男を無期懲役囚に変えた妄想と悪意~日立・仲人一家殺害放火事件~

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平成12年3月1日

男は疲弊していた。
日常で、いつも誰かに見張られているような気がし、些細なことがなぜかいつもトラブルに発展してしまう。
そう言っている最中にも、すれ違った大型トラックにパッシングされてクラクションも鳴らされた。恐ろしい。
どうしてこうなってしまったんだろう。
幸せな結婚をしたはずだった。子供にも恵まれ、仕事だって順調で貯金も人並みに蓄えてきた。
それなのにどうして・・・

男は台所に保管してあったペットボトルをありったけ抱えて車に乗った。胸ポケットには、妻にあてたメモ。
車を走らせ、男は一件の家を目指した。そう、その家ごと焼き払わなければ、男は死んでも死にきれなかった。

事件概要

平成12年3月1日午前3時30分、日立市川尻町の民家から火の手が上がった。
その家は、漁業を営む今橋正雄さんと妻のとし子さん(当時71歳)、その一人娘Bさん(当時40歳)、Bさんの夫で婿養子のCさん(当時45歳)、そして13歳と11歳の二人の子供が暮らしていた。
事件当夜、正雄さんは漁に出て不在だったが、残りの家族は全員家にいて就寝中であった。
Bさんは顔面と体の左部分に全治6か月の大やけど、13歳の子供も顔面と両手に全治6か月の大やけど、Cさんに至っては顔面、背中、両手両足に全治不明の大やけどを負った。
そして、病院へ搬送されたとし子さんは、全身熱傷による多臓器不全で死亡した。

火の手が上がった直後、近隣の住民が飛び出してきた。その際、住民らは今橋さん宅の勝手口付近で佇む男の姿を見た。近隣の住民らは、この男をよく知っていた。

男に住民らが近寄ると、強烈なガソリン臭がした。しかも、髪や衣服がくすぶっていた。
事情を察した住民が思わず声をかけた。
「こんなことをやったら死刑だぞ!!」
男は冷静に、
「わかってる。死刑覚悟でやったんだ、恨みがあるからやったんだ。」
そうつぶやいた。

住民らに取り押さえられていた男だったが、救急車がきてとし子さんを搬送しようと男のすぐそばを通った際、大やけどで生死不明のとし子さんにつかみかかろとして暴れた。

男が抱いた「恨み」とはなんなのか。
近隣の人たちは誰もが「なんとなく」その恨みを知っていた。

男のそれまで

家人らが寝静まった家に火を放つという恐ろしい罪を犯した男は、同じ町内に暮らす千葉憲司(当時52歳)といった。
憲司は昭和22年、岩手県で生まれた。盛岡市内の高校を卒業した後、関東で3年ほど働いていたが、実の兄が茨城県日立市内に家を建てたことから憲司も日立へと移り住む。
ほかの兄弟や母親らと生活を共にする傍ら、手に職をつけようと自動車塗装の職業訓練を受けた。後に、関東のいたるところで塗装の腕を磨き、6年間実務を積んだ後、昭和51年に川尻町内に自宅と工場を併設し自動車板金塗装の自営業を始めた。

非常にまじめで腕も悪くなかったことで、同じ町内に住む人々からも仕事の依頼があった。
件の今橋さんとも、最初の知り合ったきっかけが自動車の塗装修理であった。
正雄さんは塗装修理を憲司に依頼した際、非常に好印象を持っていた。そこから付き合いが始まり、昭和52年ころには憲司の礼儀正しくまじめな人柄を見込んで、一つの見合い話を持ってきたのだ。

見合いの相手は、正雄さんの妻、とし子さんの姪に当たるA子さんだった。
憲司は、自分自身が結婚してもおかしくない年齢であったことや、自営業者として独立し、仕事もそこそこ順調であったことなどから結婚を考えるようになっていた。
正雄さんの薦めで秋ごろにA子さんと見合いした憲司とA子さんは意気投合し、何度かのデートを重ねた後、昭和52年11月に結婚式を挙げ、その翌月に入籍した。

仕事も家庭も、この時代の王道ともいえる道を順調に歩んでいた憲司だったが、結婚した後で知らされた事実に一抹の不安を覚えていた。

実はA子さんは、とある宗教団体の熱心な信者であった。
そして、仲人をしてくれた今橋さん夫婦も、同じくその宗教団体の信者であった。
A子さんは結婚してからもその宗教を信仰し続けることを望んでいたが、夫である憲司がその妨げになるのではという不安から、前もって今橋さん夫婦に相談を持ちかけていた。
一方で憲司は、A子さんらが信仰する宗教団体に限らず、入会することで病気が治るとか、裕福になれるなどといった誘い文句の宗教を嫌っていた。加えて、亡くなった実父がそのA子さんらが信仰する宗教団体を嫌っていたことを覚えていて、そのような類の宗教には全く興味もなかった。
新婚旅行から戻った直後、今橋さんが憲司宅を訪れ、憲司に対し入会を促すような行動をとり始めた。
最初は適当に聞き流していた憲司だったが、数日おきに今橋さんがやってきては会に入るよう誘い、その会の教義などを説くことに辟易し始めていた。
約半年ほどたって、ようやく今橋さんからの入会の誘いもなくなって、憲司は
「自分は会には入らないが、A子にとっては大切な信仰なのだからそこは尊重しよう」
と決め、A子さんがそのまま信仰を続けることは了承していた。

憲司としてはお互い譲り合って、せめて家の中だけはそういった宗教に振り回されない場所にしたい、その代わり、会合などに出かけるのは構わないし、自分の信念として持ち続けるのは認めようと思っていた。
しかし、結婚後1年もすると、少しずつA子さんが家の中にもその宗教を持ち込み始める。
憲司が家の柱に貼った神社からもらったお札があるとき剥がされていた。
剥がしたのはA子さんだった。A子さんの信仰する宗教において、他の宗教は「邪教」であることからの行いだったが、当然憲司は激怒、A子さんを叱った。
また昭和54年、訪ねてきた今橋さんがA子さんとともに「洋服ダンスに曼荼羅を貼りたい」と言ってきた。その洋服ダンスは憲司が使用していたものであったため、これにも憲司は不愉快さを隠さず「どうして俺のものにそんなものを貼らなければならないのか」と言ってそれを許さなかった。
さらに、A子さんが長女を妊娠した際、憲司の母親が成田山にわざわざ詣で、A子さんのために安産祈願のお守りを渡したことがあった。しかしA子さんにしてみれば、神社のお札同様それを身につけることは出来なかったため処分してしまう。
これには憲司も我慢の限界だったようで、信仰の自由を尊重しようという気持ちが失せ、A子さんに対して最後通告をする。
「このまま会を続けるというなら子供を産むことは許さない、出て行ってくれ」
さすがにA子さんも憲司の態度にまずいと思ったのか、その場では「もう信仰はしない」と言って長女を出産した。

しかし当の憲司はそれ以降もA子さんの本心を図りかねていたところ、親戚の葬儀の席で、A子さんの母親が生まれた長女を膝に乗せ、会のお題目を唱えている場面を見てしまう。
憲司は、「子供を会に入会させる気だ」と思い込み、A子さんに厳しく注意した。以降、表面的な付き合いはするものの、子供達を会から遠ざけたい一心で妻側の親戚とのかかわりを持とうとしなくなっている。

この頃から憲司の中で会に対する嫌悪感が憎悪に変わっていった。

転落への始まり

昭和58年。
憲司とA子さんはそれでも夫婦を続けていた。まだまだ離婚というのはそう簡単な時代ではなかったし、幼い子どものことを考えると親の都合で片親にさせるのはいかがなものかと、憲司もA子さんも思っていた。
ある時、憲司はA子さんに性交渉を拒まれた。理由は定かではないが、同じころA子さんはカンジダ膣炎にかかっていた。
今でこそ、カンジダなど性病とはとらえられていないものであるが、当時は性交渉で感染する病気(それ以外では発症しない)と考える人が多かった。
そこで憲司はA子さんが浮気しているのではないかと思うようになる。
A子さんは身に覚えのないことを疑われ、強く否定したものの憲司は思い込みを改めようとせず、そのことで夫婦仲はどんどん険悪なものになってしまう。
昭和61年には、憲司が日ごろから好きではなかったA子さんの母親の悪口を言ったため、A子さんが憤慨して憲司に殴りかかったことがあった。
その際、憲司はA子さんを平手打ちにし、感情的になったA子さんは子供たちを連れて実家へと帰ってしまった。
この時は憲司が謝罪したことでA子さんと子どもたちは戻ってはきたが、それ以降夫婦間で性交渉はなくなり、心の中では憲司も「もう続けられない、離婚するしかない」と思うようになっていた。
ただ、長男が18歳になるまでは、と、冷え切った夫婦関係を維持しようとしていた。

悪いことは重なるもので、平成7年、憲司は背中を痛めて入院する羽目になる。そのことをきっかけに、板金塗装の仕事を辞めた。自営業者だった憲司は、不動産会社に営業マンとして勤務したりした後、警備会社での職を得る。
その頃A子さんはゴルフ場に勤務しており、憲司はある時、A子さんがそのゴルフ場の関係者を車で駅に送っていたことを知る。
おそらくなんのやましい関係ではなかったのだろう、A子さんはまたかとうんざりし、前回同様否定した。
しかし憲司はそれを受け入れず、暴力を振るってA子さんを責めるようになった。
髪の毛をつかんだり、殴る蹴るはもちろん、浮気を認めさせる目的で頭部を壁や柱に打ち付けるなどの暴行に及んだ。
たまりかねたA子さんは再び子どもたちとともに家を出、実家ではなく日立市内のアパートで暮らすようになった。
A子さんに執着する憲司は、そのアパートの窓ガラスを割って家に侵入し、A子さんに暴力を振るった。
尋常ではない憲司の行動に、A子さんの母らが間に入って離婚の方向で話し合いがもたれ、平成9年9月に調停離婚が成立した。

離婚後の憲司は、家族を失ったことのから無気力になり、警備会社の仕事もやめ、怠惰な生活を送るようになる。
日がな一日テレビを見て過ごしたり、仕事もせず気の向くままの生活だった。
その一方で、子供達のことは気にかかり、接触する機会をうかがうなどしていた。
平成10年、なんとか子どもたちに会いたかった憲司は、A子さんに対し、「長男の勉強を見てやりたい」などと申し出たものの、A子さんにあっさり拒否されてしまう。
実はこの頃、憲司は経済的に困窮していたとみられる。仕事を辞めてからこれといった収入がなかった憲司は、貯金を取り崩す日々だった。
数百万の貯蓄はあったようだが、2年足らずでかなり厳しい状況に陥っていたとみられる。
憲司はA子さんに借金の申し込みもした。しかし、「墓を購入したばかり」というA子さんにそれも断られた。

こんなはずではなかった。自分は、手に職をつけ独立し、家も工場も建てた。東北からはるかこの土地で周囲ともうまくやってきたし、認められてもいた。適齢期には結婚し、男の子と女の子を授かった。なにもかも、順調だったのに。
気が付けば不本意な離婚を突き付けられ、子供達も奪われた。せっかく立ち上げた仕事も、不本意に手放してしまった。なにもかもが、いつからか自分の思い通りに運ばなくなっていた。

思えばそもそも結婚が間違っていたのではないか。妻となる女性があのような宗教の信者だと知っていれば結婚などしなかった。
あの見合いにさえ、乗らなければ…

憲司は自分の人生がうまくいかなくなったことのすべてが、A子さんとの結婚にあると思うようになっていた。
そして、そんなA子さんを、宗教のことを隠して自分に引き合わせた今橋さん夫妻に憎悪をたぎらせるようになっていった。