いい人。~千葉県横芝光町・妻子殺害放火事件~

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未明の火災

平成22年12月30日午前6時50分、千葉県のとある民家から出火、木造二階建ての住宅及び隣接する作業場の二棟を全焼した。

この家には60代の夫婦が暮らしていたが出火当時別棟にいたため難を逃れた。
家業で大工を営んでいたといい、火元はその建設作業に必要な作業場とみられたが、警察は失火と不審火の両面から捜査をした。

近隣の住民は複雑な思いを隠せなかった。この家には、つい一か月前にも火災が起きたばかりだったからだ。
しかもその火事で、この家の若夫婦のうち妻と幼い息子が焼死していた。

12月1日の惨劇

二棟を全焼した火災からさかのぼること約一か月前。
この横芝光町の住宅から男の声で「妻と子供を殺害してしまった」と110番通報があった。
警察が駆け付けると、民家の2階で女性とその子供と思われる男児が死亡しているのを発見、さらに遺体周辺には火を放った痕跡も残っていた。

その場で大やけどを負っていた男性は救急搬送されたが、搬送される際に「自分が殺して火をつけた」と話していたことから、殺害されたのはこの男の妻と子供で、殺害したのはこの男である可能性が高いとして男の回復を待った。

殺害されたのは男の妻で介護施設職員の鈴木淳子さん(当時34歳)と、息子の大地君(当時6歳)と確認。
淳子さんには首をひも状のもので絞められた痕に加え、背中や腹部に刃物による刺し傷が複数見られた。大地君は火傷の状態がひどかったが出血した形跡が見られたことから、淳子さん同様刃物で刺されたのちにふたりは火を放たれたと推測された。
のちの司法解剖の結果、淳子さんは熱傷性ショック死、大地君は出血性ショックと熱傷性ショックの両方によって死亡したとわかった。
二人は発見当時別の部屋にいたが、淳子さんの布団には灯油のようなものがまかれて火がつけられており、まだ息のあった淳子さんと大地君は身動きが取れないまま、火に焼かれたのだった。

一方で一命をとりとめた男は、淳子さんの夫で大地君の父親である鈴木章弘(当時34歳)。警察が到着した際、本人も手足に大やけどを負った状態にあり救急搬送されていたが、その後右足を太ももの付け根から切断した。
警察では搬送時に同行した警察官に対し、章宏が「仕事のことで行き詰っていた。」などと話していたことから、父親による妻子を巻き込んだ無理心中事件とみて捜査を始め、章弘の退院を待って殺人と非現住建造物等放火の容疑で逮捕した。

「家族3人、手をつないで散歩したりして仲が良かったのになぜ…」

近所の人々は悲しみと困惑の色を隠せなかった。
あたりは田畑が広がる長閑な集落。鈴木家は工務店を営んでいて、章弘は父親とともに仕事に励んでいたという。
敷地内の別棟で若夫婦と子供が生活をするという、田舎ではどこにでもあるような普通の暮らしがそこにあった。
しかしこの惨劇はそのどこにでもあるような暮らしの中で、というか、そういった暮らしだからこそ、起きたと言える。

仲の良い、幸せな風景の裏にはこれまたどこにでもあるようないくつかの問題が隠されていたのだ。

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🔓みんな、気持ち悪い~札幌・次女三女殺傷事件~

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平成24年10月、札幌市豊平区の担当者に対し、一人の母親が家庭の不安を口にしていた。
自身の母親と妹らと同居しているというその女性は、母親との関係がうまくいかないことから世帯分離について相談したいと話した。
女性自身にも3歳の子供がおり、交際相手との子供の妊娠が発覚したばかりだという。これまで、生活能力に問題のあった母親と、まだ幼い妹たちの面倒を見てきた女性だったが、ここへきてその母親との関係が深刻なレベルの悪化しているといい、身重の体を守るためにも世帯を分離したい、というのが理由だった。

ただ、世帯を分離できたとしても、女性には妹たちのことが気にかかっていた。
「母が私に向けていた暴力を、妹たちに向けるかもしれない」

3か月後、その話は最悪の形で現実となった。

事件

平成25年1月26日、札幌市豊平区平岸のマンションで、11歳と8歳の姉妹が腹部を刺されるなどして、そのうち11歳の一戸楓香さんが出血多量で死亡した。
おなじく左わき腹を刺された妹(当時8歳)は、重傷ではあったが一命をとりとめた。
さらに現場のマンション室内では、二人の女児の母親とみられる女性も刃物で腹部を刺して倒れており、状況や通報者の証言などからこの母親が娘を道連れに無理心中を図ったとみて捜査を開始、比較的軽傷で済んだ母親が28日退院したのを待って、殺人と殺人未遂容疑で逮捕した。

逮捕されたのは、二人の母親である一戸みゆり(仮名/当時38歳)。
調べに対し、「子供と一緒に死のうと思い、寝ているところを刺した」と供述。事件直後、当時同居していた男性に対し電話で「やっちゃった、ごめんね」などと犯行をほのめかしていたことや、そのさらに前、男性が在宅していた時にも娘らの首を絞めるなどしていたことから、みゆりが無理心中を図ったことに間違いはなかった。

事件が報道されると、関係者らの間には衝撃が走ったのと同時に、「あぁ、やはりこうなってしまったか」という思いに駆られる人々もいた。
実はこの一戸家は、数年前より様々な事情で福祉や行政、警察や児童相談所などがかかわり続けてきた家族だったのだ。

そして、事件が起こる18日前には、亡くなった楓香さんが家出をし、警察に保護を求めるという事態まで起きていたのだ。

にもかかわらず、助けられなかったのはなぜだったのか。

事件後、みゆりには精神鑑定が行われ、その間には札幌市がまとめた検証報告書が公開された。
その後行われた裁判ではみゆりの知的障害が判明、そしてみゆりの壮絶なそれまでの人生と、事件に至る経緯が明かされた。
その中では、長年妹らの世話をし、事件直前にはみゆりとの関係悪化で家を出ざるを得なかった長女(当時21歳)が、
「深く悲しんでいる。妹が死んだことは信じられない。妹たちには学校に行って、普通に結婚して欲しかった。母が憎い。殺されるのは自分が代わりになれれば…」
と検察に託したコメントも読み上げられた。
自分が家を出たばっかりにこんなことになってしまった、長女の悲痛な思いは、母親への憎しみとなってぶつけられたが、それでも生活能力のない母親を支えてきたのもまた、この長女だった。

札幌地裁は、みゆりに対して懲役14年(求刑懲役15年)の判決を言い渡した。弁護側が主張した知的障害や、当時のみゆりは心神耗弱状態にあったという主張は、親として子に手をかけることは絶対に許されないし、第三者の責任という問題ではなく、被告が責任を負うべきとして退けた。

みゆりは事件以前から自殺未遂を繰り返しており、特に事件直前は自ら110番したり、児相に対して自殺をはかってしまったと告白するなど、かなりSOSを出していた。
それでも、問題行動のあった長男以外の子供らは保護されることなく、すべてをみゆりに任せた結果、最悪の事態が起きてしまった。
弁護側は、そういった点を踏まえてもっと関係機関が踏み込んでくれていれば少なくとも楓香さんが死ぬことはなかったとした。
加えて、このような事態につながったその「背景」についても裁判ではいろいろと明かされていたのだが、中身が中身だけに表に出ることがなかった。
市の検証報告においても、その肝心の部分は「深刻なトラブル」という表現で誤魔化された。

いったい、何が起きていたのか。

【有料部分 目次】
穢れを畏れぬ人々
知的障害
長女
狂いゆく母
やぶれかぶれ
「ごめんね、やっちゃった」
気持ち悪い人々

あの頃、三丁目の事件~昭和30年代のいくつかの事件~

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事件備忘録の読者はどの世代が多いだろうか。
私は昭和49年の生まれ。バブルへ向けて日本中が、そこそこの暮らしを出来ていた時代だった。
もちろん、ドラマ北の国からの黒板家のような生活レベルの人々もいた。けれど、そのドラマでも描かれたように、多くの人々は新しく生み出される文化を謳歌していた時代だった。

しかし昭和30年代はどうだったか。あの、「ALWAYS 三丁目の夕日」に描かれたのはまさしく昭和30年代、金の卵と呼ばれた少年少女が集団就職で上京する場面も描かれ、就職という名の「奉公」先の社長は軍隊上がりの暴君、みたいな人々もいた。
次々と誕生する新しい生活用品、電化製品、娯楽。戦後の焼け野原が嘘のように、たった10年やそこらで日本は成長した。
一方で人々は。新しいものが次々生まれる中でも、戦前からの家庭の形は守られた。家庭を守り、夫を支えて子を育てる母親たち、逞しく生きる子どもたち。ただその陰で思うように生きられず犯罪に走ってしまう若者も相当数いた。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」には、あの時代のどこにでもいた人々の日常が良い意味で描かれている。大好きな映画だ。

しかし、実際の昭和30年代は子供たちの誰もが学校に通えていたわけでもなかったし、親や家族を戦争で亡くして生きる意味を見失ったままの人、環境も場所によっては不衛生極まりなかった。
「あの家は寿司桶も、おしめを洗う桶も一緒」
そんな風に言われる人々も少なくなかった。

あの映画に出てくるような人々と同じ時代を生き、鈴木オートの社長やその妻、六子や一平と同じ風景の線路を歩きながら、東京タワーの完成に胸躍らせながら、結末は全く違ってしまった人々もまた、山のようにいた。

昭和30年代、ごくありふれたあのころに起きた事件をみっつ。

田園調布の嬰児殺人

昭和31年8月20日午前9時ころ、大田区田園調布の邸宅。
この家の女主人・津田靖子さん(仮名)は所用で実家のある広島県へ出かけていた。
しばらく留守にするため、数日前から実の娘である広本洋子さん(仮名/当時26歳)が夫と娘と共に留守番をしに来ていた。
その日の朝、娘の恵ちゃん(仮名/当時1歳)を子守に預け、用事を済ませて恵ちゃんの様子を見に戻った洋子さんは、布団の上でぐったりとした恵ちゃんを発見。
すぐに近所の医院へ担ぎ込んだものの、すでに恵ちゃんは死亡していた。

発見時、恵ちゃんは布団の上にうつ伏せになっており、やわらかい布団に鼻腔をふさがれたことで窒息したと思われ、目を離したすきの不幸な事故、と思われた。

ところが、恵ちゃんには子守がついていたはずだった。その年の初めから雇った、当時17歳の少女が子守だった。

その後、その子守が恵ちゃんを殺害したことを認めたことから、警察は子守を殺人の容疑で逮捕した。
少年事件でもあり、子守の氏名は明かされていないが、ここでは和江、と呼ぶ。
和江は殺害の動機について、「生きていくのが嫌になって死のうと思ったが、これまでさんざん奥さんに叱られてきたので腹いせで恵ちゃんを殺害した」と話した。

和江

和江は昭和14年に朝鮮の羅津(現・羅先特別市)にて3人姉妹の真ん中として生まれた。父親は満州鉄道株式会社に勤務していたが、和江が2歳のころ離婚、和江ら三姉妹は父親に引き取られた。しかしその父も病死、その後は大連市で暮らす伯父に引き取られた。
伯父は父親同様、満州鉄道に勤務し、社会部地方事務所長、病院事務局長といった社会的地位のある人物だったが、非常に頑固者で妻や引き取った和江らには大変厳しい人だったという。
通い始めた学校も終戦前後には機能しなくなり、和江は適切な教育や家庭でのしつけ、親からの愛情を受けられずに成長していく。

終戦に伴い失職した伯父夫婦とともに、和江らも日本へ引き揚げることになった。伯父夫妻の本籍地である広島県で暮らし始めた和江は小学校3年生に編入となったが、そもそもそれまできちんと学校に通えていなかったこともあって3年生の学力は身についていなかった。

広島での生活も楽ではなかった。大連ではそれなりに社会的地位のあった伯父だったが、父親の兄ということですでに高齢の域に入っており、もとより体も丈夫ではなかった。
病の床に臥せる伯母は昭和24年に死去、姉妹らは生活扶助を受け畑仕事をしながら昭和29年、和江は中学校を卒業した。
この時すでに姉は女中奉公へ出ていて、昭和30年の暮れに伯父が死去したのち、残された和江と妹は親戚の家に引き取られたが、姉の奉公先の口利きで年明けから件の広本家に奉公に出ることが決まった。

広本家は、奥方である洋子さんの母方(津田靖子さん)の実家が広島にあったことで縁が出来たとみえた。

広本家は川崎市下平間にあり、裕福な家庭だった。
昭和31年当時、高卒の初任給がだいたい5000円くらいだったというが、中卒の和江の奉公の代金は月額1500円。
牛乳や銭湯が15円、雑誌が30円、ラーメンが40円ほどの時代、家賃や食費がかからないことを考えれば、まだ16〜7歳の和江には不自由はなかったのかもしれない。
和江の仕事は洗濯、掃除、食事の支度などの家事全般に加え、広本家の娘である恵ちゃんの子守りも含まれていた。
この時代、奉公に出ずとも子供たちは何かしらの「仕事に近いお手伝い」をしていた。その中でも「子守り」は和江と同じように中学を出たくらいの少女たちにはよく任される仕事だった。

ただ和江の場合、近所の子供や親戚の子供の子守をすると言うのとは違い、雇用主である広本家の主人、そしてその妻である洋子さんのチェック付きと言うものだった。

叱責

洋子さんは和江に厳しかったという。
まだ26歳と、和江とは10歳ほどしか歳が違わなかったことも関係するかもしれないが、一生懸命家事をこなす和江に毎日のようにダメ出しを行った。
そもそも、広島の田舎で農作業こそしてきたものの、女中として何か訓練などを受けたわけでもない。もちろん、集団就職などで奉公に出る少女らもそんな訓練は受けていない、しかし、多くは家族のもとで幼い頃から家事や弟妹の世話などを仕込まれているのだ。
両親の離婚、その後の引き揚げに伴う転居や養親の死など、和江にはその日その日を生きるに精一杯であり、そもそも女中仕事などは向いていなかったと思われた。

洋子さんにしてみれば、給料を払っている以上はしっかりしてほしい、そういう思いもあったろう。あえて厳しく接することで、和江を一人前にしたいと思ったのかもしれない。

しかし、どうもそれだけとは思えない、和江への「いろいろ」があった。

和江は上京したらいつか東京見物や野球観戦に行きたいと思っていた。それを、広本夫妻にも話しており、「いつか休みを取らせて行かせてやる」と言われていた。
ところがその約束は、半年経っても果たされることはなかった。
また、この時代にはよくあった「頭シラミ」が和江の髪からも見つかったことがあった。洋子さんからすれば幼い恵ちゃんにうつりでもしたら大変だと、和江を広島へ帰らせようとした。
それだけは、と、泣いて懇願しなんとか解雇だけは避けられたが、1500円の給金は1000円に下げられてしまっただけでなく、洋子さんの叱責はそれまでにも増してキツくなっていった。

あまりに繰り返し繰り返し叱責されるうちに、和江は「自分はダメな人間である」と思うようになっていく。そして夜も寝られず、減額された給金から睡眠薬を購入するまでになっていた。
一方で、あまりに冷たい洋子の「仕打ち」に、それまでは平身低頭だった和江も、何もここまで言われることはないのではないか、奥さんだって約束を守ってなどくれないと思うようにもなっていた。

そんな和江にとって、恵ちゃんの存在は唯一の心のやすらぎだった。

三枚の座布団

夏、洋子さんの母親が盆まいりで広島へ帰ることになったと聞いた和江は、不安な気持ちを抑えきれていなかった。
自分の失態や不甲斐なさを、きっとあのおばさんは私の親戚たちに話してしまうだろう、それを聞いた故郷の家族や親戚はどう思うか。さぞや落胆するだろうと想像しているといてもたっても居られなくなった。
そして、いっそこのまま死んでしまえば、親戚や家族らの落胆した様子を洋子さんの母親から聞かされることもない、そう考えるようになる。
もう、いてもたってもいられなかった。

和江の心の中は、これまでの洋子さんからの仕打ちが昨日のことのように思い出されていたが、そんな時でも傍で微笑んでくれる恵ちゃんのあどけない笑顔に幾度となく癒されてきたことも同時に思い出されていた。

この子をずっとお守りしていたい。でも、もう生きていくのも嫌になってしまった。恵ちゃんも連れて行けば、ずっと私がお世話をしてあげられる…

和江は、津田家の留守番が終わる前日の8月19日、自己のために購入していた睡眠薬を恵ちゃんのミルクに混入させた。
しかし、恵ちゃんがなぜか嫌がって飲まなかったため失敗。翌、20日の午前9時頃、母親を出迎えるために恵ちゃんを和江に預けて広本夫妻が東京駅に出かけた隙に、恵ちゃんをうつ伏せに寝かせるとその上に3枚の座布団を重ねた。

不遇な娘

裁判では、女中奉公に来た少女による幼児殺害ということで、たとえ未成年者であってもその責任は重大であるとされた。
娘を殺害された両親にとってみれば、到底許せるものではなかった。

和江は洋子さんの叱責がことさら堪えたと話していたが、実際には洋子さんの叱責は特段ひどいものでも理不尽なものでもなかったという。
しかし、和江はいわゆる境界知能と判定されており、加えて定型の単純作業はこなせても、自分であれこれと考えながらその時々で臨機応変に業務を行うということが和江にとっては大変難しいことだった。
そもそも、女中という仕事自体が和江には向いておらず、そんな中での洋子さんの叱責は、和江にとって「理不尽」なことでしかなかったのだという。

裁判所は、戦後の混乱期に教育をきちんと受けられず、かつ、和江自身の知能の問題や事件までの環境などを考慮せずに判断することは不適切とし、刑事罰でもって罪を償わせるよりも、家庭裁判所の判断に委ね、和江の今後を指導監督していくことが真の意味での贖罪につながるとした。

和江は警察に逮捕されて初めて、自身の罪深さに愕然としたという。
自分のことにとどまらず、自分を応援してくれた姉や親戚のことにも触れ、深く反省していたことも裁判所は見ていた。

もちろんこの時代、和江に限らず親が早逝してしまった子供は山ほどいた。和江だけが特別不遇だったわけではない。
同じ環境で育った姉や妹の存在を見れば、これは環境というよりも和江自身の問題が大きいというのはそうだと言える。

が、その本人の資質と環境が最悪の組み合わせとなってしまった時、おそらく自分でも訳のわからないままに行ってはいけない方向へレールのポイントを切り替えてしまうのかもしれない。

和江は深い後悔を胸に、家庭裁判所での処分を受けた。

瓜連の少女殺害事件

茨城県那珂郡瓜連町静(現・那珂市瓜連)。夏休みが始まった昭和31年7月23日、少女は明々後日から日立市河原子海岸で始まる臨海学校に行くための準備をしていた。
中学に入り、初めての臨海学校。少女は胸躍らせ、早くからそのための着替えなどをバッグに詰めて、両親が新調してくれた浴衣を着ることを楽しみにしていた。

午後4時、少女は遊びに来ていた友人が帰宅したので、庭先に面した四畳半の部屋で読書をしていた。この時間、夏はまだ日が高く、自宅前に広がる田畑では少女の母親が農作業をしていた。
ふと、庭先に人の気配がした。そこには、若い男の姿。少女はこの男を知っていた。二日前だったか、同じような時間に訪ねてきていた。
その時は母がいて男を帰らせたが、この日は少女しか家にいない状態だった。

「大子まで帰るから100円貸してくれ」

若い男はそう少女に言ったが、そんな金を持っていない少女は断った。
すると男は、
「じゃ、母ちゃん帰ってくるまで待っていべー」
といい、少女が座っていた板の間に腰かけた。

突然の出来事と、男に居座られたことで少女は途端に恐怖を感じ、すっと立ち上がると外の畑にいる母親に向かって呼びかけた。
「母ちゃん!」
しかし母親は150m離れた畑にいたため、少女の叫びが届かない。
「黙れ。」
振り向くと、先ほどまでにこにこしていた男が恐ろしい顔で少女をにらみつけている。ただごとではないと察した少女はさらに大きな声で
「母ちゃんよぉ!!!」
と叫んだ。

次の瞬間、少女は喉元を一突きにされ、即死した。

町長が名を連ねた「上申書」

殺害されたのはこの町で両親、姉妹と暮らしていた柏木京子ちゃん(仮名/当時12歳)。
遺体は、喉元を前方から一突きにされ、かつ、後頭部や頸部を複数回刺されており、第四頸椎創傷、左頸頭部および後頭部から左肩の後ろ側にかけて6か所の創傷が認められた。
死因は、延髄の創傷に基づく呼吸麻痺。即死だった。

のどかな田畑の広がる町で起きたこの残虐な事件は、京子ちゃんの両親、姉妹のみならず町全体を怒りと悲しみで包んだ。

母親の証言などから、容疑者はすぐに浮かんだ。数日前に突然家に来たあの怪しい若い男。
そして逮捕されたのは21歳の若者だった。

男は名を矢部吉蔵(仮名)といい、事件当時は無職だった。
裁判で矢部は「命を持って償う気はない」などと言い、真摯な反省が見られないとして死刑が求刑された。
12歳のいたいけな少女が理不尽にも殺害されたことだけでも死刑相当であるが、加えて犯行現場が少女の自宅だったことや、当時の農村の生活スタイルなども影響していた。

私も農家で育ったのでよくわかるが、昭和の終わりころまでは老人や病人、子供など農作業が出来ない人が留守を守り、働ける家族は皆、夜遅くまで農作業をするというのは当たり前だった。
ほかに仕事を持ちながらも、出勤前の早朝や帰宅後の夕方から日が沈むまで、兼業農家の大人たちは時間を作って畑仕事をするのだ。
その間、子供たちは家で兄弟姉妹の面倒を見、働く家族の支えになっていた。

事件が起きた瓜連町静のあたりも、多くはそのようなスタイルで家族の暮らしは成り立っており、今回の事件はまさにそういった生活スタイルを脅かしたともいえ、町全体の怒りとなったのだ。

通常、裁判所に提出されるのは犯人の情状面を考慮してほしいという嘆願書の類がほとんどだったこのころ、矢部に対してはそういったものは一切なかったという。
かわりに提出されたのは、瓜連町長以下、町民の大多数が連署した「死刑を望む上申書」だった。

しかし一審の判決は「無期懲役」。

審理の場は東京高裁へと移された。

東京高裁の判断は、控訴棄却。
死刑を科するか否かは、犯罪行為への応報の見地のみで決めてはいけないとするものだった。

事件は12歳の何の落ち度もない少女が自宅で殺害されるという残忍かつ極悪非道なものであり、両親の憎みても余りある報復の感情は被告人矢部に対する刑を決めるうえで軽視してはならない、としながらも、やはりその「応報」の感情のみで刑の軽重を決めるということはよろしくない、被告人の性格や年齢、生活環境、そして犯行の動機などを総合的に判断し、そのうえで死刑を選択しない余地がないと言える場合のみ死刑を科せられる、というのが高裁の判断である。

矢部のそれまではどのようなものだったのか。

生い立ちと事件まで

矢部は昭和10年生まれ。精米業を営んでいた両親の長男として生まれ、戦時中に日立市へと移り住んだ。しかし、昭和20年の日立空襲で一家の大黒柱である父を失った。
終戦後は母親に育てられたが、貧困のために中学にはろくに通えなかったという。
中学卒業後に東京の蕎麦屋で2年半ほど働いたというが、人間関係がうまくいかずに辞めてしまう。
以降、東京、茨城、埼玉の関東圏の飯場を渡り歩き、何とか自分一人で生活していたという。
ちなみにこの間、矢部は警察沙汰を起こすなどの粗暴な行動は一切なく、無口で人間関係を築くことが苦手なこと以外に問題行動はなかった。

実家はというと、姉妹らはすでに家を出、母親が残ってはいたがその母親は内縁関係の男性がおり、人間関係の構築が苦手な矢部が実家に戻ることは難しかった。
ただ、この内縁の男性は矢部のことを気にしており、失職した矢部を知人に紹介して仕事を斡旋してもらうなどの協力をしてくれていた。

昭和30年、土木の仕事を失って仕方なく実家へ戻っていた矢部は、とりあえずは農作業などをしながら土木の働き口を探していた。
そんな時、その母の内縁男性の知人から、静岡の土木工事に矢部をぜひ、という話があると聞かされる。
喜んだ矢部だったが、静岡へ行く日程がいつまでたっても決まらず、結果、取り消しになってしまった。
ひどく落ち込んだという矢部は、なぜか旅費を自分で工面して、単身静岡の現場に行けば職に就けると思い込んだ。

そして、そのためには農家の手伝いをして旅費を稼ぐしかないと考え、実家周辺よりも農家の多かった瓜連にやってきたのだ。

国鉄水郡線静駅に降り立った矢部は、そのまま常北町石塚方面に向かう県道を歩きながら、一刻も早く旅費を工面したいとそればかりを考えていた。
そして、金を得るには盗みに入ったほうが効率的、と思い立ち、付近の農家を探って歩いた。
そしてその日の夕方、京子ちゃんの家に来たものの、その時は京子ちゃんの母親がちょうど畑から返ってきたところで、追い返されてしまった。
その際、母親が
「うちのひとは警察官だから。早くいきなさい」
と言ったという。警察官の家はさすがにマズいと思った矢部はそのまま駅まで引き返したのだが、その駅でたまたま立ち話をした人から、京子ちゃんの父親が警察官ではないことを聞かされた。

ここで、矢部の心には邪悪なものが首をもたげる。

バカにしやがって。

矢部は柏木家に盗みに入ることを決意し、うなぎ包丁を胴巻きに忍ばせた。

死刑の判断基準

裁判所は地裁、高裁ともに矢部には死刑ではなくその生涯をもって贖罪の人生を歩ませることが妥当であるとした。
京子ちゃんの同級生らは陳情書を提出、町長の名もある死刑を求める上申書をもってしても、その判断は変わらなかった。

犯行自体は重大な結果となったが、その計画性においても、ハナから強盗に入るつもりというよりは窃盗の決意が強盗になり、京子ちゃんを殺して金を奪う、というよりは京子ちゃんの思わぬ行動が引き金となって犯行発覚を防ぐには殺すしかない、となり、殺せば逮捕されないのだからついでに現金を奪っておこう、という考えだったと認定。
「命で償う気はない」という発言も、罪の重さを実感していないのではなく、死刑を身近に感じているからこそ、自身の罪の重さをわかっているからこそ、死刑になりたくないという気持ちから出た言葉であるとした。
これらは裁判所が勝手に判断したのではなく、やはりそれまでの矢部の性格や人間関係、もともと一旦思い立ったことは前後の見境なく邁進する性格などを総合的に判断していた。

両親をはじめとする多くの人々の峻烈な処罰感情は当然のこととし、そのうえで、被告人を死刑に処して終わりにするよりも、被告人が生涯を通じて贖罪の人生を送ることこそが長い目で見れば本当の意味での慰謝となる、とも判決理由で述べられた。

死刑は今でも同じだと思うが、被告人の性格、その生活経歴、前科の有無、家庭環境、犯行の動機、原因、犯後の情況など諸般の情状を勘案して、犯人に対しては死刑以外の刑に処すべきではないと結論される場合においてのみ、この究極の刑を選択できるというべきである、とされている。

たしかに矢部はそれまで前科もなく、粗暴な面もなかった。犯行も綿密な計画というより、行き当たりばったり感はある。
しかしそれによって人が殺害されるという「結果」は、被告人のそれまでがどうであろうが関係のないことである。もし矢部が、前科前歴がある粗暴な人間だったら死刑だったのか。殺されたのは同じなのに、実質それ以外の面で犯人の刑が決まるのだ。

上告したかどうかが不明であるが、矢部のその後の人生が真の贖罪の人生だったと信じたい。

品川の毒入りサイダー誤飲事件

昭和32年5月6日。東京地方裁判所は異様な熱気に包まれていた。法廷内には女性らの姿も目立つ。みな、固唾をのんでこの裁判を見守ってきた人々だった。

被告人席には中年の女の姿。女は、少年と共謀して夫の殺害を図り、さらにはその過程で重大な過失を犯してこともあろうか幼い娘を死なせてしまったのだ。
法廷に集まっていたのは彼女に同情した近所の主婦たちだった。皆、この女の長年の苦悩を目の当たりにしており、裁判所に対しては「大岡裁き」を期待していた。

「主分。被告人を懲役3年に処する。ただし、本裁判確定の日から4年間右刑の執行を猶予する。」

法廷は沸いた。検察が求刑していたのは殺人未遂と重過失致死での懲役7年だったが、裁判所の判断は殺人未遂と過失致死だった。そして、裁判長は判決文の中で事件に至るまでの夫による女への傍若無人なふるまいや、女がどれほど夫に尽くし我慢に我慢を重ねてきたかに触れ、本件犯行が起こるに至った理由には夫の責任が重い、と述べた。

釈放となった女は支援者の主婦らと抱き合って号泣、件の夫も頭を丸めて法廷に姿を見せており、終始、「今回の事件はすべて俺が悪かった」と反省の弁を述べていたこともあり、悲しい事件ではあったけれども女の人権が守られた、そのような雰囲気に皆が酔っていた。

女が受けた酷い仕打ちとはどのようなものだったのか。

夫婦

この物語の主人公、大野ミサヱ(仮名/事件当時37歳)は大正10年に新潟で生まれた。父親はミサヱが生まれる前に出奔、ミサヱは母方の祖父母に育てられた。
中学を卒業したのちは、東京の伯母が経営する食堂で働いていたが、そこに曳き八百屋(荷車などに野菜を積んで売り歩く)として出入りしていた大野繁蔵(仮名/事件当時42歳)と恋仲となり、その後昭和15年に結婚。
太平洋戦争で中国に出征した期間はあったが、二人の間には事件当時17歳の長女を筆頭に四男四女が生まれたことからも、非常に仲の良い八百屋の夫婦、という風に思われた、が、実際は全くそんな状況ではなかった。

新婚当初は仲が良かった二人だったが、長女を妊娠した頃から繁蔵の態度は変わっていく。些細なことで叱りつけ、気に入らないと妊娠中のミサヱを殴る蹴るなどしたため、ミサヱはたまりかねて実家の母に相談することもあった。
もともと繁蔵との結婚に反対だった実母らは、暴力まで受けている娘を心配して離縁して帰って来いとまで言っていたが、そのたびに繁蔵が謝罪し、心を入れ替える旨の誓約を交わすため、ミサヱも子供のことを思って離縁を思いとどまった。

しかしミサヱが戻ればまた同じことの繰り返し。それは事件が起こる17年の間治まることはなかった。

繁蔵の悪行は身体的暴力にとどまらなかった。女癖も非常に悪かったのだ。
繁蔵は曳き八百屋から店舗を構える青果店へと商売を成功させており、南品川のその店は奉公人も抱える繁盛店だった。
が、隣近所の評判はあまりよくなかったという。店に対してというより、繁蔵のその人となりに対して評判がよくなかった。

暴君

終戦直後の昭和22年、都心は食糧難であり、食料を扱う店は軒並み成長していく。その八百屋が軌道に乗り始めたころから、繁蔵は家に戻らなくなった。

昭和24年ころから女遊びに精を出し始めた繁蔵は、築地の青果問屋の娘と深い仲となりいわゆる妾としてアパートに囲うようになった。
しかもその2年後には家族も出入りする南品川の青果店を二分し、なんとそこで妾にパチンコ店を経営させたのだ。
近隣の人々は眉をひそめ、軽蔑の意を込めて「犬パチンコ店」「動物パチンコ店」などと揶揄したというが、昭和27年にその関係は終わった。
が、妾は置き土産を残していった。それは繁蔵との間にできた幼い子供二人だった。

ミサヱの心中は穏やかであろうはずはなかったが、夫のためにすすんでその二人の子供にかかわり、ふたりに着物と金銭をつけた上で養子に出してやったという。
これで繁蔵の女遊びもなりを顰めるかに思われたが、3、4か月もすると繁蔵はまた女遊びを始める。
今度は伊東温泉の娼婦奉公をしている女だった。

繁蔵は以前にもまして傍若無人となり、店のことも奉公人らに任せきりでミサヱや子供らのこともまったく気にしなくなった。
産後間もないミサヱにも容赦なく仕事を言いつけ、歯が痛んでも病院に行くことを許さず仕事をさせ、奉公人らには売れ残りを出してはならぬと、夜遅くまで曳き売りをさせた。近所では「あの店で三日と続く小僧なし」と言われるほど、繁蔵の暴君ぶりは有名だったという。

ミサヱに対する仕打ちは周辺の人らの耳にも届いており、実際にミサヱが暴行を受けたり夫婦げんかに発見しているのを見た人も多かった。
しかしそんな夫婦仲でありながら、ミサヱは妊娠出産を繰り返していた。

ミサヱは子供たちのためだけに繁蔵の仕打ちに耐え忍んでいた。繁蔵は妾やその子供らには金を惜しみなく使うのに、ミサヱとその子供らには出し惜しみしたという。
ある時、長男が高校進学の希望を持っていることを知りながら繁蔵がそれを峻拒していたことを知りミサヱの怒りは頂点に達する。

そしてミサヱはこの頃から、あることを実行しようと画策し始めたのだ。

殺害計画

ミサヱらの自宅近くに暮らしていた宇野淑子(仮名)は、かねてよりミサヱの境遇にいたく同情していた人物の一人だったが、ある時ミサヱから思わぬ依頼を受けた。
「淑子さん、私決めたの。あの人をもう殺すしかないと思うのよ。」
そう切り出したミサヱは、淑子に対し、青酸カリを手に入れる方法を教えてほしいと言い出した。
おそらく淑子は仕事上、青酸カリを使用できる立場にあったと思われるが、当然ながらはいどうぞ、というわけにはいかなかった。しかも、ミサヱはその青酸カリで夫を殺害するのだと明確に打ち明けていた。

淑子は考えあぐねたが、淑子自身繁蔵をなんて男だと思っていたこともあってか、昭和34年1月ころに青酸カリをミサヱに渡した。

ミサヱは、繁蔵が好きなサイダーに混ぜ込んで飲ませ殺害しようと企んだ。

2月6日、夜遅くに帰宅した繁蔵の目につきやすい、店舗内の洗濯機の上にグラスをかぶせた状態で青酸カリ入りのサイダー一瓶を置いたが、その日は繁蔵の目に留まらなかったのか、それを飲むことはなかった。
翌7日、念を入れて青酸カリ入りサイダーと共に、好物の桜餅も添えて店舗内の野菜台に置いた。この日、明け方に帰宅した繁蔵はそれに気づいて手に取ったものの、なんとなくサイダーの色がおかしいと感じたようで飲むことはなかった。
2度失敗したミサヱは、焦りがあったのかサイダーをすぐまた出せるように店舗内に置きっぱなしにしてしまった。

9日午後八時ころ、店の中でそのサイダーを見つけたのは、四女の登美子ちゃん(当時7歳)だった…

最悪の結果と世間

すぐさま病院に運び込まれた登美子ちゃんだったが、小さな体はすでに致死的な状態にあった。

登美子ちゃんを治療中、医師に対して八百屋の奉公人の一人が
「裏口に落ちていた」
といって、件のサイダー瓶を提出していた。医師はすぐさま警察に提出、その3日後、品川署は任意で事情を聞いていた母親のミサヱを、登美子ちゃんに対する殺人と、繁蔵に対する殺人未遂で逮捕した。

「少女怪死」
という見出しをうった週刊サンケイをはじめ、多くの新聞週刊誌は悪い夫を見限った妻の罠にまさかの娘が引っかかってしまったという論調で書き立てた。
さらに警察は別の人間も逮捕していた。あの、サイダーの瓶を見つけたといった奉公人である。
彼は当時17歳の少年だった。茨城の農村出身の少年は、繁蔵の八百屋に2年前から丁稚奉公に入っていたが、繁蔵はご存知の通りの暴君として君臨しており、少年は何度も夜逃げをしていた。
先にも述べた通り、繁蔵は自分は女遊びにかまけて店のことなど全てミサヱに任せきりのくせに、少年ら奉公人には暴力を含めて厳しく接していた。朝早くから夜遅くまでこき使われ、粗末な食事しか与えられない生活に嫌気が指すにとどまらず、少年はいつしか繁蔵に対して憎しみを抱くようになっていた。

ミサヱから思わぬ話を持ちかけらたのは、昭和34年の正月明けの頃だった。
「もしも私に協力してくれたら、50万円の報酬と家をあげる」
少年はいつの頃からか近所の人や同じ奉公仲間に対し、繁蔵を殺してやりたいと言う話をしていたといい、それをミサヱが聞きつけたのだ。
少年に話を持ちかけた時点では、まだ青酸カリを手に入れられてなかったことでミサヱとしてはプランBだったのだと思われる。
少年が計画に応じたことで、頭を殴りつけてから荒縄で締め殺す、あるいは包丁で刺し殺すなどを考えては見たものの、実行できにいたところへ青酸カリがもたらされた。

ミサヱはプランAを実行に移したのだった。

しかしその結末は予想もしない、最悪中の最悪のものになってしまった。少年がサイダーの瓶を提出したのは、あまりの出来事に自身の責任を感じてしまったからかどうかは不明だが、そのことでミサヱの犯行はすぐに発覚してしまった。
夫婦の問題が、なんの落ち度もない幼気な娘に向いてしまった結末だったが、世間はミサヱの味方だった。

報道された直後から、八百屋がある品川南の商店街の奥方連中を主体として、減刑嘆願運動が始まった。皆繁蔵がミサヱとその子供に何をしてきたか、奉公人らにどんな仕打ちをしてきたかをよく知っていた。
ミサヱが8人の子を成しただけでなく、何度も妊娠中絶がその間に行われていたことも週刊誌は暴き立てた。

当の繁蔵もあまりの結末に、流石に世間に顔向けができなかったのか、平身低頭、あの暴君ぶりが嘘のようにしょげかえっていた。
世間はミサヱがここまで追い詰められたのは繁蔵の傍若無人が過ぎたからであるとしてミサヱに寛大な処分を願っていた。そして、殺人ではなく登美子ちゃんへの過失致死と繁蔵への殺人未遂ということで執行猶予を勝ち取った。
世間は「これでよし」と言わんばかりで、裁判所の心ある判決を大いに評価していた。

ところが検察が控訴したと知って、事態は変わり始める。

検察が控訴したのは、ミサヱが少年にだけ夫殺害を打ち明けていたわけではなく、他にも数人の男らに金銭をチラつかせて夫殺害を交渉していたことを重視していた。
そもそも青酸カリを入手できたのはミサヱから打ち明けられた淑子の存在があった。また、少年に対しても破格の金額と家一軒という報酬を用意していた。
これ以外にも、少なくとも二人の男に夫殺害を持ちかけていたことが判明していたのだ。

繁蔵のクソっぷりを一旦外して考えてみれば、ミサヱは計画的に夫殺害を企て、自分が疑われないように他人を使い、しかも少年に対しては「一切の罪を少年が被る」という約束までさせていた。報酬も、それが守られた後に支払われる約束になっていたというから抜かりがない。

しかし青酸カリ入りのサイダーをしまい忘れるとは抜けているにも程があるわけだが、週刊誌などの報道ではしまい忘れたのではなくて一応しまったのだが、登美子ちゃんが偶然見つけてしまったという話もあった。
子供の視線は大人とは違う。大人からは見えにくい場所でも、子供の目線にはむしろ目についてしまったのかもしれない。

5ヶ月後に行われた控訴審では、あれほどまでに熱心に通い詰めていた商店街の主婦らの姿はなかった。皆、もうすでに祭りのあとだった。

世間というのは面白いもので、一旦お祭り騒ぎが終われば、それまで神輿の上にいた人物を今度は引き摺り下ろそうとするものが現れる。
悲劇に見舞われた不幸な人は、不幸なままでいるから叩かれないのだ。もしも少しでも不幸の色が薄れたらその時は、世間からの仕打ちが待っている。
あの隣人訴訟で有名な三重の預けた子供が水死した事件でも、裁判の前と後で世間の同情は極端に変わった。

それは、令和の世も終戦直後の昭和の時代も、変わらない。

ミサヱはなんと繁蔵と離婚しなかった。形だけの別居を経て、控訴審が開かれる頃には再び、繁蔵の店を開けたのだ。
ミサヱに同情的だった街の人々も、一人また一人と、距離を取る者が出始めた。

控訴審判決は逆転判決となった。
数ヶ月に及ぶ計画の末の犯行であるにもかかわらず、地裁では夫婦の問題ばかりが注目され、他人を唆して協力させるという利己的なミサヱの犯行様態は悪質として、懲役3年の実刑が言い渡された。

三丁目の夕日に憧れて

この事件はいずれも、昭和30年代の「どこにでもいる人々」が起こした、あるいは被害者となった事件である。
和江は六子となんら変わらないし、少女を殺害した男の道を、武雄も歩んでいたかもしれない。皆、貧しく必死に生きていた。
繁蔵は酷い人間だったが、奉公人への厳しさはこの時代当たり前であり、鈴木オートも六子に容赦なかったし、軍隊上がりの店主だった。
ミサヱだって、鈴木オートの奥方のような人生を送れていたはずだったのだ。
今の世ならば、貧困や親との別離、上司のパワハラや先輩社員のいじめなどは相当に酌量もされるだろう。しかしあの頃は、そんな人は腐るほどいた。六子は長いこと、母親に言われた「口減らし」という言葉に傷ついていた。子供を育てられないほどの貧困があったし、それでも子供は親にとって稼ぐための「道具」でもあったあの頃。
武雄はお金のために身近な大切な人を傷つけた。それが、あの茨城の若者とどれほどの差があったのだろうか。ほんの少しのレールのずれが、簡単にそして大きく結末を変え得る時代だったのだろうな、と思う。

子供たちは元気に駆け回り、はすっぱなお姉さんをかっこよく思ったり、たばこ屋のおばちゃんにどやされたり、そんな日常のすぐそばに、それでも悪意はいつもあった。

東京に暮らす人々は、形作られていく東京タワーに夢を託し、夕日は明日への希望だった。
地方で暮らす人々も、東京タワーの噂を聞きながらいつか見に行きたいと胸膨らませ、上京していった人々の土産話を楽しみにしていた。

彼らが見た夕日は、今も街を照らしている。

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参考文献
昭和34年5月6日/東京地方裁判所/刑事第13部/判決

浮気夫の身代わりで「毒入りサイダー」を飲んだ愛娘
駒村吉重 著/新潮45 2008年3月号

🔓殺人の家~柏市・一家4人撲殺事件~

この記事を転載あるいは参考にしたりリライトして利用された場合の利用料金は無料配信記事一律50,000円、有料配信記事は100,000円~です。あとから削除されても利用料金は発生いたします。
但し、条件によって無料でご利用いただけますのでこちらを参考になさるか、jikencase1112@gmail.comまで連絡ください
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ネギ畑とナシ園が広がるのどかな郊外。
神社の周辺には公園があり、散歩する高齢者や畑仕事に精を出す人々の平和な日常があった。

その一帯の中で、異様な一角があった。
ぱっと見でも、大きく立派な家屋がそこにはあったことがわかる。しかし今、その家屋は焼け落ち、かつてここで暮らした人々も、たった一人を除いてこの世に存在していない。

ここには、つい先日まで一家5人が仲良く暮らしていた、と思われていた。
互いの名を呼ばずとも通じ合える老夫婦、中学教師と看護師という、申し分のない長男夫婦。そして、おじいちゃんのことが大好きな幼稚園に通うかわいらしい娘……

平成20年6月24日朝、家族の幸せな日常は突然終わりを告げる。

その一家を葬ったのは、家族の中の一人だった。 続きを読む 🔓殺人の家~柏市・一家4人撲殺事件~

LOVE STORY〜4つの愛の事件〜

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夫婦喧嘩は犬も食わないし、男女の諍いは時にそれ自体が二人を盛り上げるただの前戯のことも多い。

しかしそうならなかったら。そう思っているのは片方だけだったとしたら。

一度は愛し、愛されたはずの人たちがそれぞれを、或いは取り巻く人を傷つけ殺すハメになった、4つの事件。

ケンカをやめて

平成6年9月11日、病院に運ばれた男がいた。腹部に刃物による重傷があり、その刃物は柄が折れ腹部に刺さったままだった。
その状況からも、非常に強い殺意が見て取れた。

その頃、病院の待合では一人の男が所在投げに佇んでいた。
衣服には血液が付着、疲労困憊といったその男は、腹部に重傷を負った男を自らの自家用車でこの病院に担ぎ込んだ人物だったが、その様子は「人助けをした善意の人」とは程遠いものだった。

病院から通報を受けた警察が双方に事情を聴くと、思いもよらない答えが返ってきた。
「おれたちは決闘をした」
その答えは、けがをした男性の口からも、同じように語られた。

決闘

ケガをしたのは佐藤要次さん(仮名/当時35歳)。左腹部刺創による胃損傷、中結腸動脈損傷および左前腕切創の全治一か月の重傷だったが、命に別状はなかった。

佐藤さんを運んできたその決闘相手の男は、二宮亮平(仮名/年齢不明)。
二人の話によれば、9月11日の夜にとある事情から口論となり、佐藤さんから罵倒されたことで頭にきた二宮は、
「お前、俺と命を賭けて勝負するか?」
と申し向けた。
同じく頭に血が上っていた佐藤さんもそれに応じ、
「上等だ、すぐ来いよ。待ってるからな。」
と鼻息が荒かった。

その後、自宅から文化包丁(刃渡り18,3センチ)を持ち出すと、自家用車で佐藤さんを迎えに行った。
佐藤さんを助手席に乗せ、決闘場所に選んだ中央自動車道国立府中十二番通路に赴き、
「どっちがやってもやられても警察には言わない」
ことを約束した上で、ここに決闘する意思を確認しあった。

時刻は午前7時15分、頭上を出勤の車がごうごうと通りすぎるガード下で、男ふたりは朝日に照らされていた(想像)。
「これを真ん中に置くからよ」
二人の距離はやく3,5m。二宮は持ってきた包丁を、佐藤さんと自分の間に放り投げた。

そしてふたりはその包丁めがけて駆け寄ると、その包丁を奪いあった。先に包丁にてをかけたのは、二宮だった、ズルい。
しかし、すぐさま佐藤さんが上から抑え込む形となり、互いに組み合ってしばし奮闘したが、組み伏せられていた二宮が隙をついて包丁を突き上げたのだった。

裁判

警察には言わない、そう約束した二人だったが、決闘に勝ったはずの二宮は佐藤さんを車に乗せるとそのまま病院へ直行した。
病院に担ぎ込めばおのずとその決闘は露見するわけだが、もうこの時点でふたりにそんなことはどうでもよくなっていたのか。

病院の通報で駆け付けた警察に、二宮は決闘罪と殺人未遂の容疑で逮捕された。

裁判では、決闘罪と殺人未遂が両立するのかといった法律の議論も交わされた(※両立する)が、二宮は懲役3年、執行猶予が4年ついた。
決闘という性質上、結果的に被害者となった佐藤さんにも相当な落ち度が認められると判断されたことには異論はないだろうし、そもそも被害者の佐藤さん自身が二宮に対し寛大な処分をという嘆願書的なものを出していた。
二宮自身が佐藤さんを放置せず病院へ運んだことなども考慮された。

なんだか殺し合いの決闘に至る割に、ふたりの間に友情というか固い絆というかそういうものが見て取れるような気がしないでもないが、そもそもこのふたりが決闘に至ったその原因は何だったのか。

男が命を賭けると言えば、もうこれしかあるまい。
ご想像の通り、女の取り合いだった。

愛と友情

二宮には妻子がいた。その夫婦関係がどうだったかはわからないが、二宮には10年来の「13歳年下の愛人」がいたという。
この二宮については、事件自体がさほど大きくなかったからなのか、新聞等の報道がない。そのため二宮の年齢が分からないのだが、13歳年下の10年来の愛人がいるということで、少なくとも40歳以上かと思われる。
10年も不倫関係を続けてきたということで、さぞや愛し合った二人かと思いきや、実際はひどいものだった。

二宮はこの愛人に対し、10年間で4度妊娠させ、そのすべてを中絶させていた。

女性も女性だ、という意見はごもっとも、それは本人も同じだったようで、ある時別の男性と親密な交際を始める。それが、佐藤さんだった。

佐藤さんは二宮と友人であり、二宮との関係を承知のうえで女性に結婚を申し込んだ。女性も、佐藤さんとの結婚を望み、二宮との不毛な関係に終止符を打つと決心。
8月、佐藤さんは女性を同席させたうえで二宮を呼び出し、自分たちが結婚することを告げた。佐藤さんとしては友人である二宮に対し、本来通す必要はない筋ではあるが、通した形をとったのだ。

二宮は面食らった。長年、自分とは友人だったはずの佐藤さんと、10年も自分の言いなりだった愛人女性に裏切られた、その思いだけがこみあげた。自分が不誠実だったことは全力で棚の上だった。
散々女性にひどい仕打ちを繰り返してきたにもかかわらず、二宮は女性に執着し続けたという。
無理やり連れだしたかと思えば心中を持ち掛けたり、佐藤さんと二人きりで会わないという誓約書を書かせようとするなど、言動は常軌を逸していた。

事件当日、二宮は女性の自宅に電話をかけて復縁を迫ったところ、「会いたくもないし、話もしたくない」と邪険にされてしまう。すると、背後から佐藤さんの声が聞こえてきた。
この日、佐藤さんは女性宅に泊まっていたのだ。
さらにしつこい二宮に業を煮やした佐藤さんは、電話をひったくると「お前、いい加減にしろよ。しつこくするな!」と怒鳴りつけた。

そして、二人の決闘へと発展したのだ。

長年の泥沼にはまった女性は、佐藤さんに救われただろう。4度の妊娠中絶など、考えただけでも許せない。
が、女性とて二宮に妻子がいることを知らなかったわけはないだろうし、自分の不倫の後始末を新しい男にさせるというところに、言葉を選ばずに言えば「嫌な女だな」と思うのも事実である。

二宮と佐藤さんはその後どうなったのだろう。
誰にも言わない、命を賭けた男同士の決闘のはずが、結局、勝ったはずの二宮は法廷に引き出され、佐藤さんによる嘆願書が情状酌量となった。佐藤さんと女性とは縁を切ると、法廷でも誓った。
負けた佐藤さんは二宮に命を救われ、その後どうしたのだろうか。
命を賭けたその女は、以前と同じように守ってやりたい女に思えたろうか。

*************
参考文献
東京地方裁判所八王子支部 平成6年(わ)936号 判決

女々しくて女々しくて

男は女の言葉を待っていた。いいよ、帰っておいでよ。そう言ってくれると信じていた。
しかし女の口は動かない。期待している言葉は、いつまでたっても発せられないまま。
ふと、女が思い出したように手紙を差し出してきた。そこにあった文字は、「謝罪文」。以前、男が書くように要求したものだった。
「…これがお前らの答えなのか。」
謝罪文を読みながら、男の心はズタズタになっていた。そんな男の心を知ってか知らずか、女は身支度を整えるために洗面所へと消えていった。

男はバッグに手を忍ばせた。

ホテルマリオン

平成13年11月16日午前11時、川口市のラブホテルから川口署に通報が入った。
「女性のお客さんが死んでいる」
清掃に入った従業員が、ベッドにあおむけで倒れて動かない女性を発見、その状況から通報してきたのだった。
女性は後頭部を二か所、鈍器のようなもので殴られておりひどい出血をしていた。そして、遺体のそばには直径約20~30センチの血がついた石が転がっていた。

ホテルによれば、女性は男と二人で15日の夜9時ころにチェックイン、その後男だけが翌16日の午前10時半ころにチェックアウトしたのだという。

警察では、この男が何らかの事情を知っているとみて行方を追っていた。

同日午後8時45分、蕨署下戸田交番に一人の男がやってきた。
「西川口で人を殺した」
警察ではすぐにこの男がホテルの事件に関係しているとみて事情を聴き、容疑が固まったことから殺人容疑で逮捕した。

逮捕されたのは、川口市青木の無職、磯山清徳(仮名/当時49歳)。殺害されていたのは、磯山と内縁関係にあったというパート店員の滝下智美さん(仮名/当時36歳)だった。
智美さんは離婚歴があって、二人の子供を女手一つで育てていたという。ところが、いつのころからか磯山が智美さん方へ入り浸るようになった。二人の間には、女の子も生まれていたが、正式な夫婦ではなかった。
事件が起きた15日も、保育園に末っ子を迎えに来た智美さんは「今日の夜、西川口で(内縁の)夫と会うことになっている」
と話していたという。

警察は、現場に残された石が凶器であると断定していたが、その石はホテルの室内にあったものではなかった。ということは、磯山が外部から持ち込んだということである。
磯山は、その日最初から智美さんを殺害する気だったのか。

ふたりのそれまで

磯山は昭和27年生まれだが、6人兄弟の末っ子ということもあってか、1歳の時に養子に出された。
昭和34年にその養父母が離婚したため、実姉夫婦の養子として育つという、複雑な成育歴を持っていた。

中卒で働き始め、工場勤務や配送の仕事を転々とし、昭和55年に結婚、その後娘二人に恵まれた。
妻はスナックを経営し、磯山はタクシー運転手などをしていたが仕事は長続きしなかったという。家計は妻が支えた。

智美さんは昭和59年に結婚、長女と長男がいたが平成3年に離婚。その後は保険外交員をしたり、時に生活保護を受けるなどして女手一つで子供たちを育てていたという。

磯山と智美さんの運命が交錯したのは、お互いの子供たちを通してだった。
磯山は娘が通う小学校でミニバスケットボールのコーチをしていた。そこに、智美さんの長女も通うようになり、コーチと保護者という関係で知り合ったのだ。
このころ、磯山は既婚者だったがスナック経営の妻とは生活リズムが合わず、その関係はうまくいっていなかった。
若くて独身の智美さんとはウマが合い、やがてふたりは不倫関係へと陥った。

平成9年に磯山の離婚が成立、子供たちは妻が引き取ったことで磯山は一人になった。
その後はタクシー運転手をしながら一人暮らしをしていたというが、平成10年にタクシー会社を辞めるとたちまち家賃の支払いに窮することになってしまった。
そこで、とりあえず市内の健康ランドの会員となってそこで寝泊まりするようになる。わずかな生活費はパチンコ代に消え、自堕落な生活を送っていたが、智美さんとの関係は継続していた。

そして、智美さんが妊娠する。

平成10年12月に智美さんが出産したのを機に、磯山は再びタクシー運転手の職を得たが、アパートを借りる資金が追い付かずに健康ランド暮らしからは抜け出せていなかった。

磯山との間の子供は智美さんが育てていたが、そのころ智美さんの経済状況も思わしくなかったようだ。
ある時、智美さんがサラ金に借金していることを知った磯山は、不意に、生まれたばかりの娘のことが気になり始めた。
智美さんに任せておけない、自分の自堕落は棚に上げて、智美さんの経済状況を大義名分にして半ば強引に智美さんのアパートへ転がり込んだ。

お互い独身同士、しかも二人の間の子供もいるわけで、これを機に結婚するとか、そういう選択もあったと思われるが、そうはいかない事情があった。

智美さんの前夫との間の二人の子供は、磯山のことが大嫌いだったのだ。

嫌われる男

当時磯山はタクシー運転手としての稼ぎはあった。転がり込んだ当初こそ、その給料からいくらかのお金を智美さんに渡すなどしていたようだが、子供たちとの関係は最悪だった。

順序だてて、ごく常識的に考えれば自分がしていることが子供たちの理解を得るにはほど遠いことは分かりそうなものだが、焼け石に水程度の生活費を入れただけで、磯山は智美さんと同居する理由があると思い込んでいた。

智美さんの子供たちは長男が当時17歳。妹の父親であるだけの磯山が大きな顔で居座ることは理不尽だと思っても当然である。
子供たちは再三にわたり磯山に出て行ってくれと頼んだという。しかし、磯山にしてみれば、母親の借金を減らす協力までしている自分に対し、出て行けとは何事か、という身勝手な思いがあり、子供たちと磯山の関係は悪化の一途をたどる。

そのうち、磯山の中で「ここまで自分が協力しているのに子供たちが懐かないのは、そもそも智美がきちんと説明していないからだ」という思い込みが膨らみ始める。
タクシー運転手としてもそんなに稼ぎがあるわけではなかった磯山は、家に帰っても居心地が悪いことから次第に働く気持ちも失せていった。

平成13年の年明け、些細なことで智美さんと子供たちを相手に口論となった磯山は、仕事を辞めると宣言。お金も入れないし、これまで渡した金も返してもらうと一方的に宣言した。なにこのおっさん、中身は子供?

以降、昼間から家に居座り酒を飲み、時には智美さんや子供らに暴力まで振るうようになった磯山は、これまで以上に忌み嫌われるようになる。

そしてその年の11月、決定的な事件が起こる。

どうぞどうぞ

智美さんの長男の友人が遊びに来ていた時のこと。虫の居所が悪かったのか、理由は定かではないが磯山はその友人を突然蹴ったという。
当然長男は怒り、二人の間で激しい口論となったが、その際思わず
「2~3日中には出ていく」
と啖呵を切ってしまう。
磯山としては、すでに智美さんや子供らへの責任感や愛情というよりは、行くあてがないことであらゆることに理由を見出して居座っている状態だった。
引っ越ししようにもその費用すらなく、かといって必死に働きその費用を作るというのもバカバカしいという思いでいた。

加えて、磯山には大きな勘違いがあったようだ。

子供たちにしろ、智美さんにしろ、出て行ってほしいと口では言うが内心は違うのでは、という希望的観測があったのだ。
子供まで作った相手であり、現に今だって性的な関係も持っているのだ、いざ出ていくとなれば翻意するのではないか。哀れな男は、その期待にすがるしかなかった。

しかし、子供たちは磯山の口から出ていくという言葉が出たことでそれは言質を取ったかたちとなり、一方の智美さんも、磯山の期待とは裏腹に「今日までに出ていくんでしょ?」などという始末。吐いたつばを飲むこともできず、磯山は追い詰められていく。
それでも、磯山には智美さんに金を「貸している」という思い込みがあったために、それを持ち出せばまだ何とかなると考えていた。

そのうえで、子供たちにしっかりと金銭的援助を磯山がしてきたことを伝えさせ、これ以上子供たちが横着な態度をとらないよう智美さんを説得しようと考えた。
智美さんを説得するためには、強い態度に出なければ、とも。

11月15日、磯山は待ち合わせた公園で智美さんを待っていた。ふと、公衆電話ボックスのそばに、大きな石が落ちているのが目に留まる。磯山は吸い寄せられるようにその石塊を拾うと、そっとバッグに入れた。

愛と憎しみ

検察は、智美さんの子供たちが自分に懐かないのは智美さんがきちんと説明していないからという身勝手な思い込みから、殺意を持って智美さんの後頭部や顔面を石で殴り、その後絞殺に至ったとして、懲役15年を求刑。

平成14年7月16日、さいたま地裁は磯山に懲役13年を言い渡した。

確かに、磯山は一時期智美さんの生活を助けるために、金を渡した経緯はあった。中絶費用を工面したり、借金の返済を手伝ったこともあった。
また、智美さんとの間に子供が生まれた際も、その出産費用を工面していた。が、出産経験のある人は分かる通り、基本的な分娩費用は健康保険から一時金が支払われるため、実際には何十万もかからない。智美さんはそれを隠していたのだという。
自身も苦しい生活の中で、なんとか愛する人とまともな生活を作ろうとしていた節も、見えなくはない。

こういった面からみれば、智美さんにも相応の落ち度があるように思えるが、そもそも二人(磯山と智美さん)の子供を出産したわけで、父親である磯山が、お金を貸したも何もないはずだ。支払って当たり前の費用ともいえる。

加えて、磯山が智美さん宅へ転がりこんだ経緯を考えれば、その磯山の献身がどれほどのものだったかは疑わしい。
結局は、智美さんを見下し、その子供たちをあたかもいうことを聞いて当たり前の相手だと見くびっていたのだ。
娘のことが心配だと言いながら、自分の住む場所を手っ取り早くつかもうとしただけだ。

智美さんとて、子供を作った相手である磯山を憎んだり、顔も見たくないほど嫌っていた、という風ではない。
現に、殺害されることも知らずホテルに行っている。さらに、その場で磯山に対し、小銭をかき集めて5000円を手渡したという。それまでも、なんども磯山に小遣いをせびられていた。

決して、磯山を無碍にしたわけでもない。ただ、子供たちとうまくいかない以上、一緒に暮らすことは無理だと、そう言っていただけなのだ。
それを、磯山が求めていた「謝罪文」に、他人行儀な言葉が並んでいたというだけで磯山は智美さんへの思いを憎しみに変えた。
石で何度も殴りつけ、挙句首を絞めて殺害し、その遺体の横で朝まで寝ていた。

その時見た夢はどんなものだったのか。そして、目覚めて何を思ったのか。

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読売新聞社 平成13年11月17日、12月8日東京朝刊、
朝日新聞社 平成13年11月18日東京地方版/埼玉

翳りゆく部屋

「やっぱりやるわ。今、包丁持ってる。」

電話口の女は落ち着いていた。先程までの興奮が嘘のように、淡々とこれから自分が何をしようとしているのかを、電話の相手に告げた。

「親から、一番大事なものをとってやるから。」

電話相手の友人は必死で女を呼び止める。電話を投げたら、やる合図……
友人は電話の向こうの様子を聞き漏らさまいとぎゅっと受話器を耳に押し当てた。

事件

平成3年1月21日午後7時半頃、「夫を刺した」という119番通報が入った。川口市内のアパートの一室に署員が急行すると、そこには住人の男性が腹部から大量に出血した状態で倒れていた。
都内の病院へ搬送されたものの、男性はその後死亡が確認された。

死亡したのは、川口市在住の塗装工、垣内拓海さん(仮名/当時21歳)。拓海さんは腹部を包丁で一突きにされており、腹部盲管刺創による臓器損傷に伴う出血性ショック死だった。

現場の状況から、通報者であり拓海さんの妻である幸子(当時20歳)を、拓海さん殺害容疑で逮捕した。幸子は妊娠6ヶ月の身重だった。

若く、子供にも恵まれた前途のある夫婦の間に何があったのか。

そこにはありがちな浮気や嫉妬、経済的な問題などということのみならず、幸子の過酷な人生と、直前の出来事が影響していた。

二人のそれまで

幸子と拓海さんの出会いは中学時代。その頃から交際をしていたという二人だったが、とにかく拓海さんは幸子にとって恋焦がれた最愛の人物であった。

平成2年6月に二人は若くして結婚。できちゃった婚でもなく、そこには愛し愛される若い幸せな二人の絆を感じられた。
しかし若い二人の経済観念は乏しく、結婚しても趣味の車いじりをやめられなかった拓海さんが幸子に渡す家計費は月6万円ほどだったという。

それでも愛する人と結婚できた喜びが遥かに勝っていた幸子は、不満を口にすることもなく、時折実母から食料の援助やお小遣いをもらってそれなりに慎ましい生活を送っていた。

その年の秋、幸子の体に変調が現れる。生理が来なくなったのだ。
ただ幸子自身、虚弱体質で小柄だったということで、おそらくそれまでにも生理不順などあったのだろう、その時は特に何も気にしていなかったようだ。

ところが平成3年になって、胎動のようなものを感じたことから幸子は産婦人科を受診。そこで初めて、自身が妊娠5ヶ月目であることを知る。
エコー写真を見せられ、幸子はいたく感動した。愛する人との、それこそ愛の結晶だった。私も母になるのだ。お腹の中ですくすくと育っている赤ちゃんに愛おしさを感じ、その喜びを夫である拓海さんとも分かち合いたいと帰路を急いだ。

しかし、帰宅した拓海さんの口からは信じられない言葉が発せられた。

面罵する義母

「いや、無理。まだ遊びたいし、やりたいこともあるし。」

おさらいだが、この二人は正式に結婚しており、確かに貧しい暮らしではあったようだが拓海さんは職も持っていた。
その状況で妊娠を告げた時、まさか夫からこのような言葉が出ると思うだろうか。
健康な男女が結婚し、同居しそれなりに夫婦生活を健全に行なっていれば妊娠は自然なことである。もちろん、諸事情で妊娠を先延ばしにしたい夫婦もいるだろう、それならば避妊するなどして家族計画をしていくのだ。

しかし拓海さんは特にそのような、「妊娠してほしくない」という様子もそれまで見られなかったし、妊娠しても不思議はないSEXをしていた。

にもかかわらず、「いや、無理」とはどういうことか。

混乱した幸子が縋っても、拓海さんの態度は変わらなかった。それだけではなく、拓海さんの両親らまでもが幸子の出産に猛反対してきたのだ。

拓海さんの両親による出産への反対は熾烈を極めた。
言葉で翻意させるにとどまらず、幸子は義母に産婦人科へと強制的に連れていかれる。そして、中絶手術を強要されたのだ。
さらにはあまりの事態に仲裁をしようとする産婦人科医を前に、中絶に同意しない幸子を罵倒したという。
当然、幸子本人の同意なしでの中絶などできるはずもなかったが、あまりの屈辱と恐怖からショックを受けた幸子は泣きながらやっとの思いで自宅アパートへと帰った。

そして、唯一の友人である女性に電話をすると、事の次第を話したという。

その女性は、拓海さんの実家が経営する塗装店の従業員で拓海さんとも親しい人物と交際しており、かねてから幸子の悩みを聞いていた。
その日も、幸子をなだめ、慰めながら話を聞いていたというが、この日幸子はいつもと違っていた。
普段は少々わがままで依存体質ではあるものの、凶暴な面はなかったというが、この日の幸子は興奮冷めやらずといった体で、
「寝ている間に拓海を刺して自分も死ぬ」
などと物騒なことを口にした。

そして電話を切った幸子は、その言葉を裏付けるかのように金物店へ出向いて刃渡り16.7センチの文化包丁を一丁購入し寝室のベッドの下にしのばせた。

懇願と絶望

それでも幸子は最後までどうにか出産を拓海さんに認めてほしいと強く願っていて、何度も何度も、拓海さんに出産への思いを切々と訴えていた。
実家へと戻って実母に状況を説明した際も、あまりにむごい仕打ちに実母が直接拓海さんを諭すこともあった。その甲斐あってか、拓海さんも「もう一度考えてみるから待ってほしい」といい始めたことで、幸子は一縷の望みを託していた。

1月21日、この日こそは拓海さんから良い返事がもらえると期待して拓海さんの帰りを待っていた幸子だったが、やはり不安もあって、友人女性に電話して心を落ち着けようとしていた。
5時半ころ、仕事から帰宅した拓海さんが食事を始めたため、電話をいったん保留にしたうえで幸子は拓海さんに恐る恐る、聞いてみた。

「一緒にやってくれる(出産し結婚生活を続けていく)ことになったの?」

しかし、拓海さんの返事は無情なものだった。

「やっぱりだめだ。親もだめだと言っているし、俺もやりたいこともあるし、遊びたいから駄目だ。」
「おれの気持ちはもう変わらない。冷蔵庫、たんす、テレビは置いて行ってやるから」

この時拓海さんは、出産はおろか、幸子との結婚生活にも終止符を打つと、断言したのだった。

幸子の胸の内はいかばかりだったろう。
電話をとり、ふたたび友人女性と話をし始めた幸子は、もはや正常な判断が下せるような状況になかった。

「拓海が子供を生むなら別れると言って全然賛成してくれない。拓海が自分以外の人と結婚したら嫌だから別れない。あんな男をこの世にのさばらせておくのは許せないので殺す。」

話は拓海さんを殺害する内容が繰り返され、友人女性が思いとどまるよう諭すことで幸子もいったんは落ち着いたようにも見えたが、拓海さんが風呂に入ったころ、幸子は友人女性に決意を伝えた。

精神遅滞と、二律背反

裁判では幸子の生い立ちのみならず、その精神年齢や事件直前の幸子の精神状態も審理された。
弁護人は、確定的な殺意に基づくというよりも、幸子の命そのものと言ってもいい最愛の夫への信頼が崩れたこと、裏切られたことによる異常行動であるとし、犯行動機そのものを否認した。

検察はこれに対し、幸子の嫉妬深い性格が、中絶か離婚かの選択を迫られた挙句無理心中に走らせたとし、事前に包丁を準備し、その旨友人女性に話すなどしていたことから計画性もうかがわれるとした。
加えて、確かに妊娠中でありその責任能力もかなり減弱していたことは否めないとしながらも、弁護人が主張する、心神耗弱は認められないとした。

鑑定を行った医師によれば、幸子のIQは55(数字上では軽度の知的障害)で、加えて精神遅滞もあったという。精神年齢は9~10歳程度だった。
幸子は日ごろから口が重く、問われたことに対しても即答するようなことができなかった。
幼いころから両親は不仲で、父親の暴力のせいで両親は別居していた。そのため、母親が不在の時は鍵のかけられた部屋で過ごさざるを得ないなど、極めて不遇な幼少時代を送っていた。

さらに、虚弱体質や知的な問題で小学校の途中からは勉強についていけなくなり、両親の状況からもそれを気にかけてくれる大人にも恵まれず、幸子自身勉強への意欲が失せたという。
それだけが原因ではないだろうが、幸子は友達もできず、したがって健康的な社会性やコミュニケーション能力も育つことなく成長せざるを得なかった。

一方で、幸子に対して理解を示したり、優しくしてくれる人に出会うと極端に依存し、それは執着へと変わった。
その中の一人が、拓海さんだった。

人とのかかわりの中で、孤独に生きてきた少女は自分を愛してくれた拓海さんに全人生を賭けてもいいとさえ、思っていた。
しかし、幸子の中にもう一つのかけがえのない大切なものが、しかも愛してやまない拓海さんとの大切なものが宿ったことで、「それまでの」唯一無二の存在が幸子を苦しめることになってしまう。

鑑定した医師は、幸子の状態を「二律背反」とした。
二律背反とは、二つの命題、願望がそれぞれ両立しうると同時に、それらを達成させるためにはそれぞれの命題が致命的なネックになる状態をいう……幸子の場合でいえば、愛する人との結婚生活を継続することと、その愛する人との子供を出産することは本来両立しうることだが、結婚の継続のためには中絶が必須となり、出産を望めばそれを望まない拓海さんとの結婚生活は継続できなくなる、こういった状況にあった。

究極の二択というには、あまりにも乱暴かつ幸子の感情を著しく踏み躙っていた。

幸子は妊娠自体を5か月まで知らず、その事実を認識した直後から心身ともに疲弊する日常に直面していた。
不眠、下痢、頭痛などに悩まされ、おそらく妊娠による体調、心理面での変化もあっただろう。

浦和地方裁判所(当時)は、確定的殺意はその程度は弱いとしてもあったと認定、そのうえで、精神的な動揺が激しい状態であったこと、元来悩みや問題を適切に処理する能力が劣っていたこと、事件当日の拓海さんからの最後通牒を受けた以降の記憶が脱失していること、電話の相手の友人女性が「事件直前の電話の内容は支離滅裂だった」と証言していること、そして、友人女性に対し殺人の予告を行うこと自体が異常な状態であり、普段の幸子の人格からは考えられないということなどから、「本件犯行直前において、心因性意識障害に基づき、是非善悪を弁別する能力及びその弁別に従って行動する能力が著しく減弱した状態、すなわち、心神耗弱の状態にあったもの」として、懲役3年執行猶予5年の判決(求刑懲役6年)を言い渡した。

輝きは戻らない

幸子は事件後、無事に子供を出産していた。しかし、その子の父親である拓海さんはこの世にもういなかった。
愛する人を失いたくないと必死だった幸子は、それでも拓海さんと引き換えに子供を産んだ。
裁判所は、拓海さんが一人っ子であり、しかも子供のなかった拓海さんの両親が特別養子縁組で育てた大切な大切な存在だったことや、拓海さん自身の無念さに思いを寄せつつも、量刑の理由のそのほとんどを幸子への同情を禁じ得ないと綴った。

幸子は拓海さんとの結婚をこれ以上ない幸せだと受け止めていて、それは「拓海と一緒にいられれば、おなかがすいても耐えられる」と話していた通り、何にも代えられないものだった。
しかし、その延長線上といえる妊娠が、何にも代え難い存在だったはずの拓海さんを上回った。というか、そもそもこんな理不尽な二者択一をせざるを得なくなるなど幸子でなくてもだれも思わない。
愛してやまない人との子を、なぜ、その愛する人と一緒にいるために天秤にかけなければ、諦めなければならないのか。

裁判所は、それを「不可能な選択」とした。

また、産婦人科に幸子の首根っこをひっつかんで連れて行き、医師の前で面罵した拓海さんの母親も、事件後は反省したのか幸子に対し厳しい処罰を望まないと述べていた。

そして何よりも、幸子がその命を守ったといってもいい子供が、幸子が収監されれば養育者を失うということになり、それこそ子供に不測の悪影響が懸念されるとして執行猶予がつけられた。

その名の通りの、幸せを願わずにいられない。

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読売新聞社 平成3年1月22日東京朝刊

信濃川エレジー

昭和40年5月9日、新潟県小千谷市高梨町。そこを流れる信濃川は、雪解け水が流れ込み増水していた。
5月とはいえ、まだまだ早朝は肌寒いこの日、その夫婦は朝からくるみの木を伐採するために家を出た。

夜が開け始めた午前5時、夫婦は信濃川の中洲に渡るため、川舟に乗り込むと本流に向けて漕ぎ出した。
櫂を繰りながら、慎重に進んでいると、不意に夫が妻に声をかける。

「危ないから、ポットに掴まっとれ!」

水嵩が増して激流となった信濃川。もし誤って落ちてしまえばあっという間にのまれてしまう。妻は咄嗟に立ち上がると、及び腰で舟の近くの水制ポットに掴まろうとした。

あっという間のできごとだった。水制ポットを過ぎる頃、妻の姿は舟の上から消えていた。

仲人の直感

それは悲劇的な事故として扱われた。信濃川に転落した妻の行方は分からず、新聞報道でも仲の良い夫婦に起きた悲劇というものが掲載された。

行方不明になったのは、小千谷市の水島マスミさん(仮名/当時40歳)。夫と二人の子を持つ主婦だった。その後マスミさんは溺死体で発見された。

夫婦が一緒にいたときの不慮の事故ということに思われたが、どうしてもマスミさんの死を事故だと思えない人物がいた。

「新聞報道を見たとき、とうとうやったかと思いました。」

そしてその人物の疑念は、現実のものとなった。

マスミさんが死亡したのち、警察は夫で当時舟に一緒に乗っていた水島謙作(仮名)を、妻殺害の容疑で逮捕したのだ。
さらに、謙作を唆してマスミさんを殺害させたとして、小千谷市内の女も逮捕された。
二人は三年来の不倫関係にあり、女はこの年の3月に別の男性と結婚したばかりだった。
マスミさんの死が事故ではないと思ったのは、この女の結婚を取り持った仲人の男性だった。

契り

謙助と共に逮捕されたのは田辺典子(仮名)。世間的には新婚のごく普通の主婦だった。
しかし先に述べたとおり、典子には謙作という愛人がいたのだ。

二人の出会いは昭和37年。同じ職場で働いていたことから親密になり、やがて性的な関係を持つようになる。この時は典子は独身であったが、謙作にはマスミさんという妻も、二人の子供もいた。

昭和39年になると、典子に縁談が持ち上がる。この時代、まだまだ親や親せきが持ち込んだ縁談を「気に入らない」で無碍にできるほど、女性の立場は高くはなかったろう。
が、典子は烈火のごとく怒り、その縁談を全力で拒否したという。その際、謙作との不倫をぶちまけ、自分はこの人を愛している、いずれ結婚するのだと言い張って、父親らを仰天させた。

結局、不倫という状態では世間体もはばかられ、かつ謙作の職場にも迷惑がかかるということから、勤務先の工場長も交えての話し合いがもたれ、念書が交わされた。
その後、工場長は謙作を同行の上で典子の家に赴くと、典子の父親同席のもと典子に対し、「水島のことはあきらめて、嫁に行きなさい」と諭した。
同行した謙作も、典子と父親に対し、「典子さんとは別れます」と約束をした。

そして昭和40年3月、典子は婚約者の男性の許へ嫁いだのだった。

しかし、典子はこの結婚を受け入れた形をとりながら、謙作に対し一つの誓いを立てていた。

それは、たとえ結婚しても、謙作以外と肉体関係を持たないというものだった。

貯水池の密会

結婚した後も、典子は謙作と逢瀬を重ね、それまで同様肉体関係を持っていた。
一方の夫とは、あの契りのとおり、一度たりとも関係を持っていなかったという。典子が言うには、そもそもケチのついた結婚でもあり、事情は夫も承知だったとのことで、そもそも夫からの求めもなかったらしいが、これは後の公判において夫は否定していた。

4月15日、小千谷市にある旧陸軍の貯水タンク付近で典子は謙作に対し、
「私が夫と離別しても、あなたに妻がいたのでは一緒になんかなれない。後々未練が残らぬように、いっそ殺してくれ。」
と執拗に迫っていた。

謙作の心はどうだったか。

謙作は実にズルい男だった。不倫している時点でそうなのだが、謙作は3年間の不倫関係において、3度も典子を妊娠させ、そのたびに中絶させていたのだ。

もちろん、典子にも多大な非はある。しかし、謙作は典子を愛人にしておきながら、実はほかにも複数交際している女性がいたのだ。

典子がそれを知っていたかどうかはわからないものの、親に背いてでも、邪魔な妻を殺害してでも謙作と一緒になるのだという強い思いがあった(いいか悪いかは別です)。

典子の思いをこの時謙作は思い知ったとみえた。
以降、典子の「妻を殺してくれ」という願いが謙作の心をぼんやりとではあるが、捉えて離さなかったようだ。

そして前々から決まっていたクルミの木の伐採の日、濁流に揺れる木の葉のような舟の上で、事故に見せかけてマスミさんを殺害することを思いついたのだった。

告白

一審の新潟地方裁判所長岡支部では謙作に対し無期懲役、典子に対して懲役10年が言い渡された。
典子、謙作ともに控訴したが、東京高裁ではいずれも棄却。特に謙作に対しては、長年善き妻、善き母として尽くしてきたマスミさんを事故に見せかけて殺害するなど言語道断、極刑に近い厳罰を持って臨まなければならないと厳しく批難した。

一方で、謙作が殺意を持ってマスミさんを殺害したとする物的証拠はなかった。
典子がマスミさんを殺してくれと頼んだというのも、いわゆる寝物語でのことであり、言葉のあやとでもいうべきか、そこまでしてでもと思うほどの強い愛情を示しただけであると弁護側は反論した。

しかし裁判所はこれを一蹴。
実は典子は、あの貯水池での密会以外でも、謙作に対してはっきりと「奥さんを殺してもらって…」という教唆をしていたのだ。
それは、謙作にあてた恋文の中にあった。

また、典子がつけていた日記の中で、マスミさんが行方不明になったという新聞記事の切り抜きが貼られているのも見つかっていた。
そしてそれらの存在は、典子の夫と仲人も、事件発覚より前に知っていたことだった。

裁判では、典子の手紙が貯水池でのやり取りとあわせて教唆の証拠となり、典子の日記に貼られた新聞記事は、願いを叶えてくれた謙作への感謝と記念であると認定した。

二人は上告。そこでは弁護側から原審にはいくつかの違法な点を審理していないことなどが上告の理由として挙げられており、最高裁はそれら(被告人の知る権利を侵害したと思われる点)は違法であると認定したが、そのうえでその違法は判決に影響を及ぼさないとして上告を棄却、二人の刑は確定した。

信濃川にも、ようやく夏の気配がしていた。

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昭和41年7月18日/新潟地方裁判所長岡支部/判決/
昭和42年11月13日/東京高等裁判所/第7刑事部/判決
昭和43年6月25日/最高裁判所第三小法廷/決定
昭和43年(あ)267号
最高裁判所刑事判例集22巻6号558頁
D1-Law第一法規法情報総合データベース