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令和3年、10月25日松山地方裁判所41号法廷。
「主文。被告人を懲役5年に処す。」
傍聴席の女性と男性が、若干うつむいた。予想通りだったか、それとも、期待外れだったのか。被告人は特に動揺した様子はなく、背筋をまっすぐ伸ばして裁判長の言葉を聞いていた。
傍聴席の女性は、被告人の暴力によって夫を奪われた。傍らの男性は、被告人によって父を奪われた。
しかしふたりは、亡くなった夫、父よりも、というよりただひたすらこの被告人の身を案じ続けていた。
被告人は家族だった。
事件
令和3年1月25日の夕方。
松山市の住宅から、「夫が倒れていて動かない、ケガもしているようだ」と110番通報があった。
松山東署員が駆け付けたところ、その住宅の1階にあるリビングで、男性が頭から血を流して倒れているのを発見。第一発見者で通報者でもある妻に事情を聴いたところ、同居する次男がどうやら暴力を振るったというような話をした。
警察官は自宅の2階で寝ていた次男から事情を聴いたところ、その日の昼頃、父親であるその男性と口論になり、頭部や顔面を殴ったことを認めたため、この次男を傷害の容疑で逮捕した。
父親とみられる男性はその場で死亡が確認された。
逮捕されたのはこの家の次男で無職の金子真也(当時36歳)。亡くなっていたのは、真也の父親で無職の金子秀敏さん(当時65歳)だった。
秀敏さんは右手を握りしめた状態で死亡しており、その右手は顔の辺りまであげられていた。まるで、顔を何かから庇うような状態だった。
愛媛大学の浅野水辺教授の解剖によると、死因は頭部顔面打撲による外傷性脳クモ膜下出血で、頭部には挫創が8か所、裂傷が4か所、右頬骨は骨折して完全に離断していたという。
また、上半身や腕にも打撲痕などがみられ、防御創とおぼしきものもあった。致命傷ではないが、首にも圧痕が認められたという。
浅野教授によると、もみ合ったような状況に加え、被害者である秀敏さんが一方的に殴られたと考えられるとのことだった。
その後、真也は傷害致死に切り替えられて起訴となったが、事件から2カ月を過ぎたころには保釈となっていた。
罪を認め、証拠隠滅の恐れもなく家族の監督下に置けることのほか、なによりも家族が真也の保釈を願ったのだという。
夫であり、父である秀敏さんを激しい暴力の上に死なせた息子、弟。
被害者遺族であり、かつ、加害者の家族でもある母と兄はさぞや複雑な思いを抱いているだろうと思いきや、実際は様子が違っていた。
被害者遺族は、加害者を赦していた。それだけではなく、被害者遺族の立場を捨てていた。
寒々しい家
真也は昭和59年に秀敏さんと母との間に生まれた。3つ上の兄とともに育ったという真也だったが、その家庭はあたたかさとは無縁だったという。
農協職員として働いていた秀敏さんは、家庭を顧みることはほとんどなかった。仕事に明け暮れるだけでなく、若いころからギャンブル(パチンコ)と酒、タバコが好きで、それらは家計を圧迫することもあった。
子供たちが生まれても、オムツ替えのひとつしなかったという。当然家事もすることはなく、子供らを風呂に入れたことも数回だった。
秀敏さんは妻に対し、勝手に物事を決めることを許さなかった。金子家のすべては、秀敏さんの一存で決められていた。
妻には外で働くことを許さず、家の中のことに集中させた。子供と一緒の食卓では落ち着かないからと、秀敏さんは妻子と食卓を囲むことはなく、しかもメニューまで別だった。
子供たちが成長する過程におけるイベントや学校の行事ごとなどにもほとんど興味を示さず、運動会に至っては昼食時だけやってきて、それ以外はパチンコをしていたというほどだった。
金子家はこの40年間において、家族で外食したのは2度、旅行はレオマワールドへ行った1度きりだった。
外食に行った時のことを妻は今でもはっきりと記憶していて、
「パチンコで勝って機嫌がよかったから」
と法廷で証言した。
そんな秀敏さんに対し、最初に見切りをつけたのは真也の兄だったという。
真也も兄も、父親のことが嫌いだったわけではない。むしろ、お父さんに褒めてほしくて学校での出来事などを率先して話しかけていた。
ところが秀敏さんは、そんな子供らの気持ちを無視し、「まとわりつくな、鬱陶しい」という態度だった。
何度父に甘えようとしても、遊んでほしくても、会話をしたくても相手にしてもらえないどころか邪魔だというような扱いを受け続けるうち、兄は父に話しかけなくなった。進学する際の進路も相談しなかったという。
別々にしていた食事も、なぜか子供たちが食事をし始めると途端に不機嫌な態度を見せつけていたといい、母親が子供らに「2階へ行って食べるように」と促していた。
真也は大学を卒業して県外に勤務することで実家を出た。居心地がいいとは言えなかった実家を出、それぞれが自分の人生を歩き始めたかに見えたが、真也はその実家に舞い戻ることになってしまう。
社会の洗礼
愛媛県内の大学を卒業後、同じく愛媛県内では有名なドラッグストアに就職した真也は、愛媛県内の店舗をいくつか回った後山口県へ配属となった。
2年半ほどたったころ、山口にいた真也から突然実家に電話がかかってきた。
応対した母に対し、真也は涙ながらに仕事の辛さを訴えてきたという。
真也は子供のころから「自分さえ我慢していれば」という考え方を持っていた。
何か悩みや辛いこと、周囲に改善してほしいことがあってもそれを口にして波風を立てるよりも、自分が我慢するほうを選んできた。
社会人となって以降、先輩や上司から叱責されることが多く、なかなか真也は同僚とも打ち解けることが難しかったという。
それがどの程度だったのかは不明だとしても、とにかく真也にとっては我慢の限界に来ていたようだった。
そんな真也に対し、母は実家へ戻ってくればいいと慰めた。
その言葉に安心した真也は、そのまま仕事を辞めて松山へ戻ってきた。
実家でしばらく休養した真也は、その後平成23年に大手運送会社にパートとして勤務、そして4~5年続けたものの、再び仕事を辞めた。
その後人と会うのが怖くなったり、外に出ることが億劫になるような時期を経て平成28年、魚市場で仕事をすることになった。
が、ここでも先輩や同僚らとうまくいかず、1年ちょっとでやめてしまった。
そんな真也をみて母親は、「無理に働かなくてもいい」と話した。
真也は母の愛情に感謝していたが、一方でもともと折り合いの悪かった父、秀敏さんは、真也に対してあからさまに嫌悪感を示すようになっていた。
汚いもの
真也が平成23年に運送会社に再就職した頃、同時に秀敏さんは長年勤めた農協を55歳で早期退職していた。
ノルマがきつかったことや、十二指腸潰瘍などを患ったことなどもあり、退職金の上乗せというメリットもあってのことだった。そしてこの頃、兄は結婚して家を出た。
退職した父に代わって、今度は母と真也が働くようになったわけだが、この頃は真也と秀敏さんの関係は悪くなかったという。一緒に酒を飲んだり、秀敏さんの好きなプロ野球をテレビで見ては笑いあい、幼いころからは考えられないような親子の時間がそこにあった。
兄も、孫の顔を見せに実家に来たり、そういった交流もあった。
ところが事件が起きる5年ほど前の平成29年ころから、また秀敏さんとの関係は悪化し始める。
この頃、秀敏さんは狭心症や膀胱がんなどを患い、大きな手術をするなど体調に不安を抱えていたという。そのせいなのか、真也の顔を見ると舌打ちしたり、あからさまな不機嫌オーラをまとい、家族を寄せ付けないようになっていた。
家の中ですれ違うと、「鬱陶しい!」と言われることも度々だった。それでも真也は父にかかわりを持とうと努力していたというが、その効果はなく、些細なことでも秀敏さんは真也に対し不愉快な態度をとり続けた。
魚市場の仕事を辞めた後、令和元年になってようやく真也は再就職した。以前も勤めていた運送会社に、今度は契約社員として勤務することになったのだ。
シフトは夜間のことが多かったというが、この頃真也はなるべく秀敏さんと顔を会わせないように生活していた。秀敏さんは朝から飲酒するのが日課で、朝起きて酒を飲んだ後9時ころから昼前まで寝るのだという。真也はその間に階下へ降りて、食事の用意をしたり風呂に入ったりしていたようだ。
事件当日。
その日真也は休みだったため、8時ころに起きだして昼前に近所のスーパー(セブンスター石手店)へ買い物に出かけた。何もする予定のない休日だった。つまみ用の食材と酒を買うと、そのまま自宅へ戻って買ってきた食材を冷蔵庫へ入れ自室のある2階へ上がった。
秀敏さんは起きていたようだが、会話もしていない。
13時ころ、昼食もかねておつまみを作ろうと台所へ降りたところ、いつも父がいたリビングに姿がなかったので、そのまま二階へ戻って酒を飲んでいた。
14時過ぎ、炭酸飲料を取りに階下へおりたところ、秀敏さんがいた。何か言われるだろうかと思ったが、何を言われても無視すればいいと思っていたところへ、秀敏さんがこう吐き捨てた。
「昼間っから酒ばっかり飲みやがって!」
いつもよりはっきりと、大声だったという。真也にとって、父親から他人のように思われている、邪魔ものだと思われていると感じるほどだった。
真也は、それまでなんだかんだで親子の関係だけは保てていたと思い込んでいた。それがこの日、この瞬間、父とのつながりを断たれた気がした。
思わず見た父の眼は、真也をとらえていた。しかしその眼は、まるで汚いものを見るかのような眼だった。
反射的に真也は叫んでいた。
「お前も朝から酒飲んどるやろうがっ!」
もう、止められなかった。
「もう、えぇ。」
真也の態度に当然、秀敏さんは激怒し、「それが親に対する態度か!」と怒鳴ってきたという。
それに対する真也の答えは、顔面への殴打だった。
「まだわからんのか!」
仰向けに倒れた秀敏さんに馬乗りになり、襟首を締め上げ顔面の口の辺りを狙って何度か殴った。首元を絞められ秀敏さんが苦しいと言ったため、真也はその手を外し、「これでわかったか。謝れや!」
と秀敏さんに怒鳴ったが、秀敏さんが謝ることはなかった。
謝らない秀敏さんに対し、真也はさらに暴行を続ける。秀敏さんがガードしていた顔面を集中的に、拳や肘で殴り続けた。これで謝るかと手を止めると、秀敏さんは真也を殴ろうとしてきた。
秀敏さんを引き起こして向き合うような姿勢にさせて、もう一度真也は聞いた。
「まだわからんのか!」
しかし秀敏さんの口から出たのは、
「こんなことしてただで済むと思うなよ」
だった。
それ以降の暴行について、真也はあまり覚えていないと話したが、そんなにひどい出血はしていなかったと「この時は」話した。
なるべくけがをさせないように比較的硬いところ、例えばおでこやあごの辺りを狙ったと話していたが、右眉の端のほうからじわっと血が出ていたことは覚えていたという。
不意に、秀敏さんが何かを呟いた。
「もう、えぇ。」
その言葉で、真也は攻撃をやめた。真也が求めた謝罪ではなかったためモヤモヤしたというが、その言葉を聞いて真也は秀敏さんから離れ自室に戻った。
その後は酒を飲みながらゲームの続きをし、そしていつしか眠ってしまっていた。
秀敏さんのけがは、出血はあったがたいしたことはないと思っていた。
しかし秀敏さんは深刻なくも膜下出血を起こしており、すでに瀕死の状態にあったのだった。
母親と兄
傍聴席には初公判からずっと、真也の家族の姿があった。母と兄である。
その母も兄も、被害者遺族として、また、加害者の家族として証言台に立った。
弁護側の証人尋問において、秀敏さんの妻は
「主人が亡くなったことはとても残念。(息子には)一生をかけて償ってほしいと願っている」
と話した。一方で、真也の母親の立場としては、
「真也はそういうことを、暴力を普段からする子ではないので、今でも信じられない。(処罰については)なるべく軽い、刑務所へは、そうではない方を願っている。最初からです。」
と述べた。
あの日、いつも通り7時過ぎに仕事のため家を出た母親は、真也には声を掛けずに出かけていた。
そして帰宅した時、血だらけで倒れている夫を発見したのだ。足が紫色に変色していたことから、転んで気絶したのかと思ったという。
すぐさま2階にいた真也に声をかけ、お父さんが大変だ、こけたんかもしけんれど、なんか物音聞かんかった?と尋ねたという。
すると、二階にいた真也はこともなげに、
「おれがやったんよ。」
と答えたという。その態度に母親は動揺し、秀敏さんの状況を確認していると真也が、
「え?動いてなかった?」
と聞いてきたという。表情は、きょとんとしていた。
母親は独立している長男に電話をし、事の次第を説明した後110番通報した。
弁護側、検察、双方からこの事態をどう思ったかという趣旨の質問があり、それぞれに対して
「(息子と夫は)いざこざがあった。現実を受け入れられなかった。」
と答え、どうすれば防げたと思うかという質問に対しては、
「小さな、こう、わだかまり、行き違いを私に言ってくれてたら…。私も気づいてやれたらよかった」
と述べた。
兄は、母親からの電話を受け、「いつかこんなことが起きるのではないかと思っていた」と話した。特に、5年ほど前からはその思いを強くしていたという。ちょうど、真也と秀敏さんの仲が険悪になり始めたころだ。
兄はすぐさま、父親の暴言が弟の逆鱗に触れたのでは、と思ったという。
兄の父に対する言葉は冷たいものだった。性格なのかもしれないが、それは作文なの?と聞きたくなるほど、すべてにおいて棒読み、感情の揺れも全く見えない、淡々とした口調だった。
父との記憶で楽しかったことは一切なく、会話もない、近寄れない、そんな状態がずっとだったという。
父が家庭に貢献したことは一度もなく、今回このような形で父が死んでも、今でもそんなに悲しくないとまで言った。
そして、この兄にも同じ質問が飛んだ。
どうすれば防げたと思うか。これについて母は、自分がもっと聞いてやれば、気づいてやれば、という話をしたが、兄の答えは違っていた。
「防げなかったと思います。」
そして、同じ境遇で育ったあなたと弟との違いは、と聞かれたとき、この時だけは少し今までとは違う口調で、
「自分は(結婚して独立する形で)逃げた。弟はそうじゃなかったのでストレスを受けていた。」
と述べた。
母親も兄も、とにかく事件が起きたのは、この結果はすべて父親が招いた事態であり、息子は弟は、彼こそが被害者であると言いたげだった。
真也
初めから、暴力を振るうつもりはなかったという。
しかしあの秀敏さんの目を見たとき、自分の中で何かが変わった。それでも、ひどいけがをさせようとか、ましてや死んでしまえなどという気持ちは微塵もなかった。
謝ってほしい、ただ、これまでの理不尽な言動を認め、「父さんが悪かった」と言ってほしかっただけだった。
なのに秀敏さんは頑として謝らなかった。どうして。どうしてわかってくれないの。それはまるで、幼い子供が親に駄々をこねるような、精一杯の訴えにも思えた、確かに。
しかし検察はその真也の言動と証拠や現場の状況などから矛盾点をついていく。
検「(暴力行為について)手加減なしで殴りましたか?」
真也「興奮していて覚えていないが、目を合わせることに必死だった。脅すつもりだった。」
検「服で襟元を締め上げたのはなぜ?」
真也「……。手だと……服のほうが苦しむと思った。それでも私の怒りをわかってくれなかったので……」
検「話し合いたかった?」
真也「はい。」
検「なのに首絞めたの?苦しいと話せないですよね。」
真也「……。はい……。」「頭に血が上っていて……」
このあたりから、それまでよどみなく話していた真也が咳き込み始める。
検「なんで肘を使って攻撃したんですか?」
真也「その方が力が入るので」
検「手でガードする秀敏さんを見てどう思いましたか?」
真也「その時点では痛めつけるのが目的でした」
検「殴るのをやめようとは思わなかった?」
真也「興奮していて……父の次の言葉でどうするかを決めようと思っていました」
検「額を狙ってますが、それはなぜですか?」
真也「額は固いので、後遺症も少ないと思って……」
検「うん。(血が上っていた、興奮していたという割に)ここだけ冷静なんですね。」
真也は弁護側の質問でも一貫して、殴ったことは認めたものの殴る場所を考えていた、大きなけがをさせないために、比較的硬い場所を中心に殴ったと話していた。
一方で、細かい話を突っ込まれると、「頭に血が上っていて」「興奮していて」という表現をしていた。そして、弁護側の質問時とは違い、検察からの質問にはどもる、咳ばらいを繰り返して言葉を濁す、そういった場面があった。
検「あなたはお父さんも朝から酒を飲んでいるのにもかかわらず、自分のことを責められて腹が立ったんですよね。どういう意図だったと思いますか?」
真也「(自分が)酔っている姿が鬱陶しいと…(いう意味だと思った)」
検「うん。お父さんはこの日あなたが休みだということを知らなかったのではないですか?」
ここで真也は明らかにハッとした様子に見えた。言葉が一瞬詰まる。
検「あなたは配送の仕事をしていて、必然的に運転をしなければならない。通常だと出勤を控えたこの時間に飲酒しているのを見れば、その日休みだということを知らなかったら注意してもおかしくないのでは?」
日ごろから父との間に会話などなかったと証言している手前、秀敏さんが真也のシフトを知っていたとは言えなかった。
そこで出た真也の答えは、
「今までそんな心配をされたことはありません」
というものだった。
さらに、検察は暴行後の真也の行動について追及した。
実際の行動として見れば、真也は秀敏さんへの暴行をやめた後、自室へこもっていて救護措置をしていない。
が、暴行をやめたきっかけとして、先にも述べたように秀敏さんが「もう、えぇ。」と言ったことに加え、出血してきたことも挙げていた。
弁護側からの質問の際には、出血はあったものの本人が息をしていたこと、そこまでひどい出血とは思わなかったので大丈夫だろうと思ったと話していた。
しかし、検察からなぜ暴行を止めたのか、という質問の際しては、
「血が出ていたのでやり過ぎたと……。血がいっぱい……血が出たので、父が危ないと。出血多量で死ぬんじゃないかと」
と話した。そのうえで119番の必要は感じたか、との質問にも「はい。」と答えている。
が、ではなぜ放置したのかという問いには、「そのうち自分で何とか手当てすると思った」とし、父の様子を母が帰宅するまで見なかったことについては、「生きてると思ったので鉢合わせするのが嫌で……」と答えた。私の傍聴ノートにも?マークがたくさん書いてあるのだが、このあたりの証言の整合性は全く取れていないように思えた。
それは、証拠として挙げられた事件当日に真也が来ていた服からもうかがえた。
血染めの服とボコボコのドア
秀敏さんのけがの程度については、このように真也自身の供述もいったいどっちなんだというようなあやふやな面があったが、実際にはどうだったのか。
現場の状況としては、暴行が行われたのが1階のリビングで、秀敏さんは普段据わっているコタツに寄りかかるような状態で倒れていた。
その部分には、40センチ四方の血痕があり、敷かれていたカーペットの下の床までしみているほどだった。
かなり大量な出血に思えるが、もちろんこの出血は真也が立ち去った後、じわじわと時間をかけて出血したとも考えられ、これだけではそんなに出血していなかったと真也が思った根拠を覆すことにはならない。
が、真也の衣服はどうだったか。
真也は秀敏さんに暴行を加えた後、着替えることどころか手を洗うことすらせずにいた。
上下のスウェットの、まず左腹部にこぶし大の血痕、そして右肘にも血痕がべっとりとついていた。さらに、右ひざ部分は60センチ×10センチの幅で血がしみ込んでいた。
この状態で、真也は「父はそんなに出血していなかった」と話したのだ。
検察は、自分が着ている衣服の返り血に気が付かなかったのか、と質問したが、真也は「目に入らなかった」と答えた。
さすがにこの点は弁護側からも再度確認の意味で質問がなされている。
弁「血が飛び散ってるのを見た?」
真也「見てません」
弁「秀敏さんが出血してるのを見た記憶は?」
真也「ないです」
弁「……ちょっと話してることが違ってるんだけど……」
もうしっちゃかめっちゃかだった。
119番通報の必要性についての認識も、あったのかなかったのかという弁護人の質問には結局、「大丈夫そうだから呼ばなかった」とした。
真也の人柄について、母親も兄も暴力的な言動のないおとなしい人物であると口をそろえていた。
しかし、初公判の際の証拠調べにおいて、金子家の家の内部の写真が提示された際にぎょっとする写真があった。
それは真也の部屋のドアだったのだが、なんと一面穴だらけのボコボコだったのだ。
これについて検察は当初、特に触れることはなかった。
しかし、のちにこのドアの損傷は仕事上の人間関係に悩まされていた真也が腹立ちまぎれにやったものだと明かされた。
たしかにおとなしい性格で、うまく自分の気持ちを伝えられなかったり、我慢を重ねてきたのだろう。しかし一方で、一定まで達するとこのように爆発する過去があった。
秀敏さんに対する暴行も、母も兄も信じられないと言ったがその因子はあったわけだ。
兄はどうしたって事件を防ぐことはできなかったと話したが、本当に防ぐことは無理だったのだろうか。私自身も傍聴しながら、たしかに難しかったろうなと思った。程度は別として、いつかその日が来ると思った。
しかし、それを防ぐ手立てが一つあったはずだとも思った。
それは、兄をして「逃げた」と言わしめた行為ではあるが、「父親から離れる=自立」だった。
真也自身も、何度も自立を考えたと話していた。
だが、それを阻止した人物が実はいたのだ。
実家暮らしと貯金800万円
田舎では珍しいことではないのだが、成人し、就職しているにもかかわらず実家を出ていかない人は男女問わずいる。
もちろん、給料が安く自立できないとか体調の問題や勤務先の距離など、あえて自立する必要がない場合もあるわけだが、真也も兄も、この居心地の悪すぎる家に居座り続けていた。
真也が家を出たのは新卒で就職した会社に在籍していた2年半のうちの一部である。その後は、事件発生時まで実家で生活していた。
兄が家を出たのは結婚したことによるものというのは先に述べたが、普通、子供のころから折り合いの悪い父が君臨する家など、とにかく一日でも早く出たいと思うものではないのか。ましてや、殺されたって涙も出ないと言い切るほどどうでもいい人がその家を牛耳っているのだとしたら。
自分語りになるが、私も別に実家が嫌ではなかったが18歳で家を出たし、夫(男ふたり兄弟)も16歳で家を出たし、その兄に至っては家が嫌すぎて家出までし、高校は家から遠いところ(寮生活)をあえて選んだ。夫の父も、今でこそ穏やかだが当時は秀敏さんも真っ青の暴君として君臨していたので、普通だったら家を出ようとするのではないのかと思うのだ。
ところがこの兄弟は家を出ていない。いったん出た真也も、社会の洗礼を受けて実家に舞い戻った。ようは、世間の荒波よりも秀敏さんとの同居のほうがましだったわけだ。
真也はなぜ家を出なかったのかと問われ、何度も出ようとした、しかしルームシェアする予定の友人が転勤になったり、配置換えなどがあって家を出る必要がなくなったなどと述べていたが、会えば舌打ちされるような相手と同居するくらいなら、たとえ職場が実家の隣でも自立したほうがましではないのか。
給与の問題はどうだったのか。
金子家は秀敏さんの給与があったとはいえ、母親が証言していた通り家計は余裕があったとは言えなかったという。真也も無職の期間が長く、仕事をしているとはいえ運送会社は当初パートであり、さほど給与をもらっていたわけではなさそうだった。
また、例のボコボコのドアの話の際に、なぜ直さなかったのか、と検察に問われた母親は、「5~6万かかると言われ、もったいないと思って(そのままにしていた)」と話していることからも、金子家は経済的にあまり余裕がなかったと推測できた。
となると、真也と兄が家を出なかったのも、その家計を支えるためだったのかな、とも思える。
が、全然違っていた。
真也は働いているときでさえ、実家に金を入れてはいなかった。母親はそれを庇うかのように、「自分のものは自分で払っていた」と釈明したが、実際には携帯電話の料金すら、払っていなかったのだ。
ここでいう「自分のもの」とは、世間的に言えば小遣いで賄うようなものだと断言してよい。たとえば、ゲームやつまみや酒の類である。
さらに驚くべきことに、真也は事件当時、なんと800万円の貯蓄があったというのだ。
それはどう考えても、実家暮らしだからこそできたことであり、もっと言えば、秀敏さんの給与があったからこそ、できたことだった。
ところが秀敏さんの妻は、とにかく経済的な面で秀敏さんには相当な苦労をさせられたというような話をしていた。パチンコ好きで酒、タバコに金を費やし、家計を圧迫していた、借金もあったと話していたが、実際はパチンコは43歳の時にきっぱりやめていたし、借金も何十年も前の話(額面としても50万円ほど)だった。
真也も兄も、秀敏さんには何もしてもらっていないと言ったが、二人とも4年制大学卒である。それでも秀敏さんの妻は、「私の実家の父に助けてもらった」「退職金も全部使われた」といい、秀敏さんの長年の労働によるものではないと主張していたが、実際退職金の一部は妻が管理していたし、実家の父親の援助というのは家を新築した時の話だった。
離婚も考えたというが、年金を分けてもらえないのが嫌で離婚しなかったと話した。
秀敏さんはストレスで体を悪くしながらも、それでも退職金上乗せというメリットを得る55歳まで仕事を辞めなかった。農協の仕事と関係があるのかもしれないし、そのきついノルマの一環だったのかもしれないが、自身に高額な生命保険もかけていた。
それは、なんの、誰のためだったのか。
そして、そもそもここまで父と真也の間がこじれにこじれてしまったのは、真也はじめ家族が言うように家庭を顧みず、病気のストレスから不機嫌になって家族を遠ざけた父親の問題なのか。それとも、世間の荒波に溺れ怯え、実家から出られない自立心のない甘え切った真也だけの問題だったのか。
母親の証言がよみがえる。
「私がもっと気づいてやったらよかった。」
母親の思惑
裁判を傍聴して、この金子家の成り立ちというか家族構成というか、たしかに温かみもなければそれぞれが機能していないような、そんな印象を受けた。
家族が家族を死なせた事件であるにもかかわらず、まったく感情をあらわにしない兄や母親のその態度も、本人がというよりは長年秀敏さんといたことによる「弊害」というと言葉は悪いが、こんな風になってしまった、ならざるを得なかったのかもしれないなと感じた。
感情を相手にぶつけても、その反応が返って来なければ徒労に終わる。それが繰り返されれば次第に人は感情を相手にぶつけようとしなくなるだろう。
母も兄も、秀敏さんに対して何度も何度も向き合ったのだろう。しかしそれが功を奏すことはなく、結局自分だけが疲れてしまった。それならばもう、この人には何も求めまい。そうなったのだとしても、不思議はない。
ただ、兄は結婚という形で、しかも祝福される人生の節目という形でこの家を逃れることができた。真也も、就職という、兄と同じように人生の輝かしい節目という形でいったんは家を逃れたが、不本意な形(本人曰く、辞めたくて辞めたわけではないとのこと)で再び実家へと戻った。
会社を辞める決意をしたのは、実は母親の後押しがあったからだった。
母親は証人尋問において、この時のことをこう話していた。
「夜、泣いて一人暮らしの部屋から電話をかけてきたので驚いた。話を聞いて、もう仕事を辞めて帰ってきたらいいと伝えた。実家にいて、無理に仕事もしなくていいと言った」
逃げ場所として受け入れてくれる実家ほどありがたいものはないわけだが、その後の母親の証言や真也の証言をつなぎ合わせると、違和感を覚えた。
真也はいったん仕事を辞めると、次の就職までにに「年単位」の無職期間がある。最初の仕事を辞めた後は1年、2回目の不本意な失業(魚市場)の後は実に2年以上の無職期間があった。
なぜ、と聞かれた真也は、「それだけ深刻なダメージを受けていた。周囲からは無職の間は自堕落にみられていたかもしれないが、自分は必死だった」と釈明している。
母も同調する。
「私が働かなくていいと言った。無理して働いて、また夜寝られんなっても困るから…」
二度目の失業の後は相当弱っていたといい、外出する際も母親が付き添っていたという。
たしかに、この魚市場での勤務はきつかったようだ。この魚市場への就職は真也の友人の紹介があったという。ところが、ただでさえ気性の荒い人々が多い魚市場で、はっきりものを言えない真也は通用するはずがなかった。煮え切らない真也に対し包丁が飛んだ(!)こともあったという。
加えて、その知人にもいろいろと言われたことが重なり、真也は1年で魚市場をやめた。
信じていた知人の裏切りや、包丁を投げられるという経験によって、相当な心のダメージを受けたと思われたが、なぜか通院などの専門家によるケアはなされていない。これについては検察からも母親に質問がなされた。
検「仕事を辞めざるを得ないほどのことがあったわけだから、うつ病などの可能性もあるわけで、心療内科や精神科医などの診察は受けましたか?」
母「いいえ。うつ病ではないと思いましたし、時間が解決すると思いました」
診察もうけていないのにきっぱりと「うつではないです」と断言する母親。
外出時に母親が付き添わなければならない状況、人間不信に被害妄想(本人の弁)、外に出るのも苦痛で引きこもるようになって、年単位の療養が必要な状況であるにもかかわらず、うつではないと言い切れる根拠は何なのか。
この母親の言動にはほかにも気になる点があった。
真也はことあるごとに、「父親からは心配されたことはない」「父が何を考えているのか話してくれないからわからなかった」「顔を見るだけで舌打ちされたり鬱陶しいと言われた」など、とにかく父親が勝手に機嫌を悪くし、自分を嫌い、向き合ってくれなかったと強調していた。理由なく厳しい態度をとられ、理不尽にひどいことを言われる自分。
それは仕事の話にも及び、無職でいる間に何か今後のことについて父親に言われたことはないかという質問にも「ないです」と答えている。ようは、心配などされたことはない、ということだ。
が、正しくは、何か言おうとする秀敏さんを、母が止めていたのだ。
母は、「無理に仕事をさせたらまた夜寝られなくなる」という心配があって、父である秀敏さんが真也に今後のこと、仕事や自立のことを話そうとしても止めていた、と話した。
真也のことが心配だったから。本当にそれだけだろうか。
これは私のうがった見方でしかないが、この母親は意識的にかどうかは別にして、真也を自立させたくなかったのではないかと思うのだ。
放っておけないから、というのは建前で、実際はこの家で夫と二人きりの生活が嫌だったから、真也に家にいてほしかったのではないのかとすら思うのだ。
40年に渡る夫婦生活で楽しかったことなど一度もなかったという。出産した日の祝いにと、秀敏さんが持ち帰った松茸さえも、母は「自分が食べたかったからじゃないですか」と切り捨てた。
もちろんそうかもしれない。けれど農協勤務ということもあるし、誰かからいただいたのかもしれない。しかしいずれにせよ結婚当初から、この夫婦関係は寒々しいものだったことがよくわかるエピソードでもある。
兄が家を出、さらに真也も家を出てしまったら、この先の老後をこの、愛想もないしかも病弱な夫と二人きりで暮らすことになってしまう。そういう思いは、母の心に微塵もなかったろうか。
一方で、成人した子を実家から自立させようとするのは親として当たり前の感覚であり、仕事をしているならまだしも仕事もせずに家で何年もゲームしかせず、酒を飲む息子に苦言を呈したくなるのもごくごく当たり前の感覚に思える。
秀敏さんはそれを言おうと何度もしていたのではないか。真也の将来を考え、話し合おうと何度もしてきたのではないのか。
それをされて、真也が自立して困るのは誰か。
真也が運送業についていた頃、金子家では秀敏さんと真也が酒を一緒に飲んだりすることがあった。親子の会話も普通にあったと真也も証言している。
それが、少しずつ狂い始めたのは、どれもが真也が仕事を辞めたころと重なっていたのだ。
傍聴していた人も含め、おそらく金子家の人以外は皆、父が真也に対して鬱陶しいと言ったのは、態度が厳しかったのは、いつまでも甘えて自立しようとしなかったからではないのかとわかっていたと私は思う。裁判官からもそれについての質問がなされた。
しかし答えはすべて、
「父から心配などされたことはないし、父の苛立ちは病気のストレスによるものです」
だった。
秀敏さんは術後、階段の上り下りもきつかったという。それを真也は知っていた、心配もしていたのだと答えた。
それを聞いて、検察官は最後にこう言った。
「お父さんは確かに、心臓病の手術やがんとの闘病があった。ストレスはあったでしょう。心配していたとあなたは言うが、そんな状態のお父さんを殴ったんですね。」
真也の咳き込む音だけが法廷に響いた。
「反省は、刑務所でしてください」
正直、家族の誰もが真也を庇い、逮捕からすぐに保釈の手続きがなされていること、そして裁判でのこれでもかという秀敏さんに対する家族の思いが暴露されたことからも、執行猶予がつく可能性も考えた。
真也はすでに実家で生活しており、毎日秀敏さんの仏壇に手を合わせ、お水をあげることを日課にしているという。
家族の誰もが悲しいという気持ちに乏しいと話し、涙すら出ないといった秀敏さんの死。
家族の誰もが許すというその環境の中で、一体どうやって贖罪の、反省の気持ちを持ち続けられるのだろうか。
検察は、公判の初日に2枚の写真を提示していた。
1枚は、若かりし頃の秀敏さんが、これまた幼い真也と兄を両脇にしている写真。台所だろうか、日常の家族のありふれた一枚。
もう一枚は、事件の数年前に撮られたという親戚が一堂に会した集合写真。聞けば、秀敏さんの父親の米寿のお祝いの席の写真だという。
孫だろうか、真也と同世代の若い女性らの姿もあり、親戚としてこちらもごく普通の付き合いがあったことがうかがえた。
検察は、真也に対し秀敏さんの親族に謝罪したのかを問うた。
真也の供述は、正直聞いていて「ずるいな」と感じるところが多々あった。都合が悪くなると咳き込んで言葉を濁すのもそうだが、直接の答えをはぐらかすこともあった。
この質問も都合が悪かったのだろう、母と兄に謝りました、という風に答えたが、さらに「では、謝れていないのは誰ですか?」と聞かれ、「父の兄弟の一人には……」と、親族の中で謝罪を受け入れてもらえていない人物の存在があることを認めた。
これ以外にも、無職の期間何をしていたのかと問われ、職探しや資格取得と答えた真也だったが、具体的な行動としてはヘルパーの資格を取得したというものの、実際にその資格を生かして介護施設で働くといったことはしていなかった。ちなみに母親の職業は介護施設職員である。
これについては、実習と現場が条件に合わなかったというよくわからない説明をしていたが、一事が万事、こんな調子だった。答えはするが、なんとなく噛み合っていないのだ。
秀敏さんにされたことは「こういう見方もあるのでは?」という意見が裁判官から出ても、「それはないです」と否定。そうかもしれない、ということすらなかった。
しかし自分の不都合な点になると、途端に話が長くなった。必死で取り繕うように、自分がどれほどひどいことをされたか、どれほど思慮深く行動していたか、どれだけ耐え忍んできたかを訴えた。
あの新居浜の両親殺害事件の彼が、同じく長きにわたって両親との軋轢に苛まれてきたにもかかわらずその一切の自己弁護をしなかったのとは雲泥の差だった。
裁判員からも様々な質問が飛んだ。
家計を助けようとか、あるいは自立しようという気持ちはなかったのか、やはりそこは裁判員も引っかかっていたようで、複数の裁判員から質問がなされたが、自立する気はあったが職場が変わって必要がなくなったとか、自分のことは自分でやっていたとか、やはり少し確信からずらしている印象が否めない。
「800万円も貯蓄があったんですよね?」
この時は返答できなかった。
反省している、後悔している、真也はそういうことも口にした。しかし一方で、最終陳述においては自分を見捨てないでいてくれる母と兄への感謝の言葉に終始した。
何度も練習して暗記したんだろうとしか思えないその薄っぺらい言葉に、私はバカバカしくなって途中でメモを取るのも止めてしまった。
秀敏さんは確かに横暴で、家族を蔑ろにしてきた。妻に内職以外の仕事を禁じておきながら、自分が働けなくなると手のひらを返したように「働きに出てもええぞ」と言った。
子供たちへの態度もひどいものと言われても仕方ないだろう。しかしこの父親だけの問題ともやはり思えない。
真也がボコボコにしたドアについて、母親は直すとお金がかかってもったいないからそのままにしたと、なんでそんなことを聞くんだろうといわんばかりの態度だった。
しかし普通なら思う。人間関係に疲れ、やり場のない怒りや苦しみのはけ口にしてしまったそのドアの穴を、真也は以降、毎日見ながら暮らしていたのだ。
裁判員もそれを問うた。
「そのままになっているドアを、あなたはどんな思いで見ていましたか」
真也は少し考えた後、
「金銭的なこと(直すとお金がかかる)が前提ではありましたが……二度としないという気持ちもありましたし……この時のことを思い出せば今はマシだと思っていました」
しかし現実として、そのドアを見ながら二度とこんな暴力は振るわないと誓ったはずの真也は、その数年後に父に暴力をぶちまけた。
母は戒めなどの意味を込めてそのままにしていたわけではない。単に、金がもったいないからしなかったのだ。この無神経さはどうだろうか。
人間不信から被害妄想にまで陥った息子のその時の傷跡を、毎日息子に眺めさせることは何とも思わんかったのか。
金がもったいない、真也には800万円の貯蓄があったにもかかわらず、家に金を入れることもさせず、社会人として、大人としての責務を一切教えず与えず、現実も直視させず、「心配」という言葉で30歳もとうに過ぎた息子の自立を阻み、ひいては父親との対立を煽った。その意図がこの母になかったとしても、父と息子は話し合うこともガス抜きも母によって阻止されたまま、最悪の形で暴発する結果を招いた。
はたしてこの家庭で、この母の元で、真也が真の反省、贖罪の人生を送ることなどできるのだろうか。
現に、保釈された直後自宅で交わされた母と息子の会話は、「あんなこと、こんなこと言われたよね」という父への愚痴だったというから恐れ入る。そしてそれを臆面もなく証言してしまえるところにも、だ。
もっと言えば、あのボコボコのドアを放置したのと同じように、真也のためと言いながら父を死なせたその現場でもある家にたった2カ月で連れ帰り、そこで生活させるという何それどんな罰なのとむしろ言いたくなるような、そんな思いもあった。やはりこの人のこういう無神経さがどうも引っかかる。
それでも家庭での更生が見込めるとして、弁護側は執行猶予付き判決を求めた。
対する検察は、怒りに任せその場で死亡させるなど悪質で結果も重大、犯行後の対応も悪く、たとえ秀敏さんに非があったとしても長年にわたって家族を養い、大学まで出してくれたその父に対してこのような暴力が正当化される理由になろうはずがないとして、懲役7年を求刑した。
令和3年10月25日、松山地裁は真也に対し、懲役5年の実刑判決を言い渡した。執行猶予はつかなかった。未決拘留日数算入はたったの70日だったが、これは保釈されていたためである。
裁判長は、父親による暴言やひどい態度は認定しつつ、検察側の主張をほぼ認めた。
同種の事案の中でも重い部類に入るとしながらも、そのうえで本人に前科がないことや家族が宥恕していることなどをあげ、真也は更生できるとした。
ただ、裁判長はすべてを言い終えた後、こう付け加えた。
「反省は、刑務所でしてください」
この言葉がすべてだと感じた。この裁判を通して、真也も家族もただひたすら、秀敏さんを敵認定し、一丸となって真也の行為を正当化しようとしていた。
もちろん、秀敏さんが死亡した以上、敵はいなくなったのだから再犯の可能性はないといっていいし、前科もない真也を支えてくれる家族がいれば、家庭内の事件ということもあり、殺人でもないことから自宅での反省、更生が見込めるというのも十分可能性のあることだった。深く反省しているという点も、認めていた。
しかし裁判員と裁判所は、家庭での更生は無理だと判断した。だからこその、「反省は刑務所で」という裁判長の言葉だったように思う。
そしてそれは、母と兄が一切の感情を見せなかったことに比べ、裁判の途中でそれまで自分の言葉ではなくまるで誰かが作った作文を読むかのように、自己弁護に終始していた真也が一度だけ見せた、感情の高ぶりに賭けたようにも思えた。
自宅に戻った真也が見たのは、父の位牌のある仏壇と殺風景なリビングだった。
このリビングには、いつも父の姿があった。横暴で、家族を振り回し、兄を家から遠ざけ母を苦しめ、そして自分を汚いものでも見るかのような目で見た父。
その父は、もうそこにはいなかった。
母と兄がとうに諦めた父への思いを、真也はずっと握りしめていた。あるのかないのかすらわからない、父と息子の絆に縋っていた。
父と酒を酌み交わし、プロ野球を見て笑ったあの日。それだけを支えに、真也はこの家にとどまり続けていた。
「父が好きだった阪神の試合をもう……」
そう言って泣いた真也の姿こそが、父、秀敏さんへの本当の思いが表れていると思えた。