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平成16年7月10日
茨城県関城町(現・筑西市)。
この日、いつものように午前中農作業を終えて午前11時半ごろに帰宅したこの家の祖父は、家の中から孫の泣き声が聞こえるのに気付いた。
「やれやれ、ケンカでもしたかな」
そう思った次の瞬間、自宅前の車庫で孫の礼司くん(仮名/当時7歳)が倒れているのが目に飛び込んできた。
急いで抱き起そうとすると、孫の顔は殴られたかのように腫れ上がり、首には絞められた痕、そして、上半身には切り付けたような浅い傷がいくつかあった。
さらに、二階で泣いていた孫の和史くん(仮名/当時4歳)も、顔がうっ血しているような状態だった。
幸い、二人とも意識はあるようだったが、頭を集中的に殴られているようで痛々しかった。
この家では両親が朝から外出しており、小学6年生の長男はサッカーの練習へ、午前11時ごろまでは祖父母が家にいたという。
先に畑に出た祖父を追い、祖母も11時15分には家を出ているということから、犯行はものの十数分の間に行われたとみられた。
救急車の中で、泣きじゃくる子どもに隊員らが尋ねる。
「誰にやられたの?知らないおじさん?男の人?」
幼稚園児の孫は、泣きじゃくりながら頷いた。
驚愕の犯人逮捕
警察では孫の証言を頼りに、以前からこの地域で目撃されていた不審者による犯行ではとの見方を強めていた。
礼司君が通う小学校では、見知らぬ男に児童が腕をつかまれたり、白い自転車に乗った不審な男性が頻繁に目撃されるといった事案が発生していた。
また、学校内に不審な男が侵入するという事件も起こっており、小学校では防犯ブザーを配布し、対策をとっていたという。
あわせて、兄弟が「知らないおじさんに追いかけられた」「二人組だった」という話をしていたこともあり、不審者の情報を集めるなどして捜査に当たっていた。
兄弟が襲われた自宅は、旧関城町内を走るペアロードと呼ばれる道路沿いで、梨畑や畑が広がるのどかな地域だ。
兄の礼司君は庭先で倒れており、交通量の多い道路に面し人目につく場所だった。にもかかわらず、白昼堂々と侵入したとすれば大胆な犯行にも思われた。
また、祖父が事件直後、近隣の人らに「家の中も荒らされていた」とも話していたが、盗まれたものなどはなかった。
情報は錯そうした。不審者に対し敏感になった住民らからは、様々な情報が寄せられたが、犯人逮捕に結びつくものは得られていなかった。
しかし事件から二日後、衝撃の一報がもたらされた。
「ばあちゃんがやった」
それまで知らないおじさんに襲われたと話していた弟の和史くんが、この日、自分たちを襲ったのは祖母であると話したのだ。
逮捕されたのは、この家で長男家族と同居する祖母のひさよ(仮名/当時73歳)だった。
ひさよは、午前11時過ぎ、夫が畑へ出たのを確認した後、「蛇がおらんか、見に行こう」などといって孫を連れだし、庭先でまず次男の礼司くんの首をあらかじめ用意していた紐で絞めた。
さらに、仰向けに倒れた礼司くんの首を動かなくなるまで絞め続けた。
次に、傍らで硬直していた三男の和史くんを呼び寄せ、同じように首に紐をかけたものの、ただ事ではない雰囲気を察してか、和史くんは逃げた。
家の中へ逃げ込んだ和史くんを追い、長男夫婦が生活する二階リビングで和史くんを追い詰めると、両手でその細い首を絞めた。床に押し倒し、和史くんの顔がうっ血するまで絞め続け、呼吸が弱まったことを確認して再び庭先へと出た。
礼司くんはいびきのような呼吸をしており、まだ生きていると思ったひさよは、もう一度首を絞めた。
さらに、礼司くんが血が混じった泡を吹いてもまだ息をしていたことで、ひさよは物置にあったデッキブラシと角スコップで礼司くんの頭を何度も殴りつけた。
そして、おそらく野菜などの収穫用だったであろう包丁を手に取り、礼司くんの服をめくって数回突き刺した、が、うまく刺さらず浅い傷をつけたにとどまった。
とどめを刺すには至らなかったが、このまま放置しておけば死ぬだろうと思ったひさよは、凶器を片付けると何食わぬ顔をして夫のいる畑へと歩いて行ったのだった。
冷え切った家族
警察の調べに対し、ひさよは「嫁を困らせたかった」と話した。
近隣の人はひさよが逮捕されたと知って驚いていたという。
「仲の良い家族だと思っていたのに…」
この家は三世代が同居しており、子供も3人いて賑やかなどこにでもある家庭に見えていた。
隣町の下館からきたという長男の嫁・真紀さん(仮名/当時36歳)は、専業主婦として子育てや家事をしており、家族全員で長男のサッカー観戦に出かけることもあり、親世代とも特に確執があるようには周囲には見えていなかったという。
しかし、実際には同居と言っても若夫婦は二階に急ごしらえで作られたリビングと個室を主な生活の場とし、老夫婦は階下で暮らしており、食事なども別だったという。
さらに、長男の一夫さん(仮名/当時40歳)は、実父とは口もきかないような状態が何年も続いていた。
一方でひさよ夫婦も、長男夫婦をあまりあてにしていなかったようで、家業の造園業も、嫁にいったひさよの娘たちが担っていたという。
ひさよは事件の数年前に転んで足を悪くしていたため、普段から畑仕事を手伝ったりはしなかったと近所の人らは話す。
それが、事件当日に限って畑に行っていたという点で、警察もひさよの当日の行動を慎重に調べていたようだった。
「殺すつもりはなかった」
ひさよは、嫁である真紀さんを困らせるつもりでやったものの、孫二人を殺害する気ではなかったと話した。
しかし一方で、事前にロープを用意したり、はじめから次男と三男のみに狙いを定めていたという供述もあり、警察では本当に殺意がなかったのかどうかを慎重に調べていた。
嫁憎しと言えども、血のつながった孫は可愛いものではないのか。
その孫を手にかけたひさよは、どんな人生を送ってきたのだろう。この事件を追ったノンフィクションライター・橘由歩氏のルポをもとに、ひさよの人生を振り返ってみる。
嫁の経験がない、姑
ひさよは昭和6年の生まれで、25歳の時に結婚した。元から関城の生まれだったというひさよは、比較的街中に新居をかまえ二人だけの結婚生活を始めた。
時代は昭和30年代。結婚後は同居が当たり前、女は家庭に入る、というそれまでの常識とは違い、ひさよは美容師という職業も持っていたことで、「新しいスタイルの家庭」を築いていたと言える。
もっともこの時代は、戦後とはいえ大規模な団地などが次々と建てられ、人々はみな少しでも良い暮らしを手に入れるために必死だった時代でもある。
ひさよが生まれ育った町は都会とは言えず、かとって田舎の山村とも違う、微妙なところだった。そのため、山村で多く見られた働き手としての「嫁」という経験をせずに済んでいた。
美容師という「ハイカラ」な職業を手に、周りの機織り娘らよりも気楽な結婚生活を送っていたのも間違いない。
結婚してすぐ、長女、次女、そして長男の一夫さんを授かる。時代は高度成長期へ向けてどんどん生活の水準も上がっていた。
昭和48年には、夫が興した造園業が軌道に乗り、ひさよは美容院を閉め、関城町の舟生に家を建てた。
バブルの波にも押され、自営業者であったひさよの夫は相当な羽振りだったという。
一方でひさよの子育てには気になる点があった。
長女、次女と比べて、末っ子長男の一夫さんを溺愛していた。それは長女らが苦言を呈するほどで、「あれでは一夫のためにならない」と父親に訴えていたという。
実際に、娘たちが結婚し自立した後も、一夫さんはよそに働きに行くでもなく、父親の家業を気ままに手伝うという状態で30歳になっていた。
周囲を見れば、同じように長男がいる家は結婚して家督を継ぐとか、孫らと賑やかに暮らしている家が目についたとしてもおかしくない。
ひさよの中で、これでは一夫さんが独り立ちできないと今更ながらの不安がわいたのだろう。
そんな時、一夫さんに見合いの話が持ち上がった。