片隅の記録〜三面記事を追ってpart3〜

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蒲田のラブホテルの腐乱死体

「部屋が臭くてたまらない。部屋を変えてくれ」

昭和63年1月1日、宿泊していたカップルからフロントに苦情が入った。年末年始のラブホテルは、クリスマスからの流れもあって満員御礼が続いていた。少々、清掃に手ぬかりがあったか?
ただ、その部屋のにおいは、この手のホテルにありがちな漂白剤の匂いでも、下水が詰まって湧き上がるようなものでもなかった。

…何かが腐っている?

苦情があった翌朝、ホテルは従業員二人にその部屋の点検を命じた。
ホテルの中央にある大きなベッドは、下に土台があってその上にマットレスが乗っかっているというもので、部屋を一通り点検して異常がなかったことから、最後にマットレスをあげてみることにした。

マットレスを起こした時、従業員らが見たのは、すでに腐敗が始まっていた遺体だった。

蒲田ホテルで客室に女性腐乱死体 10日以上も気づかず

 2日午前9時10分ごろ、東京都大田区蒲田5丁目、「ウインザーホテル」の412号室で、室内から異臭がするため従業員が調べたところ、ベッドと床の間の約30センチのすき間から下着姿の女性の腐乱死体が見つかった。警視庁捜査1課と蒲田署は、衣服がないことや死体が見つかった状況などから殺人事件とみて同署に捜査本部を置き、女性の身元割り出しなどを急いでいる。
調べによると、女性は25歳から50歳ぐらいで約160センチ。死後10日から20日ぐらいたっている。上半身裸でガードルと綿のパンティーをはき、首に金色のくさりのペンダントをしていた。ペンダントの先には金属の枠に埋め込んだ七宝焼らしいものがついていた。また、白髪があり、髪をくり色に染めていた。右の下腹部には、約3.5センチの手術痕があった。大きな外傷がないこと、多量の出血がないことから首を絞められて殺されたらしい。
この女性がホテルに入った日付ははっきりしないが、4、5日前から412号室の利用客が「においがする」と苦情をいっていた、という。
ホテルはJR蒲田駅前の歓楽街にあるラブホテル。ボウリング場やサウナぶろなどが同居する5階建てビルの3-5階の一部が同ホテルとして使用されている。
(昭和63年1月3日朝日新聞社 東京朝刊)

当初はこの女性が入室した日付もはっきりしていなかったが、少なくとも遺体発見の5日前から「部屋が臭い」とクレームがあったことから、警察では遺体のネックレスなどの特徴を踏まえて捜索願の出ている女性を調べていった。
すると、12月17日から行方が分からなくなっている女性が、遺体の特長に一致することが判明。
その女性は、目黒在住の飲食店手伝い、宮本いね子さん(当時47歳)。
いね子さんは離婚していて夫はいなかったが娘と息子がいた。
当時すでに働ける年齢に達していたということでおそらく16歳以上だと思われるが、その子供達から捜索願が出されていたのだ。
そして残念ながら、遺体はいね子さんと確認された。

警察は家族の話などから一人の男に注目。
男はいね子さんにつきまとっており、そのせいでいね子さんは引っ越しをしたこと、さらには暴力を振るわれていたことも分かった。

警視庁蒲田署の捜査本部は、いね子さんを殺害したとして住所不定のパチンコ店店員・田中信男(仮名/当時46歳)を逮捕した。

二人の出会いは、いね子さんが勤務していたスナックに客として田中が来たことだった。
最初は良かったのだろう、あっという間に男女の仲となった二人だったが、田中はかなり執着心や束縛が酷かったようで、いね子さんはすぐに田中と距離を取ろうとしたという。
ところが自宅にまで押しかけてくるため、出会って2ヶ月後には引越しして目黒のアパートへ住居を変えた。

引越しの挨拶をされたという管理人は、その時、いね子さんが眼帯をしていたことを覚えていた。
髪の毛を綺麗に染め上げ、スラリとした美人だったといういね子さん。余計に眼帯が痛々しかった。
深く事情を聞くことはなかったが、その事情はすぐに察しがつくこととなる。

「ここに宮本ってのが住んでるだろ?!」

それはいね子さんが引越ししてきてまだ10日ほどのこと。中年の男がイキリ散らかして管理人に凄んできたのだ。
管理人によれば、男はその日以降4回は訪ねてきていたといい、時には夜中にうろついていることもあったという。管理人は、いね子さんの眼帯を思い出し、いね子さんに注意しなければ、と思っていたという。

いね子さんも黙っているわけではなかった。
引っ越してもつきまとってくる田中に対し、暴行されたとして被害届を出していた。
そして11月中旬、田中は逮捕されたのだが、起訴猶予となり12月初めには釈放されていたのだ。

田中は12月13日にまたもやいね子さんを訪ねた。なんとしてでも復縁するつもりだったというが、いね子さんにはそんな気はさらさらなかった。
そして17日、なんとか口実をつけてホテルへと連れ込み、なし崩し的に復縁しようとしたが拒絶され、首をしめて殺害した後、マットレスの下の空間にいね子さんの遺体を隠した。

この時代、ストーカーという言葉は世間には浸透していなかったし、そもそもつきまとったり待ち伏せする程度では犯罪ですらなかった。
いね子さんはそれまで長年印刷会社でタイピストとして働き経済的にも自立していた。子供達が働けるようになったことで肩の荷が降り、自分の体のことを考えてスナックで1日おきのゆったりとした仕事を選んでいた。

田中についてはその後どのような判決が下ったのかは、報道がなく判明しなかったが、おそらくせいぜい10年かそれ以下のものだったのではないかと推測する。

女性が一人生きていこうと力強く、そして有意義な人生を謳歌しようとし、それを邪魔してくる人間に毅然とした態度で応じたら殺される、そういったことは令和の今でも起き続けていている。

火焔地獄の大晦日

東京都町田市の住宅街にあるとある民家にて。大晦日の夜、夫婦は茶の間でレコード大賞を見ていた。
午後8時を過ぎた頃、別の部屋で何やら言い争うような声が聞こえた。この家には、妻の連れ子である男性が同居していて、今日は彼女がきていた。

さして気にも止めずにテレビを見ていたところ、何やら焦げ臭いような臭いがしてきた。

「あれ?火事か?」

年の瀬、どこの家でも火を使う。気になってドアを開けようとすると、鍵がかかっているのか開かない。
すると、煙が部屋の中へ滑り込むように入ってきたことで、火事は自分の家だと気づいた夫婦は別の出入り口から逃げ出した。
炎は木造平屋建ての家屋をあっという間に飲み込み、全焼させた。

そしてその後、焼け落ちた家の中から、焼死体が発見された。

別れ話もつれ女友達を焼き殺す/東京・町田の運転手

 三十一日午後八時五分ごろ、東京都町田市旭町(以下略)、主婦Aさん(55)方から出火、木造平屋建て住宅六十平方メートルを全焼。焼け跡からAさんの長男で運転手滝田伸吾(仮名/27)の友達の同市中町、アルバイト事務員石渡清美さん(27)が焼死体で見つかった。

 町田署で現場にいた滝口に事情を聞いたところ、「別れ話から石渡さんにガソリンをかけてライターで火をつけた」と自供したため、滝口を殺人と放火の疑いで緊急逮捕した。
(昭和63年1月1日読売新聞東京朝刊)

事件の一報はこのようなものだった。
逮捕された滝田は、家が燃えている最中に交番へ出頭していて、その際、覚醒剤を使用していることも自供。薬物検査の結果も陽性で、またその様子もひどい状態だったという。

ヤク中男と別れたがった恋人を、ならば殺してやるとして火を放ったのか?

ところが実際は、別れ話を持ちかけたのは、ヤク中男の方だった。

滝田は交番に出頭した際、交際相手の清美さんが滝田が覚醒剤をやっていることを言いふらす声が聞こえるとして、言いふらすのなら俺と別れてくれと言ったところ、清美さんが別れないといったためにガソリンをかけ火を放ったと話したのだ。

こんな話、死人に口なしで本当は清美さんから別れ話を持ちかけたのではないのか。誰しもそう思うだろう。
写真を見ても、滝田は年は27歳と若いが、全く冴えない風貌。仕事も長続きせず、過去には強盗を働いて刑務所にも入っていた。
一方の清美さんは、聖子ちゃんカットがよく似合う、目鼻立ちも華やかなふっくらとした美人。
しかし、二人を知る人らによれば、いれあげていたのは清美さんだとする話ばかりが出てきた。しかも、清美さんは両親の反対を押し切って、それまでの仕事を辞め、滝田と結婚するために滝田の実家に入り浸るような生活を送っていたというのだ。

二人の出会いは中学時代。当時はただの同級生でしかなかったが、町田の定時制高校に進学して以降、交際を始めたという。
清美さんは保母になることが夢で、都内の短大で保母の資格を取得。滝田は定時制高校を中退したのちは、職を転々とする日々を送っていた。
清美さんと滝田は深い関係になったのは、滝田が強盗で捕まる直前。

その後、滝田が刑務所に入ったことで二人の関係は途切れた。ただ、1回だけ刑務所に清美さんが面会に行ったことがあったという。

清美さんは保母になったものの、給料が安かったために一旦はOLへ転職、しかし再び保母として働くようになっていた。
サラリーマンの恋人もでき、新しい人生を歩んでいたかに思えたが、そのサラリーマンの恋人との日々は、清美さんによって終止符が打たれた。

そんな時、出所していた滝田と運命の再会を果たす。

清美さんは舞い上がっていたという。両親に「結婚する」と宣言し、保母を辞めて滝田の世話をする名目で滝田の家に頻繁に出入りするようになった。
滝田は相変わらず定職にも就かず、バイトを転々としながらの生活だったが、清美さんはそんなだらしのない滝田に心酔しているかのようで、「あの人は私がいないとダメになる」と言っていたという。

一方の滝田も、清美さんには相当惚れ込んでいたといい、いつも「清美、清美」とべったりだった。
大晦日のその日も、二人でお歳暮のバイトに行っていた。
帰宅して、なぜ滝田が言うような別れ話に発展したのかはわからないが、全ては滝田の覚醒剤中毒による幻覚、幻聴、妄想が起こしたものと見るのが自然だろう。
となりの部屋で両親がいるのを承知で、火を放ったことを考えても普通ではない。

清美さんはなぜ、こんなダメ男にここまで魅かれていたのか。

清美さん自身、滝田と一緒にか、無理やりかは別として覚醒剤に溺れていたのでは、と言う声も聞かれた。
事実、ふっくらとしていた清美さんは、滝田と再会して以降、げっそりとやつれていたという。
それから、滝田がだらしない男になってしまった原因の一つに、母親の溺愛を指摘する人々もいた。
滝田の母親は、自分の夫が転勤しても、町田の自宅で成人した滝田と二人で暮らしたがるような人物で、熱心な学会員でもあった。
滝田がだらしない男になったのも、この母親からすれば再婚した夫の「拝み方が足らない」から、ということになっていた。

清美さんはそんな母子の関係を見かねて、自分が滝田のそばにいなければと思い込んだのかもしれない。
清美さんは実は、滝田の子供を妊娠し、中絶した過去があった。刑務所へ入る直前のことだった。
サラリーマンの彼氏をフッたのも、「あまりに平凡で一緒にいても面白くない」と言うのが理由だった。

滝田と別れても、清美さんの心には滝田の存在があった。

事件が報道されたその日に配達された清美さんからの年賀状には、

「今年は頑張ります」

との文字があった。受け取った人々は、今年はようやく結婚するんだな、と思ったという。

滝田はその後どのような処遇となったのか、詳細はわからない。

西船橋駅の転落死亡事故

「バカやろう!」「このバカ女!」
昭和61年1月14日夜、千葉県船橋市の国鉄西船橋駅のホームでは、男性の罵声が響いていた。
深夜になろうという時間帯だったが、駅のホームにはまだ電車を待つ人の姿も20人近くあった。

男性はしたたかに酔っていた。その口調のみならず、足元もおぼつかない様子でただひたすら、ある人物に執拗に絡み続けていた。

「黙ってみていないで助けてよ!」

今度は女性の声。女性はもう結構な時間を、この男性の対応に費やしていた。男性は仕事帰りのような服装で、女性は私服にコート姿といった感じだったが、どことなく華やかさを感じさせる女性だった。
ということで、周囲の人々は酔った客とホステス?の痴話喧嘩、という風に見ていた人も少なくなかった。

ところが事態は予想をはるかに超えた、最悪の事態へと突き進んでいた。

それはあっという間だった。しつこく女性に絡む男性が、女性のコートの襟に手をかけたところ、それまで無視していた女性がさすがに頭に来たのか、その手を振り払い、男性を押しのけた。
酔っていた男性は、一歩、二歩、と後ずさったかと思うと、そのまま線路に転落したのだ。
「人が落ちた!」
すでに、電車がホームに入ってくるというアナウンスが流れていた。男性は酔っていて事態がつかめていたのか、それとも動けないのか、あがってくる様子はない。

そして約1分後、ホームに滑り込んできた電車と線路に挟まれ、男性は即死した。

船橋西署は、目撃情報などから男性を押して線路に転落させ死亡させたとして、北九州市のダンサーの女性を逮捕した。
逮捕後の取り調べにおいて、ダンサーは「男性にしつこくからまれていた。咄嗟に振り払っただけで、線路に突き落とすつもりはなく直後に電車が入ってくることも知らなかった」と供述しており、警察も正当防衛も視野に慎重に捜査を進めていた。
が、目撃者の証言の中で、「女性は持っていた紙袋をベンチに置きに行ってから押した」「男性の背中を数回強く押していた」というものがあったことから、正当防衛には当たらないとしていた。

2月、引き続き正当防衛にあたるかどうかを調べていた千葉地検は、ダンサーを傷害致死で千葉地裁に起訴した。
状況などから、ダンサーが命の危険を感じるほどの差し迫った危険性はなかったと判断したためだった。
この事件では、当時問題になっていた酔っぱらいによるトラブル、特に男性が女性にしつこくからんだ末の悲劇的な事件として注目を集めていた。
また、被害者の男性が高校教師、一方の加害女性がダンサーという対照的な職業だったことも世間の興味を集めた。
同時に、かねてより「酔っているから」で片づけられ、嫌な思いをしながらも声を上げられなかった女性たちがダンサーに同情し、支援する会なども立ち上げられた。
ダンサーが仕事をしている劇場関係者らも、正当防衛であり不当起訴だとしてダンサー支援に動いていた。

ただ、結果として被害者が死亡していることは重く受け止めねばならず、はたして正当防衛が成立するかは専門家の間でも疑問視する声の方が多かった。

千葉地裁は昭和62年9月17日、ダンサーに対して正当防衛の成立を認め、無罪を言い渡した。

傍聴席からは驚きの声があがり、被告人席のダンサーは嗚咽を堪えきれず、口元を必死でハンカチで押さえていた。判決文を読み上げる裁判長をじっとみつめ、何度も頷いて無罪判決を噛みしめていた。
渡辺一弘裁判長は、「被告の行為は、酒に酔った教諭にからまれたあげく、コートの襟のあたりをつかまれ、『このままでは何をされるかわからない』という恐怖心から離そうとしたもの」と正当防衛を認め、ダンサーが被害者を突いたその力加減も、男性を離れさせるために必要な限度を超えたものではない、とした。
そして、酔っぱらいに絡まれた場合、「(場所を移動するなどの手段を取れというのは)一方的に屈辱を甘受せよと無理強いし、その場から逃げ去る悔しさや、みじめさを耐え忍べと言うに等しく、他方、酔っ払いの行動を放任する結果となる」と、移動せずにいたダンサーの判断も間違っていないとした。

この判決に対し、ダンサーを弁護した河本和子弁護士は「事実認定も正しく、この事件が男が女に絡んで起きた事件であることの意味も正しく判断しており、酔っぱらいへの一つの警鐘になる」と判決を高く評価した。
また、当初からダンサーを支援してきた作家の落合恵子氏も、当然の判決であり、女性に対する性的嫌がらせに対してこれまで寛大だった社会が起こした不幸な事件だったとして、これまで泣き寝入りを強いられた女性たちを笑って見てきた人間に対しても問題提起となったと話した。

ただ一方では、過剰防衛で刑の免除は有り得ても、相手が死亡している以上、完全に正当防衛と判断するのは乱暴ではないかとする専門家の意見もあった。
また読売新聞千葉支局の佐藤公則氏は、9月18日付朝刊において、
「結果の重大性より女性の立場を尊重した判決」
とする見方を書いている。もちろん、これは常日頃から男性社会で悲鳴を上げても救われなかった落ち度のない女性の精一杯の抵抗を、結果だけを見て罪だとすることの理不尽さも言い表している。

検察も当初から「酌量すべき点はある」としており、判決を不服としながらもその後控訴はしなかったため、ダンサーの無罪は確定した。
ただ判決後の記者会見では、無罪判決自体は喜ばしいが被害者やそのご家族については「気の毒だと思います」と、その表情を曇らせた。

この事件では、被害者の遺族、関係者の声がほぼ表に出ていない。早い段階でダンサーに多くの支援の手が差し伸べられたこと、著名人を含む支援の会が結成されたことや全国から嘆願書が寄せられたことなどを考えれば、言いたいことがあっても言えなかったとして無理はない。
また、これも早い段階で被害者男性の「過去」も報道されていた。
男性は当時深川の高校で教師をしていたが、10年ほど前にも酒が絡んだ事件を起こしていたのだ。しかもそれは、飲酒運転による死亡事故だった。
新年会で酒を飲んで運転し、埼玉県内で自転車に乗ったお年寄りをはね死亡させていたのだ。
普段は温厚で人柄の良い先生だったというが、酒を飲むとまるで別人だったと話す学校関係者もいた。

よく言われることだが、酒が人を惑わすのか、それとも元々の本性を酒が暴いただけなのか。

鹿児島の無理心中

平成14年10月7日、鹿児島県加治木町の林道わきに止めてあった車の中で、家族とみられる成人の男女と子供の合計6人が死亡しているのが発見された。
車には排気ガスが引き込まれていたといい、警察では子供を道連れにした無理心中と判断した。

死亡していたのは、鹿児島県蒲生町の運転手・安藤尚範さん(当時35歳)と、妻のパート店員・美香さん(当時32歳)、長男の小学4年生・友也君(当時10歳)、長女の小学1年生・千尋ちゃん(当時6歳)、そして、双子の郁弥ちゃんと直弥ちゃん(当時2歳)。

安藤さん夫婦は子煩悩で、4人の子供を育てるために休日出勤もいとわず、それでも笑顔で仕事に精を出していた。

しかし一家には、重い経済的な事情がのしかかっていた。

安藤家は平成12年までは岐阜県で暮らしていた。そこで尚範さんは梱包会社を経営していたが、折からの不況で倒産。それをきっかけに、美香さんが生まれ育った鹿児島の蒲生町へ家族で越してきた。
その時点で、借金が約500万円ほどあったという。

尚範さんは運送会社に職を得、美香さんも子育ての傍らパートをして家計を支えていた。
「子どもが4人いるからね、頑張らないと。」
それが口癖の2人は、借金があっても明るく幸せな家族に見えていた。

安藤家にはもう一つ気がかりなことがあった。ふたごのうちの郁弥くんは、重い脳性マヒで寝たきりの状態だったのだ。
それでも美香さんは加治木町内の病院へリハビリに通い、担当の理学療法士が感心するほど郁弥くんを懸命に世話していたという。
兄姉らも両親同様、弟思いのお兄ちゃんお姉ちゃんで。郁弥くんを抱いてトイレへ連れて行ったり、両親に変わって直弥くんの子守をするなど、子供たちもそれぞれが支え合っていた。

平成13年の暮れ、尚範さんは勤務する会社に借金をしていた。理由は、来年小学校へ上がる千尋ちゃんのための制服代。
クリスマスプレゼントも用意できないほど、安藤家は経済的に苦しかったようだが、郁弥くんのために座位保持具の補助申請をし、親としてできる限りのことをずっとやっていたという。

異変は、直前の10月6日の夜だった。
尚範さんの愛知県一宮市の実家に、尚範さんから電話がかかってきた。その日は友也君と千尋ちゃんの小学校の運動会が行われており、実家の祖父母らはその話を聞けると思っていたが、電話口の尚範さんは思わぬことを言いだした。

「最後の運動会が終わった。もう、いかん(ダメ)で」

息子の借金や生活苦を知っていた実家の父親は、「借金で命を取られたりしない」と励まし、なだめたというが、その後、7日の零時を過ぎた頃にも再び電話がかかってきた。
しかしその時の電話の内容は、何を言っているのかわからないような状態だったという。

そして、家族は全員で死出の旅路に出た。

警察の調べでは、死亡推定時刻は7日の午前2時ころ。おそらく、実家への電話の時点ですでに排気ガスを引き込んでいたのかもしれない。

一家心中はおそらく尚範さんの発案だろう。美香さんは7日にも郁弥くんのリハビリの予約を入れていたし、その少し前の4日には、地元のラジオ局で友也君の作文が朗読されていて、美香さんも電話でその番組に出演。
友也君は日々忙しく働き詰めの両親への感謝の作文を書いており、美香さんはそれに対して嬉しそうに「ありがとう」とコメントを寄せていた。

同じ頃、尚範さんは生きていく希望を見失ってしまっていた。

尚範さんの提案を、美香さんはどんな思いで受け入れたのか。

事件後、取材をしていた読売新聞社の益田美樹記者は、動機などについて何か情報を得ようと近所を聞き込んでいた際、突然、大声で怒鳴られたという。
「動機とはなんだ!子供は何もわからないまま、亡くなったんだ」
ハッとしたという。そうだ。動機を知ってなんになる。その動機によって何かが変わるのか。こどもたちは何も知らないまま、信じていた両親にその未来と命を奪われたのだ。
友也君の書いた作文を読みながら、親のエゴではないのかといたたまれない気持ちが湧いたという。

子供たちは両親の心の闇を全く知らなかったろうか。

子供は思いのほか、親の感情には敏感である。親が不安でいれば、子もまた不安な気持ちをになってしまうことは珍しくない。
家が経済的に苦しいことは、友也君はわかっていた。

ぼくのお父さんとお母さんは、いつも大変です。お父さんは、ほとんどお仕事です。いろいろ行く時間がちがいます。早い時は5時です。ぼくがねている時お父さんは仕事に行ってしまいます。お父さんをおこして、べんとうをつくってコーヒーをつくるその仕事をやっているお母さんは、いつもお父さんよりも早くおきています。お母さんは、ぼくたち4人兄弟のめんどうを見てくれます。すごく大変そうです。お母さんはいろいろやってくれます。だからぼくといもうととおとうと2人は大きくなれたと思います。だからこれからもよろしくお願いします。ぼくも、きょうだいのせわをたくさんして、お手伝いをします。

両親への感謝の手紙は、どことなく、あの長崎佐賀保険金殺人の被害者の少年の作文と重なる。

子供たちは、いや、少なくとも友也君には、両親の心が、これから先の近い将来になされるかもしれない父母の決断が、わかっていたような気がする。

でも彼は、生きたかった。それを奪ったのは、やはり、親のエゴでしかない。

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参考文献

朝日新聞社 昭和61年2月5日東京朝刊夕刊、昭和62年9月18日東京朝刊、
読売新聞社 昭和62年9月18日、29日東京朝刊、平成14年10月15日西部夕刊(益田美樹)
毎日新聞社 昭和62年9月18日東京朝刊、平成14年10月12日西部朝刊
日刊スポーツ新聞 平成2年10月17日

週刊新潮 昭和63年1月21日号 
週刊読売 昭和63年1月24日号