無念~不起訴になった通り魔殺人~

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人を傷つけたり、ましてや殺してしまったら、裁きを受けその罪に見合った刑に服さなければならない。
しかし、そのためには罪を犯した人間が「罪を犯した」という自覚がなければならない。そもそも善悪の判断がつかない人間は、罪を犯したという認識もないわけで、その状態で刑罰を科すことに意味がないからである。

刑法39条第1項。
ここには、心神喪失者の不処罰ということが定められている。心神喪失とは、「精神の障害等の事由により事の是非善悪を弁識する能力(事理弁識能力)又はそれに従って行動する能力(行動制御能力)が失われた状態(Wikipediaより)」のことをいい、認定された人はその罪を問われることはない。責任能力がないからである。
犯人であれば一旦逮捕はされても、起訴されずに裁判も開かれないケース(不起訴)もあれば、起訴されても裁判において心神喪失と判断され、無罪が言い渡されるケースもある。それ以外にも裁判が始まった時点では公判が維持できるとされていても、途中で心神喪失となりそれの回復が見込めないと判断されると、公判停止、打ち切りというケースもある。
もちろんこれらは複数の専門家(医師など)の慎重な鑑定などをもとに裁判所が判断することであり、たとえ心神喪失だと断言する専門家の判断があっても、最終的には裁判所の判断となる。

現状としては、近年の特に殺人などの重大犯罪においては心神耗弱で減刑になるケースはあっても、心神喪失無罪となるケースは非常に少なくなっているという。
近いものだと、平成30年に神奈川県大和市で幼い我が子を殺害した母親に対し、心神喪失として無罪が言い渡されたケースや、平成29年に祖父母ら5人を殺傷した30歳の男に対し、神戸地裁が心神喪失だったとして無罪(求刑無期懲役)を言い渡したケースがある(現在検察が大阪高裁に控訴中)。

しかしいったん起訴された後に無罪となるのは非常に少なく年に数人ほど、というが、一方で不起訴となる人の数は令和2年版犯罪白書によれば、傷害、強盗、殺人、強制性交等、放火といった重罪を犯した人のうち、251人が不起訴となっている。しかもその内殺人事件において不起訴が82件というのは、82人以上の人の無念がそこにあるということであり、何とも言えない気持ちにさせられる。

その実際の事件のいくつかを紹介する。

八丁堀のメッタ刺し

「ちょっと出かけてくる」
昭和63年4月3日、江東区在住のホステス根本昭子さん(当時44歳)は、勤務先のクラブが休みだったこともあり、昼前に家族にそう告げて外出した。
穏やかな春の日曜日。昭子さんは買い物のために、中央区まで出てきていた。信号待ちをしていた八丁堀一丁目の交差点付近はオフィス街。日曜ということもあって人通りはまばらだったという。

同じ頃、その八丁堀交差点付近を進学塾へと急いでいた14歳の少年がいた。
突然、少年の耳に女性の悲鳴が飛び込んできた。驚いて振り向くと、数メートル後ろで坊主頭の男が女性を追いかけまわしている。
女性は赤いブラウスを着ていて、信号待ちの車の方へよたよたと歩み寄ったかと思うと、坊主頭の男が追いかけて来て女性を叩くような仕草をした。
その手には、包丁が握られていた。
そして、赤いブラウスだと思ったそれは、女性が着ていた白のブラウスが鮮血に染まってそう見えていたことに気づいた少年は、恐怖のあまりその場を動くことができなかったという。

異変に気付いた信号待ちの車から、男性らが数名降りてきたが、女性はすでにその場に倒れ動かなかった。
坊主頭の男は、血まみれの包丁を手にしたままゆらゆらとその場を離れ、どこかへと去っていった。

女性は、根本昭子さんだった。

通院歴20年の男

昭子さんが刺されてからおよそ7分後、通報で駆け付けた中央署宝橋通り派出所の警察官が現場から数百m離れた路地で包丁を持ったままぼうっと立っている男を発見。
返り血を浴びていたこと、そして男が犯行をあっさり認めたことで、殺人と銃刀法違反の現行犯で逮捕した。

一方の昭子さんは、救急搬送されたものの左胸4か所、腹1ヶ所、左腕に8ヶ所もの刺し傷を負っており、約30分後に出血多量で死亡した。
昭子さんは交差点で信号待ちしていた時に不意に襲われ、抵抗しつつ助けを求めて車道に出、停車中の車の助手席に乗り込もうとしたが車がロックされていたことで開けることができなかった。また、中にいた運転手の女性もシートベルトをしていたことでとっさに動くこともできず昭子さんを助けられなかったという。

近くにいたものの難を逃れた人らによれば、男は「人間はみんな死ななきゃならないんだ」などとわめきながら、昭子さんをいきなり刺したという。
男は悲鳴を上げて逃げようとする昭子さんを執拗に追いかけまわし、何度も何度も昭子さんを刺した。
逮捕された後も、男は「人を殺さないといけない、人間はいつか死ななければならない」と意味不明の言葉を口にしていたという。

逮捕された男は、中央区内に住む43歳の無職の男。母親、姉、弟との4人暮らしだったというが、実はこの男、昭和42年以降都内の精神病院に入退院を繰り返しており、昭和62年6月に退院した後も、江戸川区内の精神病院に通院中だった。
普段は弟が経営する雀荘の清掃などをしていたというが、昭子さんとは全くの初対面で、二人の間には何のトラブルも、関係すら存在しなかった。

幸せになるために

男は逮捕後の調べで、「ずっと不幸続きだった。人を殺せば、幸せになれると思った」と話していた。
つけていたという日記には、2月頃、「日本人を生かしておく必要はない」と書いていて、その後「テレビのコマーシャルで見たアメリカ人の男性俳優から殺せと言われた」とも話していた。ヤバい。

男は4月1日、金物店で包丁を購入。いつかそれを使うつもりで自宅に保管していた。
3日はいつものように弟の雀荘で床拭きなどをした後、昼過ぎになって「誰かを殺そう」と思い立ったという。
ふらふらと八丁堀の交差点まで来た時、6~7人が信号待ちをしているのを見た。そしてその中で一番殺しやすそうだと思ったのが、女性の根本昭子さんだった。

なんの落ち度もない、ただ日曜の休日の昼間に都心の人目のある場所で、買い物を楽しもうとしていた女性を「女なら殺せる」という理由で男は犯行に及んだ。

函館出身、離婚を経験したのち一人で息子を育ててきた昭子さん。その息子は、定時制高校に通いながら母と二人、ささやかに平凡に暮らしていた。
その日も、なんてことのない普通の春の一日だった。しかし、「ちょっと出てくるね」と言った母は、そんな理不尽なことで、たまたまそこを通っていただけで、命を奪われた。

そして男は、2か月後はやばやと不起訴となった。

男はそもそも、精神の状態が安定したから退院していたのではなかった。治ったと言い張り、勝手に退院していたのだ。
通院は続けていたとはいえ、その症状は改善されるどころか悪化していた。家族は男の異変には気づけなかったのか、という思いもあるが、なんせ20年入退院を繰り返しているわけで、家族にしてみればその変化というものを実感しにくかったのかもしれない。

不起訴処分を受けた男は、そのまま都内の病院に措置入院となった。

ゲートボール場の惨劇

平成2年2月17日、冬の晴れ間の長野県松本市郊外の河川敷では、近くの高齢女性ら3人がゲートボールを楽しんでいた。例年より7度も気温が高く、河川敷の西には北アルプスの峰々が美しい。

それは突然の出来事だった。

ふらりと現れたその男は、二十歳そこそこ、水色のジャンパーにカーキ色のパンツ、白いスニーカーというどこにでもいる若者に見えた。手には金属バットが握られてはいたが、河川敷という場所に似つかわしくない格好でもなく、どちらかと言えば小柄なその若者に、目を留めるものなどいなかった。

男は道路を渡り河川敷へと降りていく。そしてゲートボールを楽しむ女性の近くへ行くと、無言で金属バットを頭めがけて振り下ろした。
悲鳴とも、絶叫ともつかぬ恐ろしい声があたりに響き渡った。河川敷近くで暮らしていた鳥羽貞子さん(当時60歳)は、そのただならぬ声を聞いてとっさに自宅前に飛び出した。そこで見たのは、頭部から激しく出血して倒れている女性の姿と、返り血に染まった男の姿だった。
若い男の手には、血の付いた金属バット。しかしそれだけではなかった。男は両腕の内側にカッターナイフ、外側にはステンレス製の包丁をガムテープのようなもので巻き付けていた。

男は鳥羽さんに近寄ると、無言でそのバットを振り下ろす。必死で逃げた鳥羽さんは、近くの「きくすい旅館(当時)」に逃げ込むと、救急車を呼んでほしいと言ってばったりと倒れた。

男は通行人や騒ぎを聞いて飛び出した近所の住人らを威嚇するかのように金属バットを振り回していたという。
その後、近所の男性が草刈り用の農機具を盾に男に詰め寄り、たまたま通りがかった男子高校生が背後から男を羽交い絞めにして取り押さえた。

終始無言で女性らを殴りつけていた男は、後ろから抑え込んだ高校生に対してだけ、
「邪魔するな」
と怒鳴った。

ゲートボール場で襲われた3人の女性のうち、二人は即死。残る一人も搬送先の病院で死亡が確認された。最後に襲われた鳥羽さんも、頭部に全治二週間のケガを負ったが、一命はとりとめた。

死亡したのは、松本市の平野春子さん(当時77歳)、市川しげ子さん(当時73歳)、そして、柳沢花子さん(当時71歳)。
平野さんと市川さんはゲートボール場で即死状態、柳沢さんは土手を上がって道路を渡り逃げようとしたものの、男に追いつかれて殴られ、約1時間後に死亡した。

イラ立つ大学生

逮捕された男は、香川県出身の信州大学生だった。
自宅は現場となったゲートボール場の目と鼻の先のワンルームマンション。直線距離で20mしか離れていなかった。

男は3年前に高校を卒業すると、一浪して信州大学へと入学した。浪人中は京都の予備校に通っていたといい、信州大学以外にもいくつかの大学に合格していて、大学へ行く意欲も感じられた。
ところが、大学生活はうまくいっていなかった。男はすでに一度留年しており、その際もあとちょっと足りなかった、ではなく、進級に必要な単位の半分を落とすというもので、今年に入っても学年末の試験を男は一切受けておらず、今年も留年は確実だった。

サークルには所属していたというが、友達という存在はいなかった。
自宅のワンルームマンションにはクラシックのCDがあるだけで、電話やテレビといったごく普通の生活家電がなかった。それ以外にも、漫画や雑誌などもなく、推理小説が20冊程度あるだけで、趣味などもなかったようだと捜査関係者は話している。
さらに、男はマンションの玄関ドアに二重のカギをとりつけ、そのうえ隙間を目張りするなど、神経質な一面もあった。

男は何に突き動かされたのか。
逮捕後の取り調べでも、男は自分の名前さえ話さないまま。動機もなにも分からない中、男への精神鑑定が行われることとなった。

「目的がある」

男にはそれまで特に精神的な問題などは見当たらなかったという。ただ、高校3年の時に自分の部屋を歩き回ったりすることがあり、心配した両親が病院に連れて行ったことがあった。
が、そこでは投薬や通院の必要性まではないと診断され、一過性のストレスによるもの、といった判断がなされていた。その後、症状も落ち着いていたことから、両親は京都の予備校に通わせ、一人暮らしもさせていたし、そこでも特に問題は起きず、男は複数の大学合格も掴み取っていた。

ところが信州大学に入り、このマンションに越してきて以降、なにかが狂っていったことは間違いない。
事件を受けて、報道ではゲートボールに興じる人々の「声」が原因だったのでは、とするものもあった。男が音の出る家電をCDラジカセ以外持っていなかったことや、玄関の目張りなどから推測されたのだろう。たしかに、お年寄りの朝は早いし、ゲートボールとなれば声や音も響いた可能性はある。近隣の住民の中にも、多少それが気になるといった話は実際にあった。

しかし静かな住宅街、というわけでもない場所で、道路を挟んで車の往来もある場所。しかもこの事件があった時刻は午後であり、誰もが利用できる河川敷で静かにしろというのもおかしい。
ただ、明らかにゲートボールをしていた女性を狙っているわけで、無差別だったという感じはしない。

実は事件が起きる少し前、男はある行動に出ていた。
夕方になると、男はゲートボール場付近をうろつき、ゲートボールを終えて帰宅する女性のあとをつけたりしていたのだ。
12日の午後には、それを警戒していた男性が男に直接詰め寄っている。
その際、なぜあとをつけたりするのかと聞かれた男は、「居所が知りたい。目的があるんだ。」と話していた。
その目的は何か、と聞かれるも、それには答えなかったという。そのうえで、「(あとをつけることを)やめることはない」と言っていた。

この言動にゲートボール仲間らは恐怖を感じ、松本署に通報した。署でも何度か巡回を行ったというが、肝心の男の住まいも名前も分からなかったことから、それ以上のことは出来なかったという。

男は、ゲートボール場を見下ろすマンションに暮らしていたわけだが、それが分かったのは事件後のことだった。

遠くに連れ去って

事件から2か月後の4月26日、長野地検松本支部は男が心神喪失であるとして不起訴処分を決めた。
男は拘置期限が切れたため、いったん釈放となったあとで精神保健法に基づき長野県知事の命令により松本市内の病院に措置入院となった。

事件は終わった。

殺害された女性らは、みな、ただ楽しくゲートボールをしていただけだった。市が管理する正規のゲートボール場で、である。
高齢に差し掛かり、健康を気にしながら、また、仲間らとのコミュニケーションも豊かな老後には不可欠であり、ささやかな日常の楽しみのひとつとして楽しんでいただけである。
市川さんは自宅を大学生の下宿としており、犯人の男と同じ信州大学に通う学生を受け入れていた。事件を聞き、下宿生らはショックを隠せなかった。
市川さんは母親代わりのように学生らに接し、実家へ帰る学生らには特産の野沢菜漬けを持たせてくれたという。

柳沢さんは中国からの引揚者だった。
戦後の中国では苦しい生活の中で中国人の養女を迎え、立派に育て上げた。
昭和50年に中国からたった一人で日本に帰国。おい夫婦と同居して、地域での暮らしを築いていた。
1年前から家にこもっているのも良くないと、地域のゲートボールクラブに所属。道具を揃え、週に4日の練習を楽しみにしていたという。

平野さんはこの中では最年長だったが、皆に慕われる存在だった。
風が強かったこの日、男性メンバーらが来ない中でも平野さんは元気にゲートボールを楽しんでいた。

そんな人たちの日常を、男は無言で、突然に奪い去ったのだ。撲殺という、残虐極まりない手段で。

被害者は4人、その内3人が死亡するという死刑待ったなしのケースであるにもかかわらず、男は罪に問われることすらなかった。

残されたのは、3人の死と遺族らの無念だけ。
柳沢さんのおい、丸山明夫さん(当時41歳)は、「事件が二度と起こらないように、犯人を遠くへ連れ去ってほしいと願うだけ」と言うしかなかった。

地下鉄の通り魔

平成元年7月25日。北海道札幌市西区の市営地下鉄東西線・琴似(ことに)駅構内の女子トイレで、市立札幌山の手高校に通う16歳の女子高生が刺された。
刺されたのは西区在住の菅原瑤子さん(当時16歳)。瑤子さんは腹部と右胸の二か所をナイフのようなもので刺されており、その腹部の傷は静脈をまるで抉るように差し込まれていたといい、そのために大量出血していた。

瑤子さんが刺された場所が女子トイレだったことで、目撃者が少ない中犯人はさっさと逃げていた。
事件後、現場の状況やその時間帯に地下鉄周辺にいた人らの話から、どうやら瑤子さんを刺したのは中年の男、と見られた。駅周辺では、6〜7人が犯人らしき男を見てはいたが、どこの誰かはわからないままだった。
しかし警察がなんとか作成した似顔絵を見た駅近くの住民らが、気になる話を持ち込んできた。

「琴似駅のバスターミナル付近に、女性に近づいたり舐め回すように凝視する男がいるが、その男に似ている」

似たような情報は複数あったといい、警察は慎重に捜査を続けた。加えて、事件直後、駅前からタクシーに乗って中央区へと移動した男が、その怪しい人物と同一であることも確認。
男に任意同行を求め、警察署において目撃者らを面通しさせたところ、全員があの日男が駅にいたことを証言した。
7月31日、札幌西署と道警捜査一課は男が瑤子さんを刺したことを認める供述をしたことから、裏付けのため家宅捜索を実施。男の自宅からは、凶器と思われる果物ナイフ、そして血がついた衣類が出てきた。

男は、「刑務所に入りたかった。刺すのは誰でもよかった。」と話していたが、この男、昭和47年以降ずっと精神病院への入退院を繰り返していたのだ。

父の慟哭

男が逮捕された時点では、瑤子さんは重体ながらもなんとか生きようと頑張っていた。
出血量は相当多く、瑤子さんのために級友や教師らが献血を行い、45,000ccもの輸血が行われた。手術も3回に及んだという。
皆の祈りと献血、そして何より瑤子さんの生きる力が強かったことから、次第に容態は安定し始め、意識もしっかりするようになっていたが、8月12日、再び傷から出血が始まり、そのまま14日の午前10時15分、瑤子さんは16歳という若さで命を奪われてしまった。

警察から、男に通院歴があることを両親はすでに聞かされており、正直そんな男の行く末よりも、今目の前で懸命に生きようとしている娘のことしか頭になかったろう。
一旦は希望が見えた両親は、深い奈落へと叩き落とされてしまった。

男は事件当時41歳。両親と中央区で暮らしていたが、昭和47年から入退院を繰り返す人生だった。
ただ、入退院といっても1年のうちの半年から9ヶ月も入院状態だったといい、「精神分裂病(当時の呼び名)」と診断されていた。

警察は瑤子さんの父親に対し、瑤子さんの司法解剖を申し入れたが、これを両親は拒否した。
父親は、犯人の男が精神分裂病で入退院を繰り返していたことを知っており、そういった人間が罪を犯したとしてどうなるかを知っていたのだ。
そして、警察に対し、
「犯人を刑事罰に処するための解剖ならわかるが、精神異常者の犯人の処分の先は見えているじゃないか。瑤子の人権はどうなるんだ。死に損じゃないか……」
そう訴えた。
母親も同じ思いだった。すでに三度の手術をした瑤子さん。犯人に負わされた刃物の傷も痛々しいのに、その上また体を切り刻むなど、到底受け入れられる話ではなかった。

父親の言った通り、男は心神喪失で不起訴となり、措置入院となった。

その後、両親らは男が通院していた病院に対し、男への適切な診察をしていなかったとして損害賠償請求を起こした。
病院は、男が診察を受けていた約半年間のうち、医師による問診がたったの一度だったことを認めつつも、看護師らが顔を合わせ、その都度男の状態を見ていたと反論。事件直前に行われた病院主催の海水浴でも男に変わったところはなかったとして、争う姿勢を見せた。
提訴から3年後、病院側が精神医療の充実を約束することで両親と和解が成立。両親は病院側が提示した金銭賠償については、放棄した。

答えが出なくとも

刑法39条に異論はない。悪いことを悪いことだとわからない、善悪の判断がつかない人間は、裁けない。そして罰を与えることも、無意味であるから与えられない。

しかし問題は、では殺害された人はなんなのか、なんだったのかということ。彼、彼女らの無念はどうすればいいのかということ。

不起訴になった人たちがすぐ釈放されて一般社会に出るかというとそんなことはなくて、そのほぼ全員が措置入院、あるいは監督下に置かれることになる訳だが、それでも一生そのままかというとそういうことでもない。
もちろん、大変な罪を犯してしまったけれども治療に励み、周囲の助けもあって人としてやり直せた人もいるはずだ。一人でもそういう人がいるならば、やはり人間というものを信じたい気持ちもある。

しかし一方で、人としての善悪の判断もできないのであるならば、それはそもそも人なのか、という植松的思考に取り憑かれそうになることもある。危険極まりない。その度に私はこのように驕り高ぶる私こそが、人ではないのではないかと考える。

一生外に出さないで。犯罪者にも人権はあるのでは?病院でずっと隔離すれば無期懲役と同じで結果的に罰を与えているようにもなるし問題ないのでは?でも治ったら?でもまた病気になったら?そしてまた事件を起こしたら?閉じ込めておけばその事件は、その人が死ぬことはなかったのでは?でもその人だって好きでそうなった訳じゃない。本人も苦しんでいるのでは?でもそれで被害に遭った人に、家族に「運が悪かったんだよ」「忘れるしかない」「加害者にも人権が」なんて言える?でも死んだ人は戻ってこないよ?

どの考えも一理あって、でも不完全で、だからいつまで経っても答えなんか出るわけがない。
いや、答えを出してはいけないのか。

大切なのは、答えが出ないとわかっていても、議論し、考え続けていくことなのだろうか。
けれど何度も言うけれど、被害者を置き去りにした上での差別のない社会、成熟した社会、そんなものはいらない。

それでも生きてゆく

ところで最後に紹介した札幌の事件には別の話がある。

昭和56年、この瑤子さんの事件が起きた地下鉄の駅にほど近い国鉄(当時)の琴似駅前のイトーヨーカドー裏の駐車場付近で、幼い息子を連れた買い物帰りの当時36歳の男性が、何者かに胸を刺されて死亡した事件が起きていた。
瑤子さんの事件が起きた際、未解決だったこの事件についても関連性が囁かれていたのだ。

ただ、目撃者が当時8つと4つの幼い兄弟だったこと、兄弟のうち犯人の顔を見たのがお兄ちゃんだけだったことで犯人についての情報は非常に少なかった。
そして、そのお兄ちゃんの証言を元に犯人の似顔絵を作成しようにも、何度描いてもその顔が「大好きなお父さん」の顔になってしまうのだった。
捜査員らは皆、そのお兄ちゃんの心の傷を思い、涙したという。

その事件から8年後、瑤子さんの事件が起きた。

ただ、瑤子さんを刺した男が不起訴となったこともあるのか、それとも全く無関係だったのかはわからないが、この昭和56年の事件はその後平成8年に時効が成立した。
殺害された男性の家族は、みんなで道東の親族方へ身を寄せたという。時効成立の折、取材に訪れた北海道新聞社に対して、親族が代わりに応対した。

「何も話すことはありません。そっとしておいてやってください。」

当然の対応であろう。しかし、最後にこう付け加えた。

「ただ、みんな元気です。」

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参考文献

毎日新聞社 昭和63年4月4日東京朝刊、平成2年4月27日東京朝刊
読売新聞社 昭和63年4月4日東京朝刊、平成2年2月18日東京朝刊
朝日新聞社 昭和63年4月4日、6月8日東京朝刊
北海道新聞社 平成元年8月1日、平成2年2月18日、平成8年5月30日朝刊全道、平成元年8月14日、平成5年3月18日夕刊全道
中日新聞社 平成2年2月18日朝刊、2月26日夕刊

 

酔醒~いくつかの不倫事件始末~

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日本において、不倫自体は刑事的な犯罪ではない。不法行為ではあるとしても、刑務所に入ったり顔と実名を晒して糾弾されることも基本的に、ない。
しかし過去には不義密通、姦通罪として死罪同等、発見者(妻もしくは夫)がその相手方を殺害しても下手人討として処罰を免れた時代もあった。
旧刑法、旧民法においてさすがに死罪はなくなったが、その罪自体は残ったし、たとえば不倫して離婚した者がその不倫相手と婚姻することはできないとする法律もあった。
ちなみに外国、アフリカやイスラム圏の一部では現在でも最高刑は石打ち、実際の映像を見たことがある人もいると思うが、日本の絞首刑など石打ちの苦しみに比べれば……と思わざるを得ないほど、強烈である。

しかしそれでも、不倫をしてしまう人は世界中にいて、そして家庭は崩壊し、時に事件が起き、当人が殺しあうならまだしも、家族、さらには無関係の人を巻き込む大事件に発展することもある。

失われた理性と果てしない欲望、酔醒、逃げる者と噴きあがる復讐心その顛末。

危険な情事~千葉の愛人殺し~

昭和59年夏。横浜市在住の看護学校の女性教員が行方不明になって2カ月が過ぎていた。
北九州市出身のその女性は、5月15日以降の足取りが全くつかめずにいて、同僚や友人、故郷の家族らはその安否を心配していた。

ところがある時、女性の銀行口座から出金があったことに実家の父親が気づく。引き出された額は40万円。行方不明になった後のことで、不審に思った父親は警察に届けを出した。

銀行の防犯カメラには、女性ではなく男の姿があった。男は2度にわたって女性の口座から金を引き出しており、警察はとりあえず窃盗事件としてこの男を逮捕した。

妊娠していた愛人

行方が分からなくなっていたのは、横浜市戸塚区在住の三隅理津子さん(仮名/当時32歳)。北九州の県立高校を卒業後、地元の看護学校で看護師資格を得ると山口県内の病院で勤務していたが、昭和47年に東京の病院へ移った。
その後、神奈川の看護専門学校の教員として3年間勤務していたが、この年の4月末付で「自己都合により退職」していたという。
三隅さんの勤務態度はまじめで、勤務していた3年間で有給休暇もほとんどとらなかった。

一方で窃盗の容疑で逮捕された男は千葉県袖ケ浦市在住の会社員、岡野洋平(仮名/当時32歳)。
実は岡野は三隅さんと同郷、同じ県立高校の出身で、しかも高校時代には交際していたという。
逮捕当時岡野には妻子があり、海外出張などもこなしその生活は順調に思われたが、実は岡野と三隅さんは高校卒業後もずっと交際を続けていた。

三隅さんは独身だったが、看護学校をやめる際、友人らの話によれば妊娠していたというのだ。それも、もう5か月くらいになっていたのではないか、という話だった。
それについて岡野は、「彼女とは確かに交際していた時期もあったが、今年の二月に別れた。」と供述。
しかし一方の三隅さんは、北九州の両親に対し、「結婚して千葉で暮らす」という話をしていた。

警察はその後も岡野を追及したところ、8月の終わりになって「別れてからも結婚を迫られ、このままではだめになると思った」と話し、その後、三隅さんを殺害して」山林に埋めたことを自供。
供述通りの千葉県君津郡袖ヶ浦町久保田の山林から、女性の遺体が発見された。
その後の司法解剖の結果、遺体は三隅さんであると確認された。

知らなかった結婚

岡野は昭和45年に三隅さんと同じ高校を卒業、大学受験に2度失敗していた。大学を諦めた岡野は昭和47年に川崎市にある工場設備の検査会社に就職。
三隅さんはすでに看護師として働いていたが、時期を同じくして東京に移っていた。
ところが岡野は昭和51年ころに別の女性と結婚していた。子供も生まれたが三隅さんとの関係は続いており、二人の関係はどこからどう見ても「不倫」だった。

昭和59年2月、岡野はアブダビの石油プラントの検査のために出張した。同じころ、三隅さんは国際電話を何度もかけていた。
警察では、この頃に三隅さんが岡野に対して妊娠を告げたのではないかとみていた。

三隅さんの妊娠は限られた友人らしか知らなかったようで、お腹が目立つ前に看護学校の職も辞していた。
しかし岡野には妻子がいる。岡野は大学進学をあきらめたのちに入社したこの会社で、精力的に働いていた。資格も独学でとり、アブダビの石油プラントを一人で任されるほどの信頼を会社からも得ていたという。

三隅さんは、岡野に結婚を迫った。というか、三隅さんは不倫だという自覚がなかった。岡野は三隅さんに対して、結婚の事実を隠していたのだ。
推測になるが、岡野の結婚と第一子の出産の時期から見て、いわゆる出来ちゃった結婚だったのかもしれない。三隅さんと交際しながら、ほかの女性と結婚せざるを得なくなったものの、岡野は三隅さんにはその事実を隠し、交際を続けていたのだ。
しかし三隅さんの妊娠によって、岡野は抜き差しならない状況に陥ってしまう。
三隅さんは最終的に岡野が結婚していたことを知り、それでも子供は産んで一人で育てる、認知だけしてほしいと迫った。岡野にとってそれは、自分の結婚生活を破滅に追い込まれるという脅迫としか受け取れなかった。

4月、岡野は三隅さんに、「妻とは離婚することにした。千葉で一緒に暮らそう。」と告げる。三隅さんは喜び、九州の両親にも報告した。
5月15日、岡野は三隅さんに新居へ案内すると言って誘い出し、その夜、東京湾を見下ろす自宅近くの高台で、三隅さんの首を絞めた。

岡野は離婚する気など毛頭なかった。三隅さんの妊娠を知って以降、どうやって三隅さんを殺すか、そればかり考えていた。推理小説を読み漁り、海に突き落とす、駅のホームの雑踏に紛れて突き落とす、しかし結局、確実さを選んで自ら首を絞めたのだった。

雑木林に三隅さんの遺体を埋めた後、岡野は何食わぬ顔で日常を送っている。通勤で毎日その雑木林の横を通りながら、子供たちのイベントや学校行事に参加した。8月の逮捕直前、会社の海水浴に妻子や親せきの子を連れて参加し、子煩悩ぶりを発揮していた。

「彼女のことがばれれば、みんなダメになる。どうしていいのかわからなくなった。」

そう話した岡野だったが、三隅さんとの10年に渡る交際については、「からかい半分だった」と言った。
昭和60年2月21日、千葉地裁の太田浩裁判長は、岡野に対して懲役18年(求刑懲役20年)を言い渡した。

この子のななつのお祝いに~伊達市の母子殺し~

それは凄惨な現場だった。
北海道伊達市の市営新末永団地の一室、ここには35歳の女性とその幼い娘が二人、肩を寄せ合い暮らしていた。
平成9年11月15日、この日七五三のお祝いに記念撮影をする予定で親族と会う約束をしていたが、ふたりは約束の時間になっても待ち合わせ場所に来なかったという。
そこで家を訪ねた女性の実母が、家の中で変わり果てた二人を発見したのだ。

二階建てのその部屋に入った実母が見たのは、階段付近で血を流して絶命している孫娘の姿。そして二階の六畳間では、同じく頭から血を流して娘も死亡していた。

亡くなっていたのはこの団地の部屋で暮らしている佐々木瑞穂さん(仮名/当時35歳)と、娘の萌香ちゃん(仮名/当時6歳)。状況から二人は殺害されたとみられた。
瑞穂さんは当時伊達市の臨時職員として水道局に勤めていた。離婚歴があったが職場での評価は高く、いつもニコニコと笑顔の美しい女性だったという。
萌香ちゃんも挨拶のしっかりできる子どもで、事件の知らせを受け通っていた保育園の職員らは言葉をなくした。

捜査本部は現場の状況から殺害されたのは前日14日の夜と断定、二人とも頭部を鈍器で複数回殴られた後で首を絞められていたことも分かった。犯人像については、外部から無理やり押し入った形跡や荒らされた形跡もなく、二人の着衣に乱れもなかったことから、顔見知りの犯行も視野に入れて捜査を進めた。

一方、地元の北海道新聞では夜討ち朝駆けで捜査員らから何か情報を聞き出せないかと奮闘していた。
七五三の日に、そのお祝いをする予定の女の子が母親ともども殺害されるという何ともむごたらしい事件に、記者らも辛い取材をしなければならなかった。
そんな中、瑞穂さん宅には頻繁に男性が訪れていたという情報を掴んだ。瑞穂さんは市役所の臨時職員になる前、伊達市内の建具販売会社で勤務していたことがあり、その際に会社の取引先の男性と親密になったという。
記者らはこの男性がなにか関係しているのではないかと思いつつも、慎重に取材を続けたというが、結果から言うとある意味この男性は事件に関与していた。

11月16日夜、伊達署の捜査本部は瑞穂さん、萌香ちゃん殺害の容疑で、この男性の妻を逮捕したのだ。

逮捕されたのは伊達市の隣、虻田町在住の保養所従業員、山村美枝子(仮名/当時55歳)。美枝子は夫が瑞穂さんと不倫していることで家庭が壊されると危惧、夫が持っていた瑞穂さん宅の合鍵を使って侵入し、ふたりを殺害したことを認めた。
美枝子はそれまでに瑞穂さんと直接会ったこともあったという。
不倫相手のみならず、その幼い娘まで殺害したことで、検察は「近年まれにみる凶悪」として美枝子に無期懲役を求刑したが、札幌地裁室蘭支部の田島清茂裁判長は懲役18年という判決を言い渡した。

犯行自体は計画的で狂暴かつ卑劣、としながらも、殺意を持ったきっかけは偶発的な側面が否定できないこと、また、事件後美枝子が深く反省していることなどが量刑の理由だったが、それにしてもかなりの減刑に思える。

瑞穂さんは最初の夫も当時52歳と、かなり年上の男性に惹かれる傾向があった。年上となるとどうしても既婚者である確率は高くなるわけで、その点で瑞穂さんにはいろいろと批判的な評判もあったという。最初の夫とも、萌香ちゃんが生まれてすぐに別居しており、美枝子の夫と交際を始めたのはその離婚が成立して間もないころだった。

美枝子は長年連れ添った夫がまるで人が変わったように自分を蔑ろにし、人目もはばからず瑞穂さん母子のもとへ足繫く通うようになって心を痛めていた。
50歳半ばの自分と、30代で若く美しい瑞穂さん。温泉施設で働く「おばちゃん」でしかない自分が、みじめだった。
事件直前、長男夫婦の結婚式のビデオを見て、美枝子は自分たちにもこんな時代があったと夫に対話を持ち掛けたという。しかし、それに対する夫の態度は冷淡なものだった。
悪いのは自分の夫だというのは分かっていたはずだった。しかし、どうしても瑞穂さん母子の存在がなくなればという思いが消せなかった。美枝子は瑞穂さんと萌香ちゃんが憎かった。

事件が起きた平成9年のベストセラーは奇しくも「失楽園」だった。
しかし現実の失楽園の結末は、久木と凛子の愛の最高潮での心中ではなく、幼い子をも巻き込んだ血まみれの怨念だった。

あちらにいる鬼~吾妻の殺人未遂と、近江八幡の女性殺し~

吾妻の殺人未遂

平成11年3月30日深夜。吾妻署に母親に付き添われた男子高校生が出頭してきた。その直前、男性から「息子に刺された」という110番通報が入っており、警察は少年の行方を追っていた。
少年は父親を刺したことを認めたため、殺人未遂の疑いで緊急逮捕となった。

しかし、少年が刺したのは父親だけではなかった。

110番通報があったのは吾妻郡内の49歳の女性宅からで、少年はこの女性も刺し重傷を負わせていたのだ。
この女性は、少年の父親と不倫していた。

少年は兄二人と両親の5人暮らしだったが、兄が平成10年の春に自立して家を出た後は両親との3人暮らしだったという。高校の関係者によれば少年は非常にまじめな性格で、中学校時代には生徒会長も務めていた。同時に、正義感も強い少年だった。

両親の間に亀裂が入ったのは、事件の2~3年前。父親が勤務していた吾妻郡内の食品販売会社で同僚だった女性と不倫が始まったのだ。平成11年に入ると父親は自宅に戻らなくなったという。
両親は離婚を話し合うようになり、事件の前日も夜遅くまで少年を交えて家族の今後が話し合われていた。

「相手の女の人に会わせて」

何を思ったのか、少年は父親に不倫相手の女性と会わせるよう要求。正常な判断が出来ればこの時点でかなりヤバいことは分かりそうなもんだが、父親はそれを承諾。自宅から1キロほどしか離れていない女性宅へ父親と出向いた少年は、玄関先で女性と父親の三人で話していたが、突然隠し持っていたナイフで二人を次々に刺した。

その後、父親から連絡を受けた母親が親戚らと少年の行方を捜していたところ、自宅近くに戻ってきていた少年を発見。少年は「止めないで、止めないで」と言いながら橋のたもとに立っていた。自殺する気だった。
母親らの説得で自殺を思いとどまった少年は、「怖かった」とつぶやいたという。

少年はその後家裁送致となり、中等少年院へ行くことが決まった。

「死ぬと言っていた、頼む、見つけてくれ」

刺されながらも父親はこう言っていた。しかし、家庭を崩壊させておきながら、少年の心を壊しておきながら、この時父は何を思うたか。
母は「結局、私たちの犠牲になって、子供が苦しまなくてはならないなんて」と言って泣いた。

一方の女は、どうだったろうか。ご近所ともいえるほど近い場所でのうのうと不倫をし続けた己の罪深さを恥じたろうか。今もその体に傷痕は残っているか。
少年の心の叫びを、どう受け止めたのだろうか。

近江八幡の女性殺し

仲の良い夫婦だった。店を切り盛りするそのひとは、病気がちな夫とその高齢の母親の世話をしながら、明るい性格で皆から好かれていた。

近江牛をふるまう飲食店を営み、介護と店を両立させ、体を心配する知人らには「病気になんかなってる場合じゃない」と笑っていた。
10人の従業員を抱えていたが経済的には安定しており、飲食店を法人化するなどその経営手腕も見事なものだった。時間に追われ、自宅の家事をする余裕もないほどの生活だったが家の中のことは清掃のサービスを頼んでいた。

平成26年10月14日、いつものように清掃の担当者が自宅を訪れると、いつもは閉まっているはずの玄関の鍵が開いていた。また、飼い犬がやたらと吠えていて不穏な気配を感じずにはいられなかった。
中に入ると、廊下で横向きに倒れ、腹部から大量に出血している女性を発見、110番通報したが、女性はすでに死亡していた。

亡くなっていたのは近江八幡市の飲食店経営、岩永聡子さん(仮名/当時52歳)。状況から殺害されたとみられ、県警捜査一課は殺人事件として捜査を開始。
しかし、いつも明るく快活な人柄で知られる聡子さんの周辺に人間関係、仕事関係のトラブルはなく、また物色された形跡もなかったことから強盗の線は薄いとみられていた。が、当時聡子さんの夫も義母も入院や施設入所で家におらず、家の中でなくなっているものがあるのかないのかの判断がつかなかったことで、県警は強盗殺人の線も完全には消せていなかった。
その夜は台風の影響で雨が降り、室内に残された靴跡もそれがいつついたものかの判断が出来なかった。

ただ、司法解剖の結果、聡子さんには30か所以上の刺し傷があり、その一部は深さ10センチ以上、犯人には聡子さんに対する強い殺意が感じられることは、事実だった。

しかしその後2年経っても、聡子さん殺害の犯人は判明していなかった。自宅前には防犯カメラがあったが、容量が少なかったのか、一番古い映像が事件後救急隊員らが出入りする場面で、肝心の犯行時刻はすでに上書きされていたという。

事件から1年後に、自宅内の引き出しが一か所不自然に開けられていたことが判明したが、それでも県警は強盗というより怨恨の線の可能性が高いと感じていた。

「聡子さんの素敵な笑顔は一生忘れません。」
自宅の玄関には、メモと共に花束が置かれ、知人らが事件後、泣きながらお供え物をしに来ることが後を絶たなかった。
悪い評判など一つもなく、とにかく老若男女誰からも好かれていた聡子さん。

事件から2年以上経過した平成29年2月8日、滋賀県警は聡子さんを殺害した容疑で、44歳の女を逮捕した。
女は聡子さんと顔見知りだったが、誰からも好かれていた聡子さんに対し、30年以上にわたる積年の怨みを抱えていたのだ。

女は、聡子さんの夫の「前妻の娘」だった。

裁判で検察は、「滅多刺しで強い殺意があった。人目に付きづらい台風の日を選んでおり、計画性もある」と指摘。懲役18年を求刑した。
一方の弁護側は、「30年に渡る長年の怨みには相当の理由がある」とした。
その怨みとは、実父と聡子さんの不倫だった。

女の実父と聡子さんは、平成9年に結婚。しかし、二人はそれ以前から長年の不倫関係にあったという。平成9年に女の実母との離婚が成立した実父は、その3か月後に聡子さんと再婚。
女は当時24歳だったというが、実母は家を去り、入れ替わるようになんと不倫略奪婚をした聡子さんがその家に入ってきた。
女はその後、結婚して4人の子をもうけたが、事件があったころには生活保護を受けながら暮らしていたという。一方で、実父の不倫相手だった聡子さんに対し、金銭を要求するなどしていた。
聡子さんも後ろめたい思いがあったのか、女の要求に度々応じていたようだ。

先にも述べたように、聡子さんは経営者としても確かな手腕を持っており、経済的には余裕があった。宝塚などの観劇を楽しみにしており、そういった充実した日々を送る聡子さんに対して、女は自身や実母の境遇を比べて怨みを募らせていた。

警察はどうも早い段階から女の存在を把握していたようだ。が、決定的な証拠がなかったことから、2年の月日がかかってしまった。
その間も事情聴取は度々行われていたというが、女は一切を否定していた。
そして逮捕されて以降も、20日間にわたって否認し続けていたが、その女の心を溶かしたのは、実母の言葉だった。

「やったのなら、認めた方がよい」

自分よりもはるかに苦しかったであろう母親のその言葉に、女はすべてを認めた。

平成29年9月29日、滋賀地裁の伊藤寛樹裁判長は、女に対して懲役15年を言い渡した。
「怨みの感情が影響していたが、あなたの支えになる出来事もたくさんあったはず。今後の人生では何を大事にすべきかをよく考えてください」
裁判長の言葉に、女は握りしめたタオルで何度も涙をぬぐった。

人を呪っても何も始まらないが、聡子さんはその罪を償った。今度は、女の番である。

怨焔~安城市の巻き添え焼死事件~

昭和63年11月22日の夕方。安城市の住宅で火の手が上がり、木造平屋建て150㎡が全焼した。
この家には40代の夫婦と10代の子供ら3人、そして、60代の祖母が暮らしていたが、出火当時は母親の明恵さん(仮名)、長男次男、そして祖母の4人が在宅していた。
祖母は一番奥の部屋にいたが逃げ出せて無事、明恵さんと息子の一人も手にやけどを負ったが軽傷だった。
しかし、17歳の長男は全身火傷で死亡、さらに、現場からは成人男性も全身大やけどで意識不明で運び出されていた。

この日、先にも述べたように40代の父親は外出していて留守だった。ではこの成人男性は誰なのか。

答えは母親の明恵さんが知っていた。
この男は、明恵さんの元交際相手であり、この家に火を放った張本人だった。

大やけどで意識不明となった男は、所持していた免許証から隣接する西尾市在住の無職の青木幸三(仮名/当時43歳)とみられた。
逃げ延びた明恵さんと次男の話によれば、この日明恵さんは台所で夕食の準備を、兄弟は玄関に隣接する和室でテレビを見ていたという。そこへ、突然青木が訪れた。そして、玄関わきの和室に丸めた新聞に火をつけを投げ込んだという。
驚いた兄弟が逃げ出そうとした時、青木はさらにバケツに入った液体をぶちまけた。それは、ガソリンだった。

次男は辛くも逃げ出したが、長男はそのガソリンをもろにかぶってしまった。そして、あっという間に火だるまとなってしまった。

台所にいた明恵さんは駆け込んできた次男によって事件を知り、急いで逃げ出そうとした。と、そこへ火だるまになった人が転がり込んできた。
それは、火を放った後自らも火だるまとなった青木だった。
青木は、「死ねぇぇぇっ!」と何度も叫びながら、明恵さんの腕をつかんで引き戻そうとしたという。明恵さんと次男は必死に腕を振りほどいて逃げ切った。

青木はその後意識不明となり、愛知医大病院に搬送された。

事件の発端は2年前、明恵さんと青木が同じプラスチック製造会社で勤務していたことに始まる。どこまで深い関係かは定かではないが、二人は親密な関係にあったという。
ところが、そのプラスチック工場が倒産した後、無職となった青木はことあるごとに明恵さんに金を無心し始めた。ちなみにこの青木にも妻がいた。
困り果てた明恵さんは、夫にすべてを話したうえで弁護士に相談、事件が起きる3か月ほど前から弁護士を立てての別れ話が進んでいたという。

その後、青木が乗ってきた自動車の中から遺書らしきものも見つかり、警察では別れ話に納得がいかなかった青木の無理心中に長男が巻き込まれたとした。

青木は事件から3年に渡ってやけどの治療を受け、平成3年12月、殺人と現住建造物放火の疑いで逮捕された。
青木は回復したとはいえ、両足切断という状態。生きて償うには過酷な人生が男の目の前に広がったいた。
青木の家族、そして被害者の家族のその後もまた、過酷なものだったろう。

酔醒

不倫をする人々は、どんなにきれいな言葉で繕ったとしてもその名の通り倫理に反している。
もちろん、中にはすでに夫婦が崩壊していて「もう別れた方が……」という夫婦もある。有責配偶者からの離婚請求も、諸条件によっては認められることもある。
しかしなぜか彼らはそういった手続きや法にのっとった方法を選ばない。割り切った大人の火遊びならばいいかもしれないが、そう思っているのが片方だけだったら、法片方にしてみればバカにされたと受け止めてもおかしくない。
千葉の愛人殺しの男は「からかい半分」で10年以上いいように遊んできたが、そのツケに対応する術は、持っていなかった。
吾妻の父親の目を覚まさせたのは息子のすべてをかなぐり捨てた抗議だった。伊達の母子殺し、安城市の無理心中では子供が犠牲になった。近江八幡の被害者は誰からも好かれる人だったが、普通の人はそうそう背負わないレベルの怨みを、たった一人からかっていた。

個人的な考えだが、そもそも不倫に耽ってしまう人々はロマンチストで激情型、とにかく現実を見ないタイプが割合として多いわけで、そうなってくると裏切られたり意に反する結末を迎えた時どうなるかはなんとなくわかりそうな気もするが。

責任は自分でとる、そんな男前なことをいくら言おうとも、無関係の人が巻き添えになる可能性もしっかり頭に入れてから耽っていただきたい。

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参考文献

NHKニュース 平成26年10月14日、
朝日新聞 昭和59年8月20日、21日東京朝刊、昭和59年8月23日、昭和60年2月21日東京夕刊、平成11年4月1日東京地方版/群馬、平成26年10月14日、11月13日、平成29年2月9日、2月11日、9月30日大阪地方版/滋賀
北海道新聞 平成9年11月16日、12月28日朝刊、
読売新聞社 平成3年12月7日中部朝刊、平成9年11月17日東京夕刊、平成11年3月31日、6月3日東京朝刊、平成26年10月15日、11月14日、平成27年10月14日大阪朝刊
中日新聞社 昭和63年11月23日、11月24日朝刊、平成9年11月16日朝刊、11月17日夕刊、平成26年10月15日、10月23日、平成27年10月15日、平成29年3月2日、9月26日、28日滋賀版朝刊、

毎日新聞社 平成9年11月17日、12月8日北海道夕刊、平成10年3月24日北海道朝刊、平成29年2月9日大阪朝刊

「あちらにいる鬼」 井上荒野/著
「失楽園」 渡辺淳一/著
「この子の七つのお祝いに」 斎藤澪/著

仁義なき戦い~嫁姑事件簿~

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嫁姑。
嫁は「嫁ぐ」というもう一つの読み方からも分かる通り、結婚し夫の家に入ること、姑は古くなった女と書く(本来の意味は年長者という意味らしい)。

この字面がすべてを物語っているように思えるが、完全同居が当たり前、嫁は一切姑に口答えならぬというのが当たり前だった時代は過ぎ、今では同居していても息子の家に姑舅が呼ばれるという形も多く、姑のほうが小さくなっている、そんな家庭も少なくない。
もちろん、時代関係なく理解のある姑舅に恵まれ、また、若夫婦も老親をいたわりうまくいっている家庭もたくさんあるし、増えているだろう。
ただそこには、親世帯の経済的余裕、子供世帯の夫婦仲の良さなど、うまくいく条件みたいなものもあるように思う。

永遠のテーマと言われる、嫁姑問題。
実の親でも大変なのに、赤の他人の女が二人、一つ屋根の下でいれば表面上うまくいっていても、胸にためるものの一つや二つはどちらにもある。
それに折り合いをつけ、時に夫や舅の仲介があり、友人や近所の人々にアドバイスをもらいながら多くの人は日々やり過ごしている。
それが出来なければ、離婚である。そして、折り合いもつけられず、我慢もできず、離婚もできなかったらどうなるか。

相手を抹殺することで解決しようとした人々の物語。 続きを読む 仁義なき戦い~嫁姑事件簿~

🔓逃げる女、追いかける男~3つのDVにまつわる事件~

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一度は愛した相手が肉体的、精神的、経済的、性的に暴力を振るうようになったら?
結婚前にはわからなかった、相手の本性はなぜか、そう簡単に別れることが難しいような状況になって初めて明かされることが多い。

たとえば結婚して、子供が出来るまでは、妻が仕事を辞めるまでは、家を妻の実家近くに建てるまでは……
男女問わず、相手の本性を知ったときにはすでに身動き取れない状況になってしまうこともある。

しかも厄介なことに、それらDVについて世間と被害者の受け止め方に大きなズレがいまだに存在するのだ。
束縛されるのは愛されているから、別れるなんて子供がかわいそう、専業主婦させてもらえるなんて羨ましい、女性からの暴力なんて可愛いもんだろう、そういうあなたにも悪い部分があるんじゃないの……

多くのDV加害者は非常に外面がよく、他人には良い夫、良い妻に見られがちである(人前でもやる奴はただのアホである)。だから被害者は相談しても周囲に理解してもらえず、そのうち相談すらできなくなり、自分が死ぬか相手を殺すかはたまた全員で死ぬかみたいな話に発展することもあるのだ。

配偶者ならば無理矢理SEXしたっていい、配偶者ならば子供の面前で罵倒したって良い、そんな勘違いをしている人は令和になっても山ほどいる。

配偶者であってもやっていいことと悪いことがあるという基本の事件、接近禁止命令下での凶行そして、邪魔した人を殺害した事件。
(以下の文章について無料部分有料部分にかかわらず、YouTubeその他への無断使用はお断りします) 続きを読む 🔓逃げる女、追いかける男~3つのDVにまつわる事件~

いくつかの温情判決とその後

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日本は法治国家である。すべては法律で決められており、それに反する行為があれば罰せられる。
もちろん、軽微な罪は裁判にならずに済むことも多いが、それでも裁判になれば、本当に法に反していたのか、そしてどうしてそんなことになったのかなどが審理され、その罪に見合った刑が言い渡される。

その中で時に、本来の同種の罪と比べると軽い判決が言い渡されることがある。温情判決、というやつだ。

被告人の生い立ちや犯行に至った経緯、被害者の落ち度、なにより被告人の現在の状況や反省の度合いなどを考慮した上で、求刑を大きく下回る判決がそれである。

罪を犯した自分の心に寄り添い、温かい言葉をかけてもらえたら、あなたならその後どうするか。
二度と罪を犯すまいと心に誓うか、それとも、してやったりと思うか。

いくつかの温情判決と、その顛末。

心優しき夫の清算

平成10521日、男性(当時38歳)は夜9時ころ、神奈川県川崎市で暮らす実父からの電話を受けた。

「母さんを殺してしまった。」

仰天した男性が事の次第を問い質すと、父は妻を殺害後、自らも命を絶とうとしていることもわかった。ベランダで首を吊ろうとした父は死にきれず、離れて暮らす長男である男性のもとに電話をかけてきていたのだ。

通報で駆け付けた救急隊が室内に入ると、線香のかおりがした。寝室の布団の上には、女性の遺体があった。

死亡していたのは、このマンションで夫と二人暮らしだった山井カツ子さん(仮名/当時63歳)。警察は、その場にいてカツ子さん殺害を認めていた夫の達彦(仮名/当時70歳)を殺人の容疑で逮捕した。
調べに対し、達彦はカツ子さんに「死にたい。殺して、殺してよ」と執拗に訴えられ、それに応じたと話した。

達彦は元小学校教諭。子供たちが独立した後は、川崎市宮前区けやき平のマンションで夫婦二人暮らしだった。
マンションでの暮らしぶりは、近所の人らから見れば円満そのものだったという。二人仲良く散歩している姿、達彦がカツ子さんに頼まれて買い物をしている姿、地域の行事などにも参加する達彦は、事件の二日前にも民生委員らが主催した健康体操に出ていた。

そんな、ごく普通の夫婦に見えた山井夫妻には、深い深い問題が横たわっていた。

「酒買って来い!」

山井夫妻には、長男のほかに昭和43年に生まれた長女の存在があった。しかしこの長女は生後わずか13日で亡くなってしまう。
妻はその悲しみから逃れるために、酒に頼った。
飲酒量はどんどん増え、子供らが独立して以降、特に10年ほど前からは酒に酔って達彦に絡むようになったという。

それは時に暴言となり、「酒もってこい!ないなら買って来い!」と達彦に命令するようになる。達彦が定年した後は、「仕事もしないでこの甲斐性なし!」と罵った。
達彦がスーパーで買い物をしている姿は良く目撃されていたが、それは妻を労わって家事を進んでやっていたのではなく、カツ子さんに命令されたり、酩酊して前後不覚になったカツ子さんの代わりに、必要に迫られての姿だった。

この長きにわたるカツ子さんのアルコール中毒との戦いを知る人は、近所にはただの一人もいなかったという。
事件についても、近隣の住民らはみな一様に驚きを隠せずにいた。それほどまでに、達彦は柔和で人当たりもよく、悩みなど微塵も感じさせていなかったのだ。
カツ子さんについても、そもそも外出するのは体調が良いとき、すなわち飲んでいないときに限られていたためか、誰もカツ子さんがアルコールの悩みを抱えているなど夢にも思っていなかった。

ただ、達彦はカツ子さんについて「体が弱い」という話はしていたようで、参加していた体操教室でも、「妻が体が弱いから、僕が元気でいなくちゃね」と笑顔で話していたという。

嘆願書と後悔

検察は達彦を殺人ではなく、承諾殺人に切り替えて起訴した。
カツ子さんから無理難題や罵詈雑言を浴びせられても、周囲に一切気づかれなかったほどに妻を支え続けた達彦に対し、横浜地裁川崎支部は懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡した。
求刑も懲役4年だったことで、おそらく検察としても達彦のそれまでがどれほどの苦難だったかは認めたうえでのことだったのだろう。

くわえて、山井夫妻が暮らしたマンション住民らは達彦のために嘆願書を集めていた。
自主的に始まったというそれは、達彦の小学校勤務時代の同僚や教え子にも広まり、結果として3900筆が裁判所に提出されたという。

達彦は検察官に対し、自己を正当化したり、どれだけ自分が耐えてきたかといった話はしなかった。

ただ、後悔していることがある、と話した。
「私が後悔しているのは、自分だけ死ねなくて、妻だけ死んでしまったことです」

無理だった女

平成235日横浜地裁。この日の午前、一人の女に懲役4年の実刑判決が言い渡された。
女が法廷に立つのは2度目で、2度とも同じ殺人罪。しかも、殺した相手はいずれも「我が子」だった。

一度目

最初の事件が起きたのは昭和63831日。
横浜市の住宅では当時13か月の赤ん坊が泣きじゃくっていた。傍らには、若い母親。もう何時間こうしているだろうか。
もう耐えられない、母親はその赤ん坊の首に手をかけた。

逮捕されたのは福田美恵子(仮名/当時21歳)。
我が子が泣き止まないからという理由で殺害した美恵子に対し、検察も厳しい態度で臨んだが、当時生まれたばかりの長女がいたことや、美恵子の両親はすでに他界していて育児を頼る人がいなかったことなどから、懲役3年執行猶予5年の温情判決を受けていた。
反省の度合いも深く、夫も妻を支えていくと話していたことからの判決だった。

しかしその1年後、美恵子はまた、子を殺した。

二度目

平成元年1024日午後1120分、仕事から帰宅した美恵子の夫は、13か月の長女・佳代子ちゃんが押し入れの中で死んでいるのを発見する。
実は二日前から佳代子ちゃんの姿が見えないことで、夫は美恵子を問い質していた。しかし美恵子は、「託児所に預けている」と話したという。
ところがその翌日、美恵子は誰にも行き先を告げずに家を出たまま戻っていなかった。

夫からの通報で駆け付けていた警察は、25日未明に帰宅した美恵子から事情を聴いたところ、佳代子ちゃんを殺したことを認めたため緊急逮捕した。

「かわいがろうとしたけど、なついてくれなかった」

美恵子はぽつりとつぶやいた。

異常なのは誰か

誰しも初めての子育てでは思い通りにいかない、こんなはずではなかったと後悔することは理解できる。
しかし超えてはいけない一線を超えてしまった人の気持ちはわからない。

もっとわからないのは、一度子供を殺した人間にまた、親であることを強いる人々の存在だ。
美恵子は「無理」だった。子供を愛せないとか、そういうことではなく根本的に親になってはいけない人間だった。
深く反省していたから、今度は大丈夫とでも思ったのか。せっかくうるさい子供を殺したと思ったら、すぐまた美恵子には子育てが待ち構えていた。
夫は一体何を考えていたのだろうか。赤ちゃんを殺した女と、生まれたばかりの赤ちゃんを短時間であっても二人きりになどどうしてできるのだろうか。

美恵子の心に向き合い、話を聞いてやることすら、もしかしたらしていなかったのではないかとしか思えない。

さすがに2度の子殺しに、裁判所は情状酌量できようもなかった。

もっとも今度は、育てるべき子供がいないわけで酌量の理由もなかったのだが。

孤独と正義

平成68月から9月にかけて、愛知県西春日井郡の農家ではある問題に頭を悩ませていた。
丹精こめて栽培した「ナス」が、連日何者かに盗まれているようなのだ。

被害は分かっているものだけで500本近く、価格にして約2万円ほどの被害だった。
とはいえ、出来心の盗人とは言えない量であり、看過できない事態になってはいたが、農家では見回りなどをして自衛するよりなかった。

そんな時、ある噂が農家に届いた。

「男が主婦らにナスを配っている」

男は西春日井郡在住の70歳。家族はいるが現在は一人暮らしだという。
その男が、ナスを近所の主婦に配りまくっているのだという。別の場所では、安い値段で売ったりもしていた。
農家が警察に相談、その後男がナスを盗んだことを認めたため、窃盗容疑で逮捕となった。

調べに対し男は、
「盗みは悪いと分かっている。」
と話はしたが、動機については独自の理論をぶちまけた。

「昔の農家は作物ができたら近所にお裾分けしてくれたもんだ」
「今の農家は盗まれたって食うには困らん」

さらには、
「今時の子供は100200円小遣いをやってもありがとうも言わんが、奥さんたちはナスを配ったら皆喜んでくれた
とも話した。なんとも勝手すぎる理論ではあるが、この男、世の女性、特に家庭を守る主婦に対しては格別の思い入れがあったという。

当時生活保護を受けながら生活していた男は、若い頃妻に迷惑をかけっぱなしだったという。家庭を顧みずに、気づいたら妻も子供らも家を出て行ってしまった。
そこで初めて男は後悔し、考えを改めるようになった。
女の人には頭が上がらない。何か恩返しをすることで、妻に対して詫びている様な気持ちになったのだろう。

と、ここまでなら執行猶予でいいんちゃうかと思わなくもないが、実はこの男つい1ヶ月ほど前に名古屋簡易裁判所で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けていたのだ。しかも、その時も今回と同じ野菜泥棒だった。

男には男なりの正義があってのことだったのかもしれないが、当然、執行猶予は取り消されてしまった。

ただ、男にとって女の人に頭が上がらないとか、そういうことよりも。ただ話し相手が欲しかったのではなかったか。
誰からも相手にされず、老いていくだけの孤独に耐えられなかったのではないか。

だからこそ、捕まってもやめるわけにはいかなかったのだろう。男には懲役十月の実刑判決が言い渡された。

思いは届いたか

通常、初犯だったり道路交通法違反だったり薬物所持、使用などのいわゆる被害者がいない場合などは執行猶予がつく傾向がある。
しかしそれらがまとめて一度に発覚した場合は、なかなか厳しい判決になるのではないかと思うのだが、5つの罪で起訴されながらも執行猶予となった女がいた。

福岡県在住の中原綾子(仮名/当時34歳)は、大阪市へ遊びに来ていた際に職務質問され、覚醒剤反応が出たことから逮捕された。
ところが調べていくと、綾子はその数日前、福岡市内で自動車を運転中にミニバイクに接触、相手に約一ヶ月の重傷を負わせてそのまま逃走していたことが判明。
さらにその際、綾子は無免許運転だったことから、検察は相当悪質として覚醒剤取締法違反、業務上過失傷害罪など5つの罪で起訴した。

綾子は当時夫とは別居中で、福岡市内の実家で10歳の娘と暮らしていた。
仕事もせず、無為徒食の生活を送っていたという綾子に、大阪地裁の湯川哲嗣裁判長は語りかけた。

「最後まで実刑にするかどうするか迷ったが、人生のやり直しを誓った言葉を信じて刑の執行を猶予します。裏切らないでください」

綾子は逮捕されてから、娘に対して申し訳ないという気持ちを強く持っていた。
逮捕されて初めて、自分の愚かさ、母親としての不甲斐なさに真正面から向き合ったとみえ、その態度はひき逃げで重傷を負わされた被害者からも嘆願書が出るほどだった。

裁判ではおそらく、それまでの親子関係や綾子の生い立ちなども明かされたのだろう、そして娘との関係が決して悪くはなかったことなども酌量され、綾子の更生に裁判所は賭けた。

その後、綾子が本気で更生したのかどうかはわからないが、少なくとも綾子が犯罪を犯したという報道は出ていない。

お礼参りに直行したバカ

「すみませんでした、もうしません」

名古屋拘置所から届いた稚拙な手紙には、謝罪の言葉が並んでいた。
受け取ったのは名古屋市内で飲食店を経営する男性。実はこの男性、3ヶ月前にこの手紙の主から殴る蹴るの暴行を受け、警察に被害届を出していた。

手紙の主は名古屋市天白区在住の大工の男(当時21歳)。
男は妻との離婚問題に絡んで、この男性と妻の代理人弁護士ら3人に暴行を働き、傷害と器物損壊の罪で逮捕されていた。
起訴された男は拘置所から、被害者に対し、冒頭のような謝罪の手紙を出していたのだが、裁判ではそれも一つの「反省の気持ち」とみなされ、男は懲役1年執行猶予3年の判決を言い渡していた。

ところが。

釈放されたその日の夕方、なんと男はその足で被害男性の元へと向かい、あろうことか「今出てきた、入っていた3ヶ月をどうしてくれる!」といい、さらには「殴り殺してやる、警察も執行猶予もどうでもいい!」と捲し立てた。

その脅迫は3日連続で行われ、さすがに被害男性も堪忍袋の緒が切れ、男はまた逮捕となった。もうどうしようもないアホである。

馬鹿馬鹿しすぎて続報すらなかったが、男は脅し文句は言っていないと容疑を否認したという。
馬鹿馬鹿しいとはいえ、逆恨みの末に相手を探し出して殺害したあのJTお礼参り殺人、熊本の女性殺害など死刑になったケースもあるため、あまり笑い事ではない。

が、よくある加害者からの謝罪の手紙など、多くは意味をなさない罪を軽くするためだけのものというのは、間違いではない気がする。

踏みにじられた判決

平成810月、神戸地裁姫路支部の安原浩裁判長は、4か月延期された判決を言い渡した。
判決は、懲役三月、執行猶予二年。言い渡されたのは兵庫県在住の55歳の男。罪状は、道路交通法違反(無免許運転)だった。

男は平成4年の暮れに免許停止中だったにも関わらず自動車を運転したとして懲役一年二月、執行猶予四年の判決を受けていたが、平成710月に姫路市内で自動車を運転しているところを見つかり、執行猶予中であったことから逮捕起訴となっていた。

度重なる無免許運転で今度は実刑だろうと思われたが、神戸地裁姫路支部はもう一度、男に執行猶予を与えた。
理由は、男が続けてきたボランティア活動にあった。

震災復興の「償いボランティア」

男は5月の公判で裁判官からボランティア活動への参加を促されていた。反省の度合いを見るためのことだったといい、男は手話の講習を受け、さらには震災で仮設住宅暮らしを余儀なくされていたお年寄りらの悩みを聞いたり、引越しの手伝いなどもしていたという。
男はミーティングでも被災者に寄り添う気持ちが生まれたなどと話し、今後も活動を続け人の役に立ちたいと言っていた。

裁判所はこの男の行動を評価。
「被告人は『ボランティア活動でこれまでの自分の考え方のいい加減さや身勝手さを思い知らされた』と述べているので、社会の中で更生できると判断した」。

そのうえで、
「今後二年間、また失敗したということのないように気をつけなさい。六月からの実績ではまだ足りません。無理のないようにボランティアを続けなさい」
と諭した。

大阪国際大学で刑事法を教える井戸田侃教授(当時)も、読売新聞の取材に対し、
「刑事政策的にみると再犯防止の側面を考え、自分のやった罪の重さを認識させる点で有効。画期的な判決とも言える」
と話し、裁判所を評価した。

ボランティアに行く日は赤丸をつけていたという男。台所のカレンダーを見ながら、「じいちゃんが安心して話ができる、いうて言うてくれたんや」などと、妻に話して聞かせるほど、ボランティアを一生懸命やっていたという。
男と一緒にボランティアをやった団体の代表も、この人ならと、団体が発行する認定マークも与えた。

判決から2日後、警察に一本の通報があった。

「あの人、まだ車運転してるで。調べてみ。なにが温情判決や!」

治らない病気

通報を受けた姫路署は、すぐさま男の自宅へ向かった。早朝、自宅近くの県道で張り込んでいると、まさにあの男が運転する軽自動車が通りかかったのだ。

現行犯だった。姫路署員は男の車を停車させると、「あなた無免許ですよね。」と告げる。男は観念した様子だったという。

そのころ自宅では、妻が男からの電話を受けていた。
「俺や。警察に捕まった。今度は刑務所やろな、ごめんな」
男は涙ぐんでいたという。
妻は以前、夫が逮捕されたときに警察官から言われた言葉を思い出していた。

「奥さん、ご主人の無免許運転は治らない病気ですよ」

男の法律を軽視する態度は筋金入りだった。
免許を取り消されたのは30年以上も前のこと。その後、昭和52年に罰金刑、昭和56年に懲役四月、平成44月には盗難車を無免許で運転して懲役一年二月執行猶予4年、温情判決を受けたのはこの執行猶予中に無免許運転が発覚した件だった。

発覚した時たまたま乗っていたわけはあるまい。男は見つかりさえしなければいい、そう考えていたに違いない。

もうひとつ、このようなケースの場合、家族の考えの甘さも関係している。実際、逮捕されたときに乗っていたのは長男の車だったし、そもそも妻が知らなかったはずがない。
事実、妻は裁判で「ボランティアに行くときも無免許運転していた」と話しており、家族は男がまったく反省していないことを知っていたのだ。

無免許運転は二度としない、そう誓ったという男は、今回の逮捕で懲役5月の実刑となった。
しかも、男が逮捕された際に控訴を検討中だった検察は当然ながら大阪高裁へ控訴。そこでは男の無反省ぶりを批難されただけでなく、神戸地裁姫路支部の判決も批判の的となった。

大阪高裁の内匠和彦裁判長は、一審判決を破棄、あらためて懲役三月を男に言い渡したが、さらに、
「無免許運転の常習性が顕著。ボランティア活動をしても危険がなくなるとは思えない」
「公判期日を延期してまで、ボランティア活動の実績を考慮したのは迅速な裁判の原則に反する」
と、地裁の判決に苦言を呈した。

有識者らはこの結末に戸惑いつつも、神戸地裁姫路支部の判断は仕方ない、としたが、当の裁判長ははらわた煮えくりかえったのではないだろうか。
裁判を中断してまで人間の心を信じようとしたことは素晴らしいが、結果からすればただのお花畑だったという風にも見える。しかも高裁からお𠮟りまで受けてしまった。

ただ、神戸地裁姫路支部はそれでも男に望みをかけていたのか何なのか、裁判長が替わっても、
「実直に生きて下さい。この先いいことがあります。せっかくだからボランティアを続けて下さい」
と説諭したらしいので、そういうお花畑的な雰囲気、時代だったのかも……

その後男が本気で罪と向き合えたかどうかは、わからない。

人を信じる気持ち

こうしてみてみると、判決っていうのは法律の縛りはあっても人間味があるというか、結構いろんなことを考えて判断されていると思う一方で、その判断を下す人物の考え方が大きく関係するともいえる。

控訴して最高裁までもっていけばまだしも、控訴せず一審で確定するようなケースは罪の大小に関係なく「マジか」みたいなのもやはりある。
横浜の子殺しは結果論になってしまうけれど、そもそも子供が泣き止まなくて殺してしまうような人間に、釈放したその日からまた子育てを担わせるなど拷問である。
子供のために執行猶予を付けたはずが、よりにもよってその温情が子供の命を奪ってしまった。
被害者が家族の誰かだった場合、いわゆる尊属殺人が違憲判決確定となるまでは長いこと、親殺しは重罪で子殺しは情状酌量的なケースは少なくなかったように思う。

また、違う見方をすると温情判決がさらに本人を追い詰めるケースもある。
このサイトでも取り上げた京都伏見の介護殺人。加害者である息子の献身に法廷は涙涙、検察官までもが感極まったというが、執行猶予がつけられた判決は、はたして本当に彼のためになったのだろうか。
許されないという思いを一番抱いていたのはおそらく本人だ。しかし世間は、司法はそれを許すという。お母さんも恨んでない、幸せになれと言った。……どうやって?
結局、彼は母の許へ旅立つのに10年もかかってしまった。それは温情判決への裏切りではなく、彼が温情判決をありがたいと思ったからこその、10年間の遠回りだったと私は思っている。

今回取り上げた中で一番たちが悪いのは、やはり最後の無免許男ではないだろうか。
法を、判決を軽視どころか踏みにじった男。しかも何度も、である。
裁判官だけではない、彼を信じたボランティア団体の人々、仮設住宅で暮らすお年寄り、多くの人が彼を信じ、支えようとしてくれていたのに、男の言葉は嘘だった。

時に人を救い、時に新たな犯罪を誘発し、時に人間への不信、絶望を生む温情判決。

子殺しが執行猶予でナス泥棒が実刑かよというのは、やはり納得できない面はある(窃盗が軽いというわけではありません)。

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参考文献
読売新聞社 平成元年1025日東京夕刊、平成235日東京夕刊、平成81011日東京夕刊、1016日大阪朝刊、平成9221日大阪朝刊、平成1123日大阪朝刊
朝日新聞社 昭和6392日東京地方版/神奈川
中日新聞社 平成4613日朝刊、平成101020
毎日新聞社 平成61110日東京朝刊
AERA平成81028日号20
熊本日日新聞社 平成9528日夕刊