緘黙の子~大分・13歳餓死事件~

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その子はいつもフード付きの服を着ていた。お気に入りなのか、いつも同じグレーのフード付きトレーナー。
それがいつのころからか、その子自体を見かけなくなった。
数年後、同級生たちは中学へ進学したが、桜が散っても、その子が中学へ通うことはなかった。

平成2年の12月。
世の中がクリスマス気分にひたる中、その子はひとり、たったひとりで死んだ。

無残

事件が発覚したのは、その親子が暮らすアパートの大家から「この部屋の息子を長いこと見ていない」という親戚への連絡だった。
大分市の中心部にほど近い場所にあるそのアパートには、7年ほど前から夫婦と子供二人が暮らしていた。
ただ、現在では夫と上の女の子はこのアパートを出て別の場所で暮らしていて、両親もそのまま離婚となったと聞いていた。

残っているのは母親と今年中学に上がった男の子。その男の子は、幼いころから極度の人見知りで小学校も4年生頃からは通えていなかったようだ。

ただ、その男の子の姿を最後に見たのはいつだったのかわからなくなるほど、見ていなかった。さらには母親の姿も見かけていなかった。

不安になった大家は、保証人に記載された親族に連絡を取り、立ち合いの元で部屋の中を確認した。

部屋に入ると、真冬だというのに家の中は冷え切り、長期間人の存在がなかったことを裏付けた。部屋の中は汚れに汚れ、まるで人が住めるような状況でもなかった。腐敗臭ともカビともつかない、不快な臭いが鼻をつく。

6畳の居間に足を踏み入れた時、それはあった。

敷かれた布団には掛け布団がかぶさっていたが、上まで引きずりあげられていたため、親戚の人が掛け布団をめくった。
そこには、目を見開き、口を開けた人の姿があった。極端に痩せ、黒く変色したような皮膚、その見開かれた眼に命の灯は見えなかった。

通報を受けた警察が部屋の契約者である母親に事情を聞いたところ、

「昨年末、アパートに戻ったときにすでに冷たくなっていた。届けようと思ううちに、そのままになってしまった」

と話したことから、その日の夜に死体遺棄の疑いで緊急逮捕した。

逮捕されたのは大分市の飲食店店員・阿部真希子(仮名/当時44歳)。死亡していたのは真希子の長男で13歳の邦彦君だった。

調べでは死後一か月以上が経過しており、真希子の話でも12月下旬にはすでに邦彦君が死亡していたことから、推定ではあるが12月中旬から下旬にかけて亡くなったとみられた。
大分医科大で行われた司法解剖の結果、邦彦君の死因は「飢餓死」と断定された。

13歳の少年がこの時代に餓死するとはどういうことなのか。
さらに調べを進めると、真希子がどうやら数か月前から長期間家を空け、邦彦君の世話をしていなかったことが判明。
ただ、邦彦君がなにか病気を持っていたとか、自力で食事ができないとか、そういった事情は見当たらなかった。
普通なら、13歳ともなれば近隣に助けを求めたり、そういうこともできたと思われるが、邦彦君が近隣に助けを求めた形跡はなかった。

いくら母親が面倒を見なかったとはいえ、乳飲み子ではない。しかも、テーブルの上には現金も置かれたままになっていた。

この母子はなにかがおかしかった。

母子のそれまで

邦彦君は大分市内の公立中学校に籍があった。しかし、一度も登校していなかったという。
実は邦彦君は小学4年生から登校拒否をしていて、中学にもその旨引継ぎがなされていた。
邦彦君の担任は、7月に一度母親である真希子とこのアパートの前で話をしていた。その際真希子は、
「学校に行きたくても行けない。本人が行かないと言っている。近所の手前もあるから大きな声を出さないで」
というだけで、邦彦君が登校拒否になった理由もわからなかった。

邦彦君は昭和51年に誕生、一つ上の姉がいた。
邦彦君は幼いころから極度の人見知りで、家族以外の人とは話そうとせず、幼稚園ではお遊戯会や運動会といった行事にも参加できないほどだったという。
真希子は邦彦君を心配して、福祉センターや教育センターなどあらゆる所へ相談にも行ったというが、人見知りは時間の経過も関係するだろうということで今すぐどうこうなるものでもない、というようなアドバイスしかもらえなかった。

小学2年のころに現場となったアパートへ家族で越してきたが、その頃も依然として家族以外の人とは一切口を利かないという状況だった。

ただこの頃邦彦君はまだ学校には通えていた。
が、2学期ごろからフード付きのトレーナーを着て、そのフードをすっぽりかぶった状態で登校するようになったという。そればかりか、授業中など校内でもそのフードをかぶったままで過ごすようになっていた。
この当時の担任だった教師によれば、話は出来ないが手でブロックサインを決め、「はい」「いいえ」といった意思疎通は図れるように工夫していたのだという。
邦彦君はしゃべらないだけでなく、人を視界に入れようとせず、また自分も他人から身を隠すような行動をとっていた。
服の首元を伸ばして顔を隠したり、給食は段ボール箱の中でとることもあり、同級生にからかわれて泣いていたこともあった。

そんな邦彦君を、母である真希子は苦々しい思いでみていた。

フードをかぶって校内で過ごしていることを知った真希子は、そんなことはいけないと注意した。フード付きのトレーナーを着させないようにもしたが、邦彦君は真希子に隠れてフード付きトレーナーを持ち込み、真希子の目が届かない学校ではそれを着用していた。
それがある時真希子にバレてしまった。怒った真希子はフード付きの服を捨ててしまった。

それ以降、邦彦君は学校へ行けなくなってしまった。

困り果てた真希子は学校とも相談し、大分県中央児童相談所に相談に訪れる。しかしその頃には邦彦君は家から出ることを嫌うようになり、家に誰かが訪ねてくるとなんと天井裏に隠れたりするようになっていた。
玄関ドアをノックされただけで部屋に閉じこもり怯える邦彦君を、無理やり児童相談所まで連れ出すことは不可能だった。

閉ざされゆく母子

真希子はそんな邦彦君を心配しつつも、暗澹たる気持ちになっていた。解決もできず、このまま大人になってしまうのか。
夫との仲はいいとは言えず、しかも家庭を顧みることのない夫だった。
昭和63年、真希子は居酒屋のパートを始めた。外で働いている間は、家の中のごたごたや邦彦君のことを紛らわせることができた。
邦彦君は確かに心配だったが、命にかかわるような病気を抱えているわけではないこと、家の中にさえいれば何も起こらないわけで、そのうち真希子は無理に学校へ通わせることで生じるあんなことこんなことに頭を悩ませるよりも、いっそこのままの方が楽、そんな気持ちも芽生えていた。

小学校の担任らが心配して家庭訪問を希望した時も、真希子は断るようになっていた。邦彦君が幼いころには相談に訪れていた児童相談所との面談でも、担当者が「解決しようとする意欲が感じられなかった」というほど、この頃の真希子は殊更に周囲とのかかわりを持とうとしていなかった。

そんな中、邦彦君が小学6年生のころ、夫が長女を連れて実家へと戻ってしまい、そのまま離婚となった。

狭いアパートの部屋で、残された邦彦君と真希子の暮らしは、別にそれまでと変わらなかった。
夜居酒屋へバイトに行き、邦彦君は一日中アパートから出ない。誰とも話さない。けれど、それで何かが困ることは今のところなかった。

何の変化もない日々。この頃仕事を終えて家に帰るのは深夜になっていた。邦彦君は、真希子が用意した食事や買い置きのインスタント食品、総菜などを勝手に食べ、自室にこもる日々だった。
そんな邦彦くんを見て、真希子は次第に帰りが遅くなっていく。

一日、三日、一週間。

帰宅しても邦彦君と過ごすというより、買ってきた総菜を渡す、それもないときはいくらかの金をテーブルに置くだけで、邦彦君と直接話す、様子を確認するということは減っていった。
あまりに変化のない毎日の中で、テーブルに置いた金が一週間後にそのままそこにあっても、真希子は気にならなくなっていた。

そして1226日に帰宅し、邦彦君を確認した時、その命はすでに失われた後だった。

気づかれなかった問題

当初、報道では邦彦君を登校拒否とし、人になじめない我が子を持て余した母親との間の愛情に問題があったというようなものがあった。
登校拒否という問題、ありがちな周囲との断絶、母親の孤独……
警察は邦彦君の扱いに困った真希子が疲れ果てた末に、いわば無意識に邦彦君の存在を消したかったのでは、という見方をする捜査員もいたという。
長女だけを連れ、真希子にすべてを押し付けた邦彦君の父親にも批判的な声があった。

ただ、邦彦君の登校拒否に対してはその前段階である「極度の人見知り」があり、それが一定の年齢を超えてもおさまるどころか悪化したという不可解もあった。
思春期の少年の心の問題だけで片付くようなレベルではないようにも思われたが、あくまで邦彦君が自分の意志で他人を拒んだ、そしてその心理を受け止め切れなかった母親の事件、そんな風な見方がなされていた。

真実が明らかになったのは、裁判が始まってからだった。

邦彦君の登校拒否には深刻な問題が見過ごされていたのだ。邦彦君は、緘黙症だった。

今でもこの症状に対する理解は、特に日本においては進んでいない。緘黙症とは、大きく分けるとどの場面でも誰に対しても話すことができない全緘黙と、家族や限られた安心できる相手、場所では話せても、そうでない相手や場所では言葉が全くでなくなってしまう選択制緘黙とがある。
邦彦君はおそらく、選択制緘黙の症状が幼いころにあったとみられた。
これは適切な介入を行い、治療することで症状が和らいでいくもので、決して改善が見込めないものではないという。ただ、幼いころにはその症状があっても極端な人見知りや恥ずかしがり屋とみられ、見過ごされてしまうケースも少なくない。
全く治療もせず、理解も得られずに成長すると、次第に固定化されてしまい、結果として大変生き辛いことになってしまうのだという。

邦彦君は当初は話せなくても学校で過ごすこと、外出することは出来ていた。しかし、それを可能にさせていたあのフード付きのトレーナーを真希子に捨てられたことで、外出そのものが出来なくなってしまった。
さらに同時期、真希子から「施設に放り込む」と言われたことも重なり、邦彦君の心はもうどうしていいのかわからないほどになってしまった。

話せなくても大丈夫、そういう安心感が繰り返されれば症状は緩和されていくというが、そんな知識のない真希子は叱責を繰り返し、邦彦君の拠り所であったフード付きトレーナーを捨ててしまった。
話せないために事態はどんどん悪化していったことで、邦彦君はますます閉じこもるしかなくなっていった。

ただ、その症状を児童相談所や学校も気づけなかった以上、親であるというだけで真希子を責め立てるのはいくらなんでも厳しいだろう。
真希子でなくとも、いつまでたっても話をしようとしない我が子を叱責してしまうことはあるだろうし、弁護側も裁判においてこの事件の隠された特殊性を挙げて情状酌量を求めた。

しかし、裁判で明かされたのは邦彦君の特殊な事情だけではなかった。

持ち出された米とカセットコンロ

真希子は居酒屋の仕事で外泊することが増えていたが、実は夫と離婚する前から愛人がいたのだ。
夫との離婚理由は当初の報道では邦彦君のこと、とされていたが、実際は真希子の不倫に夫が気づいたことだった。しかも夫はそれを知ってもすぐには離婚せず、真希子に対し不倫をやめるよう言っていたという。
しかしすでに夫婦仲は冷え切っており、真希子が不倫をやめることはなかった。結果、夫は長女を連れて実家へ戻ったのだ。
邦彦君を置いていったというより、邦彦君は家から出られなかったのだろう。

さらに、真希子は平成元年3月に夫が家を出て以降、7月から10月までの3か月を除き、自宅アパートへは3日に一度くらいしか帰宅していなかった。
その間、なにをしていたのか。13歳の邦彦君を一人家に残し、真希子は不倫相手の家で同棲していた。
たまに帰宅しても、インスタント食品や総菜を置いていくだけだったが、1025日以降はそれすらもしなくなった。
電気もガスも止められ、カセットコンロだけが頼りだったが、そのカセットコンロのガスも切れ、炊飯器の中ではご飯にカビが生えていた。

その時点で、邦彦君は満足に食事も出来ておらず、歩くことさえままならないほど衰弱していたのを真希子は見て知っていた。
家を出ることができない邦彦君にとって、真希子が置いていった金は全く役に立たなかった。
12月に入り、2度ほど帰宅した真希子は、いよいよ邦彦君の容態が悪くなっていることを認識していた。そのうえで、真希子が取った行動は、家にあった米と、カセットコンロなどの調理器具を愛人宅で使うために持ち出すというものだった。もう、邦彦君には必要ない、そう思ったのか。

ドアを閉める母親の背中を、どんな思いで邦彦君は見たのだろうか。

平成2126日、大分地方裁判所は真希子に対し、保護責任者遺棄と傷害致死、死体遺棄を認定。求刑懲役6年に対し懲役5年を言い渡した。
邦彦君の養育に伴う精神的苦痛から逃れるため、また、愛人との生活を優先させるために邦彦君の養育意欲を失い、衰弱して命の危険があると認識しながら適切な対応を取らず、さらには邦彦君が死亡したとわかった後もその遺体を放置し、愛人との生活を続けたことは悪質で、刑事責任は重大だと指摘。
そのうえで、邦彦君の緘黙症という症状が一般になじみがなく、適切なアドバイスや関係機関につなげられなかったことは真希子だけの責任とは言えず、幼少時から真希子はそれなりに心を悩ませてきたことに関しては、他人が窺い知ることができない苦労があったと慮った。

しかしそれらを考慮しても、懲役5年はやむを得ない、との判断だった。

真希子は控訴せず確定した。

子の苦しみはどこへ

たしかに、裁判所の言う通り、緘黙症が世間一般に知られていなかったこと、真希子自身、長きにわたって邦彦君の養育に悩み続けていたことは、真希子だけの責任とは言えない。
しかし夫と離婚したのは邦彦君のせいではなく自身の不倫のせいであり、なによりも邦彦君が餓死というあまりにも哀し過ぎる最期を迎えることになったのは100%真希子のせいである。

自分でもどうしていいのかわからず、言葉にできない思いを抱えてきたのは邦彦君である。誰からも理解されずに過ごした13年がどれほど苦しいものだったか、想像すらできない。

この事件は邦彦君の情緒障害という事情があったにせよ、中身を見れば巣鴨の置き去り事件厚木で起きたネグレクトと内容としては同じに思える。
 愛人との生活を優先し、いつしか家に帰らなくなった彼、彼女らと、どこが違うのか。
厚木のネグレクトにおいては殺意こそ否定されたものの、極悪非道の印象を持って語られる事件である。

この事件に限らず、被害者自身に障害がある場合、なぜか保護者や介助、介護者に同情が集まるケースは少なくない。たしかに内容によっては同情せざるを得ないケースもある。
しかし過度な同情や社会への責任転嫁は、被介護者や周囲の助けがなければ生きていかれない人たちを追い込まないだろうか。自分の存在がいけないのだと思わさないだろうか。
ましてや、邦彦君はまだたったの13歳だったのだ。

真希子は邦彦君の養育に悩んでいたの事実であるが、それと、愛人のもとへ走り邦彦君を放置し、死なせたことは別問題である。
その邦彦君を死に至らしめた過程に、同情の余地などはたして存在するのだろうか。

邦彦君が死んだとわかったとき、本当のところどう思っていたのか、今更ながら聞いてみたい。

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参考文献

朝日新聞社 平成2122日西部朝刊
西日本新聞社 平成2122日夕刊、26日夕刊、28日朝刊、126日夕刊
読売新聞社 平成2126日西部夕刊

平成2126/大分地方裁判所/判決/平成2年(わ)第27