難病の息子に手をかけた老母の「限界」~塩釜市・息子殺害事件①~

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平成14年5月22日午後10時30分

「もうこんな時間……」
時計を見た母親は、いつものように息子の様子を見に部屋へと向かった。
狭い市営住宅の一室。それでも痛む足を庇いながらの歩行は、老齢の身に堪えた。

部屋を覗くと、息子はベッドの上にあおむけになっていた。
テレビはついていたが、息子はどうやら眠っているようだった。
「もう、今しかない」
母は決断した。

事件概要

「母の様子が気になるんです、様子を見に行ってもらえませんか」
この日、塩釜署に横浜在住の女性から通報があった。
訴えによると、塩釜で兄と二人暮らしをしている女性の母親から電話があったのだが、その際の様子がどうにも不穏だったという。

塩釜署員が松陽台2丁目の団地に駆け付けたところ、家の中のベッドで男性が倒れており、そこには最悪の結末が待ち構えていた。

亡くなったのは、その部屋で母親と暮らす菅野富久男さん(当時55歳)。
そして、部屋で茫然自失でうなだれていたのが、母親のタケヨ(仮名/当時75歳)だった。
すでに事情を察していた署員に対し、タケヨは
「病気で苦しむ息子が不憫だった。殺して一緒に死ぬつもりだった」
と答えた。
富久男さんは首を電気毛布のコードで絞められたことによる窒息死だったが、55歳の男性がいくら寝込みを襲われたとはいえ、75歳の老女を撥ね退けることは出来なかったのか。

そう、出来なかったのだ。富久男さんの病は、パーキンソン病だった。

ふたりのそれまで

タケヨは大正15年に山形県内で生まれ、昭和20年に結婚、翌年には富久男さんが、さらに10年後には長女も生まれた。
戦争を生き抜き、戦後の混乱の中でも家族は幸せに暮らしていたかに思えたが、昭和37年、夫が病で死亡してしまう。
長女はまだ幼かったが、タケヨはそれでも子供たちを抱えて必死に生活を守ってきた。
長女が19歳で他県に就職した後、昭和52年には富久男さんの仕事の関係で宮城県に移り、以後は二人の生活だった。
昭和57年に塩釜市松陽台の市営住宅(当時)に移り住んでからも、富久男さんは段ボール製造工場で、タケヨは食品会社で仕事をしながら親子寄り添って生活していたという。

平成8年、そんなささやかながらも平穏な親子の暮らしに暗雲が立ち込める。
富久男さんはその頃から、左半身、特に手足に「痺れ」を感じるようになっていた。年齢や仕事柄もあるのかもしれないと、塩釜市内の病院に通院しながら勤務を続けていたが、症状が改善される気配はなかった。
タケヨも、そんな息子を案じてはいたものの、医学の知識などは皆無であったため、過労や年齢によるものだろうと思っていたが、あまりに長引くその症状に不安を隠せないでいた。

平成9年9月、ようやく富久男さんの症状が何によるものなのかが判明する。富久男さんはパーキンソン病だった。
タケヨも病名を知ったが、聞いたこともない病名だったことと、むしろ病気が何なのかが分かったことで治療がすすみ、そのうちよくなるだろうと考えたという。
ところがある時、ふと目にした雑誌でパーキンソン病について書かれた記事を読み、パーキンソン病が自分が思っている以上に厄介な病気であることを知り愕然とする。
説明するまでもないが、パーキンソン病は難病指定されており、かつ進行性の病気である。
好発年齢は50代~60代とされ、発症に至る原因は今もって解明されていない。
自覚症状として、富久男さんのように手足のしびれや震えを感じる人が多く、年齢によるものかと思っていたら震えが出てきてパーキンソン病が判明するケースもあるという。

ただ、死に直結するといった病ではなく、発症してから10~15年は独立した日常生活を送ることが可能と言われている。また発症も1000人に一人で決して稀とも言えない病気だが、なぜかタケヨは、パーキンソン病にかかったことが知れると近隣の人から変な目で見られる、嫌われたり悪口を言われるのではないかと思い込んでしまったのだ。
感染症でもあるまいし、そんなことはなかったと思われるが、それ以来タケヨは近所づきあいを極端に減らしてしまう。
そしてそれが、タケヨと富久男さんを追い詰めてしまうことになるのだ。

打ち砕かれた希望

パーキンソン病をどこか誤解した様子のタケヨだったが、一方でその雑誌で「治療薬がある」といった記載を目にしていことで、「治療を続ければ治るかもしれない」と期待も持っていた。
たしかに、難病ではあるものの進行を遅らせる方法はいくつかあり、薬に関しても有効性が確認されているものもある。
しかしそれらは「完治」ではなく、日々のQOLの向上や、生命予後を保つ意味での有効にとどまり、タケヨの思う「いつか治る」というものではない。
富久男さんの場合、通院を続けてはいたものの症状は悪化の一途をたどってしまう。それまでは仕事も出来ていたが、平成11年の夏ころには退職せざるを得ないまでになっていた。
退職してすぐ、機能障害で障碍者手帳の交付も受け、治療に専念する生活を送るようになった。

その通院も、当初は一人で行けていたのが、転倒したことを機にタケヨが付き添うことになる。
ただ、タケヨにも持病があった。長年の立ち仕事が災いしたのか、骨粗しょう症によって膝の具合はずっと芳しくなく、加えて不整脈などの心臓疾患もあって投薬を続けていたのだ。
しかも、富久男さんは2週間に1度ではあったが、自宅から遠い病院で診察を受けなければならず、さらにいうと親子が暮らす団地はエレベーターなしの5階にあり、日々の階段の上り下りそれだけでも相当な負担になっていた。

平成14年になって、自宅近くの診療所で富久男さんの診察もタケヨの投薬も出来ることになり、タケヨは少し荷が軽くなったと感じていた。
しかし、5月の連休明けの診察で、タケヨは富久男さんを診察した医師から富久男さんの病気が進行していることを告げられた。
実は1か月ほど前から、富久男さんは夜中に咳き込んでとまらなくなったり、しきりに痰を吐き出そうとして苦しんだりしていた。また、左足はすでに引きずらなければならず、加えて食欲も失せていた。
そういった症状や、診察での所見から医師は判断し、すでに本人と家族もこの病と向き合っていることから、率直に告げたのだと思われるが、これは親子にとってかなりの衝撃であった。

タケヨは、自分が抱いていた希望が砕け散ったことを自覚し、それは同時に富久男さんの将来を悲観させるものとしてのしかかってきたのだ。
タケヨは激しく落ち込んだという。おそらく、富久男さんの手前明るく振舞うなどといったことすら、出来なかったのだろう。

そして5月18日。リハビリから帰宅した富久男さんの口から、耳を疑う言葉が飛び出した。

「母ちゃん。殺してけれ」

リハビリの際はいつも病院の送迎の車がきていた。
その日もいつものように富久男さんは送迎の車に乗り、一人でリハビリを終えて帰宅した。
翌日、富久男さんは突然に、
「母ちゃん、殺してけれ」
とタケヨに呟いた。
驚いたタケヨは、「もう少し、生きだらいんでねぇが?」ととりなしたものの、富久男さんは譲らなかったという。
タケヨは富久男さんを叱ったり宥めたりしていたが、それでもひかない富久男さんに対し、怒りの感情も持っていた。
タケヨとて、富久男さんがかわいいし、結婚もせずに年老いた自分の面倒を見てくれた、そんな富久男さんをどうにかして助けたいと思っているし、事実、自分の病を省みずに息子である富久男さんを支えた。それはひとえに、富久男さんに生きてほしい、そう思っているからだ。
そんな母の胸の内も知らずに、苦しみから逃れるために死にたいなどと口にした富久男さんに対し、人として、母親として腹を立てていた。

一方で、パーキンソン病の末期の段階を思うと悲観的な考えしか浮かばないのも事実だった。
今は母親の自分がいるから良い、しかしもう75歳、この先80歳、90歳と生きられたとしてもはたして「介護」が出来るはずはなかった。
パーキンソン病は、末期になると寝たきりとなる。生命予後は悪くないというが、この生命予後というのは寝たきりを含んでいるのだ。完全介護である。
今ならばケアも充実しているし、相談することで負担軽減や富久男さんにとってよい選択ができた可能性は低くない。
しかし、介護の経験もなかったタケヨにはハードルが高すぎた。そもそも、パーキンソン病を誤解し、周囲との付き合いまで減らしていたわけで、他人に相談などは出来ようはずもなかった。

このままでは、横浜へ嫁いだ娘やその家族にまで負担をかけてしまうのではないか。そんな思いも頭から離れなかった。
この時点で、今一番救わなければならなかったのはタケヨだったが、周囲がそれに気づくことは難しかったようだ。

タケヨは、それならばいっそ富久男さんを殺し、自分も死ねばいいのではないか、と思うようになっていた。
5月20日には親戚や娘に宛てた遺書を2通作成、出来るだけ早い時期に決行しなければ、とも考えていた。

そして、事件当日を迎えた。