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日本は法治国家である。すべては法律で決められており、それに反する行為があれば罰せられる。
もちろん、軽微な罪は裁判にならずに済むことも多いが、それでも裁判になれば、本当に法に反していたのか、そしてどうしてそんなことになったのかなどが審理され、その罪に見合った刑が言い渡される。
その中で時に、本来の同種の罪と比べると軽い判決が言い渡されることがある。温情判決、というやつだ。
被告人の生い立ちや犯行に至った経緯、被害者の落ち度、なにより被告人の現在の状況や反省の度合いなどを考慮した上で、求刑を大きく下回る判決がそれである。
罪を犯した自分の心に寄り添い、温かい言葉をかけてもらえたら、あなたならその後どうするか。
二度と罪を犯すまいと心に誓うか、それとも、してやったりと思うか。
いくつかの温情判決と、その顛末。
心優しき夫の清算
平成10年5月21日、男性(当時38歳)は夜9時ころ、神奈川県川崎市で暮らす実父からの電話を受けた。
「母さんを殺してしまった。」
仰天した男性が事の次第を問い質すと、父は妻を殺害後、自らも命を絶とうとしていることもわかった。ベランダで首を吊ろうとした父は死にきれず、離れて暮らす長男である男性のもとに電話をかけてきていたのだ。
通報で駆け付けた救急隊が室内に入ると、線香のかおりがした。寝室の布団の上には、女性の遺体があった。
死亡していたのは、このマンションで夫と二人暮らしだった山井カツ子さん(仮名/当時63歳)。警察は、その場にいてカツ子さん殺害を認めていた夫の達彦(仮名/当時70歳)を殺人の容疑で逮捕した。
調べに対し、達彦はカツ子さんに「死にたい。殺して、殺してよ」と執拗に訴えられ、それに応じたと話した。
達彦は元小学校教諭。子供たちが独立した後は、川崎市宮前区けやき平のマンションで夫婦二人暮らしだった。
マンションでの暮らしぶりは、近所の人らから見れば円満そのものだったという。二人仲良く散歩している姿、達彦がカツ子さんに頼まれて買い物をしている姿、地域の行事などにも参加する達彦は、事件の二日前にも民生委員らが主催した健康体操に出ていた。
そんな、ごく普通の夫婦に見えた山井夫妻には、深い深い問題が横たわっていた。
「酒買って来い!」
山井夫妻には、長男のほかに昭和43年に生まれた長女の存在があった。しかしこの長女は生後わずか13日で亡くなってしまう。
妻はその悲しみから逃れるために、酒に頼った。
飲酒量はどんどん増え、子供らが独立して以降、特に10年ほど前からは酒に酔って達彦に絡むようになったという。
それは時に暴言となり、「酒もってこい!ないなら買って来い!」と達彦に命令するようになる。達彦が定年した後は、「仕事もしないでこの甲斐性なし!」と罵った。
達彦がスーパーで買い物をしている姿は良く目撃されていたが、それは妻を労わって家事を進んでやっていたのではなく、カツ子さんに命令されたり、酩酊して前後不覚になったカツ子さんの代わりに、必要に迫られての姿だった。
この長きにわたるカツ子さんのアルコール中毒との戦いを知る人は、近所にはただの一人もいなかったという。
事件についても、近隣の住民らはみな一様に驚きを隠せずにいた。それほどまでに、達彦は柔和で人当たりもよく、悩みなど微塵も感じさせていなかったのだ。
カツ子さんについても、そもそも外出するのは体調が良いとき、すなわち飲んでいないときに限られていたためか、誰もカツ子さんがアルコールの悩みを抱えているなど夢にも思っていなかった。
ただ、達彦はカツ子さんについて「体が弱い」という話はしていたようで、参加していた体操教室でも、「妻が体が弱いから、僕が元気でいなくちゃね」と笑顔で話していたという。
嘆願書と後悔
検察は達彦を殺人ではなく、承諾殺人に切り替えて起訴した。
カツ子さんから無理難題や罵詈雑言を浴びせられても、周囲に一切気づかれなかったほどに妻を支え続けた達彦に対し、横浜地裁川崎支部は懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡した。
求刑も懲役4年だったことで、おそらく検察としても達彦のそれまでがどれほどの苦難だったかは認めたうえでのことだったのだろう。
くわえて、山井夫妻が暮らしたマンション住民らは達彦のために嘆願書を集めていた。
自主的に始まったというそれは、達彦の小学校勤務時代の同僚や教え子にも広まり、結果として3900筆が裁判所に提出されたという。
達彦は検察官に対し、自己を正当化したり、どれだけ自分が耐えてきたかといった話はしなかった。
ただ、後悔していることがある、と話した。
「私が後悔しているのは、自分だけ死ねなくて、妻だけ死んでしまったことです」
無理だった女
平成2年3月5日横浜地裁。この日の午前、一人の女に懲役4年の実刑判決が言い渡された。
女が法廷に立つのは2度目で、2度とも同じ殺人罪。しかも、殺した相手はいずれも「我が子」だった。
一度目
最初の事件が起きたのは昭和63年8月31日。
横浜市の住宅では当時1歳3か月の赤ん坊が泣きじゃくっていた。傍らには、若い母親。もう何時間こうしているだろうか。
もう耐えられない、母親はその赤ん坊の首に手をかけた。
逮捕されたのは福田美恵子(仮名/当時21歳)。
我が子が泣き止まないからという理由で殺害した美恵子に対し、検察も厳しい態度で臨んだが、当時生まれたばかりの長女がいたことや、美恵子の両親はすでに他界していて育児を頼る人がいなかったことなどから、懲役3年執行猶予5年の温情判決を受けていた。
反省の度合いも深く、夫も妻を支えていくと話していたことからの判決だった。
しかしその1年後、美恵子はまた、子を殺した。
二度目
平成元年10月24日午後11時20分、仕事から帰宅した美恵子の夫は、1歳3か月の長女・佳代子ちゃんが押し入れの中で死んでいるのを発見する。
実は二日前から佳代子ちゃんの姿が見えないことで、夫は美恵子を問い質していた。しかし美恵子は、「託児所に預けている」と話したという。
ところがその翌日、美恵子は誰にも行き先を告げずに家を出たまま戻っていなかった。
夫からの通報で駆け付けていた警察は、25日未明に帰宅した美恵子から事情を聴いたところ、佳代子ちゃんを殺したことを認めたため緊急逮捕した。
「かわいがろうとしたけど、なついてくれなかった」
美恵子はぽつりとつぶやいた。
異常なのは誰か
誰しも初めての子育てでは思い通りにいかない、こんなはずではなかったと後悔することは理解できる。
しかし超えてはいけない一線を超えてしまった人の気持ちはわからない。
もっとわからないのは、一度子供を殺した人間にまた、親であることを強いる人々の存在だ。
美恵子は「無理」だった。子供を愛せないとか、そういうことではなく根本的に親になってはいけない人間だった。
深く反省していたから、今度は大丈夫とでも思ったのか。せっかくうるさい子供を殺したと思ったら、すぐまた美恵子には子育てが待ち構えていた。
夫は一体何を考えていたのだろうか。赤ちゃんを殺した女と、生まれたばかりの赤ちゃんを短時間であっても二人きりになどどうしてできるのだろうか。
美恵子の心に向き合い、話を聞いてやることすら、もしかしたらしていなかったのではないかとしか思えない。
さすがに2度の子殺しに、裁判所は情状酌量できようもなかった。
もっとも今度は、育てるべき子供がいないわけで酌量の理由もなかったのだが。
孤独と正義
平成6年8月から9月にかけて、愛知県西春日井郡の農家ではある問題に頭を悩ませていた。
丹精こめて栽培した「ナス」が、連日何者かに盗まれているようなのだ。
被害は分かっているものだけで500本近く、価格にして約2万円ほどの被害だった。
とはいえ、出来心の盗人とは言えない量であり、看過できない事態になってはいたが、農家では見回りなどをして自衛するよりなかった。
そんな時、ある噂が農家に届いた。
「男が主婦らにナスを配っている」
男は西春日井郡在住の70歳。家族はいるが現在は一人暮らしだという。
その男が、ナスを近所の主婦に配りまくっているのだという。別の場所では、安い値段で売ったりもしていた。
農家が警察に相談、その後男がナスを盗んだことを認めたため、窃盗容疑で逮捕となった。
調べに対し男は、
「盗みは悪いと分かっている。」
と話はしたが、動機については独自の理論をぶちまけた。
「昔の農家は作物ができたら近所にお裾分けしてくれたもんだ」
「今の農家は盗まれたって食うには困らん」
さらには、
「今時の子供は100円200円小遣いをやってもありがとうも言わんが、奥さんたちはナスを配ったら皆喜んでくれた…」
とも話した。なんとも勝手すぎる理論ではあるが、この男、世の女性、特に家庭を守る主婦に対しては格別の思い入れがあったという。
当時生活保護を受けながら生活していた男は、若い頃妻に迷惑をかけっぱなしだったという。家庭を顧みずに、気づいたら妻も子供らも家を出て行ってしまった。
そこで初めて男は後悔し、考えを改めるようになった。
女の人には頭が上がらない。何か恩返しをすることで、妻に対して詫びている様な気持ちになったのだろう。
と、ここまでなら執行猶予でいいんちゃうかと思わなくもないが、実はこの男つい1ヶ月ほど前に名古屋簡易裁判所で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けていたのだ。しかも、その時も今回と同じ野菜泥棒だった。
男には男なりの正義があってのことだったのかもしれないが、当然、執行猶予は取り消されてしまった。
ただ、男にとって女の人に頭が上がらないとか、そういうことよりも。ただ話し相手が欲しかったのではなかったか。
誰からも相手にされず、老いていくだけの孤独に耐えられなかったのではないか。
だからこそ、捕まってもやめるわけにはいかなかったのだろう。男には懲役十月の実刑判決が言い渡された。
思いは届いたか
通常、初犯だったり道路交通法違反だったり薬物所持、使用などのいわゆる被害者がいない場合などは執行猶予がつく傾向がある。
しかしそれらがまとめて一度に発覚した場合は、なかなか厳しい判決になるのではないかと思うのだが、5つの罪で起訴されながらも執行猶予となった女がいた。
福岡県在住の中原綾子(仮名/当時34歳)は、大阪市へ遊びに来ていた際に職務質問され、覚醒剤反応が出たことから逮捕された。
ところが調べていくと、綾子はその数日前、福岡市内で自動車を運転中にミニバイクに接触、相手に約一ヶ月の重傷を負わせてそのまま逃走していたことが判明。
さらにその際、綾子は無免許運転だったことから、検察は相当悪質として覚醒剤取締法違反、業務上過失傷害罪など5つの罪で起訴した。
綾子は当時夫とは別居中で、福岡市内の実家で10歳の娘と暮らしていた。
仕事もせず、無為徒食の生活を送っていたという綾子に、大阪地裁の湯川哲嗣裁判長は語りかけた。
「最後まで実刑にするかどうするか迷ったが、人生のやり直しを誓った言葉を信じて刑の執行を猶予します。裏切らないでください」
綾子は逮捕されてから、娘に対して申し訳ないという気持ちを強く持っていた。
逮捕されて初めて、自分の愚かさ、母親としての不甲斐なさに真正面から向き合ったとみえ、その態度はひき逃げで重傷を負わされた被害者からも嘆願書が出るほどだった。
裁判ではおそらく、それまでの親子関係や綾子の生い立ちなども明かされたのだろう、そして娘との関係が決して悪くはなかったことなども酌量され、綾子の更生に裁判所は賭けた。
その後、綾子が本気で更生したのかどうかはわからないが、少なくとも綾子が犯罪を犯したという報道は出ていない。
お礼参りに直行したバカ
「すみませんでした、もうしません」
名古屋拘置所から届いた稚拙な手紙には、謝罪の言葉が並んでいた。
受け取ったのは名古屋市内で飲食店を経営する男性。実はこの男性、3ヶ月前にこの手紙の主から殴る蹴るの暴行を受け、警察に被害届を出していた。
手紙の主は名古屋市天白区在住の大工の男(当時21歳)。
男は妻との離婚問題に絡んで、この男性と妻の代理人弁護士ら3人に暴行を働き、傷害と器物損壊の罪で逮捕されていた。
起訴された男は拘置所から、被害者に対し、冒頭のような謝罪の手紙を出していたのだが、裁判ではそれも一つの「反省の気持ち」とみなされ、男は懲役1年執行猶予3年の判決を言い渡していた。
ところが。
釈放されたその日の夕方、なんと男はその足で被害男性の元へと向かい、あろうことか「今出てきた、入っていた3ヶ月をどうしてくれる!」といい、さらには「殴り殺してやる、警察も執行猶予もどうでもいい!」と捲し立てた。
その脅迫は3日連続で行われ、さすがに被害男性も堪忍袋の緒が切れ、男はまた逮捕となった。もうどうしようもないアホである。
馬鹿馬鹿しすぎて続報すらなかったが、男は脅し文句は言っていないと容疑を否認したという。
馬鹿馬鹿しいとはいえ、逆恨みの末に相手を探し出して殺害したあのJTお礼参り殺人、熊本の女性殺害など死刑になったケースもあるため、あまり笑い事ではない。
が、よくある加害者からの謝罪の手紙など、多くは意味をなさない罪を軽くするためだけのものというのは、間違いではない気がする。
踏みにじられた判決
平成8年10月、神戸地裁姫路支部の安原浩裁判長は、4か月延期された判決を言い渡した。
判決は、懲役三月、執行猶予二年。言い渡されたのは兵庫県在住の55歳の男。罪状は、道路交通法違反(無免許運転)だった。
男は平成4年の暮れに免許停止中だったにも関わらず自動車を運転したとして懲役一年二月、執行猶予四年の判決を受けていたが、平成7年10月に姫路市内で自動車を運転しているところを見つかり、執行猶予中であったことから逮捕起訴となっていた。
度重なる無免許運転で今度は実刑だろうと思われたが、神戸地裁姫路支部はもう一度、男に執行猶予を与えた。
理由は、男が続けてきたボランティア活動にあった。
震災復興の「償いボランティア」
男は5月の公判で裁判官からボランティア活動への参加を促されていた。反省の度合いを見るためのことだったといい、男は手話の講習を受け、さらには震災で仮設住宅暮らしを余儀なくされていたお年寄りらの悩みを聞いたり、引越しの手伝いなどもしていたという。
男はミーティングでも被災者に寄り添う気持ちが生まれたなどと話し、今後も活動を続け人の役に立ちたいと言っていた。
裁判所はこの男の行動を評価。
「被告人は『ボランティア活動でこれまでの自分の考え方のいい加減さや身勝手さを思い知らされた』と述べているので、社会の中で更生できると判断した」。
そのうえで、
「今後二年間、また失敗したということのないように気をつけなさい。六月からの実績ではまだ足りません。無理のないようにボランティアを続けなさい」
と諭した。
大阪国際大学で刑事法を教える井戸田侃教授(当時)も、読売新聞の取材に対し、
「刑事政策的にみると再犯防止の側面を考え、自分のやった罪の重さを認識させる点で有効。画期的な判決とも言える」
と話し、裁判所を評価した。
ボランティアに行く日は赤丸をつけていたという男。台所のカレンダーを見ながら、「じいちゃんが安心して話ができる、いうて言うてくれたんや」などと、妻に話して聞かせるほど、ボランティアを一生懸命やっていたという。
男と一緒にボランティアをやった団体の代表も、この人ならと、団体が発行する認定マークも与えた。
判決から2日後、警察に一本の通報があった。
「あの人、まだ車運転してるで。調べてみ。なにが温情判決や!」
治らない病気
通報を受けた姫路署は、すぐさま男の自宅へ向かった。早朝、自宅近くの県道で張り込んでいると、まさにあの男が運転する軽自動車が通りかかったのだ。
現行犯だった。姫路署員は男の車を停車させると、「あなた無免許ですよね。」と告げる。男は観念した様子だったという。
そのころ自宅では、妻が男からの電話を受けていた。
「俺や。警察に捕まった。今度は刑務所やろな、ごめんな」
男は涙ぐんでいたという。
妻は以前、夫が逮捕されたときに警察官から言われた言葉を思い出していた。
「奥さん、ご主人の無免許運転は治らない病気ですよ」
男の法律を軽視する態度は筋金入りだった。
免許を取り消されたのは30年以上も前のこと。その後、昭和52年に罰金刑、昭和56年に懲役四月、平成4年4月には盗難車を無免許で運転して懲役一年二月執行猶予4年、温情判決を受けたのはこの執行猶予中に無免許運転が発覚した件だった。
発覚した時たまたま乗っていたわけはあるまい。男は見つかりさえしなければいい、そう考えていたに違いない。
もうひとつ、このようなケースの場合、家族の考えの甘さも関係している。実際、逮捕されたときに乗っていたのは長男の車だったし、そもそも妻が知らなかったはずがない。
事実、妻は裁判で「ボランティアに行くときも無免許運転していた」と話しており、家族は男がまったく反省していないことを知っていたのだ。
無免許運転は二度としない、そう誓ったという男は、今回の逮捕で懲役5月の実刑となった。
しかも、男が逮捕された際に控訴を検討中だった検察は当然ながら大阪高裁へ控訴。そこでは男の無反省ぶりを批難されただけでなく、神戸地裁姫路支部の判決も批判の的となった。
大阪高裁の内匠和彦裁判長は、一審判決を破棄、あらためて懲役三月を男に言い渡したが、さらに、
「無免許運転の常習性が顕著。ボランティア活動をしても危険がなくなるとは思えない」
「公判期日を延期してまで、ボランティア活動の実績を考慮したのは迅速な裁判の原則に反する」
と、地裁の判決に苦言を呈した。
有識者らはこの結末に戸惑いつつも、神戸地裁姫路支部の判断は仕方ない、としたが、当の裁判長ははらわた煮えくりかえったのではないだろうか。
裁判を中断してまで人間の心を信じようとしたことは素晴らしいが、結果からすればただのお花畑だったという風にも見える。しかも高裁からお𠮟りまで受けてしまった。
ただ、神戸地裁姫路支部はそれでも男に望みをかけていたのか何なのか、裁判長が替わっても、
「実直に生きて下さい。この先いいことがあります。せっかくだからボランティアを続けて下さい」
と説諭したらしいので、そういうお花畑的な雰囲気、時代だったのかも……
その後男が本気で罪と向き合えたかどうかは、わからない。
人を信じる気持ち
こうしてみてみると、判決っていうのは法律の縛りはあっても人間味があるというか、結構いろんなことを考えて判断されていると思う一方で、その判断を下す人物の考え方が大きく関係するともいえる。
控訴して最高裁までもっていけばまだしも、控訴せず一審で確定するようなケースは罪の大小に関係なく「マジか」みたいなのもやはりある。
横浜の子殺しは結果論になってしまうけれど、そもそも子供が泣き止まなくて殺してしまうような人間に、釈放したその日からまた子育てを担わせるなど拷問である。
子供のために執行猶予を付けたはずが、よりにもよってその温情が子供の命を奪ってしまった。
被害者が家族の誰かだった場合、いわゆる尊属殺人が違憲判決確定となるまでは長いこと、親殺しは重罪で子殺しは情状酌量的なケースは少なくなかったように思う。
また、違う見方をすると温情判決がさらに本人を追い詰めるケースもある。
このサイトでも取り上げた京都伏見の介護殺人。加害者である息子の献身に法廷は涙涙、検察官までもが感極まったというが、執行猶予がつけられた判決は、はたして本当に彼のためになったのだろうか。
許されないという思いを一番抱いていたのはおそらく本人だ。しかし世間は、司法はそれを許すという。お母さんも恨んでない、幸せになれと言った。……どうやって?
結局、彼は母の許へ旅立つのに10年もかかってしまった。それは温情判決への裏切りではなく、彼が温情判決をありがたいと思ったからこその、10年間の遠回りだったと私は思っている。
今回取り上げた中で一番たちが悪いのは、やはり最後の無免許男ではないだろうか。
法を、判決を軽視どころか踏みにじった男。しかも何度も、である。
裁判官だけではない、彼を信じたボランティア団体の人々、仮設住宅で暮らすお年寄り、多くの人が彼を信じ、支えようとしてくれていたのに、男の言葉は嘘だった。
時に人を救い、時に新たな犯罪を誘発し、時に人間への不信、絶望を生む温情判決。
子殺しが執行猶予でナス泥棒が実刑かよというのは、やはり納得できない面はある(窃盗が軽いというわけではありません)。
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参考文献
読売新聞社 平成元年10月25日東京夕刊、平成2年3月5日東京夕刊、平成8年10月11日東京夕刊、10月16日大阪朝刊、平成9年2月21日大阪朝刊、平成11年2月3日大阪朝刊
朝日新聞社 昭和63年9月2日東京地方版/神奈川
中日新聞社 平成4年6月13日朝刊、平成10年10月20日
毎日新聞社 平成6年11月10日東京朝刊
AERA平成8年10月28日号20頁
熊本日日新聞社 平成9年5月28日夕刊