🔓Motherly Love~今市市・主婦協力殺人事件~

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平成9年夏

栃木県今市市(現・日光市)。
雨が降りしきるその夜、家のガレージ前で佇む女がいた。
通りがかった近所の人が不審に思い、声をかける。
「どうしたの?こんな雨の夜に…」
「夫がまた暴れてるの。落ち着くまでここにいようと思って」
ああ、またか。この家の夫は家族、特に妻に対して暴力を振るうと聞く。かわいそうに。
お大事にね、そう言うしかない近所の人に女も力なく笑った。

特集:こどものじけんぼ

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まえがき

現在、少年法では14歳未満の者は刑罰を受けない。刑事責任能力のある年齢に達していないからであるが、11歳以上になると少年院送致が可能となる。
したがって、「子どものしたことだから」が通用するのは10歳以下、となる。

14歳以上18歳未満の者は、死刑を科すべきときは無期刑にしなければならないため実質18歳未満のものへの死刑執行は有り得ない。
無期刑を科すべきときは、成人同様に処罰も可能だし、10年以上20年以下の有期刑にすることもできる。

18歳、19歳の場合はご存じの通り死刑、無期懲役は有り得る。

昭和49年生まれの私が少年事件で思い起こすのは、なんといっても、綾瀬の女子高生監禁殺人(コンクリ事件)である。
しかしその後、神戸の連続児童殺傷事件が起き、犯人が14歳の少年だったことは理解の範疇を超えた。

ただ、インターネットが普及し、いろいろな事件を調べていくうちに度肝を抜かれた14歳~15歳の殺人者は過去にも山ほどいたこと、もっと年少者が起こした事件もあることを知る。
ようは、少年事件だから埋もれていただけだった。

前回、仰げば尊しスペシャルで少年(18歳以下)事件をいくつか取り上げたが、今回は中学生以下に限定して、こどものじけんとしてお届けしたい。

兄弟の事件

福岡県那珂川町。
冬の夕暮れ時、各家庭からはそろそろ夕餉の支度にとりかかる時間。
コンビニの店長は、深くため息をついた。
「あんまり飲まないほうがいいよ」
常連客の女は、赤ら顔ですでに酔っていたが、またカップの焼酎を1本だけ買って、店長に微笑むと店を出ていった。

その数時間後、女は自宅で命を落とした。

自宅にて

那珂川町のマンションから、「母親がぐったりしている」と春日大野城中川消防本部に119番通報が入ったのは平成12217日の午後5時半ころだった。
救急隊が駆け付けると、部屋で母親とみられる女性が吐血し、倒れていたという。母親は病院に搬送された際すでに心肺停止となっており、その後死亡が確認された。

亡くなったのはこの部屋で暮らしていた山中優子さん(仮名/当時49歳)。優子さんは14歳と13歳の息子、10歳の娘との4人暮らしだった。
救急隊が優子さんを搬送する際、玄関の前で長男は呆然と立ち尽くし、傍らでは次男が泣きじゃくっていたという。

その後の調べで、長男と次男が母親に暴行を働いたことが判明、筑紫野署は傷害致死容疑で長男を緊急逮捕、次男を補導した。

優子さんの死因は、胸部圧迫による呼吸不全と見られた。

事件の一報を聞いた学校関係者らは衝撃とともに、無念の思いを抱かずにいられなかった。
この家族の苦しい状況は、ずっと前から学校関係者や行政、民生委員など多くの人がかかわって知っていたのだ。

母親とも、子どもたちともずっと連携を取っていた。にもかかわらず起きた最悪の事態だった。

酒浸りの母

優子さんは夫と離婚後、子供たち3人を引き取り生活保護を受けて暮らしていた。
しかしアルコール依存の問題を抱えていた優子さんは、生活保護費を酒に費やし、さらには日々の子供たちの世話も徐々に放棄するようになっていた。

学校が一家の問題を把握したのは昨年の6月。
中学校に、優子さんから「次男に暴力を振るわれる」という相談があった。
担任や校長らが話を聞くと、次男は母親に暴力を振るったことを認めたという。しかし、その理由として、優子さんが酒に溺れ、食事すら作らないという事実が発覚、学校側もまず優子さんに対し、母親としての役割を果たすように諭した。
そのうえで、次男に対しても「お母さんのお酒のことはみんなでやめさせるよう努力するから、もう暴力はいけないよ」と話し、次男も素直に納得したという。

その後も、弁当が必要な学校であるにもかかわらず、毎日学食でパンを買う兄弟を担任は見ており、この担任は何度も家庭訪問しては優子さんを励まし、県福祉事務所、児童相談所にも相談していた。
実際、2週間後を目途に優子さんをアルコール依存治療も含め入院させる手はずも整っており、あとはその日をいつにするか決めるだけだったという。

優子さんが夫と離婚したのは昨年の3月。わずか1年の間にみるみる崩壊していったこの家庭には、厳しい試練がのしかかっていた。

試練の日々

事件後、この家を取材した西日本新聞社によると、外から見てもこの家の凄まじい日常が垣間見えたという。
家の裏手には焼酎、日本酒の空き瓶が無造作に転がり、台所のテーブルにはカレーを食べたとみられる器が汚れたまま積み重なっていた。
窓ガラスはあちこちが割れ、北風が吹きつけるたびに音を立てたという。茶の間とみられる場所には、洗っているのか汚れているのかすらわからない衣類が散らばり、布団や毛布もそのままだった。

この荒んだ家を、10歳の妹は飛び出した。家出を繰り返すようになったことから、児童相談所で保護されていて、事件当時も家にはいなかった。

一家はちょうどその娘が生まれた10年ほど前にこの場所へ越してきた。父親が働く型枠工事の会社に、母親の優子さんも一緒にパートで勤務していたという。
小さな子供を抱え、共働きでやっとという生活だったというが、家庭は円満、子どもたちの友達を招いて食事をすることもあった。

ところが平成10年ころ、突如歯車が狂いだす。

父親がなんと自宅の前で車に撥ねられてしまったのだ。重傷を負った父親は入院、しかも、足には後遺症が残った。
当初は保険金などでなんとかなったが、その間に父親の勤務していた会社は倒産してしまう。優子さんも職を失った。

自暴自棄になった父親は昼間から酒を飲まずにいられなくなった。年齢や後遺症のこともあって、仕事が見つかる可能性は低く、それもあって職探しの意欲も失われていた。
当初は励ましていた優子さんも、現実を見たときにふと虚しさに囚われたのだろう、自身も酒に逃げ場を求めるようになってしまった。

父親は平成11年の春に家を出、そのまま離婚となった。

優子さんは子供たちを引き取り、月24万円の生活保護費を受け取っていた。
24万円と言えば、親子4人ある程度の生活は出来ると思えるが、この頃優子さんが飲む酒の量は尋常ではない状態になっており、生活保護費の多くも酒代に消えていた。

兄弟

年子の兄弟は、妹をかわいがっていた。その妹が、施設で暮らすようになってからも、何度も電話をかけては妹を気遣っていたという。
ただ、面会は保護者同伴でなければできず、そのために兄弟は母親の優子さんに対し、一緒に妹のところへ行こうと、何度も何度も働きかけていた。

事件当日も、兄弟が学校から帰ったら、妹に会いに行くことになっていた。
しかし兄が帰宅すると、優子さんはすでに泥酔状態。それでも、弟とともに優子さんを連れ出し、施設へと向かったという。

「おなか痛い」

突然、優子さんはお腹を押さえてうずくまった。優子さんが体調不良を訴えたことで、この日妹との面会は叶わなかった。
しかたなく帰宅した3人だったが、夕飯時にもかかわらず優子さんが食事の支度にとりかかる気配はない。
業を煮やした長男が、「酒ばかり飲まんで、ご飯作ってくれ」と言ったところ、優子さんが「からだがきついけん、作りきらん」と返した。しかし口論となり、そのうち優子さんが激怒。
「お前たちは何か!!」
と兄弟に食って掛かった。

そして子供たちに殴られた。優子さんは「わかった」といい、台所に立ったが、直後に血を吐いて昏倒した。この時、裕子さんの肺は致命的な損傷を受けていたという。

学校や関係者らは、入院を急がなかったことを悔やんだ。事件を知った有識者らも、こぞって「孤立した家族」「不安と寂しさから酒に逃げた母を救えなかった」「社会の無理解」などと書き立てた。

こどもになったおかあさん

確かに、入院を急いでいれば事件はこの日は起こっていなかったかもしれない。
しかし、入院を拒んだのは優子さんではなく、次男だった。
優子さんに暴力を振るっていたのも次男だったが、入院を急ぐ関係者に対し、「今、家で薬飲んでるから、入院はもうちょっと待って」と頼んでいたのも次男だった。

別れた夫も、気にかけていないわけではなかった。
今も入院中という夫は、子どもたちのことも、優子さんのことも気にはかけていた。
兄弟は別れて暮らす父親を見舞い、事件の一週間前にも会っていた。
優子さんが家事も育児もしていないことを、子どもたちから聞いていた。自身も職にありつけず、入院中の身とあって、子どもたちに何もしてやれないと歯がゆい思いを抱きながら、せめて、と、一万円を手渡した。

近隣の人らも、皆がこの家族に無関心だったわけではない。
優子さんが行きつけにしていたコンビニの店長は、優子さんが来るたびに世間話をし、時には諭すようなことも言っていた。
次男に殴られる、と話す優子さんに対し、「酒ば飲むけんたい」と叱った。優子さんも苦笑いを浮かべて、「それはわかってるんだけど」と答えた。

長男は静かでまじめな子だったといい、活発な次男とは対照的な印象だった。
コンビニでは、長男が優子さんに対して
「お母さん、もう酒はやめて!」
と懇願する姿が何度も見られていた。

あの日、最初に母を殴ったのは長男だった。物静かで、弟や妹を守って、母までも守ってきた14歳の長男が、この日は手を挙げた。
優子さんは驚いたのではないか。同時に、長男の心の傷の深さも、優子さんはこのときはっきりと気付いたようにも思う。
しかし、遅かった。

次男は病院で母が死んだことを告げられると泣き崩れた。酒を飲んでないときの母を、次男は大好きだったと話した。それは、長男も同じだったろう。

優子さん自身も、酒が入っていないときは自己嫌悪に嘆き、なんどもなんども立ち直ろうとしていた。だからこそ、家庭訪問も拒まず、ケースワーカーとの面談や行政の立ち入りにも心を打ち明けている。
「なんとか高校に進学させたい」
優子さんの思いを、ケースワーカーは何度も聞いていた。

事件が起こる20日前、長女が保護されている福祉施設を、優子さんは訪ねていた。
しかし泥酔に近い状態だったという優子さんが差し出した、「一緒に帰ろう」という手を、娘は無言で払いのけたという。

この時、優子さんは自ら入院を申し出る。娘の無言の抗議がよほど堪えたとみえた。
さっそく準備が整えられたが、二日後、優子さんから入院を拒否する電話がかかってきた。
優子さんの我が儘というより、おそらくこの時、次男が優子さんの入院に難色を示した可能性が強い。
ご飯も作ってもらえず、家も荒れ放題、妹は愛想をつかして家出したこの母親であっても、兄弟にとっては守るべき大切な人だったのだろう。

長男は逮捕後、「立ち直ってほしいという、体罰のつもりだった」と話した。

母はいつからか、子どもになってしまっていた。

兄弟はその後、自立支援施設への入所が決まった。

友達同士の事件

「このまま待ってて」
そういわれたタクシーの運転手は、今しがた降りた客が団地へ向かうのを横目で追った。
場所は浦和市の市営住宅。金を持たずにタクシーに乗って、家族に払ってもらうというのはままあることだが、そのまま払わずに逃げる客もいる。
が、この客は年寄りと孫、といったところか。家に財布でも忘れてきたのか。

しばらくして、先ほどの子供たちが戻ってきた、が、様子がおかしい。
運転手が外に出ると、子どもは泣いていた。
「おじいちゃんの様子がおかしい、見てほしい」

市営住宅にて

平成10217日。浦和市辻八の市営住宅「辻水深団地」の無職、吉田起己(たつみ)さん(当時69歳)方で、吉田さん方を訪れたタクシー運転手が室内で倒れている吉田さんを発見、119番通報した。
救急隊が駆け付けたが、すでに死亡していた。

吉田さんの顔などには暴行された跡があったことから、浦和署員がその場にいてタクシー運転手に助けを求めた14歳と15歳の市内の女子中学生に事情を聞いたところ、ふたりが暴行したと供述したため、同日夜、ふたりを傷害致死容疑で逮捕した。

ふたりは市内の同じ小学校を卒業した友達同士で、現在中学3年生だった。

吉田さんの死因は、肋骨骨折による肺の損傷と判明。少女らは吉田さんに殴る蹴るの暴行を働いたといったが、それとも合致するものだった。

タクシー運転手はその日のことをこう話した。

「団地の吉田さんに呼ばれて、吉田さんと子供たちをタクシーで銀行へ送った。その後、再び団地に戻った直後に、吉田さんの様子がおかしいと聞かされた」

女子中学生らは、警察の調べに対し、
「吉田さんに貸していた金をなかなか返してくれず、腹が立って蹴ってしまった。」
と答えていた。

ひとり暮らしの老人が、女子中学生に金を借りているという理解しがたい構図だったが、この3人に一体何があったのか。

先に結論から言うと、お金を貸していたというのは嘘だった。逆にふたりは、吉田さんから金を奪っていたのだ。

惹き合う孤独

吉田さんは独身で、長いこと警備員などの仕事を転々としていた。若干知的障害があったといい、親しい友人もいなかった。
そんな吉田さんが唯一、相手にしてもらえるのは子どもたちだったという。

一方の女子中学生はどうだったか。
ふたりとも市内の私立高校に合格しており、ひとりはこの後本命の公立高校の入試が控えていたという。ここでは15歳の少女を彩海、14歳の少女を梨奈と呼ぼう。

彩海は銀行員の父がいる家庭で育ち、特にこれまで目立った問題もなかったために彼女が通う中学では大騒ぎになった。

梨奈については、いささか印象が違う。そもそも梨奈が小学生の頃から吉田さんと知り合いで、その後、友人の彩海も梨奈と一緒に吉田さんと関わるようになったのだという。
梨奈の家庭環境はあまりよくなかったようで、中学校でも「浮いた存在」だった。両親は梨奈を放置していたといい、コミュニケーションは全く取れていなかった。
そのため、寂しい思いを抱えた梨奈は外に温もりを求めるようになり、無断外泊やいわゆる非行グループとの交際もあったようだ。

吉田さんの存在は、梨奈と彩海が小学校の頃から有名だった。
吉田さんは団地や公園で子供たちに声をかけ、話し相手になってもらっていたというが、その子どもたちとの関係にはいつしか「お金」が介在するようになる。
子供たちの間で、漫画を買い取ってくれるおじさんがいる、そんな話が聞かれるようになった。
梨奈も、吉田さんに漫画や雑誌を買い取ってもらったり、時にはお小遣いをもらうこともあった。

家にいたくない梨奈が外で時間を過ごすには当然、金が要る。言い方を考えずに言うと、梨奈は「味を占めた」。
公園で会うだけだった吉田さん方へ梨奈と彩海が出入りするようになるのは、中学2年の頃だった。

年金

吉田さんには2か月に1度、15日に27万円の年金が支給されていた。吉田さんは必要な金額を通帳から降ろし、自宅の箪笥の中などに保管していたようだったが、家に出入りするようになった梨奈はある時その金を見つけた。

年金の仕組みを知らない梨奈は、彩海とともに吉田さんのたんすから無断で金を抜いた。そのうち、15日に年金というものが口座に振り込まれることを知り、その15日に合わせて吉田さんに小遣いをせびるようになっていく。

吉田さんも最初は軽い気持ちでいくらかを渡したのだろうが、それはエスカレートし、吉田さんは十数万円を渡すこともあった。
吉田さんの年金があまりに早く減ることを不審に思ったのは、吉田さんの妹だった。
問い詰めても吉田さんの返答は要領を得ないため、妹が年金の管理をし始めた。15日には妹が預かった通帳から口座引き落とし分だけを残してあとは引き出し、必要に応じて吉田さんに渡すことになっていた。

そんなことは知らない梨奈と彩海は、いつものように15日を過ぎた頃に吉田さんを訪ね、小遣いをせびった。
しかし家のどこにも現金はなく、苛立ったふたりは吉田さんを問い詰めた。
銀行に行けばある、と吉田さんが言ったため、ふたりはタクシーを呼び吉田さんとともに銀行へ向かったのだが、カードは妹が持っていたため降ろせなかった。

事件は通帳を取りに家に戻った時に起きた。

「ふざけんじゃねぇ、どこにあるんだよ!」

その日、タクシーを呼び銀行へ回り、再び自宅に戻った時、吉田さんは金を出さなかった。
それに激昂したふたりは、以前にも金を出し渋った吉田さんを蹴ったことを思い出した。
ふたりが吉田さんに殴る蹴るの暴行を加えると、吉田さんはお金を出してきたことがあった。
そこで今回も、同じように吉田さんを蹴った。どちらが先に蹴り始めたのかは、わからなかった。

本当は吉田さんを心配した妹が預金を管理していたために吉田さんの手元にも口座にもお金がなかったわけだが、そんなことを知らない二人は、吉田さんが金を隠していると思い込んでいた。
「ふざけんじゃねぇ、銀行からおろした金はどこにあるんだよ!!」
仰向けに倒れた吉田さんを、厚底ブーツで蹴りあげた。胸や腹を踏みつけられ、吉田さんの肋骨は折れた。

動かなくなった吉田さんを見て、ようやくふたりは我に返り、その事態にパニックになってタクシーの運転手に助けを求めたのだった。
タクシーのメーターは、1万数千円になっていた。

強盗少女

傷害致死で逮捕された彩海と梨奈だったが、浦和地検は310日、容疑を強盗致死に切り替えて浦和家裁へと送った。

ふたりが当初、吉田さんが金を返してくれなかったと話していたことは事実ではなく、実際には吉田さんから金を奪うことが目的の暴行だったと明らかになったからである。

しかもふたりが金を奪ったのは吉田さんだけではなかった。

25日、吉田さんと同じ団地に暮らす68歳の女性に対し、「人に追われている」と助けを求め、その女性宅に入り込んで現金6千円を盗んでいたのだ。
女性が後に被害届を出していて、証言などから彩海と梨奈の犯行と判明した。

吉田さんについても、家に入れてくれないときにはベランダなどを伝って部屋に侵入していたこともわかった。

43日、浦和地裁で個別に開かれた最終審判において、彩海は初等少年院へ、梨奈は医療少年院への装置を言い渡した。
処分決定の理由について、鈴木秀夫裁判官は、
「(彩海は)主体性に乏しく周囲の影響を受けやすいなどの資質、性格上の問題点を総合考慮」したとし、梨奈については「事件の重大性や情緒不安定などの資質、性格上の問題点を総合考慮」したとしている。

梨奈の付添人の弁護士は、この事件は「老人(吉田さん)が安易に小遣いを与え続ける『ゆがんだかかわり』という環境に問題があった。少女が不良グループから金を脅し取られていたという事実もある」とし、梨奈は在宅での試験保護観察が適当、と主張した。

梨奈の家庭、両親に受け止める器量があるかどうかはなはだ疑問ではあるが、年齢的に考えても少年院送致は保護処分の中でも一番重いわけで、それを回避したいという思いからの発言だろう。

吉田さんに事件の要因があるかのような言い分はいかがなものかと思う一方で、大きく見た場合、この吉田さんの行為は大人が未成年者を金で買う、その行為と変わりはないようにも思う。
そこに性的な搾取がなかったとしても、金で子供を意のままにする、というのはやはりよくない点であろう。

しかし、小遣いを渡して子供たちの笑顔が見たい、その吉田さんの思いも痛いほどわかる。孫のような年齢の子供たちに、吉田さんは癒されていた。
吉田さんも、終盤は彩海や梨奈の要求を拒むようになっていた。それでもやってきては金を奪い取っていくふたりを、吉田さんは警察に告発することも、妹に訴えることもなかった。

大人になった彩海と梨奈は、吉田さんを思い出すことはあるのだろうか。

11歳の事件

平成13415日午後7時。尼崎北署に、一本の通報が入った。
発信場所は管轄内の交番。交番に警察官がいないときには、警察署につながる電話が交番には置いてある。そこからの電話だった。

「お母さんを、殺した」

電話の主は確かにそう言った。しかも、かなり幼い声の主だった。
駆け付けた尼崎北署の署員は、交番の前にじっと立ち尽くしている男児の姿を確認。
「君が電話くれたんか?」
男児は頷いた。彼は市内の小学校の6年生、11歳だった。

男児は付き添っていた署員に対し、
「お母さん、どないなったんやろ」
と言って涙をこぼした。

マンションにて

414日、男児は自宅で自分自身と向き合っていた。手には包丁。すでに人差し指を試しに切っていた。
もう、死のう。そうは思ったものの、逡巡しているうちに玄関のドアが開いた。

「なにしてるの!!」

戻ってきたのは母親だった。とっさに、男児は包丁を振り回す。母親はそれでも刃物をよけながら、息子に少しずつ近づいていく。

刃物が刺さったのは、偶然だった。

よろめき、倒れこむ母親。呆然とそれを見下ろす男児。
男児はそのあと、交番まで歩いて行った。

男児は保護され、警察で事情を聞かれた。
「転校したのが嫌だった。友達と別れたくなかった」
そう話したという男児は、この4月に尼崎市内の別の小学校から転校してきたばかりだった。
始業式では全校生徒に紹介もされ、新しくできた友達を家に連れてきたこともあったという。

父親は、息子の様子からまったく悩みに気付いておらず、放心状態だった。それでも、保護された息子に対し、「一人で背負うな、ずっと待ってるから」と手紙を書いた。

が、男児は父親との面会を拒否した。

思いあう家族

男児の家庭は表面的に見れば非常に立派な家庭だった。
阪神淡路大震災で被災し、家を失いしばらくは伊丹の仮設住宅での生活を余儀なくされたが、その後尼崎市内の武庫川に近い住宅地に、立派な3階建ての家を再建したという。

母親はきちんとした性格で、伊丹で暮らしていた時ももともと暮らしていた尼崎市内の小学校に入学した男児を、母親は自転車に乗せて送り迎えをしたという。

そんな母親のしつけがよかったのか、男児はあいさつのしっかりできる子に育った。背の高い男児は、少し大人びても見え、子どもたちの間ではリーダー格だった。

そんな家庭に暗雲が立ち込めたのは、事件が起こる一年前の3月。しっかり者の母親を病が襲った。
簡単な病気ではなく、手術も必要なものだったようで、母親の入院、通院も長引いた。
その間も、母親は病床から息子の担任に対し、クラス替えや学校での様子を聞くなど、息子の様子を心配していたという。

平成1210月、ようやく退院にこぎつけたが、体の負担は大きかった。
3階建ての自宅はそんな母にとって生活しづらく、家族は思い切って別のマンションを借りた。
元の家はそのままに、母親の通院や家事の負担を減らすためのことで、男児も一緒に越したものの、学校はそれまでと同じところへ父親が車で送迎した。

家族がそれぞれの事情を抱え、それぞれを思いやって物事を決めている。そしてそのためには、家族は出来る限りの協力をし、親は子供の意思を尊重しており、いわば理想の家族、そんな風にも思えた。

ただ、当初は卒業まで元の小学校へ通う、としていたのを、平成13年の1月になって男児の転校の話が持ち上がった。
あと1年で卒業であり、なんとかこのままこの小学校に通わせられないか、学校側は男児の意向を知っていたこともあって話し合いがもたれたようだが、2月、結局転校することになった。
この時担任が男児を気遣ったところ、男児は
「ええねん、僕もう決めたんや。」
と話したという。

その後行われたお別れ会でも、男児は笑顔だった。

しかしそのわずか1か月後、事件は起こってしまった。

神に救いを求めた母

母は自身の入院中、聖書に触れた。
病気になっても希望を持って生きていきたい、そう考えた母親はキリスト教徒となる。

7か月におよぶ入院生活を終えた後も、母親は継続的な治療が必要だった。マンションへの転居も、その通院に便利という意味もあった。
通院のほかに針治療なども行っていた母親は、性格がそうさせたのか、家事もきちんとこなしていたという。
洗濯物は毎日行い、家の掃除も行き届いていた。
「病気で家が汚れるのは嫌」
そう話したという母親は、しつけにもその几帳面さとともに、少々「やりすぎ」な面も見えた。

心配性な面もあったのか、男児が友達とケンカをしたと聞けば菓子折りを持って飛んで謝りに行き、些細なことでも男児はきつく叱られたという。

自分を奮い立たせ、病気に立ち向かう強い母。
しかしその母は宗教に、神に救いを求めなければいられないほど、実際には弱っていたのか。
それを間近で見ていた男児にとって、母はどんな風に映っていたのか。

そしてその心配性な面が、この事件のとっかかりになっていた。

消し忘れたホットカーペット

突然に、妻と息子の両方を失った父親の嘆きと困惑は想像を絶する。
父には家庭内の問題など、全く見当もつかなかった。なんでも家族で話し合ってきた。母(妻)の病も全力でサポートし、その上で子の環境にも配慮した。意思を尊重したからこそ、元の小学校へ通うための校区外通学申請をし、その送迎も父が担った。
病身の妻も、母としての責務をこなし、病気だからと言って甘えていられないと日々努力していた。
その妻を支えるための、家族で合意の上での引っ越しだった。
息子も納得し、友達を家にも連れてきた。

しかし、事件後の息子の取り調べや、報道などを見れば「転校と引っ越し」が大きな要因となっているというではないか。
父はわからなくなった。さらに、息子は父に会いたくないという。

それでも父は息子に手紙を書いた。

「泣かんでもいい、全部お父さんの責任や。話を聞かせて欲しい。いつまでも待っている」

男児からの返事はなかった。

父は毎日新聞の取材の中で、ある「事件」について話している。

転居した後、尼崎市内の3階建ての家はそのままにしていた。学校が終わった後、その家なら男児は歩いて帰れた。いずれまた戻ってくる家。マンションの賃貸契約期間は、2年だった。
その元の家で、父が迎えに来るまでの時間を男児は過ごしていた。ここなら、放課後友達と遊ぶこともできた。だから、引っ越しも男児は受け入れていた。

しかし、ある時男児がホットカーペットを消し忘れたことがあったという。両親は事故につながるかもしれないと、当初の話とは違って転校に向けた話をし始めた。
手続き上のこともあったのだろうが、それはやけに急がれた。突然の転校の話に、担任は驚き男児に確認する。転校していいのか、と。
男児は納得している、と答えた。

断言してもいい。両親は最初から転校させたかったのだ。それが日々の送迎の負担なのか、真剣に事故を心配したのか、もともと男児をこの家、この地域に置いておきたくなかったのか、理由はなんでもいい。
しかしあと1年ちょっとで卒業できるこの時期に転校、しかも親の都合でとなればさまざまな見方もされるだろう。当の男児も、転校などしたくないのは聞くまでもなかった。

息子を納得させられる理由を見つけることが、理解してもらえるよう話をすることができなかった両親は、おそらくずっと「転校させる正当な理由」を自分ではなく、息子に作らせたかった。
ホットカーペットの消し忘れは確かに危険である。が、その時は何事も起こらなかったし、気になるのであれば迎えに来た際に親が自分の目で確認すればよい話だ。ホットカーペット自体を取り外せばよいだけではないか。なんならブレーカー事落としておけばいい。
なぜ、そういった簡単にすぐ出来る解決策をとらずに「転校」なのか。

男児にしてみれば、自分が消し忘れたことが原因なのだから、と言われ返す言葉もなかったろう。

男児の幼い心は、理不尽さであふれていたのではないか。

会いたくない家族

11歳という、罪に問えない年齢もあって、母親を刺した細かい順序のようなものは報道されなかった。
「おそらく」という前置き付きで、刃物を振り回す男児をなだめようとするうちに、誤って刺さってしまった、というようなものがほとんどだった。
その中で、毎日新聞は「母は子を、全身で受け止めたかったのでしょうか」「最後は包丁ごと男児を抱きしめた」と書いた。

もしそれが本当なら、なぜ男児はどれだけ父が手紙を書いても、待っていると伝えても家族と会うことを拒否し続けたのか。さらに、事件直後県警が児相に通告した際、「すぐ家庭に帰すのは適当でない」という意見を付けたのか。

詳しいことはわからないが、少なくとも両親らの見る男児と、男児本人の心には溝があるように思える。

男児はその後、児童自立支援施設への入所となった。

幼児の事件

最後に取り上げるのは、あまりに有名すぎるものの、古すぎて事実関係がよくわからないことで、広島のガード下サンルーフ事故とともに都市伝説化している、幼児による嬰児殺害事件である。

昭和50818日。鹿児島県出水郡長島町の民家では、家族総出で家業である養蚕のまゆの出荷作業に追われていた。
この日は親せきに不幸があり、この家の主人と妻、17歳の長女はその葬式に行っていて留守だった。ただ、一か月ほど前に大阪で暮らす長男夫婦(ともに二十歳)が、出産のためにこの長島町の実家へ帰省していた。
731日にはかわいい女の子も誕生し、そのまましばらくは夫の実家であるこの不知火海に浮かぶ風光明媚な島で、若夫婦は新しい生活を謳歌していた。

夫は15歳になる妹と、そのまゆの出荷作業をしていたが、午後になって赤ちゃんが寝就いたことから、妻も手伝いにやってきた。
倉庫は母屋から100メートルほど離れていたが、いつでもすぐに帰れることもあり、赤ちゃんを寝かせた八畳間の障子を閉めたうえで、夫婦は出荷作業を急いでいた。

午後4時、妻は赤ちゃんの様子を見に母屋に戻ったが、その時も不審な点はなく、すやすやと良い子で眠っている娘に目を細め、最後の作業を終えるため倉庫へと戻った。

午後4時半。作業を終えた夫婦と末の妹が母屋へ戻った時。目の前に現れた光景に全員が言葉を失った。

さっきまですやすやと寝ていたはずの娘が、庭の物干しの柱に、犬の鎖で縛りつけられていたのだ。
体は前にくの時に折れ、泣き声も上げずぐったりとしていて、真っ白だったガーゼ生地のベビー服は泥や血がこびりついている状況に、母親は半狂乱となった。

あまりの光景に気付かなかったが、その庭には近所の幼い子供らの姿があった。みな、キャッキャキャッキャと奇声をあげている。
全員、隣の家の長男と次男の子供たちだった。
一番小さなよちよち歩きの女の子が何やら手に持っていた。
それは、血塗れの包丁だった。

子供たちは5歳と3歳の男の子、そして2歳の女の子だった。夫婦がなんとか包丁を取り上げたが、子どもたちはケロッとしていたという。
可哀そうに、赤ちゃんはその後町の病院に運ばれたが処置ができず、阿久根市内の病院に運ばれるもそこでも手の施しようがなく、その後運ばれた鹿児島市内の病院でわずか19日の生涯を終えた。

赤ちゃんには足首に深さ3センチの切り傷、頭部や顔面への打撲による痕など、正視に耐えない傷跡が残されていた。死因は、頭部打撲による頭がい骨骨折だった。

状況から、この隣家の子供3人が赤ちゃんを死に至らしめた可能性は高かったが、調べるまでもなく、この3人がやったことは早々に断定された。子供たちは悪びれることも、動揺して泣き叫ぶこともなく、むしろ自慢げに赤ちゃんへの暴行を話して聞かせたのだ。

その日、隣の家に赤ちゃんがいると聞きつけた子供たちは、そっと障子を開けたという。
眠っていた赤ちゃんをしばし眺めた後、3歳の男児が「包丁で切ってみよう」と言い出した。
ほかの二人も同調し、台所から包丁を持ってきたかと思うと、赤ちゃんの足首に突き刺した。
泣きわめく赤ちゃんを、今度は庭の棒きれで叩いた。さらに、バケツに水を汲んできて赤ちゃんに浴びせかけ、その後傍にあったベビーパウダーをまるでおしろいを塗るかのように塗りたくったのだ。
そして、虫の息の赤ちゃんを引きずって庭の物干し台の柱へ縛り付けたのだった。

どうしてこんなひどいことをしたのか、と聞かれたこどもたちは、刑事ドラマの真似をした、と話した。
にしてもあまりに酷い仕打ち。それにはさらにわけがあった。

こどもは隣家の長男と次男の子供たちだったが、特に次男の子供たち(5歳の男の子と2歳の妹)はそれまでにも小動物を殺したり、母親が父親に包丁を向ける場面を目にしたりしていたという。
こどもたちの親も、自分の親に子育てを任せきりのところもあった。
あまりにも小さな集落の隣同士の家で起こった子供がやらかした事件。加害者の子供の家の祖母は、死んで詫びなければと思い詰めるほどで、双方をよく知る住民らはどちらにも同情を寄せたという。

こどもたちは当然罰せられることはなく、事件の翌日から近所の駄菓子屋へ菓子を買いに来るなど、いつも通りだったという。

娘を殺害された夫婦は、悲しみにひたることすら許されず、無邪気そのものの子供たちの嬌声にやり場のない怒りをどうすることもできなかった。

この事件が起きた昭和50年には、4月にも大阪の岸和田で3歳の女児二人が勝手に他人の家に侵入し、寝ていた生後17日の赤ちゃんをままごと遊びの人形にし、殺害したという事件が起きている。
女児らは、2階で寝ていた赤ちゃんの足を持って階段を引きずり下ろし、家の前の路上に転がして遊んでいたという。
近所の人が発見したが、赤ちゃんは頭蓋骨陥没骨折で死亡。全身には擦過傷があった。

3歳や5歳の子供に責任能力はない。誰しも、幼い頃には多少、限度を超えたことをし、親からぶっ叩かれて二度としない、してはいけないと覚えることもある。
オタマジャクシやトンボを何の気なしに殺したことがある、という人は少なくないだろう。私もある。

けれど、それをした後にそこはかとなくこみ上げる不快感、罪悪感も、忘れることはない。そうやって、様々なことを学んでいくのだ。

しかしそこに、不快感や罪悪感ではなく、快感を覚えた場合は。

彼、彼女たちがその後どういった人生を歩んでいるかは知る術はない。

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参考文献

少年事件データベース
少年法

朝日新聞社 平成12218日西部朝刊、315日西部朝刊、45日西部朝刊、平成13421日東京夕刊
読売新聞社 平成10218日朝刊、311日東京朝刊、平成12218日西部夕刊、219日西部朝刊、310日西部夕刊、322日西部朝刊、平成13415日大阪朝刊、416日大阪朝刊、529日大阪朝刊
毎日新聞社 平成12218日西部朝刊、西部夕刊、226日西部夕刊、平成13415日大阪朝刊、418日大阪朝刊、419日大阪朝刊、421日大阪朝刊
熊本日日新聞社 平成12220日朝刊、39日夕刊
西日本新聞社 平成12229日朝刊
日刊スポーツ 平成10218日、219
産経新聞社 平成1032日東京朝刊
四国新聞社 平成13416日朝刊、529日朝刊

「テレビのまねをした」鹿児島5歳・3歳・2歳の隣家嬰児メッタ刺し 新潮45/福田ますみ 著 平成188月号

 

 

なーんにも考えてない男~大阪・義姉殺害死体損壊事件~

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昭和63年10月12日

薄曇りの秋の日、徳島県小松島市の小さな港町の民家で、さみしい告別の儀が執り行われていた。
参列者はまばらで、柩ではなく骨壺を前にしての葬儀だった。

家族と思しき人々の間からは、悲痛な、押し殺したような嗚咽が時折漏れている。その中でも若い女性の哀しみ様は、事情を知る者の心を抉った。
骨壺の中には、お別れすらいえなかった大切なこの家の長女が入っていたのだ。妹は姉と大阪で同居するほど仲良し姉妹だった。

そして、姉を骨に変えたのは、その女性の内縁の夫だった。

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🔓The Killing Fields~秦野市・カンボジア難民一家殺害事件~

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病院にて

「あ!ソウカンさん、旦那さんが来てくれたよ」

秦野市くず葉台病院305号室。
3人部屋の病室で談笑していた入院患者が、一人の女性にそう声をかけた。
部屋の入り口には、女性の夫の姿があった。
女性は26歳のカンボジア人で、夫と3人の子供とともにこの病院の近くの住宅で暮らしていた。
持病が悪化したことから外科手術を行うために、女性は数日前からこの病院に入院していたのだ。

同室の患者らは、気をきかせて病室を出た。
直後、病室から身の毛もよだつような凄まじい叫び声が上がった。
職員らが駆け付けると、病室のドアにカギがかかっていて開かない。しばらくすると、先ほどの夫がゆらりと病室から出てきた。
周囲の人々はその姿に息をのみ、微動だに出来なかった。夫の手には、血塗れの包丁が握られていたのだ。

夫が出ていったのを確認して、急いで病室へ入ると、そこには血だらけで息絶えた女性の姿があった。

【有料部分 目次】
事件
インドシナ難民
日本社会
5月30日事件
ほころび
その日
衝撃の判決
ムアンの過去
根本
心の扉
結局、利用する

同・窓・会~千葉大原町・不倫殺人事件~

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昭和62年6月

千葉県の海辺の小さな町で、中学校時代の同窓会がひらかれた。
25年経って再会したかつての級友らは皆、いい意味でも悪い意味でも年を取り、参加した元級友が昔ばなしに花を咲かせた。

「姿かたちは変わっても、あっという間にタイムスリップできちゃうんですね」

後に、この同窓会に参加したある出席者は週刊誌の取材にこう答えていた。
この同窓会から8か月後、女と男は殺人犯になった。

事件の夜

昭和63年2月18日夜、大原町(現・いすみ市)の会社の事務所の一部が焼け、焼け跡から男性の焼死体が発見された。
焼死体の身元は、同社専務の菅野泰夫さん(仮名/当時39歳)と判明、直前まで一緒似た妻の話から、深酒して寝入っていた泰夫さんがストーブの火を消し忘れたことで火災になった、とみていた。

泰夫さんはその日午後5時前には会社から自宅へと戻っていたが、妻にパソコンの操作方法を教えるためにふたりで事務所へ戻っていたという。
午後10時を回ったころ、明日学校で子供が使う乾電池を買わなければならなかったことを妻が思い出し、自宅へ戻って子供と近くのコンビニへ行っていたその間に、火が回ったと考えられた。

自宅で火災の一報を聞いた妻は、子供たちを連れて現場へ戻ると、火に包まれた事務所を見て半狂乱となった。
「中にヤッちゃんがいる!」
そう言って妻はそのまま気を失ってしまった。

火災から3日後に大原寺で営まれた泰夫さんの葬儀では、およそ700人の参列者が突然の死を悲しんだ。
泰夫さんの高2の長男が、「父の死を乗り越えて頑張ります」とあいさつをした際にはすすり泣きが漏れた。夫を亡くした妻も涙をこらえきれず、周囲の人の支えなしでは立っていることもままならないほどの憔悴であった。

泰夫さんは子煩悩で、人との付き合いもそつなくこなすとその人柄は定評があった。
立派な会社の専務という肩書、高2と小4の子供、美しい妻に囲まれ、働き盛りの39歳で突然の悲劇に見舞われてしまったあまりに悲しい事故だったが、その告別式のさなか、大原署には戦後初となる「捜査本部」が設置されていた。

司法解剖の結果、泰夫さんには致命傷ではないものの、殴られたような傷があったのだ。

夫婦の裏の顔

泰夫さんは長野県生まれ。高校卒業後、千葉県にあるデパートに就職し、そこで後に妻となる女性と知り合い、昭和44年に結婚した。
妻の実家の家業を継ぐことも視野に入れた、婿養子だった。

妻の家は昭和31年に設備保守点検などを請け負う会社を設立、その後順調に成長し、昭和51年には事件当時の社名に変更、この頃には泰夫さんも将来の後継者として仕事に携わっていたとみられる。

妻はずっと地元で育ち、また実家が会社経営をしていたことからもおそらく、経済的には恵まれた環境で育ったのだろう。
そのせいもあるのか、地元での妻の評判は芳しいとは言えないものがあった。
さほど大きな街でもない地元においては噂話はかっこうの娯楽である。その中でも、男女関係のうわさ話は面白おかしく尾ひれをつけて町中を駆け巡った。

この妻も、男女関係では話題に事欠かなかったと言い、泰夫さんと結婚後も様々な男女関係の噂が囁かれていたという。

夫である泰夫さんも、人当たりが良く子煩悩、という良い評価がある一方で、夜の街では有名だった。
とにかく酒好きだった泰夫さんは、飲み歩くことのほかにゴルフにも目がなかった。
会社の専務ということ、将来の後継者ということで接待や付き合いの場も多かっただろうが、それでも社長である義理の父親に叱られるほどだったというから、相当なものだったことは間違いなかろう。

事実、事件の2年ほど前にはあまりにも会社の金を使い過ぎるということから、妻と義理の父親に勝手に会社の金を使うことを禁じられていた。

そんな中で、泰夫さんにはある悩みがあった。

それは、妻の男性関係のことだった。

同窓会の夜

妻は40歳になった年、地元では恒例の同窓会に出席していた。
男性にとっては本厄の年でもあり、全国各地ではこの40歳の節目に同窓会を催すところは少なくない。

泰夫さんは、6月に開かれたその同窓会に出た直後から、妻の様子が変わったことに気付いていた。
妻には実は前科があった。4年ほど前、妻が事故に巻き込まれたと泰夫さんに連絡があったが、その際、妻の車には男性の姿があった。
その交際相手が暴力団関係者だったこともあり、事故後妻と泰夫さんは恐喝まがいのことをされたという。
詳しい話は分かっていないが、おそらく、事故の後遺症だとかそういったことを持ち出し、加えて不倫だったことを口実にされたのではないか。
その件は、泰夫さんが多額の金を支払って終わらせたという話があった。

その頃、妻は出かける際に嘘の口実を作っていたわけだが、同窓会の直後から再びその時と同じ口実で妻が出かけるようになったという。
ピンときた泰夫さんは、事件当日の昼間、妻を尾行する。
車で出かけた妻は、とある場所で車を降りると、そこへやってきた別の車に乗り込んだ。
運転手は、男性だった。しかも、その男性を泰夫さんは知っていた。

ふたりが乗った車を尾行すると、車はモーテルへと滑り込んだ。泰夫さんは3~4時間待ったという。
そして、ふたりが再び車で出てきたところに立ちはだかったのだ。

妻と一緒にいたのは、妻のかつての同級生の男だった。泰夫さんは以前、自宅で開いたBBQパーティーの際、この男がいたことを思い出していた。
怒り心頭の泰夫さんは、ふたりを問い詰めるため、そして今後に向けての話し合いをするため、会社へ来るよう言い渡し、午後7時ころから会社の休憩室で3人は話し合ったという。

そこで何が起きたのか。

売り言葉に買い言葉で、不倫相手の男が泰夫さんを殴って死なせた、のか?
そして証拠隠滅のためにとっさに火をつけたのか?

実際には、泰夫さんの運命はこの日よりずっと前に決まっていた。

妻と不倫男

大原署は昭和63年3月9日、泰夫さんを殺害し、建物に放火したとして妻の亜沙子(仮名/当時40歳)と、その不倫相手で塗装会社社長の笠原良寛(仮名/当時40歳)を逮捕した。

笠原は同じ町内に住んでいて、妻も子もある立場であり、亜沙子との関係はW不倫だった。

調べでは、ふたりの交際は同窓会をきっかけに始まったが、深い関係となったのはそれから半年後の昨年末のことだったという。
そしてその頃には、ふたりの間で泰夫さんを亡き者にする計画が練られていたのだ。

亜沙子と泰夫さんの夫婦仲は、それぞれが好き勝手に生活していたこともあって冷え切っていた。
もちろん、亜沙子の過去の不倫問題もその大きな要因の一つだった。
冷え切った家庭を忘れるためか、亜沙子は頻繁に笠原に連絡を取ったという。
そして会話の中で、こんな話をした。
「夫が酒によって暴力を振るう」
実際に泰夫さんがDVをしていたという話は出ていないが、すでに冷え切った関係上、また、亜沙子の男性関係を問いただすうちに、手が出たことはあったかもしれない。

それを笠原はどうやら真に受けた。

笠原は知り合いの暴力団員を頼り、金を握らせて泰夫さんに危害を加えることを依頼。
亜沙子からは泰夫さんに8000万円の生命保険金がかかっていることも聞かされていた。
ふたりは寝物語で、「保険金が入ったらリゾートホテルを買おう」などと話していたという。
暴力団員には、笠原が150万円、亜沙子が無断で持ち出した会社の金150万円の合計300万円が支払われていた。

ところが当の暴力団員は、ふたりの話を全く本気にしておらず、金だけ受け取って泰夫さん殺害に動くつもりはなかった。
事故死に見せかけて殺害してほしいと持ち掛けていた笠原と亜沙子は、たびたび暴力団員に泰夫さん殺害の催促までしていたという。
ここで「金をだまし取られた」と警察の駆け込んでくれればあの憐れな消防署の女の話になってしまうが、ふたりはさすがにそこまではせず、とにかく早く殺してくれ、成功報酬も払う、と言って暴力団員をせかすのみだった。

そんな中で、逢瀬を楽しんだ二人に冷や水を浴びせかけた泰夫さんの登場。

もう、ふたりは待てなかった。

13年と、7年

平成3年4月23日、千葉地裁で二人に対する判決公判が開かれた。

起訴状によれば、ふたりは交際が泰夫さんの知るところとなったうえに、高額の慰謝料を請求されたことから、会社の休憩室で酒に酔って寝入った泰夫さんをゴルフクラブで殴ったうえ、室内に灯油をまいて火をつけ、焼死させた、とされた。

笠原は事実を認めていたが、亜沙子は一貫して否認していた。
亜沙子の言い分はあくまで、「150万円は笠原に対し貸したもの」であり、泰夫さんを痛めつけてほしいとは思ったけれど殺害までは頼んでいない、として、さらには実行の際現場にいなかったことを挙げて泰夫さん殺害は笠原の単独犯であることを主張した。

たしかに、泰夫さんを殴り、事務所に火を放ったのは笠原で、それは本人も認めていた。
しかしその前段階として、泰夫さんを殴った際に亜沙子もそこにいたようなのだ。
ただこれは致命傷ではないため、これだけならば亜沙子が言うように「痛めつけるつもり」ということだった、ともいえる。

しかし、泰夫さんが深酒で寝入った後、亜沙子は灯油を事務所内に運び入れ、さらには火のついたタバコを事務所の畳の上に転がしているのだ。

酒に酔って寝ている人間のそばに、火のついたタバコを転がす。これだけでも十分殺意を見て取れる気がするが、この時は失敗に終わっている。
畳に火はつかず、亜沙子はこの時点で一旦家へと戻っていたのだ。
亜沙子がいなくなったあと、笠原は一人事務所へと戻った。そしてそこで泰夫さんの頭部をゴルフクラブで殴りつけたうえ、周囲に灯油をまいて火を放ったのだ。

泰夫さんを殴ったゴルフクラブは、笠原の供述通りの場所から二つに折れた状態で見つかった。

以上のことから亜沙子の弁護人は、亜沙子と笠原の間に共謀性はないと主張、殺人については笠原が暴走した結果であるとし、おそらく無罪の主張だったと思われる。

千葉地裁の上原吉勝裁判長は、笠原に対し懲役13年(求刑懲役15年)、亜沙子には求刑13年だったところをその半分以下の懲役7年とする判決を言い渡した。

新潮45でこの事件をまとめた駒村吉重氏によれば、求刑の半分以下の判決ということは、ある程度亜沙子の主張は認められたとみていい、と述べている。
一方で弁護人は、「共謀性がなかったことが認められなかったのは遺憾である」として控訴していることを見れば、殺害の実行犯でもなく、さらにはその場にもいなかった亜沙子が直接手を下した笠原と同罪とは言えないまでも、夫殺害を計画し、共謀したという点での懲役7年であり、まぁ、そんなもんなのかなとも思う。

このように、不倫のはてに邪魔になった人間を殺害する男女はいつの時代にもいて、このサイトでも東京の教師の事件や本当の狙いが違うとはいえ、長崎佐賀連続保険金殺人、そしてあの茨城のレンタルビデオ屋の事件などは性質として似ている。
ただあちらは、被害者となった夫が全く事実を知らず、かつ、ひよこみたいな童貞の若い不倫相手に夫の暴力を訴えて殺害を決意させたと思われてもおかしくない被害者の妻は、逮捕すらされなかった。

おそらく泰夫さんにかけられていた保険金を手にすることは出来なかったろう亜沙子は、出所してどこへ戻ったのだろうか。
「何でも思い通りになると思っている」
亜沙子を知る町の人は、亜沙子をそう評した。
亜沙子の父親が経営する会社は、名前が知られてしまったからか、事件直後の昭和63年には社名を変更。その後も同じ業界でこちらは順調に現在も経営を行っているが、そこには泰夫さんの姿は当然、ない。
ただ、その後も同じ苗字の人間が代表職に就いていることから、一家は事件後も離散することなく、家業を守り抜いていることがわかる。

実行していないとはいえ、自身の不倫相手に夫を殺害させた娘を、父親は受け入れられたのだろうか。父親を殺された子供たちは、母親を受け入れることができただろうか。

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参考文献

毎日新聞社 昭和63年2月21日東京朝刊、3月9日東京夕刊
朝日新聞社 昭和63年3月30日東京朝刊、平成3年4月24日東京地方版/千葉

密会を目撃され「同窓会不倫」相手に旦那を焼き殺させた美人妻/ 駒村吉重 著/ 新潮45 平成20年8月号