自己憐憫の夫がつけた、やり過ぎた妻へのおとしまえ~日立母子6人殺害事件①~

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2017年10月6日

月明かりに照らされた家族の寝顔を、男はしばらく眺めていた。
リビングのテレビが、午前4時39分を告げたころ、男は答えを出した。
左利きの男は左手に包丁を持ち、妻と子供が眠る寝室へと向かう。

午前5時ごろ、茨城県日立市田尻の県営上田沢アパート7棟から出火。
通報で駆け付けた消防によれば、そのアパートに暮らす小松恵さん(33)とその子供ら5人の合わせて6人が倒れているのを発見、長女以外はその場ですでに死亡、長女も病院に搬送されたが病院で死亡が確認された。

騒動になった頃と時を同じくして、日立署に一人の男が現れた。
脚にやけどを負い、錯乱に近い状態のその男は、応対した署員にこう告げた。

「ごめんなさい、妻と子供を刺して火をつけました」

夫婦のそれまで


男は名を、小松博文という。事件当時は33歳であった。
千葉県八街市で暮らし、平成21年に妻となる恵さんと知り合う。茨城の建設現場で働いていた小松は、仕事中に怪我をし、その治療のために市内の病院に来ていた。そこで、事務員として働いていた恵さんが、小松が落した携帯を拾って声をかけたことからふたりは話が弾み、小松は恵さんに電話番号を伝えた。
その日の夜には恵さんから連絡が来て、以降メールや電話でのやりとりが1か月近く続く。
「娘がいる」
恵さんは離婚したばかりで、3歳の娘がいることを明かす。小松は子どもが苦手でもなかったので特に問題に思わず、3人で出かけようと誘うが、恵さんは慎重だった。
というのも、それまで何人もの男性が離婚後の恵さんを誘ったが、最初はみんな子供が居てもいいというのに、次第に子供を邪険にし始めるという経験があったからだ。
当時恵さんと長女は恵さんの実家で暮らしており、両親の手前もあって恵さんは小松と個人的な付き合いを進めようとはしていない。

しかし2か月後の7月、恵さんと長女が県営住宅に入居した。
いきさつはわからないが、そのことで小松は恵さん宅を訪れ、そこから親密な付き合いへと発展したようだ。恵さんとしても、もしかしたら小松との交際を進める気持ちもあり、実家を出たのかもしれない。

ほとんど着の身着のまま県営住宅へ入居した恵さん母子は、引っ越し代にも事欠いていたようで消費者金融に借金していた。
小松は風呂の設備や家財道具などを工面し、家賃3万円を折半として同棲を始めた。しかし、この時点では完全に同棲しているとはいえず、その3か月後に恵さんが妊娠したのをきっかけに、本格的な同棲を始めた。

小松博文という男

私がこの事件を書こうと思ったのは、この犯人である小松博文被告が手記を発表したことがきっかけである。
事件の概要はすでに知っていたが、その時点で動機は妻の浮気、ということが出ていて興味を持っていたし、幼い子どもまで手にかけた男の言い訳をぜひ聞いてみようじゃないかと思ったからだ。
もちろん、小松被告の所業は微塵の同情も覚えるものではなく、今回の手記も小松被告の一方的な言い分であり、ましてや殺害された恵さんに反論の機会がないことも合わせ、事件そのものについて恵さんに非があるというようなことではないということを先に述べておきたい。
その上で、小松被告の「いいわけ」が真実であると仮定し、そこから見える夫婦の在り方に焦点をあてたいと思う。

小松被告は、父親に溺愛されて育った。男の子だからと大目に見たせいもあっただろうが、小松被告はその父に甘えて高校では停学を繰り返した後、退学。
父親の脛をかじりながら胡散臭い仕事をしては辞め、親には心配のかけ通しであったという。
生まれ育った八街市に居られなくなり、逃げるように茨城へ来た直後、その父も亡くなっている。
そんな父親を思ってか、恵さんとの間に生まれた長男には父親の名前の一文字をつけた。
家族を持ち、子供も産まれ、これでようやくおやじに顔向けできる、そう思ったという小松被告だが、長男誕生の一か月後、無免許運転で逮捕されてしまう。
しかも4年前に起こした事故の執行猶予が明けていなかったため、そのまま刑務所へ入ることになった。
4年前の事故の執行猶予が明けていないということはおそらく執行猶予は5年。これはかなり重いと言え、千葉県で起こしたという事故は小松被告に大きな非があるものだったと想像がつく。死亡事故、あるいは悪質な運転による事故で、当然免許も取り上げられていたのだろう。
妻子と離れ、黒羽刑務所に収監された小松被告のことを、恵さんは出張であると両親に告げていた。それを両親が信じたかどうかは疑わしいが、少なくとも小松被告に対し、恵さんは毎日のように何通もの手紙を書いた。普通であれば離婚されてもおかしくないわけだが、そもそも小松被告が無免許であることは恵さんもおそらく承知していたのだろう、だからこそ、小松被告を待ったのだ。

小松被告は、手記では非常にしっかりとした言葉を使い、自分の気持ちをきちんと伝えられているような印象がある。
子煩悩で情に深い、そんな印象すらあり、このような人間がなぜ、あのような凄惨な事件を引き起こしたのか、首をひねる思いだ。
しかし、この手記を読み進めるにつれ、腹をくくれない、逃げるだけ、その場しのぎと後先考えない感情に任せた人生しか歩んでいなかった小松被告が鮮明に見えてきた。

同居生活

被害日本大震災を刑務所で迎えた小松被告は、その後の7月に仮釈放となる。見違えるほどに成長した息子を見て、小松被告は「まじめになる」と決意し、水道工事の職に就く。当時恵さんも病院での事務の仕事をしていたと思われるが、正規雇用ではなかったのか、母子の暮らしを賄えるほどではなかったという。

入籍していなかったため、母子手当と児童手当をもらっていたが、それらも生活費に消える日々であった。
小松被告が就職した会社は、いわゆる自営業に毛が生えた程度のもので、日給7千円の給料も滞り始める。小松被告は、次の職を見つけることもなく、その会社を辞めている。
そこから次の職である建設現場での仕事を得るまでおよそ半年。この間は、恵さんの給料と手当が生活費であったが、小松被告が仕事を始めてからも生活は楽になっていなかった。

そして新しい職について2か月後、恵さんの妊娠がわかる。家賃や携帯の支払いが滞り、2か月に一度の手当て(20万円)をその支払いに充ててしのぐという生活であったが、小松被告によれば生活は楽しかったという。
恵さんの連れ子である夢妃(むうあ)ちゃん、小松被告との間に生まれた長男・幸虎(たから)ちゃん、そして生まれたばかりの次男・龍煌(りゅあ)ちゃんとの生活は、小松被告にとってまさにかけがえのないものだったのだろう。子どもたちを連れてのおでかけも頻繁にしており、子どもたちは問題なく育っていた。

しかし、やはり金銭問題は重くのしかかっており、会社での前借は常態化し、次男が生まれてしばらくすると同居が市にバレ、頼みの綱というか甘えの元凶であった市からの手当てが打ち切られる。
この当時を振り返り、「開き直っていたのかもしれない」と小松被告は語っている。
また、金が回らなくなると夫婦げんかが絶えなくなるというのはよくある話で、恵さんとの間もそうなっていた。
時にはお互いに手を出すような激しいケンカであったようだが、それでも二人の間には双子が授かっている。

お金がないことで夫婦間に口論はあったであろうが、この時点では決して破たんしているということではなかった。
双子の妊娠がわかって、小松被告は昼夜を問わず仕事をするようになる。昼間は建設現場で働き、深夜1時ごろからは新聞販売店でも働いた。早朝5時ごろに帰宅したのち、また昼間の仕事へ向かうという生活は相当キツイと思われるが、それでも月に30万円ほどになったということで、これまでよりは安定するのではないかとこの頃は思っていたようだ。

同時期、小松被告の実母のガンが発覚する。
実父はすでに他界しており、その後実家を手放しアパート暮らしであった母は、おそらく小松被告のことを常に案じていたのであろう。
母の親心を真面目に聞くことが出来なかった小松被告は、母の電話にも出ないほど疎遠になっていた。
平成26年の春に双子が誕生し、その年の暮れに小松被告の母は死去。死に目にも会えなかった小松被告は、葬儀所で冷たくなった母親と対面する。
甘かった父親に比べ、それを案じる母親であったという。いつも逃げてばかりだった小松被告からすれば、その母親の愛情を受け入れるほど中身が大人ではなかったのだろう。
母親の顔に触れた時、小松被告は号泣したという。母親への感謝や、自分の不甲斐なさを悔いる涙であったのだろう。

しかし、その時の気持ちが続くことはなかった。

それでも直らなかった、逃げ癖

小松被告は平成27年からおよそ半年ほど、福島の原発へ出稼ぎに出ている。
震災直後はマージンを抜かれてもかなりの収入になったという原発作業員も、5年が経過したこの頃ではさほど稼ぐことが出来るという状況ではなかった。
作業時間は2時間ほど、日給は1万5千円であった。

運転免許を再取得した小松被告は、ひたちなか市の運送会社に職を得、恵さんも派遣で職を得ていたため、普通の一般家庭相応の世帯収入があった。
さらに、小松被告は車の転売で給与所得以外の収入も得ていたようだ。
運送会社で働いていると、会社からトレーラーへの乗車を打診される。小松被告にとって、トレーラーは亡き父の思い出もあって、願ってもないことであった。
おそらく、大型・牽引免許取得に必要な費用も、会社がある程度負担してくれていたと思われる。

順風満帆に思えた小松被告だったが、結局、免許を取得することなく会社を辞めた。
運送会社に勤務してまだ半年であった。

理由は、「大型免許取得の条件である普通免許の経歴3年以上」が足りなかったからである。というか、その事実を会社に言えなかったためである。

小松被告はこの当時31歳もしくは32歳。地域差もあるかもしれないが、よほどの大都会でない限り、18~20歳のころに免許を取るのが普通だ。特に、男性であればペーパードライバーであっても免許は持っているというのが当たり前であろう。
しかも、運送会社に勤務しているのだから、まさかこの年で普通免許を取得して3年以上経っていないとは思われなかったのだろう。
免許証をしっかりと確認すれば、取得年月日と番号の記号の相違から容易に「取り消し期間があった」ということがわかるが、よほど大きな会社でなければ本人の申告のみで済ますところも少なくない。中には免許証自体の確認もしないところもあるようだから、小松被告の場合も採用時には取り消しの過去については話していなかったのだろう。
だからこそ、会社もトレーラーへの乗車を打診したのだろう(取り消しの過去を知っていたら絶対に条件について確認している)し、先に述べた通りまさか32歳の男の普通免許歴が3年に満たないとは思わなかったのだろう。

2007年ごろに事故を起こして免許取り消しとなっていた小松被告は、当時免許を取得して2年程度だったと思われる。
その後無免許運転での逮捕などもあり、欠格期間が合計で10年ほどに増えたのだろう。無免許で運転していた期間は相当だったと思われ、もしかしたら本人には自分が正規の免許取得期間が3年に満たないという実感すらなかったのかもしれない。

しかもである。
事実は事実で動かしようがないのだから、正直に会社に申し出れば話は違っていたはずだ。
もちろん、採用時に嘘をついていたとか、言い出せない事情があったとしても、もうどうしようもないのだ。
小松被告は、逃げた。
無断欠勤を続け、会社に連絡もせず、どうにかなるとでも思っていたのだろうか。
結局、恵さんに連絡が行き、全ては終わった。

さらに悪いことは続く。恵さんの派遣の仕事も契約が切れ、更新されなかった。
そこからこの夫婦は、約半年間職についていない。毎日連れ立ってパチンコ店へ行き、勝てばその金でやりくりし、ダメなときは借金を重ねた。
乳飲み子の双子を抱えてどうやったら毎日パチンコに行けるのか疑問だが、小松被告の手記によればハローワーク通いと並行して、いわば生活費を稼ぐためにパチンコをしていたようだ。
この頃のことだろうか、恵さんが周囲に「(小松被告が)子どものゲームを売ったお金でパチンコに行っている」として、小松被告に対する愚痴をこぼしていた、という話がある。
ただ、小松被告によればそれには妻も同行していた。
恵さんが周囲に語るその内容は、後に小松被告が発表した手記とは異なる部分がいくつかある。

この食い違いは、小松被告の手記を読み進めるうちにその理由がわかってくる。

男の影

平成28年になっても、小松被告は無職であった。
恵さんはというと、ようやく職が見つかり、病院での事務の仕事を始めることになっていた。
この頃、小松被告は本心かどうかは別にして恵さんに対し、離婚と別居を提案している。
恵さんの方も、こんな状況であれば離婚して手当てをもらった方がいいのかな、と考えていたようだ。
長男が小学校へ上がる頃、恵さんはスナックで週2~3日アルバイトを始める。昼間の仕事との掛け持ちだったが、体調を崩してもどちらの仕事も休まなかった。
恵さんが夜いない日は、小松被告が子供たちの世話を担った。その点については、近所の証言でも「子煩悩」「よく子どもたちと遊んでいた」というものがあるため、小松被告はしっかりやれていたのだろう。
6月に入って、小松被告もようやく仕事を得るが、恵さんはスナックのバイトを辞めなかった。小松被告は、恵さんが帰宅するまで毎晩起きて待っていた。帰り道を心配したのもあるだろうし、それ以上に恵さんの浮気を心配して寝るに寝られなかったと思われる。案の定、恵さんの帰りは次第に遅くなった。


恵さんはたびたび、客からもらったといっていろんなものを持ち帰ったという。それはタバコからガスコンロにいたるまで幅広かった。
スナックで働く以上、私生活のことはある程度伏せたり嘘をつくのはよくある話だ。
しかし、小松被告は当初から心のざわつきを感じていたと思われる。
それでも、子どもたちを風呂に入れ、一緒に料理を作るなどして気を紛らわせる日々であった。

嫉妬心の強い小松被告は、たびたび店が終わったであろう時間に店まで様子を見に行くなどしていた。
当初は恵さんが店の女の子とコンビニにいるのを見つけて安堵していたようだが、ある時から小松被告が店に着くとすでに恵さんの車がないことが増えてきた。
恵さんの車に誰かが乗った痕跡もあった。帰宅時間も遅くなり、しまいには明け方になることもあったという。
小松被告はといえば、自分の不甲斐なさが妻を夜働かせているのだという負い目があったため、深く追求できずにいた。
その頃、体調が悪いという恵さんは家事をしなくなっていたが、スナック勤めはやめなかった。すでに職を得ていた小松被告が、もうやめてほしいといっても「気晴らしになる」という理由で店を続けていた。

子どもたちの運動会が行われたその日、1か月ぶりに弁当の準備で料理をする恵さんを見て、小松被告も心なしか気分が晴れていたという。
恵さんの両親らと共に運動会で頑張る長女と長男の姿に目を細め、他のお父さんたちと同じようにビデオカメラを回した小松被告。
しかし、運動会のあとなにげなく手に取った恵さんの携帯のラインのやりとりを見て、小松被告は愕然とすることになる。
わかっていた、そうじゃないかとうすうす勘づいてはいたが、その不安が現実であるとそのラインの中身は伝えていた。
特定の男性との親密なやりとり。家族だけのものであるはずの運動会の弁当まで、恵さんは相手の男性に見せていた。

小松被告とその家族を乗せた車が火に包まれ、火車のごとく地獄へと転がり始めた瞬間であった。