腐る家~泉南市・一家5人餓死事件①~




平成13年8月16日午後6時

「玄関を開けてください」
泉南市樽井6丁目の民家の玄関先で、警察官らが家の中へ声をかけていた。
この日、この家に暮らす住民の親族から、
「何日も姿を見ていない、家の中から物音もしなくて心配だ」
という相談が泉南署に出ていた。
この住宅には、60代の男性とその妹、そしてその妹の子供5人の計7人が暮らしていたというが、7月頃から家族の姿は近所の人らの目から消えていたという。

警察官らの問いかけに、屋内から「(玄関は)開けません」と、弱弱しい声が聞こえてきた。
「子供がおらんやないか!どこ行った!」
そう叫ぶ警察官らに対し、さらに家の奥から、「子供はここにおりません」という答えが返ってきた。

しかし警察官らは、強引に玄関をこじ開け中に入らざるを得なかった。
玄関先には、明らかな死臭が漂っていたのだ。




5人の遺体

警察官らが屋内へ踏み込むと、凄まじい腐敗臭が鼻を衝いた。
家の中は雨戸が閉められ、光は差し込まない。それでも探りながら奥へ進むと、6畳と4畳の間があり、そこには布団が敷き詰められていた。
すべて頭や足は見えなかったが、明らかな人型がそこにはあり、その状況たるや警察官らを恐怖のどん底に叩き落すには十分すぎるものだった。

そして並んだ布団の横に、同じように並べて敷かれた布団の上に座り込んでいる年配の男女がいた。
二人は、この家に暮らす若狭良一さん(仮名/当時66歳)と、その妹のあつ子さん(仮名/当時64歳)とみられた。
警察官が声をかけたが、ふたりは衰弱しているのか立ち上がることができなかったという。

そして、二人の布団の並びにあった布団をめくると、そこには5体の腐乱死体が寝かされていた。

腐乱死体の身元は、行方不明の子供たちであると推測され、その後若狭さんらの口から、その遺体が妹・あつ子さんの5人の子供であると語られた。
「2か月ほど前から、子供たちが次々と死んだ」
そう二人は語ったが、近所の人らの話では、一家は7月の初めまでは以前と変わらぬ風に目撃されていたという。




あつ子さんの子供たちは、長女・すい子さん(当時41歳)、次女・薫さん(当時38歳)、三女・栄子さん(当時29歳)、四女・弘美さん(当時28歳)、そして、末っ子長男の実さん(当時27歳)。
遺体は腐敗が進んではいたが、外傷は見当たらず、いずれも普段着できちんと仰向けに並んで寝かされており、頭からすっぽりと布団が掛けられていた。
死後、1~2か月とみられたが、若狭さんが、「食べ物がなくなり次々と死んでいった」と話していることから、5人の死因は餓死とみられた。
その後の司法解剖では全員が予測通り餓死、6月30日に長女すい子さんが、その翌日に四女弘美さん、7月5日に三女栄子さん、7月10日に長男実さん、次女薫さんは8月1日に死亡したと推定された。

5人全員、消化管内に物がなく、薫さんは肺炎を起こしていた。

通報した若狭さんの弟のほかに、実は若狭家の隣にはあつ子さん以外の妹も住んでいた。
しかし、いずれも近くに住みながら、20~30年兄弟の付き合いはなかったと言い、あつ子さんの子供らの存在もよくは知らなかった。

発見時、若狭さん兄妹は、息もできぬほどの死臭の中で放心状態で座り込んでいたが、話によれば、子供たちが死んでからずっとこうして寄り添っていたのだという。
一方で、若狭さんは警察官に対し、
「この場所は汚れてしまったから清めなくてはならない」
「神さんに清めてもらった」
などと言っており、その精神状態が心配された。
これが年端も行かない子供であるならば、何をどう考えても保護責任者遺棄致死などの虐待を想定するのだろうが、この場合、亡くなっていたのは子供とはいえすでに全員が成人しており、食べ物がなくなったからと言って、年寄より先に若い人間が全員死ぬというのも、どこか腑に落ちなかった。

しかし若狭さん兄妹も極度の栄養失調状態に陥っているのも事実であり、また、家の中には冷蔵庫の中にもどこにも食べるものはなかった。
家族は2か月ほど前から食べ物がなくなり、若狭さんとあつ子さんは子供たちに水を飲ませて飢えをしのがせていたという。
一家は何年も前から仕事をしている人間はだれもおらず、かといって生活保護を申請した形跡もなかった。

また、土地や建物を担保に金融機関から借り入れをしている形跡もなかった。
家族はどうやってこれまで暮らしていたのだろうか。

調べるまでもなく、近隣や若狭さんの別の兄弟らから、一家のこれまでの歩みが語られた。




塩の家

この家にもともと暮らしていたのは、若狭良一さんと母親だった。あつ子さんは結婚してよそに世帯を構えていたが、昭和48年ころに子供5人を連れてこの実家に戻ってきた。
ちょうど、長男の実さんが生まれた直後の離婚だった。
良一さんも当時は結婚していたが、あつ子さんが出戻ったのと同時期に離婚、以後は母親とあつ子さんとその子供たちとで暮らしていた。

良一さんは自動車教習所の教官を退職したのち、自宅で縫製工場を営むなどしており、あつ子さんもそれを手伝ったり、内職に励んでいたという。
生活には余裕があり、良一さんは高級国産車も所有していた。

当時は健在だったふたりの母親は、非常に信心深い人であったようで、毎日お仏壇を拝んでいたというが、特に他人が見て眉を顰めるといったものでもなく、その世代にありがちな熱心さを持ち合わせていただけだった。
しかし、いつのころからか母親のもとに「信者」が訪れるようになっていく。
その母親が死亡したのち、若狭家には次々と変化がみられるようになった。




あるころから、若狭家の広い庭には大きな穴いくつもが掘られた。そこには竹竿が立てられたり、穴の周囲には紅白幕が張られていた。
穴には水が張られ、その水をすくっては、洗濯などの生活用水に使用していたという。
また、家の周囲は高さ3mのトタンで覆われ、外部からは中がのぞき込めないようになっており、家の周囲や庭には「穢れを清めるため」に、大量の塩もまかれた。そのことで若狭家を「塩の家」と呼ぶ人もいたという。
家の中からは毎朝8時から9時ころの間、呪文を唱えるような声、大音量のラジオが聞こえた。

庭の穴は計4つ、直径3~4m、深さは1mで、若狭さん一家はその穴のことを
「ガソリンが出る」「神さんが息をするため」
と周囲の人に話していた。
回覧板を回した人によれば、玄関からすぐの畳の間に、祭壇らしきものが設えてあったという。
常に、「他人の助けを受けてはいけない」と話しており、外部との接触も、「よその因縁や穢れをもらってきてしまうから」という理由でほとんどなかった。
5年ほど前からは、窓にもトタンを貼るようになり、町内会も脱会し、近隣との付き合いは途絶えた。




近隣の人らは、「何かを超越して生活してる感じ。何か宗教でも主宰しているのだろうか」と訝しんだが、たまに線香やニンニクなどの変なにおいがする程度で、近隣に大きな害があるわけでもなかったためにこれまで騒ぎにはならなかった。
またあつ子さんが、大量のお菓子を近隣に配ることもあった。あつ子さんは、「お供え物の残りですねん」と話していたというが、このようにたまにあつ子さんや長女のすい子さんが買い物をしている様子は見られていた。

しかし、あつ子さんの子供たちは中学もろくに行けておらず、全員が中学を卒業した後は仕事もせずに家にこもっていた。
一家は毎朝、自転車でどこかへ出かけるのが日課だったといい、近所の人が尋ねた際は、「山へお参りに行く」と話していた。
それが、7月の頭を最後に目撃されなくなっていたのだ。

このような状況や若狭さんの言葉などから、警察ではなにかの宗教やそれに関する儀式がこの家の中で行われ、その修行の一環で断食などが行われ、死亡に至ったのでは、という推測がされた。
しかし、その宗教がなんなのか、また、若狭さんが死んでいる子供たちの蘇りを信じているといったことでもなさそうな態度に、この一家に何が起こっていたのか全く読めていなかった。



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