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校庭で焼死した父子
「助けてください!助けて」
小学校に隣接するアパートの住人は、突如聞こえた爆発音に驚き外へ出た。そこで見たのは、助けを求めて走り回る、子供の姿だった。
その子供の体は、炎に包まれていた。
クリスマス直前の惨劇
事件が起きたのは、文京区千駄木の区立汐見小学校の校庭。
天皇誕生日のその日、校庭では少年野球の親子親善試合が行われており、多くの父兄の姿があった。
ふと、一人の男が校庭にやってきた。男はその少年野球チームの元監督。男の次男もチームに所属していて、その日も校庭にいた。
しばらくすると、男は自分の息子を呼び寄せ、校庭の脇の通路へと一緒に歩いていったその直後だった。
保護者の一人が、通路で炎が上がっているのを目撃。体を炎に包まれた人間の姿があった。同時に、少年が体に火がついた状態で走っているのも確認、慌ててほかの保護者らとともに消火活動を行った。
何とか火を消し止めたものの、男も少年もかなりひどいやけどを負っていたという。
一体、何が起きたのか。
実は事件が起きる2週間ほど前、ある児童が少年からあるぼやきを聞かされていた。
「お父さんが最近変な感じで、お母さんと仲が悪いんだ。」
事実、少年の両親は平成22年ころから別居中で、少年は母親とともに台東区の母方の実家に身を寄せていた。ただ、学校だけはそのまま文京区へ越境通学していた。
しかし父親と母親との間で子供の養育をめぐってなかなか話がつかず、平成24年の5月には母親が上野署に夫が子供を連れ戻しに来た際に暴力をふるったとして相談に来ていたという。
上野署は母親と子供たちを保護対象としパトロールなどを続けていたが、12月には母親の了承の下、保護解除となっていた。
父親は子供たちと一緒に暮らせなくなって以降、幾度となく次男が通う汐見小学校を訪れては、息子の野球の練習風景を眺めていた。
離婚調停中ではあったが、面会は定期的に行われていたようで、事件が起きた年の初めころも、すでに別居中だったにもかかわらず文京区の父親が暮らすマンションの駐車場でキャッチボールをする父子の姿が目撃されていた。
息子、特に次男に執着していたという父親は、その日の夜に死亡が確認された。
闇堕ちした父親
死亡したのは文京区在住の会社員・茂木悠太さん(仮名/当時49歳)。重体だった9歳の次男・陽太郎君も、治療の甲斐なく12月30日に死亡した。
悠太さんはその後、被疑者死亡のまま殺人容疑で書類送検された。
加害者が死亡した以上、その本当の動機は分からない。が、先にも述べた通り夫婦関係がうまくいっていなかったことは無関係とは言えないだろう。
事件が起きた頃には、離婚についての話し合いも大詰めを迎えていたといい、近く離婚が成立する予定だったとの報道(NHKニュース)もある。
しかしなぜ陽太郎君を道連れにしたのか。
陽太郎君は事件の直前に、悠太さんと会った際、
「俺が死んだら、お母さんを守ってくれ」
と言われていて、その時の父親の様子を不審に思い、後日友人にその話をしていた。
当初は自分一人で死ぬつもりだった、のか。ではなぜそれが無理心中へと変化したのか。
例えば発作的に首を絞めた、というのならばまだわかるが、悠太さんはこの日、最初から陽太郎君と無理心中をするつもりでこの校庭にやってきていた。
というのも、事件後に自宅からは遺書が、現場からは悠太さんが持ち込んだと思われる灯油の缶やライターのほかに、手錠や催涙スプレーもあったのだ。
なんとしてでも、という強い決意が見える。
悠太さんは一部情報やSNSから、大手新聞社の子会社にあたる出版社で働いていたことがわかっているが、SNSをみても友人関係も業界の人や文化人などが多い。
「孤独のグルメ」が好きだったようで、自身も食べ歩きなどを写真付きで投稿していた。
また、平成23年頃の投稿を見ると、少年野球の練習や、キャッチボール、野球観戦というタイトルでのチェックイン、写真が並んでいる。
時期的にすでに妻子と別居している時期ではあるが、あまり危機感や悲壮感は感じられない。本人としても一時的な別居、と思っていたのだろうか。
しかし事件の1年ほど前からは飲み歩き、宅飲み、といった投稿ばかりになり、まるで独身男性であるかのような投稿が続く。それは事件直前まで、なんら変わらぬ日常の投稿として行われていた。
しかしその時点ですでに、悠太さんの心は地獄にあった。
陽太郎君と同じ少年野球チームの児童は、「一緒に遊んでくれたり、優しい人だった」と言い、SNSを見ると、コミュニケーション能力もあり、友人も多いように見える悠太さんだったが、住んでいたマンションの住民によれば、会っても挨拶もしない人だった、という声もあった。
妻に対しても、ケガをさせるほどのものではなかったかもしれないし、物の弾みだったのかもしれないが、暴力をふるったとも言われている。
子供を道連れにした無理心中の中には、時に相手(配偶者)に対するあてつけ、嫌がらせが動機のものもある。また、数ある無理心中の方法で、わざわざ公衆の面前での焼死というとんでもない方法を選んだのにも、なにか意味があるような気もする。
結果として悠太さんの行為も、妻に対してこれ以上ない苦しみを与えることになった。そして、陽太郎君の輝かしい未来を奪い去った罪は、死んでも償えない。
我が子を叩き殺した父親が見たものは
私はこの事件を知った時、何かの間違いではないのかと思った。それほどまでに、おぞましく、恐ろしい殺し方だった。
そして詳細を知るにつけ、この父親には本当に何かが見えていたのではないかとすら、思った。
そう思わなくては、やりきれなかった。
河川敷の惨劇
最初の通報は、住居への不法侵入だった。
平成25年10月3日の夕刻、京都府綾部市梅迫町の住民男性から、子供連れの男が空き家の窓ガラスを割って侵入した、というものだった。
通報を受けて綾部署員が駆けつける。しかし警察官らはその空き家の近くの川で何かを一心不乱に叩きつけている男の姿に気づく。
「なにをしている!」
男は30代から40代くらい、その手には、人形のようなものが握られている。
近寄った警察官らは目を疑った。
男が握っていたのは、子供の足。その状態で、子供を川底に叩きつけていたのだ。
警察官が男を取り押さえようとするも、男は暴れて抵抗。別の警察官が必死に子どもに心臓マッサージを施していたが、男児は即死状態だったという。
オムツ姿の男児は2~3歳。その頭部、特に額からは激しく出血していた。
綾部署は殺人未遂の疑いで男を現行犯逮捕。当初は興奮していた男だったが、その後署に連行されてからは落ち着きを取り戻した。
そして、叩きつけていたのは自分の子どもであることを認めたが、なぜ叩きつけていたのかについては要領を得ない発言をしていた。
「霊が見える。呪われている」と。
男は職業不詳の34歳、京都府城陽市に妻と子どもとの3人で暮らしていた。
事件が起きるより前、実は現場から200mほど離れた空き地から国道27号へ出ようとした車がトラックと衝突する事故も起きていた。
目撃した人によれば、スポーツカータイプの乗用車から男と子どもが出てきて、トラックの運転手が通報している間にどこかへ行ってしまったのだという。
空き家への不法侵入が起きたのは、その直後だった。
当初は人が住んでいる家に男がやってきたという。縁側から無断で家の中へ立ち入ろうとしたのを家人が見咎めたところ、「間違えました」と言って出て行ったものの、近くの空き家へ入ってガラスを割り始めたことから通報にいたった。
さらに空き家を出てきた男は、また別の家へ入ろうとして住民に声を掛けられてもいた。そして同じく「間違えた」と大声で言うと、再び空き家の中へ入っていったという。
その後、近くの郵便局裏手にある、川へ降りる階段を下りたあたりで、男は我が子の足を掴むと、そのまま振り下ろすようにして川底へと叩きつけたのだった。
何度も、何度も、何度も。
まるで何かに取り憑かれたかのような、地獄絵図だった。
司法解剖された男児は、当初の報道ではなかったが、足首を切断されていた。その後、川の中から男児の体の一部も発見された。
心の病気やねん
男が暮らす城陽市では、この一家についてたとえばDVや虐待などの懸念があるとか、そういった通報はなかったという。
ただ、一家を知る飲食店の人によれば、男は自らを「心の病気」だと話していたという。
二階建ての一戸建てで暮らしていたというが、男の存在は結構な人が知っていたが、妻子の存在は知らなかったという人もいた。
洗濯物が干されていることもほとんどなかったといい、近所の人の中でも男が一人で暮らしていると思っていた人もいた。
飲食店では家族で訪れることもあれば、男が一人で来ることもあったというが、子供連れの時はいつも膝に抱いて、男は子供をかわいがっていた。
どこにでもいる、普通の家族に見えた。
しかし、事件当日の午前中、一家は明らかに邪悪なものにとらわれていた。
「携帯返して!」
男の自宅近くの路上で、裸足の女性が目撃されていた。その先を、男が行く。
携帯返してと叫びながら、妻とおぼしき女性は這いつくばって男を追っていたというが、その後しばらくすると二人は合流し、手を繋いで自宅へと戻っている。
その同じ日の午前、別の女性は自宅の二階にいた男に突然声を掛けられ、「ぼく、心の病気やねん。おばちゃんは賢くていいな」などと言われた。
その数時間後、男は女性が経営する飲食店を一人で訪れた。女性は、「あんた頑張りや」と声をかけ、かぼちゃの煮物を手渡している。
男は今度子供を連れて遊びに行ってもいいか、などと話して、頭を下げて帰っていった。
男が帰宅した直後、今度は自宅から女性の悲鳴が聞こえてきた。
その後、保育園に行っていた子供を男が迎えに行き、そしてそのまま綾部へと向かったとみられた。
妻は夫と子どもがいなくなったとして警察に届けを出していた。
そこから約90キロほど離れた綾部へと移動したことに意味があったかはわからない。
しかし男にはなにかが「見えていた」。
父親が見ていたもの
男はその後当然ながら鑑定留置となり、平成26年1月22日、京都地検は不起訴の方針であると発表した。
もともと男には精神疾患による通院歴もあった。それは当初から報道されていて、男や子供の名前などは一切出ていない。
その後の調べで、男は事故を起こして空き家へ侵入した際、そこで子供を踏みつけるなどの暴行を加えていた可能性があることが分かった。
空き家の中には血痕も残されており、また、子供の足首を切断したのも、現場に刃物がなかったことからおそらくその空き家の窓ガラスの破片を凶器にしたと思われた。
男は「霊が見える。子供と車が壊れた。呪われている」と捜査員に話した。しかし当然ながらそれは精神疾患からくるものと判断されたろう。
ふと、長野の御代田で起きたあの事件を思い出した。
あんなにかわいがっていた子供を、信じられないほどに残酷な方法で殺害した、出来てしまったのは本当に精神疾患によるものなのだろうか。
オカルトに走るつもりはないが、むしろオカルトであってほしいと願いたくなるほどおぞましい。
人が住んでいる家に上がり込もうとした時、男の腕には子供が抱かれていたという。子供は、ニコニコと笑っていた。
その直後に空き家へ入り込んでからは、大きな音がしてガラスが割れる音はしたというが、子供の泣き声などが聞こえたという話はない。
しかし後の調べで、その空き家の中でも暴行が加えられたことはわかっている。足首が切断されたのは、どの段階なのか明らかにされていない。
自分にははっきりと見えているものが、ほかの人には見えない。それはすべて頭が、心がおかしいのだと片づけられる。
本当に見えていたとしたら。
男は今も何かが見えているのだろうか。そこから彼を救う手立ては、ないのだろうか。
悲しみの家
平成24年1月。正月気分もまだ残るその日、葛飾区のJR総武線新小岩駅のホームから一人の男性が電車に飛び込んだ。
葛飾署の調べで、所持品などから男性は江戸川区在住の30代の会社員と判明。自殺だった。
不動産会社に勤務していたという男性は、仕事のミスが続いたことを苦にしていたといい、それが自殺の動機だと思われていたが、3か月後、直接の動機かどうかは別にして男性の悩みはそれだけではなかった可能性があることがわかった。
4月6日、江戸川区で子供二人を含む一家4人が死亡するという事件が起きた。
現場の状況から、母親とその兄が子供たちを道連れに練炭自殺を図ったとされた。
その家は、妻と子は、あの新小岩で電車に飛び込んだ男性の家と家族だった。
届かなかった兄妹の涙
死亡していたのは、その家に暮らす野本小百合さん(当時28歳)と、長男で小学4年生の晃輝君(当時9歳)と長女で小学2年生の鈴菜(れいな)ちゃん(当時7歳)と、同居していた小百合さんの兄・斉藤章さん(当時29歳)。
近所の住民は、悔やんでも悔やみきれないと家族を思いやった。
一家がここに越してきたのは平成23年9月。それまでは福岡県筑紫野市の小百合さんの実家で生活していたが、夫の仕事の都合で東京へと越してきたのだった。
鈴菜ちゃんは活発な子で、転校してもすぐ打ち解けたという。ところが、鈴菜ちゃんも晃輝くんも、なぜか学校を休みがちだった。
理由は母親、小百合さんの不調にあった。
決して小百合さんが子供たちを放棄していたわけではないが、引っ越してからというもの小百合さんの心身は不調続きだったという。
幼い兄と妹はそんな母を思いやり、買い物に出かけたり、犬の散歩に行くなど精一杯支えようとしていた。父親は仕事があり、なかなか家族のそばにいてやれない中、学校に対して母親の体調がよくないこと、長男の晃輝くんが育てにくいといった相談をしていたという。
12月に入り、野本家の不穏は近隣の人々の目にも映るようになっていく。
22日、近所の住民から弘輝くんが裸足で上着も着ないで一人泣いている、といった電話が子ども家庭支援センターへもたらされた。
センターは学校や児童相談所、民生委員などと連携し、小百合さんと夫に対して面談する方針を立てていた。
小学校から連絡を受けた小百合さんの夫は、晃輝くんがなぜそんなことになっていたのかという説明をしたが、その際に上記のような相談があったという。同時に、小百合さんの体調面を心配して、今後の対応は自分が行う、という話もあった。
1月に入って、学校が晃輝くんに対してもその日の状況を聞き取ったところ、晃輝くんからも暴力や締め出し行為をされたわけではないこと、母親の小百合さんからは裸足で外に出るのは心配、と言われたこともわかり、両親による虐待というものではないことがわかった。
ただ学校としては、晃輝くんが朝食を食べずに投稿していることや、季節に応じた服装が出来ていないことがあるのが気になっていた。
その直後、父親が自殺したと報じられた。
学校はその後、小百合さんの兄が来校し、今後は自分が窓口となるという話を聞いた。
その後も学校とセンターは数日おきに電話などで野本家と連絡を取っていたが、小百合さんからも家族は大丈夫、という言葉があったことや、夫側の祖父が連日野本家にきて食事の用意をしていること、兄妹も学校へ来ているということで継続して見守ることとなった。
しかし近所の人々は、声をかけるのを躊躇するほど思いつめたような顔でうつむき、一人歩いていく鈴菜ちゃんの姿を見ていた。毎日のように兄妹は近くの公園に来ていたというが、春休みの頃にはそれも見かけられなくなっていた。
さらに4月3日、野本家の玄関前に、なにかが置かれ燻っているのが見えた。通りがかった近所の男性が近寄ると、そこには炭が入った「練炭」が置かれていた。
男性は慌てて消し止めた。
その3日後、訪ねてきた小百合さんの亡き夫の父(義父)が、4人が室内で死亡していることを発見、通報した。
家族の苦悩
多くの人が一家の異変に気付き、また一家が背負った悲しみと苦悩を知りながら、最悪の結末は防げなかった。
自殺した小百合さんの夫は、自身の仕事上の悩みを抱えながらも、妻と子どものために何とかしなければと思っていた節は見える。
そもそもその仕事上のミスというのも、家族の問題に対処する中で起きたものの可能性はある。
事実として学校や行政との面談、対応はすべて小百合さんの夫が行っており、学校も行政も小百合さん本人とは面会できていない。
一家は福岡から東京へ越してきたという報道ではあるが、産経新聞によるとこの一家はもともと東京で暮らしていたという。
そして平成19年4月頃、晃輝くんと鈴菜ちゃんが育児放棄されているとして児童相談所が介入していた。が、半年ほどして状況が改善されたとし、支援は終了。一家も小百合さんの実家がある福岡県筑紫野市へ転居した。
その後ふたたび東京へ戻ったのは、小百合さんの夫の仕事の都合というもののほかに、小百合さんの夫の父親の面倒を見るという理由もあったという。
が、実際には一家は夫の職場(文京区)との距離の問題もあったのか、江戸川区の戸建てに住み、夫の実父は千葉県市川市で暮らしていた。
小百合さんの義父は、1月に息子である小百合さんの夫が自殺して以降、毎日のように江戸川区の野本家を訪れては、子供たちの食事の世話をしていた。
この頃、小百合さんの体調は最悪の状態で、食事も満足に取れていないのか栄養失調で入院もしていた。
また、道端に座り込んで涙を流す小百合さんの痛々しい姿も、目撃されていた。
危ない。わかりやすすぎるレベルで、この一家は危なかった。
それでもセンターや行政は何もしていなかったわけではない。父親が、夫が電車に飛び込むという亡くなり方をしているわけで、子供たちのケアや小百合さんの様子を確認するなど、出来るところから始めている様子はあった。
その頃、野本家には新しい住人の姿があった。小百合さんの兄、章さんである。
章さんが同居した経緯は分かっていないが、単純に考えれば、妹一家が大変な状況にあり、いわば死亡した夫の代わりというか、妹を心配する兄としては一緒に住んで家族を守りたい、そういう思いがあったのだろうな、と思う。
学校との対応も、小百合さんの夫に代わって兄が担っていた。
しかし、結果としてこの兄と、小百合さんの義父という存在が、一家の深刻な事態を見えにくくしてしまった部分もあった。
センターも学校も、何度も母親と面会しようと試みていたが、強制的な対応の話になると兄も義父も消極的になったという。ただそれは、小百合さんの心をこれ以上えぐりたくない、夫を亡くし子供の存在までもなくなってしまうとそれこそ小百合さんが完全に壊れてしまう可能性は誰しも考えただろう。
しかし結果を知ってからのずるくて非情な言い方をするならば、子供たちだけでも安全な場所に、せめて義父のもとへ行くという選択肢をすべきだった。
悲しみの果て
義父は、毎日のように食事の世話で江戸川の家を訪れていた。最初は、小百合さんも会話に応じていたというが、その内容は自死を連想させるものだった。
「死にたい」そういう一方で、しかしそれでは子供たちが可哀そうだと言っていた。
義父がどうその言葉をとらえたのかはわからないが、もしかすると義父にしてみればその死にたい気持ちを、子供たちの存在がなんとか思いとどまらせている、そういう風に思えたのかもしれない。
しかし小百合さんはもう限界だった。
19歳で弘輝くんを出産、その経緯も不明だが、思うようにはいかない結婚生活、子育てだったのかもしれない。
平成19年の時点で小百合さんの心身の変調は見えていた。が、当時は小百合さんへの「支援」というよりも、ネグレクトの疑いとして虐待という観点からの「指導」がメインだった可能性もある。家族の意向も当然、あっただろう。
ただふと気になることもある。兄、章さんの存在である。
章さんと小百合さんのそれまでの関係性もよくわかっていないが、章さんはそれこそ妹家族の世話をし、守るためにいたのではないのか。
実のところ、この章さんがいつから同居していたのかもわからなかったが、学校側が同居を確認したのが小百合さんの夫が自殺した直後であることなど常識的に考えれば、その頃からだと思われる。(※毎日新聞によると、夫が存命中から5人で暮らしていたとの情報もあり)
たしかに兄は学校との連絡や行政とのやり取りなどを担ってはいたが、兄として、家族だからこそできることを積極的にしていた様子が、ない。
職業も「不詳」であり、この兄の社会的な足跡というか、情報がほとんどないのだ。まるで小百合さんと同じように、社会とのつながりを断っていたかのように。
また、この兄が夫の代わりのような立ち位置で妹家族とかかわっていたとすれば疑問もある。ならばなぜ、義父は連日一家の世話をするために千葉からやってきていたのか。
事件が発覚した日、義父は冷蔵庫の中身を見ている。そこには、二週間前に義父が持ち込んだ食材が手も付けられずに腐っていたという。
かわりに室内には、コンビニ弁当の容器が散乱していた。
小百合さんのみならず、兄も生きる気力を失っていたのか?
義父は息子が自殺して以降、ずっと一家を支えていた。しかし、事件の起きる2週間ほど前、小百合さんにもう関わってほしくないと怒鳴られたことで、距離を置くようになった。
ただそれも、小百合さんを思えばの対応であり、ここで無理強いをすることは躊躇われた。
無理矢理にでも子供たちを引き取ればよかったのだろうか。義父は事件後に新聞社の取材に力なく答えた。
児童相談所や行政が育児放棄を根拠にもっと踏み込んでいれば、という声も当然あった。しかし小百合さんの義父は、行政はよくやってくれていたと思う、と話している。
たしかに、事件が起きる3日前に、玄関先で練炭入りの七輪が燃やされていた事実を見れば、かなり不穏な兆しに見える。しかし行政はこの事実を知らなかったのだ。
消火に当たった人は、事情もよくわかっていなかったし、通りすがりに見えたものを危険に思って消し止めただけで、まさかこんな背景があるなどとは思わなかったのだろう。特に警察や行政に通報するまでには至らなかった。
発見されたのは4月6日。ただその時点で死後1~2日経過していたという。
後から考えれば、でしかない。何もかも分かった上で、済んでしまったあとならば、あの時……と誰もが思うだろう。
義父のみならず、近所の人たちも心を痛め続けた。
平成23年の秋、一家が引っ越しのあいさつに来た時、そこには笑顔の小百合さんと子どもたちがいた。
しかし小百合さんはおそらくそのずっと前から、少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。夫の心の負担も相当なものだったろう。転勤して間もない時期で、慣れぬこともあったろう。そんな中での、家族の苦しみと仕事との板挟みは、どれほど辛かったろうか。
けれど、けれどこの悲しみの果てを思えば、どうにか思いとどまってほしかったと言いたくなる。
夫を喪えば、小百合さんがどうなるかの想像は夫とてわかっていたはずだ。それでも耐えきれないほどの重圧、苦しみだったのだろうが……
結果はあまりにも悲し過ぎるものになってしまった。
事件後、玄関にはしばらく飼っていた犬が繋がれそのままいたという。兄と妹が世話をしていた犬。手を繋いで犬の散歩をしていたというふたりの会話を、犬は聞いていただろう。
どうすればこの一家をこの世の地獄から救えただろうか。
「何が正解だったか、今でも分からない。大切な孫だった…」
遺された家族の傷もまた、深い。
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参考文献
熊本日日新聞社 平成25年12月24日朝刊
読売新聞社 平成24年4月11日東京夕刊、25年10月4日、12月24日、31日東京朝刊、平成26年1月22日大阪夕刊
毎日新聞社 平成24年4月11日東京夕刊、25年10月5日、12月24日東京朝刊
日刊スポーツ新聞社 平成24年1月19日、4月8日、平成25年12月24日
中日新聞社 平成25年12月24日朝刊
産経新聞社 平成24年4月16日東京夕刊、25年10月5日、12月25日東京朝刊
NHKニュース 平成25年12月30日
朝日新聞社 平成24年4月7日、14日東京夕刊、25年10月4日東京朝刊