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結婚生活と些細なほころび
結婚式などにもこだわらず、一緒に生きることのみを求めた息子と14歳年上の子連れの光子に、父親はそれでもこうなった以上はと歩み寄りを見せた。
光子の両親に挨拶に行こうと息子に相談したが、「彼女がそういうことはいらないと言っている」と、消極的な態度であったのは少し気になった。
また、反対していたとはいえ、今まで1度も光子に会ったことがなかった。入籍から二十日ほど過ぎて、両親は光子とその娘に会うことになった。
電話口での話し方などから、勝気な印象をそれまで持っていた両親だったが、目の前の光子はむしろ穏やかで気立ての良さを感じさせた。
それに加え、とても30代半ばとは思えないほど若く見えて、少しずつ両親の拒否感は薄らいでいた。
なにより、かわいらしい盛りの一人娘は、いくら血が繋がっていないとはいえ、まだ孫がいなかった両親にとっては愛おしく思えた。
心配していた母親も、光子たちのために手料理をふるまい、それまでのぎこちなかった距離を近づけようとしていた。
しかし、息子一家がそろって実家に顔を出すのはせいぜい年に一度で、両親としては寂しさも感じていたようだ。それも、自分たちが反対したせいでこうなったのだと言い聞かせ、自分たちから頻繁に連絡はしないようにしていた。その代わり、孫娘の運動会などで光子から招待があれば、喜んで出かけている。
ふたりの結婚生活は、木更津市内の小さな借家からスタートした。
この借家は非常に古く、正直新婚生活には似つかわしくなかったが、家族3人が暮らす分に不自由はなかった。
若い夫は、季節ごとに家族そろってあちこちへ出かけることを好んだ。もともと、野球を続けアウトドア志向の強い夫は、夏はキャンプ、冬は温泉、長い休みには子供のために遊園地などにも出かけていた。
野球チームにも入っていた夫には、友達は多かった。当然、光子のことも知っている人が多いわけだが、光子とはそれほど親しい人がいたわけではなかったようだ。
光子は、少し潔癖なところがあった。若い夫との間で、そのせいでケンカになることもたびたびあったという。
また、夫の方も、年上の妻に対して思いを言葉でうまく伝えられず、結果力で妻を黙らせる、といったことがあったようだ。光子の私選弁護人によれば、長男を妊娠するまではテーブルをひっくり返したり、時には光子本人に暴力を振るうことがあったという。
150センチ程度の小柄な光子は、その際に足を骨折した。
長男が生まれてから、またそのケンカが再発していたが、さらに夫の女性関係が影を落とす。
いちごのお姉さんとゴッホの絵画展
平成15年。
夫婦の関係は悪化していた。しかし、表向きは家族旅行にも行くなど普通の家族として見えていた。
光子は内心相当な焦りと不安を抱えていた。結婚して6年が過ぎ、二年前には二人の間に子供も生まれた。年の差がありすぎると周りにいろいろ言われもしたけれど、これで名実ともに私たちは家族になれた、そう思っていた矢先、夫の言動にちょっとした変化が現れるようになった。
夏の初め、些細なことで口喧嘩をした際に、夫はこれまでになくきつい口調で怒鳴った。
「お前の神経質なところが嫌なんだよ!」
その日から、夫の中で何かが変わったのか、帰宅時間は遅くなり、夫婦の会話は途絶えた。
それでも、夫は夏休みに家族旅行を計画した。光子は夫がいつ離婚を切り出すか、動き出すか日々怯えていたが、ふと、普通の家族のような行動をとる夫に次第にすがるようになる。
私が黙っていれば、嫌われないように努力すれば、つなぎとめられるのでは・・・?
すでに40代にはいっていた光子は、ここでもしまた離婚になってしまったら、幼い息子と思春期の娘を抱え、どうやって生きていけばよいのか不安だったのだろう。
当時の取材記事などをみても、光子は夫の生命保険金などを得ようとしたのではないか、今後の生活が不安だったのではないかという推察が多かった。
家族旅行の際、光子は今なら夫も自分と向き合ってくれるのではないか、離婚するほど嫌いなら、旅行なんて行かないはず、そう思い、夫に懇願する。
「嫌われないように努力するから、離婚するなんて言わないで」
しかし、夫が返したのは、
「離婚は秒読みじゃないから大丈夫」
という冷たいものだった。というより、人を人として見ていないレベルの酷い言葉だった。この点は、私はこの夫が悪いと思っている。
旅行から帰ってからも、夫の帰宅は遅く、ふたりはとうにセックスレスになっていた。
光子は、当然のように夫の浮気を疑うようになる。バッグや携帯電話など、何かありそうなところは片っ端から探り、レシートやポイントカードの類まで調べ上げた。
その結果、夫が袖ヶ浦のラブホテルのポイントカードを持っていることを知ってしまう。もちろん、光子は行ったことがないホテルであった。
さらに、夫の持ち物から、「ゴッホの絵画展」のチケットが出てきた。
美術などに興味があるなんて知らなかった。場所は東京。
その日、当たり前のように何も言わずに出かけていく夫を、光子は尾行した。
職場の駐車場に車を置いた夫は、電車に乗るために駅へと向かっているようだったが、その左手薬指に結婚指輪がなかった。
光子は衝動的に夫に声をかける。「指輪なんでしてないの!」と。
一瞬驚いた夫だったが、すぐさま不愉快な表情をみせた。自分の不倫は棚にあげ、妻の恥も外聞もかなぐり捨てた行動だけをこれ見よがしに非難してみせた。
夫は開き直って光子の問いかけを無視し、そのまま追いすがる妻にわき目もふらず、不倫相手が待つ場所へと急いだのだ。
不倫相手は、光子の幼い長男とも会っていた。そこで、「いちごのお姉さん」とその女性を呼ぶよう父親から言われていたという。不倫相手の女性にも、夫がいた。
光子をかばうわけではないが、この仕打ちは他人事ながらあんまりだと思わざるを得ない。
たしかに、本来大人の女性としてどっしり構えてほしいはずの年上の女房が、取り乱して女の部分を見せ始めたら、ドン引きする人の気持ちもわかる。
しかしだからといって、一人の人間に対しその尊厳を無視していいわけはないのだ。
この、女性との向き合い方の下手さこそ、本来両親が危惧していた息子の甘さだったのではないだろうか。
結果、この若い夫の非情な仕打ちは、やがて自身の身に跳ね返ることになる。
もう、この男は殺すしかない。
光子は、自身の看護師という職権を濫用し、クリニックからワソランのアンプルを2本、ハルシオンを100錠盗み、夫に服用させた。
看護師とはいえ、そこまで薬に明るくなかった光子は、不整脈治療に用いられるワソランを使用して夫を自然死に見せかける予定であった。
しかし、睡眠薬の利きが甘く、注射した際に夫は痛みで目を覚ます。暴れないように手足を粘着テープで縛ってはいたものの、大柄な夫がそれを外そうともがいたため、光子はさせまいと夫を押さえつけた。
夫は光子を突き飛ばし、回らない頭でもがいたが、光子は体重計などを夫にぶつけ、ハサミを振り回した。夫は光子を避け、おさえようと暴れたため、効いていなかった睡眠薬が回り、やがて昏倒した。
午前二時、光子は寝入った夫の傍らで考えた。争ってしまったから、夫の顔や首には擦過傷が出来ている。これでは自然死には見えるはずがなかった。
どうしても自然死にしたかったが、それが無理ならば「消えてもらおう」。
結婚生活を始めたころ、夫が光子に買った包丁を手に、光子は夫の横に座った。
どうしてこうなったんだろう。あんなに私を守ろうと、親まで敵に回していたはずのこの人は、もう手の届かないところへ行ってしまった。
他人に盗られるくらいなら、存在自体がなくなる方がはるかにマシ。
光子はその包丁を、あんなに愛していた夫の左胸めがけて振り下ろした。呻く夫。
血塗れの夫は、朦朧としながら自分で上着を脱ぎ、ズボンも脱ごうとしたがうまくいかず、脱がしてくれるよう光子に頼んだ。そして、「水が欲しい」と。
夫と、こんなふうに言葉をかわしたのは久しぶりな気がしていた。他にも何か話したような気がするが、もうよくわからなかった。
このまま放置してもいずれ死ぬだろうが、もう朝が来ようとしていた。光子には、まだしなければならないことがあった。
ごめんね、あなた。
光子は、夫の心臓にとどめを刺した。
つづく