🔓愛のことば~帰って来なかった旅人たち~

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世界の国、その数196。

一度きりの人生において、その国のうちいくつを訪れることができるだろうか。
島国である日本は、隣の国に行くだけでも歩いてはいけない。その分、陸続きの国の人よりはそのハードルは高い。

しかし日本のパスポートは世界最強とも言われ、そのパスポートを持つ権利のある日本国民が世界を旅しないなんてありえない。そういう観点から、若い世代でも経済的に余裕がなくても、むしろ今しかできない旅を楽しめるとして世界に飛び出す人は少なくない。
これ自体は大変良いことであるし、世界のあらゆる現実を見つめる、肌で感じることでその後の人生が大きく変わることもあり得る。

今回は文字通り、人生が大きく変わった旅する日本人のお話。
彼らの経験は、旅を終えて帰った人の誰も、話すことができないレベルの経験だった。

彼らは、生きて日本に帰って来れなかった。

台湾へ行った女子大生

親日としても名高い素晴らしき、台湾。
日本からも近く、比較的安く行けることから、初心者にも人気である。卒業旅行や初めての海外に台湾を選ぶ人も多い。

その台湾へ一人旅に出た女子大生がいた。

失踪した女子大生

平成2年、お茶の水女子大学4回生の井口真理子(当時22歳)さんが、帰国予定日を2週間過ぎても何の連絡もなく、その行方が分からなくなっていることが判明。
井口さんは4月2日に成田を出発し、台北、台南、高雄などを観光した後、18日午後の飛行機(ユナイテッド航空828便)で帰国予定だったが、夜になっても戻ってこなかった。
心配した両親が問い合わせたところ、飛行機の予約はあったにもかかわらず、搭乗した記録もキャンセルした記録もなかった。

26日、両親が台湾の警察に連絡。現地の新聞などもそれを報道し、27日には井口さんの母親も台湾入りした。

しかし井口さんの消息は全くつかめず、家族が真理子さんを探す会を結成したり、有力な情報に対しては懸賞金も設けられたが、平成3年3月、事態は最悪の結末を迎えた。

焼け焦げた人骨

「これが娘なんですか。足りない骨はないんですか?」

テレビに映し出された人間の骨。すべてがそろっているかどうかはわからないほど、バラバラになっていた。ただ、頭蓋骨はそこにはなかった。
そして、その骨を見て泣き崩れる母親。日本のワイドショーはその悲しみの対面を全国放送した(この映像は真理子さんとは別の遺体の確認であるとする指摘もある)。

台湾の警察は、容疑者として33歳のタクシー運転手の男を逮捕したと発表。その後、遺体を遺棄したという現場から人骨が発見された。

実は男は前年の12月にも参考人として話を聞かれていたのだが、精神的な疾患で治療中だったことや、物証が得られなかったことから一旦釈放されていた。
しかし捜査に行き詰まった警察が再度、男から話を聞いてみたところ、その話は以前よりも具体的だったことから裏付け捜査を行っていた。

男の供述では、真理子さんを殺害したのち、バラバラにして台南へ運び、2箇所のゴミ捨て場で遺体を焼却して捨てた、ということだったが、実際にその場所から焼け焦げた箱が見つかり、さらには人骨も発見された。
加えて、男が現場で泣きじゃくっていることからも、現段階では真理子さんであるか断定できないとしても、男が女性を殺害してここに捨てたことはほぼ間違いないと見られた。

出会いから殺害まで

男の名は、劉 学強(当時33歳)。タクシー運転手の仕事をしていた。
なぜ、劉は真理子さんと出会い、そして殺害したのか。

真理子さんとの出会いは偶然だった。
平成2年4月7日午前、劉は高雄市内をバイクで走っていた。駅前に差し掛かった時、「ハーイ!」と、明るく声をかけてきた女性がいたという。それが、真理子さんだった。
ちょうど高雄駅に列車が到着した時で、真理子さんは台南市から高雄市内へ入ってきたところで、劉に対し、「安いホテルはないか」と筆談で尋ねてきたという。

劉は日本から来た若い真理子さんに、当初は単なる親切心から自宅へ案内したようだった。その前には市内の観光案内もしていた。
劉の自宅は簡素な作りの小さな平家で、家の中は電化製品も家具らしきものもほとんどなく、雑然とした質素なものだったが、劉は真理子さんにベッドを譲り、自分は床に寝た。真理子さんも旅の疲れからかすぐに寝入ったという。

ところが深夜になって、劉は真理子さんに性的な行為に及ぼうとする。目を覚ました真理子さんは当然のように拒否した。
そこでの会話などは不明だが、拒否された劉はなんと自宅にあったボーガンのようなもので真理子さんの頭部に4発打ち込んだ。
真理子さんはそれによって死亡したとみられた。

その後、劉は遺体をナタで解体すると、袋に入れて台南市まで運び、ガソリン40リットルをかけて焼き、そのまま真理子さんの遺体は複数の場所に打ち捨てられた。

人懐っこい人

今ならばいたるところに防犯カメラがあり、駅前で男のバイクに乗った真理子さんの足取りや、犯人の目星はついたと思われる。
しかし当時はそのようなこともなく、警察は真理子さんの足取りを追うのも一苦労だった。

日本人である真理子さんの失踪は、現地でも大々的に報道された。そして早い段階で、真理子さんと一時期行動を共にしたという男性が名乗り出ていた。
家庭教師をしているその男性(当時28歳)によれば、4日の夜7時ころ、ザックを背負った真理子さんが台南市役所前で市営の労工休暇センターという素泊まりの簡易宿泊所への道順を尋ねてきたという。
900円という格安で泊まれる宿ではあったが、男性は真理子さんが若い女性であり、また日本人の観光客ということもあって自宅に来るよう勧めた。
この男性は実家で両親らと暮らしており、自身もアメリカへ留学した時には心細い思いをしたことなどを思い出し、家庭でのもてなしを思いついたのだ。
男性の自宅では両親らと共に夕食を囲み、両親らも了解のもとでそのまま真理子さんは男性の家に7日まで滞在している。
その間、男性は家庭教師の仕事で忙しかったため、観光に付き添うなどはせず、観光名所までバイクでの送迎だけをしていた。

7日、高雄へ行くという真理子さんを台南駅へ送った。そのことは駅員も覚えていて、男性もこの先の案内を同じ列車に乗る台湾人に頼もうとしていたという。
が、適当な人が見つからず、真理子さん自身も「大丈夫」と言っていたことから、男性はそこで別れたと話した。

これについては当然警察がアリバイを確認しており、男性の話はすべて真実であり、善意の人でしかなかった。
男性は真理子さんのニュースを知り、いてもたってもいられず警察に情報提供していた。
「真理子さんは礼儀正しく、素直な人だった。元気で日本に帰ったものとばかり思っていた。」
そう男性は話したが、「ただ、人懐っこい人で警戒心をあまり持っていないように感じた」とも話していた。

台湾は当時、街中でも銃撃戦が起きたり、タクシー強盗も頻繁にあった時代だった。経済的に急成長した背景があり、貧富の差も広がっていたために富裕層でなくとも玄関を二重ドアにしたり、テレビでは防弾ガラスのCMがよく登場したという。
1980年代後半からは、1日に4件の割合で殺人事件が発生。誘拐事件は4~5日に1度の割合で起きており、今とはだいぶ情勢が違っていた時代だった。

そんな中でも、この男性のように親切な地元の人の方が多かったのは言うまでもないわけだが、次にであった劉は、残念ながら善良な地元民では、なかった。

うなされる男

劉が捜査線上に浮かんだのは、近所の人の情報だった。
劉が血のようなものがついた寝具を捨てていた、という話があったのだ。が、先にも述べたとおり、精神的に不安定だったこともあって逮捕には至っていなかった。
また、劉は以前から野良猫や野良犬を捕まえては虐待を加えるといったことがあったといい、その血の付いた寝具も一概に真理子さんの事件を裏付けるとは言えなかった。

それがなぜ、再度捜査線上に浮かんだのか。

きっかけは、姉からの通報だった。

「弟が毎晩うなされている、人を殺したと言っている」

姉によれば、劉は犬猫を虐待する一方で、自宅には仏像などを並べていたという。そして、真理子さんの事件が起きた後、ひどくうなされてはノイローゼ状態になっていったというのだ。
その理由を、劉はこう語った。

「首のない女の幽霊が枕元に立つ」

罪の意識だったのかなんなのか、とにかく劉は困り果てていた。
そして、再度事情を聞かれた際には、真梨子さんの殺害を自供したのだ。現場検証では、遺骨が出るとその場に泣き伏したという。

遺体の身元確認には、台湾の法医学者が鑑定にあたった。頭部が発見されておらず、日本から取り寄せた歯の治療カルテは使えなかったが、鑑定の結果、遺骨は真理子さんと断定された。
ただ遺族は納得できず、台湾警察もその説明には苦心したという。
真理子さんの遺体発見の前、実は真理子さんではないかとされる女性の遺体が出ていた。母親はその遺体も確認したというが、その遺体は後に別人だったと判明。そういったこともあって、遺族は真理子さんと断定されても納得できなかった。遺品の一部に母親が知らない持ち物があったことも関係していた。

しかし、結果としてその遺骨は真理子さんのものだった。

劉はいったん死刑判決となったが、心神耗弱が認められ無期懲役と公民権剥奪に減刑された。

真理子さんの遺骨は火葬され、5月、ようやく日本に戻ることができた。

タイに行った新婚夫婦

「私たちを襲ったのはこの人たちです。」

平成元年4月11日、一人の女性がタイ・バンコク北部のノンタブリ地方裁判所の法廷に立った。
女性は1か月ほど前、このタイで最愛の夫を殺害されるという地獄を味わった。そして今、夫を殺した男たちの裁判に証人として出廷していた。
男たちの罪は「傷害致死」。現に男たちも、「殺すつもりはなかった」と終始訴えていた。

新婚旅行の夫婦

事件が起きたのは平成元年3月21日、現地時間で午前一時ころだった。
20日の深夜に成田からノースウエスト機でタイ・バンコクに到着した一組の新婚カップルがいた。神奈川県逗子市の高校臨時教諭・渡辺俊輔さん(当時32歳)と、デザイナーの茂木田鶴子さん(当時33歳)だ。
ふたりは空港から市内に向かうため、タクシーを使用した。ところがその直後、タクシーの運転手と共犯の男に襲われ、リュックやカメラなどを奪われたのだ。
その際に俊輔さんも田鶴子さんも男らに殴られており、田鶴子さんは軽傷だったものの、俊輔さんは意識不明に陥っていた。

ふたりは19日に日本で挙式、ネパールへの新婚旅行でタイに立ち寄っていた。

俊輔さんは大学を卒業後に1年半かけて東南アジアを中心に34か国を回るなど旅好きで、その経験から子供たちにその素晴らしさを知り、国際的な人物になってほしいという思いで教師を目指したという。
そんな旅慣れた俊輔さんがなぜ襲われたのか。

横行する白タク

タイに到着したふたりに、親し気に声をかけてきた男がいた。英語を話したという男は、タイ空軍の下級軍人で、アルバイトとしてホテルや空港で客引きをしているのだという。
「こんな時間だからリムジンハイヤーはもうない。ホテルを決めてないなら安くて良いホテルも紹介できる」
そう言って、俊輔さんと田鶴子さんをタクシーへと案内した。

当時タイ国内では個人旅行客をターゲットにした「白タク」が横行していたという。正規料金の1/6で市内まで行ってくれる白タクは、費用を少しでも抑えたい個人旅行者にはある意味好評だった。
俊輔さんらもその安さにつられたのか、あるいは旅慣れていた俊輔さんが過去にも利用していて問題がなかったからなのか、とにかくふたりは男が進めるタクシーに乗った。

少し走ったところでタクシーがエンスト。運転していた男が、俊輔さん夫婦に後ろから押してほしいと頼んできた。しかし、旅慣れしている俊輔さんはピンときた。
『車外に出たところを、走り去るのではないか。』
要は、乗客だけを車外に出し、荷物ごと走り去るつもりではないのかと考えたという。そこで、運転手を外に出し、自分がハンドルを握った。
その後、再び運転手の男がハンドルを握り、タクシーはなぜか一旦空港へと戻った。詳細は不明だが、おそらく再び車に不具合が出たら困るということで、空港にいる友人の男を乗せると再びタクシーは市内へと走行し始めた。

ふと、俊輔さんは窓から見える景色がおかしいことに気づく。

車は、市内からどんどん離れて行っていたのだ。

「どうしてなんだ……」

俊輔さんは運転手にそのことを問うた。すると運転手は、近道だから、というようなことを言ったという。
おそらく、この時点で田鶴子さんはまだしも、俊輔さんには事態がまずい方向へ流れていることは分かっていたと思われる。
車はバンコクの北、ノンタブリ県に差し掛かった。大通りを走っていたタクシーは突然、路地へとハンドルを切った。

そこでふたりは車外に引きずり出され、地面に抑えつけられるような格好になったという。
そして、男たちから殴る蹴るの暴行を加えられた。田鶴子さんは気絶し、気づいたときには病院だった。俊輔さんも病院に運ばれていたが、意識不明の重体となっていた。

そして、24日には死亡が確認された。俊輔さんは搬送された時点で頭蓋骨骨折の脳死状態だったといい、その後一度も意識を取り戻すことなく、帰らぬ人となってしまった。

田鶴子さんは気絶する直前、俊輔さんの悲痛な叫びを聞いていた。殴られ、必死で抵抗する俊輔さんは、「どうしてなんだ」とうめいたという。
東南アジアを愛し、自分のキャリアを後回しにしてでもその国々を巡って人々と交流してきた俊輔さんにとって、まさにどうしてなんだという言葉でしか、この状況は言い表せなかったのだろう。
微笑みの国で、本来親切で優しい人々が多いこの国に愛する妻と降り立って、まだ数時間だった。

死刑判決

男らはすぐに逮捕された。ただ、日本人が犠牲になったとはいえ、政治的な問題での事件ではなく単なる一般的な事件に過ぎないため、外務省などが特に動くということもなかった。

また、日本での報道でも「白タクなどに乗るからだ」といった批判めいたものもあったが、旅慣れた俊輔さんは白タクの怖さを知っていたといい、家族らはそんな不用心なことを俊輔さんがするはずがないと思っていた。
それもそのはず、実際には、男たちは正規のタクシーの標識を偽造していたのだ。パッとみただけでは、それが白タクだとはわからないようになっていた。

一方で犯人の男ふたりにはタイでも人権派として名高い弁護士がついた。当初、金持ちの日本人から所持品や金を奪おうと思ったと供述していたふたりは、初公判でも『殺すつもりはなかった』と遺族に対して土下座して詫びていた。
男らは、金品を奪って逃げるつもりが、俊輔さんが柔道の技をかけて抵抗してきたことから怖くなったという。そこで、たまたまあった木材で俊輔さんの頭部を滅多打ちにしてしまったというのだ。
が、第二回公判以降は、警察による自白の強要があったとして、否認に転じた。
たしかにタイではこの事件が少なからずタイの観光事業にダメージを与えるとして、事件発覚当初より犯人逮捕に全力を挙げると息巻いていた。
犯人逮捕を焦るあまり、自白の強要をしたというのが弁護側の主張だった。

起訴された罪名も、殺人ではなく傷害致死。ただ、タイでは傷害致死の最高刑は「死刑」だった。

6月29日、ノンタブリ地方裁判所は二人の男に対し、「死刑」を言い渡した。そして、妻の田鶴子さんには2万9000バーツ、日本円にして約15万円の補償金の支払いを命じた。
その後、タイの最高裁までもつれ込んだものの、平成6年2月、最高裁は上告を棄却し、二人の死刑判決が確定した。

田鶴子さんと俊輔さんは、実は入籍をしていなかった。帰国したら入籍するつもりだったといい、記入済みの婚姻届けを俊輔さんの両親に託しての新婚旅行だった。

田鶴子さんは後に俊輔さんの日記をもとにした本を出版。俊輔さんの思いを少しでも知ってもらえたら、との願いを込めてのことだった。
その後も未入籍だったにもかかわらず、田鶴子さんは俊輔さんの両親と暮らしたという。

グアテマラの日本人観光客

一体、何が起きたのか。

グアテマラの北西部に位置する静かな山間の町の、商店や小さなホテルが立ち並ぶ広場の一角。
白昼の惨劇だった。さっきまで多数の地元民と観光客で賑わっていたこの場所には今、破壊し尽くされた観光バス、飛び散ったガラス片、血痕、地面に残る黒く焼け焦げた生々しい痕……
周辺の小売店やホテルのロビーでは、匿われて難を逃れた人々が心配そうに外を眺めている。

広場には、激しく損傷した男性の遺体がそのままになっている。

何が起きたのか、正確に理解している人はおそらくいなかった。
広場には、スペイン語で「何もするな」という放送だけが流れ続けていた。

【有料部分目次】
突然の地獄絵図
写真
悪魔の集団による子供の拉致
混乱と過去の恐怖
アフガニスタンへ行った男女教師
頭部を撃ち抜かれた遺体
ふたり
生ぬるい風に吹かれて
その愚かさこそが

 

🔓止められない、止まらない〜4つのリンチ殺人後編〜

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佐賀のコンクリ殺人

平成3年3月4日、鳥栖署は殺人死体遺棄事件の容疑者として佐賀県内の建設業の男ら4人を逮捕した。

そして、男らの供述通りの場所から遺体が発見された。

遺体があったのは大野城市内の稼働中の鉄鋼製作工場敷地内。
深さ約1mの土中から発見されたが、その遺体はコンクリートで固められていた。 続きを読む 🔓止められない、止まらない〜4つのリンチ殺人後編〜

止められない、止まらない~4つのリンチ殺人前編~

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ある事件の加害者は、「殺すほどのことではないと思っていた」と話した。
別の事件の加害者も、部下にあたる別の加害者が被害者に怪我をさせた以上、始末するしかないと話しているのを聞いて、当初は「なにバカなことを言っているんだ、医者に連れてけねぇのか」と、まともな判断をしていた。

しかし結果として、被害者は殺害され、その遺体は無残な状態で発見された。

どれも、きっかけは些細な事だった。ある事件では「勝手にジュースを飲んだ」、またある事件では「店の規則に反した」、別の事件では「ムカついた」などの、およそ事件になりそうにもないような、日常のありふれた出来事がきっかけだった。

なぜ彼らは、止まれなかったのか。

4つのリンチ殺人の顛末前編。 続きを読む 止められない、止まらない~4つのリンチ殺人前編~

🔓絶叫~福岡・小1長男殺害事件~

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その日の目覚めはいつになく爽快だった。
これまでの二日間、ほぼ寝たきりだったのが嘘のようで、久しぶりに一人で外出してみる気になった。

財布を覗くと、2000円程度しかなかった。郵便局と銀行でお金を下ろし、いつもならバスに乗るところを歩いてみようと思った。
姪浜駅北口を出て400m、国道に出たところを左折。自宅までは約1,5キロ。交通事故でひざを痛めて以降、歩く速度は遅いものの、この日はいつもよりも力が漲っていた。

途中、ふとファミレスに寄ってみようと思った。ちょうど昼時、いくつかのメニューを頼み、ビールも注文した。合計は1296円。

いつもならこんなことはしないが、とにかく、いつもよりも動けることが嬉しかった。

午後3時、小学校から息子が帰宅。ドーナツが食べたいとぐずったが、作ってやろうにも卵を切らしていた。
「じゃあ卵を買いに行こうか。」
母と息子は手をつないでスーパーへと向かった。
途中、大きな公園があった。息子はどうやら、小学校の遠足で来たことがある公園らしい。そういえば夏休みの間、あまり遊んでやれなかった。スーパーは後回しにして、遊んでいこう。

「トイレに行くけん、ここでおってね」

息子に声をかけ、トイレに向かう。
しかし出てきた時、息子の姿は見えなくなっていた。

事件

「男の子を見ませんでしたか!?」

平成20年9月18日午後4時ころ、福岡市西区の小戸公園にて、母親と遊びに来ていた同市立内浜小一年の富石弘輝くん(当時6歳)の姿が見えなくなったと母親から通報があった。
警察と共に、公園内にいた一般の人々も加わって弘輝くんを捜索していたところ、同公園内にあるトイレと外壁の隙間に膝を折り曲げた状態でもたれかかるようにしてぐったりしている弘輝くんを発見。
意識がなかったため救急搬送されたが、病院で死亡が確認された。
弘輝くんの首にはひものようなもので絞められた痕が残されており、福岡県警では殺人事件として捜査本部を設置して捜査にあたった。

弘輝くんの衣類に乱れはなく、首のあと以外に目立つ外傷もなかった。

通報した母親によると、弘輝くんにはGPS機能付きの携帯電話を持たせており、いなくなった直後から母親がそのGPS反応を捜していたという。
捜索している中、一般の男性が弘輝くんを発見し警察に知らせたところ母親も近づこうとしたが、最悪の事態を想定して男性が母親を押しとどめた。母親は不安そうに、しかしそれ以上は近寄らなかった。

男性はなんとなく、違和感を覚えたという。母親はトイレに行くと告げて子供から目を離したと話しているのに、なぜか、最初からそのトイレ付近は捜索しようとしていなかったし、みんなが捜しているのに、ベンチに座ったままだったという。発見した際、弘輝くんの足元は裸足で、その靴が足元にきちんとそろえられて置かれていたのも気になった。

搬送される弘輝くんに、母親は寄り添いずっと声をかけ続けていた。

事件翌日、福岡市内で弘輝くんの通夜が営まれた。車いすの母親は参列者に対し、「子どもから目を離さないでね、こんな悲しいことはわたしだけでいいけん」と気丈にふるまっていたというが、柩の周りで親族が「犯人を殺してやりたい」というのを聞くと、ひざに顔をうずめるようにして号泣していた。
翌日の葬儀では、笑顔の弘輝くんの遺影を胸に霊柩車に乗り込み、参列した人々はその悲しみの中で残された家族の心中を思い、いまだ逮捕されていない犯人に対しての怒りを新たにした。

9月22日。警察は事情を聴いていた母親を、弘輝くん殺害の容疑で逮捕した。

【有料部分 目次】
発達障害
難病

序列
苦しいほどの生真面目
ママなんか死ねばいい
不可解
絶叫

放蕩と暴力そして、狂気の沙汰~喜多方・男性殺害死体遺棄事件~

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平成14719日、福島地方裁判所。

殺人の罪に問われた被告人は、最後までその罪を悔いることはなかった。
そればかりか、被告人の口から出たのは「騙された。遺体は見つからないはずだったのに。」という理解しがたい言葉。

判決は求刑懲役12年に対し、懲役9年。
殺人の罪としては比較的軽い刑ではあったが、被告人は「9年は重すぎる」として控訴。
反省のかけらもないこの被告人に対し、平成15325日、仙台高等裁判所はさらに減刑の懲役6年を言い渡した。

報道はここで終わるためにおそらくこの判決が確定したと思われるが、無反省でかつ殺人という罪を犯した被告人にいかほどの事情があったのか。

喜多方の遺体

事件発覚の発端はとある廃村で見つかった遺体だった。
喜多方市内の男性がかつて暮らした住居跡地の農機具などを片付けに来たところ、近くの林になにかがあるのを発見。
近づいてみたところ、地中から人間の足が突き出ていた。
驚いた男性はすぐに110番通報。警察官によって掘り起こされたそれは、男性の腐乱死体だった。
遺体は損傷が激しく、一部白骨化していたことから死後数カ月が経過しているとみられたが、その年齢などは分からなかった。

現場は喜多方の市街地から北東に10キロほど入った山の中で、昭和の終わりに廃村となった村の山林だった。北塩原村との境に位置し、近くには関柴ダムがあり、遺体は林道の行き止まり付近に埋められていた。

状況から男性は何者かに埋められたとみられ、警察では殺人事件も視野に入れて捜査を始めた。
遺体は衣服を身に着けており、靴まで履いていた。紺色と白のチェック柄の上着にズボン姿、黒い革靴で、その上着には「矢内」というネームが刺繍されていたという。

その後の司法解剖から、遺体は1025日から行方が分からなくなっている埼玉県行田市の無職・継田(ままだ)恒雄さん(当時54歳)と判明。当初数カ月経過しているとみられた遺体も死後2週間ほどだったとわかっており、警察では継田さんが行方不明となった直後に殺害されて埋められたとした。
継田さんは後頭部を棒状の鈍器で殴打されており、現場での捜索でそのような凶器が発見されていないことや、血痕、争った痕跡もなかったことから、継田さんは別の場所で殺害されてここまで運ばれてきたとみられた。

上着にあった「矢内」という名前は、その後の調べで継田さんが親しくしていた男性の娘夫婦が引っ越す際に、その娘婿が継田さんに不要になった衣類を数着譲渡しており、その中の一つだったことも判明した。

継田さんは83歳の母親と49歳の弟との3人暮らし。
息子の遺体発見の知らせを受けた母親は、「もともと月に1~2回ふらりと戻ってくるような生活だったが、まさか事件に巻き込まれていたなんて」と驚きと悲しみを隠せない様子だった。

継田さんは当時無職だったが、十数年前には大宮市でラーメン屋を開いたことがあったという。が、商売はうまくいかず半年ほどで閉店。その後は定職に就いていなかった。

そのせいか、継田さんを知る人からは、継田さんが金銭トラブルを抱えていた、という話も聞かれていた。また、継田さんは地元の中学を卒業して以降、刑務所に出たり入ったりの生活を送っていたといい、警察では交友関係を中心に行方不明直前の継田さんの足取りなどを捜査していた。

遺体を埋めた場所が埼玉から遠く離れた福島県だったことなどから、喜多方に土地勘のある人間の可能性を考え捜査していたところ、継田さんの遊び仲間で埼玉県熊谷市に住んでいた男が喜多方市出身であることを突き止める。
そしてその男の行動を調べていたところ、1024日に遺体発見現場近くでこの男の車が目撃されていたこと、さらには男が車のトランクを洗っていたこと、その車の処分を依頼して、レンタカーで逃走していることもわかった。
埼玉県内のスクラップ工場にあった車のトランクからは大量の血痕が発見され、後にそれが継田さんのものと一致したことから、警察は男を全国に指名手配した。
男は1113日に、群馬県高崎市の健康センターにいるところを発見され、事情を聞かれた後に継田さんの遺体を埋めたことを認めたために死体遺棄容疑で逮捕となった。

まさかの展開

逮捕されたのは喜多方市出身で住所不定の元トラック運転手・山岡善廣(仮名/当時36歳)。
山岡は継田さんの弟と知り合った関係で継田家に出入りするようになったといい、その後、服役を終えて出所してきた継田さんとも知り合った。
山岡は調べに対し、継田さんの遺体を運んで埋めたことは認めていて、「全部自分一人でやった」と話していたが、警察は共犯者の存在を疑っていた。

山岡はトラック運転手として働いていたが、平成13年からは定職に就いていない状態だった。継田さんとの付き合いは、先にも述べた通り継田さんの弟と知り合ったのがきっかけであるが、警察は山岡が消費者金融に280万円の借金があるにもかかわらず定職にも就かず、なぜか国産スポーツカーなどを購入し、海外旅行へ出かけていたことなどを疑問視。
金銭トラブルを抱えていたという継田さんのトラブルの相手が実行犯役として山岡に金銭で依頼した可能性もあると見ていた。

そしてそれはズバリ的中していた。
12月に入って、山岡は継田さんの遺体を遺棄する相談を別の人間としていたことを自供。

が、その依頼者を知った捜査関係者らは驚きを隠せなかった。

継田さんの遺体を山林に捨てることを相談した相手は、継田さんの実母だったのだ。

母の苦悩

福島県警喜多方署の捜査本部は、死体遺棄容疑で継田さんの実母・継田ちとせ(仮名/当時83歳)を逮捕した。
ちとせは死体遺棄を認めてはいたが、捜査本部では二人が殺害にも関与しているとみて厳しく追及していた。

わかっていることとしては、殺害された継田さんを山岡が一人で1024日頃にあの喜多方の山林に埋めたこと、遺体を遺棄することはちとせから提案されたということだった。
しかしその後の調べで、ちとせには想像を超える苦悩の人生が続いており、その原因が息子の継田さんにあったこと、そして苦悩の果てに息子の殺害を山岡に1000万円で依頼していたことが分かったのだ。

ちとせは大正8年の生まれ、尋常小学校を卒業したのちは実家の農業を手伝いながら、昭和19年に結婚。夫とともに婚家である継田家を守ってきた。
夫は前妻と死別しており、前妻の子供もいたというが、ちとせはその前妻の子を含む五人の子供を育てていた。
昭和34年、夫が突然の交通事故で死亡した後も、たった一人で農業をしながら子供達を育て上げたという。

継田さんは昭和22年に生まれたが、中学を卒業して以降その素行は悪かったという。母親が一人地に這いつくばって仕事をしていてもそれを助けることもないばかりか、金の無心を繰り返し、成人してからも母親であるちとせを助けようともせず放蕩三昧の日々だった。
継田家は土地を多く所有するもともとの資産家だったが、昭和49年、土地の一部が上越新幹線建設用地として買収される。
その際、土地の名義が亡き夫のままになっていたことから、買収にあたって名義変更する必要に迫られたという。通常ならば、長男である継田さんに名義をかえるところ、素行が悪すぎる継田さんを跡取りとすることはできないと考えたちとせは、継田さんに内緒で次男に名義変更させた。ちなみにこの時、継田さんは服役中だった。

ところが出所した継田さんがその事実を知ってしまう。ちとせは財産を横取りされたと怒り狂う息子を宥めるために、継田さんに言われるがまま、以降金銭を渡すようになる。
それに味をしめた継田さんは、毎日のように飲み歩き、金がなくなれば母親であるちとせに無心を続けた。その額は案の定、次第に大きくなっていき、ちとせはこのままでは継田家の財産が失われると不安になり、無心されても応じないようにした。

すると、継田さんは家の窓ガラスを割ったり、高齢の母親に対して殴る蹴るの暴行を働いたという。一度は農機具の鍬でちとせは頭を殴られた。
家には次男もいたが、荒れ狂う刑務所帰りの酒乱の兄貴に太刀打ちできるような次男ではなかった。ちとせは嫁に行った娘に助けを求めるなどしたが、かといって甘え続けるわけにもいかず、継田さんに怯えながら暮らす日々が何年にもわたって続いたという。

平成12年、継田さんはちとせに対して家を出て行く代わりに3000万円寄越せ、と要求する。ちとせは3000万を手切金と考え、それを受け取ったら継田さんが他所へ行ってくれると約束したため、近隣の土地を売却して3000万円を用意した。
ちとせは平成12年の暮れから正月にかけてその金を継田さんに渡すと、継田さんは約束通り実家を出て行ったという。

ところが、正月気分も抜け切らない、まだ松の内だというのに、なんと継田さんが実家へ舞い戻ってきたのだ。
唖然とするちとせに対し、またこの家で暮らすと言い放った。あの3000万円は、数日で全て使い果たした、とも。

ちとせはもう金は渡せない、しっかり働くようにと言いはしたものの、暴力で向かってこられてはひとたまりもなく、自分を守るために都度金を渡さざるを得なくなってしまった。

他の子供たちも当てにはならなかった。ちとせは、このままでは長男に全てを食い潰されてしまうと危惧するあまり、いっそ長男がいなくなれば、死んでくれれば、と思うようになっていった。

救世主

一方、この継田家の実情を知る人物がいた。それが山岡だった。
山岡は継田さんの弟の遊び仲間だったが、継田家に出入りするようになってから、継田家が市内有数の土地持ちの資産家であることと、どうしようもない放蕩息子がいて母親に暴力を振るって金をせびっているということを知った。

ひどい話だ、と思う反面、息子に言われたからといって3000万円の大金を手切金として用立てられる継田家ならば、上手いこと言えば自分の借金である280万円くらい引っ張れるのではないか、とも思っていた。

そして平成131月のあるとき、ちとせと世間話をする中で、ちとせの口から「あんな倅は自分の倅ではない。どこかへ行って、戻ってこなければいいのに。いっそ死んでくれたって構わない」という言葉が出たのをきっかけに、報酬と引き換えにならば自分が継田さんを殺してやってもいい、と持ちかけた。

ちとせは当然、そんなことをすればまず自分が疑われてしまうからと本気にはしなかったが、山岡から「殺した後は薬品をかけて溶かしてしまえば誰にもわからない」と言われたことで、ちとせの心はざわつき始めた。

このままでは継田の財産どころか、住む家さえ失いかねない。必死で守り続けてきたものが、何もかも奪われてしまう。
あの子さえ死んでくれれば、その心配も無くなるしもう暴力に怯えて暮らさなくてもよくなる……

ちとせの心は決まった。

決行の夜

ちとせは山岡に対し、着手金として報酬のうちの300万円を平成133月頃に手渡した。山岡も、4月に入って継田さんを殺害すべく飲みに誘い出し、泥酔させたのちに場所を変えようと言って継田さんを人気のない場所へ連れて行って絞殺しようと計画していた。

ところが実際に殺害を実行するために飲みに出かけた夜、継田さんは泥酔状態になったはいいがなんと店の客と喧嘩をし始めてしまう。
これではあまりに周囲に印象付けてしまうと考えた山岡はその日の殺害は見送った。

継田さんが生きている以上、残りの700万円をもらうことはできない。サラ金の借金はまだ返せていなかった。着手金としてもらった300万円は、すでに消費して残っていなかった。

一方で山岡は、自分しかちとせには頼る相手がいないのだから、たとえ殺害に及んでいなくてもそれらしい理由をつければ報酬を前払いさせられると考え、ちとせに対して殺害実行を仄めかしては7月までに950万円を受け取っていた。
しかしその金は借金返済や旅行の費用などであっという間になくなってしまった。

ちとせも黙って金を渡し続けるには限界だった。いつまで経っても、あの放蕩息子はやりたい放題ではないか。
もうこれ以上は前払いなどできない。山岡に、息子を殺して持ってこいと迫った。

山岡も、すでに払い受けた950万円は手元になく、残りの金をもらうためには(と言っても、残金は50万円である)継田さんを殺害しなければならないと腹を決め、1022日、23日の両日継田さんと飲みに行く約束をした。
そして、23日の昼頃ちとせを訪ね、「今晩やるよ」と告げた。
ちとせもそれを聞いた上で了承。ここに、継田さん殺害の共謀が成立した。

同日夜7時半頃、継田さんを迎えにやってきた山岡は、その自動車の中に金属バットを乗せていた。ちとせはこれで最期になるかもしれない生きている息子の姿を見送った。

山岡は継田さんを酔わせ、何軒かの店を回った後、「俺の女の家で飲み直そう」と誘い、埼玉県児玉郡上里町内の路上で歩いていた継田さんの背後からその後頭部を思い切り金属バットで殴りつけた。
何度殴ったろうか、動かなくなった継田さんを車のトランクに入れると、車を走らせた。車が向かったのはあの喜多方の山林、ではなかった。

山岡は、継田さんをちとせのもとへと連れていった。そして、母に息子の無惨な遺体を見せ、確実に死んだことを確認させた。

「あとは俺が絶対に見つからないようにやるから」

そう言って、山岡は喜多方の遺棄現場へと向かった。

ちとせは、血まみれの息子の顔をどんな思いで確認したのだろうか。
その後、疑われないように捜索願を出し、ちとせは何食わぬ顔で被害者の母を演じ続けていた。

命乞いした息子と、無情の母

ちとせと山岡はその後殺人の罪でも再逮捕となり、取り調べの中でちとせは息子に対する憎悪を明かしている。

裁判ではちとせが味わった息子である継田さんからの暴力や裏切り行為など同情できる部分はあるとしながらも、かといって命を奪われるほどのいわれはないと非難。
山岡は高齢のちとせにつけ込み、同情を装ってちとせから金をせびり、元勤務先の社長が再雇用してくれるといった際にも、「もっと楽に稼げる方法がある」などと言って真面目に働こうともせずに金のために人を殺害するという利欲的動機に酌むべきものはないとした。

また、実行犯は山岡だとしてもその山岡を1000万円という高額な報酬で雇い、自らの手を汚さずして目的を遂げようとしたちとせの行状についても酌むべきものはないとした。
実は、ちとせが継田さんをどうにかするのではないかと、次男や姪は気づいていた。そのうえで、バカな考えは止めろとちとせを諌めていたという。家族に諌められても、ちとせの考えは変わらないほどに強固な殺意に凝り固まっていたのだ。

継田さんはたしかに傍若無人、放蕩の限りを尽くし、女手一つで育ててくれた母ちとせに恩を感じるどころか金づる程度にしか思っていなかったことは明白で、しかも数日で3000万円を使い切るなど、常軌を逸していた。
そんな継田さんだったが、夜道で突然山岡に殴られた際には、必死で命乞いをしたという。しかし山岡は、個人的な恨みがあるわけでもなかった継田さんのその命乞いを無視し、バットを振り下ろし続けた。
福島地方裁判所は、依頼者はちとせであるものの、当初はそれを渋っており、そのちとせを説得し、実行した点で山岡が主導権を握ったと判断。
山岡に対し懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。ちとせに対しては、83歳という高齢にも配慮してか、懲役9年(求刑懲役12年)の判決を言い渡した。

83歳のちとせは量刑不当を理由に控訴。仙台高等裁判所は、たしかにちとせの行いは狂気の沙汰であり、その犯行については斟酌すべき点はないとしてものの、その背景には大いに同情する余地があるとした。
金を出さぬなら殺しちまうぞ、そう日ごろから継田さんに脅され、実際に頭を鍬で殴られるという命の危険さえあるケガを負わされ、救急搬送されたこともあった。
頼みの綱の次男は「母親を兄から守る」という大義名分を掲げて仕事を辞め、ちとせから小遣いをもらっては麻雀に明け暮れる毎日。
継田さんが精神的な病気ではないかと保健所に相談したこともあったが、誰もちとせを救い出してはくれなかった。
精神的に限界に達していたちとせの前に表れたのが、山岡だったのだ。

福島地裁が一定の同情の余地があるとしながらも、その背景や山岡に殺害依頼するに至った経緯を含めて酌むべきものがない、としたのは文脈としても齟齬があり、酌むべき事情があったとするべきであって、高齢であることも踏まえ懲役9年の判決は重すぎるとする弁護人の論旨には理由がある、とした。
その上で、ちとせに対し懲役6年の判決を言い渡した。

ちとせはこれを受け入れたとみられる。

高齢の母親が息子を他人に報酬を出して殺害させたという事件は社会にも衝撃を与えた。
ただちとせにしてみれば、自分が逮捕されたこと自体に納得が出来ていなかったようだった。これは老人特有の頑固さというか、致し方ない部分かもしれないが、地裁でのちとせの様子は冒頭の通り、すべて山岡が悪い、自分は騙された、遺体を見つからないように処理すると言ったのにそれをしていなかった、だから自分は逮捕されたと、ちがうちがうそうじゃないでは追い付かないレベルで理解できていなかった。

息子である継田さんへの母親としての憐憫の情は最後まで見られなかったという。

地裁での判決言い渡しの際も、意味が理解できずに騒ぎ、裁判長から諌められる一幕もあった。
事件からすでに20年近く経過し、ちとせは息子の住む世界へ旅立っている可能性が強い。
息子を殺してまで守りたかった継田の家は、今真新しい家々が立ち並ぶ一角となっている。

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参考文献

毎日新聞社 平成13117日、1218日、平成14720日地方版/福島
読売新聞社 平成13117日、9日、1214日、16日、平成14720日、平成1535日、26日東京朝刊
朝日新聞社 平成131216日、26日東京朝刊

平成14719/福島地方裁判所/刑事部/判決/平成14年(わ)3
平成15325/仙台高等裁判所/第一刑事部/判決/平成14年(う)142