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人を傷つけたり、ましてや殺してしまったら、裁きを受けその罪に見合った刑に服さなければならない。
しかし、そのためには罪を犯した人間が「罪を犯した」という自覚がなければならない。そもそも善悪の判断がつかない人間は、罪を犯したという認識もないわけで、その状態で刑罰を科すことに意味がないからである。
刑法39条第1項。
ここには、心神喪失者の不処罰ということが定められている。心神喪失とは、「精神の障害等の事由により事の是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)又はそれに従って行動する能力(行動制御能力)が失われた状態(Wikipediaより)」のことをいい、認定された人はその罪を問われることはない。責任能力がないからである。
犯人であれば一旦逮捕はされても、起訴されずに裁判も開かれないケース(不起訴)もあれば、起訴されても裁判において心神喪失と判断され、無罪が言い渡されるケースもある。それ以外にも裁判が始まった時点では公判が維持できるとされていても、途中で心神喪失となりそれの回復が見込めないと判断されると、公判停止、打ち切りというケースもある。
もちろんこれらは複数の専門家(医師など)の慎重な鑑定などをもとに裁判所が判断することであり、たとえ心神喪失だと断言する専門家の判断があっても、最終的には裁判所の判断となる。
現状としては、近年の特に殺人などの重大犯罪においては心神耗弱で減刑になるケースはあっても、心神喪失無罪となるケースは非常に少なくなっているという。
近いものだと、平成30年に神奈川県大和市で幼い我が子を殺害した母親に対し、心神喪失として無罪が言い渡されたケースや、平成29年に祖父母ら5人を殺傷した30歳の男に対し、神戸地裁が心神喪失だったとして無罪(求刑無期懲役)を言い渡したケースがある(現在検察が大阪高裁に控訴中)。
しかしいったん起訴された後に無罪となるのは非常に少なく年に数人ほど、というが、一方で不起訴となる人の数は令和2年版犯罪白書によれば、傷害、強盗、殺人、強制性交等、放火といった重罪を犯した人のうち、251人が不起訴となっている。しかもその内殺人事件において不起訴が82件というのは、82人以上の人の無念がそこにあるということであり、何とも言えない気持ちにさせられる。
その実際の事件のいくつかを紹介する。
八丁堀のメッタ刺し
「ちょっと出かけてくる」
昭和63年4月3日、江東区在住のホステス根本昭子さん(当時44歳)は、勤務先のクラブが休みだったこともあり、昼前に家族にそう告げて外出した。
穏やかな春の日曜日。昭子さんは買い物のために、中央区まで出てきていた。信号待ちをしていた八丁堀一丁目の交差点付近はオフィス街。日曜ということもあって人通りはまばらだったという。
同じ頃、その八丁堀交差点付近を進学塾へと急いでいた14歳の少年がいた。
突然、少年の耳に女性の悲鳴が飛び込んできた。驚いて振り向くと、数メートル後ろで坊主頭の男が女性を追いかけまわしている。
女性は赤いブラウスを着ていて、信号待ちの車の方へよたよたと歩み寄ったかと思うと、坊主頭の男が追いかけて来て女性を叩くような仕草をした。
その手には、包丁が握られていた。
そして、赤いブラウスだと思ったそれは、女性が着ていた白のブラウスが鮮血に染まってそう見えていたことに気づいた少年は、恐怖のあまりその場を動くことができなかったという。
異変に気付いた信号待ちの車から、男性らが数名降りてきたが、女性はすでにその場に倒れ動かなかった。
坊主頭の男は、血まみれの包丁を手にしたままゆらゆらとその場を離れ、どこかへと去っていった。
女性は、根本昭子さんだった。
通院歴20年の男
昭子さんが刺されてからおよそ7分後、通報で駆け付けた中央署宝橋通り派出所の警察官が現場から数百m離れた路地で包丁を持ったままぼうっと立っている男を発見。
返り血を浴びていたこと、そして男が犯行をあっさり認めたことで、殺人と銃刀法違反の現行犯で逮捕した。
一方の昭子さんは、救急搬送されたものの左胸4か所、腹1ヶ所、左腕に8ヶ所もの刺し傷を負っており、約30分後に出血多量で死亡した。
昭子さんは交差点で信号待ちしていた時に不意に襲われ、抵抗しつつ助けを求めて車道に出、停車中の車の助手席に乗り込もうとしたが車がロックされていたことで開けることができなかった。また、中にいた運転手の女性もシートベルトをしていたことでとっさに動くこともできず昭子さんを助けられなかったという。
近くにいたものの難を逃れた人らによれば、男は「人間はみんな死ななきゃならないんだ」などとわめきながら、昭子さんをいきなり刺したという。
男は悲鳴を上げて逃げようとする昭子さんを執拗に追いかけまわし、何度も何度も昭子さんを刺した。
逮捕された後も、男は「人を殺さないといけない、人間はいつか死ななければならない」と意味不明の言葉を口にしていたという。
逮捕された男は、中央区内に住む43歳の無職の男。母親、姉、弟との4人暮らしだったというが、実はこの男、昭和42年以降都内の精神病院に入退院を繰り返しており、昭和62年6月に退院した後も、江戸川区内の精神病院に通院中だった。
普段は弟が経営する雀荘の清掃などをしていたというが、昭子さんとは全くの初対面で、二人の間には何のトラブルも、関係すら存在しなかった。
幸せになるために
男は逮捕後の調べで、「ずっと不幸続きだった。人を殺せば、幸せになれると思った」と話していた。
つけていたという日記には、2月頃、「日本人を生かしておく必要はない」と書いていて、その後「テレビのコマーシャルで見たアメリカ人の男性俳優から殺せと言われた」とも話していた。ヤバい。
男は4月1日、金物店で包丁を購入。いつかそれを使うつもりで自宅に保管していた。
3日はいつものように弟の雀荘で床拭きなどをした後、昼過ぎになって「誰かを殺そう」と思い立ったという。
ふらふらと八丁堀の交差点まで来た時、6~7人が信号待ちをしているのを見た。そしてその中で一番殺しやすそうだと思ったのが、女性の根本昭子さんだった。
なんの落ち度もない、ただ日曜の休日の昼間に都心の人目のある場所で、買い物を楽しもうとしていた女性を「女なら殺せる」という理由で男は犯行に及んだ。
函館出身、離婚を経験したのち一人で息子を育ててきた昭子さん。その息子は、定時制高校に通いながら母と二人、ささやかに平凡に暮らしていた。
その日も、なんてことのない普通の春の一日だった。しかし、「ちょっと出てくるね」と言った母は、そんな理不尽なことで、たまたまそこを通っていただけで、命を奪われた。
そして男は、2か月後はやばやと不起訴となった。
男はそもそも、精神の状態が安定したから退院していたのではなかった。治ったと言い張り、勝手に退院していたのだ。
通院は続けていたとはいえ、その症状は改善されるどころか悪化していた。家族は男の異変には気づけなかったのか、という思いもあるが、なんせ20年入退院を繰り返しているわけで、家族にしてみればその変化というものを実感しにくかったのかもしれない。
不起訴処分を受けた男は、そのまま都内の病院に措置入院となった。
ゲートボール場の惨劇
平成2年2月17日、冬の晴れ間の長野県松本市郊外の河川敷では、近くの高齢女性ら3人がゲートボールを楽しんでいた。例年より7度も気温が高く、河川敷の西には北アルプスの峰々が美しい。
それは突然の出来事だった。
ふらりと現れたその男は、二十歳そこそこ、水色のジャンパーにカーキ色のパンツ、白いスニーカーというどこにでもいる若者に見えた。手には金属バットが握られてはいたが、河川敷という場所に似つかわしくない格好でもなく、どちらかと言えば小柄なその若者に、目を留めるものなどいなかった。
男は道路を渡り河川敷へと降りていく。そしてゲートボールを楽しむ女性の近くへ行くと、無言で金属バットを頭めがけて振り下ろした。
悲鳴とも、絶叫ともつかぬ恐ろしい声があたりに響き渡った。河川敷近くで暮らしていた鳥羽貞子さん(当時60歳)は、そのただならぬ声を聞いてとっさに自宅前に飛び出した。そこで見たのは、頭部から激しく出血して倒れている女性の姿と、返り血に染まった男の姿だった。
若い男の手には、血の付いた金属バット。しかしそれだけではなかった。男は両腕の内側にカッターナイフ、外側にはステンレス製の包丁をガムテープのようなもので巻き付けていた。
男は鳥羽さんに近寄ると、無言でそのバットを振り下ろす。必死で逃げた鳥羽さんは、近くの「きくすい旅館(当時)」に逃げ込むと、救急車を呼んでほしいと言ってばったりと倒れた。
男は通行人や騒ぎを聞いて飛び出した近所の住人らを威嚇するかのように金属バットを振り回していたという。
その後、近所の男性が草刈り用の農機具を盾に男に詰め寄り、たまたま通りがかった男子高校生が背後から男を羽交い絞めにして取り押さえた。
終始無言で女性らを殴りつけていた男は、後ろから抑え込んだ高校生に対してだけ、
「邪魔するな」
と怒鳴った。
ゲートボール場で襲われた3人の女性のうち、二人は即死。残る一人も搬送先の病院で死亡が確認された。最後に襲われた鳥羽さんも、頭部に全治二週間のケガを負ったが、一命はとりとめた。
死亡したのは、松本市の平野春子さん(当時77歳)、市川しげ子さん(当時73歳)、そして、柳沢花子さん(当時71歳)。
平野さんと市川さんはゲートボール場で即死状態、柳沢さんは土手を上がって道路を渡り逃げようとしたものの、男に追いつかれて殴られ、約1時間後に死亡した。
イラ立つ大学生
逮捕された男は、香川県出身の信州大学生だった。
自宅は現場となったゲートボール場の目と鼻の先のワンルームマンション。直線距離で20mしか離れていなかった。
男は3年前に高校を卒業すると、一浪して信州大学へと入学した。浪人中は京都の予備校に通っていたといい、信州大学以外にもいくつかの大学に合格していて、大学へ行く意欲も感じられた。
ところが、大学生活はうまくいっていなかった。男はすでに一度留年しており、その際もあとちょっと足りなかった、ではなく、進級に必要な単位の半分を落とすというもので、今年に入っても学年末の試験を男は一切受けておらず、今年も留年は確実だった。
サークルには所属していたというが、友達という存在はいなかった。
自宅のワンルームマンションにはクラシックのCDがあるだけで、電話やテレビといったごく普通の生活家電がなかった。それ以外にも、漫画や雑誌などもなく、推理小説が20冊程度あるだけで、趣味などもなかったようだと捜査関係者は話している。
さらに、男はマンションの玄関ドアに二重のカギをとりつけ、そのうえ隙間を目張りするなど、神経質な一面もあった。
男は何に突き動かされたのか。
逮捕後の取り調べでも、男は自分の名前さえ話さないまま。動機もなにも分からない中、男への精神鑑定が行われることとなった。
「目的がある」
男にはそれまで特に精神的な問題などは見当たらなかったという。ただ、高校3年の時に自分の部屋を歩き回ったりすることがあり、心配した両親が病院に連れて行ったことがあった。
が、そこでは投薬や通院の必要性まではないと診断され、一過性のストレスによるもの、といった判断がなされていた。その後、症状も落ち着いていたことから、両親は京都の予備校に通わせ、一人暮らしもさせていたし、そこでも特に問題は起きず、男は複数の大学合格も掴み取っていた。
ところが信州大学に入り、このマンションに越してきて以降、なにかが狂っていったことは間違いない。
事件を受けて、報道ではゲートボールに興じる人々の「声」が原因だったのでは、とするものもあった。男が音の出る家電をCDラジカセ以外持っていなかったことや、玄関の目張りなどから推測されたのだろう。たしかに、お年寄りの朝は早いし、ゲートボールとなれば声や音も響いた可能性はある。近隣の住民の中にも、多少それが気になるといった話は実際にあった。
しかし静かな住宅街、というわけでもない場所で、道路を挟んで車の往来もある場所。しかもこの事件があった時刻は午後であり、誰もが利用できる河川敷で静かにしろというのもおかしい。
ただ、明らかにゲートボールをしていた女性を狙っているわけで、無差別だったという感じはしない。
実は事件が起きる少し前、男はある行動に出ていた。
夕方になると、男はゲートボール場付近をうろつき、ゲートボールを終えて帰宅する女性のあとをつけたりしていたのだ。
12日の午後には、それを警戒していた男性が男に直接詰め寄っている。
その際、なぜあとをつけたりするのかと聞かれた男は、「居所が知りたい。目的があるんだ。」と話していた。
その目的は何か、と聞かれるも、それには答えなかったという。そのうえで、「(あとをつけることを)やめることはない」と言っていた。
この言動にゲートボール仲間らは恐怖を感じ、松本署に通報した。署でも何度か巡回を行ったというが、肝心の男の住まいも名前も分からなかったことから、それ以上のことは出来なかったという。
男は、ゲートボール場を見下ろすマンションに暮らしていたわけだが、それが分かったのは事件後のことだった。
遠くに連れ去って
事件から2か月後の4月26日、長野地検松本支部は男が心神喪失であるとして不起訴処分を決めた。
男は拘置期限が切れたため、いったん釈放となったあとで精神保健法に基づき長野県知事の命令により松本市内の病院に措置入院となった。
事件は終わった。
殺害された女性らは、みな、ただ楽しくゲートボールをしていただけだった。市が管理する正規のゲートボール場で、である。
高齢に差し掛かり、健康を気にしながら、また、仲間らとのコミュニケーションも豊かな老後には不可欠であり、ささやかな日常の楽しみのひとつとして楽しんでいただけである。
市川さんは自宅を大学生の下宿としており、犯人の男と同じ信州大学に通う学生を受け入れていた。事件を聞き、下宿生らはショックを隠せなかった。
市川さんは母親代わりのように学生らに接し、実家へ帰る学生らには特産の野沢菜漬けを持たせてくれたという。
柳沢さんは中国からの引揚者だった。
戦後の中国では苦しい生活の中で中国人の養女を迎え、立派に育て上げた。
昭和50年に中国からたった一人で日本に帰国。おい夫婦と同居して、地域での暮らしを築いていた。
1年前から家にこもっているのも良くないと、地域のゲートボールクラブに所属。道具を揃え、週に4日の練習を楽しみにしていたという。
平野さんはこの中では最年長だったが、皆に慕われる存在だった。
風が強かったこの日、男性メンバーらが来ない中でも平野さんは元気にゲートボールを楽しんでいた。
そんな人たちの日常を、男は無言で、突然に奪い去ったのだ。撲殺という、残虐極まりない手段で。
被害者は4人、その内3人が死亡するという死刑待ったなしのケースであるにもかかわらず、男は罪に問われることすらなかった。
残されたのは、3人の死と遺族らの無念だけ。
柳沢さんのおい、丸山明夫さん(当時41歳)は、「事件が二度と起こらないように、犯人を遠くへ連れ去ってほしいと願うだけ」と言うしかなかった。
地下鉄の通り魔
平成元年7月25日。北海道札幌市西区の市営地下鉄東西線・琴似(ことに)駅構内の女子トイレで、市立札幌山の手高校に通う16歳の女子高生が刺された。
刺されたのは西区在住の菅原瑤子さん(当時16歳)。瑤子さんは腹部と右胸の二か所をナイフのようなもので刺されており、その腹部の傷は静脈をまるで抉るように差し込まれていたといい、そのために大量出血していた。
瑤子さんが刺された場所が女子トイレだったことで、目撃者が少ない中犯人はさっさと逃げていた。
事件後、現場の状況やその時間帯に地下鉄周辺にいた人らの話から、どうやら瑤子さんを刺したのは中年の男、と見られた。駅周辺では、6〜7人が犯人らしき男を見てはいたが、どこの誰かはわからないままだった。
しかし警察がなんとか作成した似顔絵を見た駅近くの住民らが、気になる話を持ち込んできた。
「琴似駅のバスターミナル付近に、女性に近づいたり舐め回すように凝視する男がいるが、その男に似ている」
似たような情報は複数あったといい、警察は慎重に捜査を続けた。加えて、事件直後、駅前からタクシーに乗って中央区へと移動した男が、その怪しい人物と同一であることも確認。
男に任意同行を求め、警察署において目撃者らを面通しさせたところ、全員があの日男が駅にいたことを証言した。
7月31日、札幌西署と道警捜査一課は男が瑤子さんを刺したことを認める供述をしたことから、裏付けのため家宅捜索を実施。男の自宅からは、凶器と思われる果物ナイフ、そして血がついた衣類が出てきた。
男は、「刑務所に入りたかった。刺すのは誰でもよかった。」と話していたが、この男、昭和47年以降ずっと精神病院への入退院を繰り返していたのだ。
父の慟哭
男が逮捕された時点では、瑤子さんは重体ながらもなんとか生きようと頑張っていた。
出血量は相当多く、瑤子さんのために級友や教師らが献血を行い、45,000ccもの輸血が行われた。手術も3回に及んだという。
皆の祈りと献血、そして何より瑤子さんの生きる力が強かったことから、次第に容態は安定し始め、意識もしっかりするようになっていたが、8月12日、再び傷から出血が始まり、そのまま14日の午前10時15分、瑤子さんは16歳という若さで命を奪われてしまった。
警察から、男に通院歴があることを両親はすでに聞かされており、正直そんな男の行く末よりも、今目の前で懸命に生きようとしている娘のことしか頭になかったろう。
一旦は希望が見えた両親は、深い奈落へと叩き落とされてしまった。
男は事件当時41歳。両親と中央区で暮らしていたが、昭和47年から入退院を繰り返す人生だった。
ただ、入退院といっても1年のうちの半年から9ヶ月も入院状態だったといい、「精神分裂病(当時の呼び名)」と診断されていた。
警察は瑤子さんの父親に対し、瑤子さんの司法解剖を申し入れたが、これを両親は拒否した。
父親は、犯人の男が精神分裂病で入退院を繰り返していたことを知っており、そういった人間が罪を犯したとしてどうなるかを知っていたのだ。
そして、警察に対し、
「犯人を刑事罰に処するための解剖ならわかるが、精神異常者の犯人の処分の先は見えているじゃないか。瑤子の人権はどうなるんだ。死に損じゃないか……」
そう訴えた。
母親も同じ思いだった。すでに三度の手術をした瑤子さん。犯人に負わされた刃物の傷も痛々しいのに、その上また体を切り刻むなど、到底受け入れられる話ではなかった。
父親の言った通り、男は心神喪失で不起訴となり、措置入院となった。
その後、両親らは男が通院していた病院に対し、男への適切な診察をしていなかったとして損害賠償請求を起こした。
病院は、男が診察を受けていた約半年間のうち、医師による問診がたったの一度だったことを認めつつも、看護師らが顔を合わせ、その都度男の状態を見ていたと反論。事件直前に行われた病院主催の海水浴でも男に変わったところはなかったとして、争う姿勢を見せた。
提訴から3年後、病院側が精神医療の充実を約束することで両親と和解が成立。両親は病院側が提示した金銭賠償については、放棄した。
答えが出なくとも
刑法39条に異論はない。悪いことを悪いことだとわからない、善悪の判断がつかない人間は、裁けない。そして罰を与えることも、無意味であるから与えられない。
しかし問題は、では殺害された人はなんなのか、なんだったのかということ。彼、彼女らの無念はどうすればいいのかということ。
不起訴になった人たちがすぐ釈放されて一般社会に出るかというとそんなことはなくて、そのほぼ全員が措置入院、あるいは監督下に置かれることになる訳だが、それでも一生そのままかというとそういうことでもない。
もちろん、大変な罪を犯してしまったけれども治療に励み、周囲の助けもあって人としてやり直せた人もいるはずだ。一人でもそういう人がいるならば、やはり人間というものを信じたい気持ちもある。
しかし一方で、人としての善悪の判断もできないのであるならば、それはそもそも人なのか、という植松的思考に取り憑かれそうになることもある。危険極まりない。その度に私はこのように驕り高ぶる私こそが、人ではないのではないかと考える。
一生外に出さないで。犯罪者にも人権はあるのでは?病院でずっと隔離すれば無期懲役と同じで結果的に罰を与えているようにもなるし問題ないのでは?でも治ったら?でもまた病気になったら?そしてまた事件を起こしたら?閉じ込めておけばその事件は、その人が死ぬことはなかったのでは?でもその人だって好きでそうなった訳じゃない。本人も苦しんでいるのでは?でもそれで被害に遭った人に、家族に「運が悪かったんだよ」「忘れるしかない」「加害者にも人権が」なんて言える?でも死んだ人は戻ってこないよ?
どの考えも一理あって、でも不完全で、だからいつまで経っても答えなんか出るわけがない。
いや、答えを出してはいけないのか。
大切なのは、答えが出ないとわかっていても、議論し、考え続けていくことなのだろうか。
けれど何度も言うけれど、被害者を置き去りにした上での差別のない社会、成熟した社会、そんなものはいらない。
それでも生きてゆく
ところで最後に紹介した札幌の事件には別の話がある。
昭和56年、この瑤子さんの事件が起きた地下鉄の駅にほど近い国鉄(当時)の琴似駅前のイトーヨーカドー裏の駐車場付近で、幼い息子を連れた買い物帰りの当時36歳の男性が、何者かに胸を刺されて死亡した事件が起きていた。
瑤子さんの事件が起きた際、未解決だったこの事件についても関連性が囁かれていたのだ。
ただ、目撃者が当時8つと4つの幼い兄弟だったこと、兄弟のうち犯人の顔を見たのがお兄ちゃんだけだったことで犯人についての情報は非常に少なかった。
そして、そのお兄ちゃんの証言を元に犯人の似顔絵を作成しようにも、何度描いてもその顔が「大好きなお父さん」の顔になってしまうのだった。
捜査員らは皆、そのお兄ちゃんの心の傷を思い、涙したという。
その事件から8年後、瑤子さんの事件が起きた。
ただ、瑤子さんを刺した男が不起訴となったこともあるのか、それとも全く無関係だったのかはわからないが、この昭和56年の事件はその後平成8年に時効が成立した。
殺害された男性の家族は、みんなで道東の親族方へ身を寄せたという。時効成立の折、取材に訪れた北海道新聞社に対して、親族が代わりに応対した。
「何も話すことはありません。そっとしておいてやってください。」
当然の対応であろう。しかし、最後にこう付け加えた。
「ただ、みんな元気です。」
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参考文献
毎日新聞社 昭和63年4月4日東京朝刊、平成2年4月27日東京朝刊
読売新聞社 昭和63年4月4日東京朝刊、平成2年2月18日東京朝刊
朝日新聞社 昭和63年4月4日、6月8日東京朝刊
北海道新聞社 平成元年8月1日、平成2年2月18日、平成8年5月30日朝刊全道、平成元年8月14日、平成5年3月18日夕刊全道
中日新聞社 平成2年2月18日朝刊、2月26日夕刊