青空~苫小牧・2児ネグレクト死体遺棄事件~

平成18年10月30日午後6時30分

すでに冬の寒さとなっていた北海道苫小牧市。10月第三週に入ってからは薄曇りの日が続き、最高気温は10度から13度となっていた。
この日も、日中は晴れていたものの気温は前日よりも3度低く、最低気温は4.1度と10月に入って最低気温を記録していた。

苫小牧市の中心部、旭町にある市営住宅。この一室で、母親はその日幼い兄弟を家に残したまま、帰らないと決めて玄関のドアを閉めた。

平成19年2月20日

その前日、苫小牧署に室蘭児童相談所から通報が入っていた。
「支援している母親の子どもに会えていない」
通報を受けて苫小牧署員が件の母親に連絡を取った。母親の名は山崎愛美(当時21歳)。旭町の市営住宅で4歳の長男と17か月の三男との三人暮らしだったが、室蘭児童相談所は、その三男の姿を確認できずにいた。
愛美は旭町の市営住宅を124日付で退去しており、当時は高砂町の実母が暮らす市営住宅に同居していたという。
生活には困窮していた様子で、一時は生活保護も受給していたが、それよりも子育てについて悩んでいた様子がうかがえた。

苫小牧市役所には、愛美が子供の面倒が見られないといった趣旨の相談に訪れた記録があり、29日には苫小牧市が室蘭児童相談所へ通告を行っていた。
それを受けて、室蘭児童相談所は愛美と2回にわたって面談した。その際に、三男がいないことを尋ねると、曖昧な返事しか返ってこなかったことに不信感を抱いた担当者が、苫小牧署へ通報したのだった。

署員が愛美に事情を聞くと、市営住宅退去後、有珠の沢町在住の当時交際していた男性宅で同居していたこと、荷物はその男性宅へ運んでいたことなどが判明、任意で男性宅を調べたところ、男性宅の裏庭にあった物置の中から乳児らしき遺体が発見された。
遺体は腐敗が進んでいたが、頭部にはビニールがかぶせられ、洋服は着たままだった。
愛美の自供から、この遺体が行方の分からない三男であるとみて死体遺棄の疑いで愛美を逮捕した。

遺体は死後35か月経過していると見られたが、愛美の話から食事を与えられなかったことによる衰弱で、餓死または病死したと推測された。
愛美は、「昨年10月から三男を自宅に残し、交際相手の家にいた。12月に戻ったら、三男が死んでいた」と供述。さらに、保護された長男も一緒に置き去りにしていたと話したが、保護された時点での長男の健康状態は問題がなかったことから、長男が実際はどこにいたのかも警察では調べを進めていた。

しかし、実際に長男は愛美の供述通りあの市営住宅にいた。弟と二人、帰らぬ母をその部屋で待ち続けていたのだ。

ウジ虫が這ってくる部屋

そもそも愛美が家を出てすぐの11月、市営住宅ではあるトラブルが起きていた。
愛美の自宅がある8階では、何とも言えない悪臭が漂っていたのだ。夏場であれば、ベランダに放置した生ごみなどの臭いかとも思えたが、時期は冬、暖房が必要な時期だった。
(残り文字数:12,103文字)


また、その臭いはゴミというより「動物が死んでいるような」臭いであり、住民らはペットが死んでいるのではないかと噂していた。
さらに、隣人らは愛美の自宅方向からウジ虫が這ってくる事態に悩まされていた。
苦情は市へともたらされ、12月末には撤去命令の張り紙も張られていた。

その時点で市は愛美に連絡を取っていた。隣人らがいくらチャイムを鳴らしても応答がなかったが、携帯電話は通じていた。
「部屋を使用していないようだが、住み続ける意思はあるのか」
そう聞かれた愛美は、退去の意向を示したという。
12月に引っ越した際、そこには引っ越しを手伝う交際男性(27歳)とその父親の姿があった。
愛美に二人の息子がいることはその男性も当然知っていた。しかしその日、愛美がつれていたのは長男だけだった。
「弟はどこにいるの?」
何気なく訊ねた男性に対し、愛美は途端に不機嫌になり「母親に預けている」とぶっきらぼうに答えた。

部屋を覗いた男性の父親は、その部屋の惨状を目の当たりにして息をのんだという。
「床にはティッシュが散乱して、排せつ物なのか吐しゃ物なのか、よくわからないような汚れが広がり、(突然死した)次男の遺影はゴミに埋もれていた」
しかも、愛美はその次男の位牌を転居先にもっていくことはなかった。次男の位牌は残した「ゴミ」とともに、市営住宅に置き去りにされたのだった。かろうじて遺骨と遺影は持ち出したようだったが、転居先の交際男性の実家でも、その遺骨が入った陶器の箱は、当初ドッグフードの横に無造作に置かれていた。しかし、事件発覚の二か月ほど前には、他の使わなくなった玩具とともに捨てられていたという。

一方で愛美は、男性やその父親に内緒で持ち込んだものがあった。
バスタオルにくるみ、段ボールに入れた三男の遺体だった。当初警察では、引っ越しを手伝った男性も事情を知っていたのではないかとみていたが、男性も父親も全く知らなかった。
そして、自宅の裏の物置に勝手にその遺体入りの段ボール箱を放置されていたのだった。

ハードモードの人生

愛美の人生は平坦なものではなかった。
10歳の頃両親が離婚、父親とは疎遠になった。母親の手で育てられたものの、なかなかうまくはいかなかったという。
両親が離婚した後、一時児童養護施設で暮らしたこともあったというが、それは実母の男性関係が関係していたという。非行に走った中学時代を終えてからは水商売のアルバイトなどで生計を立てていた。時期は定かではないが、性的暴力の被害にも遭ってもいた。
平成1312月、ある男性と出会い、同棲。平成14126日に長男を出産、同月16日に男性と籍を入れた。
ちょうど1年後の平成151219日、次男を出産するもその頃から父親である男性が職をコロコロと変えるようになったという。
愛美に対して暴力を振るうこともあり、次第に二人の仲は壊れていった。
平成16923日、次男が突然死する。授乳して転寝をして気付いたら次男が息をしていなかったという。解剖までされたが、事件性はなく新生児突然死症候群と診断された。
翌年の春、愛美は離婚したが実はその時第三子を妊娠していた。
7月に三男を出産した愛美は、しばらく実家で過ごしたものの、実母と折り合いが悪かったこともあり、事件現場となった旭町の市営住宅に子供二人を連れて移り住むことになった。

離婚してからは生活保護を受給し、なんとか子どもたちを育てようとしていた。愛美は、絵本を読み聞かせたり、長男の手を引いてベビーカーに三男を乗せて保育園へ通う姿もよく見かけられており、当初は若いなりに頑張っている母親、と周囲には映っていた。

自立するため、昼間のファミレスなどでパートをしていた愛美だったが、若く学歴もなく手に職もない母親がとりあえず稼ぐためにたどり着いたのは水商売だった。
平成18年の夏からは、スナックでホステスとして働き、当然帰宅は深夜になった。
幼い兄弟の面倒は実母に頼んでいたようだが、夜の世界は思った以上に愛美を魅了した。
子どもをほったらかしで遊び惚ける愛美に業を煮やした実母が説教をしたことで、以降愛美は実母に世話を頼まなくなる。
愛美はスナックを辞めることなく、子どもたちを自宅に残したまま仕事に出かけるようになり、帰宅は時に朝方になった。
朝になれば当然子どもたちは起きてくるわけで、睡魔に襲われながら子供たちの世話をすることに愛美はだんだんと嫌気がさしてくる。
生活保護を受けてはいたが、スナック勤めを理由にその受給を取りやめており、経済的にも愛美はいっぱいいっぱいになっていた。通わせていた公立保育園も、愛美が朝起きられないせいで送迎が出来ず、退園せざるを得なかった。ちなみに、数か月後に再度入園を申し込んでみたが、「定員オーバー」という理由で断られた。

長男には精神発達の面で遅れがあったという。赤ん坊の三男に加え、成長がゆっくりの長男のことも愛美は次第に煩わしいと思うようになっていった。

殺意

その頃愛美には50代の男性の存在があった。
一緒にバーベキューを楽しんだりするうちに、ふたりは親密な関係となる。事件直前の平成189月ごろから交際が始まったが、10月になると口論が続いたという。
107日、ふたりは別れることになったが、愛美は男性に未練があった。
辛さを紛らわすために愛美はそれまでよりもいっそう遊び歩くようになる。50代男性と交際しているときも、それにかまけて子供の世話を怠ったり、幼い兄弟が甘えたりすることを嫌い、わざと別室で過ごすなどおよそ母親とは思えぬ行動に出ていた。

食事も朝食は与えず、自分が仕事帰りにコンビニで買って帰った弁当を昼頃になってようやく食べさせるといった体で、オムツもろくに換えなかったし、入浴は自分が入るタイミングで適当に済ませていた。
子どもたちに絵本を読み聞かせていたころの愛美の姿はもうなかった。

1015日になって、別れたはずの50代男性からふと連絡がきた。
おそらくその時肉体関係を持った。復縁できるかと思った愛美だったが、男性にその意思はなかった。しかし、SEXだけの関係は続けてもいいというまぁ、よくある話になってしまい、それでも男性に未練があった愛美はその関係を受け入れてしまう。
ただ、愛美としてもそんな関係が長続きするわけもないし、何より自分が辛いと考え、それならばいっそスナックの客で自分に好意を寄せていた別の男性と交際した方がいいと思ったようで、30日、50代男性にそのことと「別れ」を告げた。

すると50代男性がその決断を「残念がる」様子を見せたことで愛美の心はかき乱されていく。
自分から別れを告げてしまったことを激しく後悔すると同時に、もう何もかもから逃げ出したいという衝動にも駆られていた。

そんな母を、長男は何かと気遣っていた。
50代男性との交際に行き詰り、ふさぎ込む愛美を見て、長男は「ママ、なしたの?」と声をかけた。弟も、ハイハイしながら母親の足元に甘えてきた。
しかし愛美は、かわいい盛りの我が子を見ても心癒されるどころか、こんな子供の世話などしたくない、ふたりとも死ねばいいと思った。
この時点でその思いは確かなものとして愛美は自覚していて、それを落ち着けるためなのか、一旦は幼馴染に電話を掛けた。
生活の窮状や男性とのことを相談すると、その幼馴染は市役所の福祉課に相談するようアドバイスしてくれた。
愛美も福祉課は生活保護受給の関係で知った人間がいることから、担当者に電話を入れ、子供を育てられない、預けたい旨を相談した。

電話はいろいろと回され、なんとか児童相談員と面談の約束を取り付けたものの、それは116日とまだ先で、さらに相談内容から交際相手の存在が知られ、内縁関係を疑われたことで児童扶養手当の見直しをほのめかされてしまう。
愛美はそんな市役所の対応を信用できないと思ってしまった。以降、愛美は連絡を絶った。

もう限界。みんなと同じように楽しい生活がしたい。子供に時間を取られたくない、これでは好きな人とも一緒にいられない。

そしてこの時、愛美の心には子どもたちに対する確定的な殺意がその鎌首をもたげていた。

残り物のチャーハン

愛美は男性に自分から別れを告げた形になってしまったこと、そんな事を言わなければもしかしたら復縁できたかもしれないという思いにさいなまれ、激しく動揺していた。

その上で、子どもたちのことなど考えていられない、いや、考えたくないしむしろ殺す以外に方法はないと真剣に思っていた。
しかし、さすがに自らの手で殺害してしまうことは躊躇われた。
首を絞める?包丁で刺す?愛美はいったんはそれも頭をよぎったが、目の前の幼い我が子を見て、とてもそんなことは出来ないと思った。

ふと窓の外を見れば辺りはもう暗く、時刻は18時を回っていた。
朝から何も食べさせていない兄弟は、おなかを減らした様子だった。

夕食の支度などまともにしたことはこの最近なかったが、そこで愛美はあることを思いついた。
冷蔵庫の中は食材らしいものはほとんど残っておらず、現に昨夜の夕食は冷蔵庫の残り物をかき集めて作ったチャーハンだった。
それ以外に食べるものといえば、カップ麺が数個、あとは生米が米びつに残っている程度。

愛美は思い立ったようにバッグに身の回りの必需品をぶち込むと、黙々と外出の準備を始めた。詰め込めるだけのものを詰め込むと、そのまま幼い兄弟を残した部屋を、振り向くことなく出て行った。

この時の心境を、裁判で愛美はこう証言する。

「(家を出る時は)逃げ出したい気持ちだった。何もかも全部から逃げ出したかった。このまま戻らなければ、餓死すると思った。」

母が夜家にいないことは、兄弟にとってもはや日常であった。
それでも翌朝になれば、母は帰ってきていた、その日までは。兄弟はおそらくその日も、目が覚める頃にはまたママが帰ってきていると思っていただろう。
しかし、目覚めた朝、母の姿はなかったし、どれだけ母を探しても、呼んでも、叫んでも、泣いても、その声が母に届くことはなかった。

1日、2日、日が経つにつれ北海道の冬の寒さは厳しさを増していく。
11月の初旬はそれでも15度前後の気温で推移していて、夜でも10度を超えていることもあった。しかし中旬には一気に冷え込み、最低気温が氷点下になる日が増えてくる。昼間でも10度以下だった。
この市営住宅は日中、自動で暖房が入る設備が整っていたようだったが、夜になればそれも切れた。冷たく暗い夜の闇の中で、1歳の弟は次第に動かなくなっていった。

「ママ、遅い」

一方愛美はというと、件の50代男性とのことを忘れたかったのか、27歳の交際男性の自宅で同棲のような生活を始めていた。
自宅を出て、数日、一週間と日が経っていった。愛美はふと子供たちのことを思うことはあったというが、酒を飲んで忘れたと後の裁判で話した。

ただ、一度だけ、愛美は市営住宅へ戻ったことがあった。
家を出て1~2週間後の11月、愛美は粉ミルクを持って市営住宅の自室のドアの前に立っていた。
しかし結果として、愛美はそのドアを開けることはせず、粉ミルクを玄関ドアの前において立ち去った。
三男の死亡時期は推定ではあるものの、おそらく遺棄されてから1週間後といわれているが、もしかしたらこの時ドアを開けていたら、命の危険はあったにせよ、三男は死亡せずに済んでいたかもしれない。

市営住宅は昼間暖房が自動で入ることは伝えたとおりだが、それが三男の遺体の腐敗を速めたようだった。
臭いは周囲に漏れ、苦情が愛美に入ったことで、12月4日、愛美は市営住宅へ戻った。

玄関を開け、強烈な腐敗臭が充満する室内へ入ったその時、「ママ!遅い!」という声とともに長男が飛びついてきた。
愛美は心臓が口から出るほど驚いたという。その時の心境は、「なんで立ってるの!?」という疑問だった。
長男は、遺棄された後冷蔵庫や戸棚などを漁っては、マヨネーズやケチャップといった調味料を口にして生き延びていた。

米びつにあったはずの米もなくなっていたことから、生米も口にしていたと見られた。さらには、ゴミ箱の生ごみまでも食べていた形跡もあったという。
しかし、1歳の弟はそれすら食べることは出来なかった。

「もしかして弟も生きてる?」そう思って慌てて室内を見渡すと、ゴミの山の隅に、変わり果てた三男の腐乱遺体が転がっていた。

縋りつく長男を押しやると、愛美は三男の遺体の前に膝をついた。
そして、その口の中で蠢いている大量の蛆虫を、手で掻き出した。そしてそのぽかんと真っ黒な空洞となった口にガムテープを貼り付けると、ビニール袋で包み、段ボール箱に押し込んだ。
愛美は交際相手の男性に電話をすると、「運び忘れた荷物があるから取りに来て」と伝え、何も知らない交際相手の車で有珠の沢町の男性宅へ戻り、こっそりと物置に遺体入り段ボールを放置したのだった。

その段ボールは、以後、警察が介入してくるまで誰にも気づかれることはなかった。

裁判

愛美は当初、三男の死体遺棄、長男と三男に対する保護責任者遺棄、そして三男への殺人の罪で起訴された。
検察は愛美の供述から、長男への殺人未遂も視野に入れていたというが、公的機関に保護された2月の時点では長男の健康状態が著しく悪いというわけではなかったことから、それは見送った。

愛美は交際男性とは1月に別れて、その後は高砂町の実母方で長男と生活していた。にもかかわらず、三男の遺体入り段ボールを持ち出すことはしていなかった。

検察は愛美を「自身の身勝手な考えで子供らを餓死させようと目論んで、第三者が介助しなければ食事もできない三男と、精神発達遅滞の長男を市営住宅に閉じ込めて他人が介入できない状態にした」と主張。
弁護側も、愛美が捜査段階から殺意を持っていきしている点を認めていることや、結果の重大性などから主に愛美の生育歴や事件当時の経済的困窮を挙げて、主に情状面での配慮を求めるといった主張だった。

検察はさらに論告求刑で、「(餓死させようと決めたのは)自分は嫌な思いをしたくないという考えで残酷」と指摘、弁護側は母親としての未熟さと経済的困窮があり、更生の余地はあるとして情状面に訴えた。

愛美は裁判長から今の気持ちを述べるよう促され、「ひどいことをした。どんな罪(罰)も受ける。今まで出会った人にごめんなさいとありがとうを言いたい」と涙声で呟いた。

平成19年12月17日。
札幌地裁室蘭支部の杉浦正樹裁判長は、「男性との交際がうまくいかない悲しみを何の罪もない我が子二人にぶつけ、養育を放棄して三男殺害に至った」と認定し、「幼い兄弟の身に生じた長期間にわたる飢餓と苦痛は想像を絶する」と述べた。
また、長男に対する保護責任者遺棄も、愛美の本心は殺害を目的としていたと認定した。
犯行の様態についても、検察が主張した「自ら手を下さず餓死させるという方法の選択」を計画的かつ狡猾であるとともに、卑劣、非常にして残酷といほかなく、極めて悪質と厳しい言葉で綴った。

三男死亡を知った後の愛美の行動についても、まったく事情を知らない交際男性宅の物置に放置するなど、母親としてというよりも人として当然持っているべき死者に対する畏敬の念すら持ち合わせておらず、もはや人間としての憐れみの情を失っているとし、これらの点から弁護人が主張する点を酌量したとしても長期間の刑を科すことはやむを得ないとした。

空腹の中、母を思い、信じ、本来愛されるためだけに存在している時期の1歳7か月の弟が何を思いながら絶命したのか、さらには死してなお、母のもとにも置いてもらえなかった幼い弟の心情に、裁判長は「まったくもって無惨」と表現した。

さらに、生きながらえた長男にも思いを寄せた。
空腹を耐え、幼い弟を気にかけながらもどうすることもできず、変わりゆく弟の様子をたったひとりで見つめていた長男。
それでも母が帰ってくることを信じ続けていたその思いは、「ママ、遅い」の一言に凝縮されている、と。

判決は、懲役20年の求刑に対し、懲役15年。判決は確定した。
実は愛美はこの時、第4子を出産した後だった。

苫小牧という土地

この事件は、「ネグレクト」という言葉を広めたという意味で、大阪で2010年に起きた下村早苗の事件よりも先に衝撃を与えた事件である。

この事件では、完全に周囲をシャットアウトしていたわけではなく、愛美自ら市役所などに救いを求めていた。
事件直前の10月、そして、事件後の翌年2月である。
この10月の相談では、子育てに窮しているという「相談」だったのに、逆に支援を見直すといった話に及んでしまったことが愛美を遠ざけた要因とも言われた。
通常、養育など子育てに関する相談窓口は独立してあるべきところを、苫小牧市役所では児童扶養手当受給に関する窓口と兼用だったという。そうなると、単に相談に来ていただけなのに、その話の内容から受給要件を満たしているかどうかの判断に話が及んでしまい、それでは本心を打ち明けられない、相談できにくいシステムになっている、と指摘する声もあった。

また、1か月の間幼い子ども二人が置き去りにされていながら、市営住宅の人が誰も気づかなかったというのも疑問を持たれた。しかも、愛美は11月にはいってから粉ミルクを玄関ドアの前に置いている。
それにも誰も気が付かなかったのか、なんとも思わなかったのか…

かなり泣いたであろうし、それは昼夜を問わなかったはずだ。超高級マンションならいざ知らず、古びた市営住宅で子供の泣き声が一切聞こえないなどあるのだろうか。
しかも腐敗臭に蛆までわいていたのだ。それでも警察に通報されることはなかった。

しかし、いずれも「なるべくしてなった」という事情が底に垣間見える。

市への愛美の相談についてだが、これがたとえば「仕事がなくて子供を育てられない、お金がない」という相談ならばこうはならなかった可能性があるのだ。
愛美が相談した内容は、
「仕事を始めたけどホステスなので昼夜逆転する、彼氏も出来て彼氏の家で暮らそうと思ってる、でもそれでは子供を育てられない」
という趣旨だったようなのだ(裁判資料でも確認できる)。
・・・これじゃあ私が担当者でも、そんな理由は通らねぇよと言ってしまうかもしれない。だって彼氏ができたから子ども育てらんないって言われて、そうだよねぇ、施設入れよっか、とか言う?
いや、このケースの場合はその方が良かったのだ。しかしもしもそんなことを市役所の人が言ったら言ったで、大問題だったと思う。

また、事件後取材に応じた苫小牧市役所の幹部によれば、
「もっと頑張ってる母親はたくさん(苫小牧に)いる。どんなに周りが助けようとしても、本人が命の尊さを分かっていなければどうしようもない」
と新聞に話しているが、これについても今ならばいろいろと槍玉にあげられそうな発言といえる。
しかし、勝手な想像ではあるが、この、冷たく突き放すような感覚というのか、これは「苫小牧独特」の感性でもあるような気がする。


ストリートビューで苫小牧市をざっと見てみると、正直言って申し訳ないが「退廃」という言葉しか思い浮かばなかった。
苫小牧は東西に分けられるといい、東の方は大型ショッピングセンターなどもあって結構人もいるようだが、西になれば過疎の町といってもいいほどだ。
特に、愛美が暮らした旭町から実家のある高砂町あたりは、海が近いこともあってかいっそう閑散とし、あまり整備されていない空き地や古い家々が立ち並ぶ。閉店したままの商店も多い。

また生活保護率も、もともと北海道は全国平均(1.6~1.7%)より倍(3.0~3.2%)なのだが、苫小牧市はさらにその上を行く3.47%である。
人口は少しずつ減りながら、逆に保護世帯数は増え続けている。世帯数にして4,395世帯が生活保護を受け、人数にすると6000人に上る。それを、たった50人のケースワーカーが担当するというから衝撃である。(参照:苫小牧市役所

そういった、貧困が背景にあるのは何も愛美に限った話ではないということが見てとれる。市役所幹部が言う通り、「そんな家庭は吐いて捨てるほどいる」のが実情だろう。比較的母子世帯、貧困世帯への援助があったという苫小牧市には、離婚を機に越してくる母子世帯もいたという。
近隣住民が市に苦情を言うだけで警察に通報しなかったのも、なにかこう、荒んだ日常(ひっきりなしの子どもの泣き声や悪臭、ゴミ屋敷など)はありふれていて、そこではさほど問題ではないこと、のように扱われていたのかなと思う。

もちろん、かといって切り捨てていいわけではないが、愛美の場合は実母という存在が近くにありながら、自身と実母の関係性で煩わしいことを避けたいがために協力を断ったという事実もある。夜の仕事をしながら一人で子育てしている人も少なくない。愛美は仕事が終わっても家に帰らず、自ら遊び歩いていたのだからそりゃ眠いでしょうよ。
保育園に通わせていたのだから、保育園に送った後でひと眠りするなどいくらでもできた。
しかし愛美は、自分が子供のペースに合わせる事を全くしようとしなかった。

実母

しかしながらこの愛美の実母もちょっと理解しづらい面がある。
いくら愛美とそりが合わない、とはいえ、幼い子どもを二人抱えた我が娘を知らん顔できるものだろうか。
たとえ娘に拒否されても、子どもたちのことは、と思わないものだろうか。
事件後の報道では、久しぶりに会った長男から、「ママ怖い、(弟の)口の中に虫がいっぱいいた、ママがとった、ビニールをかぶせた」などと聞かされていた。
もちろん、それまでにも子供たちのことを訪ねてはいたようだが、「知人に預けてる」と話す愛美を本気で信じていたんだろうか。次男が死亡したとき、一番に「突然死ではないのでは」、と疑ったのは実はこの実母だった。

興味深い話がある。
事件直後の新聞報道で、愛美が住んでいた市営住宅の隣人がこんなことを話している。

「(愛美の姿は)10月くらいからあまり見なくなった。11月以降はたまに(愛美の)お母さんが来て、ゴミ袋を抱えて出て行ったりしていた」(2007.02.21 東京新聞夕刊)

・・・?
愛美が幼い子どもたちを置き去りにして家を出たのは10月30日である。それ以降、12月4日まで家に立ち入っていない。
しかし隣人らは、愛美の母親が部屋に出入りしているのを見たというのだ。11月ごろから、と証言しているし、その同じころに愛美の部屋からウジ虫が這ってきたいたと話す。
遠く離れた場所に住んでいるならなかなか様子も見に行けないだろうが、高砂町と旭町は目と鼻の先である。しかも、愛美がいないにもかかわらず部屋に出入りしていたというならば、鍵を持っていたのではないか。

もちろん近隣住民らの勘違いかもしれないが、11月以降立ち入っていたことがもしも事実なら、それまでも子供を置いて外出する(そもそも子供を置いて仕事に行っていたのを知らないはずがない)ことがあるのを知っていた実母が、愛美の「決意」に気付かず、置き去りにされた子どもたちを見過ごした、ということはないだろうか。まさかすべてを知って放置したとはさすがに思いたくない(11月以降母親が出入りしていたという話が本当なら、ですよ)。
事件後男性と別れた愛美と同居し、三男の姿が見えないにもかかわらず、そして長男のあの言葉があったにもかかわらず、自ら動くことは一切なかった。長男の言葉を、実母は手帳にしっかり書き付けていたにもかかわらず、だ。
普通の神経をしていれば、これはただ事ではないと感じそうなものだが、めんどくさいことは考えたくなかったのかなんなのか・・・
そもそもこの実母は、愛美の逮捕後、生き延びた長男の養育および、生まれてくる第4子の引き取りを拒否した。

別の話としては、長男について実の父親が引き取りを希望したものの、施設にいて愛美がそれを拒否しているため、実現しなかった、というものもある。
施設に入っているのであれば、愛美の実母が引き取らなかった話と一致するが、父親については定かではない。

楽しいことだけ

愛美は子供を殺してでも、好きなように生きたかったのか。
にわかに信じられないこの事件は、いっそ目黒の事件や千葉の事件のようになにか理由があったのではないかと思ってしまう。

しかし裁判では愛美の殺意が認定され、弁護側もそこを追求することはなかったようだ。
本気で殺すつもりだった、そのための遺棄だったと愛美も認めた。

ならばなぜ、11月になってドアの前に立ったのか。手ぶらだったのならば別だが、その手には粉ミルクが抱かれていたのだ。少なくとも、幼い子どもたちのために持参したものだったことは間違いない。死ねばいい、餓死してほしいと願っていたはずなのに、愛美は粉ミルクをもって一度はドアの前に確かに立った。

この時点では、引き返すことも考えていたのだろうか。

しかし結果として愛美はそのドアを開けなかった。それは、10月30日にドアを閉めた時と同じ、「何もかもから逃げ出したかった」ということに他ならないだろう。
子どもたちの存在も、このまま誰にも気づかれないと思ったのかもしれないし、次男が死亡したときの経験から、「自然死」で通せると思ったのかもしれない。
実は次男が死亡した際、通報までに3時間を要したことで当初事件性が疑われていた。しかしその後の司法解剖で、外傷その他死因になるような形跡がなかったことで病死と片付けられていた。

そして、いつか自分の中からも、子どもたちのことがなかったことになる、そう思ったのかもしれない。なるわけないじゃん。

愛美は三男が死亡しているのを知った後の12月20日、知人らと自らの妊娠祝いのパーティーを開いたという。そして、その頃だろうか、携帯サイトに、
「あなたに逢えて、本当によかった♥幸せ♥愛してる♥心から本当にそう思うよ♥もぅ離さないでね」
こう書きこんでいた。私は愛美の中に一片の人として、母としての情があると思いたかったが、どうやら全くなかったとこれを読んで確信した。楽しいことだけ見て生きたい、邪魔な子供が死んで幸せだったのだ。あと、「会えて」を「逢えて」と書く女にロクなやつがいないというのも追加。

愛美の第4子の父親は、他のまとめサイトなどによると件の50代男性となっているところが多いが、「日本の児童虐待重大事件(川﨑二三彦、増沢高氏編著/福村出版)によれば、父親は三男の遺体を放置した家の男性(27歳)であるとされている。この男性も携帯サイトで結構な有名人だったようだ。
また、事件後駅前で愛美の知人らが減刑(正気か?)嘆願書の署名運動をしていたという話もあるが、その中には例の50代男性の姿もあったという。一方で、この男性が自身の経営する飲食店の掲示板で、この事件について迷惑しているといったコメントを残していると当時話題になっていた。

時期的には誰の子かわからないというのが本当のところだろうが、愛美は相手の男性に対し出産する意向であることを逮捕前に伝えている。
愛美は「長男を妊娠していた時のことを思い出し、愛情がわいた」ととんでもない事を言いだしてそのまま判決が出る前に出産した。
自身が子を殺め、それを心から悔いていれば赤ん坊を見ることは出来ないと私は思う。異論はあるだろうが、認めない。

愛美の人生は確かに幼少期からハードモードだったことは間違いない。
実母の男性関係のために施設へ追いやられたのは愛美のせいではないし、子供の頃は「保育士になりたい」という夢を持つ普通の女の子だった。
それがどこから狂ったのか。
当時、朝のワイドショー「トクダネ」で、愛美の生い立ちについて取材した回があった。その時、司会の小倉氏をはじめ、スタジオ内がどんよりとした雰囲気のなかで、
「放送できない過去があった」
という説明があった。当時はそれが何なのかという話でもちきりだったが、おそらく裁判で触れられた「性的暴行の被害」のことではないかと思われる。誰からの、ということはわからないままだが、それは放送できないレベルだったということだろう。

愛美には想像力とか、計画性とか、いわゆる考えたらわかるやろ的なことが抜け落ちていたように思う。もちろんそんな阿呆は世の中に腐るほどいるわけだが、多くの人は痛い目を見て反省し、曲がりなりにも学習する。
愛美は目の前に起った現実を一番楽な方法でやり過ごし、学習もせず、さらに「楽しいことだけ」を求めていた。それは、そうする以外の術を知らなかったからだと思う。良い悪いじゃなくて。
夜遊びもそうだし、妊娠上等のSEXもそうだ。男を繋ぎとめるために出産し、それが今度は邪魔になったら子供の存在を抹殺し、良心の呵責を酒を飲んで忘れたのだ。

市役所幹部のあの、一見冷たいような言葉が甦る。どんなに周りが手を差し伸べても、制度や仕組みを充実させても、当の本人が命を尊いものだと認識しなければ、まったく意味はない。
ただ、人を愛す、命を大切にするということは、その人自身が他人から慈しまれ、大切にされたという実体験があって初めて成立する「感情」である。

愛美は、愛されたことはなかった。事件後、他人事のようにぺらぺらとインタビューに応じる母を見れば痛いほどわかる。実母はインタビューで、第4子の引き取り拒否の理由として、「そんなイヌネコじゃあるまいし、次から次へと生まれてもねぇ」と話した。
愛されなかったがゆえに、自分自身は愛されることを渇望した、そしてその道具に妊娠出産を使い、挙句、今度は愛されたいがゆえに障害物でしかない子供を殺したのだ。殺す以外になかったのだ。

1歳7か月で亡くなった三男は、名前を「青空(そら)」という。
愛美は刑務所で過ごすこの15年間、空を見上げる日があっただろうか。

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