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平成元年1月22日午後零時半。
東京都荒川区町屋の隅田川河川敷管理道路の側溝に、男性らしき遺体があるのが発見された。
遺体は頭部に激しく殴られたような跡があったことから警視庁捜査一課は殺人・死体遺棄事件と断定。管轄の尾久署に捜査本部を置いた。
遺体の身元はすぐに割れた。
荒川区の男性が16日から行方不明になっており、妻が捜索願を出していたのだ。
逮捕された男
殺害されていたのは、荒川区町屋6丁目の保立紋一さん(当時35歳)。保立さんはトラックのドライバーをしており、昨年の11月ころに茨城から東京に家族で引っ越してきていた。
捜索願を出した妻によると、保立さんは16日の午前、パチンコに行ってくると言って家を出て、その後行方が分からなくなったいた。
そして22日に発見された他殺体が、保立さんと確認された。
遺体は服を着ており、そのズボンのポケットには財布が入っていたが中身は空だったという。
現場の状況などから当初は強盗殺人の可能性も視野に捜査が行われていたが、警察はある情報を掴んでいた。
保立さんはトラック運転手だったが、そのトラックのタイヤがパンクさせられていたり、ボルトが緩められるなどの危険な嫌がらせを受けていたというのだ。
警察が関係者らに聞き込みを行ったところ、さらに意外な事実が浮かび上がってきた。
保立さんの妻には、不倫相手がいたのだ。
警察はその情報をもとに保立さんの妻に話を聞いた。すると、不倫を認めたうえで、「実は……」と話し始めた。
妻は夫を殺害した犯人を知っていた。それは予測ではなく、保立さんが行方不明になっていた17日の早朝、その不倫相手が家に来て、
「とうとうやっちゃった」
と犯行を告白していたというのだ。
警察はすぐさまその不倫相手宅へ急行。23日の明け方に帰宅した不倫相手の男に事情を聞いたところ、保立さん殺害を認めたために逮捕した。
同情しあうふたり
保立さんを殺害し、遺棄したとして逮捕されたのは青森県出身のトラック運転手、小山晴彦(仮名/当時39歳)。
小山は地元の中学を卒業後、大工見習を経て昭和43年ころから青森や茨城を中心に大工として働いていた。
昭和47年には青森で結婚、一男一女にも恵まれた。
ところが、知人の債務を保証した関係で借金を重ねてしまい、経済的な不安が家庭を襲う。時を同じくして、小山の妻が体調を崩し、それらが原因で夫婦仲が悪くなってしまったという。
結局、昭和61年には離婚となり、その後は単身で茨城県内の木工所で勤務していた。
そこでパート従業員として勤務していたのが、保立さんの妻だった。
保立さん夫婦も、夫婦仲が良いとは言えない状況にあった。
茨城県で生まれた妻は、バスの車掌をしていた際に保立さんと知り合い、その後結婚して保立さんの両親と同居、3人の娘をもうけた。
保立さんの実家の家業は農業で、子育てと農作業に追われる日々だったというが、夫である保立さんはあまり家事や育児に協力的ではなかった。
加えて、義両親との同居も妻にとっては非常にしんどいものだったという。
そのような不満を抱えていた保立さんの妻と小山は、職場でなにかと話をするうちにお互いに対して同情心が芽生えた。
そしてそれが不倫へ発展するのに時間はかからなかった。
駆け落ちする妻
不倫へと舵を切ったふたりは、その後読んで字のごとく「暴走」し始めた。
保立さんが仕事のために早朝から家を空けた際には、なんと保立家に小山が入り浸るようになった。
ちなみにこの時点では保立家は義両親と同居しているのだ。義両親も農作業のために早朝から家を出ていた可能性はあるが、昭和62年の夏以降は保立家の夫婦の寝室が不倫の現場となっていた。
昭和63年夏、いつものように保立家に忍び込んだ小山だったが、なんと保立さんに見つかってしまう。
仕事に出た保立さんが何らかの理由で戻ってきて鉢合わせた可能性もあるが、資料によれば小山はその時押し入れに隠れていたのを発見されたというので、もしかするとこの頃には保立さんが在宅しているときから忍び込み、押し入れなどに隠れて保立さんが出かけるのを見計らっていた可能性もある。
ともあれ、小山は保立さんから殴られ、柱に顔面をぶつけられるなどの鉄拳制裁を受けた。
そして、この時点で妻の不倫もバレてしまったわけだが、妻はこの一件によって保立さんと離婚する決意を固めた。
そして妻が取った行動は、子供3人を連れて小山と共に駆け落ちするというものだった。
行先は小山の故郷でもある青森。八戸市内にアパートを借りた小山と保立さんの妻(娘3人)は、保立さんが追いかけてくることに怯えながらも、とりあえず新しい生活をスタートさせた。小山もトラック運転手として働き始めていた。
ところが駆け落ちは2カ月で終わる。
保立さんに居場所を突き止められたのだ。おそらく子供たちの学校の関係で青森へ逃げたことが判明し、ということだと思うが、突然現れた夫を前に、妻と小山は身構えた。
しかしそこで保立さんは、怒るでもなく、ただひたすら涙ながらに妻に対し、もう一度やり直そう、と語り掛けたという。
それを見た妻は、ほだされてしまった。
あっけにとられる小山をよそに娘を連れて茨城へ帰るという妻を、小山はどんな思いで見送ったのか。
保立さん一家はその後、義両親との同居も解消。妻の負担を軽くすべく、一家5人で東京へ出て、心機一転、生活をスタートさせた。保立さんも長距離のトラックドライバーとして仕事を始めていた。
しかし小山は諦めていなかった。
まさかの展開
保立さんと妻が茨城へ帰っても、小山の保立さんの妻への愛情は失せることはなかった。
また、小山は保立さんから鉄拳制裁を受けた際の後遺症に悩んでいた。そしてそれは保立さんへの恨みへと変化していく。
一方の保立さんの妻はというと、こちらも小山への愛情を募らせていた。
夫である保立さんが同居を解消し、心機一転家族での出直しを図ろうと努力しているのをよそに、なんとか小山と一緒になりたい、そういう思いは抱き続けていたという。
青森と東京。今のようにLINEも携帯電話もない時代、その距離は二人の間にたしかに立ちはだかったが、お互いの情熱を高める手助けもした。
わずかな逢瀬を重ねながら、小山は次第に保立さんへの憎しみを強めていった。そして、離婚できないのはすべて保立さんの存在があるからであり、こうなった以上は保立さんを亡き者にしなければ、二人が一緒になることはない、そう思うまでになっていた。
そして昭和が終わって平成に移り変わったころには、その考えはゆるぎないものになっていた。
平成元年1月11日、小山は上京。保立さんの仕事のトラックのタイヤに細工をするなどして事故を誘発させようとしたがことごとく失敗。
ひいては直接殺害するしかないと思い、1月14日の午後10時ころ、外出した保立さんを尾行し、強盗に見せかけて殺害するに至った。
……というのが当初の小山の自供だった。
が、警察は1月24日、保立さんを「殺害した」として妻も逮捕したのだった。
首謀者
逮捕されたのは保立さんの妻、奈美子(仮名/当時36歳)。
小山によれば、保立さん殺害を発案したのは奈美子であり、奈美子からの依頼があって殺人に及んだという。しかも、保立さんを殺害した現場には奈美子が居合わせ、ふたりで協力して保立さんにとどめを刺していた。
不倫相手に並々ならぬ執着心を持っていたのは実は奈美子の方だった。
青森へ駆け落ちした後、情にほだされて夫の元に戻ったものの、やはり小山との日々を忘れることは出来なかった。
かえって、現実に引き戻されてからは保立さんのことを自分と小山を引き裂いた張本人として恨むようになっていた。
昭和63年11月下旬ころからは、電話で話をした際、小山に対し保立さん殺害をほのめかすようになる。そして、小山にもそれに協力するよう説得をし始めた。
小山も確かに保立さんが邪魔だった。死んでくれればどんなにいいかと思っていた。しかし自ら手を下して殺害するとなると話は別だった。
奈美子のことは諦めきれないが、だからといって殺すというのは躊躇せざるを得なかった。
しかし電話のたびに奈美子から辛い日々を訴えられ続ける中で、小山も次第にそうまで言うならという気持ちに傾いていった。
そして、12月に小山が上京した際には、保立さん殺害計画が二人の間で練られたのだった。
もちろん、最終的にはふたりが一緒になることが目的であるから、あくまでも事故死という形が理想だったのは言うまでもない。
ふたりは保立さんにネコイラズ(殺鼠剤)を混ぜた食事を与える、入浴中に感電死させる、トラックのタイヤに細工して事故を起こさせるなどといった方法を考え、実際に水を張った浴槽に金魚を入れ、感電するかの実験までしていた。
1月12日から14日にかけて、思いついた方法を片っ端から試していったというが、いずれも事前に保立さんが気づくなどして失敗に終わってしまった。
残る方法はただ一つ。
ふたりは保立さんが強盗に襲われて死亡したと偽装することを決めた。
娘が眠るその横で
1月14日、小山は鉄パイプ数本を手に密かに保立さん方を訪れると、その勝手口付近で午後7時頃から待機していた。
そして午後10時、保立さんが寝入ったのを確認した奈美子の誘導で室内に入ると、二人はその場で視線を交わし合い、小山が寝ている保立さんの頭部を鉄パイプで殴打した。
うつ伏せで寝ていた保立さんの後頭部を数回殴打したものの、保立さんはすぐには死ななかったという。
小山は狼狽えた。ここへきて憎悪よりも恐怖心が勝ったのか。
「まだ死んでない。ちゃんとやってよ!」
奈美子の叱咤が飛び、小山は何度も何度も鉄パイプを振り下ろしたが、それでも保立さんの呻き声は止まなかった。
奈美子は埒があかないと踏んだのか、撲殺ではなく絞殺に切り替えた。洗濯物干し用のビニール紐を持ってくると、その片方を小山に渡し、二人して保立さんの首を絞めた。
さらにコタツ用の電気コードも巻き付け、それも二人で引っ張りあって、今度こそ、保立さんを絶命させたのだった。
二人はその後、血液が付着したカーペットを処分し、一旦保立さんの遺体を室内の隠していた。この辺りの情報はないが、もしかすると当初は自宅に強盗が入ったように見せかける予定だったのかも知れない。
が、それでは奈美子に疑いの目が向くと考えたのか、やはり屋外で偶然に強盗にあったように見せかける方が良いと考えたのか、二人は17日になって保立さんの遺体を外に運び出した。
そして保立さんの遺体を毛布に包むと、尾久変電所裏の隅田川管理用道路の側溝に落とし込んだ。
この時、遺体の運搬に使用したのは奈美子のママチャリだった。
東京地方裁判所は両被告に対し、その動機は短絡的、自己中心的で悪質と厳しく非難した。
小山は本来気弱な男だったという。それが、自分の身勝手を棚に上げ、保立さんに一方的な恨みを募らせた挙句、寝込みを襲うという卑怯な方法で殺害するなど確かに気弱な男の末路という気がしないでもない。
奈美子についても、確かに保立さんにも夫として反省すべき点があったのは否めないにしても、なぜ離婚ではなく殺害になってしまうのか。
奈美子には娘が三人おり、離婚となればその娘たちを手放さなければならないという思いもあったのかもしれない。
駆け落ちした際にも、本来足手纏いでしかないはずの子供を全員連れていっているところからも、そこがネックで離婚という選択肢を取れなかったのかもしれない。
犯行の夜、子供たちは前もって妹の家に預けていた。そのあたりからも、子供たちのことは大切に思う母親という一面は窺えなくはないが、実際はそうではなかった。
あの夜、小山が誘導されて入った部屋には、もう一人いたのだ。
当時3歳の、末娘だった。預けていたのは上の娘二人だったのだ。
奈美子は愛すべき小さな娘がすやすやと寝息を立てるその横で、その娘の父親を愛人に殺させたのだ。
しかも、母親である奈美子自身も、その殺しに最終的には直接手を下した。
一緒になるためには殺人も厭わなかった二人だったが、警察の手が迫った途端、手のひら返しも早かった。
奈美子は小山に全てを押し付け、小山はそれを知って奈美子の主導をぶちまけた。あの境町の事件と似ている。
東京地方裁判所は小山に懲役13年、奈美子に懲役15年を言い渡した。
奈美子は起訴された後、保立家とは姻族終了届をだした。娘たちがどうなったのかはわからない。
自宅の寝室で、父親の隣で安心しきって眠っていた3歳の娘は、そのとき、どんな夢を見ていたろうか。
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参考文献
朝日新聞社 平成元年1月23日東京朝刊
毎日新聞社 平成元年1月23日、24日東京朝刊
読売新聞社 平成元年1月23日、2月9日東京夕刊、1月24日東京朝刊
NHKニュース 平成元年7月4日