私を捨てるなら、死んで。~木更津年下夫殺害遺棄事件~

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平成15年10月8日午前。

母親は、前夜から夫が帰っていないと中学生の娘にうろたえた表情で伝えていた。
でも、帰ってくるかもしれないからと、いつも通りお弁当も作った母親を、娘はどんな目で見ていたのだろうか。
「お母さん。お義父さんはもう帰ってこないんじゃないの
心の中では、娘とて両親の不仲には気づいていたのではないだろうか。

9日、警察から「夫の車が塩浜公園で燃えている」と伝えられた。
夫の父親とともに警察で事情をきかれ、「昨日から夫が帰宅していない」と心配そうに捜索願を出した。

ぼんやり考えていた。
明々後日は、息子の3歳の誕生日。こんなことになってしまって、息子がかわいそう。
でも、息子は「いちごのお姉さん」のほうが好きなのかしら。
どうしてこうなってしまったんだろう。あんなに私を求めてくれたあのひとは、遠くに行ってしまった

1012日、「夫を殺して池に棄てました」。

最初の結婚



光子は、高校を卒業後、看護師と保健師の資格を取った。もともと目立つ存在でもなく、華やかな制服が引き立ててくれるわけでもない、ごく普通のおとなしい少女だったが、しっかりもので通っていた。

病院勤務時代に見合いし、そのまま結婚した相手は13歳年上だった。
山武郡の旧家で、大きな屋敷と多くの畑を持つその家には、夫の母と姉がいた。姑と小姑がいる田舎の家ではあったが、女3人波風立つこともなく、それなりに暮らしていた。
夫は無口で面白味のある人ではなかった。そのうえ倹約家でもあり、仕事場と家との往復のみのその結婚生活は味気なかった。しかし、義理の母と姉との女所帯であったことで、少しは気が紛れることもあった。

しかし、よりどころでもあった義姉と義母が、なんと立て続けに体調を崩し、あっけなく亡くなってしまった。
大きな家で、無口な夫と暮らすことは想像以上に苦痛であった。光子は娘を連れ、その家を出た。

そして、袖ヶ浦市役所で保健師の仕事をしていた時、運命の出会いをした。




14歳年下の男

光子は、高校を出たばかりのその職員と業務において一緒に行うことが度々あった。
健康診断や予防接種など、保健師と市役所職員という立場で、時には身の上話をすることもあったが、最初から一目惚れといったことではなかった。
当時光子は33歳。娘もいた。弟というにも年が離れすぎていたし、野球が得意で仲間が大勢いるその彼が、まさか自分のような女を彼女候補になどするはずがないと思っていた。
年の離れた可愛い後輩、彼からすれば、苦労しているバツイチの先輩、そんな程度だと思っていた。

しかし、次第に打ち解けて話をしていく中で、19歳の彼は光子に対して特別な感情を向けてくるようになる。
周囲の同僚らは誰もその関係に気づかなかったというから、彼と光子との間の「密やかな関係」であったのだろう。あまりおおっぴらにすれば、仕事にも差し障るかもしれないし、なにより「遊び」で終わらせられない。
きっと、気が済めば離れていく人だ。光子はそう思っていたのかもしれない。

しかし、彼の配属が変わっても、両親が付き合い自体に反対しても、彼の光子への気持ちは微動だにしなかった。

「親不孝を赦してください」

彼の両親は、早い段階で息子である本人から年の離れたバツイチ子持ち女性と交際していることを聞かされていた。
まだ19歳の末っ子の恋を、両親は快く思わなかった。社会人としてまだまだスタートしたばかりで、市職員としての立場を考えれば、まずは仕事を頑張るのが筋であるし、なにより恋愛経験が豊富なわけでもないのだから、まずはお付き合いするにしても同年代の女性が良いのではないかという、親としては至極当たり前の考えからの反対であった。
もっと言えば、幼い娘を抱え頑張って生きている女性の人生に、無責任に関わってはいけないとも考えたのだろう。給料も少なく、実家暮らしの身であっては到底先を見据えた付き合いなどは出来ようもなかった。
しかし、3年目には息子は家を出、市内で一人暮らしを始めた。両親の目が届かないところで、ふたり仲良くするのかと思いきや、時を同じくして会う回数を減らしていたという。
それは、お互いの気持ちを見つめなおし、お互いの将来を真剣に考えるための期間であった。

ふたりが出会って4年が過ぎた平成9年。
とうとう結婚の意思を固めたその彼は、いまだ反対している両親を前に正座してこう言った。

「救ってあげたい母娘がいる。どうしても一緒になりたい。親不孝を赦してください」

末っ子で甘えん坊の息子の姿はそこにはなかった。数年に及び反対されたにもかかわらず、気持ちは揺らがなかった。
両親は折れ、結婚を認めることはしないが、これまでのように声高に反対することはしない、ということを息子に伝えたのだった。

それまで、両親は息子の翻意を試みるだけでなく、光子に対しても何度かアクションを起こしていた。
我が息子ながら周りが見えない状態になっていることを考え、光子にいわば泣きを入れたのだ。
「年上の、分別あるあなたの方から、のぼせ上った息子を諭してもらえませんか」
そう光子に電話したこともあった。
しかし、光子はそれに理解は示すものの、強く突き放すことはせず、結局二人は平成9年の721日に入籍した。
その日は若い夫の両親の結婚記念日でもあった。

つづく