男として、父として、主として~山形・一家4人殺傷事件~

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病院で男は眠る妻の前にいた。

医者からはもう意識が回復する見込みはないと告げられていた。
明るく、優しく、面倒見の良い素晴らしい妻。その妻が、左手をベッドにくくりつけられ、時に下半身をあらわにして寝かされている。
妻はもう、変わり果てていた。

男は妻がすべてだった。この妻なくして、自分は何一つできない、それを実感していた。
娘たちも母親がいなくてはおそらくどうにもなるまい。特に、下の娘は母親がこうなって以降、精神的に大きなダメージを受けてもはや男の手には負えなかった。
上の娘も他人とのかかわりが持てない性格。それも、自分の血を引いているせいだ。

なにもかも、妻がいたからこそ、こんな出来損ないの自分とその血を引いた娘たちも生きてこられたのだ。

もう、それも無理だ。

孫たちがいなくなればお義父さんもお義母さんも悲しみに暮れて生きていけないだろう。

みんな、連れて行こう。

平成13年12月6日午前3時前

「助けて!」
山形県藤島町の住宅街に、夜明け前悲鳴が響いた。しばらくしてガラスの割れる音。
その家は地元でも名家として知られる家。獣医師を長く務めた当主夫婦とその娘、学校の校長を務めた娘婿、そしてその子供らの6人暮らしだったが、確か今奥さんは入院していると聞いた。
悲鳴は女性の声だったが、となるとあれは娘のどちらかか?
悲鳴を聞いた住民によって110番通報がなされ、鶴岡署員が駆け付けたところ、家の中は地獄絵図であった。

助けを求めたのは確かにその家の孫娘だったが、恐怖からか言葉にならない。署員が家の中を確認すると、奥の和室で高齢の男女が倒れていた。
ふたりとも、ひと目ですでに死亡していることが分かるほど、現場の状況は凄惨だった。
血の海に倒れた二人の周りには血しぶきが飛び、それは天井にまで達していた。
別の部屋では、助けを求めた女性の妹がベッドからずり落ちるような姿勢で倒れていた。

姉妹は救急搬送され、姉は軽傷だったが、妹は首を絞められており低酸素脳症に陥って、搬送中に心肺停止にもなっていた。ただ、一命はとりとめた。

現場ではこの家の娘婿の姿もあった。血に染まった姿で自身も手首に切り傷を負い呆然としながらも、救急隊員にこう告げた。

「おれがやった」

鶴岡署はこの娘婿が家族を殺害し、その後自身も自殺を図ろうとしたとみて娘婿を緊急逮捕した。
逮捕されたのは、殺害された高齢夫婦の娘の夫である天羽正三郎(当時65歳)。死亡したのは、正三郎の妻の両親である天羽一郎さん(当時87歳)、妻のまつ子さん(当時82歳)、ケガを負ったのは正三郎のふたりの娘(ともに30代)だった。

司法解剖の結果、一郎さんとまつ子さんの死因は脳挫傷とわかった。

現場には血に染まった掛矢(木製ハンマー)が残されており、この掛矢でふたりは何度も殴られて殺害されたのだった。

藤島の天羽家といえば、由緒正しい家柄はもとより、殺害された一郎さんはじめ、娘も長く保育士を務め、児童委員も務めており、その夫の正三郎も校長を歴任し、退職後も地元の公民館の館長に就き、地元の名士と言える人物だった。その家で、よりにもよって家族によって家族が殺害されるという事件が起きてしまった。
事件についての報道は慎重だった。正三郎が自殺を図っていたこともあって、どこか触れてはいけない、そんな空気があったのかもしれない。

近所の人にはうかがい知れない苦悩がこの「名家」にあったのか。

実際に、家族の中には苦悩があった。そしてその中において、特に正三郎の心の中には、長らく闇がつきまとっていた。

努力と責任感と、苦悩

正三郎は昭和11年1月に酒田市で生まれた。6人兄弟の末っ子、父親は早くに亡くなっており母親がその年金をやりくりしながら決して裕福ではない環境で育った。
正三郎には右耳が聞こえないという障害があったが、昭和29年に県立高校を卒業後は東京都内の会社に就職、働きながらも音楽の教員免許を取得し岩手県内の中学校へ赴任。昭和39年から平成2年まで実に32年間教員を務めあげた。
定年前には二つの小学校の校長を務め、その人望たるや賞賛に値するものだった。

定年後もその実直な性格や人望をかわれ、特に請われて地元の公民館の初代館長の役職に就いた。
そこでも仕事ぶりは高い評価を得、正三郎の人生は仕事においては非常に恵まれたものに見えた。

一方のプライベートはどうだったか。

昭和41年、正三郎のもとに見合いの話が舞い込んだ。相手は藤島の天羽家のお嬢様だという。それを聞いた実母は家柄が違い過ぎると反対したが、正三郎は天羽家当主の一郎さんから直々に、どうしてもと請われたことで結婚を決意。跡取りのいなかった天羽家に婿養子として入った。
妻は名家の娘であったが、その性格は朗らかで誰からも好かれる善き女性だった。正三郎は名家へ婿入りしたことで戸惑いや生活習慣の違いなど、悩むこともあったというが、妻の存在があったことでその悩みを軽くし、周囲に愚痴を言う必要すらないほどに妻に助けられていたという。

昭和43年に長女を、46年には次女をもうけた。ただ、天羽家にとって男児誕生が望まれているのは言わずとも知れたことであり、一郎さんやまつ子さんが孫娘らをかわいがる一方で男児誕生を願っていることを痛いほどわかっていた正三郎は、申し訳ないという気持ちがどうしても拭えなかった。

加えて、娘たちの人生がお嬢様らしからなぬハードなものになっていたことも、正三郎の悩みとなった。
長女は対人関係がうまくいかず、高校を卒業して就職しても長続きせず、また就職しているときも常に退職したいなどと口にし、時には会社に行きたくないと休んだりすることもあった。
責任感の塊のような正三郎にしてみれば、そんなものは甘えでしかなく、時代が違うとはいえ歯がゆい思いを抱いていた。しかしそんな父親と娘の間に、妻がうまく折り合いをつけてくれたおかげで、表立って何かがどう、ということにはならずにすんでいた。

しかし次女が中学3年生の時、大事件が起こる。

次女が自殺を図ったのだ。一命はとりとめたものの、その後は学校へ行けなくなり、精神科に通院しながら暮らしていた。次女は母親から離れられなくなり、平成13年には統合失調症の疑いがあると診断されたことで、正三郎はさらに悩みを深めるようになっていた。

加えて、正三郎自身も平成12年、脳梗塞を患い入院。日常生活に支障はないものの、すべてが以前の通りには行かなくなっていた。
物忘れが起き、計算や、言葉がうまく出てこないという症状は残った。
当時公民館の館長を務めていた正三郎は、こんなことでは職務が全うできないとし、その職を辞した。
生きがいとも言えた地域貢献、天羽家にふさわしい公民館の初代館長という肩書を下ろさざるを得なくなった正三郎は、漠然と不安にとらわれていた。

それでも妻は夫を支え、年老いた両親と夫の間に入り、娘らを守り、自らも地域に貢献する児童委員をしながら溌溂と生活していた。それが、正三郎にとっての唯一の心の安らぎ、活力であった。

しかし平成13年10月18日、予想だにしなかった、いや、絶対に起きてはいけない事態が起きた。

家族をまとめ、家族全員の心の支えであった妻が、脳幹梗塞でいわゆる植物状態に陥ってしまったのだ。

妻のいない世界

妻が病に倒れたことは、天羽家を容赦なく混乱に陥らせた。
家のことは妻に任せきりだったため、正三郎はたちまち困ってしまう。現金のみならず、保険証券、口座の残高や通帳、カードの所在すら把握していなかった正三郎は、妻の入院費(26万円)を用立てすることができず義父の一郎さんに立て替えてもらった。
もちろん一郎さんはそれを咎めたりすることはなかったろうし、何より我が娘のことである。それまでの生活ぶりから、入院費を用立てられなかったのも金がないのではなく、この時代の男衆にありがちなことと、一郎さんもまつ子さんも理解していた。
しかし、当の正三郎は自責と羞恥の思いを募らせ、なんと不甲斐ないことかとこれまた悩んでしまった。

さらに、精神的に不安定だった次女が、頼りにしていた母親の病を知りこちらも入院するレベルに体調を崩してしまった。

11月、いつものように病院に妻を見舞うと、そこで正三郎が見たのは衝撃的な妻の姿だった。
妻は左手をベッドに括られ、その下半身があらわになっていたのだ。
つい先日まで、颯爽と、朗らかに生きていた最愛の妻の、悲しすぎる姿だった。
これでは妻の尊厳は守られない。こんな姿のまま、意識を取り戻すこともなくただここにいるだけなんて。

この時の正三郎の絶望はおそらく私たち他人には計り知れないと思われる。とにかく、正三郎は打ちのめされた。

そして、漠然とではあるが、妻とともに死のう、そう考えるようになっていた。

家に帰れば、毎晩母を恋しがって泣きじゃくる次女を落ち着かせなければならなかった。長女は母が倒れて以降、母の代わりに家のこと、家族のことを気にかけるようにはなったが、かといって母のようにできるはずもなく、長女の体調もすぐれない日が続いていた。

30歳を超えてなお、一人で生きていけない娘たち。特に次女は、もう人並みの幸せを手にすることはできないだろうと正三郎は思っていた。

あまりに不憫だった。

正三郎は、その娘たちにも責任を感じていた。実は正三郎の血縁者に、精神的な問題を抱え自殺した人間が何人かいたのだという。
正三郎にしてみれば、娘たちがこんなに生き辛いのは、自分の血を引いているからだと思っていた。

ならば、やはり次女だけでなく、長女も幸せにはなれない。

正三郎は、妻だけでなく娘たちも連れていこうと考えた。そして、正三郎夫婦と孫娘がいなくなれば高齢の義両親も生きていてもなんの楽しみもなく、面倒をみてくれる人間もいなくなるのだから、ならば両親も連れていこう、そう考えた。

これ以外に道なし

ふっと、気が楽になった。
家族全員が天国へ旅立ち、自分は地獄へ落ちても必ず地獄から家族の幸せを祈り続けると誓った。これこそが、天羽家の名誉を守り、家族全員が幸せになる唯一の方法であり、天羽家の跡取り婿としてなんとしてでもそれをやり遂げなければならない、そこまで正三郎は思い込んだ。

その時からおよそ1ヶ月をかけ、正三郎は家族を苦しませないで死なせること、周囲に迷惑をかけないようにするためにはどうしたらいいかを考えながら、計画を立てていった。
苦しませないためには絞殺がよかろう、しかし抵抗されれば苦しませることになる。なら、まず木槌で殴って気絶させよう。
時間帯は寝静まった深夜。自分の体力などを考え、まず一郎さん夫婦、長女、次女の順に殺害し、その後事件発覚を遅らせるために戸締りをし、看護師の巡回がない午前3時、病院にて妻を殺害、そして最後は場所を変えて自らの命を断つ、と決めた。

ただ、当初は決意が揺らぐこともあった。妻の転院や身体障害者手帳の交付、介護保険申請などの手続きをとりあえずやらなければならなかったことで、一家殲滅を企画しながら一方では将来に向けて生活を整えるための手続きをするという感情的にチグハグな日々を過ごしていた。
さらに、正三郎自身の持病が悪化し、外科手術を行う必要ができた。
その調整などもしながら時に決意が揺らぐこともあったというが、実行のために必要な道具を買い揃えるうちに、決意は揺らがなくなっていた。

12月に入り、未だ自分の自殺の手段は決めあぐねていたものの、妻の転院が近づいていたこともあって正三郎は予行練習をし始めた。
深夜1時半、一郎さんとまつ子さんが寝入っているかどうかを2度にわたって確認し、自分自身についても、ガソリンを被って焼身自殺をすると決めた。
12月5日夕方、ホームセンターでガソリンを入れるポリタンクやその他道具を買い揃えると、正三郎は全ての準備が整ったとし、決行は今夜と決めた。

深夜、予行練習の通り、まずは一郎さんまつ子さんを殺害するために寝室のある離れへと向かった。右手に懐中電灯、左手には凶器となる掛矢と、あらかじめ作っておいた2mほどの紐を持って。
途中、何度か立ち止まった。本当にやってしまっていいのか。これ以外に方法があるのではないか。
しかし、その度に妻のあの悲惨な姿がよみがえった。あんな姿でい続けることを、妻が望むはずがない。

寝室を覗くと、一郎さんとまつ子さんは熟睡しているようだった。

やるしかない。

その夜

午前1時半、正三郎はまず並んで寝ているまつ子さんの枕元に膝をついた。そして、気絶させる目的でまつ子さんの頭部に掛矢を振り下ろした。
ところが、手元が狂ったか、いや、決心が危うかったか、思いの外力が入らなかった。まつ子さんは気絶するどころか、痛みで目を覚まし悲鳴を上げた。動転した正三郎はさらにもう一度、まつ子さんの頭を掛矢で殴りつけた。が、まつ子さんは全く気絶しなかった。

まつ子さんの悲鳴で、隣で寝ていた一郎さんが起き上がった。

「おじいさん!!」

頭部を殴られ重傷を負いながらも、まつ子さんは夫を庇い、さらには逃がそうと夫が起き上がるのを支えようとしたという。

「正三郎!オメェ何したぁだ?!」

暗闇の中でも、目の前にいるのが娘婿だと一郎さんはしっかり認識していた。正三郎はもはや二人を早く殺さなければという一心で、二人に対し掛矢を振り下ろし続けた。確認する余裕などなかった。
「早く死んでくれ…」
心の中でひたすらそう願いながら、何度も何度も、掛矢を振り下ろした。二人の動きが鈍ってからも、狂ったように振り下ろした。

そして、確実にことを終えるため、用意していた紐で首を絞めた。

正三郎は一郎さんとまつ子さんが動かなくなったのを確認し、洗面所へ向かった。返り血が眼鏡に飛んだため、それを洗い流すためだった。
洗面台の鏡に映る男を、正三郎はどんな思いで見たろうか。

第一段階は成功した。しかしまだやらねばならないことが残っていた。

正三郎は、次に長女を殺すために寝室へと向かった。2階の長女の部屋を覗くと、すでに長女は眠っており、祖父母が殺害された騒ぎにも気付いていなかった。
同じように、正三郎は眠っている長女の頭めがけて掛矢を振り下ろした。

長女は衝撃に驚いて飛び起き、正三郎に対し、「お父さんどうしたの?私だよ?娘の○○だよ?」と、宥めるように問いかけたが、正三郎はそれを無視し、「死んでくれ。」そういうと再び掛矢で襲い掛かった。
長女は何度か掛矢で殴りつけられたものの、なんとか逃げ出すことに成功。そのまま階下の祖父母のもとへ走った。

正三郎は娘を追うのを諦め、しばし娘の部屋で座り込んでいたが、階下からギャァ!という悲鳴が聞こえたことで我に帰った。
長女が祖父母が惨殺されているのを発見したのだ。これではやり切る前に騒ぎになってしまう…

正三郎は立ち上がり、新たに準備していた紐を手に今度は次女の部屋へ向かった。次女は睡眠薬を飲んでいたので、この騒ぎにもおそらく目を覚ますことはないだろうと、そういう意味もあってこの家の中では最後に殺害する計画だった。
次女はやはり眠っていた。正三郎は次女の首に紐を回すと、そのまま一気に締め上げた。
次女がそのまま力抜けるようにベッドからずり落ちたため、次女の殺害も成功したと思った。

ただこの時点で近隣から通報が入っていたと思われ、結局、正三郎はこの時点までの計画しか遂行できなかった。

無期懲役

正三郎は裁判において、脳梗塞の影響、そして責任能力についても慎重に審理され、中~軽度の抑うつ状態だったと鑑定されたが、裁判所は完全責任能力を認めた。
事件に至った経緯、その動機、背景、計画そのいずれにおいても理解可能であること、殺害の実行においてもそのすべてに意味があることなどから、責任能力は減退していなかったとした。

また、正三郎の血縁者に3人の自殺者ないし自殺未遂者(自殺未遂者は次女)がいること、うつ病に罹患した者が一人いることから、その家系にうつ病の遺伝性が高く、正三郎自身も過去に内因性のうつ病にかかっていたことを前提として、事件当時の正三郎の善悪の判断能力が不十分だった、とする鑑定結果もあったが、自殺者のうち次兄のケースは事故の可能性が高く、また、長姉は自殺ではあったものの、内因性とは断定もできず、正三郎自身のうつも教員の職務を完全に果たすことができていたことから、そのこと自体を否定した。

検察は、一郎さんとまつ子さんがどれほどひどい状態だったかを訴えた。最初に襲われたまつ子さんは殴られながらも夫を庇おうとし、さらに自身の頭部も守ろうとしたのか、その腕や指にも打撲痕があった。大きな傷は頭部に3か所、頭蓋冠は陥没骨折し、それを中心に線状骨折は前頭蓋窩等頭蓋底にまで達し、頭頂部、後頭部に広範囲の皮下出血、そして後頭部も骨折していた。
その上、直接の死因は脳挫傷であったが、まつ子さんは死してなお、それを確実にするために首を絞められていた。

一郎さんはさらにひどかった。一郎さんは15か所の挫創、最大の傷は12センチを超え、左側頭部の頭蓋骨は10センチ×9センチに渡って粉砕骨折し、脳脱の状態だった。
妻を助けようと動くたびに、正三郎は一郎さんを殴った。薄れゆく意識の中で、一郎さんもまつ子さんも、互いを何とか助けようと必死だったろう。

一郎さんは先にも述べたが長年獣医師として地域社会に貢献し、地域の人々からも敬愛されていた。妻のまつ子さんは60年一郎さんに連れ添い、家族と家を守ってきた。正三郎の妻が倒れた後も、一郎さんは自らハンドルを握って見舞いに訪れていた。
80を超え、最近では古い友人と会ったり、人生最後のふれあいを夫婦で楽しんでいたという。

ふたりに一点の落ち度もありはしなかった。

検察は正三郎に、無期懲役を求刑。弁護側は情状面に訴え、有期刑を求めた。

法廷で事件のことを聞かれた正三郎は、「考えるのがつらいので思い出さないようにしてるから、詳しいことは忘れた」と話した。そして、この期に及んでも、長女はともかく、次女は死んだほうがよかったのだと譲らなかった。
裁判所は正三郎のそのような態度や、殺害の残虐性、思い込みによる人命軽視、被害者が義理とはいえ両親であること、その二人に一切の落ち度がないこと、そして、長女が峻烈な処罰感情を抱いていることから、いかにそれまでの正三郎が一郎さん同様に地域社会に貢献し、慕われた人物であったとしても有期刑で済ませることは出来ないとした。

平成17年3月4日、山形地方裁判所鶴岡支部の伊藤敏孝裁判長は、正三郎に求刑通りの無期懲役を言い渡した。

男として、父として、主として

判決が出る直前の平成17年2月27日、一家5人を殺害したあの中津川の事件が起きた。あちらも、構図としては非常によく似ていた。
加害者となったのはその家の父親の立場で、高齢の親との同居、社会的な地位があり、経済的な不安はない状態。ただどちらの家庭にも、長年に渡って家族の深刻な問題があった。正三郎の場合は娘二人の問題。中津川の場合は実母の問題(それ以外にもありはしたが)である。
それから平成27年に愛知県で起きた一家3人殺害事件。あれも父親による事件で、正三郎と同じ名家に婿として入った男が家族の問題を極端な形で葬り去った事件だ。
この3つはよく似ている。根底にあるのは、男たちの、父親としての、主としての誇りのように思える。

中津川の男は背が低いことや実母に逆らえないことを自分自身恥じていた。愛知の男はトラブル相手のはんこ屋の女に太刀打ちできずにいたし、資産を奪われたこと、娘の真実に15年間も気づけなかったこと自体、恥じるどころの騒ぎではなかっただろう。そして正三郎は、妻がいなければ何もできない自分、跡取りとして婿養子になったのに、跡取りを残せなかったこと、娘二人が社会に適合できないのは自分の忌まわしい血脈のせいだと自責の念に駆られていた。

彼らは言葉に出す出さないは別にして、周囲から男であること、男として立派であること、男としての責務を果たすことを常に求められてきたような気がする。
そして、彼らはそれに見事こたえてきた。3人とも、事件を起こすまでは地域でも人格者で通っており、穏やかで真面目、善良を絵にかいたような模範的な人だった。

しかし彼らは脆かった。予想外のことに、全く対応できなかった。
中津川の原家は若干違うにしても、愛知の松井家も山形の天羽家も、家族の問題というにはあまりに大きすぎる事件が一度に降りかかった。
妻の病などどこにでもある話ではあるが、ついこないだまで元気で笑っていた妻が、自分で裾を整えることすらできずにただそこにいるだけになってしまったら。
正三郎は妻を愛していた。この妻がいなければ、自分は生きていけないということにこの時初めて気づいた。
そして、なにもかもを終わらせることこそが、天羽家の名誉を守ることになるのだと、そしてそれができるのは跡取りの自分であり、それこそが跡取りとしての最期の責務であると極端に見誤った。

この天羽家があった田川という地域は、結構難しい地域でもあるのだという。
事件後、正三郎と一時期同じ学校で勤務していたという人がこの事件に触れている。その中で、田川の人と合わせるのは大変だ、という記述があった。
それでも正三郎はそつなくこなし、自身に課せられた天羽家の次期当主という重荷を全うしなければと、もちろん出来ると思っていた。

しかし、事件が起きた年の電話帳の天羽家の欄には、「天羽一郎」しかない。一郎さんが健在である以上、あくまでも天羽家は一郎さんが当主だった。

裁判でもその考えを変えなかったことからも、私には正三郎にとって、この一家殲滅を成し遂げることで、ようやく自分が天羽家の当主として認められると、そういう思いがあったように思えてならない(多分違うんやろけど)。

そんな父に対し、長女は辛辣だった。

「もはや父はこの世に存在しなかったものと考えており、今後かかわりを持つつもりはない。」

無期懲役を受け、正三郎は生きていれば90歳目前である。
令和4年に発行された、「東田川文化記念館だより」がある。ここに、正三郎の名があった。
これほどの事件を起こし、正三郎を知る人の中でそれを知らぬ人はいないだろうが、それでも令和4年度で300号になるというその記念館たよりを企画し、発行した人物として初代館長・天羽正三郎の名前を掲載している。
絶縁した長女がいる一方で、いまだに正三郎の遺した功績を称える人もいるということか。

天羽家は現在も当時のままの建物が現存するが、曹洞宗の寺の事務所として使用されている。

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参考文献

事務職員へのこの1冊
きれいな手で。

中日新聞社 平成13年12月7日夕刊
朝日新聞社 平成13年12月7日東京朝刊、平成15年4月27日、6月21日、平成16年10月23日東京地方版/山形
読売新聞社 平成14年3月2日東京朝刊

平成17年3月4日/山形地方裁判所鶴岡支部/判決/平成13年(わ)55号