚し、妻としても不適格、子供を引き取ったのに子育ても満足にしてやれない、母親としても失格。
そんな香織に、仕事だけは自分の存在価値を見出せるものだったのに、その試験に合格することができない。

私はもう、なにからも、誰からも必要とされていないのではないか。

殺意は明らか

裁判所は、精神鑑定の結果から香織が中程度のうつ病であったことは認定したが、結果として心神耗弱でも新進喪失でもない、完全責任能力を認めた。

香織は初公判から一貫して殺意を否認していた。しかしその点についても裁判所は、子供を道連れにした無理心中をしようとしていた以上、そこに殺意があったことは明らか、とした。

子供らに一緒に寝ようと誘い、安心させたうえでの犯行は卑劣であるとしながらも、その寝室に使用していた6畳間は施錠もされておらず、現に次女は途中で息苦しさから目を覚まし、家を出て助けを求めていること、また、次男と香織は一時重体に陥ったものの、その後回復していることなどから一連の犯行が100%死に直結するとは言い難く、長男が死亡したのは結果としてそうなってしまったともいえ、他の無理心中に比べて極めて危険な犯行だったとまでは言えない、とした。

また、香織がうつ病を発症し、希死念慮を抱き犯行に至るその経緯には、家族との関係があってのことで、同情の余地もあるとして検察の懲役12年の求刑に対し、懲役9年の判決を言い渡した。

あの団地の事件

この事件については、この章の冒頭で述べたとおり、毎日新聞が取材をしている。
「家族」の章は、その毎日新聞の取材をもとにしているわけだが、どうもこの毎日新聞の記事には違和感がある。

そしてどうしても、あの団地の事件を思い出さざるを得なかった。

事件備忘録でも取り上げた銚子の県営団地で母親が娘を殺害したあの事件である。(ちなみにあの事件はなぜか行政が悪いと言われ、いまだに悲劇のような印象でもって語られる事件だが、全然違うので読んでない人はぜひ読んでほしい。)

香織は6人の子がいる。長女は、長男次女とは最低でも6つ以上離れているが、わかっている範囲だと長男次女は14歳で、次男は11歳、三女と四女はともに事件当時10代である。
……どういうこと??

報道された当初、長男は中学2年、次女は中学3年となっていたのでスーパー年子?とも言われていたが、実際には長男が白血病で入院していたこともあるため、1学年遅らせている可能性もあるだろう。
それよりも三女と四女だ。次男が11歳というのは分かるが、ということは三女は12~3歳、四女は10歳と考える以外になく、三女以降、全員年子ということになる。
いや、おるよ、そういう人。しかし長男と次女には障害もあり、さらには長男は白血病を患った過去もある。
そしてなにより、夫と離婚したのは長男が5歳になるかならないかの頃であり、もはやそこにどんな事情があろうとも普通の感覚だったらいくらなんでもここで離婚したら大変な事態になるのは分かり切っていたような気がするのだ。
もっと言うと、なぜ年子で妊娠するような事態になってしまうのか、ということもある。ちょっとゾッとするレベルだ。

違和感はまだある。毎日新聞の記事では、生活保護を受けるほど困窮し、ランドセルも買ってやれなかったとなっているが、そもそも17~8万の稼ぎは立派なものだ。なぜそこで実家へ戻らなかったのか。同じ町内である。児童扶養手当がなくなるとは言っても、多くても5万円ほどで、家族の支援などを考えても世帯を分けるよりも一緒に住んだ方がなにかとメリットがあるように思える。
そこで出てくるのが生活保護か。17~8万も収入があったら生活保護は無理なのではと思わなくもないが、子供の数も関係するんだろうか。それにしてもである。

また、香織の自宅の様子を見ると、玄関先には生協の発泡スチロールが見える。香織の勤務先は生協……なのか?
決して安いスーパーではないようにも思うが、それに加えて次女はピアノを習っている。

毎日新聞の記事ではあたかも貧困にあえぐシングルマザーの姿を強調しているようにも思うが実際に判決文を見ても貧困が希死念慮を加速させたというようなことは書かれていない。
あくまでも要因は、元夫との復縁がなくなったこと、子供たちとの関係、そして自分の拠り所だった仕事での失敗である。

ただ私はこの、香織にとって死を意識するほど大変大きなことがレジチェッカーの昇格試験だったという部分に言葉は悪いが「グッと来た」のだ。

どれほど香織にとって心のバランスをとるためにかけがえがなかったか。
そんなことで……と思うかもしれない、しかし香織にはこのレジの仕事が生きがいだったのだ。試験は店長の推薦があって初めて受ける資格ができるのだという。しかしそれに落ちた。しかも、3度目である。
私には、これがどれほど香織の心をかき乱したかがわかるような気がするのだ。

それぞれの事情

3つのケースはそれぞれ動機も結末も裁判所の判断も違う。ただ、全員が人を、家族を殺した。

どの事件も、周囲が緊張するような、いつか起きるんじゃないかと思うようなトラブルやエピソードは見られない。夫を殺した芳美はその気配はあったかもしれないが、長年に渡ることが家族を慣れさせてしまったのかもしれない。

久美子は最後まで娘は自分のものだからどうしようと親の勝手という考えを改めることはなかった。
香織は痛々しい。おそらく乳飲み子もいた段階で夫が去り、懸命にもがいてもがいての結末がこれだった。
生きがいだったレジの仕事での躓き、それに加えて元夫との復縁が出来なくなったことで子供らに父親を作ることが出来なくなったという絶望、障害を持つ子供らとの関係などが重なって積もり積もった結果だと思うが、実は事件当時交際相手がいた。ちょっとどういうことかよくわからない。

香織の子供たちは事件の後、香織の実家で暮らしていたという。

自分も殺されかけた次男は、それを知ってか知らずか、逮捕され連行される母に抱きついた。

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参考文献

読売新聞社 昭和63年10月5日、平成15年9月17日、平成16年4月29日東京朝刊、平成28年9月14日大阪朝刊
中日新聞社 昭和63年10月5日朝刊
朝日新聞社 平成15年9月17日、10月28日、平成16年1月15日、2月5日、3月5日東京地方版/山梨、平成30年1月24日、26日大阪地方版/岡山
毎日新聞社 平成29年11月29日 わが子のぬくもり忘れられない 被告が胸中語る (高橋祐貴)
山陽新聞社 平成30年1月23日夕刊、平成30年1月25日朝刊