片隅の記録~三面記事を追ってpart5~

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名古屋市名東区のDV無理心中事件

平成21年5月22日早朝。110番通報によって駆けつけた名東署員は、その家の寝室で女性が血まみれで倒れ、かつ、クローゼットの中では男性が首を吊っているのを見つけた。

室内には血の付いた包丁。通報は、この家の18歳になる長女からで、「お父さんが警察を呼べと言っている」というものだった。
状況から、クローゼットで死亡していた男性が女性を刃物で刺した後に首吊り自殺を図ったとされた。

死亡していたのは、この家に暮らす飲食店経営・大久保洋平さん(仮名/当時42歳)と、その妻で主婦の香織さん(当時38歳)。
解剖の結果、香織さんの死因は失血死だった。

子供3人とともに暮らすこの夫婦、この家族に何が起きていたのか。

実は香織さんは、夫の洋平さんからDVを受けていたのだ。

そのDVが周知の事実となったのは事件が起きる約1か月前。平成21年4月16日、洋平さんは車で香織さんを連れまわし、挙句、アイスピックで胸を突き刺し怪我をさせていた。
命の危険を感じた香織さんは、被害届を提出。名東署も危険性が高いと判断し、すぐさま洋平さんに対して逮捕状を取った。香織さんが子を持つ母親であることから、それこそ逆上した洋平さんに子供たちが危険にさらされる可能性も考え、児相と連携して一時保護の手続きも完了していた。

あとは洋平さんを逮捕するだけ、という、逮捕状が出た夜のこと。洋平さんが自ら出頭してきた。
ただ、その出頭理由は「覚せい剤使用」だった。念のため検査をしたところ、陽性反応が出たことで覚せい剤取締法違反で逮捕となったが、洋平さんが逮捕されたことを知った香織さんは、不要になったと思ったのか被害届を取り下げた。

ようやく、夫の暴力から逃れられる。ただ、香織さんの胸中は複雑な感情が巡り巡っていたという。

「殺されるかもしれない」

逮捕されたとはいえ、一生刑務所に入っているわけではないし、なにより子供たちの父親であることに変わりはなかった。もしかすると香織さん自身にも、洋平さんに対しての愛情が残っていたのかもしれない。
香織さんは拘留中の洋平さんのもとを計4回、面会に訪れたという。警察署で、人の目があるということや、香織さんの当時の居場所が一時的に避難している場所だったことから、安心感が先に来たのかもしれない。

5月、飲食店を経営していた洋平さんは、仕事のこともあって弁護人を通じ、保釈の申請を行った。検察は香織さんに対する暴力を知っていたことで却下を求めたが、5月20日、名古屋地裁豊橋支部は保釈を認めた。

洋平さんを迎えに来たのは、香織さんだった。そしてその2日後、ふたりは死亡した。

弁護人が保釈申請を行ったのは職務上致し方ないことでもあり、また、裁判所が保釈を認めたことも、香織さんが被害届を取り下げていたり、面会に訪れていたこと、そして、身元引受人になっていたことなどからも、その判断が軽率だったと言い切れるものか微妙なところだろう。

香織さんとて、すすんで身元引受人になったわけではない。弁護人に説得されての、引き受けだったという。

香織さんがどれほど悩み抜いたか、想像を絶する。引き受ければ、またあの暴力に怯える日々が始まるかもしれない。かといって身元引受を拒めば、それこそどんな仕返しが待っているかわからない。どうやっても、子供たちにとっては父親なのだ。
加えて、香織さんは主婦だったことも関係しているように思う。経済的には夫洋平さんに頼る部分が大きかったろうし、自分さえ我慢していれば、という思いがよぎった可能性は低くない。

それにしても洋平さんはなぜ、香織さんへのDVではなく、発覚すらしていない覚せい剤使用で出頭したのか。
香織さんがそれを受けて被害届を取り下げたのもひっかかる。
香織さんはアイスピックでケガを負わされた後、自宅ではない別の場所で身を守っていた。だからこそ、「居場所を知られたら殺される」と周囲の人に話していた。

謎の出頭は、香織さんをおびき出すため、というか、香織さんと再び接点を持つため、保釈申請は香織さんと心中するためだとするのは、考え過ぎだろうか。

もう、誰にもわからない。

ダムに浮いた主婦・愛媛ゴミ袋詰め遺体事件

愛媛県東宇和郡(現:西予市)野村町の野村ダム湖畔に、その黒ゴミ袋が浮かんでいるのは多くの人が見ていた。
流れもほとんどなく、それ以外にも流れてきた発泡スチロールなどの大きめのゴミがたまっていることは珍しくなかったからだ。
平成10年3月のその日も、ダムの湖畔には釣りを楽しむ人、工事作業をする人、散歩をする人らの姿があった。

ふと、その黒いごみ袋をある釣り客が竿の先でつついてみたという。中には結構、大きなものが入っているような印象のそのごみ袋を、何度かつついた。

袋が破れた拍子に、中から「なにか」がはみ出した。

それは、明らかに人の指だった。

行方不明の主婦

遺体は腐敗が進んでいたが、年齢50歳くらいの小柄な女性とわかった。目立った外傷はなく、服も身に着けており、足を折曲げ手を後ろ手に縛られる格好で二重にしたゴミ袋に入れられていた。
発見当時はうつぶせで浮いており、釣り人がつついた裂け目がちょうど後ろ手にされた手の辺りだったことで、指がのぞいたのだった。

野村ダムのある町は人口より牛の方が多いと揶揄されるような田舎であり、また、ダムに通じる川の流れも緩やかで、支流も少ないことからごく近い場所で遺棄されたとみられていた。
しかし、その町内で行方不明になった女性の話などはなく、また不審な車なども目撃されておらず、身元の特定がどうなるか、と思われたが、身元はあっさり割れた。
隣の宇和町内で、2月4日から行方が分からなくなっている50代の主婦と、歯型が一致したのだ。

ゴミ袋の遺体は、宇和町在住の主婦・横山史子さん(当時52歳)。
史子さんは愛媛県南部の宇和島市の出身。約10年ほど前に、夫の拓さん(当時78歳)と宇和町へ越してきた。
拓さんは油絵を嗜み、史子さんも茶道に詳しくお茶会などを開いたりしていたという。

2月4日、その日は朝から拓さんはゴルフコンペへと出かけていたが、午後3時過ぎに帰宅した際、いつもならいるはずの史子さんの姿はなく、玄関も鍵が閉まっていたという。
別の証言もあった。史子さん宅は生協の配達場所に指定されており、その日も配達の日だったというが、指定の午後1時45分頃に担当者が史子さん宅に到着した時、史子さんが不在だったという。
午後2時まで待ってみたものの、史子さんが帰宅しなかったことで担当者は荷物をガレージ前において次の配達場所へと向かった。
通常なら時間までに外で待っていたり、荷下ろしに気づいて家の中から出てきてくれたといい、もし家の中にいたとしたら出てこないのは不自然だった。

一方で、史子さんを知る主婦仲間の間では気になる話も聞かれた。
年末くらいから、史子さんが何やらふさぎ込んでいるように見えたというのだ。大切にしていたお茶の道具も処分した、という話を聞いた人もいた。

さらに、史子さんがいなくなった日の午前中、町内の銀行窓口に史子さん名義の預金通帳を持った女性が訪れ、十数万円を引き出していたことも分かった。
ただ時間が経っていたことで防犯カメラが上書きされていたのか、窓口の行員が覚えていたこと、そして預金の払い戻し票しか情報がなく、その筆跡も史子さんと一致しているかどうかの判断もすぐには出来そうになかった。

事件から5か月、捜査は杳として進まず、季節は夏へと移り変わっていった。

そして、7月14日、衝撃の事態が起こる。
夫の拓さんが自宅で首をつって自殺していたのだ。

「死の抗議しかありません」

拓さんは自宅に遺書を残していたが、同じものを愛媛新聞社にも署名入りで郵送していた。
遺書は13日付で、県警本部長あて。便せん2枚に書かれたその最後には、拓さんの署名と押印があった。ほかには、長男あてのものもあり、そこには「史子のもとへ行く」と記されてあった。

拓さんは疲れ果てていた。捜査が進まない中、拓さんの耳にはいろいろな情報や噂が入るようになっていた。
小さな田舎町で突如起こった殺人死体遺棄事件。被害者は52歳の主婦で、唯一の接触者は夫。その夫との間に20歳以上の年の差があり、二人ともこの地に越してきたのは10年程度。
当初こそ、積極的に地元の催しにも参加したが、年齢のこともあり最近では限られた付き合いしかしていなかったのは事実だ。
捜索願を出すのが遅くなったのも要因だった。拓さんにしてみれば、いい年をした大人のことで、大騒ぎしては後々史子さんが気まずい思いをするかもしれないと思ってのことだったかもしれない。帰ってくると思ったからこそのことだった。
それでも、失踪直後の2月5日には史子さんの親戚に事の次第を報告していた。
しかし、世間はそうは見なかったし、おそらく警察も、どうして20日も経ってからの捜索願だったのか、は、無視できないことだったのかもしれない。

夫婦の仲は外からはわからない。にもかかわらず、根も葉もないことを色々な偶然に結び付け、面白おかしく噂され、挙句、最近では警察も拓さんに疑いをかけているかのように思われていた。

「何のいさかいもない至極平和で落ち着いた家庭だった。それを、いかにもトラブルがあるかのごとく修飾されて、他に犯人の該当者が見当たらないというだけで、私に嫌疑をかけることは、あまりにも理不尽なやり方というしかありません」

「心身ともに限界に達しました。ここに至っては、なすすべとして死の抗議しかありません」(愛媛新聞 平成10年7月15日付)

別居している長男によれば、

「父は『警察の上司が机上で考えて、私を犯人と決めつけている。何度言っても信用されない』と漏らしていた。任意といいながら、午前八時から翌日午前一時まで続いたとも聞いている。分かってくれない県警幹部に抗議したかったのではないか」(同上)

ということだったが、同時に拓さんは「絶対に負けない」と、身の潔白を涙ながらに訴えていた。

捜査は完全に行き詰った。
犯人は今も分からない。そして、史子さんが殺害されて捨てられたこと、拓さんが無念の死を遂げたことだけが残った。

石川の放火殺人と、公訴棄却のための控訴

平成10年4月1日未明、石川県小松市にあるアパートの一部屋が全焼した。この火災で、その部屋に住んでいる田村政昭さん(当時68歳)が顔などにやけどを負って病院へ搬送された。
一方、焼け跡からは成人の焼死体が発見されていた。調べで、政昭さんと同居していた田村三佐さん(当時60歳)と連絡が取れていないことから、遺体は三佐さんである可能性が高かった。

ところが後の司法解剖において、三佐さんの着衣と、三佐さんの下に敷かれていた布団から灯油の成分が検出されたこと、さらには三佐さんの死因が首を絞められたことによる窒息死だったことも判明し、何者かが三佐さんを殺害後、遺体に灯油をかけて火を放ったとみられた。

当然ながら、入院中の政昭さんにも事情を聴くこととなったが、その後の任意の聴取の中で、政昭さんが火をつけたことを仄めかしたことで現住建造物放火の疑いで政昭さんを逮捕した。

ただ、逮捕されたのは「浦田喜弘」という男だった。田村政昭、という名は、偽名だった。

調べによると浦田は10年前から三佐さんと内縁関係にあり、ふたりつつましく生活を送って来ていたという。
ところが自らが高齢となり、生活が少しずつ苦しくなってきたことで、将来への不安が漠然と二人を包み始めた。
仕事もやる気はあったが、年齢的になかなか職に就くことが難しくなっていた。

そこで、浦田は自殺を考えるようになる。その延長線上で、三佐さんを置いていくこともできないと思い、三佐さんと一緒に死ぬことにしたのだという。

浦田は放火について、「焼身自殺を図るためで、アパートを燃やそうと思ったわけではない」とし、さらには三佐さんから殺害について同意があったと主張した。

弁護人は公判で放火の罪については争わないとし、三佐さんは殺害されることに同意しており、本人も18リットルの灯油を頭からかぶっていたことなどを挙げ、放火についても心神喪失もしくは耗弱の状態にあったと訴えた。

金沢地裁は、浦田の主張する同意殺人について、浦田が同意を得たと「思い込んだ可能性」はあるとしても、三佐さんの遺体に抵抗した痕跡があったことから同意を得ていたとは言えないとし、精神状態についても完全責任能力を認め、懲役10年の判決(求刑懲役12年)を言い渡した。

判決言い渡しから10日経った12月末、金沢地検は名古屋高裁金沢支部に控訴の手続きを取った。
求刑懲役2年に対し、判決は懲役10年。責任能力も認められ、三佐さんが同意していたという浦田と弁護人の主張も裁判所は一切認めなかった。検察からすれば、100点に近い勝利だったと思われたが、実はこの控訴には、事情があった。

浦田は一審判決を言い渡された5日後に、拘置所で死亡していたのだ。
年齢とやけどによってすでにかなり衰弱していた浦田は、公判時には体重が30キロ台にまで落ち込み、自立歩行すら困難な状態になっていた。法廷には医務官が付き添っていたという。
浦田は死亡するまでに控訴手続きを取っていなかったため、このまま検察が控訴しなければ一審の懲役10年が確定することになる。
検察は、それを良しとしなかった。検察は24日までに公訴棄却を求めて控訴した。

金沢地検の山口晴夫次席検事は、

「前科は死者に適用するものではなく、公益の代表者として公訴棄却の決定を求めた」(北國新聞社 平成10年12月25日付朝刊)

と控訴理由を述べた。
簡単に言うと、すでに死亡した浦田が、控訴審を受けることができないまま前科がついてしまうことへ配慮した、ということだ。公訴棄却となれば、その事態は避けられる。

浦田は最後まで、

「三左と暮らした十年間は幸せだった。三左の幸せを奪ったとは思わない。私が自殺すれば三左が一人になるのだから、私が連れて行くしかなかった」(同上)

と主張を曲げなかった。

三佐さんの気持ちはどうだったろうか。

愛を乞う人part3~北海道・16歳少女の物語~

その少女のそれまでを知って、警察関係者も言葉をなくした。
同居する母親の再婚相手と覚せい剤を使用したとして覚せい剤取締法違反で逮捕されたのは16歳の無職少女だった。

関係者らは、その生育環境のひどさもあって何とか少女に健全な居場所を作ろうともしたが、事態は思わぬ方向へ動いた。

間違っていても、本人にどれほどの害悪であろうとも、それまでよりましだったとしたら。それを愛だと信じて疑わなかったら。

逮捕まで

少女に覚せい剤を打ったのは、母親(当時42歳)の再婚相手で無職の男(当時35歳)。少女と一緒に逮捕された。

母親は少女のほかにも何人か子供がいたようだが、そのいずれも父親が誰なのかわからないといった有様で、当時もその子供らの影が一切ないことから、すでに独立しているか、施設などで生活していたと思われる。

少女は母親と道南で生活していたが、平成20年ころに母親が覚せい剤使用で逮捕されたことを機に、児童自立支援施設に保護されていた。
母親は執行猶予が付いたというが、児相は少女を母親のもとには帰さなかった。

ところが平成23年2月になって、少女の方から実母との同居を望んだことから、札幌市内のマンションで生活をするようになった。
母親はすでに再婚していて、再婚相手の男との3人での生活だった。

そんな中で、覚せい剤から抜け出せていなかった母親はまた覚醒剤に手を出すようになる。
再婚相手の男も、常習者だった。

平成23年6月ころ、少女は母親の再婚相手から覚せい剤を注射された。効き目が切れると、また打たれた。

以降、暴力団関係者の売人のもとへ再婚相手の男と通った。男は一度、覚せい剤使用からくる幻覚などで病院を受診したが、その際覚せい剤の使用は判明しなかったという。

そして8月、少女と母親の再婚相手は覚せい剤使用で逮捕された。

逮捕当時、母親はマンションを出て函館市内で生活保護を受けながら精神科に通っていたという。少女のことは、知人を通じて
「病気のために引き取ってあげられない。あのまま男と一緒に住んでいると覚せい剤を打つ金欲しさに悪いことをしてしまうから、一緒に暮らしてほしくない」
といった内容を伝えて、少女を気遣う一面を見せていたという。
覚醒剤に溺れ、それでも母はまず自分を立て直し、そしてもう一度娘とやり直そうと思っていたのだろうか。

結果から言うと、諸悪の根源はこの母親だった。

最凶の母親

少女の取り調べが進む中で、その少女が味わった虐待などという言葉では言い表せられない、この世の地獄とも言える日常が明らかになっていった。

少女の母親がポン中のとんでもない女ということは先にも述べたが、実は少女に覚せい剤を打つよう勧めたのは、この母親だったのだ。
少女は児童自立支援施設で薬物に関することを学んでおり、本当は嫌だったというが、母親に逆らえなかったと話した。

そう、少女は母に逆らえなかった、昔から。

少女は小学6年生の時、母親に命じられ生活費や覚せい剤を買う金を工面するようになった。働くこともできない11~2歳の女児がどうやって覚せい剤を買う金を作るのか。
売春、それしかなかった。

母親にそれとなく指示され、少女は自ら出会い系サイトにアクセス、相手を探して1万円で自分を売った。その1万円は、母親に取り上げられた。金がなくなると、母親から「やってこい」と命令されることもあった。
中学生になってからも、学校にはほとんど行かなかった。その間も、母親に言われるがまま売春させられた。相手は出会い系のこともあれば、母親の知人の男をあてがわれることもあった。
その、母親の知人男性との売春で、少女は妊娠した。中絶した後も、また妊娠し、計2回の中絶を経験した。

母親の逮捕で一時は自立支援施設で「普通」を取り戻しかけたが、結局、自立支援施設を出て母親の元へ戻った後も、中学に通うことは少女自身も望まず、高校進学もしなかった。

これまでの間で、売春させられていることは外部に知られていなかった。
それは当然、少女が誰にも言えずにいたからだが、正確には少し違っていた。

少女は、自分の生い立ちについて、「虐待されている」認識がなかったのだ。だから、助けを求めようとも、思わなかったのだ。

それほどまでに、物心ついたときから、少女にとって覚せい剤も暴力も性的虐待も、「日常」だったのだ。

少女の母親は知人を通じて自分のしたことをまるで忘れたかのような言い分を伝えてきてはいたが、逮捕すらされていないにもかかわらず、少女に面会に来ることはなかった。

一方で、一緒に逮捕された養父からは、逮捕後の生活を気遣う手紙が届いていたという。

いびつな絆

少女は母親のこともことさらに悪く言うことはなかったが、母親の再婚相手の男(以降、養父)についてはさらに強い感情を見せていた。

それは捜査段階から捜査関係者らにも伝わるほどで、まだ少女の処遇が決まっていない時点でも、「このままでは養父と再び同居することになるのでは」という心配が広まっていた。

少女はこの養父のことを、「優しくて自分の話をちゃんと聞いてくれる」大人だとして、全幅の信頼を、いやそれ以上を寄せていた。
養父の覚せい剤取締法違反の裁判においても、少女の調書が読み上げられたが、養父は自分が覚せい剤を打つ時は私にも「打ってくれた」と話すなど、覚せい剤の使用を勧める大人がどれほど害悪か、全く理解できていなかった。

少女は幼いころから周囲に入れ代わり立ち代わり、大人の男の存在があった。しかもその男たちは暴力団関係者や覚せい剤の売人など探してもなかなか巡り合わない連中ばかりだった。
その経験というか日常は、売春という本来ならばエベレスト級に高くそびえたつハードルであるにもかかわらず、わずか12歳がやすやすと乗り越えられた要因にもなった。
そうであったとは言わないが、売春するまでもなく、そのような性的虐待がそれまでに起きていたとしても不思議ではない。そしてそれについて、少女に虐待されているという意識がない。だから、周囲は全くそれに気づかなかった。

そんな中で、養父はどこか少女にとっては違っていたのだろう。

やっていることはクソでしかないが、この少女にとってはたとえ覚せい剤を打ってくる養父であっても、おそらくそれ以外の大人や社会よりは、自分にとってかけがえのない存在だったのだろう。

養父も同じで、裁判でも出所後はもう一度、少女と親子として生活したいと話した。少女もまた、「養父と同居したい」と話し、それを函館で暮らす母親にも伝えていた。

その少女の想いは強烈だった。
少女には平成23年9月に札幌家裁で中等少年院送致の決定がなされていたが、少女は抗告。
理由は、「1日でも早く養父と同居を再開したい」という思いがあったという。少女の付添人弁護士が一切取材に応じないのも、おそらく少女の気持ちに寄り添いたい一方で、大人としての正しい判断との間で複雑な思いがあったからではないかと思われる。

誰がそんなの認めるか。ダメに決まっている。どう考えても、少女は養父と母親のそばに居てはいけない。誰だってそう思うだろう。
まだ16歳、適切な環境で生活し、本来の16歳としてこれからを生きていくことの方が大事に決まっている。
このまま養父と生活しても、先が見えているではないか。そもそも、親としても責務を果たすことなどこの養父にできようはずがないのは明白だった。

当然ながら、札幌高裁は抗告を棄却。
少女の中等少年院送致の決定は確定した。

愛を乞う人

この事件の一連を読み込んでいくうちに、過去に事件備忘録で取り上げたある事件の関係者の女性による手記を思わずにいられなかった。

事件備忘録初、関係者による告白だったが、私はその事件もさりながら、その、当時中学生だった女性の想いが私の体を切り刻むほどの痛みと、切なさを感じずにいられなかった。
今でも、何度読み返しても、その痛みは何度も襲ってくる。

彼女も、複雑な家庭に育ち、とても健全とは言い難い日常を送っていた。そしてこの北海道の16歳の少女と同じように、大人の男と出会った。
男はあの養父と同じように覚せい剤を打っていた。彼女も中学生だったが、染まっていった。

害悪極まりない。絶対に一緒に居てはいけない大人の男である。
しかし、彼女にとっては、かけがえのない人だった。

その後の男の人生は荒ぶる魂そのもので、ある意味、自分らしい最期を遂げた。

男と離れた彼女はその後、大人の女性になり、事件備忘録に対して手記を寄せてくれた。これは事件備忘録の宝である。

北海道の少女がその後、養父と同居を再開「できた」かどうかはわからない。関係者はあの手この手で引き離そうとするだろうが、一応、養父である。しかも、養父が出所する頃(懲役1年8月)には少女は18歳を超えている可能性が高い。

少女はいずれ、少女ではなくなる。

少女は養父に何を求めたのだろう。父親を知らずに育ったせい?醜悪な大人ばかりの中で生きてきたせい?
誰もが眉を顰めるどころか、絶句するような日常の中で生き抜いてきた少女にとっては、それでも少女の人生の中で養父は、奪うのではなく与えてくれる人だったのかもしれない。

たとえ間違っていても、その先に命にかかわるバッドエンドしか見えなくても。

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参考文献

読売新聞社 平成10年3月16日大阪朝刊、平成21年5月23日中部朝刊、平成23年9月20日、21日、10月14日東京夕刊、22日、23日、10月1日、9日、13日東京朝刊、
朝日新聞社 平成10年3月17日大阪地方版/愛媛、4月11日大阪地方版/石川、平成21年6月27日名古屋朝刊、平成23年9月23日、11月15日北海道朝刊
愛媛新聞社 平成10年3月17日、18日、19日、22日、27日、4月14日、7月15日、16日朝刊
北國新聞社 平成10年4月4日、6月3日、7月29日、12月25日朝刊、10月21日、12月9日夕刊