殺す親、殺される子供~3つの子殺し~

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まえがき

子供は、誰にどのように育てられたか、が非常に大切であると私は考えている。
危険から守り話を聞いてくれる大人がいて、教育と適切なしつけを受けられ、衣食住がそれなりに足りていること。
ここに出てくる「大人」は、血のつながりは関係ない。両親がいなくても、自分を守ってくれる存在があればよい。

たとえ衣食住が足りていてもその守ってくれる存在がない、それだけで子供の環境は劇的に悪化し、ましてや本来保護してくれるはずの両親、あるいは両親のどちらかが「危険」な存在であったとしたら。

親であるというだけで外部からそれは見えなくなり、ことは軽く考えられ、結果子供の命は脅かされる。

殺す親と、殺される子供の事件。

荒川区の母親と子供

平成26年12月29日、荒川区のマンションの13階から5歳の男の子が転落したと警察に通報があった。
外出先から帰宅した父親が、男児が家の中にいないことを知って外を確認したところ、マンション敷地内で男児が倒れていたのを発見したという。男児は間もなく死亡が確認された。

亡くなったのは、このマンションで両親と暮らす山岡光希ちゃん(苗字のみ仮名/当時5歳)。
光希ちゃんが転落した当時、自宅には母親がいて、光希ちゃんは就寝しているはずだった。
所用で直前に家を出た父親が10分後に帰宅すると、母親が狼狽えて光希ちゃんの姿が見えないと話したといい、周辺を捜索したところ倒れている光希ちゃんが発見された。

母親は自宅にいたがトイレに行くなどして気付いたら寝室の窓が開いていたという。
状況から、光希ちゃんが両親の姿が見えないことを不安に思い、窓から身を乗り出すなどして転落したとみていたが、不審な点があった。
転落したとみられる窓とその周辺に、光希ちゃんの指紋が一切ついていなかったのだ。

さらに、母親が一週間ほど前に光希ちゃんに対し、首を絞めるという行動に出ていた事実も発覚。
平成12年12月30日、警視庁尾久署はこの母親をまずその時の殺人未遂容疑で逮捕し、あわせて今回の光希ちゃんの転落についても関与しているとみて捜査を開始した。

ただ、この母親には精神科への通院歴があったため、逮捕後およそ3か月かけて精神鑑定が行われることになった。

クリスマスパーティーの夜

逮捕されたのは加藤愛(当時35歳)。調べによると、第一の事件として、平成15年12月23日、荒川区のホテルで行われた夫の会社のクリスマスパーティーにおいて、愛は光希ちゃんを女性トイレに連れ込むとその個室内で暴行を働いた。
捜しに来た夫や知人女性らがトイレに入ると、個室の中から「ママ、ごめんなさい」という光希くんの悲痛な声が聞こえたという。
夫らが必死でなだめ説得したところ、その時は光希くんを解放。しかし光希くんの首には、何かで絞められたような赤い痕が痛々しく残っていた。

愛はこの日の出来事を「何か飲み込んだようだったため、それを吐かせようとしていた」などと夫らに釈明し、首を絞めたことを頑として認めなかった。
夫はそれでも不信感がぬぐえず、また、光希ちゃん自身がトイレ内の電源コードを指さし、「あれでママに首痛くされた」と話したことから証拠として光希ちゃんの顔と首の状態を写真に残した。

この事件があって一週間もしないうちの悲劇だった。
しかも、夫はこの23日の出来事を警察に「妻の精神が不安定で子供に危害を加えた。精神科に入院させたい」と電話をかけていたが、相談にとどまったことと、その時住所も氏名も言わずに電話を切ったことから、警察ではそれ以上の対応が出来ていなかった。

その電話は、光希ちゃんが転落する9時間前のことだった。

愛はクリスマスパーティーの夜の事件で逮捕されたが、当然、光希ちゃんの転落死についても関与が疑われた。
精神鑑定が行われたのちの平成27年5月、警視庁捜査一課は愛に刑事責任能力があると判断、光希ちゃんを投げ落としたとして愛を殺人の容疑で再逮捕した。
取り調べにおいて、愛は光希ちゃんを自ら抱き上げ、13階の自宅マンションの窓から落としたことを認めていた。
しかし、平成28年3月から始まった裁判員裁判において、愛は光希ちゃん殺害を否認した。

手に負えない女

裁判の過程で、愛のそれまでと、結婚生活が明らかとなった。
幼い頃家庭に恵まれなかったことや、義理の父親から首を絞められるという虐待経験があったことも分かった。さらに、軽度ではあるが、愛には知的障害もあった。

これらの事実を踏まえ、弁護側は12月23日のトイレでの事件は、過去の虐待体験がフラッシュバックして発作的にしてしまった行動であり、そこに殺意はないとし、殺人未遂ではなく傷害罪に留まると主張、さらに、転落死については完全な事故死であるとして無罪を主張した。

一方で検察側は、年の離れた夫の愛情を独り占めしたいという愛の独りよがりな願望が根底にあり、光希ちゃんが生まれたことでその夫の愛情が光希ちゃんへ向けられることへの苛立ち、さらには育児へのストレスがあいまって、光希ちゃんがいなくなればまた夫と二人の生活が送れると考えるに至り、短時間に躊躇なく殺害しており悪質として、懲役15年を求刑していた。

証人尋問では、クリスマスパーティーの夜の事件を間近で見て、愛に対し説得を試みた知人女性が出廷。
普段から愛は子育てや光希ちゃん自身に興味がない様子だったと証言、一方で、光希ちゃんは常々不安定な母親を気遣い、幼いながらに「ママ、大丈夫?」と心配していたといい、とにかくかわいくて良い子だったと涙ながらに話した。

光希ちゃんの父親である愛の元夫(裁判当時は離婚済み)も証言台に立った。
元夫によれば、精神的に不安定になった愛を入院させるか迷っていた時、光希ちゃんに「ママいなくなっても(入院しても)大丈夫か?」と聞いたという。
光希ちゃんは、「大丈夫、でもママは好きだから僕が守る」と答えたのだという。
元夫から見ても、愛は育児に割く時間を極力減らそうとしており、光希ちゃんに対しても一緒にいたくないような、そんな風に思えていた。
それでも、光希ちゃんはそんなママが大好きだったのだと、苦しい胸の内を証言した。

しかしそんな関係者らの証言をよそに、愛は一貫して「転落は事故。私は関係ない」という主張を変えなかった。ホテルでの首絞めに関しては認めはしたものの、発作的な行動であり、殺意などなかったと話した。

転落した夜については、
「おならをしたため換気する目的で寝室の窓を開けた。その後、トイレに入っていた時に光希が起きだしてパパを呼ぶ声がしていたから、窓から身を乗り出して落ちたと思う。」
という主張を繰り広げ、窓枠に光希ちゃんの指紋がなかったことについては、自分が窓枠を拭いたからだと話した。
息子が転落した状況であるにもかかわらず真っ先に窓枠を拭くという不可解な行動をしたことについては、
「自分が落としたと疑われると思ったから、自分の指紋を拭くためにしたこと」
とこれまた理解に苦しむ供述をした。

ただ、取り調べの段階では愛は光希ちゃんを窓から落としたことを完全に認めていた。しかもその様子は録画されており、裁判で公開された。
もちろんそれは当初の予定通りのことであり、この裁判の争点は
「愛の取り調べ段階での供述の信用性」
だった。

懲役11年

裁判員裁判として行われた公判では、証拠としてその取り調べの様子を録画したビデオが提出された。
それによれば、愛は当初より録画されていることを認識したうえで、「子どもなんかいないほうがいいと思い、窓から突き落とした」「(成長して)体重が重くなると抱えられない。今だったら自分一人の力でできると思った」などと、光希ちゃんに対する明らかな殺意を認め、その方法についても自発的に証言していた。
あまりにしゃべるため、警察官の側が「あなたは今、自発的に話していますか?」と確認する場面もあった。

それを受けて、公判で無罪主張に転じた愛は、
「自責の念から自分が殺したようなものだ、と考えた」という主張を展開したが、裁判員らの目には何が真実かは明らかだった。

平成28年3月23日、東京地裁の斎藤啓昭裁判長は、
「自白は体験しなければ語ることができない臨場感があり、供述の信用性に疑問はない。」とし、愛の無罪主張を退けた。
一方で、クリスマスパーティーの夜の首絞めについては、発作的な側面が否めず、殺意の認定までは出来ないとして傷害罪にとどまるとした。

そのうえで、
「長男を殺害すれば夫と二人だけの生活に戻って愛情を独占でき、育児のストレスから逃れられると考えた。5歳の長男が母親によって人生を奪われた結果はあまりにも無残で、取り返しがつかない」
として、愛に懲役11年の判決を言い渡した。

盗癖

事件後、詳細が明らかになり、23日の首絞め事件が報道されると一部では元夫の行動に疑問が集まった。
光希ちゃんが死亡した夜、元夫は所用で短時間ではあったが一人外出していた。つい先日、我が子の首を絞めしかもそれを反省もせずに認めようともしない妻と、その被害に遭った当事者である我が子を二人きりにさせたことが理解に苦しむ、というのが理由だった。

実はこの外出には、重大な理由があった。

愛は「盗癖」があったのだ。
始まりは平成21年、ちょうど光希ちゃんが生まれた頃からだという。
愛は万引きを繰り返し、何度も検挙されていた。その盗癖は酷く、回数は数えきれず身元引受で呼び出された元夫が謝罪している最中にも盗みを働くという有様だった。

事態を重く考えた元夫は、四六時中愛を監視するようになる。監視と言っても、会社経営者だった元夫が自身の会社に愛を同行させ、常に人の目がある場所に愛を置いておく、そういう状態だった。
これは致し方ないと思うが、当の愛にとっては相当なストレスだったらしい。
そこに子育てが加わり、本来一身に浴びるはずの夫からの愛情が光希ちゃんにも注がれることが、愛には我慢ならなかった。
盗癖は治まらず、平成26年12月、とうとう元夫は離婚届を突き付けた。

「今度やったら、離婚する。息子は自分が引き取る」

そう愛に告げたというが、実質これが愛の心の闇を増幅させてしまった。

光希ちゃんが転落したあの夜、元夫が外出したのは理由があった。
携帯電話を会社に忘れたと、夜になって突然愛が言い出した。そして、それを取りに行くと言った。
当然、一人になど出来るわけもなく、携帯電話は元夫が会社へ取りに戻ることにしたのだ。
会社と自宅マンションは往復10分ほどの距離だったことで、夫は急いで会社へと戻った。
その、10分の間に、愛は光希ちゃんを投げ落としたのだ。

これについては、計画性は否定されたが実際に携帯電話は「わざと」置き忘れていた。
愛はこの日、外出先から会社の駐車場へと家族で戻った時、「忘れ物をした」といっていったん会社の中へ戻っていた。そしてその時に、「わざと」携帯電話を置いてきていたのだ。

そして元夫が携帯電話を取りに戻るため目を離したたった10分の間に、光希ちゃんを窓から落とし、窓枠を拭いてコロコロを落とすなどの偽装をした後、マンションから出て光希ちゃんを探すふりをしながら夫と合流したのだ。

これを、計画的と言わずしてなんというのだろうか。
もちろん、携帯電話を忘れたから取りに戻る、というのを口実にまたどこかで盗みを働くつもりだった可能性もある。だからこそ、元夫は家にいろと命じ、自分が代わりに取りに行ったのだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。いつ何時も「家の外で」一人にはさせてもらえなかったほどなのに、忘れ物を取りに行かせてもらえるなどと思うだろうか。

もし、元夫が取りに行くことになるのを想定していたとしたら。というか、最初から目的が光希ちゃんを殺害することだったなら。

裁判ではその計画性までは認定されなかったが、少なくとも懲役15年が11年に減った要因でもあるだろう。

光希ちゃんは母親によって突き落とされ、血まみれで倒れていた。父親が駆け付け抱き寄せると、父親の指をぎゅっと握ったという。
人工呼吸を施した際には、父親の舌を嚙んだという。
母は最後まで反省の色も、涙も、見せることはなかった。

福岡の子沢山家族

平成10年1月7日、福岡県東区。
福岡市内の病院に幼い男の子が運び込まれた。
付き添っていたのは母親とみられ、遅れて男児の父親も駆けつけた。
しかしすでに男児は死亡しており、両親らに事情を聞くと、
「前日の夜、言うことを聞かないために躾のつもりで屋外に出していた。暗くなればそのうち家の中に入ってくるだろうと思い、確認せずに寝てしまっていた。昼ごろ、外に倒れているのを発見した。」
ということをしどろもどろになりながら答えた。

男児の死因は凍死。運ばれた際も、男児が着ていたのはTシャツにトレーナー、そして下半身はなぜか裸で、足首には何かのコードのようなものが巻き付いていた。
しかも、男児の体には複数の火傷と見られる化膿した傷痕、顔面には殴られたような内出血の痕が認められた。

病院から連絡を受けた警察は両親から事情を聞き、ひどく憔悴していたことや、母親が「玄関には鍵はかかっておらず、まさか一晩中外にいるとは思わなかった」と述べ落ち込んでいたことなどから、不幸な事故であると判断。母親の過失は問わない方針を示した。

しかし2ヶ月後の3月3日、福岡県警捜査一課と東署は、男児を殴り2週間の怪我を負わせたとして父親を傷害と保護責任者遺棄致死の容疑で、そして母親を保護責任者遺棄致死の容疑で書類送検した。

大家族

書類送検されたのは福岡県東区在住の内装業、河野圭一(仮名/当時30歳)と、妻で無職の恵理子(仮名/当時34歳)。
死亡したのは、圭一の息子の大輔くん(仮名/当時6歳)だった。

実はこの夫婦には、大輔くんの他に上は15歳、下は0歳までの7人の子供がいた。
圭一と恵理子は再婚同士で、大輔くんが圭一と前妻との間の子、上の5人が恵理子の連れ子、そして二人の間の子供が2人という構成だった(事件当時)。

大輔くんは平成3年10月16日に圭一と前妻との間に生まれ、当初は圭一の実家で祖父母らと同居する生活を送っていた。
しかし大輔くんが1歳の頃、母親が別居。その1ヶ月後には、父親の圭一も実家を出てしまい、大輔くんは以降圭一の両親(大輔くんの祖父母)に養育された。
両親はその3年後に離婚した。

一方の恵理子もまた、パンチの効いた人生を歩んでいた。
恵まれない幼少期を経て、18歳頃に結婚、すぐに子供を産んだ。そして平成5年までの間にほぼ1年から2年の間隔で5人の子供を産んでいる。
しかし平成7年6月には離婚、育ち盛りの子供5人の親権者となった。

二人の出会いは恵理子が離婚する1年前、テレクラである。
この時点で恵理子はまだ既婚者であるが、それが原因だったかどうかは別にして、恵理子の離婚が成立した直後から二人の交際はより親密になったという。
平成8年2月には事件当時の住居で同棲を始め、翌月には婚姻届をおそらく妊娠を機に提出。圭一は恵理子の5人の子供と養子縁組をした。
大輔くんを実家から引き取ったのもこの頃である。同じように、恵理子も大輔くんと養子縁組をした。

その後7月には二人の間の第一子が、さらにその1年後の平成9年7月に第二子が、そして事件後の平成11年5月にも子供が産まれている……

圭一と大輔くん、恵理子とその連れ子たちでの生活が始まってすぐの4月、大輔くんは幼稚園に入園する。しかしほとんど通わず5月に退園、その後平成9年の3月までの1年間で保育園を二つ変えた。
事件当時に通っていたA保育園には、5歳児クラスと4歳児クラスに大輔くんと恵理子の連れ子二人が、その他0歳児クラスには圭一と恵理子の生まれたばかりの子供が在籍していた。

ここでの大輔くんの一家は、強烈な印象を残している。

要注意の親子

入園当初から、大輔くんは「異様」だった。
表現が正しくないことは百も承知だが、「飢えている(かつえている)」と言うほど、大輔くんの園での食欲は異常だった。しかも給食だけでは飽き足らず、盗み食いすることもあったという。
他にも、毎日汚れた同じ服を着せられていたり、体のあちこちに生傷が絶えなかった。時には目の周りにどす黒いアザをこしらえてくることもあった。

入園から1ヶ月後の5月、大輔くんは頭から血を流して登園してきた。仰天した保育士らが頭を見ると、そこには申し訳程度の絆創膏が貼られただけで、大輔くんの頭部はぱっくり割れていたという。
病院では2針縫う処置がとられた。

明らかにおかしい。同じ園に通う他の恵理子の子供らには、異常は見られなかったことも、保育士らに不安を抱かせた。
「おうちで何かされたと?」
保育士らが大輔くんに聞いても、大輔くんは何も答えない。大輔くんはこの頃からすでに生気の失せたような状態になっていた。

園では母親の恵理子についても対応に苦慮していた。
あまりに汚れた服を着せられているので、他の園児への衛生面の配慮もあったのだろう、園の着替えを着せたことがあったという。
すると恵理子は、感謝するどころか「大輔を特別扱いした!」と言って食ってかかった。
ある時は空の弁当箱を持たせていたため事情を聞くと、「大輔が登園前に弁当を食べたから(そのまま持たせた)」と言う返答。
さらに、家での食事の注意をすれば過度に食事させて大輔くんをあからさまに太らせる、頭にシラミが湧いていることを伝えると、大輔くんを丸刈りにするなど、極端な対応をわざとしている節があった。

他人に指摘されると被害者意識が芽生え、対抗するために感情的かつ、やりすぎと思えるほどの対応をする恵理子に対し、大輔くんも態度が頑なになっているようだった。

事件の日

正月、圭一と家族は全員で圭一の実家へと新年の挨拶に出かけた。そこで、祖父母らから子供たちはお年玉をもらったという。
5日になって、子供達のお年玉からお金が抜かれていることが発覚。圭一と恵理子はもともと「盗み癖」があったという大輔くんの仕業と決めつけ、大輔くんを厳しく問い詰めた。
しかし反抗的な態度を示した大輔くんに対し、恵理子は外で立っているように言いつける。そして、他の子供たちを連れて外出し、夕方弁当を買って帰宅すると、大輔くんはまだ外にいた。

「弁当を見せて、本当のことを言えば食べさせてやると言え」

圭一にそう言われた恵理子は、腹をすかせているであろう大輔くんに、弁当をちらつかせて再び問いただしたが、そこでも大輔くんは曖昧な返事しかしなかったという。

「ほっとけ。(金のありかを)言えば済む話だ。言うまで俺は知らん」

大輔くん以外の子供らに食事をさせたあと、圭一と恵理子は大輔くんがもう手に負えない、という話をし、そしてそのままこたつで眠り込んでしまった。
恵理子が気づいたのは、翌日の昼だった。外のベランダの室外機のところに倒れている大輔くんを抱き起こしたが、大輔くんはもう冷たくなっていた。

当初警察は、事情聴取での憔悴しきった恵理子の様子や、お仕置きで外に立たせた「だけ」のつもりが結果として死亡に至ってしまったと判断し、事故として処理すると発表。
しかし、大輔くんの体に残された数々の傷跡や、保育園での聞き取り、そして当初は昼に発見するまで気が付かなかったと話していた恵理子が、実は早朝の3時頃に外にいる大輔くんを確認していたこと、にもかかわらず家に入れるなどせず、さらには朝他の子供らを登校させる際にすでに室外機のあたりで大輔くんが倒れていたことにも気づいていたことから、保護責任者遺棄致死に問えると判断。
圭一については日頃の暴力行為と、あの夜家にいれるなと恵理子に指示していたことなどで傷害と保護責任者遺棄致死での書類送検となった。

恵理子は大輔くんが倒れていることを知りながら、他の子供らの世話を優先させていた。

育て難い子

書類送検とはいえ二人は起訴された。
平成13年から始まった裁判では、圭一による大輔くんへの暴行と、恵理子の日頃の大輔くんとの関わり方などが詳らかになったが、その中で大輔くんの「育て難さ」も明かされた。
大輔くんは知的な問題はさほど深刻ではないとされたが、生前大輔くんを診察した小児精神科の医師によれば、名前を呼んでもすぐに反応しない、箱庭療法において、動物の模型に過度な攻撃を加えるなどの様子が見られたという。
また、大輔くんの特徴として恵理子は、「2歳の頃から毎日の盗癖。夜中に起きてまで(盗みを)する。自分の持っていないもの、他人のものをわざと壊す、集団生活ができない、目立つためにわざと困らせるようなことをする、排泄物の汚さがわからず、大小便で遊んだりする」と言う悩みを小児科医に相談していた。

ただ、これらのことは恵理子の主観であり、どこまでが本当かは怪しいと言わざるをえないが、一方で第三者の診断もあった。
平成9年の7月頃、恵理子が出産のため、大輔くんを一時的に児童養護施設に預かってもらっていたことがあった。
その際、大輔くんの心理判定を行なった判定員によれば、大輔くんは情緒的な面で攻撃性が高く、心配な面があったという。落ち着きもなく、感情が昂った際、それを制御できないという面もあった。

恵理子はその結果を聞かされ、圭一との間で大輔くんを児童養護施設に入所させることも検討し、保育園では園長が関係機関に連絡をして大輔くんを保護する必要があるという判断で圭一らにも伝え、一時は圭一も恵理子もそれを了承もしていた。
しかし突然、「みんなが自分たちを悪者扱いしている!」などと恵理子が言い出し、施設入所は白紙になってしまった。

大輔くんが育て難い面があったのは事実で、関係機関も含め、大輔くんを施設に入所させる方向で話がまとまっていたのはむしろ、恵理子と圭一にとってもいいことだったはずだ。
ただ、大輔くんを診察した小児科医によれば、恵理子は医師に対し、
「周りの反対を押し切ってまで大輔くんを引き取り、自分のこの世話を差し置いてでもこの子の世話をしているという、健気な母親であるかのような話をされる。多弁で、この子のために苦労していることをむしろ自慢しているかのような印象を受ける。世話に疲れた印象は感じられない。話が全て本当かどうかは怪しい。施設入所予定であるのに当科(小児精神科)を受診し、評価を求められる真意が不明」
と話していたことをカルテに記していた。

恵理子は保育園への送り迎えも一手に引き受けており、圭一よりも遥かに大輔くんに接してはいた。
しかし、医師が言うように、こんなに育てにくい子をしかも自分の子でもないのに一生懸命育てている私、に酔っていたような印象がある。
言い方を選ばずにいえば、恵理子は子供を産むことしか取り柄のない女だったように思う。無計画にも程がある出産歴に、私は正直嫌悪感を抱いた。

大輔くんに手を焼きながらも、唯一の自分の存在価値を見出せるのが、育て難い大輔くんの存在だったように思うのだ。
だからこそ、児童相談所から救いの手が差し伸べられても、拒絶した。取り上げられては困ったのだ。苦労している自分を演じられなくなってしまうからだ。

裁判中も、恵理子は検事から親としての自覚のなさを問われると、
「何が言いたいんですか?!」「あなたが言うようなことはありません!」と、ムキになって言い返す場面もあった。

直接的な虐待死ではないものの、司法解剖された大輔くんはあの朝5時までは生きていた可能性が高かった。3時の時点で家に入れていれば、死なずに済んだ。
小さな遺体には、頭部、顔面に皮下出血、背部、腰部、臀部に円形の瘢痕、左右前腕、左手背に円形、楕円形の瘢痕、左右上肢、下肢に表皮剥脱が見られた。
また、胃のなかに固形物はなく、胸腺は高度に萎縮して実質が確認できず、左右の上肢は下腿から足にかけて浮腫状となっていた。
円形の瘢痕はいずれも火傷によるもので、お灸をすえられたか、もしくはタバコの火を押し付けたようなものだった。
胸腺の状態から見ても、大輔くんが長期間強度のストレス下にあったことは明白だった。

恵理子と圭一は、何かにつけて大輔くんに食事を与えなかったり、外に放置する、あるいは動く回れないよう足首を家具に縛り付けるといった虐待を行なっていたが、圭一と恵理子にしてみればそれらは全て正当な理由のもとに行われてきたものだと信じて疑わなかった。

福岡地裁の谷敏行裁判長は、
「衰弱した末、齢6歳にして自宅の庭で凍死したもので、その間、被害者が長期間にわたり強度のストレスにさらされていたことは、その遺体に残る多くの傷跡や、胸腺がほとんど消失していたことからも明らかであって、誠に悲惨としか言いようがない」
とし、裁判でも終始自己弁護を繰り返していたこの二人を厳しく批難した。

しかし、判決は懲役3年、執行猶予5年という激甘だった。

理由は、家に残った8人の子供の存在だった。

投書

時代的なこともあるだろうが、やはり子殺しは軽い。
結局、裁判長をして「悲惨」と言わしめた大輔くんの死に対する圭一と恵理子が受けた罰は、「真面目に反省してください」と言うお言葉だけだったに等しかった。

確かに汲むべき事情というか、大輔くんの問題行動や子供の多さなどいろいろあったろうが、いやいやそれら全て、この二人が選択して作り上げてきたものではないのか。
無計画に子供を作りまくったのも、自分たちが好きで作ったんじゃないのか。

そしてその無計画に生みまくった子供たちの存在が、この親を懲役から救ったわけだ。うーん。

当初警察が事故として扱うと発表したあと、高知新聞に投書が掲載された。
30代の保育士と名乗る女性は、真っ向この警察の判断に抗議した。
女性は、
「事故死だなんて到底思えない。冬の夜に、一晩外にいれば死んでしまうかもしれないということもわからないほどの子どもに、家の外にいるように言ったまま様子を見に行くこともしないなんて殺人行為ではないでしょうか?
(中略)
最近、幼児虐待についての問題が表面化していますが、この事件を事故死で片付けてしまう警察や日本の法律には、虐待されている子どもたちを救おうとする気持ちすら感じられない
(中略)
でも傷つけたのが自分の子どもなら、親はどんな言い訳も可能です。自分の親に傷つけられた子どもの気持ちは、誰が代弁してやるのでしょうか。
子どもの心を思えば、他人から受ける暴力よりも、自分の頼るべき人から受ける暴力の方がより深く傷つくのではないでしょうか。(後略)」

首がもげるほど同意とはこのことだと思うほど、この女性が抱く危機感は重要なことである。
なんとか警察も事件化したとはいえ、結果として法は大輔くんの無念に寄り添いながらも、殺した親を優先させた。
というか、こんな親に8人も子育てさせるのかよ・・・

大変だったから、育て難い子だったから、一人くらい死んでも仕方ないとでもいうのだろうか。

盗み癖があったという大輔くんは、正月に祖父母にもらったお年玉を、封も開けずにそのまま恵理子に手渡していた。断言してもいいが、この親は子供のお年玉を巻き上げていた。
小さな体に、しつけという名の暴力を一身に受け続けてきた大輔くんのことを、兄弟姉妹たちは覚えているんだろうか。

松本の若い夫婦

平成13年5月24日。新緑眩しい長野県塩尻市のみどり湖に、スポーツバッグが浮いた。
釣りのできる湖としても知られるみどり湖には管理人がおり、この日も釣り客から料金を徴収するために釣り桟橋を渡っていた時、そのバッグを見つけたという。
単なる不法投棄かと、そのバッグを引き揚げてみると、とてつもない異臭がしたため、通報。アシックス製のビニールのスポーツバッグのファスナーは閉じられたままだった。

駆けつけた警察官によってスポーツバッグが開けられると、中から小さな遺体が見つかった。
身長約80センチ、前屈みに膝を抱えるような状態で押し込まれたその遺体は、すでに腐敗が始まっていた。

そして、遺体と一緒に、ソフトボールくらいの大きさの石が数個、入れられていた。

判明しない身元

警察では、死体遺棄事件として捜査を開始したが、そもそもこの遺体がどこの誰なのか、全く分からなかった。
遺体の身長などから、間違いなく2歳前後の幼児であることはわかっていたが、塩尻市内に行方のわからない幼児はいなかった。
入れられていたスポーツバッグも大量に流通しているもので、遺体と一緒に入れられていたタオルと、なぜか女性用のレース製のショーツも、特に身元につながるようなものではなかった。

遺体発見から1週間、死因すら特定できず、捜査は難航。
ただ、幼児の血液型はAB型、上下に8本ずつ歯が生え出していたこと、そして、腕にはBCGの注射痕があることが判明した。
そこで、塩尻署と県警捜査一課は、塩尻市だけでなく松本、諏訪、岡谷、茅野などの中南信地方の自治体に、BCGを受けた1〜3歳の幼児について行方がわからなくなっている子供がいないかを中心に探った。

遺体発見から1ヶ月が経過した6月27日。
松本市内の託児所から、4月以降姿を見ていない当時1歳9ヶ月の子供がいると連絡が入り、捜査員らが両親から事情を聞いたところ、両親が子供をみどり湖に棄てたことを認めた。
死体遺棄容疑で逮捕されたのは、松本市在住の飲食店店員、林善彦(当時22歳)と、妻の絵美(当時21歳)という、若い夫婦だった。

二人のそれまで

湖に棄てられていたのは、長男の克樹ちゃん(当時1歳9ヶ月)で、二人は「克樹が死んだので湖に棄てた」と供述していたが、その死因については曖昧な供述しかしていなかった。

死亡の経緯は別として、二人は5月中旬、自宅で死亡した克樹ちゃんの遺体をタオルで包み、スポーツバッグに入れておもしのために石を入れた上で遺棄したと話していた。

二人は松本城に近い住宅街の中のアパートで暮らしていたといい、克樹ちゃんを遺棄した後、近隣の人らには「子供は実家に預けている」と話していたという。
善彦は当時、JR松本駅に近い場所のスナックでウェイターとして勤務。自宅はそのスナックの従業員寮だったといい、その年の2月頃からこのアパートで暮らしていた。

絵美も、同じように夜の店でホステスとして働いていて、その年の3月頃から克樹ちゃんを夜間の託児所に預けるようになっていた。

若い二人の出会いは平成10年の熊本だった。
ゲームセンターで知り合った二人はすぐに交際を始めた。出会って4ヶ月目には絵美の妊娠がわかったことで翌年の2月に婚姻届を提出した。
しかし若い二人のこの妊娠と結婚は大きな問題を孕んでいた。
絵美は当時、善彦以外にも交際相手が複数おり、加えて援助交際も行なっていたことで、妊娠が判明した時正直誰の子なのかわからなかった。
ところが善彦もそれを把握しており、その上で、
「多分俺の子だよ、産んでほしい、すぐ結婚しよう」
という斜め上の漢気を見せたことで、絵美も産んで結婚しようと決断した。

案の定、生まれた克樹ちゃんの血液型は、0型の善彦とB型の絵美からは生まれ得ないAB型だった。
が、若い二人は「血液型より直感が大事」だったため、以降も克樹ちゃんは善彦の子どもだと信じて育てることにした。

ここまでは、ツッコミどころはあるとしても協力して子供を育てようとしているともいえ、むしろ細けえことはいいんだよ的な懐の大きさも感じられ、温かく見守ろうとすら思えるわけだが、直後から二人の子育て生活はガラガラと音を立てて崩壊し始める。
崩壊のきっかけは、善彦の勤務シフトだった。

熊本県内の工場に勤務してまじめに働いていた善彦だったが、夜勤のある職場だった。
ある時、絵美から一晩中一人で子育てをするのはきついので夜勤をやめてほしいと頼まれる。
今ならば、それを受け入れない会社が怒られてしまうし、そもそも若いふたりにはサポートはあったほうが良かった。この点での絵美の訴えはよく理解できる。
善彦もそんな絵美の申し出を受け、会社の上司にかけあうなどしてみたが、認めてもらえなかった。

結果、善彦は会社を退職、その後も転職を試みるも長続きしなかった。

生活費は消費者金融、実家からの持ち出しに加え、絵美の援助交際でまかなった。が、常にぎりぎりの生活だった。

援交する妻と黙認の夫

平成12年に入ると、絵美が実家の金を持ち出すことが増えてくる。おそらくだが、実家もそんな絵美に愛想をつかせていたのか、その年の5月、絵美は実家である騒動を起こす。

実家から金を持ち出そうと、金庫ごと盗んだのだ。

当初は第三者の犯行を装っていたようだが、家族が警察に被害届を出そうとしていると知ると、自身の犯行がバレることを恐れてなんと善彦と克樹ちゃんと逃亡。宮城県を経由して宇都宮市へ逃れた。
一旦は宇都宮市内で生活をし始めたが、絵美が交通違反で切符を切られたことから実家に居場所がばれるのでは、と不安になり、またもや逃げるように宇都宮を離れた。

そして12月から、松本市内の事件当時暮らしていたアパートへ越してきていたのだ。念のため、表札は「平林」に変えていた。

善彦も絵美も仕事を見つけ、克樹ちゃんの預け先も確保できた。実家には申し訳ないが、所詮家族間のことでもあるわけで、今後まじめに働いていつか熊本に変えることが出来れば、時が許してくれることもあると思わなくもないが、そもそも絵美はこの生活に嫌気がさしていた。

平成13年2月、絵美が勤務する店の客である男性と、絵美は肉体関係を持つ。善彦に隠れ、ほぼ毎日のように逢瀬を重ねたというが、その男性と会うための資金作りとして、またもや援助交際も始めていた。
内緒とはいえ、善彦も絵美の挙動不審には気付いていたという。しかし、「友達と会う」と言われるとそれ以上追及もできず、また援助交際については「生活費のため」という大義名分のもと、黙認していた。

絵美は男性にのめりこんでいったが、どうやら夫と子供がいることはこの男性に隠していたと思われる。
なぜなら、この男性がせめて子供の存在を知っていたとしたら、この後の犯行は起こらなかった可能性があるからだ。

善彦と別れ、男性と結婚したいと思うようになった絵美に、男性は、(絵美に)夫や子供がいたとしたら別れる、付き合ってない、と話していた。
現時点で善彦は絵美の不倫をうすうす気づいていながら何も言ってこないのだから、正直善彦の存在は絵美にとってネックではなかったろう。
が、克樹ちゃんの存在は、どうしようもない。隠し通せなくなるのも時間の問題だった。

絵美の頭の中は男性のことでいっぱいで、どうすれば夫と子供の存在を男性に知られることなくきれいさっぱり縁が切れるか、そればかりを考えるようになっていった。
そして、善彦と離婚して克樹ちゃんを善彦に育ててもらうか、もしくは克樹ちゃんに死んでもらうか、このどちらかしかないと思うようになってしまった。アホである。

言いなり

4月16日、絵美は善彦に対し、男性の存在を暴露した。
そのうえで、
「(相手の男性に)結婚してることや克樹のことは話してないから克樹を連れてはいけない。邪魔だし、面倒見る気もないから置いていく。克樹を置いてでもAちゃん(不倫相手)のところへ行く。だからあんたが克樹の面倒みて。あんたが面倒みれないんなら殺すしかないと思ってる。」
と手紙に書いて善彦に渡した。まともに受ける方がどうかしているというような内容だが、これを渡された善彦も当然、殺す云々のくだりはいわゆる絵美の脅し文句だと受け止めていた。

しかしその後も、克樹ちゃんを殺すしかないといった主旨のメールが絵美から届くことで、絵美は本気でこう言っている、と思うようになったという。

善彦としては殺すなんて、という思いは当然あったとみえるが、だからといって克樹ちゃんを一人で育てていくことには抵抗があった。そこで、絵美に対し、殺す云々についての明言は避けたものの、
「俺も面倒はみられない」
という返答をした。

そしてふたりは何度かの意思確認を経て、4月20日午前8時ころ、アパートの風呂に水を張り、克樹ちゃんを抱き上げそのまま沈めた。
克樹ちゃんは激しく抵抗し、かぶせた風呂の蓋を渾身の力で蹴りあげたという。それを、善彦と絵美は協力して抑えつけ、やがて克樹ちゃんは溺死した。

克樹ちゃんの遺体をバスタオルにくるむと、絵美の私物であるスポーツバッグに入れ、重石用の石を3つ入れて車に乗り込んだ。ちなみに遺体発見時に一緒に見つかったレースの女性用下着は、おそらく絵美のもので、適当にひっつかんだバスタオルに紛れていたか、元からスポーツバッグに入っていたと思われ特に意味はないようだった。
そして人の目がなくなる深夜、善彦がスポーツバッグを持って車でみどり湖まで行くと、そのバッグを抱えて湖に入り、数十メートル泳いでスポーツバッグを沈めた。

ふたりはその後も何食わぬ顔で普通に生活していたという。善彦は逮捕される日までスナックに勤めていたし、絵美は晴れ晴れとした気持ちで男性の元へ足しげく通う日々だった。

しかしそんな日々は、一か月で終わりを迎えた。

情状酌量の余地なし

裁判では犯行当日の様子もつまびらかにされた。
その中で、一旦風呂に沈めた克樹ちゃんが予想以上に暴れたことで怯んだ善彦が、「今なら(助ければ)間に合う!!」と言ったのを、「ここで止めたら二度とできなくなる」と絵美が聞き入れなかったことも明かされた。

検察は絵美に懲役13年、善彦に懲役10年を求刑。弁護側も「今は反省している。弁解の余地もない」と繰り返すにとどまるほど、このふたりの犯行動機、その様態について、庇えるところがほとんどなかった。

長野地裁松本支部の千徳輝夫裁判長は、普通このような親が子供を殺す事件ではそこまで追い詰められたことが理解できる事情が少なからずあるものだが、本件ではそのような事情はうかがえないとして厳しく二人を断じた。
克樹ちゃんは直前まで、善彦や絵美と無邪気に遊んでいた。まさか、今目の前で自分を殺す段取りをされているなど思いもしなかった。
一切の抵抗もなく抱き上げられ、母の胸で安心しきっている克樹ちゃんを、絵美は躊躇なく風呂に沈めたのだ。
どれほど苦しかったろうか。何が起きたのかわけもわからず、母の手によって沈められたこともわからず、克樹ちゃんはおそらく母に、そして父だと思っていた善彦に助けを求めたはずだ。

平成13年12月18日、長野地裁松本支部は絵美に懲役12年、善彦に懲役10年の判決を言い渡した。
さすがに二人は控訴しなかった。

絵美の極悪非道ぶりはもうどうしようもないとして、この善彦のある種の人の好さというか、なんにでも迎合するというか、これは性格なのだろうか。
そもそも克樹ちゃんは自分の子ではないことは、本当はわかっていたはずだ。それでも、むしろそれごと受け入れることで絵美の歓心を買おうとしたのだろうか。
絵美が離婚を申し出、克樹ちゃんのこともいらないと言ったとして、たしかに善彦がすべてを引き受ける必要もない。
しかしそれなら熊本の実家に連絡するとか、いくらでもやりようがあったと思えるのに、結局絵美の「殺すしかない」に同調してしまっている。

結局、熊本に連絡すれば絵美が困る、離婚を受け入れなけらば絵美が困る、子どもの存在があれば結局いつか絵美が困る、全部絵美のため。
ようは、善彦はその経緯がどうあれ、絵美のために生きているようなものだったのかもしれない。

それにしても、計画的な殺人と死体遺棄で情状酌量の余地なしにもかかわらず、検察側の求刑が15年にも満たないのは令和の時代では有り得ないような気もする。
事件から20年以上経過し、ふたりは今どこで何をしているのか。家庭を持ち、子どもを持っているのだろうか。

人は変われる。しかし、子どもを殺した過去は消せないし、どんな言い訳もできない。罪を償っても、世間の記憶からなくなっても、当人たちだけは忘れてはいけない。

********************

参考文献
NHKニュース 平成13年6月27日、平成26年12月30日
沖縄タイムス社 平成26年12月31日朝刊
共同通信社 平成26年12月31日朝刊
産経新聞社 平成27年5月8日東京朝刊、平成28年3月14日(小野田雄一)
中日新聞社 平成10年1月8日朝刊、平成13年6月28日、10月17日朝刊、平成27年5月12日夕刊
朝日新聞社 平成10年1月8日西部朝刊、平成11年12月7日西部朝刊、平成13年5月25日、27日、6月7日、28日、11月7日東京地方版/長野、平成26年12月31日東京朝刊
毎日新聞社 平成10年3月4日西部朝刊、平成13年9月12日東京朝刊
高知新聞社 平成10年2月21日朝刊(投書)
読売新聞社 平成11年12月7日、12月21日西部朝刊、平成13年5月25日、26日、31日、6月28日、29日、7月1日、7日、17日、8月4日、12月19日東京朝刊、6月27日東京夕刊、

平成28年3月23日東京地方裁判所第3刑事部/判決
平成27年(合わ)第90号/平成27年(合わ)第125号

平成13年12月6日福岡地方裁判所第1刑事部/判決
平成12年(わ)第194号

平成13年12月18日長野地方裁判所松本支部/判決
平成13年(わ)102号/平成13年(わ)117号

D1-Law第一法規法情報総合データベース

🔓The Killing Fields~秦野市・カンボジア難民一家殺害事件~

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病院にて

「あ!ソウカンさん、旦那さんが来てくれたよ」

秦野市くず葉台病院305号室。
3人部屋の病室で談笑していた入院患者が、一人の女性にそう声をかけた。
部屋の入り口には、女性の夫の姿があった。
女性は26歳のカンボジア人で、夫と3人の子供とともにこの病院の近くの住宅で暮らしていた。
持病が悪化したことから外科手術を行うために、女性は数日前からこの病院に入院していたのだ。

同室の患者らは、気をきかせて病室を出た。
直後、病室から身の毛もよだつような凄まじい叫び声が上がった。
職員らが駆け付けると、病室のドアにカギがかかっていて開かない。しばらくすると、先ほどの夫がゆらりと病室から出てきた。
周囲の人々はその姿に息をのみ、微動だに出来なかった。夫の手には、血塗れの包丁が握られていたのだ。

夫が出ていったのを確認して、急いで病室へ入ると、そこには血だらけで息絶えた女性の姿があった。

【有料部分 目次】
事件
インドシナ難民
日本社会
5月30日事件
ほころび
その日
衝撃の判決
ムアンの過去
根本
心の扉
結局、利用する

特集:🔥4つの家族の事件簿🔪

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家族とは。

読者の皆さんは、どんな家族を持っていますか。
幼い頃から不遇な生活を送り、お世辞にも恵まれていたとは言えないけれど、精神的には家族のことが好きだという人、一方で経済的な問題はなくとも、寒々とした家庭しか知らずに来たという人、その両方を良くも悪くも兼ね備えた人。

私は今でこそ家族とのつながりは良好ですが、幼い頃を母親となった今振り返ると、経済的には非常に恵まれていましたが私の両親は毒親であったと言えます。

後期高齢者に差し掛かった両親は、今ではそれを悔いているところもあるようですが。

しかし事件が起こる過程というのは、すべてがそのように膿を抱えている家庭ばかりとも限りません、ある意味、健康であったはずの家庭のほうが、耐性がないというのか、崩れるときはあっという間、ということも。
良き母親が、良き父親が、何かのきっかけで子を道連れにしてしまう、あるいは、家族を思うがあまりに暴走してしまう、そういったケースは少なくありません。

家族のうちの誰かの心の闇が、ほかの家族を巻き込むケース、そこには思い込みや親子一体、言ってしまえば自分勝手な動機が介在していることもあります。
しかしもうその時は、それしかないと思い込んでしまっていることから、未然に防げない、他の家族の誰も気付けない、そんなことが重なって悲劇が起こるということが多いように思われます。

今回は、事件そのものは小さな扱いのものでも、その背景が特殊なケースを集めました。

思い込み~江東区・二児殺害事件~
親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~
堪忍してね、母さんもすぐ逝くから~文京区・母子無理心中事件~
誤算~赤穂・祖父母殺害事件~

堪忍してね、母さんもすぐ逝くから~文京区・母子無理心中事件~

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昭和63年5月24日午前9時

文京区小日向の営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅ホーム。
ふらふらと中年女性がホームに歩いてきた。
その視線は虚ろだったが、どこか目的を持ってその場にやってきた、そんな印象だった。

通勤ラッシュが終わった時間、それでも電車のを待つ人は多く、その多くの人は女性のことなど気にもしていなかった。

電車が入ってくるアナウンスが流れる。荷物を持つ人、歩き出す人の合間を縫って、女性はそのまま電車に飛び込んだ。

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親でもなければ子でもない~杉並・一家4人殺害放火事件~

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昭和62年11月5日

「あれ、奥さんたちどうしたの?」
杉並区下井草の住宅街で、住民が顔見知りの男に声をかけた。
その男はこの辺りでも名の知れた会社の次男坊で、父親である社長と育ての親である内妻、若く美しい妻にかわいらしい娘とともに5人で暮らしていた。この日、いつも姿の見える妻や娘がいなかったことから、住民は軽い気持ちで声をかけた。

「親父らと一緒に秋田の実家へ行ったんですよ。」

男はそう答えると、自宅のほうへ戻っていった。

しかし数日後、この男の家が全焼し、家の中からは家族4人の遺体が発見される。
その遺体の中に、この男は含まれていなかった。さらに、4人にはそれぞれ他殺をうかがわせる証拠が残っていた。

事件

昭和62年11月8日午前4時すぎ、東京都杉並区下井草の三階建てビルから出火、同ビルの一部と敷地内にある無人の木造住宅の一階部分が焼けた。
二時間後に消し止められたが、焼け跡からは大人3人、幼児一人の遺体が見つかった。

荻窪署の調べによると、亡くなっていたのはこのビルと住宅の所有者で会社社長の伊藤正之助さん(当時69歳)、内妻の笠井節さん(当時65歳)、正之助さんの次男の妻・香芳さん(当時27歳)、そして次男夫婦の娘・玲ちゃん(当時2歳)と判明。
さらにその後の調べで、玲ちゃんを除く大人三人には首をひものようなもので絞めた形跡があること、現場に灯油が撒かれていたことなどから殺人、放火事件と断定、警視庁捜査一課が特捜本部を設置した。

正之助さん方は三階建てのビルで、1階で正之助さんと節さんが暮らし、2階の一部と3階をマンションにしており、次男夫婦は2階のマンションの一室で暮らしていたという。

捜査本部では自宅にいない次男の行方を探したものの、車もなく、その行方が分からないままだったが、冒頭の通り、5日には家族で秋田に行っている、と近隣住民に話していたことがわかった。しかし、その事実はなかったこと、次男が7日の夕方近所のガソリンスタンドで灯油18リットルを購入していたこと、出火はしなかったが次男の部屋にも灯油が撒かれていたことなどを併せて、この次男が何らかの関与をしているとみて次男の行方を追った。

さらに、正之助さんの銀行口座から現金1300万円が引き出されていたことも判明。部外者が押し入った形跡もなく、そもそも正之助さんの印鑑や預金通帳を持ち出すことは他人にはできない事から、やはりこの次男の関与が濃厚となった。

捜査本部は次男が多額の現金をもとに長期逃亡を視野に入れている可能性を考え、車のナンバー、人相、着衣などを全国に指名手配し、殺人容疑で逮捕状を取った。

その後の展開は早かった。
事件発覚の翌日、次男は宮城県仙台市内の東北自動車道・仙台南インターに進入しようとしたところで、たまたま行われていた宮城県警の一斉検問に引っ掛かり、免許証不携帯だったために身分照会をされた。
この時点では宮城県警は事件との関連に気付いていなかったが、車のナンバープレートが折り曲げられていたり、そもそもたかが免許証不携帯のわりに顔面蒼白で狼狽える男の様子が気にかかり、何か隠しているのではと追及。当初、本名だけを名乗っていたという次男は、その後「東京で家族4人を殺した」と自供したため、駆け付けた警視庁の捜査員によって逮捕された。

逮捕されたのは正之助さんの次男で、殺害された香芳さんの夫である伊藤竜(当時29歳)。
調べに対し、香芳さんとの間で娘の教育方針をめぐりたびたび衝突しており、激高して妻の首を絞め殺害してしまったと話した。玲ちゃんについては、母親を亡くして父親が殺人犯となればあまりに不憫だと思って殺害、正之助さんについては、事件を起こしたことを相談したものの、冷たくあしらわれたことで逆上し殺害し、節さんについては「ヤケになって殺した」と話した。

検察は11月29日、殺人、非現住建造物放火、死体損壊の罪で竜を起訴した。
当初は上記のように夫婦喧嘩、親子喧嘩の挙句の殺人と見られていたが、実際には、生々しい夫婦、親子間の情の縺れがあったことがわかっていた。

それまで

殺害された正之助さんは、秋田県の出身。高等小学校を卒業後、終戦までは旧満州で憲兵隊として任務に就き、昭和22年ころに日本に引き揚げた。
その後は埼玉県内で不動産関係の仕事をし、昭和33年に「矢留建築」を設立した。昭和45年には株式会社へと組織変更し、5階建ての自社ビルを建設した。
現場となった自宅マンションビルのほか、下井草駅近くにも4階建てマンションを所有し、仕事では農地売買なども手掛け、順調な経営状態だったという。

借金はなく、下請け業者らへの金払いも良く、その仕事ぶりは非常に手堅いと評判だった。

一方で、その家庭はというと、少々問題があったようだ。

正之助さんには、竜のほかに長男もおり、当然その子らの母親である妻もいた。
しかしこの妻は、子供たちに手を上げたり、家事を疎かにすることが度々あったことで、次第に夫婦仲は冷え込んでいった。
昭和41年ころまでには、正之助さんもよそに愛人(殺害された節さん)を作り、それらが原因となって正之助さん夫婦は別居することとなった。長男は母親とともにそれまでの住居で暮らし、竜と正之助さん、そして愛人だった節さんと3人で昭和45年5月、事件現場となった階建てビルに転居し、新しい暮らしを始めたのだ。

当時竜は中学生で、都内の大学付属の中学校で学んでいた。竜にしてみれば、父親とその愛人との生活は辛かったのではないかと思うのだが、竜にしてみれば実母から愛情をかけられた経験が少なく、竜自身も実母への執着がなかったことに加え、我が子のように親身に接してくれる節さんのことをむしろ「母親」と思うようになり、「おふくろ」と呼んで慕っていた。

父、正之助さんとの関係はどうだったか。

父親として、正之助さんは常々、
「友人は会社に役立つ人間を選べ」
と口にしていた。しかし竜はまだ中学生であり、損得勘定で人間関係を構築するようなことは難しかった。
それでも父の教えを実践するうち、友人は減り、その生活は空虚なものとなっていた。
さらに不幸な出来事がそれに追い打ちをかける。
昭和46年、実兄が交通事故でこの世を去ってしまったのだ。
長男を後継者にと考えていた父は落胆したが、すぐに竜を後継者に育てるべく動き始め、高校卒業後は建設を学べる大学へと進学した。
しかし正之助さんは実務も行うよう強い、大学在学中でありながら半ば強制的に矢留建築に入社させた。
結果、学業についていけなくなった竜は、退学せざるを得なくなってしまった。

正之助さんのもとで修業を始めた竜だったが、その働きぶりは頼りなかったという。
仕事ができる人間を重宝する主義だった正之助さんは、実子であっても竜に容赦はなかった。大正生まれ、職人気質の正之助さんからは時に理不尽な𠮟責も飛んだ。
それでも竜は、正之助さんの性格や生き方を理解している自負もあり、従順な態度で日々仕事をこなしていたという。

昭和58年、節さんがとある見合いの話を竜に持ち掛けてきた。節さんの知人の紹介だったという見合いで、竜はその女性に一目ぼれした。それが、香芳さんだった。
香芳さんは化粧品販売会社の店員だったというが、実は当時、交際している男性がいた。
しかし年齢的なことも考え、昭和59年に竜との結婚を決意、2月27日には挙式した。
新婚旅行から戻った若い夫婦は、自宅マンションをあてがわれてそこで新婚生活を始める。
すぐに香芳さんの妊娠が判明し、幸せが怒涛のように押し寄せていた……と思っていなかったのが、竜だった。

不可解な「受胎」

昭和59年3月28日、香芳さんから妊娠の事実を告げられた竜は困惑する。
出産予定日は11月中旬といって喜ぶ香芳さんを横目に、竜は疑問を抱いていた。

竜と香芳さんは2月27日に挙式後、数日かけて九州地方をめぐる新婚旅行に行っていた。
その時の、と思えば計算上おかしくはない気もするが、実はその時期、性的関係を持っていなかったのだ。
新婚旅行中はもちろん、東京に戻って以降も疲労やお祝いなどで飲酒が続き、実際に香芳さんと初めて性的な関係を持ったのは3月も終わりの20日頃だったと竜は記憶していた。

それが、なぜ一週間後に妊娠判明なのか。

ただ香芳さんが積極的にその週数の数え方などを竜にレクチャーし、竜もなんとなく矛盾を感じなかったため、その話はうやむやになったものの、竜の心にはしこりとして残っていた。

6月、産婦人科へ通うために中野区の実家へ戻っていた時、不審な電話を竜は自宅で受けた。
それは若い男の声で、ただ香芳さんの在宅の有無を確認するだけのものだったという。
中野の実家を訪ねた際、何気なくその話をしたところ、香芳さんの実母が
「あら、それはAくんじゃないの?」
と言った。Aくん?誰だそれ、と竜が訝しんでいると、それを聞いた香芳さんが慌てて実母を制止した。
その行動に引っ掛かるものを感じた竜は、自宅へ戻って香芳さんの私物を探ってみた。すると、まさにAと同姓同名の差出人からの「手紙」を発見したのだ。
しかもその内容は、ラブホテルへの誘いだった。

仰天した竜だったが、その手紙が出された時期がわからず、もしかしたら自分と結婚する前の話かもしれないと思い直し、それを見つけたことなどを含め、香芳さんには黙っていた。

竜の心の燻りは消えることはなかったものの、同年11月、予定通りに香芳さんは女児を出産、玲ちゃんと名付けられた。

玲ちゃん出産後は、周囲の皆が大喜びし、さらには玲ちゃんが竜とよく似ているなどといわれたことから、竜の中での不信感はなりを潜めていた。
竜も、あまりにも我が子が愛おしく、このような幸せを運んでくれた香芳さんに対してもいっそうその情愛を深め、一家はどんどん幸せになっていく、そう誰もが思っていた。

強烈な捨て台詞

玲ちゃんが一歳になったころ、竜は香芳さんのある変化に気付いた。
香芳さんが外出する際の服装や化粧の仕方がなんとなく派手になったように思えたのだ。

しかし香芳さんを愛していた竜は、直接問いただすことなど出来ず、香芳さんの外出先を探って男と密会しているのではないかなどと思い悩むようになった。
ただ、実際に香芳さんの外出先や行動、帰宅時間などを考えた時、男と浮気を楽しむような時間的余裕が見当たらないことから、思い過ごしだと自分を納得させつつ、それでも心にはずっとAのことがわだかまりとして残ったままだった。

昭和61年に入り、竜は任された仕事が思うように運ばず、苛立ちを募らせていた。
しかも、今回の施主は香芳さんの叔父であり、その叔父から工事内容にクレームをつけられるという事態が起きていて、日ごろから香芳さんの実家や親族らに対し思うところがあった竜は、自宅で香芳さんと口論になってしまう。

きっかけは、玲ちゃんに対する教育方針の違いだった。

竜は子供らしくのびのび育てたいと思っていたが、香芳さんは早期教育をすることを望んでいた。
意見はかみ合わず、次第にヒートアップしていく中で、話は玲ちゃんを中野の実家が独占している、というものへ発展した。
どうやら香芳さんは、実家にばかり玲ちゃんを連れて行き、同じビルで暮らしている正之助さんや節さんにあまり玲ちゃんを遊ばせようとしていなかったように思われた。竜はそれを香芳さんに問いただすと、香芳さんは途端にむくれ、口を利かなくなってしまった。

しばらくして、冷静さを取り戻した竜が、仲直りをしようと香芳さんのいる寝室へと向かうと、突然、
「竜ちゃんは、いつもお父さんやお母さんのことばかりで私のことなんか何にも考えてない」
と責められた。驚いた竜が売り言葉に買い言葉で、
「それなら子供を置いてお前だけ実家に帰れ!」
というと、香芳さんの口から驚愕の捨て台詞が飛び出した。

「この子はあんたの血なんか入ってない。私の子供なんだから、私が連れて帰る。わかってるでしょう、Aくんの子よ。」

香芳さんの性格はわからないが、これは絶対に口にしてはいけない言葉だった。いや、そうでもしなければ玲ちゃんを取られてしまうと恐れてのことだろうとは思うが、それでもこれは、相手を完膚なきまでに叩きのめす言葉である一方で、相手を見境を無くすほどに激昂させるには十分すぎる言葉でもあるのだ。

竜は、後者だった。

追い討ち

香芳さんの首を絞めて殺害した後、竜はその傍らで眠る愛娘の顔を見た。
自分の娘と信じて愛しんできた。今日この日までは。
何も知らずに安心しきった表情ですやすやと眠る玲ちゃんを見ても、もはや竜の心は憎しみしか浮かばなかった。

玲ちゃんを殺害後、竜は途方に暮れていた。しかしもう時を戻すことなど、出来ない。
心が決まらぬまま一日を終え、竜は自首する気持ちを固めていた。ただ、これまで自分を見守ってくれた父と節さんだけには、きちんと報告したうえで送り出してもらおう、そう考えて、4日夜7時半ころ、1階の正之助さん宅を訪れ、事の次第を説明した。

「香芳と玲を殺してしまった。何の親孝行もできずすみません。二人の遺体の供養をお願いします。これから自首します。」

そこで正之助さんから出た言葉は、打ちひしがれる竜をさらに奈落の底へ突き落すに等しいものだった。

「お前はやっぱりあの女の子なんだなぁ。お前など、俺の子でもなんでもないから、孝行されんとも何とも思わん。」

竜は意味が分からなかった。俺の子でもなんでもない?とは?パニックに陥る竜を、正之助さんは別の部屋へ連れて行き、そこにあった古いスナップ写真を見せられた。そこには、懐かしい実母の若かりし頃の姿があり、傍らには正之助さんではない男性の姿があった。

続けて、メモを書きつけたものも見せられ、実母が浮気をしていたことや、竜を妊娠したとされる頃は実母と関係を持っていなかったことなどを告げられた。
正之助さんは、竜が自分の子でないことを知りつつも、実の子である長男が動揺するのを恐れて知らん顔をしてきたのだと話したのだ。

自分は騙されていたのか?実の父だと思っていたからこそ、理不尽な思いにも耐え、会社を継ぐために努力してきたのはいったい何だったんだ。竜の心の中にはそれまでの不満や我慢が一斉に吹き出していた。

次の瞬間、竜は室内にあった果物ナイフを手に取ると、正之助さんの左胸を一突きし、正之助さんが倒れこんだところを浴衣の紐で首を絞めて殺害した。
正之助さんが絶命したことを確認すると、節さんのことを思い出した。
愛人とはいえ、長年母のように接してくれた節さん。しかし今の竜には、節さんへの感謝も愛情も消え失せ、正之助さんと一緒になって自分を騙してきた難い相手でしかなかった。

2階にいた節さんを見つけると、背後から先ほどの浴衣のひもを首にまわし、そのまま絞めて節さんも殺害。
4人の遺体を正之助さんの寝室へ集めるた。

その後、7日までの間、正之助さんらの姿が見えないことを不審がる従業員らに取り繕っているうち、家を燃やしてしまえば証拠もなくなると考え、敷地内で誰も使用していなかった木造住宅に灯油をまき、さらには正之助さんらの遺体のある寝室にも灯油をまいたうえ、火をつけたのだった。

そして、正之助さんの預金を引き出し、逃走した。

この事件では、当初から竜について以下のような話が報道されていた。

竜はその年の4月に、交通事故を起こしていた。
乗用車で工事現場へ向かう途中、飛び出してきた子供を避けるために急ハンドルを切り、土手下に車ごと転落するという大事故だった。
命に別状はなかったものの、その事故で竜は一時的な記憶を失ってしまったという。
事故後、竜を診断した東京女子医大病院によれば、逆行性健忘症とのことだった。

その後も、記憶がおかしくなったり自分の名前を言えなくなるなど、症状は時折出ていたといい、事件直前の1日も、杉並区内を一人でふらついているのを警察官に保護されるということもあった。

正之助さんも、周囲の人らに「竜はもう元に戻らないかもしれない」と涙ながらに話すことがあったという。仕事にもかなり支障をきたしていた。

東京大学病院精神神経科の平井富雄医長(当時)によれば、逆行性健忘症の場合、数日で記憶が戻ることが普通だが、再発を繰り返していることを考えれば心因性のストレスが事故を契機に記憶喪失という形で表れたと解釈できる、と読売新聞の取材に答えている。
また、心因性の記憶喪失の場合、感情的な爆発が起こり、突如暴れだすということもあるが、当の本人はその行動を覚えていないケースも多いという。

警察ではそれらの事情を踏まえ、当初は竜に対して精神鑑定も考えていたが、逮捕後の供述ははっきりしていたことや、他の証拠類との相違もなかったことから、検察も起訴に際し責任能力に問題はないと考えていた。

一方弁護側は、「通常人の理解を越えた事件で、当時、被告は心神喪失か心神耗弱状態にあった」と主張した。

検察は死刑を求刑、弁護側は上記を理由に無罪もしくは減刑を求めた。
裁判の中で、ひとつの事実が明らかとなる。
竜の逆行性健忘症は、詐病だったのだ。

竜は事故を起こしたころ、仕事に行き詰っていた。先にも述べたが、当時担当していた現場は妻の香芳さんの叔父が施主で、たびたび工事内容にクレームが来ていたという。
昭和61年3月、やけになった竜は、その自分が担当している工事現場に放火。一度では飽き足らず二度も放火し、ボヤ騒ぎを起こした。
当然、警察の捜査が行われるわけだが、その直後、先述の自動車事故を起こす。竜はそれを理由に、記憶喪失を装っていたのだ。

さらに、東京都から受けるはずの融資がうまくいかないことを正之助さんに叱責された際は、たまたま公衆トイレで転倒したことを理由に、またもや記憶喪失を装って仕事がうまくいかないことを取り繕うなどしていた。

こうなると、そもそもその自動車事故も何だったのか疑わしいではないか。
もっというと、やけになって後先考えず行動し、その方法が「放火」というのは、竜にとって家族殺害の時が初めてではなかったというわけだ。
そして、自己保身のために壮大な嘘をつくことを厭わなかった。

となると、はたして事件当夜、夫婦間で交わされた言葉、親子間で交わされたあの非情なやりとりは、本当のことなのだろうか?

真実の行方

裁判所は、竜が面倒なことにぶち当たると逃避行動をとること、その逃避行動の内容が理解可能なものであることなどから精神障害については退けた。
一方で、被害者らのあまりに無慈悲な言葉が事件を引き起こした要因の一つであることは認め、竜に対する酌量に値するとした。

さらに、正之助さんの遺産から数千万円を香芳さんと節さんの遺族にそれぞれ支払っている(竜本人ではなく、おそらく正之助さんの親族が支払ったと思われる)ことで示談が成立していること、それぞれの遺族が極刑を望んでいないこと、とりわけ、香芳さんの両親からは、
「被告人の家庭環境や生育歴を考えると、被告人も被害者であり、現在では被告人を宥恕(ゆうじょ=許す)しているので、寛大な判決を求める」
との申し出もあった。

竜の実母、正之助さんの兄をはじめ、親類、従業員、下請け業者らも多数が竜の更生に尽力することを約束していた。

ここまで言われてしまうと、もはや結果は見えている。

昭和63年3月18日、東京地方裁判所の島田仁郎裁判長は、竜に無期懲役の判決を言い渡した。
遺族のほとんどが竜を許し、同情まで寄せたことが死刑回避の大きな理由になったのは間違いないだろう。精神状態に問題がない以上、これ以上の減刑は求められないであろうし、被害者のうち節さんと玲ちゃんには一片の落ち度もないわけで、その二人を殺しただけでも死刑であってもおかしくないのだから、竜にとってはありがたい判決だった。

検察は量刑不当で控訴したが、その後確定した。

玲ちゃん、正之助さんとの竜の関係については、超有名サイト「無限回廊」によると、

事件後、血液型を調べた結果、R(竜)が正之助の実の子であることが法医学的に確認されている  ※()内は事件備忘録の補足

となっている、が、判決文の時点では言及はない。当時の新聞報道でもそこまで踏み込んだものは見当たらなかった。血液型だけではなかなか鑑定できない気もするのと、当時の親子鑑定のレベルで、焼損した遺体の血液でどこまでできるのかちょっと不明なため、この事件備忘録では断定は避けたい。
玲ちゃんについては、判決文の中で「被告人の子ではないとまでは認められない」としている。

ただ、いつもこういう事件で思うのだが、客観的な証拠が乏しい中での被告人と被害者しか知らない会話が、どこまで真実なのか、と思う。
もちろん、香芳さんについては他の男性の存在があったのは間違いなく、また実母についてもそうだろう。
しかし、本当にそんな言葉を発したのか?
正之助さんは、竜のことを叱りはしていたものの、それでも後継者にすべく教育してきた。それだけではなく、竜が事故に遭った後は何かと気にかけ、心配し、時には周囲に竜が不憫だと涙ぐむこともあった。

節さんにいたっては、まったく血縁のない他人の竜を、我が子同然に育ててきた。母の愛を知らなかった竜には、節さんこそが母親だった。

香芳さんがしたとされるその発言も、どこか竜の疑念に沿い過ぎているような気もする。確かに、香芳さんの実母も知るその別の男性の存在はあったし、事件の一週間前に香芳さん自らその男性に連絡して会っていたという事実もある。
しかしだからといって、玲ちゃんが実の子ではないというのは、竜が証言したこと「だけ」で成り立っている話だ。もう香芳さんの言い分は聞けない状況で、である。

しかも、その直後に正之助さんからも同様のことを言われるというのも、どこか出来過ぎているような気もする。

ともあれ、裁判ではこれらのことが認定され、それらはすくなからず竜にとって有利に働いた。
本当のことは、もはや竜しか知り得ない。

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参考サイト
無限回廊「杉並一家皆殺し放火事件」

参考文献
朝日新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月30日東京朝刊、昭和63年2月8日東京夕刊
読売新聞社 昭和61年11月8日 東京夕刊、11月9日東京朝刊、11月10日東京夕刊、昭和62年2月6日 東京朝刊、昭和63年3月18日東京夕刊

昭和63年3月18日/東京地方裁判所/刑事第1部/判決
昭和61年(合わ)258号
判例時報1288号148頁

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