片隅の記録〜三面記事を追ってpart8〜

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昨日まで普通の生活を送っていた人が、翌日には死体になっている。
誰もが想像したくもない恐ろしいことだが、これは誰の身にも起きることでもある。

あなたは想像したことがありますか。

昨日まで普通に笑っていた人が、あるいは自分が、1週間後には骨になっていることを。

蒲田の妊婦殺害

平成12年2月19日早朝。
大田区東蒲田の住宅街では、いつもと違う空気が満ちていた。いつもは静かで酔っ払いの嬌声も聞こえない住宅街で、その日は男女が金銭を巡って口論するような声が聞こえていた。

夜が明け一体が明るくなった頃には、いつもと変わらない日常が始まっていた。散歩する人、通勤する人、行き交う車に、稼働し始めた工場からの音。
何もかも、いつもと同じ変わらない蒲田の風景。
そのアパートも、いつもと変わらず朝日を浴びていた。開け放たれた玄関ドア。そこには新婚の若い夫婦が暮らしていた。妻は妊娠後期に差し掛かる身重だった。

怨恨か、物取りか

その日、仕事を終えた男性は、いつものように帰宅する前に自宅へ電話をかけた。
家には愛する妻がいる。そしてそのお腹には二人の赤ちゃんもいた。
午後3時過ぎ、電話をしたが妻は電話に出なかった。買い物にでも出たのだろうか。

男性は寄り道をせずまっすぐ帰宅。自宅アパートの玄関がなぜか大きく開け放たれているのを見て、胸騒ぎを覚えた。

男性が部屋に入ると、妻がいた。茶色のパジャマ姿のまま、しかしその姿は血まみれだった。
首や頭部、顔面など複数に傷があったという。男性が119番通報したものの、妻とお腹の赤ちゃんはすでに死亡していた。

死亡したのは東蒲田の主婦・宇野純子さん(当時23歳)。
その殺害の状況は凄惨を極め、また殺害されたと推定される時間に男女が争う声がしていたことなどから痴情のもつれ、怨恨によるものかと思われたが、室内が荒らされた形跡があったため、警察は物盗りの線も視野に入れて捜査を開始した。

が、その後付近の聞き込みなどを続けるうちに、被害者・純子さんを取り巻く複雑な事情が判明していく。

そして事件から3ヶ月後、警察は純子さんの「両親ら」を出入国管理法及び難民認定法違反(不法入国幇助)の疑いで逮捕した。

中国残留孤児の子

逮捕されたのは純子さんの戸籍上の両親である的場靖一(当時63歳)とその妻・碧(当時54歳)。
彼らの容疑は、実際には純子さんが碧の姪であるのに、「次女」であると偽って純子さんを不法に入国させたというものだった。

実は純子さんは中国・貴州省の生まれで、日本へは中国残留孤児である靖一の「子」であるとして入国していた。
貴州省はあまり裕福とは言えない場所だといい、靖一が平成4年に帰国したのち、純子さんの本当の両親である碧の弟夫婦から150万円ほどで日本への不法入国を頼まれた。
当時の審査がどうなっていたのかわからないが、純子さんは靖一と碧の次女であると偽造された書類をもとに中国残留孤児の家族として日本へ入国。
平成10年には日本へ帰化、そして職場で知り合った男性とその年の暮れに入籍を果たした。男性は日本人だった。

しかしそれと純子さん殺害にどんな接点があるのか?そもそも単純に捜査の過程で見過ごせない犯罪行為が露呈したために逮捕しただけ、なのか?

2ヶ月後、警察は靖一と碧夫婦に加え、夫妻の長男とその妻を純子さん殺害容疑で逮捕、さらに長男の妻の妹についても逮捕状を取った。
長男の妻とその妹は中国人だった。逮捕を察してか、妹はすでに中国へ出国していたが、逮捕された4人の供述によれば殺害を実行したのは長男の妻とその妹だった。

殺害の動機について、
「純子さんの不法入国に必要な渡航費などを工面し日本国籍を取得させてやったのに、勝手に日本人と結婚したり、家族を無視するようになったことで恩を仇で返されたから」
と語った。

日本の生活と日本人

純子さんは来日して大田区のリネン工場で働いていた。
通常の入国方法では仕事をしたり長く日本にいることは結構ハードルが高いようだが、中国残留孤児の家族であればそれは本人同様の手厚い待遇を受けられた。
その会社で夫となる男性に出会い、妊娠を機に退職。夫も神奈川の建設会社へ転職し、重機のオペレーターとして働いていた。

純子さんは日本へ来て、日本人として生きていくことを望み、日本人の配偶者を得てこれからの新しい人生に期待で胸を膨らませていただろう。
決して裕福ではなかった中国での生活。10代で日本に来た純子さんは、もうすでに日本に馴染んでいたのだと思われる。

一方で、純子さんの両親や靖一夫婦の思惑はどうだったろうか。
殺害動機の中には「日本人と勝手に結婚した」というものがあった。推測ではあるが、純子さんに日本国籍を取得させた上で、中国人と結婚させることが目的だったのではないか。
純子さん自身は不法入国だったが、そこから他の親族や関係者らを日本に呼び、合法的に日本で生活する道を想定していたと思われる。

しかし親族らの意に反して、純子さんは自身の人生を選んだ。たしかに今の日本での暮らし、日本国籍が取れたことは靖一らの尽力があったろう。が、それは純子さん自身が頼み込んだことでもなかったはずだ。

中国での暮らしとは比べ物にならない自由と豊かさ、日本人男性との恋、そして授かった赤ちゃん。
それらを大切に思う一方で、純子さんは中国人親族との関係を疎ましく思うようになった。

公判で靖一と碧夫婦は殺意を否認、無罪を主張していたが、東京地裁は純子さん殺害は親族ぐるみの計画的な犯行と認定。
当初実行犯とされた長男の妻は殺害行為にはかかわっておらず、真の実行犯である妹を純子さん宅に招き入れるよう靖一と碧夫婦に指示されていたとして懲役8年、靖一と碧夫婦に対しては靖一に懲役11年、碧には懲役12年を言い渡した。

中国の人は日本人よりも家族や親族とのつながりを大切にすると聞く。しかしそれだけだろうか。

中国へ逃亡した妹は国際手配され、後に中国当局に拘束された。そして平成20年に執行猶予付きの死刑判決を受けていたことが令和4年に判明。
中国では一定期間、模範的な態度が認められれば死刑が減刑になる。妹のその後がどうなったかはわからない。

あてつけで殺された姉弟

日本の少年犯罪史上に残る栃木リンチ殺人事件。
その事件が起きた上三川町で翌年、母親が2人の子供を殺害するという事件が起きた。しかも舞台は、同じく日産自動車の栃木工場の社宅。
すでに始まっていた栃木リンチ殺人の裁判の陰に隠れてしまった印象もあるこの事件は、ありがちな育児疲れなどからの発作的な殺人ではなく、幸せそうな家族の闇の部分をあぶりだした。

幼い姉弟

平成12年2月11日。石橋署に「妻が子供を殺したと言っている」と通報があった。
通報を受け、石橋署員が駆け付けると通報者の自宅駐車場にあった車の後部座席で幼い女の子と男の子が死亡していた。
ふたりには毛布が掛けられていたという。

死亡したのは上三川町の湯沢未来ちゃん(当時4歳)と弟の優輝くん(当時1歳)。
二人の父親は日産自動車の栃木工場に勤務しており、当時は社宅で家族4人暮らしていた。

姉弟を殺害したとして逮捕されたのは母親の美輝(仮名/当時34歳)。
美輝は調べに対し、11日の午前に未来ちゃんを台所で、その後優輝くんを寝室にてひものようなもので首をしめたと供述した。
警察は夫にも事情を聞いたところ、美輝は以前からノイローゼ気味だったと話したこともあって、育児ノイローゼによるものとの見方が強かった。

2日後、落ち着きを取り戻した美輝に対して本格的な調べが始まったが、そこでも美輝は「自分も死のうと思っていた」「家族関係で悩んでいた」などとは話すものの、動機に関しては依然あいまいな点があったという。

事実として、美輝は二人を殺害した後、二人を車に乗せていったんは実家のある今市市方面へ走ったものの、午後3時頃に夫の会社に電話を入れて子供を殺害したことを告白していた。
その間、自殺を考えていたという。

しかし死にきれなかった。

仲良し家族の裏の顔

社宅の人らは突然の悲劇に驚きを隠せなかった。
夫と同じ部署で働く同僚は、二週間前に家族が4人で仲良くスーパーで買い物をしているのを目撃していた。
その際、母親の美輝は笑顔で、子供たちも楽しそうだったという。育児ノイローゼというのは違和感があった。

町内の食堂でパートとして働いていたという美輝。
夫より5歳ほど年上。結婚してしばらくは夫の実家で夫の両親と同居していたというが、2年前にこの社宅へと引っ越していた。

この事件の真の原因は、実はそこにあった。

美輝は後の取り調べにおいて、夫の両親、特に父親との関係が悪かったと話した。それが原因で別居したのに、夫は両親との再同居を持ち出してきたという。
美輝が両親との同居生活でどんな思いをしてきたのか詳細は不明だが、美輝にしてみれば再同居の「可能性」があるということ自体、耐えられるものではなかったという。
夫はそれを知っているはずなのに、にもかかわらず再同居を提案してきた。何もわかっていないのか。
「夫は味方になってくれなかった。」
美輝はそう話したという。

事件発覚後、警察に対して「妻は育児ノイローゼだった」と話した夫。夫とは口論に発展することもあった。それが重なるうちに、美輝の心に死にたいという思いと同時に、何も理解していない夫やその両親に対し、どれほどのことをしたのか思い知らせたい、恨みを晴らしたいという気持ちもわいてきた。

2月11日、台所で手を洗っていた未来ちゃんの背後に回ると、ネクタイでその首を絞めあげた。
ぐったりした未来ちゃんを寝かせ、優輝くんのところへ行くと、優輝くんは何も知らずにひとりおりこうに遊んでいたという。
その様子を見て、さすがに手をかけることを躊躇った。が、そのうち優輝くんがお昼寝を始めたのを見計らい、首をしめた。
時間にして1時間以上あったというが、美輝が我に返ることはなかった。

公判では殺害の様子が語られるとハンカチに顔をうずめて泣いていた。
弁護側はあてつけなどではなく、自殺をしようと考えたときに子供を置いていくことが憚られて道連れにしたとして情状酌量を求めたが、裁判所はあまりに自己中心的かつ短絡的であるとして、懲役8年(求刑懲役10年)を言い渡した。

栃木リンチ事件のそのあまりの凄惨な状況と、次から次へと湧いて出る警察の不祥事でかき消された、同じ町で、同じ職場(社宅)で起きた重大な事件だった。

殺せなかった父親

「父ちゃん、世界中で一番好きだ」
少年は遠ざかる意識を必死でつなぎ留めながら、目の前の父親にそう訴えた。
父親の手は、少年の首にかかっている。

ふと、首から手が離れた。

3時間後、駆け付けた警察官が少年を保護。一緒にいた妹も保護された。
子どもたちは自動車の後部座席でうつむいて座っていたというが、その車の助手席には子供たちの母親の遺体があった。

地獄のドライブ

事件があったのは昭和60年1月12日。
発覚したのは1本の110番通報だった。声の主は子供。
「お母さんが車の中で血を流して死んでいる」
涙声の通報だったが、車で移動させられているということから、行方がなかなかつかめずにいた。

警察は通報の内容から、父親が母親を殺害したうえで子供たちを車で連れまわしているとし、無理心中に発展する可能性が高いとして各署に手配し車の行方を追っていた。

行方を追われていたのは、長野県南信濃村在住の工員の男(当時37歳)。
通報者は男の当時13歳の中学生の長男とみられた。
長男の話によると、その日、両親が車で長男を中学校へ、次男と長女を小学校へ送り届けてくれたという。
ところがその後、「母親の具合が悪い」といって父親が長男を迎えに来たという。
長男が車に乗ると、確かに助手席に具合の悪そうな母親がいたが、母親は血まみれだった。
父親はそのまま次男と長女を迎えに小学校へ向かい、父親が車を離れたすきに、長男が公衆電話から110番通報したとみられた。

長男は弟と妹のことが気にかかったのだろう、そのまま車に残り、警察が気づいてくれるかもしれない一心で、ノートや教科書を窓から投げ捨ててもいた。

助手席の母親の様子と、父親の態度で危険を察知した子供たちは、ここから必死の説得を始めた。

父と子

父親は苦悩を抱えていた。
この時代、おそらく同居だったと思われるが家の増改築費用とシイタケ栽培の設備投資で約1500万円ほどの借金があった。
ところが一緒に頑張っていた実父がこの事件が起きる数日前に死亡。悲しみに暮れるその喪も明けていない1月11日、なんと妻から離婚話を切り出された。
自分自身も持病を抱えており、その状態も良いとはいえなかった。

立て続けに起きた悲しみと苦しみに、父親は我を失ってしまったのか。

子どもたちを学校へ送り届けた後、妻と何の話をしていたのか。車の中で刺殺されていたことから、この時点ですでに父親の心は決まっていたのだろう。
母親を殺すところは見せたくなくて、一旦送り届けた子どもたちを連れに行くと、そのまま車を走らせた。

車は静岡県に入り、磐田郡水窪町の林道に入ったところで父親は車を停めた。

「死ぬのは嫌。とうちゃん、警察へ行こう!」

後部座席の子供らは必死に父親へ訴えた。
しかし父親は、妻を刺した包丁を長男に向けた。とっさに身をかわしたものの、長男は背中を刺されてしまった。さほど深くはなかったのか、長男はそのまま父親を振り切ると山の中へと走り去った。なんとしてでも早く誰かに助けを求めなくてはという思いだった。

残されたのは次男と長女。
長男に逃げられた父親は怯んだように見えた。そこで次男は必死に父親から包丁を取り上げたという。

「もう、包丁を渡して!!」

父から取り上げた包丁はすぐに崖に放り投げた。
ところが父親は次男の首をしめようとしてきた。次男は薄れる意識の中で必死に妹を守るために父親に語り掛けた。
「僕、父ちゃん、世界中で一番好きだ。」「今度、またビールついであげるから」

父親はその言葉で、ようやく我に返った。

午後零時半過ぎ、父親は自宅へ電話をかけ、実父の初七日で集まっていた親類に説得されて水窪署に出頭。

一方長男は、道もないような山の中を走り回り、佐久間町の民家にたどり着いて保護されていた。ちなみにこの水窪町は秘境の駅JR小和田駅があり、さらには夏焼集落などを有する山深い場所で、その山の中をひたすら長男は走り回って民家にたどり着いたのは運もよかった。
次男と長女もその後保護された。

子どもたちと父親はその後どうなったのか。
次男が発した、父親への思いは嘘ではなかったろう。妻殺しと長男への殺人未遂の罪となったようだが、子供たちは母を父に殺されてしまった。そして自分たちも殺されかけた。

それでも父親は父親に変わりない。その現実を、どうか乗り越え幸せになっていると信じたい。

奈良の母子焼死事件

この見出しで、多くの人は平成18年に田原本町で起きた少年によるあの事件を思い起こすと思われるが、これは先に挙げた、栃木の日産自動車工場社宅での事件同様、同じ時期により世間が注目する事件が起きたために世間の記憶に残りにくかった事件である。

情報は多くないが、記録として残したい。

不可解な運転手

平成19年8月29日午前8時半。奈良市都祁白石町の県道で軽四自動車が突如爆発炎上した。
現場は奈良市の南部、国道25号線の針ICから南へ2キロほどの山間部。
その車は道路わきの側溝に脱輪する形で停車していたといい、近所の人が声をかけていた。

車内には運転手の中年女性と、ほかに成人女性が一人、あとは子どもが何人か乗っていたという。
大丈夫ですか、という問いかけに、運転席の女性はおかしなことを言った。

「警察も消防も呼ばないで」

さらに、その車は実は爆発炎上の2時間ほど前から脱輪状態でその場所に停車していたのだという。声をかけた近所の住民は、それを不審に思って声掛けしていたのだ。

脱輪しただけの車が突如爆発音とともに炎上したことから、近隣住民らが110番通報、車のそばには何とか逃げ出したとおぼしき成人女性と、小学生くらいの男の子がやけどを負った状態でへたり込んでいた。

車は約50分間炎上し全焼、その後鎮火したが、車内からは成人と子ども二人の遺体が後部座席から発見された。逃げ出したふたりも、男児は重傷、女性は軽傷だった。

車は奈良ナンバーで、天理署の調べで遺体で発見されたのは橿原市の主婦、北村勝子さん(当時32歳)とその娘で小学2年の友楓(ともか)さん(当時7歳)と、妹で小学1年生の麻衣さん(当時6歳)と判明。
運転席に座っていたのは勝子さんの実母。重傷を負った男児は勝子さんの長男(当時11歳)とわかった。

警察は死亡した3人の気道にすすが付着していたこと、そして車内が均一に燃えていることなどの状況から事故が原因で引火して炎上したのではなく、可燃性のものを車内に巻いて故意に火をつけた無理心中の可能性が高いとみて捜査していた。

そして、無理心中を図ったとして、生き残った勝子さんの実母を殺人と殺人未遂の容疑で逮捕した。

娘の悩み

逮捕されたのは橿原市の無職・筧きょう子(仮名/当時57歳)。
きょう子は娘の勝子さんと共謀し、孫3人を道連れに車内に灯油をまいたうえで放火。勝子さん、友楓さん、麻衣さんを死亡させ、長男に背中に大やけどを負わせた。

きょう子は当時、夫とは離別か死別かはわからないが、橿原市内で一人で暮らしていた。子どもは勝子さんのみだったようで、ほかに親戚づきあいなどもあまりなかったとみられる。

一方で娘の勝子さんとの関係は良好だったようで、きょう子自身、すでに嫁いで家庭を持つ勝子さんを頼りにしていた。当然、孫たちの存在も生きる希望だった。

ところが事件の二日前。勝子さんから思わぬ悩みというか、決意を打ち明けられた。

勝子さんの夫は建設会社を経営していて、勝子も経理を担当して夫を支えていたという。しかし経営は思わしくなく、会社の資金繰りとそれに伴う勝子の家族の家計を回すために、夫に相談せず独断で信販会社から借金をしていた。
いつからそうなったのかはわからないが、平成20年の時点でその負債は3000万円を超えていたという。

勝子さんは、もはやどうにもならないと思いつめていた。そして、かくなる上は自分の生命保険金をその返済に充てるしかないと思うようになる。
自殺したとしても、ちゃんと生命保険が支払われるのかまできっちり確認した後、勝子さんは実母であるきょう子にその決意を打ち明けたのだった。

きょう子は当然驚き、夫に打ち明けられないのか、何も死ぬことはないと引き留めたという。が、勝子さんは「夫に借金の話をしたら仕事への意欲を失うだけ」としてそれを聞き入れなかった。
子供たちはどうするの?引き留める材料になると思ってきょう子が問いかけると、勝子さんは「子どもたちと一緒に死にたい」と訴えた。

母親として娘をなだめ、落ち着かせようとする一方で、きょう子自身、もし引き留めることができずにこのまま娘が孫を道連れに死んでしまったら、自分は天涯孤独になってしまうと不安に駆られた。同じように、孫たちも母親が死んでしまったら可哀そうだと思い込むようになった。
それでも最後まで勝子さんに翻意を促したというが、結局勝子さんの意志は固く、8月29日を迎えた。

連鎖する母子一体

前日、勝子さんときょう子は、夏休みの終わりに子供たちが行きたがっていた長島温泉の遊園地へ子供たちを連れて遊びに出かけた。
最後に楽しい思い出を作ってやりたかった。くたくたになるまで遊んだ子供たちに、酔い止めだと偽って睡眠薬を飲ませたという。
家を出るとき、勝子は夫にあてて遺書を残していた。

「私と子供3人の保険金でどうにかなると思います。今までありがとうございました」

そして、子供たちが寝入っている間に灯油を購入、29日の朝8時半に、車内に火を放った。

思わぬ事態が起きた。寝入っていたはずの長男が目を覚ましたのだ。火に気づき、必死に逃げ出そうとする長男をみて、後部座席ですでに火に巻かれつつあった勝子さんは、きょう子に叫んだ。

「出て!頼む!」

その声できょう子は我に返り、勝子さんの長男とともに車外へ飛び出した。当初の報道できょう子は軽傷と報じられたが、実際には全身に大やけどを負っていた。

検察は、懲役12年を求刑しており、いかなる事情があろうとも親は子を守るべきであって、(家族間の無理心中ということで)寛大な刑にしてしまうことは、自分の子や孫なら殺してもよい、といった風潮を助長するとして厳罰を主張していた。

一方の弁護側は、きょう子がすべてを認めている点や、自身も大やけどを負っているが、最後まで逡巡し続け、せめて孫たちは連れて行かないようにと思いとどまらせようとしていたことをあげて情状面に訴えた。

平成20年2月15日、奈良地裁はきょう子に対し、幼い子供たちに殺害されなければならない原因は何一つないとして情状酌量を退けた。

実は勝子さんの借金について、夫の母親が返済の支援をしてくれる方向で話がまとまりつつあったのだという。
またその借金に一つの責任もない子供らの命を金に換えたともいえ、どこか頼りない夫への抗議、恨みが含まれるようにも思えた。

きょう子は法廷で、孫たちの名を呼び、「ママを許してあげて」と言って泣いたという。
きょう子は娘の勝子さんがしたことをこの時点でも理解しようとしていたのか。何の罪もない孫よりも、娘だったのか。

その母子一体の考えは、勝子さんにも引き継がれた。

天涯孤独になってしまうことを恐れて無理心中に同意したはずのきょう子だったが、実際には事件前に将来を約束した男性がいた。
事件後も男性はきょう子を待つと言って法廷にも姿を見せていた。

きょう子はそれでも、「どうしてあの時一緒に死ななかったんだろう」と呟いた。

娘をわかってやれるのは母親である私だけ。

事件から15年以上が経過した今、勝子さんが母親として選んだ選択を、母親としてきょう子はどう思うだろうか。

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参考文献

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