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法廷にて
平成2年9月7日、東京地裁で開かれた判決公判で、女は懲役6年を言い渡された。
女の罪状は、殺人。
被害者は、女の夫だった。
女は夫との関係に悩んでいた。
女は、事件直前に夫と沖縄旅行を楽しみ、夫との関係も回復できると信じていた。
しかし、楽しかったはずの旅行が、結果として最悪の結末を迎える引き金となってしまった。
夫婦関係の改善のためだったはずの旅行だったのに。
旅行に行ったばっかりに、事態はさらに深刻になってしまった。
事件
平成元年7月1日、練馬区大泉学園のマンションで、その家に暮らす男性がベッドの上で腹を刺されて死亡しているのが発見された。
第一通報者はこの男性の義弟、つまり、妻の弟にあたる人物だったが、義弟はこの日、姉から不穏な電話を受けていた。
「あの人を刺してしまった。」
心配になって姉のマンションへ来てみると、姉の言葉通り、姉の夫である男性が刺されて死亡していたのだ。
室内には、「ゴメンね」と走り書きされたメモが残されており、姉の姿はどこにもなかった。
石神井署に110番通報し、警察が姉の行方を捜索、姉は発見されたが、自殺を図っていた。
死亡していたのは、練馬区の南賢哉さん(仮名/当時30歳)。そして、賢哉さんを殺害したとして賢哉さんの妻の澄香(仮名/当時40歳)を、体調の回復を待って殺人の疑いで逮捕した。
10歳の年の差夫婦に何があったのか。
二人は事件直前に沖縄へ旅行するなど、夫婦仲に問題はなさそうに見えたが、実はその沖縄旅行自体、夫婦の関係を修復するために澄香が提案したものだった。
ふたりのそれまで
澄香と賢哉さんの出会いは昭和57年~58年ころに遡る。
高校を卒業後、会計事務所で事務員として働く傍ら、夜はスナックなどでアルバイトをして生計を立てていた澄香は、昭和51年に、27歳のころに最初の結婚をした。
しかし夫の女性問題が原因で2年後には離婚、その後澄香は神奈川県小田原市内でホステスとして働くようになった。
そこの店で、客としてきていた賢哉さんと知り合ったのだ。
当時賢哉さんにはすでに妻子がいたが、二人の仲は急速に深まり、やがで賢哉さんの妻の知るところとなる。
紆余曲折あったものの、賢哉さんは妻子を捨て、澄香と同棲するようになった。その後昭和58年には離婚が成立、それまでも賢哉さんの転勤先にも同行していた澄香と、昭和60年7月に正式に婚姻した。
ところが平成元年5月、賢哉さんは浮気を始める。
同じ会社の同僚女性と親しくなり、その後不倫関係へと発展した。当時、練馬の現場マンションで賢哉さんと暮らしていた澄香は、賢哉さんの帰宅が極端に遅くなったことや、外泊が増えたことで賢哉さんを疑うようになっていた。
しかし問い詰めてみたところで、本人が認めるわけもなく、かといって澄香が納得できる答えが得られるわけでもなく、澄香だけが不安、不信感を募らせていくだけだった。
頼みの綱の沖縄旅行
澄香が疑えば疑うほど、賢哉さんの心は離れていく一方となり、6月に入ると賢哉さんから
「今の会社を辞めようと思う。大阪で働くつてがあるから自分は大阪へ行く。お前はここに残れ。」
と、思いもよらない話を告げられた。
要は賢哉さんが大阪へ単身赴任するという話なのだが、それまでも転勤のたびに賢哉さんの転勤先へ同行していた澄香にしてみれば、これはいよいよ浮気が本気になっているのではないか、自分のことが邪魔になったのではないかと、それまでの不安が一層大きくなってしまった。
同じ頃、賢哉さんの電子手帳を盗み見た際、件の同僚女性の名前と電話番号があるのを見つけていた。
浮気相手の名前は男名前で書いてあると、なかにし礼先生も歌に書いたとおり、隠すくらいのことはせめてもの礼儀と言ってもいいのに、賢哉さんは隠すこともなかった。
澄香は苦悩を深め、自分一人で抱えきれないほどになり、賢哉さんの兄に相談を持ち掛けてもみた。
しかし、いい年をした大人のことに口をはさんだところで事態は悪化する以外になく、兄が何かできるわけでもなかった。
そこで、澄香は問い詰めたり白黒つけようとするのではなく、もう一度お互いの愛を復活させる手段はないかと考えた。
そして思いついたのが、沖縄への旅行だった。
気持ちが離れてしまった相手との旅行など気づまり以外のなにものでもないはずが、賢哉さんはこれに応じた。
そして、6月27日から二泊三日で二人は沖縄へと旅に出た。
この旅行は大成功だった。賢哉さんの機嫌は終始良く、澄香に優しい言葉もかけ、ふたりは初夏の沖縄を思う存分楽しんだという。
澄香は安堵し、少なくとも大阪への単身赴任は考え直すのではないか、そう思えるまでになっていた。
しかし、帰宅した二人を待っていたのは、思いもよらぬ怒涛の展開だった。
若い女
6月29日の午後10時ころ、二人が練馬のマンションに戻ると、その部屋の状況に言葉を失った。
部屋は散らかり放題、泥棒でも入ったのかと思うほどの惨状だった。
実は、沖縄へ旅行するにあたって、澄香が自分の勤め先の同僚にその留守を預かってもらうよう頼んでいたのだ。
その女性(おそらくホステス)は20代で、正直、常識のない人間だったようだ。
さらに、賢哉さんの乗用車が消えていることに気づく。
訳が分からないでいると、その留守を頼んだ女性から電話が入り、女性が勝手に賢哉さんの車を乗り回し、挙句、事故を起こしてしまったという電話だった。
賢哉さんは激怒。
「お前があんなバカ女に頼んだりしたからだ!」
そのバカ女が目の前にいないために怒りの矛先は自然と依頼した澄香へ向けられた。
澄香とて、まさかここまでのバカだとはわからなかったのだろう、だからこそ、留守を頼んだわけで、澄香だって泣きたい気分だったろう。
しかし罵り続ける賢哉さんに対して、澄香も言い返し、二人の深夜の口論は激化の一途をたどった。
賢哉さんはビールの空き缶を澄香に投げつけ、さらには澄香の顔面を殴打する事態にまで発展していた。
と、そこへ、再び電話が鳴った。
電話の主はバカ女ではなく、今度は賢哉さんの不倫相手の若い女からだった。
しばらく話したのち、電話を切るや、賢哉さんは鬼の形相で澄香に詰め寄った。
「お前!会社に電話したのか!電話して、俺と彼女のことを聞いて回ったのか!」
澄香は旅行に行く前に、電子手帳の名前から浮気相手が会社の同僚だと踏んでいた。
そこで、会社に電話をかけ、その名前の女性が在籍していること、年齢は二十歳であることなどを聞き出し、さらには夫である賢哉さんとの関係まで根掘り葉掘り聞いてしまったのだ。
当然、その女性は心配と好奇の入り混じった視線を会社で浴びてしまっただろう。妻子持ちの男性社員との関係を根掘り葉掘り聞いてくる女性など、その妻以外にあり得ない。
意図しない形で、賢哉さんと同僚女性の不倫は会社に知れ渡る羽目になってしまった。
賢哉さんの怒りはさらに増したが、
「もう、お前とは今後同じ布団では寝ないから」
と言い捨て、そのまま一人寝室で寝てしまった。
ひとり、散らかった部屋に残された澄香の心はもうズタズタだった。
疲れ果ててしまった。この部屋に戻るまではあんなに気持ちが上向いていたのに、なにもかもめちゃくちゃになってしまった。
二人のために計画した旅行だったのに、そのせいでさらに事態が悪化してしまった。
もう、できることは何もない。
澄香は絶望し、台所からブランデーを持ってくるとグラスに注いだ。
そして、リスロンS錠を大量にブランデーと共に流し込んだ。
このリスロンS錠は、当時服毒自殺に用いられることがあり、現在リスロンS自体は販売中止となっているものの、その成分であるブロモバレリル尿素が含まれる医薬品は販売されている(一人一箱制限)。
薬物依存などに詳しい松本俊彦先生によれば、売られているのが理解できない薬だという。
澄香は生きる希望を見失い、このまま死んでしまおうと思いながら、楽しかった沖縄旅行の写真を眺めていた。その楽しかった思い出を胸に、と思ったのかと思いきや、澄香の心に浮かんだのは「ならばいっそ夫も道連れに」であった。
踏んだり蹴ったり
澄香は寝入った賢哉さんに近づくと、その腹部を自宅にあった包丁で一突きにした。
その傷は賢哉さんの腹部大動脈を傷つけ、賢哉さんはそのまま出血多量で死亡した。
澄香も薬を服用していることもあり、おそらくこのまま死ぬのだと思っていたのだろう、息絶えた賢哉さんの横に、その身を横たえた。
天国で今度こそ……そう思ったかどうかはわからないが、残念ながら澄香は目を覚ました。
そしてそこには、天国のお花畑ではなく、散らかりまくった部屋と、血まみれの賢哉さんのぬけがらがあるだけだった。
その後澄香は千葉の弟に電話をして、家を出ている。
報道では澄香が行方不明になっていることを伝えるところで終わっているが、発見時に澄香が自殺を図った形跡があったことやその他もろもろのことから、報道が控えられた可能性もある。
事実、裁判で弁護側は、犯行当時飲酒とリスロンSの大量服用で異常な精神状態にあって、意識が混濁していたとして心神喪失もしくは心神耗弱を訴えていた。
裁判所は、精神鑑定を行った医師や澄香自身が弁護人あてに作成した書簡やメモ、さらにはリスロンSを製造していた製薬会社からの回答書などを踏まえ、反応性のうつ状態とは言えても、うつ病の精神疾患はなかったこと、事件直前の賢哉さんとの口論で感情がきわめて深い、不安定であったこと、そのうえで、飲酒とリスロンSの影響下にあったという点は認めた。
しかし、女性問題に悩み続けた挙句、偶発的な出来事からの口論で感情がコントロール不能となって犯行に及んだという動機は理解可能であり、犯行前後の記憶にも問題がないことから、弁護側が主張するほどの心神耗弱、ましてや新進喪失には至っていないとしてその主張を退けた。
裁判所は、凶器を用いて無防備な被害者の命を奪った行為と結果は重大、被害者の無念を思えばその犯行は厳しく批難しなければならない、としつつ、澄香の「この日の踏んだり蹴ったり」には同情の余地がある、とした。
あの夜、もしも留守を頼んだ若い女が部屋を荒らしていなければ、車を乗り回していなければ、少なくともこのような結末にはなっていなかったかもしれない。っていうか、なってない。
さらに、畳みかけるようにかかってきた不倫相手からの深夜の電話。おそらくだがこの不倫相手は賢哉さんが沖縄へ旅行に出たのを知っていたはずだ。帰宅を見計らってかけてきたのか、この当時携帯電話はまだまだ一般に普及していたとはいえず、自宅の固定電話にかけてきた可能性が高い。もしそうならば、相当なタマである。
それらの出来事は、楽しかった沖縄旅行を帳消しどころか、沖縄旅行を公開させるほどの威力を持っていた。
裁判所は、事件が起きた要因には、賢哉さんが家庭を顧みなかったという非もあるとし、また、賢哉さんの両親との間で300万円を支払うことで示談が成立していること、その両親が、澄香に対して寛大な刑を望んでいることを考慮し、澄香に対して懲役6年を言い渡した。
求刑はどのくらいだったかわからないが、おそらく8年とか10年以下だったんじゃなかろうかと思われる。
因果応報
この言葉はあまり好きではないが、結局のところ賢哉さんも澄香も、自身の行いのつけが回ってきたとしか言いようがない事件だ。
賢哉さんは澄香と出会った時は妻子がいて、それを捨てて澄香と一緒になっている。にもかかわらず、自分よりも10歳も年下の会社の女と不倫し、それが澄香の知るところとなっても止めなかった。
賢哉さんはまた、同じことをしようとしていたわけで、結局変わることはなかった。
一方の澄香はどうだ。彼女もまた、賢哉さんの妻子から奪った立場であり、それを考えれば自分が別の女に賢哉さんを取られても文句は言えなかったはずだ。そもそもそういう男だったのではないのか。妻子を捨てるような男と、一緒になったのだ。
かの俳優・松方弘樹が当時19歳の女性と不倫関係になり、後に当時の妻である仁科亜希子によって不倫が暴露されたが、それをうけて不倫相手の女性である山本万里子は、「仁科さんなら、私の気持ちをわかってくれると思う」という、ぐうの音も出ない正論を言ってのけた。
仁科亜希子も松方と交際と始めた当時、妻子のあった松方と不倫関係だったからだ。
あんたに言う資格はないだろう、というのを相手を下げない形で、かつ、反論できない形で言った山本万里子は当時20代。
もしも仁科亜希子が暴露という方法を取らなかったら、結末は違っていたかもしれないなと思わなくもない。
澄香は自分がしてきたことを受け止め切れていなかったのか。
自分だけは、自分こそが賢哉さんに愛されると思いあがっていたのか。
出所した澄香のその後の人生は、どうだったろうか。
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参考文献
読売新聞社 平成元年7月2日東京朝刊
朝日新聞社 平成元年7月2日東京地方版/東京
平成2年9月7日/東京地方裁判所/刑事第20部/判決/平成1年(合わ)116号