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山口彩香ちゃん(愛知県稲沢市:当時2歳/平成8年1月30日死亡)
愛知県内で活動する虐待防止の市民団体。
関係者らは、その一方を聞いて打ちひしがれた。気づいていたのに。通報したのに。
あの子はずっと暴力を受け続けていた。なのに、のちの裁判において裁判所が認定したのは、死亡の直前の4日間の暴力についてのみだった。
救えなかった小さな命。
再婚家族
平成8年1月29日、愛知県内の病院に幼い女の子が搬送されてきた。
救命にあたった医師は、その女児の身に起きたことが犯罪行為によるものではないかと疑い、警察に通報。
警察が両親らから話を聞いている間の翌1月30日、女の子は死亡した。たった2歳だった。
女の子の死因は脳循環障害。頭部を何度も殴られたことによるものだった。
3月11日、警察は2歳の次女を殴って死亡させたとし、傷害致死の容疑で母親を逮捕した。
逮捕されたのは稲沢市の主婦、山口美沙希(仮名/当時25歳)。死亡したのは山口彩香ちゃん(当時2歳)。美沙希は彩香ちゃんの義母だった。
美沙希は事件が起こる前年の8月に娘(当時5歳)を連れて再婚。11月から夫の連れ子だった彩香ちゃんとの4人で生活を始めた。
夫婦を知る人らによれば、当初夫婦は「4人で幸せになろう」と誓い合っていたという。
美沙希は真面目で、実の親でないからこそ、彩香ちゃんとの関係には人一倍気を遣っていたようだった。
長女と同じ保育園に送り迎えをし、主婦として多忙な夫を支える日々。子育て経験のないままに突然連れ子の母親になったのではなく、美沙希自身子育てをしてきていた。
きっとうまくいく。
しかし彩香ちゃんとの関係は、まったくうまくいっていなかった。
赤ちゃん返り
彩香ちゃんは当時2歳。母親との別離の事情はわからないが、おそらく1歳になるかならないかの頃までには母親と別れていたと思われる。
そんな時に現れた、新しい母親。きっと、母恋しさで美沙希のことを受け入れるのではないか、と美沙希が思ったかどうかは別として、彩香ちゃんは美沙希に懐かなかったという。
加えて彩香ちゃんは美沙希が用意した食事を手で掴んで投げる、髪を引っ張る、おむつの中の便を掴んで投げるといった行動があったといい、おそらく長女の育児で体験していなかったであろう美沙希は、それらを問題行動と捉えてしまった。
2歳といえば、言葉の遅い子だと意思疎通もなかなかなこともあるだろうし、用意した食事を食べずに投げられるというのは結構な育児あるあるだと思うが、美沙希にとっては許し難い行為であり、これを躾け直さなければならないと強く考えるようになっていく。
夫は多忙で、そんな美沙希の気持ちに気づく余裕はなかったし、おそらく美沙希も、夫に悟られまいとしたと思われる。
そんな美沙希と彩香ちゃんの危うい状態を、保育園は気づいていた。
お迎えで泣く子
彩香ちゃんの死を知って言葉をなくしたのは先の虐待某氏の市民団体だけではなかった。彩香ちゃんと美沙希の連れ子が通っていた保育園の関係者らも、救えたはずの命だったと後悔の涙をこぼしていた。
彩香ちゃんは平成7年末まで保育園に通っていたが、11月頃からその保育日誌には不穏な彩香ちゃんの様子が綴られていた。
11月20日、この日彩香ちゃんは身体中に傷があった。たんこぶ、青あざ、擦過傷。しかも、一日中泣いていたという。
12月に入ると、きちんと座れなかったり、少しの段差で転ぶなど明らかに行動が不安定な状態になっていた。
その後も、抱っこやおんぶを保育士にせがむ一方で、友達から不意に体を触られると泣き出すという状態にもなっていた。
そんな彩香ちゃんの異変の中で、保育士らの心に残っていたのは、お迎えの時の様子だった。
通常ならば、親が迎えに来れば駆け寄ったり遊ぶのをやめたりするもので、遊びに夢中になっているケースは別として、お迎えを「喜ばない」というのはあまりない。
しかし彩香ちゃんは、お迎えにきた美沙希の姿を見るやいなや、火がついたように泣き始めたのだという。それは明らかに、帰るのを嫌がっていた。
さらに、事件が起こる2ヶ月ほど前には、自宅で意識不明の重体になり救急搬送されていたのだ。「頭をタンスにぶつけた」と美沙希は病院で話していたが、その様子に不審なものを感じた病院の担当医が「子どもの虐待防止ネットワーク・あいち(現・NPO法人CAPNA)」に連絡をとった。
虐待によるものだと確信した団体は、管轄の一宮児童相談所に通報。しかし児童相談所は、医師や警察ではなく民間の団体からの通報ということで迅速な対応が取れなかったようだ。
児童相談所は重体に陥っていることを重く見てはいて、一時保護などの対応が取れないかと模索していた。まずは病院を通じて彩香ちゃんの両親に接触しようとしたが、なぜか病院から断られてしまった。
その後、幸いにも彩香ちゃんは回復の兆しを見せ始め、児童相談所は児童福祉司による両親との信頼関係構築に重点を置き、彩香ちゃんが退院するまでになんとか体制を整えようとしていた。
が、12月の終わり、予想よりも早く彩香ちゃんが退院となったことでその計画も頓挫、退院後は稲沢保健所の保健師が家庭訪問を行って美沙希の相談相手という形でかかわりを持っていたという。
そこには、時間をかけてでも美沙希自らが児童相談所を「頼ってくれる」ようにするという思惑があったというが、その間にも彩香ちゃんはまた頭を怪我したとして夜間救急へやってくることもあった。しかもその際、対応した医師の態度が悪いといって、診察を受けずに帰ってしまったという。
そして、事件は起きた。
誰が悪かったのか
裁判では美沙希のカウンセリングを行った医師の証言があった。
美沙希は人一倍頑張り屋で、気負いが裏目に出てしまったことと、なによりも多忙な夫が美沙希の力になってやれなかったことが大きな要因だとした。
夫は裁判の間も傍聴に来ていた。詳細はわからないが、証言などから推察すると、美沙希だけでなく夫も、彩香ちゃんに対して厳しくしつけなければと思っていた節があった。我が子の度重なる怪我、ましてや一時は重体にまで陥ったのに、そしてそのすべてが美沙希と再婚した後に起きていることを考えれば、よほどのバカでなければ何かおかしいと気付くはずだ。
しかし夫は、おそらく何もしなかった。当時同じ稲沢市内に夫の両親は暮らしていたが、夫からも美沙希からも彩香ちゃんのことについて相談されることはなかった。
断言してもいい、この夫は気づいていたし、それを知られてはいけないと思っていた。
一方の美沙希自身も、自分がしていることがどれほどマズいことか、わかっていた。
「自分が怖く、震えが止まらなくなった」
初公判で美沙希は当時の気持ちをこう証言していた。
それでも、彩香ちゃんが悪さをするたびに「このままではやっぱり実の親じゃないから、と思われてしまう」と焦った。そしてそれはやがて、助けようとした児童相談所や病院、保育園の対応についても周囲の人々が白い目で見ているとまで思い込むまでになった。
厳しくすればするほど、離れていく彩香ちゃん。そして、感情のままに彩香ちゃんの頭を殴りつけた。
名古屋地裁一宮支部の伊藤邦晴裁判長は、
「幼児に対する強度の暴行は残酷で結果も重大。だが当時子育てに思い悩んだ末、心神耗弱状態になっていた」
として、懲役3年執行猶予4年の判決を言い渡した。
判決が言い渡されても、美沙希は被告人席から立ち上がれなかったという。涙を流し、傍らの夫に支えられてようやく席を立った。
子どもの虐待防止ネットワーク・あいちは、子供への暴力がしつけの範疇を超えていると判断され、犯罪だと認定されたことは意味のある判決だとコメントした。
当時、虐待というよりもせっかん、そう呼ばれることが多かった時代。親によるそれは、事件化されないケースもあった。実際に彩香ちゃんも、何度も病院に運ばれていながら、これほどまでに多くの人がそれに気づいていながら、死ぬまで事件化しなかった。
結果として彩香ちゃんを助けられなかった同団体は、それはひいては美沙希を支えきれなかった周囲や自分たちのような団体の問題でもある、としている。
同団体は美沙希への支援を続けていくと結んだ。同時に、同じように苦しんでいる親に対する支援が必要であることも強調した。
たしかに、美沙希の場合はネグレクトや継子が憎いとか、そういう動機ではなかった。しかし彩香ちゃんからすれば、たった2歳の彩香ちゃんからすれば、美沙希の思いがどうであれ地獄の日々だったのだ。
親に対する支援は必要だ。しかしその前提として子供は親もとで、という考えがあるようでは、救えるものも救えない。
そしていつも思うが、亡くなった子供を置き去りにしたままでの支援に、はたして意味があるのだろうか。
中谷幸子ちゃん(島根県津和野町:当時8歳/平成13年6月2日死亡)
「しつけのためにやったことだが、思いもかけないことになり悔やんでいる」
島根県津和野町。歴史と文化の薫る町、代表的な小京都の街並みと評される美しい町。森鴎外の出身地としても知られ、その美しい山間の里は、しばしば文学や映画、テレビドラマの舞台にもなる。
その土地で、いたましい事件が起きた。
事件後、事情を聞かれた父親は冒頭のように話したというが、何が起きたのか。
縛り上げられた少女
平成13年6月3日未明、島根県警津和野署は、8歳の娘に体罰を加えて死亡させたとして、傷害致死容疑で父親を逮捕した。
逮捕されたのは津和野町の農業、中谷和一(仮名/当時55歳)。和一は6月2日の午後2時ころ、次女で津和野小学校3年の幸子ちゃん(当時8歳)が、親の言いつけを守らなかったことに立腹し、罰として幸子ちゃんの上半身を気をつけの状態でロープで縛り上げ、自宅の庭のヒノキの枝に約2時間にわたって吊るしたという。
その後、幸子ちゃんの様子がおかしいことに気づいた同居する妻の母親(当時61歳)が慌てて木からおろし、ロープをほどいた。
和一も妻からそのことを聞きはしたが、寝かせておけばよいと言って病院へ連れていくことはなかった。
その後夜になっても幸子ちゃんの容態は回復せず、意識がなくなるといった重篤な状態になったために和一が津和野町内の病院へ運んだが、脱水症状がひどく、そのまま命を落とした。
病院は、幸子ちゃんの体に縛られた痕があったことから虐待を疑い、通報。和一が縛って吊るしたことを認めたため、逮捕となった。
お仏壇のお供え物
きっかけは「お仏壇のお供え物」だった。
田舎に限った話ではないが、今は少なくなっていることもありピンとこない人のために説明すると、昔は各家には基本的に先祖代々の仏壇というものが設えてあり、仏間と呼ばれる部屋があったりした。朝夕にお水とご飯をお供えし、一日無事過ごせますように、とご先祖様に手を合わせるというのは、田舎の家でなくとも珍しくないものだ。
さらに誰かからお菓子や果物をいただいたり、おいしいものを買ってきたときなどはまずご先祖様にとお仏壇にお供えし、生きている人間はそのおさがりをいただく、というのが基本だった。
すぐ食べてもいいが、まずはご先祖様にお供えする、それが正しいことである。
中谷家もそういったことは当たり前に行われていたが、もうひとつ、ルールがあった。
お仏壇のお供え物をおさがりとしていただくときは、親の許可を得る、というものだった。
実は過去に、長男が勝手にお菓子を食べたことがあり、次同じことをすれば罰として木に吊るす、という話を和一は子どもたちにしていたのだという。
そしてこの日、幸子ちゃんが勝手にお供えしてあったどら焼きを食べたことが和一にバレてしまった。和一は罰を与えることを幸子ちゃんも知っていて、その上で無断でお供え物を食べたのだからということで幸子ちゃんに罰を与えることにした。
6月2日、松江地方気象台によれば津和野一体の日差しは強く、午後3時には気温は27.4度まで上昇していたという。
高さ3.5mのヒノキの樹。枝葉も伸びていたとはいえ、その日は暑かった。
吊るされ、幸子ちゃんの体力はどんどん消耗していった。
複雑な田舎
事件があった場所は、津和野の中心部からはさらに山間にあり、中谷家のあった地区は津和野川と国道9号線沿いの数軒の民家しかないようなところだ。
赤茶色の屋根瓦が連なる、昔からある家々。しかし和一はここで育ったわけではなかった。
和一は県外からこの地へとやってきた。妻(当時35歳)とその両親、そして幸子ちゃん含め4人の子供合計8人で暮らしていた。
妻の実家がここだったのか、それとも一家で越してきたのかは定かではないが、和一のことはよく知らない、と近所の人々は話していた。付き合いもあまりなかったという。
一方で日ごろからしつけに厳しい父親だということは知れ渡っていた。
子供が言うことを聞かないと、たとえではなく懲らしめとして指などとお灸をすえる、時には石を投げつけるのを見た人もいた。
怒られた子どもたちが裸足で家を出され、津和野川を渡った先にあるバス停でしょんぼりと座り込んでいる姿も目撃されていた。
農業で生計を立てていたようだが、経済的に中谷家は苦しかった様子も垣間見える。
様子がおかしい幸子ちゃんのために救急車を呼ぼうとした義母を制したのは和一だった。その理由は、医療保険に入っていないため病院に行くと金がかかると思った、というものだったが、これはおそらく国民健康保険を滞納していた、ということなのでは、と考えられる。
一方で、和一の年齢が気になった。
妻は当時35歳、幸子ちゃんは次女で、姉のほかに男の兄弟が二人いて、その内の一人は弟ということはわかっている。
幸子ちゃんは和一が47歳の時の子どもであるが、弟はさらにその後に生まれていることを考えると、経済的に決して裕福ではなかったこの中谷家の何とも言えない部分が見える気がする。
悪いことでは全くないが、妻との年齢差も気にかかる。
ストリートビューを見ても、少数の家がかなり近くに寄せ合うように建っているのに、その中で付き合いがあまりない、というのも田舎では正直異様だ。
周囲とうまくかかわれない男が唯一、威厳を保てたのが家庭の中だけだったのか。
親の懲戒権
現在では民法から削除されたが、過去には親にしつけの範囲で懲戒できる権利というものがあった。しかもその懲戒の方法として、具体的に叩いたり抓ったりすることのほか、押し入れに閉じ込める、食事を抜くといったものも用いて良い、とする注釈本まで存在していた。
昭和生まれの私も、押し入れに閉じ込められたり、家の外に立たされるといったお仕置きの経験はあるし、この津和野の和一がやっていたように、親に横着な言葉を吐いた子供は口の横にお灸をすえられることもあった。
和一は傷害致死から逮捕致死というより重い罪で起訴されていた。
裁判で明かされた幸子ちゃんの最期は哀しいものだった。朦朧とする意識の中で、幸子ちゃんは謝罪の言葉を口にしていた。
ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪いの……
その幸子ちゃんの口からは、血が流れていた。
幸子ちゃんを祖母らが病院へ運ぼうというのを和一は制し、寝かせておくよう命じた。
その後、自分は酒を飲み、アユ漁の仕掛けづくりなどをしていたという。そのために、搬送されるまでに5時間を要した。
和一は自分自身も厳しくしつけられたことから、物事の善悪を教えるためには時に暴力も辞さないという考えを持っていた。もちろん、昭和生まれの人間にはそのような考えを持つ人は少なくないし、この事件当時もこの和一の行為は「行き過ぎたお仕置き」という風にも見られていた。
平成12年には児童虐待防止法が施行されたものの、この時点では民法に親の懲戒権が存在しており、しつけと虐待の境界は曖昧だった。
その、定義の曖昧さ、人によって感覚が違うということが、最終的に和一のように暴力やむなしと考える親を地域から孤立させたり、家庭に閉じこもってしまう結果を引き起こすと考える識者もいた。
裁判所は和一の行為はしつけの範疇を逸脱しているとし、親の態度として受け入れられないと、懲役2年6月の実刑判決を言い渡した。
幸子ちゃんはスポーツが好きで、学校でも生き生きと生活していた。弟をかわいがる善きお姉ちゃんでもあった。
8歳。これから思春期を迎え、友達と将来を夢見語り合い、そして恋もしただろう。この美しい里山で、幸子ちゃんは健やかに大人になっていくはずだった。
決して、父親である和一を嫌ったりはしていなかったろうし、楽しい思い出もたくさんあったろう。
だからこそ、この和一の安易で無知な行動が腹立たしい。
田村優将(ゆうすけ)ちゃん(群馬県玉村町:当時3歳/平成26年8月30日死亡)
群馬県佐波郡玉村町。
関越自動車道玉村スマートICから高崎玉村バイパスを東へ、文化センター入口交差点を南下し藤岡大胡線をしばらく走ると周囲に田畑が広がる場所に出る。
その田畑のいくつかを埋めて作られたであろう、数軒単位の新興住宅地の一つにその家はあった。
二階のバルコニーには洗濯物が整然と干され、庭にはスヌーピーのブランコ。高級ミニバンが停められ、開けられた窓からはきちんと結ばれたカーテンが見える。
郊外の、よくある若い子育て世帯の暮らす家。緑も残り、少し行けば買い物にも不自由しない。ある意味、環境的にも理想の暮らしがあるように見えた。
その家で、事件は起きた。
遺体を乗せて出頭した母親
平成26年8月30日午前2時40分、群馬県警伊勢崎署に一台の車が滑り込んできた。運転していたのは女性。30代半ばだろうか。髪の毛を一つに縛り、眼鏡をかけたその女性は、警察署で応対した警察官に対し、「子供を突き飛ばした」と話した。
虐待に発展することを恐れ、自ら相談に来たのかと思った警察官だったが、女性は車にその子供も乗せているという。
その子どもは、すでに遺体となっていた。
自宅で三男を突き飛ばしてケガをさせ、その後死亡させたとして、群馬県警伊勢崎署は、玉村町の無職、田村亜希子(当時32歳)を暴行の疑いで逮捕した。
死亡したのは田村優将(ゆうすけ)ちゃん(当時3歳)。31日に行われた司法解剖の結果、優将ちゃんは頭蓋内損傷に基づく外傷性ショックが死因だった。
亜希子の供述によれば、事件が起きたのは8月29日の夕刻。玄関でぐずり、泣き止まない優将ちゃんに苛立ちを募らせ、優将ちゃんの胸を突き飛ばしたといい、はずみで優将ちゃんは仰向けに転倒、後頭部を床に激しく打ちつけたとみられた。
そして、日が変わったころに仕事中だった夫に電話し、「優将を押しこくった(押し倒した)。息をしていない」と告げた。
夫から病院へ連れていくよう言われた亜希子は、優将ちゃんを毛布でくるむと、車の後部座席に乗せ、そのまま伊勢崎署へ向かった。
優将ちゃんを押し倒してから、実に9時間が経過していた。
当初暴行の容疑で逮捕された亜希子だったが、その後、傷害致死に切り替えられて起訴された。
起訴されてから初公判まで約1年という期間があったが、その間に、亜希子の家庭、事件が起きるに至るまでのさまざまな、そして衝撃的な事実がいくつも明らかになっていった。
その家
亜希子と家族が玉村町に越してきたのは平成21年2月。7歳年上の夫と当時2歳の長女と1歳の長男の4人で群馬県外からの転入だった。
利根川の西側、ゴルフ場や工場が点在し、古くからの家々と比較的新しい新興住宅地などが混在する場所で田村家は新しい生活をスタートさせた。
越してきてすぐ、亜希子は仕事をしていなかったものの精神的に不安定なことがあるとして診断書を提出し、幼い娘と息子を保育園に入所させた。
1年後の平成22年2月6日、次男が誕生。その後も、夏ころには第4子の妊娠も判明。これが優将ちゃんである。
23年4月8日、優将ちゃんが誕生する。まだ手がかかる上の兄や姉のこともあり、町の保健師がサポートに動いた。
夫は転職したばかりで経済的に不安定な時期ではあったが、田村家には子供たちの明るい笑顔があった。
さらに平成26年には第5子となる女の子も誕生した。正確な時期は不明だが、その年の夏までには、同じ玉村町内の比較的新しい一戸建てに越して生活をしていた。
夫はこの頃長距離トラックのドライバーとして働いており、10日に1度くらいの割合でしか家に戻れなかった。加えて、同居している亜希子の父親に認知症の症状が出ており、またその父親の借金問題などもあったといい、亜希子は体力的にも精神的にも、かなり大変な時期を過ごしていたと推察される。が、近所の人によれば妊娠中でも亜希子は地域の定例会に参加したり、地域の役員なども務め、また家もきちんと片付いており、とても幼い子供が複数いるような家庭には思えぬほど、几帳面で誠実な人柄に思えたという。
子供らに対しては、たしかに声を荒らげて叱ることもあったようだが、幼い子供が複数いれば大声を出さねばならぬこともあろうし、妊娠中もおなかに手を当てながら出産を心待ちにしていると話すなど、子供好きな善き住民という印象が強かった。
しかし亜希子には、それと真逆の「過去」があった。
【有料部分 目次】
次男
優将ちゃん
児童相談所
夫
見失ってはならないもの