蠢く隣人part2~調布市・小6女児殺害事件~

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調布市多摩川の8階建マンションの一室。そこでは、小学生の女の子のお誕生日会が開かれていた。
参加していたのは主役の女の子の同級生や、姉の友達など。
その中に、その少女はいた。
少女は水曜日にいつも調布市立図書館へ母親と本を借りにいき、帰りに駅前のケンタッキーフライドチキンで食事をするのを楽しみにしていた。

「お母さん、今日も調布へ買い物に行こう!」

その日もちょうど、水曜日だった。

お誕生会がお開きとなり、子どもたちはそれぞれ自宅へ戻ったが、その少女は少々へそを曲げていた。
図書館へ行く日なのに、今日に限って母親から地域福祉センターへおつかいを頼まれてしまったのだ。そう遠くない場所ではあるが、今日はお誕生会があったからもう夕方の4時が近い。お使いから戻る頃には、5時を過ぎてしまうだろう。
どうにか母親に食い下がってみたが、にべもなかった。

少女はそのまま、母親の言いつけ通りに家を出た。

そして、2度と戻らなかった。

行方不明

昭和62年9月9日、警察に小学生の女の子が家を出たまま戻っていないと通報があった。
いなくなったのは、調布市立富士見台小学校6年の西田千恵子さん(当時11歳)。
千恵子さんはその日、自宅マンションの別の部屋の友人宅で開かれたお誕生会に参加した後、母親から地域福祉センターまで月謝袋を取りに行くよう言われ、家を出た後戻っていないという。

千恵子さんが家を出たのは7日の午後4時15分。その後、帰宅しない千恵子さんを案じて母親が午後8時15分に多摩川駅前の交番に助けを求め、捜索願を出していた。

事件、事故の両面で捜査を開始した警察だったが、当時群馬で男児の誘拐事件が起きていたこともあって捜査は慎重に行われていた。
一方で、もしも身代金目的の誘拐であれば当然あるはずの犯人からの接触が、翌日になっても数日経っても、なかった。
小学生の女の子が被害者の事故などの報告も、同様になかった。

千恵子さんはどこにいるのか。そもそも事件なのだろうか。そういった中で、千恵子さんが行方不明になった翌日にあたる10日の午前9時頃、京王線京王多摩川駅上り線のホームに一人で座っている千恵子さんをみた、という目撃情報がもたらされた。
周囲に連れはいなかったといい、警察はそれらも踏まえ、家出の可能性も視野に入れて両親と協議した結果、14日の午後に公開捜査に踏み切る。同日夜には、千恵子さんの両親が記者会見を行った。

家出の可能性を考えたのは、あの誕生会の後で母親が買い物に出かけたい千恵子さんにおつかいを頼んだことが千恵子さんの家出のきっかけになったかもしれない、という考えからだったが、そもそも千恵子さんは電車で調布まで出たのはこれまでにわずか2度。母親らも、考えにくいと話していたが、あらゆる可能性を考えてのことだった。

公開捜査に踏み切った後、家族のもとに脅迫状が届いた。が、これは当初から便乗犯の可能性が高く、事実その後便乗犯として千葉の男が逮捕された。
同様に、静岡のテレビ局にも便乗犯による金銭の要求があったが、こちらもすぐに逮捕された。

が、肝心の千恵子さんの行方や安否は全くわからないままだった。

最悪の結末

事態が動いたのは10月に入ってすぐのことだった。
警察は千恵子さんの目撃情報がほとんどないことから自宅周辺で何者かに連れ去られた可能性が高いと考え、自宅マンションやその付近で徹底的に聞き込みを行っていた。
その中で、千恵子さんの自宅マンションの別の階に家族と暮らしていた若い男の存在が浮上。男は過去に痴漢騒ぎを起こしたことがあり、千恵子さんがその男と顔見知りだったこと、そして男が千恵子さんが失踪した直後の10日に自分だけ埼玉へ引っ越していたことなどから警察は注目していた。

その後、千恵子さんの同級生からの話で、1年ほど前千恵子さんがその男とマンションの通路ですれ違った際、千恵子さんが「気持ち悪いね」などとその男のことを話していたことも分かった。
その時の千恵子さんの声は、少々、大きかったという。
警察では、千恵子さんの言葉を根に持ち、男が恨みのような感情を持っているかもしれないと考え、男が引っ越した埼玉のアパートで男から事情を聞くことにした。

男の自宅アパートを訪れた捜査員は、男がドアを開けた時点で嫌な予感を持っていた。いや、正確にいうと多分、その時点で最悪の結末を予想していたのではないかと思う。
男の部屋には、何か腐ったような異様な臭いが立ち込めていたのだ。

「この臭いはなんだ」

捜査員に対し、男は「魚や食べ物が腐ってしまった」などと話し、室内に捜査員が立ち入るのを拒否した。
警察は男に対し任意同行を求め、同時に調布市の実家にいた男の父親を呼んで室内を捜索することに同意させた。

異臭が立ち込める室内の奥に、押し入れがあった。その襖には、目張りがしてあったという。
意を決して捜査員が襖を開けると、そこには大きめの段ボール箱があった。

その中に、全裸の千恵子さんがいた。

午後9時過ぎ、捜査員らは調布市の千恵子さんの自宅を訪れた。捜査員らが家に入ると、すぐさま内側から鍵がかけられ、その直後、室内から母親の泣き叫ぶ声がドア越しに響き渡った。
千恵子さんの幼い二人の妹も、泣いていた。

午後10時過ぎ、テレビなどで千恵子さんが悲しい形で発見されたことが伝えられると、安否を気にかけていたマンションの住民や千恵子さんの友人、その家族らが千恵子さんの自宅に集まってきた。
その中でも母親と特に仲の良かった数人の主婦らが室内に立ち入ることを許されたが、その後も千恵子さん宅を訪れる人はやまず、室内から漏れ聞こえる悲痛な嗚咽に、思わずドアの前でしゃがみ込んでしまう人もいた。

千恵子さんが通う富士見台小学校も、深い悲しみに包まれていた。
自宅で知らせを受けたという校長は、あまりのショックで校長としての対応ができない状態になっていた。
家族に「校長なんだからしっかりしないと」と言われて我に帰り、すぐさま学校へ対応のために向かったという。
学校でも徹夜で教員らが情報収集や対応にあたっていたが、事件は千恵子さんが死亡した状態で発見される、という、最悪の結末となってしまった。

あの日

逮捕されたのは事件当時千恵子さんと同じマンションのひとつ下の階に家族と暮らしていた有田秀治(仮名/当時20歳)。
千恵子さんは205号室で開かれていたお誕生会に母親と一緒に参加した後、一旦その部屋を出ておつかいに向かった。ところが、自転車の鍵が持たされたものと違っていたようなのだ。
母親はまだ20号室にいるため、千恵子さんは再び205号室へ戻ろうとして2階の通路を歩いていた。

それを、有田が見つけた。

わいせつ目的で千恵子さんを無理やり自宅に連れ込んだが、当然、千恵子さんは騒いだ。有田は千恵子さんの首を手で絞め、殺害したのだ。

その後、遺体から衣類を脱がせたという。

殺害後は千恵子さんをビニール袋にいれ、段ボールに仕舞い込んだ。そして10日にその段ボールごと、埼玉へ自分だけ引っ越したのだった。

引っ越しは9月7日にすでに新しいアパートの契約が済まされていた。浦和市内(当時)のそのアパートは、JR南浦和駅の東約五百mの住宅街にあった。大きな通りから一つ角を曲がったところにあり、木造二階建ての目立たない物件だった。

有田は調布のマンションでも薄気味悪い感じの人、という印象だったようだが、この浦和のアパートでも生活感がなく、ちり紙を丸めては窓から放り捨てるという行為に苦情が入ったり、どこか変わった人だと思われていた。
しかもあまり外出することもなかったのか、事件発覚まで有田の姿を見たというアパートの住人はいなかった。

有田が埼玉へ越したのは、事件翌日の10日。午前中には2トントラックがやってきて、荷物を運び込んでいた。

その荷物の中に、千恵子さんの遺体が隠された段ボールもあった。
そして、その引っ越し作業を横目に、捜査員や保護者、学校関係者やマンション住民らが必死の思いで千恵子さんを探し続けていたのだ。

「犯人が同じマンションの住人だったなんて……。これじゃあ、防ぎようがありません。私たちは千恵子さんが失跡した次の日、有村が引っ越していくのを見たんですよ」(読売新聞 昭和62年10月2日東京朝刊より)

スカートをめくる15歳

有田はどんな男だったのか。
事件当時20歳だったが、実はその5年前にはマンションの自転車置き場で女性のスカートをめくるという、痴漢行為(わいせつ行為)を働いていた。
ただその時は大きな問題にはならなかったのか、中学は進学校として有名な私立から付属高校に進学している。が、「勉強についていけない」として中退、その後都立高校に再入学し、事件を起こした年の春に卒業したばかりだった。

近い騒ぎを起こしたのと、私立高校を退学したタイミングが定かではないが、無関係ではないのかもしれない。

有田の逮捕後、有田に関する話が周辺からももたらされた。
自転車置き場でのスカートめくりだけでなく、千恵子さんの一つ下の小学5年の女児も、有田とマンションの廊下ですれ違いざまにスカートをめくられた、と話した。
舐め上げるようなその眼は誰もが「気味が悪かった」と話すほど特徴的だったといい、女の子を持つ家庭では注意するようにしていたという話も少なくなかった。

有田はバイク用品を取り扱う仕事をしている父親とおそらく専業主婦も母親、そして弟と生活していたというが、このマンションはそもそも住民同士良い関係性が築かれていたのだという。
同じフロアの世帯主らが月一で話し合いや意見交換などをしたり、マンション全体の治安も特に悪くはなかった。
が、有田の両親や家族についてはほとんど話が出なかった。

事件後、毎日新聞社が千恵子さんの自宅と同じマンションの下の階にある有田の実家を訪ねた。
玄関ドアの上にある蛍光灯がついていて、ドアの前には店屋物とおぼしき皿が置かれてあったという。ドアフォン越しに呼び掛けたところ、中から女性の応答があった。
が、新聞社であることを告げると、そのまま反応はなくなってしまったという。
有田の母親か、あるいは留守を預かる親戚、知人だったかもしれないが、それでもとりあえずそこにいる神経がちょっとよくわからない。
しかもその部屋は、殺害現場である。現場検証などに備えて警察からいるように指示があったとか、何かしら事情があったのかもしれないが……

昭和の時代、今よりもマスコミは加害者家族に容赦なかった。被害者の通夜に駆け付け涙にくれる遺族にマイクを突き付けるどころの話ではない。
ましてや加害者の同居の親に対しては、どこまででも追いかけてコメントを取ることは普通の時代だった。

それを考えれば、そのまま自宅にいるというのはよくわからない。マスコミに対応するならまだしもしないのならば何のためにいたのか。
そして、上の階では悲嘆にくれる千恵子さんの家族がいるのだから、事情があったとしてもなかなかできないことに思う。

その辺に、本来結束していたという住民の中で、有田の家庭は孤立していたのかもしれないと感じた。

「前から好きだった」

東京地裁八王子支部は、有田に対し「自己の目的のために被害者の人格を無視した犯行は身勝手で何ら酌量の余地はない」として、懲役18年(求刑懲役20年)を言い渡した。

有田は逮捕後、千恵子さんについて当初言われていたような、千恵子さんに嘲笑されたことを根に持って、ということはなく、千恵子さんを前から好きだったと話した。
ただ、その後は少女であればだれでも良かったとし、あの日あの時間少女を物色していた時にたまたま通りがかったのが千恵子さんだった、とした。
千恵子さんが同じマンションに住んでいることは知っていたが、その時まで名前すら知らず、服についていた名札を見て初めて名前を知ったという。

千恵子さんはいきなり部屋の中へ連れ込まれ、包丁を突き付けられた。恐怖に震えながらも千恵子さんは激しく抵抗し、「やめてください!放してください」と叫んだという。

ここまで抵抗されるとは思わなかった、と、こうなった以上は家に帰せば自分の犯行が発覚すると恐れた有田は、手にした包丁は使わず両手で千恵子さんの首を絞めた。

有田が直前に部屋を契約していたことで最初から殺害して運び出すことも視野に入れていたのではないか、と言われていたが、裁判では事件当日に少女をいたずらしようと思いついた、とされた。
その上で弁護側は心神耗弱を主張、というかもうそこしか弁護の余地もなかったのかもしれない。

有田はおそらく控訴せず、判決を受け入れたと思われる。

見ず知らずの人についていってはいけません、子どもたちは親や学校から必ず指導される。
通学路では危険な個所がないか、地域の人々が気を付け登下校に付き添うなど、ありとあらゆる手段で子供の安全と犯罪を未然に防ぐことに心を砕く。

しかし、同じマンションの住人こそ、隣人こそ気を付けなければならない存在なのだ、などとどうやって教えるのか。

有田の場合はあきらかに怪しく気味悪がられていたという点があるが、それ以外に起きたマンションや団地での隣人による事件の犯人は、長くそこで生活し、仕事もあり家族がおり、顔も名前も知られたある意味無害な隣人でしかないケースも複数ある。
また、以前から狙われていたというものもあれば、「たまたま」通りがかったことで狙われてしまうという、あまりに理不尽なケースもある。
千恵子さんの場合、当初は千恵子さんを狙った可能性もあったが、結果として有田は千恵子さんの何も知らなかった。

当時千恵子さんの両親は仕事の関係で別居していたといい、母親が千恵子さんと二人の妹を育てていた。
どの家庭にも、どんな親子にもある普通の「おつかい」が、当初は思春期に差し掛かった千恵子さんの不満のタネとなり、ひいてはそれが家出のきっかけになったのでは、などとも報道された。実際にはないとはいえない話でもあり、さまざまな角度から捜査するとすればそれも考える必要があったろう。
しかし実際には、男の歪んだ欲求の犠牲になってしまっていた。

昭和の時代、防犯カメラも多くなく、携帯電話もなかった時代、子供が犠牲になる事件は今よりずっと多く、未解決のままというものも少なくない。

もしも有田が品行方正な社会人として通っていて、千恵子さんの遺体を処分してしまっていたら、この事件ももしかすると早期解決とはならなかったかもしれない。
有田は千恵子さんの遺体をどうするつもりだったのか。遺体発見までは約3週間あった。

6年生になって、最上級生としての自覚を作文に綴っていた千恵子さん。年下の児童からも慕われていた。

あなたは隣の部屋の人を、下の階の人を、エレベーターで会釈するその人のことを、ちゃんと知ってますか。

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参考文献

読売新聞社 昭和62年9月18日、10月2日東京夕刊、10月2日、3日、4日、昭和63年9月20日東京朝刊
毎日新聞社 昭和62年10月2日、昭和63年3月18日東京夕刊、10月2日東京朝刊