🔓病める女~愛知・藤岡町男児せっかん死事件①~

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平成一二年一〇月一六日

愛知県豊田市。
とあるガソリンスタンドで、女性は昼休憩をとっていた。
昼と夜の寒暖差が激しくなってきてはいたが、ここ数日は晴れて、秋の気持ちよい日々が続いていた。

ふと、手にしていた携帯電話が震えた。
着信の相手は、以前から親しくしていたママ友だった。
「やっちゃった、もう硬くて冷たくなってる。死後硬直してる。」
にわかに理解できないママ友の言葉だったが、女性はとにかく「救急車を呼んで」と伝え、勤務先を飛び出すとママ友の自宅へと向かった。
道中、再度ママ友に連絡を取った女性は、「お願いだから、抱きしめてあげてて。」と頼んだという。

ママ友の自宅につくと、ママ友は放心状態で子供部屋に座り込んでおり、女性に対し、「もうやばい、これで刑務所だわ」と呟いた。

事件概要

平成一二年一〇月一六日、愛知県藤岡町(現・豊田市)の会社員、梅村雄二さん(下の名前のみ仮名/当時四〇歳)宅から、長男で同町飯野小学校五年の拓哉君(当時一〇歳)がベランダでぐったりして息をしていないと一一九番通報があった。
駆け付けた豊田署員らは、そこでおぞましい光景を目にする。
拓哉君は二階ベランダで全裸で横たわっており、しかもその体はビニールひもやガムテープで縛られた状態だったのだ。
傍らには母親の亮子(仮名/当時三一歳)が座り込んでおり、救急隊員らに「息子が泣いて大声を上げ、暴れたりするので困っていた。病院にも通っていた」と泣いて訴えた。
豊田署は、ひとまず事情を聞くため亮子を任意同行し、さらに一報を聞いて勤務先より帰宅した父親の雄二さんからも事情を聞いた。

事情を聞くと、問題行動が多かった拓哉君をしつけるために一四日からベランダの雨どいに立たせたまま縛り付けるなどしていたこと、その間約四二時間にわたって飲食をさせていなかったことが判明、現場の状況も加え、同日夜、豊田署は雄二さんと亮子を傷害致死容疑で逮捕した。

拓哉君には目立った外傷はなかったが、司法解剖の結果、敗血症によるショック死とされた。
拓哉君は数日前から学校を休んでおり、一四日から一六日の間、紐をほどかれたのはわずか二時間だけだったという。
一六日の午前一〇時半ころ、拓哉君が暑さを訴えたため、亮子が「水をかけてやろうか」と聞くと「かけて」と言ったため、水をかけたという。
その後、亮子は転寝をしてしまい、起きて様子を見に行くと拓哉君はすでにぐったりとしていた。

雄二さんは死亡した拓哉君に取りすがって号泣していたという。
拓哉君が通う学校では、突然の拓哉君の死、それも両親がかかわっていたことに衝撃を受けたが、一〇月四日以降学校を欠席していた拓哉君のことを心配してそれまでにも両親に話を聞いたことがあった。
その際、しつけができていないためしばらく家庭で過ごさせる、といった返答があったというが、家庭訪問には亮子が応じなかった。

当時の校長は、新聞の取材に対し、
「躾のことで困っていたようだが、家庭での拓哉君と学校での拓哉君の様子が食い違っていて…」
と困惑を隠せなかった。
しかし事実として、拓哉君は医師の診察を受けており、その際に「行動障害」という診断がなされていた。

母親と息子

梅村家は、周囲を田畑に囲まれた農村地帯にあった。
事件があった平成一二年ころは、梅村家が暮らした飯野坂口地区の世帯数も十数軒程度で、のどかな印象の地区だった。
亮子は平成元年に雄二さんと結婚、平成2年に長男拓哉君、翌年には長女、さらに平成六年には次女にも恵まれ、雄二さんの母親との計六人で暮らしていた。
家も新築し、一見ごく普通の幸せな一家に見えたが、亮子には常々不満があった。
雄二さんは育児を亮子に任せきりで、家事にも非協力的だったという。また、同居する義母の性格も合わなかったようで、当初は長女や次女らの保育園へのお迎えを頼んだりしていたのが、次第に頼まなくなり、義母を避けるようにさえなっていく。
さらに、子供部屋のある二階に義母を上がらさず、完全同居のスタイルながら義母とはかかわりを持たない生活が出来上がっていた。

新築した家のローンもあって、亮子は町のクリーニング店へパートに出ていた時期があった。
しかし、このころから拓哉君の行動に気になるものが出始めていたという。
最初は、亮子や義母の財布から金がなくなる、ということだった。その金が拓哉君の部屋にあったことから、亮子は拓哉君が金を抜いているとしてきつく問い詰めたが、拓哉君はなかなか認めようとしなかった。
亮子は、嘘をつくことを極端に嫌っていたといい、小学校に対しても「拓哉が嘘をつく」ということを相談していた。
また、子供たちへのしつけも相当厳しくしていたといい、宿題が済むまでは一切外出を許さなかった。
それ以外にも、拓哉君が妹たちや犬に暴力的な行動をとること、実母が目が不自由であることなども気に病んでおり、警察では、そういった亮子の神経質な気性が拓哉君への虐待をエスカレートさせたとみて捜査を進めていた。

捜査の段階で、父親の雄二さんに対しては、虐待への関与が薄いとして処分保留で釈放となっていた。
拓哉君が縛られてベランダにいること自体は雄二さんも知っていたが、日ごろから子供たち、とくに拓哉君への関りは亮子から厳しく指示されていたことや、拓哉君が死亡するまでの間に何度も紐をほどくよう亮子に迫っていたこと、実際に拓哉君の紐をほどいていたことなどを考慮してのことだった。
釈放された雄二さんは、新聞の取材に対し、
「話したいことはあるが今はできない。勘弁してください」
と話した。

行動障害

一方で警察は、亮子の話から拓哉君の問題行動も把握していた。
先述の通り、亮子がパートに出始めた二年ほど前から、家族の財布から金を抜いたり、妹たちを虐めるといったことのほかに、学校でも友達に嫌がらせをしてその母親に抗議されたこともあった。
また、拓哉君の自室の壁には、赤のペンで
「〇〇、〇〇(それぞれ妹の名前)、みんな、しね」「おまえをころす」「くるしめ」といった言葉が殴り書きされていた。
同じころ、部屋を水浸しにしたり、机の上に包丁を置いたりもしていた。
そのたびに、亮子はきつくきつく拓哉君を叱っていたが、その際に拓哉君が自分を責めるような目で見ることも、亮子には耐えがたいことだった。

事件直前の一〇月五日には病院へと拓哉君を連れて行き、その翌日と一一日には豊田市こども発達センターへ、さらに一二日にも別の病院で児童精神科医の診察を受けさせた。
そのすべてで亮子は拓哉君を入院させたいと懇願している。拓哉君が金を盗むなどの一部の問題行動を認めていたこともあり、豊田市こども発達センターの医師は拓哉君を家庭限局性行為障害と診断、最後に受診した大学病院の助教授は解離性同一性障害と診断した。

行為障害とは、いわゆる反社会的行動を指し、通常の、年相応の社会規範が守れない、その問題行動を繰り返すといったもので、重大犯罪を起こした少年の何人かが同じく行為障害と診断されていた。
亮子はこのままでは拓哉君も重大な犯罪を起こすのではないか、そう思うと夜も寝られなくなっていた。寝ている間に家族が殺されるのではないか、そこまで思い詰めていたため、拓哉君を入院させてほしいと強く訴えていたのだ。

捜査でも、亮子が拓哉君に対する「恐怖心」と、母親としての「自責の念」に苛まれた末に、周囲に相談できる人もなく、夫や義母との軋轢に追い詰められて過剰な行動に出てしまった側面があるとしたものの、亮子は母親として真剣に向き合おうとしていたといった論調もあった。

拓哉君の葬儀でも、参列した父兄らからは、「(虐待というより)悲しい事故だったと思いたい」という声も聞かれ、拓哉君の行動障害の内容が明るみになるにつれ、苦悩する一家への同情も沸き起こった。

違和感

一方、拓哉君が通う学校ではそういった一連の報道に違和感を覚えていた。
確かに亮子は拓哉君のしつけで悩んでいたし、相談もあった。亮子だけでなく、父親の雄二さんも相談をしてきたことがあった。
ただ、雄二さんが相談したのは、亮子の子育てや教育がいささか神経質すぎて困っている、というものだった。
「友達も多く、学校の行事でも役割分担をしてきちんとそれをこなせる」拓哉君が行動障害を持っているというのは、日々拓哉君と接していた教諭らからすれば、腑に落ちない面があった。
もちろん、診断としては家庭内に限定した行動障害とされていたこともあり、外へ向けられない拓哉君の苛立ちや鬱憤を、それこそ亮子や妹たちが一身に受けていたのだとすれば、相当な苦しみがそこにあったろうという見方もあった。

一一月七日、名古屋地検岡崎支部は、亮子を傷害致死で起訴した。

しかし平成一三年三月一二日に開かれた初公判において、亮子は起訴事実を一部否認することになる。
検察は、雄二さんは虐待行為に積極的にかかわっていないとして、亮子の単独での犯行と認定、本来は一月一五日に初公判が開かれる予定だった。
弁護側は亮子や家族の話、学校関係者らの話を丹念に聞き取った結果、ある「重大な事実」を知っていた。そして、その「事実」からさらに看過できないいくつもの事実が浮かび上がっていた。

弁護側は亮子に対して、「その事実」を何度も確認したが、亮子は捜査段階、さらには検察の取り調べの初期においてもそれを認めていなかった。

そして迎えた一一月一二日、事態は思わぬ方向へ転がり始める。
弁護人は、頑なに口を閉ざす亮子にこう伝えた。

「拓哉君を縛ったのは、女性二人という目撃者がいる」

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