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幼い子供や若い女性が理不尽な暴力の犠牲になったり、多くの死傷者が出た事件などは衝撃的で、その報に接した人々の記憶に強烈な爪痕を残す。
白昼、公共の場での無差別殺人などもそうだろう。
その後の報道で、事件の背景、加害者と被害者の関係性に嫉妬、差別、逆恨みなどの「わかりやすいドロドロ」がある場合なども、後々まで語られる。
ただ時にそれらは、憶測や虚偽、誇張などによって事実とは違った姿で歩き出してしまうこともある、奈良月ヶ瀬の女子中学生の事件や、山口のつけびの村などがそうだろう。
一方で同じく人が殺害されても全く話題にもならない事件も山のようにある。同じように、多くの人々の人生が狂い、壊されているにもかかわらず。
事件備忘録のある意味原点とも言える、「小さな扱い」しかされなかった事件の記録。
京都の不可解な殺人
平成24年9月、京都市右京区のマンションで小学生の姉妹が死亡しているのが発見された。
通報者は姉妹の父親。父親によれば9月15日午後3時半頃、仕事で大阪市内にいたところ、妻から子供を殺害したという内容のメールを受け取ったという。妻も自殺を図ったものの、死にきれなかったというもので、父親からの通報を受けた大阪府警が京都府警に連絡し、署員が急行して姉妹の遺体を発見した。
娘二人を殺した母
死亡したのは、京都市立西院小学校3年の古田杏慈(あんじ)ちゃん(当時9歳)と妹で同じ小学校の1年生、雪杏(ゆあん)ちゃん(当時6歳)。
ふたりは電気コードと水筒の紐でそれぞれ首を絞められたことによる窒息死だった。
逮捕されたのは母親の古田みちこ(仮名/当時33歳)。
みちこは飲食店勤務の夫と娘二人との4人暮らし。4LDKのマンションに暮らし、娘の学校行事などでも近所の人との間でも明るくおっとりとした人、という印象で語られていた。
子供達も素直で可愛らしく、家族の中にも問題があるようには見えなかったという。
事件の数日前にも授業参観に来ており、他の保護者らと談笑する姿も目撃されていた。
親しくしていた「ママ友」もいて、事件前夜も家族ぐるみで付き合いのあるママ友と、子供づれで焼肉を食べに行っていた。
が、実はみちこが娘を殺害するに至った「きっかけ」がこのママ友家族との関係にあった。
夫不在のお泊まり
事件の前夜、みちこは娘二人を伴ってママ友家族と食事に出かけた。ママ友とは数年来の付き合いだったが、この日はみちこの夫が仕事のために不在だったという。
ママ友は子供と夫を連れて参加。楽しいひと時を過ごした後、当初からの予定だったのかどうかはわからないが、そのままママ友宅へと場所を移した。
小学生の子供がいれば、夜遅くまで居酒屋などでいるよりかは、いわゆる宅飲みにした方が何かと気を遣わなくていいし、次の日は敬老の日ということでお休みだったため、子供たちが眠くなったら泊まればいい、そんな感じでママ友宅へ行ったようだった。
トラブルはその時に起きた。
報道などをつなぎ合わせると、おそらく夜も更けて子供達も眠くなったのだろう、ママ友は子供達を寝かせるためにその場を離れたとみられる。
必然的に、リビングにはみちことママ友の夫が残る形になった。数年来の家族ぐるみの友達ということから考えても、みちことママ友の夫もそれなりにフランクな会話ができる間柄だったと推察できるし、だからこそママ友も二人きりにしたところで気詰まりに感じることもないだろうと思ったのだろう。
しかしこの夜は何かが違っていたようだ。
みちこによれば、この時ママ友の夫とDVDを見たのだという。ところがなぜかそのことでママ友を怒らせてしまった。ママ友の誤解なのか、それとも誤解してもおかしくないような状況があったのか、はたまた本当に何かがあったのか。
その後、朝を待ってからママ友宅をみちこは一人で出て帰宅。子供達は寝ていたからか、そのまま置いてきたようだ。
そして昼過ぎに子供達が帰宅した後、事件が起きた。
不可解な動機と、幕切れ
みちこは最初、自分だけ死ぬつもりだった。というのも、ゴミ箱から「一緒に生きれなくてごめんね」という、娘に宛てた遺書が発見されていた。
みちこは、ママ友に迷惑をかけてしまい、死んで詫びようと自分一人が死ぬつもりだったが、最愛の娘たちを置いていくのは忍びないと思ったと捜査関係者に話した。
「愛していたから、殺しました」
みちこは一貫して、そう言い続けた。
しかしいくらママ友に迷惑をかけたからといって、その数時間後に死んで詫びるとか、ましてや娘たちを道連れに、などとなるものなのか。それほどまでに「深刻なトラブル」だったのか。
検察はそれでも犯行の動機は了解可能であると判断、責任能力に問題はないとして起訴。
2年の月日を経て公判前整理手続きが行われていた平成26年春、京都地裁は4月25日付の決定で公訴を棄却した。
みちこが死亡したのだ。
みちこの罪状は殺人であるため、おそらく保釈はされていなかったのではないかと思うが、事件後も離婚していなかった可能性があり、もしかするとなにか事情があって保釈が認められ在宅だったのかもしれない。
みちこの死因、死亡の経緯などは明かされていないが、年齢などを考えても病死というよりは自ら命を絶った可能性も十分考えられた。
ただ、実はあの日みちこは娘を殺害した後、後を追おうとした形跡はなかった。遺書はあったが、あくまでそれは娘を殺害しようと考える前の話で、娘を殺害した後は夫に自分も自殺を図ったが死にきれなかったとメールしたものの、実際にそのような形跡はなかったのだ。
本当の動機は何だったのか。
みちこが言うように、ママ友に迷惑をかけたから死んで詫びる、本当にそれが動機なのだろうか。捜査関係者の間でも、友人家族とのトラブルがあったとして即座に無理心中を考えそのまま実行に移すというのはあまりに突飛すぎるという声があった。
むしろそんなことをされればママ友は普通の神経ならば自責の念に駆られるだろうし、みちこが死んだのではなく結果として無関係の幼い娘が二人も殺害されたとなれば、場合によってはママ友の家族だって壊れかねない。
詫びることになど一切ならないし、嫌がらせでしかない。
……まさか。
奈良の母と娘の事件
その日の朝。娘は両親の寝室から言い争うような、叫ぶような異様な物音が聞こえたためにそっと襖を開けてみた。
そこには、布団にあおむけに寝ている父の姿と、その父に馬乗りになって鬼の形相で首を絞めている母の姿だった。父の胸には、アイスピックが突き立てられていた。
「お母ちゃん!!!やめて!!」
とっさに母親を突き飛ばしたものの、すでに父親の息はなかった。
「どうしてこんなことを」
娘の問いに、母親は「泥棒が入ったようにしとくさかい」そう言って、アイスピックの指紋と血を拭うと、袋に仕舞いこんだ。
ある強盗殺人
事件が起きたのは平成元年の夏のことだった。奈良県奈良市のタクシー運転手、矢部英雄さん(当時47歳)方の2階寝室で英雄さんが胸を刺され、さらに紐で首を絞められて殺害されているのを妻が発見、警察へ通報した。
現場はひどく荒らされており、奈良西署は強盗殺人事件とみて捜査を開始した。
英雄さん方は妻と娘、そして英雄さんの母との4人暮らしだったが、事件当時英雄さんの母親は兵庫県内の病院に入院中だった。
普段は2階の寝室で英雄さんが、その隣の部屋で妻と娘が寝ていたという。事件当日、夏だったこともあり寝室は網戸になっていて、また玄関のカギもかけていなかったという。
午前6時ころ、英雄さんの部屋からうめき声のようなものが聞こえたものの、妻は寝言だと思いそのまま寝ていたと話した。が、やはり気になり様子を見に行くと、英雄さんが殺害されていたというのが妻の話だった。
先にも述べた通り、引き出しなどが荒らされていたことから強盗殺人として捜査を始めた奈良西署だったが、不審な点が浮かんでいた。
そもそも、荒らされていた1階の洋間が、刑事の目から見ると「いかにも」だったという。モノを盗るために荒らしたのではなく、「荒らすために荒らした」というような、偽装臭が鼻をついた。
また、普通強盗が殺人に発展するのは家人が起きだしてきたとか、鉢合わせたことがきっかけというケースが多いのに対し、英雄さんはほとんど抵抗した形跡がなかったという。ということは、強盗は気づかれていもいないのにあらかじめ英雄さんを殺害した可能性があり、殺人が目的だったかのような印象もあった。
そして。それまで客があると必ず吠えていた矢部家の犬が、この日は全く吠えていなかった。
警察は妻から改めて事情を聞いたところ、夫殺害を認めたため殺人の容疑で逮捕となった。
見栄っ張りな夫
逮捕されたのは英雄さんの妻・節美(仮名/当時40歳)。
節美によれば、英雄さんの金遣いの荒さと家庭を顧みないことに不満があったという。
矢部家は昭和54年に自宅を改築、その際複数の信販会社から借金をしたといい、その残額として事件当時1000万円以上あった。
ところが英雄さんは見栄っ張りな性格だったといい、自身も借金を抱える身でありながら弟の借金を肩代わりしていたというのだ。当然、矢部家の家計は逼迫した。
しかし英雄さんは交際費を切り詰めることもなく、ゴルフをはじめとする金のかかる趣味に勤しみ、その分、しわ寄せは節美と娘にのしかかった。
結果、住宅の改築費用のローン返済は滞り始め、事件直前には保証債務で総額500万円の動産差し押さえ通知が届いた。
節美は、これだけ見栄っ張りな夫がもしも差し押さえなどされでもしたら、きっと惨めな思いをするだろう。ならばいっそ夫を殺して自分も死のうと思った、と話した。
夫を殺害する現場を娘に見られたのは誤算だった。でもあの子なら、両親がいなくてもきっとこの先もしっかりやっていける、いや、むしろこんな親ならいないほうがマシかもしれない。
節美は、18歳になるその娘に制止されたもののそれを振り切って英雄さんの息の根を止めた。娘はあまりの恐ろしさに節美の言いなりになって現場の偽装に手を貸したということだった。
しかし奈良西署は、節美の逮捕から二日後、この18歳の娘も殺人の容疑で逮捕した。
お母ちゃんと娘
娘は高校生だったが、父親である英雄さんはその娘の高校の学費すら、払おうとしなかったという。
たまりかねた娘は英雄さんに直談判するも、英雄さんは「お金のことはお母ちゃんに聞け」というばかりで取り合わず、そのままゴルフの打ちっぱなしへと出かけることも度々だった。
「ゴルフに行くお金があるなら、どうして学費を払ってくれないの」
時に暴力まで受けていた節美も娘も、ただただ情けない思いを噛みしめるしか出来なかった。
あの朝、冒頭の通り英雄さんの寝室から声が聞こえたことで娘が部屋を覗いたのはその通りだった。そして、父の体の上に馬乗りになっている母・節美を見たのもその通りだった。
しかし、娘は節美を突き飛ばしていなかった。胸に刺さったアイスピックを英雄さんが抜き、逆にそれを節美に刺そうとしたのを見た娘は節美が殺されると思い、とっさにそれを抑え、その手からアイスピックを奪い取った。
そして、節美がネクタイで英雄さんの首を絞めているのを見て、自らその片端を握ると、節美と共謀して英雄さんの首を絞めたのだった。
「今朝、お父ちゃんのお仏壇に手を合わせてきました。お母ちゃんだけを悪者になんかできません」
娘は警察署での事情聴取に応じた際、そう言って泣きじゃくったという。
一方、娘の関与を一切喋らなかった節美だったが、娘が「お母ちゃんだけを悪者にはできない」そう言ったのを聞いて号泣。娘だけは助けてやってほしいと訴えた。
1年後の裁判で、奈良地裁の菅納一郎裁判長は、弁護側の心神耗弱という主張は退けたものの、懲役8年の求刑に対し懲役5年を言い渡した。
娘は、中等少年院への送致が決定した。
その後、お母ちゃんと娘はどうしただろうか。父、英雄さんへの供養の気持ちと共に、穏やかな日々があったと願いたい。
暴走婦人
岐阜の事件
平成元年2月23日、岐阜県安八郡神戸町の民家が全焼する火災が起きた。焼け跡からはその家の住民である高齢女性の遺体が発見されたが、遺体の死因は頚部圧迫による窒息死だったことが判明。
同月25日、捜査本部は放火殺人と断定、その日の夜に容疑者を逮捕した。
逮捕されたのは被害者宅の近くに暮らす、主婦だった。
被害者は90歳
殺害されていたのは東野きぬさん、当時なんと90歳だった。
きぬさんは非常に健康で、90歳となった時点でも家族の援助を受けながらひとりで生活しており、さらには年金などが充実していて経済的にも余裕があったことは近隣では知られたことだった。
頭もしっかりしており、夜間は必ずきちんと施錠し、近所の人らとの交流もあった。
一方の逮捕された主婦は、きぬさん方の目と鼻の先に暮らしていた青木喜代美(仮名/当時46歳)。
昼間は近くの工場に働きに出ながら生活しており、きぬさんとは自治会の班も一緒、特別親しいわけではないが、近隣住民としての付き合いはあったという。
喜代美に捜査の目が向けられたのは、きぬさんとの間の金銭トラブルだった。
喜代美は1月下旬、きぬさん方を訪れるとこう切り出した。
「25万円で買った大島紬を15万で買ってほしい。」
何に使うのかと尋ねたきぬさんに対し、喜代美は「親孝行をするため」と言ったという。
きぬさんは「この年になってそんな着物はいらないけれど、親孝行はいいことだから」と、付き合いのある信用金庫に出向くとわざわざ借り入れをして10万円を喜代美に貸した。
返済は月に5万の2回払い。月の25日がその期限だった。
しかし返済の5万円を用立てられなかった喜代美は、23日にきぬさん方へ出向いて返済を待ってほしいと頼んだが、きぬさんに断られたという。
その上、きぬさんから返済を強く求められたと同時に、家族に話すということを言われ頭に血が上った喜代美は、口論の末にきぬさんの首を絞めて殺害してしまった。
放火したのは、証拠を隠滅するためだった。
当初はすべてを否認していた喜代美だったが、3月に入るときぬさんを殺害したことは認め、放火についてもその後認めた。
裁判で喜代美は、「指紋が見つからなければいいと思って火をつけた、おばあさんを焼こうと思ったわけではない」と話したが、おおむね起訴事実を認めた。
検察は懸命に、堅実に生きてきた90歳の顔見知りの女性を殺害して火をつけた責任は重大だとして、喜代美に無期懲役を求刑。
そもそも喜代美が金に困ったのは、パチンコなどの遊興費でできた借金85万円の返済があったからだ。酌量の余地は、なかった。
岐阜地裁大垣支部は、求刑通りの無期懲役を言い渡した。
名古屋の事件
殺害された女性はそのあたりでは名の知れた人物だった。資産家だった夫に先立たれて以降も、十分な家賃収入があるにもかかわらず衣料品卸の店をひとり切り盛りし、注文があればバイクですぐに客に届ける。大口、小口に関わらず丁寧な対応で品も安くて良いものが多いと評判だった。
平成元年1月31日。昭和から平成へと切り替わった大きな節目もあり、街も人々もどこか何かが定まらない、そんな時期だった。
その日、名古屋市昭和区に住む妹が女性を尋ねてきたが返事がない。家の中へ入ると、自宅奥の六畳間の布団の中で、女性が死亡していたという。
その遺体は凄惨だった。首元から大量に出血しており、どうも刃物で首を真一文字に切り裂かれたかのようだった。
ただ、なぜか布団は顔までずり上がっており、まるで顔を隠しているようにも見えた。
親切な人
殺害されていたのは名古屋市中区新栄で衣料品卸の店を経営していた熊沢良子さん(当時68歳)。検視の結果、やはり喉の辺りが約5センチほど斬られていたといい、死因は失血死だった。
熊沢さん宅には客の出入りが多かった。が、遺体が発見された平成元年1月31日は朝から店のシャッターが下りたままだったこと、それ以前の30日午後8時までは熊沢さんの妹がきていたことで30日の午後8時半から31日にかけての犯行とみられた。
いつも元気で、小口の注文も快く応じ、しかもすぐに届けてくれるなど非常に親切な経営で近所の主婦らにも重宝されていたという熊沢さん。実年齢よりも若く見えたというのも、日々はつらつと仕事に励み、お客や近所の人を大事にする熊沢さんの生き方が影響していると近所での評判も良かった。
一方で、気になる話もあった。
熊沢さんは困っている人から相談を受けると同情してはお金を貸していたという。ほとんどの人はきちんと返済していたようだが、中には返済がなされていない人も5~6人いたという。
これについては別で暮らす妹や息子らは知らなかったというが、友人らの間では知られた話だった。ただ、熊沢さんは利子をとったりすることもなく、あくまでも個人的な貸し借りというような感じで貸していたようだった。
錯綜
交遊関係が広く、客や金を貸している人間などを含めるとかなりの人が熊沢さんとトラブルになっていた可能性があり、捜査はなかなか進まなかった。
加えて、事件前後に熊沢さん宅周辺では奇妙な出来事が起きていたことも分かった。
事件前夜から31日の朝にかけて、熊沢さん宅近くの路上にコンクリートのブロックがばらまかれていたり、近くの民家の表札が上下さかさまにされていたり、民家の敷地内に見知らぬプラスチックケースが放置されるということが起きていた。
また、熊沢さんの店にあった仕入れた商品のいくつかが所在不明となっていることも分かった。伝票と在庫などを突き合せたところ、婦人物のセーター9枚と子供用のパンツが5枚、なくなっていたのだ。
一度に9枚ものセーターの注文というのは珍しく、そこから足がつくことを恐れて持ち帰った可能性もあるとして、この注文をした人物の行方を追った。
ところが数日後、その商品が熊沢さんの自宅にあったことが判明。全く無関係だった。
路上に散乱していたブロックや、さかさまにされた表札などについてもその後の情報もないことから無関係の出来事だったようだ。
無関係の出来事に翻弄されたせいもあり、事件発生から2カ月が過ぎでも犯人の目星はついていなかった。
生活苦の女
事件が動いたのは平成元年4月に入ってのことだった。
愛知県警捜査一課と中署は、熊沢さんの知り合いで中区在住のパート従業員の女を強盗殺人の疑いで逮捕した。
逮捕されたのは佐藤与志子(仮名/当時51歳)。
与志子は熊沢さんの店の客でもあり、金を借りている人物でもあった。その額、50万円。
与志子は9月頃に30万円、20万円と合計50万円を借り、年末に返すといったものの、返済のめどが立たずに1月末に伸ばしてもらっていたという。1月の中頃、熊沢さんから必ず返済するよう電話で言われた際、ついはぐらかすような態度をとってしまったところ、そのことと与志子の生活態度について熊沢さんから厳しい言葉を受けたという。
それに腹を立てた与志子は、明確な殺意を抱くとともに殺害計画を練り始めた。
与志子には実はほかにも借金があった。サラ金もあったし、知人からの借り入れもあったという。ただ、与志子自身もコンビニのパートや飲食店などいくつもの仕事を掛け持ちする働き者で、またその人柄についても深夜勤務を終えて早朝帰宅すると、そのまま市営団地の掃除当番をこなしたり、近所の顔見知りの人の孫にお菓子をくれるなど、決して評判が悪い女ではなかった。
夫とは別居していたようで、市営住宅では19歳の長男と暮らしていた。与志子はその長男が自慢で、長男が通う専門学校の学費を稼ぐために必死で働いていたという。
事件の3年ほど前には、区役所の方から「生活保護を受給してはどうか」と打診があったというが、与志子は「自分がパートをして頑張ります」と言って辞退している。
しかしやはりその生活は楽ではなく、親しい女友達からもお金を借りことがあった。ただ女友達らには返済期日を守り、返済時には手土産を渡したりきちんとしていたという。
与志子はその女友達とたまにカラオケ喫茶で歌うことが息抜きだった。
事件前年の夏、長男が他人の車を運転中に事故を起こし、車を破損させるという出来事が起きた。修理代は50万。女友達にはせいぜい10万円程度までしか借りられない。
そんな時与志子は、熊沢さんがお金を貸しているという話を耳にしたのだった。
用意周到
熊沢さんは、与志子の話を受けて快くお金を貸してくれた。与志子がそれまで客として来てくれていたことや、その時の話の内容を総合的に判断してのことだと思われる。
そしてその際に、返済期日は12月末。ただそれも熊沢さんが決めたのではなく、与志子からの設定だった。
しかし、そんな短期間に50万円を返せるならばそもそも借りないわけで、その設定は無理があった。与志子がなぜそのような短期間での返済にしたのかは不明だが、もしかすると熊沢さんから借りやすくするための方便だったのかもしれない、ていうか、そうだと思う。
案の定、12月末の返済は出来ず、与志子は熊沢さんに一ヶ月先に返済を伸ばしてもらっていた。
しかしながらほかでも借金をしていた与志子に、もはや返せるあてはなく、そしてそんな与志子の生活について、熊沢さんもいろいろと知るところとなっていた。
1月半ば、与志子は熊沢さんから電話で「今月中に必ず返しなさい」と言われた。そしてその際、与志子がカラオケ喫茶に行っていることなどを含め、人から金を借りていながら遊んでいてはいけない、というようなことを言われたという。
そして殺意を抱いた与志子は、そこから熊沢さんの殺害計画を練り始めた。
1月20日、名古屋市東区の金物店で文化包丁を買うと、手袋も用意。犯行時に指紋を残さないようにするためだった。ほかにも返り血が染み込むことを嫌ってか、ゴム手袋を用意、タオル、着替えを黒いもので揃えた。
さらに与志子は、犯行をしやすくするためにあることを思いつく。与志子は10年以上前から睡眠薬を常用しており、それを熊沢さんに飲ませることにした。
準備が整った1月30日、借金の一部を返済すると言って熊沢さん方に上がり込んだ与志子は、こたつで熊沢さんと身の上話をし始めた。
もともと、人が好きで世話好きな熊沢さんは、与志子の身の上話を親身になって聞いていたというが、そのうち寝入ってしまう。
与志子が持ち込んだ缶コーヒーに、睡眠薬を仕込まれていたためだった。
与志子は、熊沢さんが寝たことを確認すると、その喉元を切り裂いた。
本性
検察は与志子に対して、無期懲役を求刑した。
本来、人柄もよく社会ルールも守りながら、生活保護に頼らず女手一つで息子の学費を稼いでいた母親の鑑とも言えるような評判だった与志子。唯一の楽しみだったカラオケ喫茶通いを熊沢さんに咎められたことが殺意形成の要因になったとすれば、少なくとも日々頑張っていた母親の息抜きまでも批判するというような点において、若干の同情があってもよさそうな気もした。
ところが与志子の本当の姿は、そうではなかった。
検察は与志子が長男の車の修理代のために金を借りたといったにもかかわらず、実際にはその熊沢さんから借りた金のほとんどが与志子の遊興費に充てられていたと指摘。そう、あのカラオケ喫茶だった。
与志子のカラオケ喫茶通いは、息抜きなどというレベルではなかったようだ。たしかに、息抜きであれば熊沢さんの耳に入ることもなかろうし、入ったところで月に1~2回程度良いじゃないかと熊沢さんも思ったろう。
しかしその度が過ぎていたために、熊沢さんとて看過できなかったのだ。
さらに与志子は着道楽だった。熊沢さんの店を利用するようになったのも、洋服を買うためだった。
カラオケ喫茶にやってくる与志子の服装は地味とは程遠かった。それらも、熊沢さんから借りた金が充てられていたのだ。
与志子は熊沢さんを殺害後、自分の借用書は持ち出したものの、バッグにあった現金140万円には気づかなかったのか、手をつけていなかった。
ただ、店にあったアンゴラのセーターやコートなど5点を盗み出していた。そしてそれらを後日、別の友人に対して借金のカタにしている。熊沢さんの借金を免れたにもかかわらず、与志子はどこまでも金に困っていた。
与志子の本性はこれにとどまらない。熊沢さんに睡眠薬を飲ませようと思いついたのは、実は過去に同じ手口でこん睡強盗を働いたことがあったからだった。
いざとなれば犯罪行為を簡単にやってのける。与志子の本性は、実はこちらだった。ちなみに、別居していたという夫の居場所は、実は刑務所だった。
与志子が熊沢さんを殺害したのは、借金を免れるためとされた。しかし先にも述べた通り、バッグを探ることすらしておらず、現実問題金に困っていた人間の行動としては違和感もあった。
与志子は本当に借金帳消しが第一目的だったのだろうか。
与志子は周囲の人々に金を借りることはあってもその返済はしていた。長男にも、サラ金などに借金があることは伏せていた。
熊沢さんにも、借金のことはくれぐれも内密に、とお願いしていたという。その約束通り、与志子が逮捕されても熊沢さんの家族は全くその存在すら知らなかった。
警察関係者は、与志子の動機として当然に借金帳消しがあったとしても、一番はひた隠しにしてきた自分の負の部分を身近な人に知られたくないという思いに苛まれ、不安が高じた末の犯行との見方もしていた。
熊沢さんさえいなくなれば、バレることはないのだから。
平成元年9月、名古屋地裁は与志子に求刑通りの無期懲役を言い渡した。
茨城の救いのない事件
父は娘の無事をひたすら祈り続けた。年末年始も関係なく、山を、雑木林を、谷をありとあらゆる場所を探して回った。
たった4歳。4歳の子どもが一人でいれば、誰かが助けてくれてはいないだろうか。
しかし捜索から一週間。父親の祈りは届かなかった。
奇妙な事故
それは奇妙な事故だった。
平成11年の元日午前11時半ころ、茨城県八郷町(現・石岡市)の農道を車で走行していた人が、不自然にガードレールに突っ込んだ状態の車を見かけた。
そばには、運転手とおぼしき女性もいた。
「どうしました?大丈夫ですか?」
声をかけると、女性はおろおろとした様子で「娘とはぐれてしまった」と話した。
場所は茨城県の土浦ICの北に約10キロ、朝日峠を通る広域農道「フルーツライン」と呼ばれる道路沿いだった。
近くに民家や店はなく、道路をはずれればすぐ雑木林となり、場所によっては崖などもある危険な場所。はぐれた娘は、まだ4歳だった。
すぐに捜索が始まったが、その日は発見に至らず夕方で捜索は打ち切られた。
母親によると、娘とドライブ中に事故を起こし、ふたりで近道をしながら下山していたところ、はぐれてしまったのだという。
季節は真冬。いくら事故があったとはいえ、幼い子供とふたりで歩いて山を下りる、しかも道路沿いならこうして通りがかる車に助けを求めることも出来るのに、なぜわざわざ危険をおかして山の中を歩こうとしたのか。
捜索は地元消防団や警察機動隊など、100人体制で続けられたが、その間、警察は母親から詳しく事情を聞いていた。
そして1月6日、事故現場から道路沿いに1,7キロ、直線距離で300mの朝日峠展望公園脇の斜面で、冷たくなった女の子が発見された。
遺体で見つかったのは、仁平里沙ちゃん(当時4歳)。保育園に通う、元気な女の子だった。
遺体発見の知らせに、捜索を続けていた父親は駆け付けたもののショックのあまり対面することが出来なかった。
1時間余り気持ちを落ち着け、奮い立たせ、そっと署員がシートをめくると、そこにはまぎれもなく我が娘の姿があった。
あたりには父親の慟哭だけが響いていた。
許されざる女
実は警察は、31日の夜の時点で母親から重大な証言を得ていた。
当初、ドライブ中の事故だと言っていたのが、本当は自殺しようとして事故を起こしたと話していたのだ。
さらに話は二転三転、死にきれずに車外に出て彷徨ううちにはぐれたのではなく、死に場所を求めて里沙ちゃんの手を引き歩いているうち、里沙ちゃんがあるかずにぐずったため、その場に置き去りにしたというのだ。
そして自分は死ぬこともなく、車へと戻ると通りがかった人に悲劇の母を演じてみせたのだった。
保護責任者遺棄致死の容疑で逮捕されたのは、里沙ちゃんの母親の仁平優佳子(仮名/当時26歳)。
優佳子は夫との間に離婚問題が持ち上がっていたという。
平成10年12月30日19時ころ、里沙ちゃんと心中するつもりで車で家を出ると、そのままあてもなく車を走らせた。そして30日の深夜、死ぬつもりで自損事故を起こしたが死ねず、先に述べた通り結果として里沙ちゃんを山中に放置し、凍死させたのだった。
里沙ちゃんはピンクのハローキティのトレーナーにスカート、黒いタイツ姿だったが、防寒着などは来ていなかった。
30日から31日にかけての気温はマイナス4~5度。司法解剖の結果、里沙ちゃんは置き去りにされて数時間から半日の間に凍死したと判明した。
裁判で弁護側は、事件当時優佳子は夫との間で離婚問題を抱えており、また借金の問題もあったことで心神耗弱に近い状態だったとして情状面に訴えた。
しかし検察は、そもそも離婚問題の原因には優佳子の不倫があったと指摘。さらに優佳子には里沙ちゃん以外に長男の存在もあったことから、子供たちを残して自分だけ死ぬのは子供が不憫だとか、子供を道連れにする事件特有のそういう言い訳も通用しなかった。
優佳子は罪を認め、「私は母親の自覚がなかった。罪を償いたい」と話していた。
水戸地裁の松尾昭一裁判長は、「結婚後も別の男性と交際するなど、無節操で無軌道な生活態度」が事件の背景であると厳しく批難。子供の人格を無視しており、母親としての自覚も全くないとした。
優佳子が現時点で深く反省、後悔していることは認めながらも、懲役6年(求刑懲役8年)は免れないとした。
里沙ちゃんは、優佳子に手をひかれ山の中へと歩くよう促された、。しばらくは歩いていたが、真っ暗闇の山の中で恐怖を感じて当たり前である。寒さも堪えたろう。
里沙ちゃんは歩きたくないとぐずり、泣き始めた。そして、「パパ、怖いよ」とその場にいない父親に助けを求めたという。
この時、優佳子は何を思ったろう。どんな気持ちから、里沙ちゃんを置き去りにしたのだろう。恐怖と寒さで泣き叫ぶ幼い我が子を、振り返りもせず置き去りにしたのか。その耳に、娘の泣き声が聞こえなくなるまでどのくらいかかったろうか。
こんなこと、あなたならできるか。助けてと叫ぶ我が子を真っ暗な山の中に置き去りになどできるか。そんなことが出来てしまうほど追いつめられていたのだと、母親であるというだけでかばうか。それを里沙ちゃんに言えるか。
里沙ちゃんは母を探し、生きるために暗闇の山の中を恐怖に耐えながら2キロ近く歩いた。途中、靴が脱げても里沙ちゃんは歩き続けた。どれだけ泣いただろう。
そして、力尽きた。
里沙ちゃんの体は大きなケガもなく、その愛らしいほっぺたと手足にひっかき傷のようなものがあっただけだった。
優佳子はその後、何度かもと来た道を戻り、里沙ちゃんを置き去りにしたであろう場所へ行き来したのだという。その心に、ほんの少しの人間性が残っていたのか。
しかしもう、何もかも遅かった。
事件後、遺体発見現場には花やお供え物が手向けられた。
石岡市内の60代の男性は、いてもたってもいられずにやってきたと話した。
「でも、こうしてお花を供えたって、死んだ人は戻って来ないんですよね」
里沙ちゃんを救えなかった以上、なにもかもむなしいだけだった。
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参考文献
朝日新聞社 平成元年4月15日名古屋朝刊、9月13日、10月25日名古屋夕刊、平成11年1月1日東京朝刊、平成26年4月30日大阪地方版/京都、平成元年8月9日大阪夕刊、8月14日大阪朝刊、
読売新聞社 平成11年1月7日、8日、4月24日、7月23日東京朝刊、平成26年5月1日大阪朝刊、
日刊スポーツ新聞社 平成11年1月7日
中日新聞社 平成元年2月1日、2日、21日、26日、3月4日、4月13日、15日、5月2日朝刊、4月15日夕刊、
毎日新聞社 平成元年8月16日東京夕刊、平成24年9月17日大阪朝刊、18日大阪夕刊、
産経新聞社 平成24年9月16日、10月5日大阪朝刊、