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母は茫然としていた。
今何が起きたのか。床にはティッシュの箱が転がっている。今しがた、自身の顔面に投げつけられたティッシュの箱だった。
次の瞬間、体に衝撃が走る。ハッとしてみれば、中学生の息子が渾身の力で殴りつけていた。
「やめて!どうしてこんなことをするの?」
身を庇いながら訴えた母に、息子はこう言い放った。
「このくらい友達からやられているんだ、母さんにやらなければ誰にやるんだ!僕より弱いもので、女の人にやるんだ!」
母は言葉を失い、ただひたすら、殴りつける息子を受け止めるしかできなかった。
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幸一郎(仮名/当時44歳)は今になって気づいた。
息子はそもそも社会生活を送る上で不可欠な、ルールを守るとか、他人を思いやるとか、そういった基本的な考えがすっぽりと欠けているのだと。
ということはどれだけ親が言って聞かせようと、15歳とは言えすでに成年と同じような体格をし、行動力もある息子を制する、言って聞かせるということは不可能であり、一方でそれを手をこまねいて見ているだけでは、家族だけでなく他人にも迷惑をかける人間になってしまう……
となれば、ここはもう息子の製造責任を親である自分が取るしかない。そして、その責めは自身の命をもって償おう。
ここ数カ月、満足に眠ることもできていなかった。頭は常に朦朧としていたが、この時ばかりはスッキリと冴えていた。
午前三時。まだ朝は来ていない。朝が来る前に、終わりにしなければならない。
幸一郎は犬のリードを手に、そっと息子が眠る部屋のドアを開けた。
家庭内暴力
昭和56年5月3日午前3時ころ、東京都世田谷区松原の民家で、この家に暮らす坂本賢一郎くん(仮名/当時15歳)が、父親に首を絞められて殺害されるという事件が起きた。
息子を殺した、自分も死ぬという夫の言葉に驚いた妻が、自身の兄に連絡を取り、駆け付けた兄の説得でどうにか警察に自首するに至り、父親は逮捕された。
逮捕されたのは賢一郎くんの父、幸一郎。警察の調べに対し、家庭内暴力に悩んだ末の、親として責任をとったつもりの息子殺害だったと述べた。
家庭内暴力。
この事件が起きた昭和56年といえば、校内暴力が社会問題化した時期でもあり、テレビなどでも金八先生など荒れる10代を取り扱うものも増えていた。
昭和52年には開成高校に通う少年が家庭内暴力を理由に父親に殺害される事件が起きていた。さらに、昭和54年にはその事件をモデルにした新藤兼人監督による「絞殺」という映画も公開され、海外でも高い評価を得ていた。
そんな時代背景に沿うかのように起きた、この事件。
賢一郎くんは当時15歳の高校1年生。堀越高校に籍を置き、父も母も大卒であり自宅は世田谷の戸建てで、ある程度生活にも余裕があった。
専業主婦の母の愛を一心に受けて何不自由なく育った賢一郎くんが、父親に殺害されるほどの家庭内暴力を振るうようになったのはいつから、なぜなのか。
父親不在と母の溺愛
加害者である幸一郎は、中央大学法学部卒だった。いくつかの会社で社会人としての経験を積み、その間に妻・和子さんと結婚。昭和40年に賢一郎くんが誕生した。昭和50年には起業し、貿易会社を営んでいた。
当時は杉並区清水で暮らしていて、賢一郎くんは私立明治学院大学付属中学校へと進んだ。
ちょうどその頃、幸一郎の貿易会社が倒産する。しかしきちんと債務整理を行い、杉並の自宅を処分して世田谷で暮らしていた和子さんの母・タミさんの家へ越した。
賢一郎くんはというと、自宅を処分するなどの理由もあって一時的に埼玉の母方の親戚へ預けられていた。学校も、埼玉県内の公立中学へ転校となっていたが、世田谷に越してからは再び家族と一緒に暮らすようになり、世田谷区立梅が丘中学へ通うようになった。
和子さんは専業主婦で、タミさんは自宅でお花やお茶を教えていた。幸一郎も再就職が決まり、当時勢いのあった教材関連の仕事を始めていた。
もともと仕事が好きだったこと、この教材関連の仕事が合っていたこともあって幸一郎は社内で頭角を現し、昭和55年には教育開発部次長という肩書も得た。
日々忙しく仕事に打ち込む半面、家のこと、賢一郎くんのことは妻の和子さんに任せっきりとなってしまう。
この時代、多くの家庭では母親は家にいるのが普通でもあり、実母であるタミさんとの暮らしということで和子さんも余裕をもって家事や育児に専念していたように見受けられた。
和子さんも幸一郎も、賢一郎くんに対しては非常に愛情深く育てていた。中学という多感な時期に親の都合で転校を繰り返したこともあり、友達作りに苦労した賢一郎くんに、その分和子さんが愛情を注いだ。
ただ、その過保護すぎる愛情は賢一郎くんの自立心や自分で解決するという経験を奪うことになってしまう。
学校ではなかなか打ち解けず、友達も作れないで肩身の狭い思いをしてる分、家では甘えさせてやりたい、そういう和子さんの教育方針は次第に賢一郎くんの和子さんに対する依存心を強くしていった。
加えて、うまくいかないことがあってもそれを他人のせいにしたり、自分さえよければいいといった自己中心的な性格を作り上げていく要因にもなっていた。
父から叱られたり、同年代の友達とケンカしながら対人関係を学ぶという経験が極端に少なかった賢一郎くんは、甘えを許してくれない学校を避けるようになってしまった。
そして、中学2年生にもなると不登校になった。和子さんが賢一郎くんに暴力をふるわれるようになったのも、この頃だった。
お前たちの犠牲になった
中学3年生になって、賢一郎くんには新しい友人が出来た。しかしこの友人は素行に問題があった。
別の友人の自転車を黙って持ってきてあたかも自分のもののように乗り回したり、万引きをすることもあったという。それでも賢一郎くんからすれば、ようやくできた「友達」だった。
自転車の件に気づいた幸一郎と和子さんは、賢一郎くんに対し「人様のものを勝手に持ってきてはいけない」と諭し、乗り回して壊れていた部分を修理したうえで持ち主へと返しに行った。
ところが、その自転車を最初に盗んだのは賢一郎くんではなく別の友人だったのだという。それを、幸一郎と和子さんが謝罪して修理までして返却したものだから、持ち主は賢一郎くんが盗んだと思い込む結果となってしまう。
賢一郎くんは激怒し、学校を休むようになる。同時に、友達とも疎遠になっていった。
この頃から、賢一郎くんはことあるごとに、転校を重ねたことを持ち出して来てこう言った。
「俺はお前たちの犠牲になったんだ」
昭和55年、和子さんは思い切って賢一郎くんを国立小児病院へ連れて行って精神科医の診断を受けた。
だが精神的な問題は認められず、医師からは登校拒否が続くようならまた連れてくるように、というアドバイスしか得られなかった。
この時点では、和子さんは賢一郎くんから暴力を振るわれているということを夫である幸一郎に言えずにいた。
しかし精神科医の診断を受けた直後、和子さんは路上で賢一郎くんと口論となり、賢一郎くんは和子さんが乗っていた自転車を蹴り倒した。
しかもそこは踏切で、転倒した和子さんは顔面に打撲傷を負ってしまう。
さすがに隠し切れないと思った和子さんは、ここでようやく、幸一郎に賢一郎くんの暴力を報告した。
驚いた幸一郎がすぐさま賢一郎くんを呼びつけて叱ったところ、なんと賢一郎くんは「お前が文句を言うからこういうことになるんだ!」と激高して、幸一郎の面前で和子さんに殴る蹴るの暴力を働いたのだ。
幸一郎は暴れる賢一郎くんを見て、頭ごなしに叱ったのがよくなかった、と思った。
これがまずかった。
15歳の暴君
賢一郎くんは気が向いた時しか学校へ行かなくなっていた。そして、当初和子さんだけに向けられていた暴力は、顔を合わせる機会が多い祖母・タミさん、そして幸一郎といった家族のみならず、近隣住民にまで及ぶようになった。
坂本家の朝は、目覚めた賢一郎くんの「報せ」で始まる。
賢一郎くんはだいたい6時ころに起きていたというが、目が覚めるとベッドにいる状態でその部屋の壁を力いっぱい叩いた。手だけでなく、筆箱なども使うため、その音は家の中にとどまらず近所にまで聞こえていた。
それは母親・和子さんを呼びつけるもので、和子さんが来るまで続き、来るのが遅いときはカーテンなどをカッターナイフで切り裂いた。
和子さんが来れば、「雨戸をあけろ!そこへ座れ!」と命じ、従わないときはカッターナイフで脅した。
朝食も、気に入らなければテーブルをひっくり返した。
登校時間が来て、一旦家を出ても30分くらいで帰ってきた。しかもなぜか玄関から入らず、隣家の塀をよじ登り二階の部屋から入ってきたという。
その部屋は祖母・タミさんの居室だったが、窓が開いていないと窓ガラスを割って入ってきた。そして、茶道や華道をたしなむタミさんの大切なものだとわかっていながら、茶器や花器を次から次へと叩き割った。
しかもその際には、外部に通報されないように、または外部からの問い合わせがないように電話線を引きちぎる徹底ぶりだった。
昼夜を問わず、在宅時は常に賢一郎くんの言うことが絶対だった。どんな理不尽で無理な要求も、のまなければ大変な事態が待ち受けていた。
要求が通らないと主に和子さんが暴力を受けた。家の中も襖や畳など切りつけられるものは何から何までカッターで切り裂かれていた。
タミさんもその暴力や嫌がらせのターゲットになることもあり、タミさんの布団に大便をなすりつけたり、突き飛ばすなどの直接的な暴力も振るった。
その暴力は飼い犬にまで及び、犬小屋に押し込めてひっくり返し蹴りまくる、熱湯をかける、傘の先で突く、挙句、リードを首輪につけた状態で持ち上げて首を絞めるなどの虐待に及んだ。
また、屋根に上る賢一郎くんに対し、「危ないよ」と声をかけただけの隣人に対しても罵声を浴びせ、その隣家の敷地内にゴミや生卵、かんしゃく玉などを放り込んだ。
もはや家の中はぐちゃぐちゃの状態、和子さんもタミさんも家にいることが多い分、一身に賢一郎くんのとどまることを知らない暴力にさらされていた。
ある時、近所の人に通報されたと思い込んだ賢一郎くんは、突然空気銃を購入した。驚いた幸一郎が必死にそれを取り上げたが、賢一郎くんは和子さんの髪をわしづかみにするとそのまま引きずりまわした。
幸一郎が和子さんを家の外に逃がすと、その逃げ出した玄関めがけてものを投げつけ、ガラス戸を破壊した。
この事件以降、賢一郎くんはカッターなどの凶器を持ち歩くようになる。幸一郎が取り上げても、すぐに代わりのものを買ってきたという。
和子さんに対する暴言、暴力も一層ひどくなり、和子さんは何度も何度も、首筋にカッターを押し当てられる恐怖に精神がすり減っていった。
昭和56年、とうとう和子さんは心が壊れてしまう。電車の中で突然涙が止まらなくなったり、ひとりごとを言うようになった。
心配した幸一郎が精神科を受診させると、ストレスによるうつ状態という診断が下る。精神安定剤や抗うつ剤などを処方されたが、その際に賢一郎くんのことを相談してはみたものの、「今すぐ解決できるものではない。まずはなぜ暴力を振るうのかという原因を把握しなければ」ということしか言われず、幸一郎は途方に暮れた。
2月、賢一郎くんは私立堀越高等学校に合格。4月からは高校生となったが、その直後、学校が生徒全員に対して「長髪禁止」を言い渡したことで登校しなくなる。
そして再び、暴力が吹きすさぶようになる。
幸一郎や和子さんがどれだけ親身に話を聞こうとも、出来る限り賢一郎くんのいうことを聞こうとも、暴力は止まなかった。
和子さんが弁当をこしらえても登校せず、突然原宿へ連れて行けということもあった。和子さんは精神的にそのような外出ができる状態になく、それを断ると、賢一郎くんは和子さんのベッドの上にある窓を叩き壊し、布団の上にガラスの破片を巻き散らかして和子さんを休めないようにした。
もはや和子さんとタミさんだけで、賢一郎くんを押さえることは不可能だった。
父親の献身
ここへきて幸一郎は自分は仕事をしている場合ではないと思うようになっていた。
というか、この頃の浩一郎はそれまでのビシッとしたビジネスマンという外見はなくなり、無精ひげを生やしたり髪の毛も整っていないことも多く、会社の上司らもそれを心配するまでになっていた。
見かねた上司が一週間ほど休んではどうかと打診したこともあり、幸一郎も和子さんと今後について話し合いを持った。
この頃賢一郎さんは、16歳になるということでバイクの免許を取ろうとしており、それを前提にバイクの購入を幸一郎らに迫っていた。
当然、和子さんも幸一郎もそれをすんなり受け入れることは出来なかった。今の賢一郎くんの状態でバイクなどを与えれば、それこそ無茶な運転で事故を起こすのみならず、他人に危険が及ぶと考えたからだ。
すると賢一郎くんは、和子さんの兄にバイクの金を出せと迫った。この伯父にあたる人物は、幸一郎の会社が倒産した際、一時的に賢一郎くんを預かってくれたあの夫婦だ。
賢一郎くんの要求は執拗で、自宅のみならず伯父の会社や出張先にまで電話をかけることもあったという。
金を出さないなら殺してやるとわめく賢一郎くんに対し、この時ばかりは和子さんは毅然と立ち向かった。
「殺すなら殺しなさい!そんなこと、伯父さんに頼めるわけがないでしょう!」
幸一郎はその日、家に電話してもつながらなかったことから不安になって予定を切り上げ帰宅したところ、そこには和子さんを正座させ、目の前に傘の先端を突き出した賢一郎くんの姿があった。
「これで顔を突くぞ。表に出ろ、話がある」
そういうと賢一郎くんは和子さんを無理矢理外に連れ出すと、どこから見つけてきたのか直径30センチはあろうかという石を、幸一郎に向かって投げつけた。
和子さんはそれを見て、自宅前の路上で気絶した。
破滅へ
和子さんは救急車で運ばれ、入院となった。
しかし賢一郎くんが「自分の世話をする人間がいない」と言い出し、家にタミさんだけが残ることでタミさんへの暴力を恐れた和子さんは医師が止めるのを振り切って一週間後には退院した。
賢一郎くんは和子さんが退院するや、再び不登校をはじめ、タミさんに暴力を振るった。
幸一郎は退院したばかりの和子さんとタミさんだけを家においておけず、出勤できなかった。賢一郎くんはそれが気に入らず、自分の制服やネクタイを切り刻み、かばんや靴を隣家へ放り込むなどし、和子さんにカッターを突き付けて
「はやくアイツ(幸一郎)を外に出せよ!」
と凄んだ。
和子さんが幸一郎が家にいるとかえって賢一郎くんが暴れるとして出勤するよう頼んだため、幸一郎はやむなく家を出た。
そこへ、こっそり二階から降りてきたタミさんが幸一郎を呼び止め、こう言った。
「私はもう本当にたまらない。いつ殺されるかと思うと生きた心地がしない。父親として、何か方法はないんですか、何とか考えてください。」
懇願を超えた、タミさんの血を吐くような思いが幸一郎に突き刺さった。
とりあえず出社した幸一郎だったが、あまりのやつれっぷりに上司が仰天し、とにかく仕事はいいから家に帰れと早退させた。
賢一郎くんのために新しいネクタイを買い求め帰宅した幸一郎に、和子さんから
「バイクを買いに原宿へ連れていけ」
と言って賢一郎くんが暴れたという話がもたらされた。
5月2日、堀越高校に学費の納入に赴いた幸一郎に、すぐ帰宅してほしいとの連絡が入った。
なにごとかと急いで帰宅すると、荒れ果てた家の中で和子さんが髪を振り乱して茫然と座っていた。
イスやテーブルなどの家具はことごとく倒され、床にはジャガイモやニンジンと言った野菜が転がり、ふと奥の和子さんの寝室を見るとそのベッドで大の字になって寝ている賢一郎くんの姿があった。
この日も、幸一郎が出社するのと入れ違いに帰宅した賢一郎さんが暴れたという。
和子さんによれば、盗聴器を買って帰宅した賢一郎くんを窘めたところ、途端に暴れだしたのだという。
幸一郎は、とりあえず家の中を片付けるなどしていたところ、和子さんが賢一郎くんに着替えるよう言ったところ、目を覚ました賢一郎くんがまた暴れ始めた。
着替えろといわれたことが、制服を着る資格がないのか、とすり替わり、賢一郎くんは制服やワイシャツを脱ぐとそれらを切り刻んだ。
そして、和子さんの喉元にハサミを突き付けて、「おまえのせいでこうなった」と言った。
もう、限界だった。
それでも幸一郎は賢一郎くんをなだめ、和子さんには横になって休むよう勧めた。するとそれを聞いた賢一郎くんは、「寝かせない。食事に行くから連れて行け!」と怒鳴った。
お母さんは病気だから外出は無理だよ、と幸一郎が言っても聞かず、ならば料理を作れと命令した。
和子さんは辛い体を引きずりながらそれでも料理をした。しかし賢一郎さんは、出てくる料理に難癖をつけるとそのすべてを捨てた。
そして、「今度は俺が作ってやる」というと、器にご飯を盛りつけ、そこにケチャップ、酢、醤油、唐辛子をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだ。
さらにそれに湯をかけると、和子さんに食べるよう強要した。
幸一郎がそれを止めようとすると、「俺に逆らったらどうなるか見ておけ」といって飼い犬を連れて来てリードを吊り上げて宙づりにした。
それを見た和子さんは、ぐちゃぐちゃのご飯を食べたという。
賢一郎くんはこの日、とどまることを知らなかった。無理難題を突き付け、それを両親がのめばさらに要求を吊り上げた。
今度は今から引っ越しをするといって不動産屋に次々と電話をかけ始めた。ただ時間が遅かったこともあって今すぐの手続きは不動産屋側に断られてしまい、今日中の引っ越しは諦めたようだった。
しかし午後9時、ようやく収まって家族は食事をし、一息つこうとした時。
賢一郎くんは「今から続きだ」といい、灰皿を幸一郎に投げつけた。そして、和子さんに対して「おまえ、こいつと別れろ、誓約書をかけ。全部自分が悪かったと反省文をかけ」などと迫った。
和子さんは言いなりになる元気もなく、そのすべてを拒否。賢一郎くんがそんな和子さんを殴ったり小突いたりしたため、幸一郎が制止しようとすると、魔法瓶を振り上げた。
そして「お前口出ししたらこれでこいつを殴るぞ。灰皿投げられてまだ口出しするのか。ケガしても知らないぞ」などと言われたため、幸一郎は黙らざるを得なかった。
疲れ果てテーブルに突っ伏したままの和子さんに、賢一郎くんはどこからか持ってきた電気コードを手に、首を絞める真似をした。
そして、「こいつは本当に言うことを聞かない。殺してやりたい。殺してやるんだ」と言って、ようやく部屋へと引き上げた。
が、すぐさまリビングへ戻ると幸一郎に言い放った。
「いうの忘れてたけど、6月5日までにバイク買えよ。盗んでも手に入れられるんだから。お前も全然いうこと聞かないな、お前も殺されるぞ。明日も続きをするから。朝6時に食事の支度をしておけ。不動産屋にも行って引っ越す家を決めるからそれも忘れるな。あいつ(和子さん)にもよく言っとけ。」
時間は午前一時を過ぎていた。
幸一郎は和子さんをベッドへ連れて行き休ませると、ソファに深く沈みこんだ。
そしてふと目が覚めた時、もう、殺して自分も死ぬしかないと思った。
「お父さんなにするんだ」
裁判では弁護側が当然ながら、幸一郎は犯行当時心神耗弱であったと主張した。裁判所も、事実を見ていくうえで確かに幸一郎のみならず和子さん、タミさんが精神的肉体的に限界になっていたことは認めたが、だからこそ息子を殺害しようとしたその動機は了解可能であり、犯行後に駆け付けた義兄らとのやり取り、その後自首した警察官とのやり取りなどを見ても正常であり、犯行についても詳細に記憶していることなどから完全責任能力を認めた。
裁判所は、賢一郎くん自身の問題が大きな要因としてあったことは認めつつも、まだ15歳と幼く、本人もどうしていいのかわからない状態で狂人のようにふるまわざるを得なかったその心の内にも言及した。
賢一郎くんは、事件前、まだそれほど暴力がひどくなっていなかった時期に幸一郎と話をしている。
その時、賢一郎くんは「自分でもなぜこんな風にイライラするのかわからないんだ」と訴えていた。
さらに、事件発生直前に、実は賢一郎くんは抗議文という書面を残していた。
タイトルこそ抗議文であったが、その中身は自分でも抜けだしたくても抜け出せない地獄の中で両親、特に父親である幸一郎に助けを求めるかのような内容だった。
「私がお母さん、お父さん、話し合いをしたいのですといっても、父は笑って俺の話を聞いてくれないのです」
おそらくだが、幸一郎は笑ったというよりも優しく諭そうとしていたのだとは思う。しかし、賢一郎くんからすれば、その父の大人な態度は自分の思いを真剣に受け止めようとしていないように見えたのかもしれない。
幸一郎が頭ごなしに叱らない、諭すように努めていたことが、完全に裏目に出ていた。
賢一郎くんは、172センチで体格だけで言うと幸一郎とどっこいだったという。けれどいつまで経っても、父は自分と真正面から向き合おうとはしてくれなかった。そういう思いがもしかすると賢一郎くんを追い込んだのかもしれない。
さらに裁判所は、そもそもの要因として賢一郎くんの問題の前に、仕事優先で家庭内で不在だった幸一郎の生き方についても無視できないとした。
賢一郎くんの教育を一任された和子さんも、息子可愛さのあまりに甘やかし、息子が問題行動を起こすとそれを周囲や学校に相談することはおろか、夫にさえも隠し通そうとするなど、早期解決のきっかけを逸した要因を作ったとも言えた。
一方で、その後事態が悪くなっていく過程で和子さんも幸一郎も、病院や教育委員会、警察や専門の医師などに助けを求めたにもかかわらず、的確なアドバイスをもらえなかったことにも言及した。
もちろんそれには、和子さんと幸一郎がこれまた息子可愛さのあまり、すべてをつまびらかにしなかったことで的確なアドバイスがもらえなかった側面もあったが、それらをひっくるめて考えても、賢一郎くんがここまで悪化していくと予想するのは困難だったろうとした。
さらに、すでに事態が悪化していたとはいえ、その事実を知って以降、幸一郎がそれまでの仕事優先の生き方を変え、生活のすべてを賢一郎くんに捧げたといっていいほど心を砕いていたことも見過ごせないと述べた。
賢一郎くんの運動会では、集団生活ができるかと心配のあまりこっそり見に行ったり、当行に付き添うのは当たり前、和子さんに変わって2~3日に一度は学校に電話して様子を確認するなど、まさに仕事をなげうって賢一郎くんをなんとか救いたいという幸一郎の努力は涙ぐましいとさえ言えた。
上司をして、顔つきがまるで変ったといわしめるほど、幸一郎は変わったという。
しかし、賢一郎くんにそれが響くことはついぞなかった。
裁判所は、10か月に及ぶ地獄の日々を思いやり、賢一郎くんの暴力に怯え、悩む中で精神を病み薬を手放せなくなった妻の看病、年老いた義母の安全確保に苦心し、心身ともに疲弊し、病に伏せる妻に相談を持ち掛けることもできず、近隣にまで迷惑をかける日常の中でそれでも家族を養うために仕事にもいかねばならなかった幸一郎の状態について、心の余裕を失い冷静な判断が出来ず、息子を殺害して自分も後を追おうとした一連の経緯については、第三者から見れば浅はかに思えたとしても、いざ自分がその立場になったと考えれば父親としてこのような犯行に及ばざるを得ない気持ちも理解できなくはない、とした。
加えて、この犯行自体、自分だけが現実から逃げるためというよりは妻や義母を救いたいという気持ちがあったこと、そして間違ってはいたけれども賢一郎くんを苦しみから救いたい気持ちもあったこと、この時事件が起きていなかったとしても、それが意味することとして被害者と加害者が逆になっていた可能性もあること、義兄らに説得されて思いとどまったものの自殺を試みていたこと、そして事情を知る近隣住民や会社の関係者ら2600名もの嘆願書が提出されていることなどから、裁判所は幸一郎に対し、懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡した。
それでも裁判所は、父に殺害された15歳の賢一郎くんへの思いも判決文に汲み込んだ。
賢一郎くんは、殺害される直前、幸一郎に対して
「お父さんなにするんだ」
と言っていた。
日ごろ、お前、ヤー公などとまるで父を父とも思わない呼び方をしていた賢一郎くんの本当の姿がそこにあったと裁判所は思いやった。
15歳。親の都合で親戚に預けられ、私立中学から埼玉の公立中学へ転校させられ、過保護に育てられたことで対人スキルも低く、自分ではどうしようもできないままにある意味翻弄されたと言えた。
もちろん、多くの人は似たような経験をしていても、環境に流されるのではなく「決定されつつも決定してゆく」というのであって、やはり賢一郎くん自身がまず第一に自分に向き合わなければならなかった。
しかしそれが出来なかったからこそ、賢一郎くんも苦しんでいた。
どうしていいのかわからない人間に、どうしたいのかと聞いたところで追いつめるだけである。
親としての毅然とした態度、強さこそが、賢一郎くんが求めた愛のカタチだった。怯え、逃げ惑う母ではなく、物わかりのいいふりをして笑みを湛える父ではなく、真正面からぶつかることを恐れない強い両親であってほしかったのではないか。悪いことは悪いのだと殴り合いになってでも毅然と一貫して教え導く態度ではなかったか。
平成令和と移り変わっても、親が子を苦悩の末に殺害してしまう事件はなくならない。虐待とも違う、親子だからこそ起きる事件。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
それは親だけではない。きっと子供の方こそ、叫びたいのだろう。
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昭和56年11月30日/東京地方裁判所/刑事第8部/判決/昭和56年(合わ)165号