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法廷にて
秋風が爽やかな10月、東京地裁ではとある殺人事件の裁判が開かれていた。
被告の男は、第二回公判の被告人質問において、事件に至るまでの「思い出」をかみしめるように話していた。
「自分の存在は、相手の家族にとって迷惑だと思っていた。」
男はこの年の6月、13年にも及ぶ不倫の答えを出した。
「進むも地獄、引くも地獄だった」
平成11年12月20日。東京地裁の永井敏雄裁判長は、被告の男に対し懲役10年の実刑判決を言い渡した。
事件概要
平成10年6月1日。東京都港区虎ノ門にあるホテルオークラでは従業員らが騒然としていた。
ある客室で、人が死んでいると外部から通報があったのだ。従業員らがその部屋へ駆けつけると、その部屋のベッドの上で女性が全裸で死んでいるのを発見した。
この部屋は、この女性とその連れの男性二名で前日の夕方にチェックインがされていたはず。男性の姿はない。
ふと、6階フロアで右往左往している男性客を発見、確認すると、その部屋に女性とともにチェックインしたあの男性客だった。
従業員らはその客を密かに別の客室へ通し、赤坂署へ通報した。
駆け付けた赤坂署員が男から事情を聞き、男が殺害を認めたことで逮捕となった。
逮捕されたのは中野区で歯科医院を開業している鳥谷雅人(仮名/当時47歳)。しかしこの時点ではまだ被害女性の身元は分かっていなかった。
調べに対し、鳥谷はその女性とは長年交際していたと話し、その女性には家庭があったことから不倫をめぐる別れ話のトラブルが原因とみられた。
その後の調べで、被害者は東原純子さん(仮名/当時51歳)と判明。
純子さんには夫と娘がいたが、鳥谷との交際は、なんと13年に及ぶ長いものだった。
長い長い不倫のはてに、ふたりが見たものとは。
ふたり
鳥谷は昭和26年、東京は新宿に生まれた。その後、昭和53年に城西歯科大学(現・明海大学)を卒業して歯科医となった。
その年、中野区で歯科医院を開いていた父親が死亡し、鳥谷はそのまま父の歯科医院の跡を継いだ。
昭和54年、歯科医院の斜め前にとある一家が越してきた。これが、純子さん一家だった。
最初に好意を抱いたのはどちらだったか。
少なくとも鳥谷は、純子さんに女性として好意を抱いていた。
鳥谷は純子さんに自分の歯科医院でパートをしないかともちかけ、純子さんもそれに応じ、一時期ではあるが純子さんは鳥谷の歯科医院で勤務していたこともあった。
鳥谷には離婚歴があった。女性関係がその原因だというが、その後昭和63年にはその前妻とよりを戻し、再婚している。
しかし同時進行として、純子さんとも不倫関係に発展していたようだった。
妻とは次第にまたぎくしゃくするようになり、平成2年ころには妻子と別居し、自身は歯科医院が併設されたこの中野の実家で寝泊りするようになっていく。
時を同じくして、純子さんの家庭にも変化があった。夫・幸夫さんが静岡へ単身赴任することになったのだ。
それ以降、ふたりの逢瀬は頻繁になっていく。お互いの家が目の前にあるのだからそれも無理はなかろう。
純子さんの娘たちが寝静まると、二人の愛の時間の始まりである。
それぞれの夫、妻の目が届かないことで、ふたりはどんどんエスカレートしていってしまう。
そして、ふたりの関係は双方の配偶者のみならず、近隣、患者の間にも知れ渡るほどになってしまった。
翳り
歯科医院があった場所は、西武新宿線新井薬師駅と、現在の都営大江戸線新江古田のほぼ中間に位置しており、住宅街の中の歯科医院であった。
駅前や大通りに面して入れば患者も入れ替わり立ち替わりになるだろうが、このような場所で、しかも父親の代からの歯科医院ともなれば、患者の多くもまた、昔からこの地域に暮らす人々であったろう。
そんな中で、院長と近所の主婦との不倫が噂になれば、あっという間に広まるのは当然だった。
鳥谷の歯科医院は少しずつ患者が減っていった。
平成9年には歯科医院の経営はかなり悪化しており、閉院も視野に入れなければならないほどになっていた。
別居していた妻とも、1月に正式に離婚が成立していた。
一方、純子さんは一家の主婦として、母親として日々忙しく生活をしていた。
鳥谷との関係は終わっていなかったものの、この頃にはすでに夫の幸夫さんも勤務先が変わって帰宅時間も読めなくなったことから、以前のように頻繁に鳥谷と会うことは出来なくなっていた。
目と鼻の先でお互いの存在を感じながら、思うように会えない日々が続いていく。
しかしその気持ちには「温度差」があったようだ。
鳥谷は自身の歯科医院の経営難でにっちもさっちも行かなくなっており、昼間から飲酒するようになっていた。そのことで、診療に支障をきたすこともあり、余計に患者は離れていったのだ。
経営的に厳しいこともあったが、その頃にはコピー機のリース代や歯科医師会の会費なども滞納するなど、自暴自棄な面がみえるようになっていた。
すぐそこには純子さんがいる。しかし、東原家には幸せな日常があった。長女は結婚を控え、純子さんも親としてその準備に忙しく、家族での外出も増えていた。
5月。鳥谷が窓から見たのは、長女の結婚式へと向かう華やかな姿の純子さんだった。傍らには、当然夫の幸夫さんがいた。
にこやかに、幸せいっぱいの表情で出かけていく純子さんとその家族。
孤独と焦りの中、酒におぼれながら鳥谷は何を思っていたのか。
そして事件当日を迎えた。
その日
かねてより約束していたこの日、鳥谷と純子さんはホテルオークラ本館の6階に宿泊し、その夜を過ごした。
純子さんは、浴衣の帯を手に取り、鳥谷を促す。いつものように、それで純子さんの手首を後ろで縛り、ふたりはそのまま快楽に身を委ねた。
高まりとともに、純子さんは「絞めて」と呻く。
それはいつもの、ふたりの間では当たり前の行為のはずだった。鳥谷はバスローブのベルトを手に取り、純子さんの首にまわし、少しずつ引き絞る。
しかしこの時、鳥谷のそのバスローブを持つ手の力を緩めなかった。
気が付いた時、純子さんはすでに死亡していた。
鳥谷はその後、友人に電話をして純子さん殺害を告白した。
「夢であってくれたらいいのにな。」
友人の言葉に、鳥谷も「そうであってほしい」そう答えるのが精いっぱいだった。
そして、母親にも電話でその旨を伝え、その母親がホテルオークラに電話を入れたのだった。
「今日ならあなたに抱かれて死ねる」
裁判で弁護側は、鳥谷の行為は純子さんに請われたうえで行った嘱託殺人であると主張した。
検察は、捜査段階でそのような話はしていないと反論、むしろ、「純子はあの時僕に殺されるとは全く思っていなかったと思います」などと述べていたとして、嘱託殺人は成立しないとした。
10月5日に開かれた第二回公判の弁護側被告人質問において、鳥谷はその日何がふたりの間であったのかを語り始めた。
純子さんからは、実は4年前にも一緒に死んでほしいと言われたことがあったという。そして、いつ死ぬかは私が決める、だからそのつもりでと言われていた。
平成10年2月以降は、純子さんの言葉に死を望むかのようなものが増えていく。
さらに、事件直前の5月5日、ホテルオークラの一室において、ナイフを持ち出した純子さんから、「私たち、一緒に逝くなら、刺し違えるしかないのよ」と言われたため、直後に控えた長女の結婚式が終わるまではと、鳥谷が宥めるということがあったという。
事件当日、次いつ会うかという約束を取り付ける段階になって、すでに純子さんとの関係をこのまま続けていいのかどうか悩んでいた鳥谷は、少し先にしないか、と提案する。
すると、純子さんは突然鳥谷の左小指を噛み、さらにはわき腹などにも噛みついて泣き始めたという。
私はいつも、あなたに抱かれることだけを考えていると吐き出した純子さんは、何かをバッグから取り出した。
それは、真新しいお守りだった。
そして、鳥谷に抱きついて、
「今日ならあなたに抱かれて死ねる」
と言い、そのお守りを鳥谷のバスローブのポケットに忍ばせた。純子さんは続けて、「これを持って、わたしを追いかけて」と言い、そのまま二人はSEXした。
終わった後、純子さんは鳥谷にこう言った。
「私を最初に見つけて、私を抱くのよ」
そういうと純子さんは後ろ手に縛られた状態のまま、ベッドにあおむけに倒れこんだ。
鳥谷には、もはや純子さんが今生に別れを告げているのだと、その決心がついたのだと思えたのだという。
バスローブの紐を手に取ると、純子さんは満足そうに首を少し浮かした。鳥谷が純子さんの首にそれを回した時、されるがままの純子さんは
「約束よ」
と呟いたという。
全否定
当然ながら、検察はもちろんのこと、遺族もこの鳥谷の主張には真っ向反論した。
純子さんの日常において、死を望むような言動はなかったと家族のだれもが証言した。そもそも、事件当日も純子さんは、鳥谷と会う口実として家族に
「職場の人が倒れて病院に付き添っている、福島から家族が来るまで帰れない」
と、詳細な嘘をついていた。また、鳥谷と会う直前、総菜のコロッケを購入していた。これはおそらく、帰宅した後の食事のおかずにする予定だったもので、その数も東原家の人数と同じ4つだった。
そんな純子さんが、もう何年も前から死を望んでいたなど、どうして信じることが出来ようか。
また、純子さんの希死念慮が加速した要因として、平成10年のある出来事が関係していると鳥谷は述べていた。
それは、妊娠と流産だった。
鳥谷は純子さんから妊娠したという話を聞き、それがあったために別居状態だった妻と離婚している。
しかし、当時純子さんの年齢は50歳手前である。普通に考えて、妊娠するというのは考え難く、結局、それは純子さんの勘違いだった。
ただこれ以降、死にまつわる話題が純子さんの口から語られるようになったのだという。
裁判では鳥谷の主張はことごとく否定され、「被告人が作り上げた虚構」とまで言われてしまった。
お守りの話も、ずっと後になって突然思い出したと話し、鳥谷が話す全てが客観的証拠が全くない、すべて鳥谷と純子さんとの間で交わされたとされる会話のみだった。
裁判所は、純子さんとの不倫関係は事実であったとしても、歯科医院の経営難は鳥谷自身の問題であること、社会的地位を省みずに不倫と飲酒におぼれ、そのために生じた軋轢から逃避するために、さらには自己の苦しみの原因が純子さんにあると考えたうえでの犯行と断罪、本件動機に酌むべき事情はないとした。
愛の流刑地
この事件から数年後、日本経済新聞において渡辺淳一の「愛の流刑地」の連載が開始された。
日本経済新聞という媒体の購読者層にはドッカンドッカンウケたこの作品は、後に寺島しのぶ、豊川悦司主演で映画化された。私も本は持ってるし映画も10回は見た。そしてこの記事を書きながらも見ている。
渡部先生はこの鳥谷と純子さんの事件を知っていたのかと思うほど、「愛の流刑地」はこの事件を彷彿とさせる。
「愛の流刑地」では、主人公の小説家は、「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか!」と叫び、己を「選ばれた殺人者」であると納得させたが、鳥谷はどうだったのだろうか。
そして、引くに引けなくなった主婦がそれならばいっそ殺してくれと、愛する男にその役目を担わせたわけだが、純子さんはどうだったのか。
出会った当初、東原家で密会を重ねた二人の合図は、
「子どもが寝ると一度電気が消え、しばらくすると電気がついて電話が来る」
というものだったという。鳥谷は一人、暗闇の診療室でその合図を待っていた。
夫がいない間に、純子さんは鳥谷の元へ食事を運び、下着は手洗いしてくれたのだという。
そんな純子さんは、「相手から望まれ、愛される」のが良いという価値観から、「自分から愛したい」という価値観へと変わっていった。
しかしその「愛」は、誰がどう見ても不倫でしかなかった。
これは不倫ではない、常々純子さんは自分に言い聞かせるように、鳥谷にもそれを話したという。それを鳥谷自身が受け入れてしまったことが、結果として純子さんを「引くに引けない」状態に追いやってしまったと、鳥谷は法廷で述べた。
「彼女は不倫で我慢したくなかった。至上の愛にしたかった。」
本当のところはどうだったのか。
「愛の流刑地」よりも前に起きたこの事件。鳥谷と純子さんは、菊治と冬香だったのだろうか。
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参考文献
日刊スポーツ新聞社 平成10年6月2日、平成10年8月8日
産経新聞社 平成10年10月19日「法廷から」
中日新聞社 平成11年12月20日夕刊
平成10年(わ)第219号 東京地方裁判所/刑事第10部
平成11年12月20日
D1-Law 第一法規法データベース