片隅の記録〜三面記事を追ってpart11〜

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新聞の片隅に小さく載った事件。
発生当初は報じられても、その後を詳しく追うケースは、よほどの重大犯罪でなければ多くない。
あの事件ってどうなったんだっけ。そんなことすら、思われないような事件を掘り起こしてみる。

どの事件にも、物語がある。

右京区の殺人

平成13年の少年法の法改正により、16歳以上の未成年者による殺人、傷害致死、強盗致死などの故意の犯罪行為で被害者を死亡させた罪の事件について、原則として検察官に送致(逆送)されること決まった。
増える少年による凶悪犯罪が背景にあると考えられるが、少年事件を担当する弁護士や関係者の間では、ただでさえ未熟な少年が犯罪に走った際に多く見られる特段の事情に配慮せずに「原則逆送」が暴走することを危惧する声があった。

18歳ホステスが男性刺殺し自首 殺人容疑で逮捕 京都

18日午後9時10分ごろ、京都市伏見区の伏見署に同区在住のホステス(当時18歳)が「人を刺した」と自首してきた。同署からの通報で、太秦署員が同市右京区梅津段町の民家に駆け付けたところ、男性が包丁で首を刺され死亡していた。
太秦署は殺人事件とみて捜査。ホステスから事情を聴いたところ、犯行を認めたため、同日、殺人の疑いで逮捕した。この男性は同市右京区梅津段町の自営業手伝い、池永仁さん(仮名当時28歳)。同署で殺害の動機を追及している。
調べでは、ホステスは同日午後6時すぎ、包丁で池永さんの首を刺して殺害した疑い。ホステスは、池永さんと数日前から現場の民家で同居していたとみられる。
産経新聞社 平成13年9月19日東京朝刊

この事件について、未成年者の殺人という重大犯罪であるにもかかわらず、当時の新聞報道はそもそも少なく、加害者である少女と被害者の関係もその動機もわからなかった。
ただそこにどんな事情があろうとも、原則逆送という法改正がなされた直後の事件であり、裁判所も弁護士もその運用については手探り状態にあったという。
担当した弁護士らは、裁判所が原則逆送に重きを置いて、調査官による聞き取り調査などが十分になされないままでの逆走になってはマズいと考え、家庭裁判所にいち早くその話を通した。

裁判所は弁護士らとの面会などを経て、調査命令を出した。弁護士らは引き続き加害者である少女と接見を重ね、その中でこの少女の複雑な生育環境、そしてこの事件の真相を知るにつけ、少女に対してはやはり逆送による刑罰ではなく保護、矯正が必要であるとの確信を強くしていた。

生い立ち

少女をここではハルナと呼ぶ。ハルナは小学6年生の時に父親と死別していた。それまでにも精神的にあまり丈夫ではなかったという母親は、夫との死別を機に鬱状態がひどくなっていく。それは3か月周期で浮き沈みを繰り返したといい、母子ともに長い間精神的に不安定な状態に置かれていたようだ。
ハルナには弟がいた。そのせいもあってか、不安定な母親の代わりに弟を守り、家事はもちろんのこと、病気のせいで働けない母親に必要なお金を言い出せずに、それらをアルバイトなどで準備していたという。

そんなハルナに対し、母親もどこか依存している部分があった。ただそれについてハルナ自身も否定的な感情は持っておらず、母親を支えることにある種の喜びのような感情も持っていた。
高校を中退した後も、アルバイトをしながら家計を支え、病弱な母親の精神的な支えでもあり続けていた。

一方で、あまりに多くのことを背負い込むことが当たり前の世界で生きてきたからか、周囲に相談することが出来ず、何もかも自分で解決しなければならないという意識が強い傾向にあった。
また、多くの我慢をしてきたからか、他人、特に好意を寄せてくれる異性に対しては何か嫌なことがあっても言い出せず、自分が我慢していればいいといった考えを持っていた。そのせいもあって、ハルナが交際する相手はどこか似たようなタイプだったといい、第三者から見れば明らかなDVやストーカー行為を受けても強い拒絶が出来ないことがあったという。
そんな我慢強くわがままを言わない、ある意味「言いなり」になるハルナの弱さにつけ込む人が出てきた。

仁さんも、その一人だった。

被害者

仁さんとの出会いは、ハルナが勤務していたスナックだった。平成13年の春頃に知り合った二人だったが、どうやら仁さんはハルナをことのほか気に入ったようだった。
当初は週に1度程度の来店だったのが、それはすぐに週4回になった。ハルナの出勤日を把握し、ハルナが出勤している日はすべて仁さんが店に来て指名するようになっていた。
3か月が過ぎた頃、仁さんはハルナに個人的な交際を申し込んでいたが、ハルナはあくまで店の客としか見ていなかったため、その返事はしていなかったという。仁さんはそれでもハルナに電話やメール攻勢をしかけ、店外デートを執拗に誘ったが、ハルナは応じなかった。

この時点では「店の客」という認識があったことや、店内での出来事はスタッフらも目を光らせていたことから、ハルナの中ではさほど大きなことには思えなかったのだろう。この時点ではそこまでのトラブルには発展していなかった。

ところが、夏が終わるころには仁さんの要求が激しくなっていく。

9月12日、自宅(実家)にいたハルナに訪問者があった。仁さんだった。仁さんに自宅を教えてなどいなかったハルナは動揺する。同居する母親に居留守を頼むも仁さんはインターフォンを鳴らし続けたという。それでも応じないと、ハルナの携帯に電話をかけてきた。ハルナが無視していると、メールが届いた。

「母親に迷惑かかっても知らんぞ」

ハルナは恐怖に駆られたが、お店の客であることからこのときは店の幹部に相談したという。ただお店としても客である以上、穏便な物言いになってしまったようで、仁さんは一応話は聞いたものの、不服そうだった。

翌日、今度は仁さんの知り合いという飲食店のオーナーから連絡が入った。オーナーの店で、オーナー立会いの下3人で話し合いを持ちたいとのことだった。
ところがこの話し合いが最悪の展開となってしまう。

軟禁、そして脱出

仁さんは興奮状態だったという。以前から酒癖が悪く、ハルナの店でも酔って暴れる、ホステスらに飲酒を強要するなど酒の飲み方は最悪だった。
加えて、自身の父親が暴力団員で、仁さん自身も暴力団幹部のボディガードをしているなどと吹聴しており、ハルナはそれもあって威圧的な言動に終始する仁さんに対して改めて恐怖を感じるようになっていた。
「ここまで俺をキレさせたら知らんぞ!!」
などと我を失ったかのような仁さんを前に、ハルナはどうしていいのかわからなくなっていたといい、そんな状態のハルナを、仁さんは強引に車に押し込むと自宅へ連れていった。

自宅でも仁さんが冷静になることはなかった。常にハルナを畏怖させるような言動を続け、これまでにも自分を怒らせた女を追いこんだら女は自殺しただの、職場の人間も巻き込むことになるだの、しまいにはハルナが逃げたらハルナの母親を殺す、とまで言い出した。
完全な監禁状態ではなかったというが、言葉で脅されたハルナは、もし自分が逃げ出したら、助けを求める間に母親が殺害される、いやそこまで至らずとも、母親に多大な迷惑がかかるのではと思うと逃げることは出来なかった。

その日から、異様な生活が始まった。

ハルナが家を出られるのは着替えを取りに自宅へ帰る時のみ。その際も、仁さんが車で送迎し、家から出てくるのを自宅前で待っていたという。
母親にも、ハルナは心配をかけられないという思いと、巻き込んで危害を加えられてはいけないという思いから助けを求めるという考えはなかった。
仁さん宅でも、定期的な食事は出されず、またハルナ自身も食欲が全くわかず、ジュースを口にする程度しか出来なかった。
寝ようにも、体は疲れているのに精神的に不安定な状態にあったため眠ることも出来ず、2~3時間で目が覚めてしまうという有様。ハルナの思考力はみるみる間に低下していった。
そんな生活は6日間続いた。
正常な判断が危うい状態になっているハルナに対し、仁さんはまるで洗脳するかの如く、「お前は俺を怒らせたんやから一生一緒にいるしかない」などと言い続けたという。ハルナも、そうするしかないのだとぼんやり思うようになっていた。
ハルナは、このまま仁さんのそばで生活する場合と、仁さんのもとから逃げ出した場合を比較して考えた。

出した答えは、どっちも地獄。

自分が逃げれば、自分のみならず母親に危害が及ぶ可能性がある。かといって、このまま仁さんのそばで生活することもハルナにとっては地獄だった。

もう、自分か仁さんのどちらかが死ななければ、終わらない。

ハルナは台所へと向かった。

裁判所の判断

弁護士らは当初よりの丁寧な接見の積み重ねで、ハルナと仁さんの異様な関係性と、ハルナ自身の「感情の薄さ」のようなものを気にかけていた。
殺人という罪を前にしても、取り乱したり涙を見せたりということもなく、不自然なまでに冷静だったのだという。
その上で、先にも述べた通りハルナには刑罰よりも保護が必要であると判断、ある程度の時間をかけて自分と自分の罪に向き合えるような環境の中で指導を受けることが望ましいと強く訴えた。

裁判所は、調査官による報告書と弁護士の付添人意見書、精神科医の診断を踏まえ、ハルナに対し逆送致は行わないという判断を下した。

ハルナは、とんでもない事態に陥っても、誰かに相談するどころか、パニックになることすら、できなかった。
それらは子供の頃から大人の役割を背負わされ、子供らしさを全て心に閉じ込めるしか術がなかったために、感情に乏しく、自分が我慢すれば良いという解決策だけを頼りに日々生活していた。
それが、仁さんのあまりに強烈な言動に対しては、いわゆる「自己防衛本能」から現実感消失症、離人の症状が現れ、自分を守るというよりもこの問題を解決するために、仁さんを殺害する以外にないと思い込んだ。
今までと同じく、誰かに相談することは「考えなかった」のだ。そんな選択肢は知らなかったからだ。

ハルナに対し、弁護士らは「人のあしらい方」を知らなかった側面も指摘した。
そもそもハルナのようなタイプは水商売などできようはずがない。言い換えれば、自分に向いているのかどうかの判断すら、ハルナはできなかった可能性を私は考える。母親の生活も支える必要があったハルナは、自ずと稼げる仕事を選んだのだろう。高校中退のハルナが稼げる仕事といえば、水商売しか多分なかった。
そこへ現れた仁さんは、思い込みが激しく相手を従わせたいタイプで、かつ思い通りにならないと暴力的な行為も厭わないというものだった。最悪の組み合わせである。

このような状態のハルナをたとえ刑務所へ送ったとしても、そこでの日々はハルナにとって「ただ耐え忍ぶ」だけの生活となる可能性が高く、それよりは専門家による指導や内面的な問題と向き合う時間を与える方が真の意味での反省、更生につながるという弁護士の意見書にほぼ同意する形で、裁判所は逆送はしないと判断した。

仁さんの遺族は、当然ながらハルナに対して強い処罰感情を持っていた。が、弁護士がハルナの母親とともに謝罪に出向き、話をしたところ、事実と異なる話が伝わっていたという。遺族の間では、仁さんには一切の落ち度がない前提での話が伝えられていたのだ。ハルナの罪も許されるものではないにしても、そこまでハルナを追い込んだ要因がなかったか、と言われれば、仁さんにも反省すべき点は少なくなかったと言わざるを得ない。
このように、遺族に対して「慮っただけ」とは言い難いレベルの伝え方というのはやはり問題があるように感じる。報道でも、あたかも二人が同棲していた印象を持って述べられていたし、その後実際にはどうだったのかという話は全くなされていない。
初期の情報しか知らなければ、二人がどんな関係でどんなトラブルがあったのかは分からず、ただ、ハルナが仁さんを殺害した、ということしか、残らない。
が、実際には、ハルナも追い詰められていたのだ。

そのハルナも、少年院での生活の中で徐々にではあるが自分と自分の罪に向き合う姿勢が見られるようになっていたという。

今、ハルナはどこでどうしているのか。ハルナの弁護士の一人である安西敦弁護士は、現在でもいじめや学校問題を中心に法律の観点だけではなく心の問題にも寄り添う弁護士として活動されている。

愛を乞う人part4

昭和34年6月30日、沖縄。
米国統治下の石川市(現うるま市)の宮森小学校に飛行機が墜落、炎上した。
墜落したのはアメリカ空軍のノースアメリカンF-100スーパーセイバー。整備後に整備不良が見つかり、整備しなおした後のテスト飛行中の事故だった。
パイロットは脱出したものの、機体はそのまま市街地へ向かい、民家をなぎ倒して宮森小学校校舎に激突した。
当時児童と教員およそ1000名がおり、そのほとんどが校舎内にいたという。直撃した場所近くにいた児童らは火だるまとなり、この事故で小学生11人、住民6人、火傷の後遺症で後に死亡した1人の合計18人が死亡(重軽傷者は120人)した。

校庭では事故を聞いた保護者らが我が子の無事を確認するために殺到、右往左往の大混乱となっていたが、その光景をひとりぼんやりと眺める6歳の男の子の姿があった。
彼の安否を心配し、姿を探す人はいなかった。

その事故から35年後、男の子は懲役13年の判決を受けた。

二つの事件

平成6年6月8日午後、奈良県橿原市の路上で、女性が脅され車の運転を強要されるという事件が起こった。幸い、女性は軽い怪我で済んだものの、刃物で脅迫されるという事件であり、警察は指紋から一人の男を割り出し、逮捕監禁致傷の容疑で指名手配した。
男は沖縄県出身の住所不定無職・渡嘉敷不二雄(仮名/当時40歳)。若い頃から刑務所を出たり入ったりしている男だったが、なぜ奈良県にいたのかは不明だった。

その直後の6月10日夜、奈良市内のスナックから、「ママが連れ去られた」という110番が入った。
通報したのはそのスナックで働くホステス。話によれば、客として訪れた男が、突然カウンター越しに刃物でママを切りつけたという。恐怖のあまりホステスは店内奥のトイレに隠れたが、ママはそのまま連れ去られた、というものだった。
連れ去られたのはスナックの経営者、増渕寿恵子さん(仮名/当時45歳)。
警察は男が飲んでいたグラスから指紋を採取、照合したところなんと橿原市内の事件で指名手配となっている不二雄のものと一致した。
翌11日の午後、雑居ビルの1階にある美容室に、両手をロープで縛られた女性が駆け込んできた。増渕さんだった。増渕さんは不二雄に連れ回され、この雑居ビルの屋上のプレハブに監禁されていたというが、不二雄が寝入った隙をついて逃走した。110番通報で駆けつけた警察が不二雄を探したが、すでに雑居ビルからは姿を消しており、その後近くの住宅街で不二雄を発見、確保となった。

のちの調べで、当時不二雄は大阪府枚方市内で建設作業の仕事に従事していたというが、事件を起こす直前に辞めていた。

逮捕後、取り調べの中で不二雄は、同居していた女性が東京へ逃げたので追いかけるための金が欲しかった、と動機を話した。
幸い、増渕さんの怪我も軽かった。

平成7年、不二雄は強盗致傷、逮捕監禁致傷などの罪で起訴され、懲役13年の実刑判決が下された。不二雄は控訴しなかったため確定。痴話喧嘩の末のみっともない未練男の暴走、という印象の事件だったが、男がそうまで思い詰めたのには、それまでのあまりに悲惨な人生が色濃く影を落としていた。

野良犬より惨めな「クルー」

不二雄は昭和28年に沖縄県で生まれた。母親は日本人だったが、父親は嘉手納基地所属のアメリカ軍人、黒人だった。
赤ん坊の頃から母方の祖父母に預けられたというが、そこでの不二雄の扱いは酷かった。不二雄のその母方の祖父母にも、不二雄と同じくらいの年齢の子供たちが6人いたという。しかし食卓を一緒に囲むことは許されず、不二雄はひとり台所で食べさせられた。
祖父と叔父はかばってくれることもあったというが、祖母のあたりはきつかったという。

やがて母親が新しい交際相手と同居するようになったが、その相手もアメリカ軍人で、今度は白人だった。そのため、黒人との混血である不二雄はその存在自体を疎ましがられるようになり、白人の米軍人が家に来る際、不二雄は家から出された。
この頃は米軍人と交際する沖縄女性を「ハーニー」「オンリー」などと蔑む人らもおり、それはその子供にも向けられたという。そして同じ米軍人でも白人よりも黒人に対する差別感情の方が強かった。不二雄も「クルー(差別的な意味での黒)」などと呼ばれていた。

不二雄の母親は新しい交際相手にかつて黒人軍人との間に子供を作ったことを知られまいと必死だったといい、不二雄は正月の朝から家を出ていくよう言われた。
ひとりあてもなくさまよっている時、同じく居場所を失った野良犬を見かけた。その時、自分はこの犬よりもきっと惨めだと思えて、泣いた。

誰からも愛されない事実を受け入れる代わりに、そのどうしようもない寂しさや理不尽な思いを不二雄は暴力で発散するようになる。
中学の時に少年院へいき、成人以降も約15年ほど刑務所を出たり入ったりしながら生きてきていた。

そんな不二雄に、愛する人ができた。

ただ、愛し愛されたかった人

その女性は、同じ沖縄出身だった。出会いは平成5年の暮れ。女性は希死念慮を抱いていたといい、過去に何度も自殺を図っていた。
そんな彼女に、不二雄は恋をした。一緒に暮らす中で、不二雄は給料をすべて彼女に渡し、自分はほとんど小遣いも使わずに仕事に励んだ。精神的に不安定な彼女を支えるため、家事も担った。
ところが彼女は男性に依存してしまうところがあった。それは不二雄というパートナーがいても満足できず、複数の男性の影が絶えなかったという。そのうち、彼女は不二雄のもとを去った。
ところがある時、東京にいるというその彼女から電話が入る。
「妊娠しているかもしれない。もしそうだったら自殺する」
これまでに何度も自殺を試みてきた彼女を、不二雄は放っておけなかった。すぐさま東京へと向かうも、金が尽きてしまった。
引き返そうにもその金もない。あまりの出来事に、不二雄は冷静な対応が出来なかった。混乱の中、奈良市内で通りがかった女性を脅し、その女性の車で移動(第一の事件)。その後も何とか金を手に入れるべく、目に入ったスナックで第二の事件を起こしてしまった。

裁判が始まり、判決が確定するまでの間、毎日新聞社の三森輝久氏(現 毎日新聞山口支局長)はその裁判を傍聴し、不二雄とも手紙のやりとりをしている。
三森氏は、その後の毎日新聞の紙面において、不二雄の生い立ちなどを公開した。
家庭裁判所の調査官による不二雄の分析によれば、不二雄は元来真面目な性格である一方で、幼いころからの差別により自分を卑下し、劣等感に苛まれながら社会にビクつきながら生きてきたとした。
粗暴な少年時代もあったわけだが、不二雄を雇った会社の上司らはおおむね、不二雄の印象は「真面目な黒人のハーフの男」だった。
さらに不二雄は、あの女性との出会いで夢を持った。その愛する人のために、献身的、自己犠牲的ともいえるほどの生活を送っていた。
しかし彼女が去り、夢も潰えてしまうと思った不二雄は劣等感をさらに強くし、せめて彼女の自殺を食い止めなければという思いだけで突っ走ってしまった。

公判で調査官の一人は、不二雄がそれまでにも悪事を働いていたことも、「そうまでしなければ精神を保つことが出来なかったのでは」と証言した。
本来の、真面目で臆病な不二雄のままではおそらく生きて行かれなかったのではないか。
幼いころ、目の前で「この子いらないんだけど」と、母親が祖母にこぼしたのを不二雄はずっと覚えていた。僕は、いらない子。わずか6歳の不二雄の心に、あまりに、あまりにも厳しい母の言葉だった。幼い不二雄は、何度も何度も砕け散るその心のかけらを拾い集めて、それを抱えて生きてきた。

「恥ずかしいですが、温かい家庭です」

三森氏が不二雄に子供のころの夢を尋ねた際、不二雄はそう答えたという。
愛されず、愛を知らずに育った不二雄は、そのとうに砕け散ったつぎはぎだらけの心でずっと愛を求めていた。

しかしその愛し、愛されたいという思いは、ふたたび不二雄を塀の中へと追いやることとなってしまった。

 

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参考文献

朝日新聞 平成6年6月10日大阪地方版/奈良
読売新聞 平成6年6月11日大阪夕刊
日刊スポーツ新聞 平成6年6月12日
毎日新聞 平成7年11月4日大阪夕刊(三森輝久)
産経新聞 平成13年9月19日大阪朝刊、東京朝刊

判決文
季刊 刑事弁護 2003 No35 付添人レポート 弁護士/安西敦